ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

航空機認識〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-07-31 | 軍艦

マサチューセッツ・フォールウォーターの海軍艦博物館、
「バトルシップコーブ」に訪れたところから続きです。

ここのメイン展示はなんといっても戦艦「マサチューセッツ」。
展示艦の一番奥に位置する「ビッグ・マミー」から見学を始めました。



さあ、いよいよ「マサチューセッツ」に乗艦です。
ちなみに、わが海軍の戦艦との全長の比較でいうと、

「大和」(263m)>「金剛」(222m)「マサチューセッツ」(207m)

となり、比較的小型の戦艦です。
しかし、実際に甲板に立つとこれより大和はさらに56m長く、
幅も6m大きかったということが信じられないくらいでした。

ちなみにアメリカではこの「マサチューセッツ」の「サウスダコタ型」
前弩級、準弩級、弩級、ときて次の「超弩級」にあたります。

超弩級の中でも「サウスダコタ」型は「アイオワ級』(270m)
に続く大きな戦艦ということになります。

実はわたくし、先日ついに空母「ミッドウェイ」を見ることができたのですが、
ミッドウェイ級の空母で全長は296mとなります。




このラッタルを登る前に艦尾を真横から撮っておきました。
停泊時に艦尾に揚げるのは、国旗と同じ「軍艦旗」です。


岸壁から長く広いラッタルが見学者のために設えられています。
傾斜をできるだけ緩やかにするために、艦体に対して鋭角に、
さらに長い距離のラッタルを設けてあります。
さすがに車椅子の人は無理でも、年配の人に配慮しているようです。



いよいよ甲板に立つ時がやってきました。
主砲は45口径40.6cm砲が9門。
一番右側の砲だけが少し低い位置にあるのがちょっと粋な感じです。
(個人的意見)

「マサチューセッツ」は1945年7月1日にレイテ湾を出航し、
日本本土に対する終戦直前の攻撃に合流しています。

東京空襲に向かう空母部隊の護衛を行った後、7月14日に釜石を砲撃、
日本で二番目の規模の製鉄所を破壊し2週間後浜松を砲撃、石油コンビナートを破壊。
そして8月9日には再び釜石を砲撃しています、

彼女がこの主砲でそのとき行った砲撃は、大東亜戦争最後の16インチ砲の発射となりました。

今、ここで見ているこの主砲から、わが国の国土を破壊せんとする
砲撃が行われていた、と思うと、何か不思議な気持ちにさせられました。

 

まず、艦首の端からしらみつぶしに(この表現はあまり適切ではないかも)
見学していくことにしました。
何しろ広い戦艦ですから、甲板の階をくまなく見たら一階上がる、
という風に決めておかないと、どこを見たかわからなくなってしまいます。



後ろから見るとよくわかりませんが、これは

「40mmボフォース機関砲」

Mark2 ”Quad Mount”とあるのは、2門セットのことです。



懇切丁寧な詳細図が掲示してありました。
なんと、「joy stick」(レバーによる方向入力が行えるもの)
のコントロール部分まで。



hydraulic、というのは「油圧」と訳していいんでしょうかね。

「照準と銃の持ち上げに電気を供給する」

とあります。 



銃の持ち上げはこれを見る限り手動のような気も・・・。
ちなみに、下のお皿のような部分が座部となります。



こちら左側の銃座。



この部分に立って上を見ると、頭上にこんなものが・・。



艦首部分にかなり大きなクレーン上のものがあります。
クレーンというよりデリックですね。



こちら「マサチューセッツ」での使用例。
帝国海軍で「トンボ釣り」と言っていた飛行機のすくい上げか?
と思ってしまったのですがさにあらず、これは海面の人員を救助するための
救助水上艇を海面に下ろすデリックだったんですね。



フロートはアタッチメントで後からつけることができたようです。
この「キングフィッシャー」が稼働した例として、1945年3月18日、
九州沖で海上に落ちた「フランクリン」の航空員を救助した、ということがありました。

現地には、このときの報告書がパネルにされてあったのですが、
残念すぎることに日焼けで字が読めなくなってしまっていたという(−_−)



変なところが旗の置き場になっています。
向こう側にある弾薬はボフォース機関砲のものにしては大きすぎる?



16インチボフォース機関砲は全部で24門(つまり12箇所)あるそうです。
対空砲ですから、戦艦に隈なく配置されて艦を防御するのです。



実際にお仕事中の写真がありました。
2門の砲の間に立っておそらく

「てー!」

とか言ってるのが、「ガン・キャプテン」でしょう。
英語で「ローダー」と言われる弾を込める係りは各砲に4人ずつ。
この写真でちょうど弾をローディングしているのはファースト・ローダーです。

画面左下で弾を入れているのが「セカンド・ローダー」です。

一番右は「トレーナー」と呼ばれる照準係だと思うのですが、座席に座らず
足を座部に乗せて立ってしまっていますね。



さて、これらの人員配置を上から見てみましょう。
右端の「トレーナー」と左端の「ポインター」の役目の違いが今ひとつわかりませんが、
まあどちらも狙いを定めるという役割だと思われます。



甲板の1階上から見た左舷の砲座。



ボフォースというのはスウェーデンの武器会社なのですが、このコーナーは
まるでABボフォース社が提供しているのかってくらい詳しかったです(笑)

エンジンに続き、マシンガンのとことん詳細な説明図まで・・・。

わたしはこれによって、弾薬を手で装填することと、
一つの弾薬の重さが4.8パウンド(2.2キロ)あることを知りました。

・・でっていう。

実際にはこの一連の銃座展示への寄付は地元フォールリバーの銀行、
元「マサチューセッツ」乗員、篤志家などによって賄われています。



DO NOT CLIMB. 登るな。

どんな当たり前のことでもそう書いていなければ落ちて訴えられるのは
展示している側だから、書いてあります。

飛び込むなと注意がなかったので自宅の浅いプールに飛び込んで死に、
家族がそれを訴えるとか、コーヒーが熱くて火傷したとか、
それで億単位の賠償金が払われることもある、それがアメリカ。 



記憶が明らかではありませんが、甲板にあったので、
舫などを出してくるハッチではないかと思いますが自信ありません。



説明がなかったのですが、対空見張りが立つところではないでしょうか。



これ、マジでなんでしょうか。



この後ろ側にこんな認識表が貼ってありました。
左上から書き出していくと、


ジーク ジーク オスカー トニー トージョー ジャック
(零戦)  (1式戦闘機)(3式戦)(2式戦) (雷電)

ケイト   ジュディ ジル  ヴァル   ソニア   
(97式艦攻)(彗星)(天山)(99式艦爆)(99式襲撃)

ルーフェ  ジェイク   ポール ピート    ニック  
(2式水戦)(零式水偵察)(水偵)(零式観測艇)(2式双戦闘機)

ダイナ      アーヴィング リリー      ベティ  
(100式司偵機)(月光)   (99式軽爆撃機) (一式陸攻)

ヘレン       フランシス サリー     ネル
(100式重爆撃機)(極光)  (97式重爆撃機)(96式陸攻)

トプシー    テス  チェリー   マーヴィス エミリー リズ
(100式輸送機)(?)(99式飛行艇)(97式飛行艇)(2式)(深山)


日本語の航空機名はコードと用途以外覚えるつもりもなかったようです(笑)
ご存知の方も多いとは思いますが、一応照合して機種を書いておきました。
輸送機の「テス」(下段下段左から4番め)だけわからなかったので、
ご存知の方教えていただけると嬉しいです。


戦闘機は男性名、爆撃機は女性名、偵察機、輸送機はどっちもあり、みたいな?



なんと、ここの展示は、日本側が米軍機を見分けるために描いた、
艦艇の上のこんな絵まで見せてくれました。
絵の上手い人がチョークかなんかで描いたみたいですね。

しかも、この艦艇とは戦艦「長門」であったとのこと。

上の段は左から

F6Fヘルキャット、F4Fワイルドキャット、SBDドーントレス、B2C。

下の段は正面からの絵だと思いますが、諸元などに関しては
残念ながらパネルの表面が傷だらけで解読不可能でした。




ここは立ち入り禁止になっていますが、基本的に中に入り、
銃座に座って照準を覗くこともできます。

 

弾の射出のメカニズムを連続的に説明していました。
こういうのを熱心に読む人もアメリカ人には関係者以外皆無でしょう。



エリコンFF 20 mm 機関砲

だと思われます。
戦艦全体で35門が装備されていました。
現在でも一部は使用が継続されているベストセラー兵器。

これを撃とうと思ったら、身長が最低170センチは必要です。

 

照準を覗いていたら、赤い綺麗なボートが超高速で川面を航行していきました。
民間の監視艇のようです。



続く。

 


70年後のD-デイ同窓会〜USS「バンコム・カウンティ」LST-510

2016-07-30 | 軍艦

LST-510というのは、LST-1型戦車揚陸艦の「510番艦」ということになります。
どれだけたくさん造られたのかとびっくりしてしまうわけですが、
510くらいで驚いていてはいけない、なんとこのタイプ、終戦までに

1052隻

が生産されたというのです。

まあよく考えれば戦車と人員を積むのが目的なので、中はほぼ空洞みたいなもの。
(ですよね?)
空母や増して戦艦などより造るのもきっと簡単で楽だったに違いありません。 

そのせいなのか、乗り心地というものは一切考慮されていなかったようです。
ここアメリカでは、何かと言うとテレビで「プライベート・ライアン」の
再放送をするのですが、その度にあの上陸作戦のシーンを最初に見ることになります。

先日観たとき、揚陸艦に乗っていた上陸前の兵が、船の中で嘔吐しているシーンがあり、
緊張のあまりこうなってしまう兵もいたんだろうな、と思ったのですが、
もしかしたら船酔いしてたってことなのかもしれませんね。



これはLSTの543ですから、510の「バンコム・カウンティ」とは
造られた時期がほとんど一緒だったということになります。



戦艦「マサチューセッツ」のD-デイ参加船模型コーナー。
手前のSTは陸軍のタグボート、向こうのATF321は海軍のでしょう。
ATFの意味を調べたのですが、

Advanced Tactical Fighter (ATF)」(先進戦術戦闘機計画)

としか出てきませんでした。




AUXILIARY だけで「補助艦艇」の意味があります。
向こうの「OCEAN TUG RESCUE」(海洋救助タグ」が、なぜ
『OTR』でなく『 ATR 』なのかも謎です。



これが「浮き桟橋」と「浮橋」。
我らがLST-510、「バンコム・カウンティ」が直接海岸に近づけず、
代わりに輸送してきた兵員を降ろしたのはこのようなポンツーンでした。



おまけ。

画面下が陸地で、沖に造られた「人工港」を表します。

マルベリープランというのは、上陸作戦の10日後に、
物資輸送のために作った人工港を「マルベリー港」と名付けたことからきています。

図解の「プランA」オマハ・ビーチ、Bはゴールドビーチにありました。 
図の一番沖にあるのが人工防波堤、黒い数珠繋ぎが艦艇ですが、
このために「MOORING SYSTEM」、つまり海底にアンカーを打ち込んで、
一つのアンカーから出る2本の鎖で艦艇を繋留し「港」としました。

図には「4隻のリバティシップにつき3つのシステム」とあります。



さて、今は現存する唯一つの元戦車揚陸艦、フェリー「ケープ・ヘンローペン」。
出航してから売店で(意外と)美味しい夕食を食べているうちに、
すっかり陽は沈み、あたりが暮れなずんできました。

わたしが仮眠を取る前に、船内を探検に出かけます。



こちら船首甲板部分。
もちろん乗客は立ち入り禁止です。

もやいがブルーなのが何か新鮮な感じ。



この時には「バンコム・ビーチ」の頃からどんな改装が施されているのか
全くわからなかったので、こういうのももしかしたらD-デイに使われたのか、
と思い一応一生懸命写真を撮ってみましたが、実際は元のままであるのは
船の外側だけであったことが判明しました。

どうやって取り替えるのかわかりませんが、機関部分もそのままではないでしょう。



船尾の国旗は、この直前南部で起きた警官銃撃事件を受けて半旗のままでした。
デッキに出ている人はごくわずかです。

 

艦尾がわのベンチからフェンネルを臨む。
横から見ればフェリー会社のマークが刻まれています。
救命ブイのかかっている位置が左右対称で美しい。



ライフジャケットが収納されているボックスは甲板にあります。
ボックスの上の「逆”へ”の字」の金具はなんでしょうか。



お金を入れて見る望遠鏡が、これも両舷の左右対称に一つづつ設置されていました。



艦尾甲板、つまりここを降りると車を停めた階なのですが、
航行中は立ち入り禁止になります。
甲板には駐車を誘導していた係員がずっと立っていました。

このあと、わたしたちはこのあとのドライブに備えて客室で休むことにして、
船室に戻りました。



客室キャビンに展示されていた写真。
「ケープ・ヘンローペン」では、1994年にD-デイ50周年記念を行いました。
これはそのときに集まった、かつての「仲良し三人組」。
三人とも若い元気な水兵さんでしたが、このときには全員70歳台です。



ニューオリンズに「D-デイ博物館」というものがオープンした、とありますが、
調べてみると「D-デイ」だけがテーマの博物館があるのはイギリスだけでした。
こちらは、「国立第二次世界大戦博物館」に併設された展示のことであろうかと思われます。

The National WWII Museum

ちなみにD-デイ・ミュージアムは、上陸作戦から56年目の
2000年6月6日にオープンしました。
この写真もそのときのものでしょう。



さらにその4年後、ノルマンジー上陸作戦から60年目にあたる2004年6月6日、
LST-510に乗って作戦に参加した元乗員たちがこのフェリーに集まり同窓会を行いました。
130人の士官と下士官兵で、60年後生存していたのがたったこの9人だけ。
とは思いたくないですが、参加時(1944年)に20歳だったとしても80歳ですから・・。

2014年に「70周年の同窓会」が行われた様子がないのは、
・・・つまりそういうことかもしれません。




さて、写真を撮って長椅子に横になり、しばし目を閉じて仮眠を取っていると、
港が近づいてきたのでみなさん車に戻ってください、とアナウンスがありました。
車に乗り込み、接岸までそこで待ちます。

一番端っこに停めた(だってここに停めろっていわれたんだもの)車の
運転席から見た甲板の様子。
右の階段から皆降りてきて車に乗り込んでいきます。



接岸を見守るクルーたち。
日常的に港を往復しているフェリーの着岸作業は驚くほど迅速であっという間に

ランプを降りる指示が出されました。

このあと、ニューロンドンの港に降りて、ナビの通り走ろうとしたつもりが、
なぜか間違えて高速から降りてしまい、そこがなんと先日訪れたばかりの
コーストガードアカデミーの正門前の道であったことは、お伝えした通りです。

幾つかのフェリーの中からD-デイに参加した船を偶然引き当てたことも、
もしかしたら当ブログで「ネイビーブルー愛」を常日頃節操なく垂れ流している
熱く語っていることに対するちょっとした”ごほうび”であったかもしれない、
とわたしは今もそう思うことにしています。


・・・・・誰からのごほうびかと聞かれると、少し困ってしまいますが。




 


ノルマンジー上陸作戦とUSS「バンコム・カウンティ」LST-510

2016-07-29 | 軍艦

さて、偶然D-デイに参加した戦車揚陸艦を改装したフェリーで
ロングアイランドからニューロンドンに渡ることになりました。
所要時間は約1時間半(だったかな)の船旅です。



この社員の一番左に見えるのがわたしたちの車です。
乗艦したとき、「中央の左側のラインに進んでください」と言われたので
進んでいったところ、係員が一番左で手招きするのでそっちに停めたら、
後から別の人がやってきて

「なんでここに停めたんですか」

などとわけのわからないことをいうので面食らいました。
あんたらがここに停めろと言ったからですがなにか。

車を停めたら、皆自由に降りて上のデッキに向かいます。



ふと駐車場の上を見ると、誇らしげにこのようなものが。
1944年の6月にオマハビーチに上陸したことが書かれています。



ところで、わたしはこの後、先日お伝えしたように、
ボストンのバトルシップ・コーブで戦艦「マサチューセッツ」を見学しました。
アラメダの「ホーネット」のように、広い艦内は博物館としても機能しており、
そのなかに「D-デイ侵攻記念室」がありました。



ノルマンジー侵攻作戦のとき、連合軍はこのように分散しましたという図。
これでいうと、赤いフォークの左から2番目がオマハビーチに上陸したグループです。
ちなみに、フォークの5本の歯の一番右からイギリス軍、カナダ軍、イギリス軍、
そして残りがアメリカ軍ということになります。

「バンコム・カウンティ」もこの船団に加わっていたということですね。



ついでに、このときにイギリスのどの部分から侵攻したかの図。
しかし、あらためてwikiの「ノルマンジー上陸作戦」を見ると、米英カナダと中心に
連合国は「自由フランス」とか「自由ベルギー軍」と「自由」を頭につけた
支配下の国を入れて全部で12カ国。
それに対して当然ですが、相手はナチス・ドイツただ一国だけ。
これもまた勝てる戦いではなかった(ドイツから見れば)というしかありません。

ところで皆さん、「プライベート・ライアン」でもそうだったように、12連合国が
このように数カ所から上陸しながら、どうしてアメリカ軍だけがこの作戦を
ことさらヒロイックに、大変だったことを後世まで強調しているのかというと、
なんといってもオマハビーチの戦死者が結果として一番多かったからです。

まず、ここに配置されたドイツ軍が、予想と違って既に激戦を経験していた師団で、
その猛烈な抵抗にあい、第1波の上陸部隊は上陸10分以内に全指揮官を失いました。
指揮をとる士官、
および下士官が戦死または負傷して統率系統が無力化したところに
第二波以降の部隊が次々に詰め掛けたため、
海岸線はパニック状態になりました。
オマハ・ビーチはさながら地獄絵図の様相を呈したといわれます。

当然死傷率が一番高く、オマハ侵攻は「ブラディ(血まみれの)・オマハ」となりました。



という話はおいおいしていくとして、「ケープ・ヘンローペン」号に乗ったところから。
通勤にも利用されているフェリーなので、乗艦から出航まではもうあっという間でした。
なんというか、定期バスのような気軽さです。



車から降りた人々は室内に向かいます。

救命ブイには艦名とともに母港である「ニューロンドン」の記載が。



これが客用キャビン。
窓際に沿ってコンパートメントのようなテーブル付きの席が並びます。
最終便から一つ手前の便であることもあってか、人はまばらです。



全員が窓際に席を取っても、まだいっぱい空きがあるという状態。



日本のフェリーとは圧倒的に違うのが船室のゆとり。
作り付けの椅子とテーブルは大人が6人ゆったり座ることができ、
長い椅子はちょっと横になって仮眠を取ることもできます。

わたしはずっと運転しっぱなしのうえ、さらにこの後ニューロンドンから
ボストン西部のウェストボロまで運転しなければならなかったので、
この貴重な時間に少し仮眠をとりました。
脳が休まったのか、おかげで下船後のドライブは全く眠気なしでした。



昼はアウトレットモールのメキシカンファストフードでしたが、
晩御飯も結局この船上で食べなければ後がないことに気づき、
船のデリでサンドイッチとサラダを注文しました。

写真ではそうでもないかもしれませんが、これが美味しかったのよ。

サラダのチキンはよくある冷たくて硬いものではなく、ふわっとして暖かく、
さらにサンドイッチは作り置きではなくパンは焼きたて。

「え。これ美味しくない?」

「いやー、侮れませんなあ。フェリーの売店なのに」

 見れば、朝の「モーニングメニュー」も容易されており、通勤通学用に
1時間半を利用して食事を取る人に配慮しているらしいことがわかりました。



この日の夕焼けは素晴らしくドラマチックな色をしていました。
穏やかな内海の水平線に沈む前の太陽が、空を朱に染めて
雲間からは今日最後の光が漏れています。 



港を後にする船からロングアイランドのビーチが見えました。
ここは半島先端に道一本でつながっている小さな島、
いわば「半島の半島」みたいな部分です。



とても絵になる灯台は無人式のようです。



砂浜の先の岩場では釣りをしている人がいました。

ここは一応ニューヨーク州で、サフォーク郡の「オリエント」という街です。
国勢調査によると、だいたい人口は700人あまりだということです。



そのとき、今出航したばかりのロングビーチ側の港にやってきたジェット艇?
「ケープ・ヘンローペン」を所有している「クロスサウンド・フェリー」は
全部で8隻の船を所有しているのですが、そのうちフェリーではない、
人だけを載せる高速艇はこの一隻だけだということです。

またも偶然ながら、「シージェット” I"」というその船を見ることができたのでした。
ジェット艇というだけあってすごいスピードです。
所要時間が短く、コミューターの利用が多いのでしょう。



そのとき、砂浜の高いところに一人で立っていた少年が、
ぴょんぴょん飛び跳ねて艇に向かって手を振りました。
望遠レンズで撮ってみて初めてわかったのですが、携帯で話しながらです。
おそらくシージェットに彼の父親か母親が乗っているのでしょう。



屋上デッキに出ている男性がそうでしょうか。
シージェットのニューロンドンまでの時間は40分。
フェリーの約半分です。
同社のメンバーシップがあれば最安で往復12ドル60だそうですから、
きっと通勤定期みたいなのもあるのに違いありません。



さて、我々の乗ったフェリーは出航して5分後ぐらいで海峡のようなところを通過。
と思ったら、このライトハウスのあるのは「プラム・アイランド」という
可愛らしい名前島の先端でした。

このライトハウスも歴史的な建造物で、「プラムアイランド・ライト」といいます。
1869年に建てられた花崗岩の建物で、アメリカの歴史遺産に指定されています。

プラムアイランドは最長で4.7kmしかない小さな島で、一般人の立ち入りは許可されていません。
昔は軍のフォートがあったようですが、現在は

「プラムアイランド・アニマル・ディジーズ・センター」(動物疾病センター)

といって、家畜の罹患する疾病を研究するセンターでした。
しかし、911以降、ここでの目的は「生物兵器の研究」に切り替えられているそうです。

そのせいなのか何なのか、2008年に逮捕されたアルカイダの女性神経学者は、
アメリカ国内の攻撃目標のリストを所持していましたが、そのリストには
「プラムアイランド動物疾病センター」がふくまれていたということです。



すっかり太陽は西の海に姿を消しました。



客室キャビンにはかつての「バンコム・カウンティ」に関する写真が掲示されています。
珍しそうに写真を撮ったりしていたのはわたしたちだけ。
地元の人々には今更、というか周知の事実で珍しくもないのに違いありません。

この全体写真の日付が1945年の4月4日であることにご注意ください。
「バンコム・カウンティ」は、この直前、霧、みぞれ、大波、氷山と極限までの寒さ、
そして最大の恐怖であるU-boatの攻撃への不安と戦いながら、
大西洋の13日間の航行を終えたばかりでした。

同じ船団のうち4隻が、U-boatの攻撃を受けて戦没しています。



「ブラック・ギャング」が何を意味するのかわかりませんが、艦長らしき
中央の士官以外は全員が若年の水兵です。
彼らのうち何人かは、左袖にオナーのような袖章を付けています。



彼らの袖章は右肩にあります。
ガナー、ということなので、砲手のグループ。



「コミニュケーション・ディヴィジョン」とは通信関係の部署でしょうか。


さて、彼ら「バンコム・カウンティ」のD-デイはどのようなものだったかというと。
6月1日には70の車両と第29師団200名の兵士を乗せて錨を下ろしていました。
しかし上陸許可はどこからも出されることなく、ずっと待機していたというのです。

そこで一旦プリマスに戻り、もう一度出直してきたのですが、オマハビーチに
接近したときには、すでに侵攻作戦が始まって8時間が経過していました。

しかも、着岸することもままならなかったので、彼女は「ライノ」など、
他の船に、
戦闘員たちを移乗させポンツーンまで送り込みました。


その夜、「バンコム・カウンティ」、LST-510は初めての空襲に遭いますが、
犠牲になったのは「睡眠時間だけ」で被害はありませんでした。
彼女自身はその後他の船の負傷者を収容し、

乗船していた三人の医師は艦上で夜を徹して手術を行ったといいます。

もしかしたら乗員たちには不本意だったかもしれませんが、とにかくも彼女は
このような形で、彼女なりのD-デイにおける任務を果たしたのでした。


続く。









 


戦車揚陸艦(元)に乗る〜USS「バンコム・カウンティ」 LST- 510

2016-07-28 | 軍艦

ノーウォークからもう少しボストンよりのウェストボロに移動する日、
わたしたちはロングアイランドで買い物をするという計画を立てました。
ニューヨークで行ってみた「ニーマンマーカス」のアウトレットである
「ラストコール」が案外良かったので、他のロケーションを探したところ、
ロングビーチの巨大アウトレットモールにあることがわかったのです。

「ロングビーチのドライブがてら行ってみよう!」

ということに決まり、ノーウォークからニューヨークに入る手前で
ロングビーチへの道を選び、文字通り長いビーチ沿いに進んでいきます。



空港まで30分かかるというお知らせ。

JFK、ニューヨークの空港は何度かトランジットなどで利用しましたが、
わたしは恥ずかしながらこのときそれがロングビーチにあることを知りました。

ニューヨークを根元に、本土?沿いに長く突き出している半島、
それがロングビーチです。
アメリカのテレビドラマ「リベンジ」で、主人公とその復讐相手が住んでいたのが
ロングビーチの海岸を臨む家でした。
彼女の復讐のターゲットが大会社のオーナで富豪であったように、ここには
ニューヨークで
財をなしたリッチな人々が豪邸を構えているというイメージがあります。

日本とは桁違いの富裕層がしかも多く住んでいる町なら、アウトレットといっても
一味違う商品展開があるに違いない、とわたしは予想したのでした。 



アウトレット自体はアメリカのどこにでもある「プレミアム・アウトレット」で、
こういう作りも御殿場などとあまり変わらないのですが、御殿場と違い、
駐車場からのアクセスが簡単で、そもそもあそこほど人が多くありません。

ここでわたしは「昨日入荷したばかり」というモンクレーのコート(冬の海自イベント用)
とプラダの軽くて丈夫なリュック(主に総火演用)を嘘のように安い値段でお買い上げ。

「傷物とかアウトレット用に作られた二級品とかじゃないのよ」

と店員が力説していたので、来た甲斐があったと言えるでしょう。



というわけで、大物収穫の喜びを胸に車に乗り込みました。


さて、わたしたちはこの後ボストン郊外のホテルにチェックインしなければなりません。
もう一度ニューヨークまで戻って、ヘアピンのようなルートを運転していくのも
さすがにしんどいなあ、と考えたとき、ふと思いつきました。

そうだ、ロングアイランドの先端からフェリーに乗ればいいのでは?



この日乗ったフェリーにあった航路図。
下に見えるロングアイランド端っこから本土への最短距離は、
なんと先日訪ねた潜水艦基地とコーストガードアカデミーのある
ニューロンドンのテムズ川河口じゃーありませんか。

我ながらこの思いつきに歓喜し、さっそくモールでの買い物の合間に、
インターネット(モール内に当然のようにフリーWiFiがある)で
フェリーの時間を調べ、予約をすることにしました。(TOが)

すると、スマホを見ながら彼が興奮したようにいいます。

「D-デイに参加した船がフェリーになって就航してるんだって!」

それはすごいねー、さすがアメリカだね。と感心したものの、
まさかその航路に就航しているフェリーのうちの
たった一隻である
D-デイの船に乗れる確率なんてほとんどないだろう、と思ったわたしは、
是非乗ってみたいとかそういう強い希望を持つこともしませんでした。



しかし、このあとのTOに言わせると、

「わたしが持っている、”そういうもの”を引きつける何か」

のおかげで、逡巡して選んだ時間にアサインされていたのは、他でもない、
そのDデイ参加船の「ケープ・ヘンローペン」だったのです。

「すごい!なんで?」

それがわかったとき興奮気味だったのはむしろTOの方で、わたしは
なんとなくそうなることが前もってわかっていたような気がしました。

このフェリーでニューロンドンまで帰って来たとき、まちがえて
奇跡のように?偶然コーストガードアカデミーの門の前に出てしまったのを
そんなに驚かなかったのと同じで・・・・。

ネットを検索すれば「ケープ・ヘンローペン スケジュール」という結果が
すぐに出てくるところを見ると、アメリカ人の間でもこの船に乗ってみたいと
わざわざ調べる人がいかに多いかがわかりますが、混乱を避けるためなのか、
フェリー会社では、この船がいつ就航するのかスケジュールで明らかにしていません。



わたしがいつまでも靴を見ていたりして(笑)実は結構時間が押していましたが、
ロングビーチの端っこまで続く道の沿道にワイナリーのあるブドウ畑が続く頃になると、
車の数もこんな感じになり、スイスイと進みます。



フェリー乗り場に着きました。
インターネットから予約したので、ここではその照合を行います。
赤いシャツを着た係員が、並ぶ場所を指示してくれました。



こんなときに節約しても仕方がないので、プライオリティチケットをとりました。
係員はワイパーにこの目印になるタグを挟んでくれます。



並べと言われた場所は、沢山あるラインの一番端。 
最終便から一本前のフェリーでした。



時間が少しだけあったので降りてみることにしました。
一つの突堤にフェリー付き場は二つあります。



近所の人なのか、フェリーを待つ人なのか、犬の散歩をさせていました。

 

ほどなく「ケープ・ヘンローペン」到着。
これがD-デイに参加したという船なのか・・・・。



左に見える歩道は、車に乗らずに乗船する人たちの通路です。
通勤で使っている人も結構いるようでした。
アメリカでは当たり前ですが、車は駐車場に無料で停めておけます。



着岸後、中から車が次々と降りて行く頃、これから乗る車に
全員が乗車を始めました。



船体に「510」というナンバーが書かれています。
これは彼女が揚陸艇だったときの艦番号で、いまでも同じ場所に残されているのです。



ここで唐突に戦車揚陸艦から戦車が降りてくるところを。
なるほど、戦車揚陸艦をフェリーにするというのは大変リーズナブルですよね。



これがかつての「ケープ・ヘンローペン」の勇姿。(一番右)
当時は「バンコム・カウンティ」と言い、名前を持っている唯一の海軍艦船でした。


バウケーブルがリングの外、船の後方にあり、常に風向計が
風に向かうようになっている」

「ケーブルは空襲の際に収納できるようになっている」

と書かれていますが、 主に下線部分の意味がわかりません。



「戦車揚陸艦」で調べると、戦後多くのこのタイプの船が改造されて
民間船として活躍したと書かれていますが、これもその一つ。
この写真を見ると、どのような改造を施されたかが一目瞭然ですね。

戦車の揚陸というのは艦尾から行われたので、改装の際、船首に乗降用のハッチを穿ちました。
そして、操縦室と客室のために上に構造物を積み上げて、ペイントして出来上がり。

昔のままであるのはほぼ外殻のみという感じです。

揚陸艦というのはその大小を問わず、基本的に前線に参加するわけですから、
勢い戦闘による喪失数も多くなります。
彼女の僚艦も多くが戦地の海の底に消えていったのですが、D-デイに参加し、
その後も濃霧で他の船と衝突して損傷を受けるなどしながら、
彼女は1945年の終戦を迎え、生き残ることができたのです。



彼女が "unfit for further Naval service" (海軍の任務に適さない)として
海軍籍を解かれたのは1958年のことでした。

その2〜3年後、チェサピーク湾のフェリー地区を持つ自治体に売却された彼女は

「MV バージニア・ビーチ」

としてフェリー活用(多分そのままの形で)されていたようですが、
1965年ごろ、別の会社に売られ、現在の

「MV ケープ・ヘンローペン」

となり、大々的に改装されて今の形のフェリーとしてニュージャージーで
航路を結び運行していました。

現在のオーナーである「ケープ・メイ・ルイス・フェリー」という会社が
彼女を手に入れたのは1983年のことになります。

戦後は生き残った揚陸艇がフェリーや貨物船として活動していましたが、
2016年現在、現役で運行されている元戦車揚陸艦は彼女ただ一隻であるということです。



さあ、いよいよ「ケープ・ヘンローペン」、いや、「バンコム・カウンティ」への
乗船が開始されました。
わたしたちの前に並んでいた2台の車に続いて、中へと進んでいきます。


続く。




 


「誇らしき偉業!」〜ミスティック・シーポート造船所

2016-07-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

ミスティク・シーポートをぐるりと一周回って見てきたら、
一番最後に造船所を見学することになりました。 

この造船所はスキルを持った職人たちが常駐して、展示船の補修、
展示の用意などを行う、世界でもユニークなものです。



遠くから見てもここに造船所があるとわかります。
正式には

Henry B. Dupont Preservation Shipyard

という名称です。
プレザベーションというのは「保護」とか「保全」の意味があります。

船舶を保全するという意味とともに、昔ながらの造船・修復技術を保全する、

という意味で冠されているのだろうと理解しました。



こういう場所に自由に立ち入っても良いというのはさすがは体験型展示ですが、
とりあえず稼働中に危険はないものなのでしょうか。

この広いスペースには所狭しと木材が並べられています。
レールの上にある緑の車のついた機械には、先に巨大なカッターが二枚ついていて、
木材を加工するためのものであることがわかります。

これは「ソウ・ミル」といって、三枚の刃でそれ自体が動きながら木をカットします。



赤いバツ印がカットする目安というわけでしょうか。
丸太は動かないように白い棒で固定してあります。
ここで縦からも横からもカットできるようですね。



閉園間近だったせいか、船のあるところや民家や店舗のあるところと違って、
人は本当にまばらでした。

たまに歩いている人がいるかと思えばどうやらスタッフのようだったり・・。

この画像の右側にハシゴがかかっていますが、ここから上り下りするんでしょうか。



機械の下部におがくずがたくさん詰まっています。
木を削ったりする木工機械のようです。



木屑が新しいところを見ると現在進行形で使用しているのでしょう。
不思議なのは、機械のあちらこちらに「危険」という札が貼ってあるのに、
観光客に向かっては取り立てて注意を促していないところです。

赤いボックスのオフになっているスイッチをオンにすれば稼働して、
たちまち「危険」な状態になるはずなのですが・・・。

日本ならばこういうところに見物客を入れたりしないし、入れたとしても
機械そのものに触れないようにしてしまうことでしょう。

このようなアメリカの「いい加減さ」を目の当たりにするたび、
日本人の「先回りするおせっかいさ」が時として鬱陶しいものに思われます。



糸鋸のある木材加工装置。
切り掛けで置きっぱなしにしてありますが、その気になれば近くでみることもできます。
糸鋸が錆びているみたいだからもしかしたらこれは使われていないのかな。 



「アミスタッド」
甲板のうえには乗員が一人乗っています。
「アミスタッド」とはスペイン語で「友情」を意味します。


説明には「80フィートのフリーダムスクーナー」とあります。
「スクーナー」とは、 2本以上のマストに張られた縦帆の帆船の一種です。

最初にオランダで16世紀から17世紀にかけて用いられ、
アメリカ独立戦争の時期に北米で更に発展したということです。

スクーナーという名称は、初めてこのタイプの船を見た人が、

「Oh how she scoons」(おお、氷の上を進んでいるようだ)

といったとかいわなかったとかからきているという噂があります。
ちなみに日本ではこのタイプの帆船が幕末に作られており、

「君沢形」(きみさわがた)

と呼ばれました。
余談ですが、スクーナーが日本に入ってきた経緯というのがなかなか面白いんですよ。

1854年(嘉永7年)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国の
エフィム・プチャーチン提督が乗ってきたフリゲート「ディアナ」が、下田沖で碇泊中、
安政東海地震に見舞われて津波で大破し、沈没してしまいました。

プチャーチンは、すぐさま幕府の同意を取り付け、戸田村で船の建造を始めました。
(このころは船がないと帰れませんから)

設計はロシア人乗員らが担当し、日本側が資材や作業員などを提供、支援の代償として
完成した船は帰国後には日本側へ譲渡するという契約をしました。
日本側に洋式船の建造経験はなかったにもかかわらず、日露の共同作業はおおむね順調で、
起工より約3カ月後には無事に進水式を終え、建造地の戸田(へだ)にちなんでその船は
船名を「ヘダ」号と命名されました。

ヘダ号(wiki)


というわけでプチャーチン一行は無事帰国していったわけですが、幕府は、
「ヘダ」の建造許可のわずか15日後に、同型船の戸田での建造を指示しています。

その後戸田以外、たとえば石川島造船所でもこの君沢形が多く作られ、
ここはのちに石川島播磨、
現在のIHIとなったのでした。


さて、これは古い時代の日本の話ですが、「アミスタッド」ができたのは最近で、
1998年から建造が始まり、完成したのは2000年のことになります。
どこで生まれたかというと・・・・そう、このシップヤードなのです。



そして、今まさに建造中のおそらく帆船がここにありました。
実際に稼働する帆船を作るにはおそらく独特の技術が必要でしょう。
当然ながら、船を作り続けていないと技術は途絶えてしまいます。

日本は、例えばわたしが知っている範囲でいうと、今次々に FRP素材のものに
変わっていっている掃海艇は、木造船の時代の技術者がもういないと聞きます。

新素材の艇に主流が移っていけば、古い技術が淘汰されていくのは自然の理といえ、
何かとても残念な気がしてしまうものですが、ここでは、少なくとも、
昔ながらの手法で帆船を作り続けていくことができる技術者が生きています。

帆船の帆に登り、音楽を演奏していた乗員は若い人たちでしたが、
アメリカではそういう伝統を受け継ぐ仕事も、誰かが必ず手を挙げるので、
こんなかたちで技術も残り続けていくのだろうと羨ましく思われました。



現在船を建造しているところからはまっすぐ地面に稼働のための線路があります。
(車が邪魔ですが)



ミスティック河の船の航行を時としてみるための物見櫓。
櫓の前には船を建造するときの支えがある場所があります。

一番手前に横たえられているのはマスト。



まるで鯨の骨のような船の外殻が壮観。

New Mayflower とありますが、これは「メイフラワーII」のことです。
言わずと知れた「メイフラワー」のレプリカで、

「アングローアメリカン(米英)の友情の印として」

1956年にイギリスで建造されたものです。
彼女は完成後大西洋をわたり、「第1号」と同じプリマスから
アメリカのプリマスまでやってきました。

実は2016年、つまり今年の初頭に、この「メイフラワーII」、ここミスティックにきて
造船所で修復をしていたらしいのです。
その後公開もされていたようなのですが、春にイギリスに帰ってしまっていたようです。



セミ-ディーゼルエンジン、と説明があります。
Whichmanなので「ウィッチマン」かと思ったら「ウィヒマン」と読むのだそうで、
ノルウェーのディーゼルエンジンメーカーでした。
今はフィンランドのバルチラ社(船舶エンジン会社)に吸収されているようです。

このエンジンは1930年の作で、蒸気エンジンより軽く小さいのが重宝されました。
ミスティック・シーポートの造船所がこれを手に入れてから、2年間、
3,300時間を費やして稼働を可能にし、現在は動かすことができます。

コードを包んでいるアルミホイルが手作り感あふれていますね(笑) 




あーなんかこれ昔どこかで見ましたわ。
えー・・・・ジェレマイア・オブライエンだったかな?
違う・・・あれは3シリンダートリプル拡張レシプロ蒸気エンジンだったはず・・。

忘れました。orz
勉強があまり役に立っていないと感じる瞬間(笑)
でもこれも一応2シリンダーの蒸気エンジンですよね?

なんでもタグボートに搭載されていたものだそうで、なるほど、
彼女らがあんな力持ちなのもこれを見れば納得です。



この軽量型ディーゼルエンジンも当造船所が手に入れて、
「2013年8月13日についに稼働開始することができた」そうで、

 A proud achievement !

と誇らしげに書かれています。



「キール」という言葉に最近大変馴染みがあるなあと実感するわけですが、
気がついて見れば、英米の船の起工にはかならず

「KEEL LAID」(キール敷設)


と書かれているわけです。
船にとっての背骨、キールを最初に置いた日、それが船の生まれた最初の日。
人間は尾骶骨が最後に死ぬ、という話を思い出しますね。関係ないですが。

このキールの展示されている部屋は、とても長くて、それもキールの長さそのものだからです。
92フィート、つまり30mの長さのキールは捕鯨船「Thames」のものでした。

1818年に建造された二本マストの船で、ここコネチカットで生まれ、
その現役時代には鯨を追ってアフリカやハワイに航行していたそうです。



全てを見終わって帰路に着く前に、ミュージアムショップに寄ってみました。
信号旗が黄色地に配されたTOのネクタイを記念に買いました。
ショップにはハーマン・メルヴィルの「モーヴィー・ディック」も売られていました。

この装丁をみて、なんだか急にもう一度この小説を読みたくなったわたしです。

初めて来たはずなのに何か懐かしいような気がするのはなぜだろう、と思ったら、
それはわたしがこういった世界をたとえばこの「白鯨」や、映画などで
体験した気になっていたからだということに思い当たりました。


そういえば、スピルバーグの映画「アミスタッド」は、「アミスタッド号事件」
(奴隷運搬船上で奴隷が反乱を起こした事件)をテーマにしたもので、
モーガン・フリーマン、アンソニー・ホプキンス、マシュー・マコノヒーなど

名優をふんだんに使った話題作でした、

この事件は、反乱によって行った殺人事件が裁判で結局無罪となり、奴隷となった

アフリカ人たちは結局帰国を許されたという結末でしたが、映画公開後の2000年、
この「アミスタッド号」のレプリカがここで作られたというわけです。


そして現在、彼女は奴隷制、人種差別、公民権の歴史を広く知らしめるために
ここミスティック・シーポートを母港として活動しているということです。







 


"I SPY" の世界〜ミスティック・シーポート

2016-07-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

「The Museum Of America And The Sea」

これがミスティック・シーポートのテーマです。
1929年に、弁護士のカール・カトラー、ニューヨークの医師、
チャールズ・スティルマン、そして地元の絹製造業者であった
エドワード・ブラッドレーの三人が、アメリカの歴史的な
海事をテーマとした博物館を作ろうと決めたのが始まりでした。

ブラッドレーが初代チェアマンとなり、人集めを始めると同時に
とにかく「海」をテーマにした展示の収集が始まります。

壮大な計画であったため、スティルマンもブラッドレーが
亡くなった1938年にもその計画はまだ達成していませんでしたが、
一人残ったカトラーが、二人の夢を叶えるために現存する古い船を探し、
ついに捕鯨船チャールズ・W・モーガンを手に入れることに成功します。

ただし彼女はその年のハリケーンで被害を受け、ようやく
コネチカットに到着したのは真珠湾攻撃の1ヶ月前でした。

戦争中にもかかわらず(というかアメリカは今も昔もこんなだったのだなと思いますが)
1942年にはチャールズ・W・モーガンは公開されて客を集めていました。
ミスティックに船大工がオープンして、彼女が今の場所に来たのは1944年のことです。



「ジョセフ・コンラッド」は1945年にここにやってきました。



樹々の間に設えられた小さなステージで、数人のスタッフが
なにやら演劇のようなことを行っていました。
わたしたちは時間がなかったので近寄ることもできませんでしたが、
前の観覧席では意外なくらいたくさんの人々が熱心に鑑賞していました。 



この石造りの二階建ては「ミスティック銀行」
なるほど、火災に遭わないように石造りなんですね。



入ってみる。
狭くて仕事ができそうな椅子が三つしかありません。
昔の銀行は三人で仕事していたんでしょうか。

1850年ごろ、銀行というのは一般家庭の人々が使うものではありませんでした。
普通口座や預金口座、貸し出しなどのシステムは一切なかったのです。
当時は会社、ここミスティックでいうと「シップビルダー」の操業資金を
貸し付けたりするのが仕事だったので、「ディレクター」がボスで、
その下に二人の従業員「プレジデント」と「キャッシャー」で事足りたのです。

この銀行は、1856年に一人のビジネスマンが立ち上げたもので、
ミスティックリバーに面したところに建っていました。



仕事スペースの奥にある金庫。
コインがばらまかれていますが、見学した人がどうも1セントを投げ込んでいるようです。

この頃の銀行は銀行強盗から守るために金庫があったのではありません。
彼らが恐れていたのは火事だったので、立地も火事になりにくいところが選ばれました。

金や銀、そして顧客にとって最も大切な証書や債券など、紙類も、
それがなくなればおしまいでしたから、さらに金属の箱に収められてここに収納されました。

上の写真で「ザ・シップ アシュネット」と書かれている箱がありますが、
ここにはフェアヘブンにあったマサチューセッツの捕鯨船の書類が収められています。
この捕鯨船「アシュネット」に1941年ごろ乗っていたのがハーマン・メルヴィル
ご存知「モーヴィ・ディック」、「白鯨」の作者です。



売っているものは樽しかありません。
ここには説明員がいて、質問に答えていました。

COOPERAGEというのは初めて聞く単語だったのですが、
これがなんと「桶屋」なんですよね。
じゃ、「風が吹けば桶屋が儲かる」は

If the wind blows cooperage is earn.

でいいのかしら。
桶屋というよりこれ樽屋なんですけど。 



セスとジェーン・バローズが住んでいたので「バローズハウス」と呼ばれる家。
1805年から1825年の間に建てられたものと言われています。



ジェーンは1874年からドレスメーカーをして収入を得ていました。
夫のセスは「ドライタウン」、つまり禁酒法時代に食料品店を経営し、
そこでこっそり酒を売ったというので悪評があったそうです。 



でもまあ儲かったんでしょうね(笑)
悪名とかいっても、だいたい禁酒法そのものが馬鹿馬鹿しい限りの茶番だし、
酒をこっそり売る業者はそれこそいくらでもいたというし・・・。



「ミスティック・プレス・プリンティング・オフィス」

つまり印刷屋さんです。
漁港に素早く最新ニュースを届けるためには印刷屋が不可欠でした。
政治や事件など以外にも、船の出入港について情報が必要とされたのです。
ここミスティックに新聞が登場したのは1859年のことです。



活字を組んで印刷する活版印刷。
これらは1962年からここに展示されています。



同じような大きさの、数段の階段を上る家がならんでいます。
この赤い家は「マスト・フープ」を作る工房。



マストフープって何なのかと思ったら、マストに帆を貼るために
マストに通すフープのことだったのですね。
この工場にある丸い輪っかは、加工してフープにする前のものです。 

 

"nautical" の意味もわたしはこれで初めて知りました。
「船舶の」ということなので、船舶専用の時計や六分儀などの専門店です。
さすがは港町ですね。

"quadrants" は象限儀といって、円周の4分の1の目盛り盤を主体とする
 扇型の天体観測器のことです。



こんなこともあろうかと偶然写真を撮っておきました。
どうやって使うかは全く想像もつきませんが。



羅針儀や船内用の時計はわかるとして、窓際の台の上のは
これも検討がつきません。



組み立て前のmarine chronometer(航海用の高精度な時計)。



ジャックスパロウが使っていたみたいな?望遠鏡。



部屋の隅にあった謎の金属窓。まさか排水溝?



お神輿みたいなこれ、なんだと思います?
ファイヤーエンジン、つまりポンプ式の消防車。
海辺の産業は火がつきやすいものばかりだったので、このような
簡易な消防車を地域で用意していたようです。

ところでこの自転車、本当に乗れるものだったんですね・・。
(装飾だと思っていた)



「プリマス製糸工場」

マサチューセッツのプリマスに1824年創業した工場です。
製糸工場の先鞭であったニューオリンズの技術を導入しました。
南北戦争の始まったのは1861年で、まだまだ南部では奴隷が労働をしていましたが、
この工場の経営者、ボーン・スプーナーは "abolitionist" 、即ち奴隷制反対論者でした。



彼は新しい技術を導入し新しい製品を開発しつつも、常に
価格と製品について研究を怠らず、45年間に実業家として
大変な成功を収めたと言われる人物です。


プリマス製糸工場は、ここ港町にあって船舶の舫を専門に作っていました。
チャールズ・W・モーガンなどの捕鯨船には丈夫な舫を必要としますが、
ここで生産されたものは常に船乗りたちの信頼に足るものであったといわれます。



「キャットボート」といわれる船。

ここニューイングランドだけでなくロングアイランドやニュージャージーで、
浅瀬で作業をするときに使われた船で、1850年以前には出回っていました。



みてお分かりのように、折りたたみ式のマストが一本あります。



ブラント・ポイント灯台

小さなかわいらしい灯台です。
これはナンタケット港にあるブラント・ポイント灯台のコピーだそうです。

フレネル・レンズといわれるガラスの層を積み重ねたような光源が
ここからでも見てとれます。



トーマス・オイスターハウス内部。

ボストンとサンフランシスコ、というのはいずれも住んだことのある街ですが、
この二つの都市では牡蠣がたいへんポピュラーな「コンビニエンスフード」でした。

採取した牡蠣を入れておくカゴが棚に並んでいます。



外には牡蠣をとるボートが横付けしてあります。



「ファイヤフライ」(蛍)とかかれた小さな小屋。
中を見ることはできませんでしたが、建物の割れ目から
船を引っ張るためのワイヤが出てきています。



「ライフ・セービングハウス」となっています。
実際に中を見てみると、スタッフの私物や服などが乱雑に置かれていました。

ここは「U.S. 救命サービス」という組織の出張所で、万が一
船が難破したり沈没したという知らせを受けた場合、現場に急行し
とりあえず人命を救助するという任務を帯びていました。

実際には1870年から1930年までの間、この小屋はケープコッドにあり、
救命サービス隊とコーストガードが使用していたものです。




昔の街並みを家の中ごと再現した空間を歩いていると、息子が小さいときに

夢中になってやったCDゲームの「I SPY」(日本では『ミッケ!』)の
港町のシーンに
迷い込んだような錯覚が起こってくるのでした。


街の果てに行くと、造船所が現れてきました。

ここでは今でも修繕や造船が行われているのだそうです。

続く。


 


”19世紀の港町”を歩く〜ミスティック・シーポート

2016-07-24 | アメリカ

「ミスティック・シーポート」を、海事博物館だと直前まで思い、
そのため2時間もあれば十分だろうとタカをくくって入ったわたしです。
さすがに現地に着いてみると、外から見ただけでもこれは室内に展示してある
パネルや現物をみるのではなく、まるでハウステンボスのようなテーマパークらしい、
と気づいたため、受付の人に

「あと30分まてば料金が半額になりますが、どうしますか」

と聞かれましたが、一日料金を払ってすぐに入園しました。



古い時代の船が、すべて現役で繋留されています。
メンテナンスを開園時(1949年)から繰り返し、帆船なども
未だにすべてが航行をすることが可能です。




入園してすぐ目につくこの船、「ローアン」(浪人と読んじゃった)。
1947年に建造され、カレイやタラの漁を行っていました。
1970年に廃業したため、ミスティックシーポートが引き取り、
2009年に完璧に改装されました。




皆さんはディズニーシーに行ったことがおありでしょうか。
あの、SSコロンビアの周りとか、ケープコッドと言われるエリア、
あの街が「つくりもの」であると我々は知っているわけですが、
雰囲気はあのままで実際にアメリカの古い時代(19世紀)に建てられ、
実際にここミスティックという港町で人々が生活していた街並みが
そのまま再現されているのが「ミスティック・シーポート」です。

ここは食料品と鍋釜の類を扱っていた店。
店頭にネイティブアメリカンの女性の木彫りがありますが、
これはここミスティックに先住していた、「ピクォート族」だと思われます。



入ってすぐ、広大なレストランがあるのですが、我々が入園してすぐ
店じまいをしてしまいました。

道に沿って歩きながら、そこに立ち並ぶ建物を一軒一軒覗いていきます。



映画でしか見たことがない、19世紀の学校。
日本の寺子屋のように、たった一つの教室しかなく、ここに
全学年が勉強していたと言うことなのでしょうか。

昔読んだ古いアメリカの小説で、「友達の石板を割った」とかなんとかいう逸話が
出てきた記憶がありますが、このころはノートではなく石板で勉強していたかもしれません。



黒板は長年の使用の果てにチョークが染み込むように
ザラザラの凹凸のある表面に付着しています。
ここで学んだ子供達は、すでに人生を終え、誰一人この世にいません。

この学校はさすがに小さすぎて古いと現場からリフォームの依頼が出されました。
1882年の日付で残っているその請願書によると、

「小屋は粗末で、黒板は小さく、使いすぎてもう使用に耐えない」

これに対するコネチカット州の役所のコメントは、

「他の学校も大抵はこんな哀れな(ミゼラブル)状態で、設備はもっと悪く、
快適とは程遠いのです。屋外トイレのないところもあるのです」

学校の改装計画はまず安い建物を手に入れて学年ごとに生徒を分けること、
運動場をつくること(子供達の健康のために木陰と水が飲めることが必須だった)
から始めなければなりませんでした。

教育の重要さを説く人によって議会に学校の敷設をすることを承認させ、
マサチューセッツに高校(ハイスクール)ができたのは1830年のことです。



ニューイングランド全体で教科書というものが制定され、教師という職業ができたのは
1850年で、しかししばらくは学校とはこのような狭く暗い教室しか持たないのが実情でした。

この教室はコネチカットのグリムズワードというところにあったものですが、
ミスティック・シーポートができた1949年にここに移転されました。



柵には十字があしらわれています。



と思ったらやっぱり教会です。
墓石の下にはさすがに誰もいないと思いますが・・・。
アメリカのお墓は、古いものはこのように傾いてしまっていたりします。



礼拝堂もヨーロッパや、ボストンに残る壮麗なものでなく、
本当に簡素なつくりで、オルガンだけが立派です。

ここにはエンドレスで牧師の説教が流れていました。
全部で8分間のもので、1843年の7月31日、ミスティックのこの教会で
実際に牧師が行った説教を再現したものだと言うことでした。



写真の男女はどちらもブラウン夫妻で、この「フィッシュタウン教会」のために
土地を寄付した資産家であったようです。

右下の牛を追っている男の写真には、

「怠け心は悪魔の遊び場」

という、実に耳の痛いタイトルとともに信心をもって働くことの
尊さみたいなのがざっと書かれています。



1835年、時の大統領ジャクソンは、ホワイトハウスの「グリーンハウス」に
レモンの木と南国の花を植えたとされます。
これがきっかけで、普通のアメリカ人の間に「パーラーガーデン」と呼ばれる
小さな、しかし色とりどりに咲く花をあしらった庭をもつことが流行りました。

ガーデニングがアメリカで始まったきっかけだったわけですね。



1760年からコネチカット州にあった「農家の家」。
こういう古い家の宿屋に昔泊まったことがありますが、なんというか、
昔のアメリカ人も低い天井の狭い部屋にすんでいたんだなあという感じです。



天蓋のあるベッドや家具などはおそらく集めてきたものだと思われます。
室内はなんとも言えない「古い匂い」がしました。



アンティーク家具の好きな人には垂涎の眺めですが、実際に
この家に住んでみたいか、というと、とても快適そうには見えません。
アメリカ人がソファーでくつろぐようになったのは近年のことではないでしょうか。



別の部屋に行ったら男性が二人作業中でした。
しょっちゅうこのように展示には手を入れて保持しているようです。



港を歩いてみましょう。(シーポートですから)

この船は「エマ・C・ベリー」というなまえの「ウェルスマック」船です。
ウェルスマック船というのは漁船で、船体の中央部に生簀を持ち、
生簀の海水は外と循環させる仕組みになっているものでした。

イギリスでは1700年代からこのタイプの船があったのですが、
この船ができたのは1866年のことです。



船着場には帆船が繋留してあります。
この船は「チャールズ・W・モーガン」
1841年に建造された捕鯨船です。





この帆船のマストが最初からこのように見えていたのですが、
よくよく見ると、人が登っているではないですか。



まさか、見物客にマスト登りを体験させてくれるのか?とこのときにはびっくりしたのですが・・。



あとでこの帆船に乗ってみたら、この人たちが楽器を演奏していました。
曲はなんとも言えない昔の、19世紀の船乗りの歌、と言う感じでした。
なりきりスタッフなのか、実際の船員なのかはわかりません。



帆船の内部。改装されて間もない感じがします。



ジャック・スパロウがこんなところで寝起きしていたと言う感じ。
鳥かごがあるのは「片目片足の船長と鸚鵡」のイメージからでしょうか。



ヘンドン・チャブという「生涯海を愛した男」を偲んで、
この港には「チャブズ・ワーフ」という名前が付けられているそうです。

誰だろうと思って検索してみたら、今年1月に亡くなった

夫、父、祖父、兄弟、芸術家、作家、心理学者、愛犬家、エール大学卒業生、
ラグデザイナー、500の会社のディレクター兼CFO、名誉ガールスカウト、
庭師、アメリカソテツ協会の役員、ワイン醸造業者、元軍人、
市民権の選挙監視人、
早期のプログラマ、フランスの恋人、平和を愛し正義を愛す人、詩人。

だったそうです。なんじゃこりゃ。




ミスティックリバーの向こう岸の家。
おそらく一階は「ボートハウス」なのではないかと思われます。
海を愛する男なら、こんな家がドリームハウスだったりするんでしょう。


 
「ジョセフ・コンラッド」はデンマークで1882年に建造されました。
1934年からプライベートヨットとして世界を回った船です。
その後は練習船となり、1945年に退役、現在は改装されて訓練船として現役です。




続く。
 


跳開橋のある港町〜コネチカット州ミスティック

2016-07-23 | アメリカ

基本的にブログのコメントでいただいた読者の方々からのサジェスチョンは、
よほど無理なことでない限り(飛行機の免許取れとかな)、なんとかして
実現させようと思っている当ブログ主ですので、ちょうどニューイングランドに
滞在中の身としては、「ミスティック」という街に是非行ってみたいと思い、
そして実際に行ってみました。

ここにある、古い港町をそのまま明治村のように保存した、

「ミスティック・シーポート」

が目的だったのですが、その前に街を少し散策してみました。



この日、コネチカットは時々小雨のぱらつく曇りがちな1日でした。
ホテルのあるノーウォークから、潜水艦基地とコーストガードアカデミーのある
ニューイングランドを通り、更に少しボストンよりに進んだところに
Mysticという「神秘的な」名前の街があります。

ここに流れるミスティックリバーという河の名前が街の名前の由来ですが、
その「ミスティック」も、もともとは「ピクォート族」という先住民族の言葉で
風によって波の起こるような大きな河川を意味する、

 "missi-tuk"

から来ているのだそうです。

ちなみにミスティックでは「ミスティック大虐殺」と呼ばれる、
イギリスからの入植者によるピクォート族に対する、
女性子供さえもが意図的に抹殺された大
虐殺事件が1637年に起こっています。
 



街の中心を横切るミスティック・リバーを挟んで、レストランやテンポが
観光客向けにずらりと並んでいます。
実はここにくる前に訪問したのがコーストガードアカデミーでしたので、
まずはお昼ご飯を食べることにし、小規模のホテルが経営している
イタリア料理店に入ってみました。


 
日本で食べるイタリアンは日本人のシェフによるものですが、
アメリカのイタリアンはそのほとんどがイタリア人の手によるものです。
アメリカ人向けにアレンジしているところもあるのでしょうが、
こういうニョッキなどは、少し固めの茹で方といい、本場に近い気がします。

と言いながらイタリアには一度しか行ったことがありません。

余談ですがそのときイタリアから汽車で国境を越えてニースに行き、
先日トラックの暴走テロがあった道沿いのホテルに泊まりました。
家族で海を見た海岸のちょうど後ろが、犯人が射殺された場所でした。



さて、昼食を終え、少し街を歩いてみることにしました。
この時点でわたしたちはミスティックという街のことについて何も知りません。



道の脇にあった街の説明を見ると、この頃に建てられた、
つまり100年前の建築が今もちゃんと健在であることがわかります。
アメリカでは決して珍しいことではありません。 



これも少なくとも橋ができた頃にはあったものでしょう。



ミスティックリバーで観察できるウミガメとアザラシ。
河口で海が近いので普通にこういう生物も泳ぎ回っているようです。

さて、何も知らないわたしたちが「跳ね橋があるね」「今も動いているのかな」
などといった会話をしながら橋を渡り終えたとき、一帯にカンカンという
警報音が鳴りわたりました。



動いているも何も、全くこの跳開橋は日常的に稼働していたのでした。
橋を跳ね上げるための巨大な車輪には別に囲いもされていません。
ちなみに、このホイールには「 BULL(雄牛) WHEEL」とあだ名されています。

この横にあったプレートによると、建造されたのは1922年。
ミスティックのあるグロトンとストニングトンの合同での工事だったことがわかります。

しかし、それにしては妙にこういった部分がきれいだなと思ったら、
2000年に第一回、2013年に第二回目の改築工事が終わったばかり。



車道と歩道の踏切が降りると、巨大な二つのコンクリートの錘が
ゆっくりと地面に達するまで降りてきます。



改装したばかりなのでこの錘も大変きれいですね。
稼働前はこの錘はずっとアームに支えられて上空にあるわけなので、
万が一のことがあってこれが落ちてきたら大変なことになりますが、
100年近く一度も事故の類はないそうです。



wikiの「跳開橋」の項にあったミスティックリバー・ブリッジ。
錘の位置がお分かりいただけるでしょうか。



道が持ち上がってきました。
改装工事では、両端の歩道と車道を分ける柵をあらたにつくったようです。



というわけで5〜7分くらいかけて最大仰角に立ち上がったブリッジ。
コンクリの錘はほぼ地面と水平にまで降りています。



どんな船が通るんだろう、とわざわざ川面を見に行くと、
観光用のヨットが通り過ぎ、その後には小さな個人のセーリングヨットが過ぎました。

橋が上がるのに結構な時間がかかるわけですが、この船が定期船で
決まった時間に通行するので橋を上げるのか、それとも橋の前に来たら
船長が橋のオペレーションと連絡を取って開けてもらうのかはわかりません。



もう少し離れて立っている橋を取ってみました。
ゴッホの「アルルの跳ね橋」みたいな両側に上がるものではなく、
このように片方だけが跳ね上がる跳開橋も世界では結構ポピュラーなのだそうです。



というわけで、船が通過した後、もとに戻っていく橋。
対岸のところにぴったりと合うように降りていき、つながれば
車が通っても全く段差がない(実際に通ってみたが全くつなぎ目を感じず)
のは、すごい技術だと思います。



橋を渡ってお店をみながら歩いて行くと、わたしのセンサーがまたしても
高らかに鳴り響きました。

「ARMY NAVY STORE」

という大直球の名前がついてるミリタリーショップ。
もちろんTOと二人で大盛り上がりに盛り上がりながら入ってみることに。



「アーミー・ネービー・ショップ」と言いながら、店の前には
海兵隊のお兄さんのマネキンが立っております。
あ、「海兵隊グッズもありますよ」という宣伝のつもりかな?
これもその気になれば買えるんだろうなあ・・・。



本物の部隊章や階級章、バッジ、もちろん制服、軍靴も。
これはさすがに宣伝用だと思いますが。



一番気になったのはこれ、ギリースーツ!
いろんなミリタリー物販店を見てきましたが、
ギリースーツを実際に売っているのは
初めて見た気がします。
手にとってみたのも初めてのことなんですが、これ案外、もふもふが
取れないように、ちゃんとできているものであることが判明しました。

で、ギリースーツ、おいくらだと思います?
38ドルですよ38ドル。

今が旅行中で持って帰る荷物の心配をしなくてよく、家にこんなものを

しまっておけるスペースがいくらでもあるのならば、
何かの役に立つかもしれないし買って行きたいくらいでした。



結局ギリースーツは諦め、(絶対後悔するだろうし)その代わり
こんな本を記念に買って帰ることにしました。



特に皆さんが気になるに違いない、マリンコの「近接戦闘」の本の中身。
相手の態勢とかどんな風に襲ってきたとか、シチュエーション別に
こういうイラストが延々と描かれております。
これ、上のやつやられたらきっと痛いよね。

まあこういう知識も何かの役に立つかもしれないし・・・。



みなさんは「ミスティック・ピザ」(Mystyc Pizza )という映画、観たことありますか?
わたしはなんとなく題名だけを記憶していたのですが、実はこの映画、
ここミスティックの街にあるピザ屋が舞台だったんですね。

帰ってくるまでそのことを知らなかったのですが、実際にロケが行われたピザ屋には
映画を見た人が訪れたり外から覗き込んだりするのだそうです。



さて、わたしたちは町の中央の道を行って帰ってきただけですが、
もうそろそろ移動をしなければなりません。
なぜなら、今日ここに来た目的はこれだからです。



「ミスティック・シーポート」

昔から漁港であったこのミスティックという街のそのままを残し、
往年の姿のままに展示をしているテーマパーク。

明治村と先ほど言いましたが、明治村のように建物を全国から移築したものでなく、
港はほぼそのまま、幾つかの建物も昔からそこにあったものを保存しています。



あーこの巨大なコルク栓抜き、最近コンスティチューションがドック入りしているのを見たときに
同じようなものが使われているのを見たような気がするなあ。



ここに到着したときにはすでに3時くらいでした。
もう少し早くくればよかったのですが、いい加減に調べたため、わたしは
ここを「海事博物館みたいなものだから2時間もあればいいだろう」
と甘く見ていたのです。

実際は小さな街を歩き回るような感じなので、閉園となる7時ギリギリまで
みっちりと歩き回ることになりました。

港、街のいろいろ、漁港、造船所、実際に船を作った小屋・・・。


その話はまたこの次に。





 


バトルシップ・コーブ〜世界最大の海軍艦展示

2016-07-21 | 軍艦

住んでいたときも、それから毎年夏に渡米するようになってからも、
おなじマサチューセッツにこんなお宝展示があるとはしりませんでした。

バトルシップ・コーブ。

”COVE” というのは入江や小さな湾のことですが、マサチューセッツ州の、
ボストンから南へと行ったところにあるフォールリバーという街に、
海軍艦をそのままいくつも繋留展示しているミュージアムがあったのです。

当時は海軍の”か”の字にすら興味がなかったので、そんなものがあることを
知ろうともしなかったわけですが、今回、フリーウェイを走っていて、
降り口のところにある「ここを降りればこんなアトラクションがあります」
と示す茶色い看板に、「USS SALEM」というのを見つけたのをきっかけに
調べたところ、この海軍博物館の存在を知ったというわけです。

ちなみにこのとき、「USS SALATOGA」がマサチューセッツのプロビデンスに
繋留されている「らしい」ことも知り、廃艦が決まったという彼女の姿を
写真に納めに行こうと思っていたのですが、その後調べたところ、サラトガは
すでに今年、海軍から業者に1セントで売却され、スクラップにされるために
ジョージタウンに出航する姿を元乗組員の老人たちが敬礼して見送っている、
というニュースを見つけました。

その出航が今年の1月だったということで、グーグルマップにはまだ埠頭に
「USS SALATOGA(CVー60) 」の記載がありますが、航空地図にすると
もうすでに彼女の姿はここからは消え失せていました(´;ω;`) 


さて、バトルシップコーブは住んでいるウェストボロから車で1時間あまりです。



ここ全体がヘリテージ・ステート・パークという位置付けです。
普通の州立公園のように、ピクニックができる牧草地、トレイル、
そしてヨットなどのウォーターレジャーを楽しむための公園です。



一応パーキングには料金徴収をするための建物もありますが、誰もいません。
駐車場はもちろんただです。

ここに「オーバーナイターはシップストアでチェックインしてください」、
とあり、つまり艦にお泊まりするという企画が行われているようです。

調べてみると、この企画は一種のキャンプで、

● 展示戦艦の隅から隅まで探索
● 乗員が寝ていた本物の寝台で寝る
● 艦上での乗員たちの生活とその任務を学ぶ
● 特別な行事に参加
● アクション満載の映画なども鑑賞
● 歴史を作った元乗員との触れ合いタイム
● 士官の専用食堂でフルコースの朝食と夕食を
● ほかにもいろいろ

住んでいた時息子がもう少し大きかったら行かせていたかも・・。



小さな子供のために、カルーセル(回転木馬)がこの建物の二階にあります。

時間がなかったので見ることもままなりませんでしたが、
木馬は1919年製の木彫りのアンティークで、大変貴重なものだそうです。

アメリカらしく、ここや戦艦の内部を借り切ってパーティをすることもできるそうです。



ここも時間がなくて立ち寄ることができませんでしたが、
公園のビジターセンターだったようです。



昔の港の名残り、船を上げ下ろしするスロープがあります。



わたしが到着した2時過ぎ、フィールドには見学を終えて出てきたらしい
サマーキャンプの子供たちがバスの到着を待っていました。



広場の前に星条旗と例の「わたしを踏みつけるな」の旗、
海軍の「ファースト・ネイビー・ジャック」が揚がっています・



どれどれ、と近づいてみると、同時多発テロで亡くなった、
マサチューセッツ州出身者のための慰霊碑でした。
碑文は、ジョージ・ブッシュ大統領が捧げた弔辞が刻まれています。

「テロリストのアタックは、我々の作り上げた最も大きな建物の基礎を
震わせることはできたが、彼らはアメリカの基礎には手を触れることもできない」

という、アメリカ人の好きそうな文言です。



マサチューセッツに被害者が多かったのは、あの同時多発テロの時に
ニューヨークワールドトレードセンタービルに突入したと言われている
アメリカン航空11便と、ユナイテッド航空175便がどちらもここマサチューセッツの
ローガン国際空港から出発していたからです。

この名前が刻まれた銘板は同じものが二枚ありますが、
少なくない人の名前の横に航空機乗員であるという印が付いていました。



高速を降りてこれらの海軍艦艇群が見えてきたとき、わたしは思わず
感激と興奮で「おおおお〜」と声を出してしまいました。

さすがは全米で一番評価が高いと自らが胸を張る施設だけのことはあります。
まず、一番向こうにあるのがここの「目玉」である戦艦「マサチューセッツ」



信号旗が揚がっていますが、意味がお分かりの方おられますか。



浮きドックではなく、固定されているものかもしれません。
ここに「マサチューセッツ」が博物館として固定されてから設置されたものでしょう。
ショップで購入した記念冊子によると、この「バトルシップコーブ」が
このようなかたちで博物館となってから去年で50周年を迎えたそうです。



こちらに見えているのが潜水艦「ライオンフィッシュ」。
1942年に建造されているので、当然ですが日本軍との戦いを経験しています。

この写真では分かりにくいですが、「マサチューセッツ」と「ライオンフィッシュ」の間に
いるのがミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」
『 HIDENSEE』がどうしてヒドゥンシーと読まないのかというと、これはドイツ語だからです。
バルト海上にヒデンゼー島というドイツ領の島があるのですが、それにちなんでいるとか。

この不思議な名前を持つアメリカ海軍の艦についてものちに詳しくお話しします。



そしてこちら、駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」
皆さんはあのJFKにジョセフという2歳上のお兄さんがいたことをご存知でしょうか。

1915年生まれのジョセフはハーバード・ロースクール在学中に海軍のパイロットに応募、

1942年に海軍予備少尉となって対潜哨戒任務に就いていました。
1944年に欧州戦線トープシークレット作戦に参加し、戦死したのですが、もし彼が死ななければ、
おそらく、この優秀でスポーツ万能だった兄にずっとコンプレックスを持っていたという
弟のジョンが政治家になることもなかったのかもしれないと思われます。

ジョセフ・ケネディの戦死から1年後、彼の名前を付けられた駆逐艦が誕生しました。
それがこの「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」です。 



大統領に就任した弟のジョン・F・ケネディは、この駆逐艦に乗り、
デッキからアメリカズ・カップを観戦した、という話があるそうです。



コーブの艦艇群を見渡せる岸壁に、慰霊碑がありました。
「コモドア」とありますが、この場合はヨットクラブの会長のことでしょう。



大型船の船の錨が説明もなく転がされております。
「マサチューセッツ」のものかもしれません。



こちらは間違いなく「マサチューセッツ」のプロペラです。
展示に当たってはずしてしまい、ここに展示してあるのです。
彼女が1998年から1999年の間にドライドックに入っている間に取り外されました。
博物館として展示繋留されている船も時々はドック入りしてるってことなんですね。

「マサチューセッツ」は4つのプロペラを持ち、これはその一つ。
このプロペラの説明が書かれた銘板には、彼女の愛称が「ビッグ・マミー」であること、
そして彼女が1947年にはすでに「リザーブフリート」(予備艦隊)入りし、
1965年からここで展示されている(ENSHRINED・安置されているの意)
ことが書かれています。



これも説明がありませんが、「ビッグマミー」のものでしょうか。

 

さて、外の見学はそこそこにして(なにしろ時間がなかったので)、中に入ります。
このストアショップの中で入場料を支払い、建物の裏から入場します。
入場料は大人が12ドルというものでした。
ちなみに、ベテランや軍服着用の軍人は無料です。
この日はいませんでしたが、別の日に海軍迷彩の人が結構ウロウロしていました。

チケットを買うと、「ジップコードは?」と聞かれたので「住んでないんですけど」
というと、「どこの国から来ましたか」ともう一度聞き直されました。
「日本ですが・・・それって必要なの?」と聞いてみると、
来場者がどこからきたかというデータを取っているそうです。



入ってすぐの埠頭に当たるところには、揚陸船だったらしい船体の一部を
切り取ってこのように展示してありました。
奥にある階段を上って、船の舳先に立つこともできます。
子供が喜んで上に登ったりしてました。



まるで置物のようにここに座ってじっと動かなかったおじいさん。
一人でやってきたのでないとすれば、家族が見学しているのを待っているのでしょうか。
確かに、特に戦艦の見学は、狭い急な階段を上ったり降りたりが続き、
足腰に不安のある老人には不可能です。

ハンディキャップの人々に配慮することでは日本以上のここアメリカでも、
これだけは如何ともし難く、HPにもはっきりと

「車椅子での見学はできません」

と書いてあります。



なんか映画で見たような車がいるー。
それに、向こうに並んでいるものもなんとなく古いものばかりのような・・。

これは、この横に設えられたスクリーンと、この手前の海の部分を使って
行われる、

「パールハーバー・エクスペリエンス」(でた)

の小道具であったことが後から分かりました。
これもいちおう「体験」しておきましたのでそのうちお話しします。





続く。


 


MGH(マサチューセッツ総合病院)で診察を受ける

2016-07-20 | アメリカ

ここに着いてすぐ、わたしはいつもの公園に歩きに行きました。
ホプキントンにある州立公園(ステートパーク)です。




家に帰ってから着替えていつもの州立公園に散歩に行きました。
朝いくと係員がいないのでただですが、この時間に行くと、
マサチューセッツ住人は8ドル、それ以外は10ドル取られます。
わたしの車は残念ながらニューヨークナンバーです。



グースの艦隊が航行中。



この日はビーチ(池だけど)で泳いでいる人が結構いました。
砂に寝そべって肌を焼いているお嬢さんもいます。



池なので波がなく、サメもいないので、小さな子供が泳ぐのにはもってこいの公園です。



シーズン中はちゃんとライフガードも出動。
オフデューティのときにはボディボードの練習をするつもりかな。



娘二人にキャーキャーとしがみつかれているお父さん。



インド人らしい人たちが持ってきていた水タバコ発見。



この付近でよくみる鳥さんお食事中。



目の端に動くもの発見。



リスもお食事中。



このリスはわたしの視線を感じて固まっています。



夏休みの少年たち。



ここ何年も、同じ席でパソコンをしている人。
去年朝一度も見なかったのでどうしたのかと思ったら、
お昼に仕事時間を変えたようです。

著述業の人かな?


懐かしい公園はこのおじさんの仕事時間以外全く変わっていませんでした。





ところで、移動の日から息子は体の不調を訴えていました。

「頭が痛い。下痢が止まらない」

そこでTOがいきなり言いだしました。

「マサチューセッツ総合病院(MGH)で診てもらおう!」

MGHというのはハーバードメディカルスクールの関係医療機関で、
おそらくは東アメリカで一番権威のある病院ではないかと思われます。
これまで関係者から11人のノーベル医学賞受賞者を出しており、
ドラマ「ER」の作者であるマイケル・クライトンがハーバード大の学生だった頃
実習していた、つまりあのドラマのモデルになっていると言ってもいい病院。



「西ではスタンフォードの付属病院で診てもらったし、対して東のMGHの中診てみたいじゃない」

物見遊山かい。
そんなに重篤な症状ではないけれど、本人がなんと言っても診てほしいというので、
さっそくそのERに行ってみることにしました。

行ってみるっていうのも変だけど。



おおおお!と駐車場棟から出るなり写真を撮る両親に

「かっこ悪いからやめてよ」

と拗ねる息子。
そんなことを言いながら自分も出てきたときしっかり撮っていましたが。



受付にはもう電話で話がいっていたので、まず入り口で軽く状況説明と
横にあるガラスブースでナースによる簡単な問診が行われます。

わたしが椅子に座っていたら、手を布で抑えた男性が来て、

「 I sliced my hand.」

スライスしちまったのか!とぞわぞわしてしまいました。
このとき、ソファでバナナを食べている黒人のニイちゃんがいたのですが、
ここでの一連の手続きが終わった後、小児科棟まで連れて行ってくれたのが
なんとこの人でした。

患者を案内するためだけの係が、しかもこんなニイちゃんであると知って軽く驚きます。



小児科室には厳重にロックがかけられています。
外からはもちろん、中からはモニターの下のボタンを押して、
顔を撮影させてからでないとドアを開けることができません。
しかも、少し離れたところにいる「ドア開け係」みたいな人が、
それを見ていてその少し前に鍵を開けなくてはドアは開きません。

なんでこんな面倒なことをするかというと理由は一つ、
「連れ去り防止のため」です。

スタンフォードでは全員が金属探知機を通りましたが、ここにはそれはなく
棟ごとにセキリュティを別々に行っているようでした。
ここで散々待たされて(WiFiはあったのでiPadは見ることができた)、
部屋に通され、ナースのチェック、医師のプライマリーチェックがあります。



聴診器をあてたり喉を見たりするときにはベッドに寝ますが、靴は履いたまま。
ベッドは大きな紙で覆われていて、枕元にはその紙のロールがあり、
一人の患者ごとに紙を全部交換してしまうのです。

最初の医師は10年前に香港から来たという女医さんで、判断を下す偉い先生も
年配の女性医師でした。

「下痢は多分ウィルスだと思う。頭痛はサイナスのアレルギーでしょう」

結局こういう診断だったのですが、恥ずかしながら両親はときどき英語が聞き取れません。 
しょっちゅうドクターはでたり入ったりを繰り返すのですが、その隙にに息子に
今なんて言ったのか、と聞く始末。

TO「あっぺんでぃくてすじゃなかったっていってたけど何?」

息子は息子でそれをとっさに日本語で言い換えられません。

わたし「医者は盲腸のことアッペっていうよ」 

息子がiPhoneで調べ、「虫垂炎だって」

わたし「ほらー当たってた!盲腸だ」(勝ち誇って)

TO「そういえばブラックジャックでアッペって言ってたなー」


というわけで、それほどひどくもない病気だったため、気軽に、

ライトな感覚で()世界一と評判の病院の治療を経験することができました。 
スタンフォードでも思いましたが、こちらの診察システムというのはとても
システマティックで、はっきりしていて、わかりやすいのです。
医師もまるでコンピュータのようにきちんと二進法で説明に曖昧さを持たせず、
どうしたらいいかを患者に決めさせるというような場面はありません。

患者の訴えをいくつか聞いてろくに顔も見ず「検査しましょう」
とやる医師が多い日本の医療を思うと、ずいぶん診察のスキルが違うなと思います。

ちなみに、とても高額なのがアメリカの医療ですが、今回の治療費は
旅行デスクのあるカード会社の保険が適応になりました。



帰りにボストンのダウンタウンを運転していると、空になんと
5機の飛行機が文字を描いていました。
文字が点々となっているのは、飛行機が間欠的にスモークを出して作るからです。

車の窓から、建物や木々に遮られて何が書いてあるのか読めなかったのですが、 
"MEGAN" は女性の名前ですから、広告でなければ、空を使った
メッセンジャーではないかと思われます。

こんなのでプロポーズして相手を驚かすなんてのがアメリカ人は大好き。
別に大富豪でなくてもこんなサプライズをプレゼントできるのがアメリカです。






 


フロントガラスが割れて車を交換する〜ボストン雑感

2016-07-19 | アメリカ

例の警察官射殺事件が起きてから、どこにいっても国旗が半旗になっていました。
いつまで半旗にしておくのだろう、とおもっていたら、一週間がすぎたという
報道とともに示し合わせたように平常モードに戻っていました。



この事件以降すっかり有名になったダラス警察署長。
亡くなった5人の警官の追悼式で弔辞を述べています。



このころはまだ、黒人男性が殺されたことに対する抗議のデモが
警察とにらみ合うなどの緊張が続いていましたが、メディアは
あの手この手?で、宥和を促すような企画を意図して行っていたようです。

撃たれた警官を手術した病院の外科医、ご覧の通りアフリカ系なのですが、
この人が涙で言葉も詰まらせながら救えなかった命について語り、
このような対立はやめてほしい、ということを訴えたり。



現在では各警官がホームタウンで追悼式を行っている段階で、
必ず彼らの息子や娘が弔辞を述べるところが報じられます。

 

こういうミュージシャンが出現するのも911のときのような感じです。 
彼はテレビ局に呼んでもらいインタビューを受けていました。

・・・・とか言っている間に、今度はバトンルージュでまたしても警官が6人狙撃され、
3人が亡くなったというニュースを今やっています。

終わらない負の連鎖・・・。




話題は変わりますが、今アメリカで爆発的に流行っているのが「ポケモンゴー」。
アメリカでのポケモン人気は昔からで、息子が幼稚園に行っていたころは
アメリカ人の子供がみんなで「ピカー」と叫んでいたものです。

今回の人気は大人も巻き込んでの大ブーム。



なんと、イラクの前線でテロ組織ISISと向き合うある志願兵が、
機関銃の映り込んだポケモンゴーのキャプチャ画面をフェイスブックに投稿したり、
歩行中や運転中に行うので大けがをしたり事故を起こす事態に・・・・。



このたび米軍の複数の基地がフェイスブック公式アカウントを通じ、
兵士と近隣住民らに注意を喚起したそうです。

ワシントン州にあるルイス=マコード統合基地は、ユーザーに向けて、

「基地内の規制された区域、オフィスビル、住居に、
ポケモンを追いかけて侵入しないでください」
「駐車場や交差点では十分に注意して。
電話から顔を上げて、通りを渡る前に両側をしっかり見ましょう。
ポケモンは急にどこかに行ったりしませんから」

と呼びかけ、ノースカロライナ州のシーモア・ジョンソン空軍基地も、

「もし諸君がPokémon GOをプレイしているなら、以下のことに留意するように。
制服で歩いているときに機器を使用しない。周囲に気を配る。
ポケモンを捕まえるために規制区域に侵入しない!」

と兵士たちに勧告を行いました。
アメリカの方が先行しているそうで、日本でももうすぐ上陸するそうでですが、
そうなったときも自衛隊の皆さんだけは大丈夫ですよね? 



さて今度はテレビ番組の話を。
部屋ではCNNかTNTを見ることが多いのですが、日本ではまだ途中までしか見られない

「ザ・ラストシップ」が、現在大変なことになっております。



なんと日本人たちが海賊になっていて、世界転覆を企む、その首領が真田広之
海賊がなんで日本人やねんマイケルベイ。



真田、愛する妻を救うためためという事情があるとはいえ、
捕まえた「ネイサン・ジェームス」の副長を部下に拷問させる極悪人。
このままでは近々乗員に殺されること間違いなし。



ところで、本題。

毎日ピアノを借りている楽器屋のあるモールまでは、車で16分くらいかかります。

特にこの辺は幹線道路になると信号が少ないので高速でなくても
100キロくらいは出したりするわけですが、この道路に入るために
大型トラックに続いていったところ、直後に「ぱしっ!」という嫌な音がしました。



ひええええ〜〜。

小石が高速で飛んできてフロントガラスが割れる、という事故を経験した人は
保険を使うほどでもない、しかし実費で修理すれば10万くらいは飛んでいくという
あの不条理さにきっと泣きたい気持ちになられたかと思います。

かくいうわたしは、運転人生において3度の石飛事故でフロントガラスを変えていますが、
3度目の事故はなんと2度目の修理から1ヶ月以内でした。

「修理が出来上がって乗って帰られる途中で石が当たったという人もいますよ」

という全く慰めにならない慰めをディーラーの人にされたものですが、
よもやアメリカで4度目を経験するとは思ってもみませんでした。

しかも、石がよほど大きかったらしく、ヒビはガラスの中央まで切れ込んでます。
もしもう少し中央寄りに当たっていれば、間違いなくガラスは粉砕していたでしょう。



とりあえず時間通りにピアノショップに行って、練習をしてから、
空港のハーツレンタカーまで持っていくことにしました。



ハーツのオフィスに行くと、白人女性が接客中、手が空いていたのが黒人男性。
わたしはその黒人のおっちゃんが、

「何かご用ですか」

と聞いてきたとき、自分の幸運に思わずニッコリしました。
というのは、2年前、何の因果かここで借りた車に異常な金額が課されており、
その無茶苦茶な処理をしたのがこのとき接客中の女性店員。
「これ間違ってね?」といって書類を見せたらたちどころにそれを理解して
訂正し、おまけに謝ってくれた稀有な店員が、黒人男性その人だったのに気づいたのです。

このときに無愛想で頭の悪い女性の方に当たっていたら、きっと別のトラブルで
嫌な思いをすることになった可能性もありますが、その黒人のおっちゃんは、
わたしが「わたしの車がストーンクラックを受けてしまったです」というと、まず

「誰も怪我はしなかったですか」

と聞いてきたのです。
お、やっぱりこの人は只者ではない(というかアメリカでは稀有だけど日本では普通)
とすっかり安心したわたしです。

「車はどこに停めていますか」

と聞かれたので一緒に傷を見に行きました。



「うーん。こりゃーひどい」(おっちゃん談)

少しペーパーワークをしてもらうことになりますが、といってもう一度事務所に入り、
事故証明書みたいなカーボン付きの紙を出されました。
瞬時にめんどくせーと心の中で思ったわたし、

「ぎぶみーあたいむ、ぷりーず」(時間かかるかもしれないけどごめんね)

とぶりぶりすると、おっちゃんは、この英語の発音ではきっと書類を読むのも
難しいのに違いない、と思ってくれて、

「じゃーわたしが代わりに書いてあげましょう」

と名前から何から、全部書いてくれました。

「どこで事故起こったかわかります?」

「ウェストボロの9号線上です」

見ていると、おっちゃんはウェストボロの綴りの最後に”t”をつけていたけど、
それを指摘するのも書いてもらっている関係上悪い気がして黙っていました。

事故申告関係の書類が終わって、代わりの車の書類をもらい、
あっさりと終わったのにラッキーと思いながら指定のロットに行くと、

なんと停まっていたのがKIAでした。

なんたることか、わたしは死んでも韓国車には乗らないと家訓により決めているのに、
と思ったとたん、車内に従業員ではないヒトがいるのに気がつきました。
ドライバー席でいろいろとチェックしている様子を見ると、客のようです。

なんとラッキーなことに?どこかのあわてんぼうさんが、わたしの手配された
車を自分の車と間違えて乗って行ってくれたのでした。

「やったーこれで取り替えてくれって言いやすくなったぞ」

わたしが喜び勇んで事務所に帰ろうとすると、そのロットに別の車が来ました。
見ればシェビー、しかし契約したより小さなクラスです。

事務所に行っておっちゃんに、

「シェビーが来たけど、あれじゃ家族3人にトランクたくさん乗らないです」

というと、

「シェビー?キアのはずだけど」

誰かが間違えて乗って行った、というのは面倒なのでそれは黙ったまま、

「ノーキア、ノーホンデー(ヒュンダイのこと)ぷりーず」

とお願いしてみたところ、ちょっと待ってて、とおっちゃん出ていき、
戻ってきたと思ったら事務所の横に来たばかりの

「ニュー・ニッサン」をこれならどうだ!と意気揚々と指差しました。



アルティマ(日本ではティアナ)は何度もこちらで乗りましたが、
カムリから乗り換えるとやっぱり安定感がかなり違うなと感じます。

とにかくおっちゃん、ありがとう〜!
わたしがアルティマを見たとたん狂喜乱舞(はしてないけど)で喜んで

「アイトゥルーリーアプリシエイトザット!センキュウー」

とお礼を言うと、おっちゃんまんざらでもない様子で、

「Have a great one!」

と送り出してくれました。



そのまま、ニューベリーストリートにいつものお店をチェックしに行きました。
去年怖いもの見たさでスシをたべた「スナッピー・スシ」、
今年はニューアイテムとしてラーメンを前面に打ち出しているようです。

外のテーブルの人が食べているのを見ましたが、なんか具のない中華冷麺の上に、
サラダをのっけたようなもので、ラーメンには見えませんでしたが。



向かいのコールハーンはバーゲン前で嵐の前の静けさ。



驚いたのが駐車場代がまた値上がりしていたことです。
路上に止められればいいのですが、預かってもらうパーキングは
3時間止めて42ドルという、ニューヨークより足元を見たお値段。




もう一つのお気に入りのお店があるウェルズリー周辺は1日停めても4ドルですが、
そのお店はオーナーに何かあったのか休業していました。



お店の横にある車の修理工場の軒下でちゅんちゅんと声がするので
見てみると、スズメがこんな豪邸をつくってもらってます。

声は藁で塞がれている小屋の中から聞こえていました。



オーナーらしい人がこの中でまさにお仕事中でしたが、
このマッチョなおじさんがこの小屋をスズメに作ってあげたのか、
と思うとなんか笑ってしまいました。



ウェルズリー大学の門の前を通って帰ります。
ウェルズリーも、もしかしたら自分の大学の卒業生からついにアメリカの
初の女性大統領が生まれるかもしれないということで、
今、学校をあげて応援をしているのかもしれません。




 


"I AM A COAST GUARDSMAN"〜コーストガード・アカデミー

2016-07-18 | アメリカ

さて、キュレーターのジェニファーさんに取り次いでもらうために
ホールの中を見当違いにうろうろしているわたしたちです。

階下が入学事務所だったので、もういちどホールの階に戻ってきました。 



そこはライブラリー。
ジェニファーに連絡をするにはどうしたらいいかを司書に聞いてみることにしました。


古書なども蔵書に充実していそうな明るい図書館。
ネイビーブルーの作業着を着たカデットもちらほらいます。


彼らの図書館にはどんな蔵書があるのだろう、と写真を撮ってみたのですが、
こういう学校だから、海事に関する本ばかりかと思ったら、そうでもないみたい。


「ニコラ・テスラの真実」「ファット・フード合衆国」
カーレド・ホッセイニの「千の輝く太陽」、「ダビデとゴリアテ」・・・。



図書館の人がわたしにはわからない、というので、もう一度ミュージアムの前に行ってみると、
そこには車椅子に乗った白人女性が待っていました。

この人がキュレーターのジェニファーさんでした。




メールで「この日の朝、わたしは病院に行ってから出勤するので、
少し遅く来てくれるとありがたいです」といわれていたのですが、
まさかこういう状態の人とは夢にも思いませんでした。

彼女は

「わたしはそれで少し喋るのも遅いのだけど、ごめんなさいね」

というのですが、我々にとっては謝られるどころか願ってもないことです(笑)
彼女は自分で車椅子を移動させながら、このあと展示品とコーストガードの歴史について
熱心に説明をしてくれました。 



入り口のホールには、そのマークの元にこのようなことが書かれています。

私はコーストガーズマンだ

私は合衆国国民に奉仕する

私は彼らを守る(protect )

私は彼らを守る  (defend)

私は彼らを守る  (save )

私は彼らの盾になる

彼らのためにわたしは常に備える(semper paratus)

私はコーストガードの真髄に生きる

私はコーストガーズマンであることを誇りにする

我々はアメリカ合衆国コーストガードである




て、このあと、ジェニファーさんに一度館内を説明してもらい、
終わってからもういちど二人で確認&写真撮影しながら廻り、
外に出てきたのはたっぷり2時間くらい経っていたでしょうか。

このときの内容については、また日を改めてお話ししようと思います。


ミュージアムのあるホールの下に慰霊碑のようなものが建っていました。
沿岸警備隊は国家の非常時、つまり合衆国議会における宣戦布告や
大統領の命令などの戦時には、アメリカ海軍の指揮下に入ることが決められています。

よって、1915年に沿岸警備隊の名前になって以降のアメリカの戦争、
第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争にも参加しています。



USS、とありますが、戦時中は沿岸警備隊は海軍の下に入ることになっているので、
「カッター」と言わずこのときだけは「シップ」になるということなのでしょうか。

各艦のシルエットには戦歴が箇条書きにされています。

USS「キャヴァリエ」 サイパン・台南・レイテ・リンガエン・スビック

東シナ海での戦闘にて魚雷を受け乗員1名死亡、58名重軽傷


USS「レオナード・ウッド」 北アフリカ・シシリー・ギルバート・マーシャル諸島
              サイパン・レイテ・リンガエン
敵機5機を撃墜



USS「キャラウェイ」 クァジャレイン・サイパン・アンガウル・レイテ
           リンガエン・硫黄島_

1945年1月8日神風特攻を受け、乗員31名戦死
敵機2機を撃墜


 USS「ベイフィールド」 D-デイ 南仏 硫黄島 沖縄

乗員1名戦死 5名重軽傷


乗員のことを「SHIPMATE」というのも、コーストガード独特のものでしょうか。




メダル・オブ・オナーを授与したダグラス・アルバート・マンロー
写真が彫り込まれた彼の顕彰碑。

マンローは、1942年、ガダルカナルで日本軍の捕虜になっていた海兵隊500人を
奪還する作戦に従事していた上等信号兵だったそうですが、自分が囮になって
日本軍の集中砲火を受け、その間に海兵隊の乗った5隻の船が脱出を果たしました。

マンローは、史上唯一の名誉勲章受章者たる沿岸警備隊員となりました。 



アレキサンダー・ハミルトン

なんかこの名前最近ここで書きましたよね。
そう、アメリカ建国の父で、税収カッターの発案者、つまり沿岸警備隊の
生みの父というべき人(かれは軍人でもあった)じゃないですかー。

その名をもらったというのにアレキサンダーハミルトン、1942年に
ドイツの潜水艦U-132に魚雷攻撃を受け、レイキャビク沖に沈没しています。

主に機関科の20名が船とともに沈み、怪我をした6名がのちに亡くなりました。
この顕彰碑は生存者によって建立されました。



日本人としてはなんとなくホッとしたのですが、これは対日戦のものではなく、
1940年から45年まで行われていた「グリーンランド・パトロール」の参加艇です。

当時グリーンランドには米軍の基地があったので、周辺を警戒する必要があったのですが、
過酷な状況の中で事故に遭いUSS「ムスケゲット」「エスカナバ」が喪失。 
USS「ナトセック」は行方不明になっています。

この顕彰碑の冒頭に書かれている言葉はこのようなものです。


「今では忘れ去られ、大した名誉も与えられていないかもしれない。
しかし、彼らが”男”であったことだけは疑うべくもないのだ。」 






顕彰碑コーナーの見学を終わってから、わたしたちは車に乗りました。
このとき、駐車場にもその周囲にも誰一人いなかったので、
その気になれば車を置いたまま周囲を歩いても良さそうな雰囲気でしたが、
やはり東洋人が構内をカメラを抱えてうろうろするのはまずかろうと思い、
おとなしく帰ることにしたのです。




せめてゆっくり運転しながら写真を撮ろうという考え(笑)



ここは予想したように、カデットの居住区が奥にあるホールです。
木々が生い茂っていますが、おそらく樹齢は100年越えているに違いありません。




渡り廊下の向こうは中庭になっています。
学生舎から教室まで、廊下で繋がれているようです。



博物館を見学しているのは、わたしたち以外に子供連れの家族が2〜3といった感じで、
ましてやアメリカ人以外の姿を見ることはありませんでした。

車に乗り、構内を走っているときにも人一人姿を見ませんでした。
なんだか不思議な空間の静寂です。

実は、この何日かあと、ロングアイランドからフェリーでニューロンドンに着き、
そこから今いるウェストボロというところに移動したのですが、
優秀なナビの指示をなぜかこのときだけ聞き間違えて、気が付いたら
このコーストガードアカデミーの正門前に来ていたということがありました。

異邦の見学者であるわたしたちが、センパーパラタスな人たちに
”歓迎”されたからかもしれない、とこの不思議な間違いを、わたしは勝手にこう解釈したのです。


 


 


SEMPER PARATUS(常に備えあり)〜コーストガード・アカデミー

2016-07-16 | アメリカ

沿岸警備隊の女性隊員のことを説明した時に、彼らのモットーが
「SEMPER PARATUS」、センパー・パラタスというラテン語で、
『ALWEYS READY」=「常に備えあり」という意味であることを書きました。

「センパー・パラタス」は海自の「軍艦」にあたるテーマソングでもあります。

Semper Paratus - United States Coast Guard Marching Song

2回も聞けば歌詞を見ながら歌えてしまうくらい単純な歌ですが、
特に最後のフレーズがツボを得ていて聞いていて気持ちいいです。

Semper Paratus is our guide    「センパー・パラタス」は我々の道標

Our fame, and groly too.       我らの名声、そして我らの誇り

To fight to save or fight and die,   命を救うために戦い、そして死ぬ

Aye! Coast Guard, we are for you! アイ!コーストガードは国民のためにある


この後半はそっくり、

「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もって国民の負託に応える」

という自衛官の服務の宣誓そのままであることにご注意ください。 



さて、博物館のあるホールに入っていったはいいのですが、キュレーターのジェニファーに
我々が着いたことを誰に取り次いで貰えばいいのかわかりません。

とりあえず、ホールにあるものの写真を撮りまくりました。

冒頭の絵画は

USCGC エスカナーバ(WPG-77)

であることが艦番号から推測されます。
エスカナーバといえば、前回構内にあった「グリーンランドパトロール」に参加し、
喪失したカッターではなかったでしょうか。

艦歴によると、民間船のSSドーチェスターがドイツのUボートによって撃沈されたとき、
その乗員の救助に当たったのがエスカナーバでした。

このとき、エスカナーバの乗員は水温1度の極寒の海にダイバースーツを着て飛びこみ、
救助者をカッターにすくい上げることができる海域に集めるという方法で
133名もの人命を救うことができました。(うち1名はその後死亡)

このとき、ドーチェスターに乗っていた四人の陸軍士官、いずれも従軍牧師でしたが、
彼らはライフジャケットが足りなくなったとき、他の乗員にそれを渡して、
静かに祈りの言葉を唱え、賛美歌を歌って船の底に降りて行ったそうです。



らは現在も「イモータル(不滅の)チャプレンズ」と呼ばれ、
その犠牲の精神を讃えられています。

彼らを顕彰するための彫刻や碑、ステンドグラスなどは全国に多くあり、
国防総省のステンドグラスには彼らの姿が刻まれています。

さて、そしてエスカナバの最後は1943年の6月、船団護衛任務の航路中、
原因不明の爆発によって四散し、ニューファンドランド島付近に爆発から5分で姿を消しました。
生存者はわずか2名で、遺体も一人のものしかみつけることはできませんでした。

U-ボートの攻撃もなかったと言われ、機雷に触雷した可能性も考えられています。



こちらはおそらくD-デイ、ノルマンジー上陸作戦の光景ではないかと思われます。



写真のようですが巨大な絵画です。

"The Cold War, Bering Sea Patrol"

と題されたこの絵は、沿岸警備隊のアラスカでの任務を描いています。
沿岸警備隊のアラスカでの任務は1800年代半ばから始まっていました。
沿岸警備隊の前身である例の「税収カッターサービス」が、灯台を敷設しており、
それが「救助部隊」と合併して今の形になってからはコンスタントに
ベーリング海での警備を行ってきたのです。

ここで何を警備するかというと、当初は毛皮のためにアザラシを乱獲する船だったそうです。

描かれている砕氷船USCGC ノースウィンド(WAG / WAGB-282)
は、先日ここでお話ししたリチャード・バード少将の「ハイジャンプ作戦」にも参加しています。

乗員は、史上初めて、北極の氷の上で野球の試合をダブルヘッダーで行い、
ゴルフもやってしまったという記録を残しました。

これ絶対記録のためにやっただけだろっていう。

絵は文字通り冷戦の頃のできごとで、黒い船はソ連の砕氷船「モスクワ」
この海域はソ連が自国領だと主張したところで、バッティングしてしまいました。
ソ連は9隻からなる船団で現れたということで、潜水艦まで同行していたようです。

このとき、ノースウィンドの艦長(船長?)は、手旗信号で

「何か援助は必要か」

と聞き、その答えは

「ネガティブ」

だったそうです。
船団が通り過ぎた後、すぐさまノースウィンドのヘリが飛び立ち、偵察の写真を撮ったところ、
「モスクワ」からもヘリコプターが発進して発進して後を追いかけてきました。
ヘリが去った後、キャプテンはもう一度モスクワに向かってこう信号を打ちました。

「God's speed and safe passage」(御安航を祈る)



この絵を描いたのは、サインによると「ルテナン・コマンダー」。
なんと軍人さんが自分が見たものを描いたってことですか。

夕闇の空にまるで蛍のように海戦の高射砲が散らばっています。
おそらくは太平洋での戦闘ではないでしょうか。



沿岸警備隊はベトナム戦争にも参加しています。
また博物館の展示について触れながらお話ししようと思いますが、
展示にはこの写真をもとにして描かれたらしい絵画もありました。



沿岸警備隊の航空機って、何を使っているんだろう、と思いますが、
まあなんのことはない、P-3とかシーホークとか(ジェイホークというらしい)
ハーキュリーズとかを名前を変えて装備しており、
偵察機にはフランスのダッソー「ファルコン」を持っている模様。

これは、上の飛行機が下のヘリに給油してもらってるんですよね?
TOがこれを見てよくローターが当たらないなあ、ていうか、パイプみたいなのは
なんでローターに当たらないの?と不思議そうにしていました。

もちろんわたしもそんなことまで知りません。




沿岸警備隊初の提督(vice admiral)、ラッセル・ランドルフ・ウェッシュ
沿岸警備隊が「税収カッターサービス」だった頃に「税収カッター学校」を出て、
1904年に士官候補生となります。
つまり、この年の卒業生が、41年後の1945年、提督になったということなんですね。

しかし彼は提督拝命半年後、白血病のため60歳で亡くなりました。
USCGC  Waesche は彼の名前を記念しています。



コーストガードアカデミーの銘がはいった銛。



ジェニファーを呼んでもらおうにも、人がいないので、わたしたちは
階段を降りて行きました。
今にして思うと、この階下には入学事務所があったようです。

で、ドアの上に

「このドアを通り抜ければコーストガードのリーダーシップの将来がある」

この時には何も考えずに見ていたわけですが、ここが入試事務所であれば
宣伝文句としては大変適切なものですね。




つまり、この学校に入学しよう、という人がここを歩くわけですから、これでもか!
とかっちょいい写真をかざってアピールしているわけです。

サーベルを着剣する女性士官たち・・・うーん、かっこいいぞ。



女性といえば現在の学長は女性士官であるという話をしましたが、
そういえば沿岸警備隊の救助ヘリパイロットに、初めてアフリカ系女性が合格した、
という話をここでしたこともありましたね。

ぜそれが特別なニュースになるかというと、救難ヘリパイロットを志願する学生は
大変多く、人気の志望先で、任期2回目からでないと配属希望すら受け付けてもらえない、
ということがまことしやかに言われているほどだからです。


ところでこの写真の1980年クラスということは、彼女らは卒業して
すでに36年経っているわけですが、そろそろ全員が退役したころでしょうか。
それともこの中から女性の将官は誕生したのでしょうか。 



軍学校ですから、理数系には力を入れます。
学業レベルも国のトップ大学のレベルにランクされているそうです。

学部はエンジニアリング、人文科学、マネジメント、科学、数学など。
専門的には戦略インテリジェンス、プロフェッショナル海事のコースもあります。




2011年の卒業式にはオバマ大統領の出席を仰ぎました。
一緒に写真を撮ってパネルになっているからには、彼女はクラスヘッド、
首席卒業だったりするのかもしれません。
将来はコーストガード・アカデミーの女性学長かもしれませんね。

ところで、彼らがしている、親指と小指を立てるポーズですが、


ハワイで昔から使われている挨拶のポーズ

なんだそうです。
彼女はおそらくハワイ州出身のカデットなんでしょうね。
バラク・オバマはハワイのホノルルの病院で生まれています。



続く。 

 


THE CHAIN〜コーストガード・アカデミー

2016-07-14 | アメリカ


コーストガードアカデミーのミュージアムに見学の予約を取り、
ついに内部への進入を果たしたわたしたちです。
案外簡単に軍学校に入れてしまうのはわたしたちが日本人だから?
それとも学校組織だからかしら。
例えばアナポリスの見学をしたいとして、観光客は入れてもらえるのか?

ふと思って調べてみたところ、なんと

予約なしで9ドル払えば定期的なツァーに参加できる

ということが判明しました。
うーん・・・今年は無理だけど、いつか行ってみたいねえ。

こちらコーストガードアカデミーはそもそも学校が小規模ですし、
アナポリスと違ってそもそも観光客がわざわざ来るような場所でもないし、
そもそも博物館を見に来る人が果たしてそういるかどうか、という感じです。



博物館の併設されていると思われる建物の前に、大きな鐘が置いてありました。

U.S.L.H.E  1906

あります。
調べても確かなことはわからなかったのですが、
L.H が「ライトハウス」のことだとすれば、灯台の付属品だということになります。
(じゃあ"E"はなんですか、とは聞かないでやってくれたまえ)

その横にあった、巨大な錆びたチェーン。(冒頭写真)
前に停まっている車の大きさと比較してみてください。

歴史的に意味のあるものなのだろうと思ったら、横に説明がありました。

1776年、独立戦争が起こった次の年、英国海軍艦隊をハドソン川への
侵入を防ぐため、ニューヨークのウェストポイントから
「コンスティチューション・アイランド」すなわち憲法島と言われるところまで
この鎖を延伸しして張ったということがありました。

この鎖はその一部であるそうです。


偶然先ほどアナポリスの海軍兵学校の話が出ましたが、この話の「ウェストポイント」
とはまさしくのちのアメリカ合衆国陸軍士官学校のことですね。

コンスティチューション・アイランドとウェストポイントは、
地図を見ていただければ分かりますが、ハドソンリバーをはさんで対岸に位置します。 




お分りいただけただろうか。

ここはいつぞやお話ししたイントレピッドの係留されている、そして自由の女神のある

ハドソンリバーをずっと上流にさかのぼっていったところにあります。
つまり、ここを鎖で塞いでしまったっていうんですね。

しかし、憲法島の歴史を見ると、この部分は1777年には一度英国に取られており
そのあともういちど1778年にアメリカが取り返し、以前「マーテラーズ・ロック」
と呼ばれていた今の憲法島の部分を要塞化した、となっています。

もしかしたらこの鎖はイギリス艦隊に破られた、ってことだったんじゃあ・・。

ともかく、この時に要塞化したのがきっかけで、その後ここに
その名も「ウェストポイント」たる陸軍士官学校ができることになります。



建物は丘陵地の一番高い部分にありました。
どれどれ、ここから先はどうなっているのかな、と見てみると、
なんとびっくり、テムズ川までの丘陵地一帯がすべてコーストガードの敷地です。
いったいどれだけの施設があるのでしょうか。

先日見学した我が防衛大学校も、実は超広大であることが地図を見て分かりましたが、
ここは「食堂のおばちゃんが毎日全員にクッキーを焼けるくらいの生徒数」なのに、
この広さとは・・・・。 



ここに「税収カッター乗員幹部養成学校」として士官学校が移転するにあたっては
学校の目的とその存在意義を大変慎重に考慮したといわれています。

士官候補生たちの訓練にはカッター(税収カッターの方ではなく日本でいうカッター)
を漕いだり実際に乗船実習が欠かせませんが、
彼らはキャンパスに面したテムズ川でそれを行うことができます。

なんと「バークル・イーグル号」という帆船まで所持しているのです。



この建物、地図で調べてみたところによると食堂のようです。
食堂の名前は「ドライドック・レストラン」。

食堂だけにしては広すぎないか?と思ったら、それだけでなく、
オーディトリウム、つまりコンサートもできるようなホールと

ボウリングのレーン

があるんだそうです。
いくら広いからってなんでもかんでも作ってんじゃねー。



さて、いよいよ建物の中に入っていくことにしましょう。
「Whaeshe hall」といい、アメリカの大学らしく、卒業生が
建築費を寄付して自分の名前を冠したものだとわかるのですが、ここには
アドミッションつまり入学事務局と図書室、そして博物館があります。

ホールには大変気合の入った模型がこれでもかと飾られております。
まずこれは

U.S.C.G.C.ダラス(WHEC-716)


USCGC 、というのは
「U. S. Coast Guard Cutter」の意。
昔、「税収カッター艦隊」であったころの名残で、いまでも沿岸警備隊では
船のことをシップと言わずカッターとかたくなに?称しているのです。

これも、最初にコーストガードの発祥について
博物館で説明を聞いていなければわからなかったことです。




さて、ところでわたしは自衛隊と旧海軍の艦艇には少しだけ詳しく、

米海軍の艦艇についてもその関係でさらに少しだけ知っているのですが、
沿岸警備隊となると「ハミルトンクラス」とか言われても、大きさすらわかりません。

そこで、「ダラス」の3000トンというのを基準に調べてみました。
ちなみに3000トンクラスだと、全長は115mといったところです。

「たかなみ」型4,560トン、「あきづき」型5,050トン。

(「あきづき」型って、こんなに大きな駆逐艦だったんだ)

「はつゆき」型、「たかつき」型は3,050トンですが、全長は130m以上もあります。
あの「わかば」は全長100mだけど1350トンしかなかったというし・・・。

そこでふと、

「海上保安庁の巡視艇なら用途が同じなのだから同じようなクラスがあるのでは」

と思い、検索をかけてみましたら、

こじま(JCG Kojima, PL-21)

という、現在海保大学の練習船になっている船が、ほとんど同じ大きさでした。


沿岸警備隊のカッターの存在意義は基本的にパトロールと援護、災害派遣ですが、
「ダラス」の武装はオトーメララ、76mm銃、 25mmマシンガンなどで、
護衛艦なみの装備を持っており、ベトナム戦争の際には161回もの砲火支援によって
ベトコンの供給ルート、拠点、キャンプなどを破壊する任務を行っています。

キューバ難民、そしてハイチ難民の輸送、そしてスペースシャトル「チャレンジャー」の事故後、
捜索活動を行うなどの活動によって多くの叙勲をされ、2012年に退役しました。



U.S.C.G.C.「ビジラント」(WPC-154)

こちらはまさに海保の巡視船のような仕様。
1964年から69年にかけて作られた16隻のカッターの一つで、
乗組員は士官12名、乗員63名という規模です。

海上自衛隊でいうと、掃海艦(艇ではなく)より少しだけ乗員が多く、
船体もだいたい同じ大きさでしょうか。

このカッターは沿岸警備隊のカッターとして画期的なモデルで、
エンジンはアメリカの史上初めて導入されたディーゼルとタービンの混合(CODAG)。
荒天に強く、初めてヘリコプターのドックを搭載しました。

この巡視船にまつわる話といえば「クディルカ事件」があります。

1970年11月23日、アキンナーの西の大西洋上でリトアニア国籍の船員
シマス・クディルカが、ソビエト船からアメリカ沿岸警備隊のカッター、
つまりこの「ビジラント」に飛び込んで合衆国への亡命を図ったという事件です。

このとき、沿岸警備隊の第一管区司令ウィリアム・エリス少将は、
「ビジラント」にKGBエージェントを乗船させクディルカの逮捕をさせ、
アメリカ側から統一軍事法典違反として処分されてしまっています。

ビジラントというのは用心深い、という意味がありますが、
エリス少将はもうすこしソ連に対し用心深くなくてはいけなかったということです。 

最後の模型は

U.S.C.G.C.スペンサー(WMEC-905)

1986年に引き渡され、現在も現役のカッターです。

排水量1,800トン、全長82 m、海保に「くにがみ」型巡視艇というのがありますが、
ちょうどこれと同じくらいのサイズかもしれません。


アメリカの沿岸警備隊の重要な任務には、不法入国者の送還というのがあります。

この「スペンサー」もキューバから流れ込んだハイチ人を大量に送り返したことがあります。
その200人余りのハイチ人たちがボートで漂流していたのを発見し、
保護したのも、ほかでもない、沿岸警備隊のカッターでした。

そして、もう一つの重要な任務が、麻薬船の摘発です。

「スペンサー」は一度は大量のマリファナ、一度は大量のコカインを積んだ船を拿捕し
これを押収するという戦功?をあげています。



続きます。


 


コーストガード・アカデミー(米国沿岸警備隊士官学校)

2016-07-13 | アメリカ

原子力潜水艦「ノーチラス」に行く道をグーグルマップで見ていて、
ふとニューロンドンのテムズ川沿い、潜水艦基地のほぼ対岸に
コーストガード・アカデミーがあるのに気付きました。

コーストガード、すなわち沿岸警備隊の士官養成学校です。

沿岸警備隊はアメリカにおける「第五の軍」という位置付けであり、
ちゃんと軍組織としての系統によって成り立っています。
ただし、この「第五」という意味は「準軍事組織」を意味するものでもあります。

アメリカという国が「うまい」と思うのは、沿岸警備隊だからと言って
何処かの国のように別の階級を作ったりせず、陸海空海兵隊と全く同じように
士官の階級もアドミラルから始まって准士官以上は大統領名で任命されることです。
第五の軍でも軍組織と同様に国が扱うことは、その団体の士気と誇りにつながります。

まあ、国のために命をかけることが存在意義である自国の軍組織に向かって、


「うちが政権とったら憲法違反のおめーらは廃止するけど災害の時には当分利用する」

と言い放つ党首がいるような何処かの国だけがきっと異常なのでしょうけど。

恣意さん(仮名)は、こんなことまで政治家から言われる自衛官、自衛隊員たちの
士気とかプライドについて、一度でも思いを巡らせたことがあるのでしょうか。
 



さて、さらにコーストガードアカデミーのところに「コーストガードアカデミーミュージアム」

という表示を目ざとく見つけたわたしは、さっそくHPを探してみました。 

すると、学校の中にあるその博物館は、一般に公開されているけれど、外国人は

前もって見学を電話でキュレーターに申し込んでください、とあります。

電話をするとジェニファーというキュレーターの女性は、メールで連絡を取るようにいい、
そこで翌日の見学を申し込むと、

「 明日は”ニュー・カデット”が午前中見学に来て忙しいので、
明後日の方がいいかもしれない」

ニュー・カデット、つまり新士官候補生のことですね。
今はまだ入学時期ではないはずなので、9月に入学してくる
未来の士官候補生たちがオリエーテーションでも行うのだろうか、と思ったら、
あとでHPを見ると、よりによってこの日は、2020年クラス、
つまり今年入学の学生だけでなく、彼らの友人や家族が学校を見に来る、
オープンキャンパスのような特別な日だったみたいです。

そこでわたしたちは、先に潜水艦博物館を見学したというわけです。

開けて次の日、わたしたちは昨日と同じ道を通ってニューロンドンに向かい、
テムズ川の川向かいにあるコーストガードアカデミーに到着しました。
対応してくれたジェニファーさんとの待ち合わせは10時半。
コーストガードでも海軍5分前というのがあるのかどうかは知りませんが、
ナーバル関係であれば時間厳守は基本、待ち合わせているのに遅刻は絶対になりません。



「国旗が見えてきた」

「いよいよですなあ」

一応交通事情で遅れるかもしれない、とは言っておきましたが、
実際にはこの門の前に着いたのは10時20分でした。



おおここが間違いなくコーストガードアカデミー。
1876年、マサチューセッツのベッドフォード設立されたときには

Revenue Cutter Service School of Instruction 

という名前でした。
Revenueというのは” 税収”という意味がありますが、どういうことかというと、
もともと沿岸警備隊が税務省の傘下にあった、

United States Revenue Cutter Service」(税関『艇』局)

という組織であったからです。

で、この"revenue"、「税収」がなんでコーストガードの最初の名前についていたかです。


アメリカは独立戦争後、大変脆弱な状態でした。

独立の燃えるような興奮は、いきなり冷たい現実に直面します。
建国の父も空っぽの歳費で政府を創建せねばなりませんでした。
それどころか戦争で70万ドルの借金が残っています。

政治的独立を確保するためには財政的な独立をせねばなりませんが、
駆け出しのアメリカ経済は途方もないプレッシャー下にありました。
頼みの綱の植民地経済も、
商船が弱体化してしまっているので動きません。
さらには生産業もまだ未熟で、国内には輸入品ばかりが溢れている状態でした。


ここで登場するのがアレキサンダー・ハミルトンという財務省の長官。
日本人には馴染みがありませんが、アメリカ人なら誰でも知っているの建国の父の一人で、
この時期の経済を立て直し、憲法を実際に起草した人です。

この人の考えた大胆な経済政策とは、外国とアメリカの商品、
そして船舶に関税とトン数による税金を掛けて税収にすることでした。
つまりこれによって税収と国内産業の保護を一気に推し進めようとしたのです。

そこでハミルトンは議会に10のカッターを購入することを要求し、その乗員である、
80人の成人男性と20人の子供(!)からなる艦隊に関税と税金をかけました。

このカッター艦隊には名前がなく、

「The cutters」「revenue cutters」
「system of cutters」「revenue marine」

などと呼ばれていましたが、
1863年に正式に

「Revenue Cutter Service」

という名称になったというわけです。


その3年後には専門の乗員を養成する学校が生まれたのですが、それが

「Revenue Cutter Service School of Instruction」


という名前になった、ということなんですね。


つまり「税の徴収が目的で作られた船」という意味だったということになります。


さて、そしてゲートに到着したわたしの運転する車。
ジェニファーからは、


「正門を入るときにミュージアムに来た、と言わないと入れてくれないから」

と言われていたので、ドキドキしながらチェックを受けます。
前もって言われていたので、パスポート持参で来たわけですが、
免許証を見せてください、と言われてわたしが国際免許を見せると、

こんなんじゃなくて、あなたの国の免許証」

と言われました。

・・・・・デジャブかな?

最近全く同じやり取りを、川の向こうで24時間以内にした覚えがあるなあ。
それなら懲りもせず役立たずの国際免許をなぜ見せたし、という説もありますが。

二人の警衛がいましたが、国際免許の代わりに国内免許を渡すと、
受け取った方がもう一人に

「チャイニーズキャラクターで書かれてあっても読めんわw」

と小さな声でぼやいていました。
ごめんよ役立たずの免許証で。

二人ともパスポートを見せ、同盟国から来た観光客であることを無事証明すると、
通路に沿って突き当たりまで車で行くように指示されました。

「案外緩い感じだね」

「まあ、学校組織だし

言いながら、ゆっくりと校内を車で進んでいきます。



なんて優雅な渡り廊下なんでしょうか。
風格があってエレガント。

まるで古い大学か図書館のようですが、軍関係の教育機関なので
ところどころに古い銃が飾ってあったりします。



中庭を通して向こうには学生舎らしい窓のたくさんある建物が。
幾つかの窓は開いているので、どうも中に誰かいるようです。


ちなみに今の学校名ですが、1914年に、「Revenue Cutter Service School of Instruction」
から「Revenue Cutter academy」となり、翌年に、「救命部隊」と合併して
「コーストガード・アカデミー」になり現在に至ります。

 ようやくここで「Revenue Cutter」の名前から逃れられた?というわけですね。



進んでいくと、なんと、カデットたちが訓練中だ!

、訓練してるよ〜!写真!写真撮りたい〜!」

あせっておろおろするわたし。
たった今車を止めてデジカメを望遠レンズつけたNikon1に持ち替えたい、
そしてアップにしてカデットを撮りまくりたい、とこの瞬間どれだけ切望したことか。

しかし、一応軍学校の訓練を車を停めて見たり、望遠レンズで写真を撮っていたら、
しかもそれが怪しい東洋人だったりしたら、どこからともなく怖い人がやってきて、


ちょっとこちらへ・・・」

と別室に連れて行かれてあれこれ尋問されるのではないか、
という懸念がふりはらえず、結局はのろのろと車を動かしながら
デジカメで一枚写真を撮るのが限界でした。

後で考えたら、別に車を止めるくらいは良かったんだろうなあ。



20人くらいが小隊となって、順番に訓練を行っている模様。



アップしてみる。
ネイビー一色の作業服、これはいいものですねえ。

遠目に見ても女性が混じっているのがわかります。

ちなみに、現在のコーストガードアカデミーの校長は
メリッサ・リベラ大佐というヒスパニック系の女性です。

もともと5人から10人が1クラスであったという士官学校ですから、
いまでもそんなにたくさんの学生がいるわけではないようです。
食堂のおばちゃんが毎日全員にクッキーを焼けるくらいしかいない、
と何処かで読んだ気がしますが、学生7人に対して教師は一人、
1クラスが14人というのがいまの平均値だということです。

防衛大学校のように、ここでも隊の制度が取られていて、
アルファ、ブラボー、チャーリー、デルタ、フォックストロット、
ゴルフ、ホテルという「カンパニー」に分けられるということです。

わたしなら「ゴルフ」とか「ホテル」に配属されたら少しがっかりするかもしれない。



こちら銃を持ったまま「休め」の人たち。
二人の「教官」が彼らの姿勢をチェックしています。



突き当たりまで行け、と言われても、広すぎてどこが突き当たりかわからないんですが。
とにかく駐車場らしきところに来たので車を停めて降りてみました。

浮灯台みたいなのが飾ってあります。
鐘らしきものに「 USL」と「1936」という文字が刻印してあります。



日本で何処かを訪問するという話になると、必ず駐車場の確保を申請したり、
車のナンバーや車種を申告したりという面倒な話になるものですが、
アメリカのありがたいところは都市部以外基本車の駐車にお金がいらないことです。

まあ、どこにいっても土地が余るほどあるからですね。

これなら、士官候補生も自分の車を置いておけるのではないかと思われます。



これもわからないけどきっと船に関係ある灯に違いない。


 
米国沿岸警備隊士官学校、と書かれた建物。
ここに博物館があるにちがいない!と見当をつけ、入っていくことにしました。 

時に時間10時25分。
きっかり海軍5分前に現場に到着したわたしたちです。

さて、ここではどんな体験が待っているのでしょうか。


続く。