ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

年忘れネイビー・ギャラリー

2010-12-31 | 海軍
今日で2010年も終わり。
今年始めた海軍好きのブログも、無事に年を越す運びとなりました。
見てくださったみなさん、コメントを下さった方、まことにありがとうございます。

一度使うと二度と使用しないことの多い画像を、お蔵出ししてきました。
まとめてご鑑賞ください。

笹井醇一中尉
エリス中尉の永遠の憧れ、海軍に傾倒するきっかけとなった方。
兵学校時代のものから一番たくさん描いていますが、ツールの使い方に慣れてきたこの笹井中尉が一番気にいっています。

                        志賀淑雄少佐
                         この肖像も、ブログ開始前に描いた鉛筆画です。ブログを始めてしばらくしてからお絵かきツールの存在に気が付き、使い始めたのですが、このころはスケッチをスキャナでクロップすることしか知りませんでした。
志賀少佐の絵は、このほかに全身像を描いています。

鴛渕孝大尉これも鉛筆スケッチ。参考画像に鮮明なものがなく、このスケッチにも大変苦労しました。その後、鮮明なものを見つけたのですが、鴛渕大尉はどの写真もほっぺたがぷくっとしていて、どちらかというと、かわいらしく写っています。
実際は男が見てもほれぼれするくらいのナイスボーイだったという伝説が数多く残されています。

             武藤金義少尉ツールを使って似顔を書き始めた頃の絵。やっぱり、あまり使い慣れていないので、線が稚拙ですね。この武藤少尉のもとになった画像も、不鮮明なので、そのせいもありますが・・・まあ、言い訳です。

初めてツールを使った似顔でマシだと思われる出来だった画像。
杉田上飛曹は、実に絵になる顔をしています。面魂、とでもいうような。
杉田庄一上飛曹

大野竹好中尉大野中尉のこの写真も、隊の団体写真の拡大なので、何しろ画像が粗い。どんなに頑張っても、こんなかんじになってしまいました。
大野中尉にも思い入れがあるので、海兵時代に始まって、「もしかしたらこれ大野中尉?」と思われるもの、さらにルンガ沖海戦の団体写真(敬礼している姿)も描きました。第三種軍装のお姿も見つけたので、またいつか描くかもしれません。

      土方敏夫大尉これは、元画像が非常に光線の強いところで撮られていて、明暗がはっきりしているので描きやすかったです。ナイスショットですね。

小園安名大佐(中尉時代)
若かりし頃の小園中尉があまりにもイケメンなので、驚いて描いてしまいました。
どうしてこの人がああなるの?
それとも、この写真だけが特別にこういう感じに写っているだけなの?
謎は深まるばかりです。

岩本徹三少尉元写真はこれほどニコニコしていません。ただ、まぶしいところで撮られたようで、目を細めているのでこういう表情になったもののようです。
下士官でありながら決して長髪を止めなかった岩本中尉、ダンディです。
その雰囲気といい、実力といい、坊主にするのも、特攻も断固拒否しても誰もそれを認めたというくらい、強い自我を持ち、上官すら飲まれてしまうような男だったのでしょう。

                川真田勝敏中尉川真田中尉についてまとまって書かれたものがないので、あえて取り上げさせていただきました。「零戦隊長」(光人社、神立尚紀氏著)には川真田中尉の戦死直前の部隊での様子が詳しく描かれています。非常に特徴のある男前ぶりに、どの写真を見ても目を奪われます。最近少尉任官時の立ち姿の写真を手に入れました。海兵同期の親友の方の随筆に書かれていた「ああ戦友」という軍歌の全歌詞も手に入れました。それについてはまたいつか書きます。



坂井三郎中尉と西沢廣義中尉


抱腹絶倒?のマーティン・ケイデン作「サムライ!」の翻訳を(涙を流しながら)したときに、
豊橋で再会した二人の画像を描きました。
この写真の西沢飛曹長は、非常に渋い男前に写っています。
どちらも煙草好きだったそうですが、西沢飛曹長の手には煙草があります。

宮野善治郎大尉と若尾晃大尉
たった一つ、プレーン姿のネイビー二人。この写真は、三人の同期で来て撮りっこしたようです。これはレス(料亭)「なるみ」でしょうか。兵学校卒の飛行学生は、霞空の飛行教程を卒業した後専修が決まりますが、実用機課程は戦闘機が大分で他は宇佐。このころはまだ各クラスの戦闘機専修の数はそう多くなかったころです。(67期から11名に増えた)当時飛行学生の大部分は熱烈な戦闘機志望であったといいますから、この二人もまた専攻が決まったときは欣喜雀躍したのではなかったでしょうか。
彼ら飛行機乗り士官はこの「なるみ」や旅館「杉の井」などで大いに羽を伸ばしたそうです。

森岡寛大尉


今でもしばしば検索のある森岡大尉の記事。この頃の大尉は髭を生やしています。
まだ分隊長の荒木俊士大尉(海兵六七期)が戦死していない頃に撮られた隊の写真では髭はありません。
義手を付け、実戦隊長として再出発するにあたっての決意の表れだったのでしょうか。
森岡大尉は、戦後会計士になられました。
生存搭乗員のなかでも人望の厚い方だったそうです。


野中五郎少佐
ご存知野中親分の軍服姿。巷間伝えられる野中像には実にいろんな側面が見え隠れし、多面的な人格をお持ちだったのではないかと思っているのですが、写真では野中少佐は実にノーブルです。

天山艦攻の雄、肥田大尉。
おそらくご自宅だと思いますが、英霊を慰める碑を建てられたという話をどこかで読んだことがあります。実に強運で、あの戦争を生き抜き、戦後も輝かしい人生を送って来られた肥田大尉。戦地で逢ったクラスメートと「いい男はみんな死んでしまったな」と言いあった(直後そのクラスメートも戦死)という話が忘れられません。
肥田真幸大尉

井上成美大将
ご存知井上大将です。阿川弘之氏の「井上成美」(いのうえ せいび)の、あまりの名作ゆえか、いつの間にか井上大将の大ファンになってしまいました。
きっと、実際に周りにいたら怖くて近寄れなかったと思うのですが。

淵田美津雄少佐(を演じた田村高廣)
映画「トラ!トラ!トラ!」からです。どうして、俳優さんを描くとこうマンガっぽくなってしまうのでしょうか。あまりに整った顔なので、線が単純になってしまうからでしょうか。
実際の淵田少佐もまた描くつもりをしていますが、この画像を描いていて思ったのは
「この人、キムタクに似ていないかい?」
そういえば、弟の田村正和のマネをしてましたね、キムタク。

 平林育郎中尉      胸が痛くなるほど幼い顔です。この天才的頭脳の持ち主は、見るからに優しげな、線の細い顔立ちをしていますが、文月砲術長の頃は、髭を立てていたそうです。軍人で髭を立てるのは年上の下士官兵にも甘く見られないために、という理由かもしれません。

駆逐艦「雷」艦長 工藤俊作中佐
「海の武士道」で知られた艦長です。画力がない上、細かいところが表現できないツール故、軍帽(礼装用)のところがよくわからない画像になってしまいました。

駆逐艦藤波艦長 松崎辰治中佐
駆逐艦藤波のことを書いた後、お父様の兄上が藤波に乗っていたという方からコメントをいただきました。大変畏れ多くも、お父様は初めてそのことを知ったということで、何度も読んでくださったということです。
もちろん私の努力など何もなく、靖国神社の会報から得た情報を、できるだけたくさんの方に観て欲しいと思い再構成して載せたにすぎないのですが・・・。
ブログをしていて本当に良かったと思えることの一つでした。
靖国皆行図書館の方からもお礼のメールをいただき恐縮です。


海兵時代の関行男大佐関大尉の特攻前に撮られた写真は、もうとっておきというか、いつ描こうかと楽しみにしている画像なのですが、まだ関大尉や敷島隊について勉強ができていないので、いずれそのうち、と思っています。
関大尉は背のすらりとした体型だったようですね。
佐々木原正夫少尉「なんて凛々しいんだろう」
ため息をついてしまった佐々木原少尉のこの写真、拳銃をテーマにしたときに描きました。
新庄浩大尉これも、まだツールの使い方を知らない頃の鉛筆画です。
新庄大尉の検索も驚くほど多いです。もしかしたら親族の方だったりして・・・・

千早猛彦大佐描いていて、この方は絶対に温厚な、暖かい人柄に違いない、と確信しました。知性を感じる眼の光、ゆったり背を持たせかけた姿勢も、実に悠揚迫らざる大人(たいじん)の趣を感じます。
           菅野直大尉
菅野大尉はブログ開始から何度かマンガを描いてきました。マンガは描いても、写真による画像が一つもなかったのにある日突然気が付き、この稿を描きました。いわば、菅野大尉の絵が描きたくてあげた稿といえましょう。
で、内容が「紫電改のタカ」にでてくる菅野大尉のことだし。


菅野大尉に限らず、ネイビーの画像は純粋に描いていてわくわくします。
彼らに対する敬愛が深いので、実に描く指に(筆に、ではありません。お絵かきツールは相変わらず中指一本で描いています。先日6人の画像を描いたときは終わり頃腱鞘炎になりかかっていました。しかしもう慣れてしまったので、おそらく今後も中指アートでしょう)熱がこもります。

ネイビーのことを語りたくて書いているのか、それとも彼らの画像が描きたくて書いているのか、ニワトリと卵のような関係。


しかし、ネイビーの似顔だけでこれだけ。
よく描いたなあ・・・。


しかし、並べてみると、まだまだ、という感をあらたにします。

来年も内容はもちろん、絵の方も精進いたしますので、どうかよろしくお願いします。















サンタクロースの仮眠室

2010-12-30 | つれづれなるままに

皆さん、お宅にサンタさんは来ましたか?

わが家には今年も来てくれました。
毎年毎年細心の注意を払って演出を凝らしている25日の朝、11歳にしていまだにサンタクロースの存在を信じている息子の夢を一年でも長く叶えてやるべく、今年も母は頑張りました。

誕生日に欲しいものがない、と言い切った息子、相変わらずカードゲームやベイブレードという名の「ベーゴマ」はちょこちょこ欲しがるのですが、プレゼントとなると今一つ物欲がなく、今年も
「何が欲しいの」
「早く言っておかないとサンタさんにも都合があるし」

などと12月に入ってからずっとさりげなく?意向を聞いていたのですが、全く返事無し。
もう、三日前になっても何も言わないので

「もう、サンタは今年はいなかった、でいいや」

と勝手にあきらめていたら、23日の夜。

「ポータル欲しい」

と言いだすではありませんか。

ポータルとは、パズルのようなゲームで、今大人気(たぶん)。
「遅ーい!言うの遅いよ」
「でも、オンラインで買えるよ」

HPを見ると、人にプレゼントすることはできるが、プレゼントする人にもアカウントが必要、とのこと。

「サンタさんがゲームのアカウント持ってるわけなかろうがっ!」
「う~ん・・・じゃ、このゲーム買うだけのお金(ドル)現金でもらってもいい?」
「うっ、それは・・・(ダメだと言いたいがもしかしたらそれしか方法がないかも)」
「パパに電話しよ!」

TОの留守電に息子、

「あのね、パパ?サンタさんのプレゼント決まったんだけど、メールしてくれる?
ポータルっていうゲーム買うお金現金ちょうだいって」

息子は、サンタさんにプレゼントを頼むのには、サンタクロース協会という秘密組織に依頼メールを出すのだと理解しています。

そして、サンタクロースはフィンランド人なのですが、英語が喋れ、25日深夜から一晩寝ないで配達業務に励むいわば「宅急便のお爺さん」だと思っています。

そして、24日の晩は、みんながパーティーをしているのにもかかわらず、深夜からの寝ずの労働に備えて仮眠をしているのだそうです。

「サンタクロースのか・み・ん・し・つ~」

という日本語の替え唄はそれから来ているのだということです。



さて、二日前に言いだすなよ、と頭を抱えたサンタ秘密組織の受付係たるエリス中尉、
彼の就寝後インターネットを検索。
なんと、アマゾンには日本語版のソフトが売っていて、それも24日の朝9時までに申し込めば当日中に配達してくれるということがわかりました
Amazonえらいぞ。


英語版は中古で2万2千円・・・却下。
日本語版でいいや。(日本語版も英語でプレイできることが後で判明)
完璧だ!

ところが24日、ディナーを食べに出かけたのですが、留守中に宅配がきてしまいました。
必死でクロネコのナカガワさんにこっそり電話するエリス中尉。
「なんとか今夜中に持ってきていただくわけには」
ナカガワ「配達終わっちゃったんですよ」
「そこをなんとか!息子のクリスマスプレゼントなんです」
ナカガワ「・・・深夜なんとか伺います」

ああ、ありがとうクロネコナカガワさん。あなたは神だ。いやサンタだ。


そして、25日の朝、自宅ベランダいつもの場所にサンタはプレゼントを置いていってくれました(画像)!


息子
「すげー。お金じゃなかった」
「お金はサンタ協会の規則に反するそうです。
子供のお金を取り上げてパチンコ代に使う悪い親もでてくるかもしれないから。
やっぱり子供手当なんて(略)」
さりげなく民主批判を欠かさないエリス中尉。

「カードが付いてる。英語で『日本語バージョンしかなかった』って。
なんか変な英語だなあ
(ぎくっ)
「あ。ああ、サンタさんフィンランド人だからねえ英語へたなんだよきっと」

大喜びで開けたところゲームはウィンドウズ対応。
息子はゲームをマックでします。

「使えないよ」
「うーん、サンタクロース、ハズしたか」
サンタはかつて一度外したことがあり、それは息子が全く意向を示さなかったため隙を見てデパートで買ったおもちゃが全く気にいらないものだったというものなのですが、今年もまた・・

しかしその後、マック用にインストールできるパスワードが説明書に書いてあることが判明。

「サンタすげー」
「(ほっ)はずさなかったようだな今年は」


というわけで、今年も息子はサンタが実在するということを疑わず、我が家のクリスマスは無事終了。


11歳の頃、わたしはサンタクロースを信じてたっけ。
いや、もうとっくにそんなものはいないと思っていたような気がするなあ。

しかし、息子は生まれたときからインターネットが普通に存在し、わたしが子どもの頃にはありえないと思ったマジックのような通信方法が当たり前に存在する世界に生きています。

サンタクロースの存在も、あらゆることが起こりうる電子の海の中では何ら不思議と思えないのでしょう。
逆説のようですが、息子はフェアリーテールが実現する空間を全く疑っていないのです。








殿下クラス

2010-12-29 | 海軍




36、37、45、46、49、52、53、54、62、71、75、77期。

海軍兵学校において上記のクラスは「殿下クラス」と呼ばれました。
一人あるいは二人の皇族が在籍なさっていたクラスです。


徴兵制施行以降、ノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)として、皇族の方々が軍に籍を置くことが明治天皇の「皇族は自今海陸軍に従軍すべし」という御沙汰により定められました。
帝国海軍の時代には、海軍は「天皇の海軍」であったからです。
巡洋艦以上の艦艇には英語で

HMIS      His Majesutic Imperial Ship

その後に艦名―Mikasa などと書かれ、艦首には菊の御紋章が付けられたのです。

明治6年から終戦までに兵学校に学ばれた皇族は一九名。

今日はこの兵学校における皇族についてお話します。

基本的に皇族の男子子弟は、その年齢に達するとその宮家当主から天皇に
「○○を海兵に(陸幼に)入校させたいと思いますが如何でしょうか」
との趣旨の文書が送られ、それを受けて宮内大臣が
「然るべく取り計らってくれ」と海軍大臣(陸軍大臣)に文書で伝えます。
その後海軍大臣は宮内大臣に承諾の文書を送るという手順で皇族の入校が決まりました。


入学は無試験で認められました。
しかし、唯一の例外が
北白川宮輝久王
が一般受験で入学したということです。
この一般受験には、海軍当局が前例になると困る、と反対したのにもかかわらず、母親の富子妃が強くそれを主張したのだそうです。

母親がそう言うだけあって、王は学習院では成績は常にトップクラスだったそうですが、それでも一般受験に備えて二年間の猛勉強をし37期の合格者180人中160番で合格しました。

学力的に自信のあった王でさえこの順位に甘んじなければならないほど、兵学校は俊秀の精鋭集団であったことが分かりますが、無試験でその中に入った皇族の子弟は、学力はもちろん、体力的にもみんなについていくのは大変なことであったようです。

そういうことも踏まえて、まさに腫れものを扱うように兵学校では皇族の子弟を扱わなくてはいけませんでした。
特に体力面での問題は、一般生徒と同じ扱いにすることは本人の希望であっても不可能でした。
特別の宿舎で起居し、特に虚弱であった東伏見宮依仁親王(明治8年兵学寮通学)は半熟卵を二個供されていましたし、伏見宮博恭王(明治一八年兵学校予科通学)はあの有名な医師のエルウィン・フォン・ベルツに診断され「体力不十分」の結果を受けてドイツ留学が遅らされています。


ここで全くどうでもいい自慢話ですが、エリス中尉はこのベルツ医師の子孫と知り合いで、彼に『毎日が地獄です』と書かれた別府地獄温泉のTシャツをプレゼントしました。
(拙ブログ『大学の神様』参照)

さて、賀陽宮治憲王かやのみやはるのり(兵七五期)が入学時、校長はあの井上成美校長でした。
「殿下は決して一般の海軍将校にお成り遊ばすのではございません。『皇族のお生まれである海軍将校』にお成り遊ばすのでございます」
高貴な身分にはそれ相応の責任が付随するとの達示をし、厳しくその立場を説いたわけですが、テニス、ピアノ、ビリヤード、ブリッジ、英語を職員の中から選抜された教師に習うことも広い教養をつけるためで「遊びや慰みのつもりでやってもらっては困ります」
とくぎを刺されます。

因みに、ピアノは技術中尉からバイエル教本を習ったそうです。
全くの初心者だったということですが、ピアノも海軍将校皇族の教養の一環と考えたのが井上校長らしいですね。

ある日指導部官との江田内セイリングで突風にあおられた舟から王は海に転落してずぶぬれになりますが、井上校長の言ったのは
「たまには海水を飲ませて潮気をつけ、うんとお鍛え申し上げたほうがいい」
この治憲王は体力的にもそこそこのレベルだったようで、ついてこれると判断したのでしょう。

義務として兵学校に入ってくる少年皇族たちが、普通レベル以上の体力、知力を備えているとは限らない。
ここに悩ましい問題がありました。

素行面でも中には「悪い友達と付き合われる」皇族もいたようです。
これはあの高松宮宣仁殿下の日記に「後輩のこと」として書かれていたそうで、当時宮と同時期に在学していた殿下は伏見宮博信王と山階宮萩麿王です。

殿下生徒の扱いについてはときとして宮家からの干渉を免れませんでした。
たとえば博恭王が、他の生徒がしているようにライスカレーやシチューをご飯とぐちゃぐちゃに混ぜてお食べになったところ、
「お躾け上よろしくない」と学校に抗議が来ました。

「どうしろっていうんだ」
きっと学校当局はうんざりしたことと思われます。

先ほどの治憲王ですが、レンコンを見たことがなかったらしく、学友に
「これは何かね」とお聞きになり
「レンコンです」というと、しばらく見つめて
「気味が悪いね」
とお食べにならなかったとのこと。


さて、殿下のクラスメート「ご学友」はどうだったでしょうか。
(四元)志賀淑雄生徒(六二期、後の志賀少佐)はクラスメートの殿下の「面倒見係」を任されていました。
やはりご学友の選定には学校側も頭を悩ませたようで、学習院出身者を混ぜたり、成績は必ずしも優秀というわけではなくとも良家の出で穏やかで上品な雰囲気の生徒が選ばれていた傾向にあるようです。
同級生なら付き合い方にそう悩むこともなかったと思いますが、困ったのは上級生。
鉄拳制裁を是とするクラスにとって、下級生に殿下がいるということは何かと気を使うことだったでしょう。

七三期の一号が、指を丸めたまま(歩くときに背を丸めたり指を伸ばさないと指導が入った)通り過ぎた三号を見咎めました。
「そこの三号、指を伸ばせ」
と言っているのにしれっとして歩いている。
一号は問答無用と後ろから突き飛ばし

「貴様はー!」

と前に回って名札を見れば、それはよもや自分が一号から怒鳴られているとは夢にも思っていなかった殿下。
(賀陽宮治憲王、七五期)
おまけに王はカッター訓練で手の皮をむいてしまい指が伸ばせなかったのです。

しかし、そこですぐにお達示を撤回しては将校生徒の名折れ。
歯切れも悪くお達示をし、翌日

「殿下の指がそのような状態とは知らず修正してしまいすみませんでした」

と謝りに行きました。
今までおそらく人に怒鳴られたり突き飛ばされたりしたことなど一度もなかったであろう殿下、このときはこの一号生徒が深々と頭を下げている間、ずっと敬礼をなさっておられたそうです。



さて、殿下をどの程度兵学校の荒々しい行事に参加させるか。
この辺りも学校側には頭の痛い問題であったようです。
普通の生徒なら問答無用でスパルタ式訓練を施せても、入学の段階で体力的にそのレベルに達していないような殿下は、様々配慮がなされていました。

そもそも「地獄の姓名申告」「起床動作訓練」すらさせられません。

起床動作については、近隣の特別宿舎で起居していた殿下がある日
「誰が(起床動作が)早いか、わかったよ」
とおっしゃったそうで、これは動作終了とともに名前を申告するのを聞いておられたのだそうです。

そして、皆さん、思いませんか?
「荒っぽい棒倒しに殿下が参加できたのか?」と。


そう、本日画像は実話。
棒倒しに参加する殿下も何人かおられました。
おそらく、殿下の周りは何となく真空状態であったのではと想像されるのですが、実は棒倒しで怪我をした殿下もいたそうなので、案外夢中でやってるうちに
「俺殿下殴っちゃった」
となり、怯える生徒もいたのかもしれません。

この分隊監事は後の猪口力平大佐で、兵学校に奉職していたのが鴛渕孝大尉や大野竹好中尉がいた六八期在学中のことですから、この殿下は久慈宮徳彦王(七一期)のことと思われます。

徳彦王の御尊顔を存知あげないままお描きしてしまいました。
全く似ていなかったら申し訳ありません。って烏帽子被せてるし。

行き足のある分隊監事であった猪口監事、生徒に交じって棒倒しにも積極的に参加、果敢に敵チームの生徒を殴りつつ突進していました。
当時猪口監事は三六歳ですが、そのファイトに免じて若づくりな画像になってしまいました。
こちらも全く似ていないのですみません。
っていうか、これじゃまるで生徒ですね。

さて驀進しながら目前の生徒を殴ろうとしてはっと気付くと、
それは殿下。
慌てて隣の生徒に矛先を変えたそうです。


たとえ無礼講の棒倒しであっても監事が殿下を殴ったとあってはやはり問題になったのでしょうか。



参考:回想のネービーブルー 海軍兵学校連合クラス会編 元就出版社
   皇族と帝国陸海軍 浅見雅男 文春新書
   海軍おもしろ話 生出寿 徳間文庫
   海軍兵学校よもやま物語 生出寿 徳間文庫
   井上成美 阿川弘之 講談社
   江田島海軍兵学校 新人物往来社 














THE SOLIST~路上のチェリスト

2010-12-28 | 映画
統合失調症(精神分裂病)
内因性精神病と言われるものに属し、慢性の経過をたどることが多い病気。
原因は遺伝子や胎生期から生後の環境因子も含めて、多くの因子が複雑に絡み合って病気が形成されると考えられている。
症状は幻聴(自分の噂話が聞こえる)被害妄想(悪口を言われている、狙われているなど)関係妄想(テレビで自分のことを言っているなど)独り言、空笑、まとまらない行動などに表れる。




芸術家が統合失調症であったという例は数多く見られます。

有名なのは夏目漱石。
かれは胃病も患っていましたが、胃病が根本の原因ではないかと思われる統合失調症だったとみられ、たとえば小説の中に見られる
「人々が家の前を通り過ぎながら悪口を言っている」
などというのは典型的なその病状と言われています。
「ぼんやりした不安」という言葉を残して自殺した芥川龍之介は母親が出産後やはり精神分裂症を発病し、その影響もあったのでしょうか、ドッペルゲンガ―を見ることもあったそうです。
画家ではヴァン・ゴッホやエドアルト・ムンク。
どちらの絵にもその傾向が顕著に表れているそうです。


音楽家においても、シューマンが統合失調症が原因とみられる自殺を図ったのは有名ですし、チャイコフスキーも家庭の不和に悩んでいたとはいえ、精神を病んだ結果冬のネヴァ河に入水自殺を図ったりしています。

しかし、演奏家、特にクラシック音楽家でこの病気であったという実例はあまり報告されていません。



この映画は実話で、ロスアンジェルスタイムスの記者ロペス(ロバート・ダウニー・Jr.)が路上でたった2本しか弦の無いヴァイオリンを弾きこなすホームレスに興味を引かれ、彼がふと漏らした
「ジュリアード音楽院にいた」
という一言をきっかけに、ナサニエルというホームレスに深くかかわっていったという手記を元にしています。

記者ロペスは、彼を惹きつけたヴァイオリンではなく、ナサニエルの専攻がチェロであったことにさらに驚き、コラムにそのことを書きます。
それを読んだ篤志家の読者から使っていないチェロが届き、ナサニエルは震える手でケースを開け恍惚として路上でチェロを弾きます。(本日画像)


ジャーナリストとして彼に近づいたロペスが、その才能をもう一度陽のあたるところに引き出してやりたいと願うようになるのに時間はかかりませんでした。

シェルターに通わせ、小さなアパートを借りてやり、プロのレッスンを受けさせ・・・。


ナサニエルがジュリアードを中退して路上生活に入った原因は、統合失調症でした。
演奏中に人の声が聞こえ、音楽をしているとあたかも色聴(音を聞くと色が見えるという精神作用)のように映像が浮かぶ。
時としてそれは彼に強迫観念を与え、まともな社会生活さえ困難にするのです。
彼はその原因ともなる音楽から逃れんがための路上生活に甘んじていたのでした。


しかし、チェロを与え、生活を変えようとするロペスに「愛情」を感じるに至り、ナサニエルは手を引かれるように、チェロをまた始めます。
何かに怯えて、尻込みするように、少しずつ・・・・。



ここで、映画を見ている人は思うのでしょう。
この後「映画のように」ナサニエルが人々の前で素晴らしい演奏をし、世間は埋もれていた才能に驚き、友情が生んだ美しいサクセスストーリーはハッピーエンドを迎えると。


思い出していただきたいのですが、これは実話です。


胸のすくカタルシスや感動的なエンディングは、普通の実話には起こりにくいものなのです。
この映画に「オチ」「ネタバレ」はないと思っているので、結論から言うと、ロペスが企画したナサニエルのリサイタルは、ナサニエルの精神的崩壊によって失敗に終わります。

そもそもかれがジュリアードをやめた原因は妄想に返事してしまうような失調症の症状が、授業についていくことを不可能にしたからでした。



冒頭にあげた、統合失調症の有名人の中にクラシックの演奏家がいない、ということを今一度思い返していただきたいのです。

音楽という芸術、なかでも演奏という芸術が、人々の前に自分の姿をさらし、ある一定の決められた時間、さらに決められた楽譜に忠実にそのうえで自分を表現するという種類のものである限り、そして、時には一つの音楽を奏でる一員としてお互いの呼吸を聴きあうというものである限り、それは最小の社会生活の中で行われるといってよく、したがって統合失調症という病気の特性はそれを酷く困難にすると断じざるを得ないのです。



あっと驚く演奏によってナサニエルが路上のソリストから一転して表舞台にのし上がるというような「映画のような」結末は、此処にはありません。

映画の最後に至ってもナサニエルは「未だ精神状態は不安定」。
路上ではなく、鍵のついた部屋で暮らすようになり、少しずつ、ほんの少しずつですが音楽を演奏するに足る段階に進みつつある、
というところで話は終わります。

ロペスの言うところの「ナサニエルの見せた勇気」は、医学的に言うところの
「友情が脳を活性化させ」た最も大きな効果であったのかもしれませんが・・・。


ロペスと並んで幸せそうにオーケストラの奏でる音楽に身を委ねるナサニエルの姿を見ると、
「彼の選んだ道は彼自身にしか修正できない」
と思わざるを得ません。

彼にとって何が幸せかは彼にしかわからないのです。


路上で与えられたチェロをナサニエルが汚れた指で弾くシーンでは音楽に乗って数羽のハトがロスアンジェルスの街を飛翔します。

整然と車の並んだ巨大な駐車場の上を、幾何学的なフリーウェイのジャクションの上を。


映画のような結末は待っていなくても、
ナサニエルの魂が音楽によってこの羽ばたく瞬間だけで
この映画を観る喜びは全て達せられると言っていいかもしれません。


そして、シェルターに静かに集う孤独なホームレスたちの踊る姿にベートーヴェンの「エロイカ」が調和していることに、映画を観終わる頃には何の不思議も感じなくなっていました。












九年後の伊号第三十三号潜

2010-12-27 | 海軍
先日「総員起こし」という言葉を調べていて今日画像の戦史小説を知りました。
表紙の絵に、この悲劇の潜水艦の辿った運命が端的に表わされています。



伊号第三十三号潜は、1944年(昭和19年)6月13日、伊予灘で急速潜航訓練中に機関室に浸水、由利島付近60mの海底に着底。
木片が頭部弁に詰まったためと思われます。
復旧作業もうまくいかず、最後の脱出手段としてハッチを開放。
乗員2名(ハッチから脱出できたのは3名)が生還したが和田艦長以下102(92)名は死亡。


その九年後。


1953年(昭和28年)7月23日、船体の引き揚げが行われました。
浸水せずに残された一区画からは一三人の乗組員のまるで生きているかのような遺体が発見されました。


この「総員起シ」という小説は、ハッチが開けられてすぐ、ガスが抜けるのもそこそこに船室内に入り撮られたその写真を目にした作者が、その鮮烈な画像に衝撃を受け、それをもとに書き上げたものです。


ここで、伊三三潜の戦歴を簡単にまとめてみます。

昭和17年 6月10日 三菱神戸造船所にて竣工
            第一潜水戦隊第十五潜水隊に編入

      9月26日 ソロモン諸島トラックで修理中、事故により沈没、三カ月後引揚完了

昭和18年 3月14日 呉入港、修理

昭和19年 4月 1日 呉鎮守府部隊に編入その後 第十一潜水部隊に編入

      6月12日 伊予灘にて訓練中、事故により沈没


昭和28年 7月23日 引揚

      8月18日 解体開始


33潜が最初にソロモンで沈没したとき着底した水深33メートル。死亡者数33名
この数字にまつわる数字が偶然とはいえあまりに3やその倍数、三のつく数字に限られているため、大日本帝国海軍の潜水艦乗りにはこれらが不吉な数字として嫌われていたといいます。

伊予灘での沈没の際、自ら艦と運命を共にした艦長が
「生きてこの事故を証言してくれ」
といって、ハッチを開け、そこから脱出した何人かのうち、生還したのは二名。
そのうちの一人が、このように語っています。

当時から乗組んでいた下士官から「砲術長出るんですよ。夜中甲板を歩いていると海中に引きずり込まれそうに感じます」と聞いた事がある。


そして、伊三三潜最後の日、戦後八年を経て解体の際、前部魚雷発射室においてガス中毒で作業していた元海軍技術士官三名が亡くなるという事故が発生したそうです。


さて、まるで生きているかのような姿で発見された13人の船室からではなく、浸水して全ての遺体が白骨化していた別の区画からは、氷枕の中からや壁に油紙に包んで張られた遺書、事故を報告するメモが見つかりました。

乗組の大久保太郎中尉のメモには
「浅学非才ノ身ニシテ万全ノ処置ヲ取リ得ズ数多ノ部下ヲ殺ス 申シワケナシ」
という謝罪に始まり、事故原因(当直将校の判断ミス)の反省点から、最後まで努力を続ける覚悟が示されています。

彼らが自分たちの責任と感じ、ついに知ることのなかった事故原因は、わずか一五センチの木ぎれが動力部分に絡まったためでした。

事故発生から5時間は全員が生存していたとみられ、各々が最後まで気丈にその死を見つめながら過ごした様子が、見つかった遺書から明らかになりました。


一六四五 大久保分隊士の下に皇居遥拝、君が代、万歳三唱
一七三〇 大久保中尉以下三十一名元気旺盛、全部遮水に従事せり
一八〇〇 総員元気なり。
     総てを尽くし今はただ時期の至るを待つのみ。
     誰ひとりとして淋しき顔をする者なく、お互いに最後を語り続ける



ここに残された遺書については、この小説中に詳しいのですが、最後まで皆が冗談を言い合い、中には遺書にまで冗談ともとれる独白を残したものがいました。

「小生在世中は女との関係無之。為念」

「妹よ、俺も元気だと言ひたいが、もう駄目だ」

「皆騒ぐな、往生せい」


彼らの遺体が九年間の間、まるで生きているような状態で「保存」されていたのには、海水を遮断された区割りの酸素が吸いつくされ、したがって雑菌の繁殖が進まない「無菌状態」が保たれていたこと、そして水深61mの海底で低温状態であったことだろうと言われています。


最初に彼らの写真を撮ったカメラマンは全員が各自の寝床に就寝しているようで
「まるで総員起こしといったら起きてきそうだった」
と語ったそうです。
しかし、その間にも空気に触れた遺体は入り口に近いものから急速に腐敗していきました。
検視にあたった軍関係者は
「決して遺族に遺体を見せないように」
と厳命したといいますから、その変化はすさまじいものだったのでしょう。
彼らが9年前の姿をとどめていたのは一瞬の間だけだったのです。


かつての戦友である二人の生存者のうち一人が眠れるがごときその頬を叩いて
「おい総員起こしだ」
と言った、というのは本当だったのでしょうか。




総員の中で、たった一人、おそらく最後に生き残って孤独に耐えられなくなった一人が区内で縊死していました。
この小説は、それを含む六葉の写真を見た経験を核に書かれています。
そして、このタイトルは、乗員が最後に言いあったという冗談から取られました。

一人の遺書にそれが書きとめられたのです。


「午前三時過ぎ記す。死に直面して何と落ち着いたものだ。冗談も飛ぶ、
もう総員起こしは永久になくなつたね




解体された伊三三潜の潜望鏡は保存されました。
現在渋谷区原宿の東郷神社境内でその慰霊碑とともに見ることができます。




参考:「総員起シ」吉村昭 文春文庫
   ウィキペディア フリー電子辞書より
   ASAHInet
   なにわ会ニュース77号 平成9年9月掲載























前線のクリスマスキャロル~映画「戦場のアリア」

2010-12-24 | 映画

ヨーロッパには戦史には載らない、このような話が人々の口から口へ伝わっているそうです。

第一次世界大戦下の1914年。
前線でにらみ合っていた独仏英(スコットランド)の兵隊が、12月24日の夜、
停戦したうえ、一緒に歌を歌い、ミサを聴き、互いに歓談した・・・。


この映画は、あちこちに伝わるその伝承を綴って一つのストーリーにまとめたものです。
互いの壕でにらみ合ううち、スコットランド軍がバグパイプの演奏で自国の民謡を演奏し始め、兵がそれに和します。

(バグパイプ軍楽兵というのがいたんですね。喇叭隊のように突撃のときも演奏したのでしょうか。
因みにこの軍楽兵、氷点下の戦線でキルトスカート姿。さぞ寒かったのでは)

それを聞いて、ドイツ軍のオペラ歌手が「清しこの夜」を―もちろんドイツ語で―唄いながら、ツリーを持って中間地点まで歩み始めます。

それに答えるバグパイプ兵。
曲は「神の御子は今宵しも」に代わり、全員の合唱になり、皆はおずおずと壕から出て、
いつの間にか手を取り合い、酒を酌み交わしているのでした。


なんて感動的な話でしょうか。


・・・・と、書くからには、今までの例から言ってもこのひねくれものは絶対にこの後ケチをつける気だな、
とピンときたあなた、あなたは正しい。

事実は小説より奇なり、事実に勝る感動なし。
この言葉の通り、この「敵国軍と共にクリスマスを祝った話」は、限りなく感動的で、戦争の虚しさを
―あまつさえ、同じキリスト教国同士で行われる殺戮の愚かさとやりきれなさを、
どんな反戦物語より強く訴える逸話です。

その、おそらくヨーロッパ各地の親から子へ、祖父から孫へと伝えられた美しい話を、
この映画ははっきり言ってむちゃくちゃにしてしまいました。

そりゃ言い過ぎだ、って?

いや、言わせてもらいますが、この映画の失敗の原因は、よくある話ですが
「華添え女優の起用」です。

戦争映画に流行りの女優を使うな!
客を呼ぶためにしょーも無い絡みをさせるな!

と、いつもいつも腹立たしく思っていることが、この映画ではピンポイントで行われます。

この映画の画像なり、トレーラーなり、そういうものを見た人は

「にらみ合う前線で美人の歌うアリアが兵士のこころを結び付けた奇跡と感動の映画」

と思ってしまうのではないでしょうか。
この美人がダイアン・クルーガー。
今人気のドイツ人美人女優です。

しかし、はっきり言ってこの美人は余計。
そもそも兵士が歩み寄るきっかけになったのは、彼女の歌ではなく、彼女の夫(やはり歌手)の歌。
だってそうでしょうとも、最前線になんで美人歌手が?

これは、実にうざいことに、美人歌手が
「アナタとはなれたくないの。私は(有名歌手だから)国境を超えられるわ」
とかなんとかいって、無理やり夫にくっついて壕に押しかけて来たんです。
誰か一人くらい言ってやれ!足手まといだから帰れ。


彼女はこの夫の唄をきっかけに、敵味方を超えて美しく交流している最中、ちゃらちゃらと姿を現し
「なんでこんなところに女が?」
と驚く皆を尻目に、得意になってアリアを聴かせるのです。(悪意入ってます)
さらにこの女、
「皆のために歌わなければ」と崇高な覚悟を決めて前線に就いた夫をあろうことか
「逃げましょう!」(何故って死んだら怖いから?)
とそそのかし、またこの夫も情けないことにこの悪妻の尻に敷かれているらしく、
クリスマスに仲良くなったフランス軍の中隊長のところにのこのことついて行って言うのよ。
「捕虜にして下さい!」<(_ _)>(なぜなら、ドイツ軍にいると妻だけ帰らされてしまうから)

・・・・・勝手についてきて夫を一人だけ投降さすんかいっ。

いやまったく、男たちの美しい話の中で、この美人歌手の身勝手さがひときわ目立ってますよ。
自分のことしか考えとらんのかこのバカ女は?


と、「商業目的戦争映画の目論みキャスティングを撲滅する会」の会長であるところのエリス中尉は厳しくこの部分を断罪するものですが、この美人女優の出てくる部分以外は、さすがに実話をもとにしているだけあって、重みのある話ばかりです。


しかし、クリスマスイブに楽しく酒を酌み交わしているときから観ているエリス中尉の胸には激しい不安が。

「明日になったらどうなるのこの人たち?」

次の日になっても、どの軍も自分から攻撃しようなどという気になれず、三すくみ状態が続きます。
そして、ドイツ軍中隊長(画像真ん中)が
「そうだ!今日はクリスマスだから、散らばっている皆の遺体を埋葬しよう!」
とコーヒーを飲みながら(画像)提案し、ほっとした全軍はいそいそと?作業にかかります。
そして、国対抗でサッカーなぞ始めたりするのです。

おお、そういや三カ国とも強豪国ばかりじゃ。

しかし、このシーンを見ながら
「サッカーで決着をつけるわけにはいかんかったのか」
と思ったのはわたしだけでしょうか。

この後、申し訳のように戦闘が始まるのですが、兄を殺されて復讐に燃えるスコッチ兵以外はみんな腰引けまくり。
戦争になりません。
おまけに、この楽しかったクリスマスの一夜について、フランス兵も、スコットランド兵も、ドイツ兵も、みんなが故郷への手紙に書いてしまうのです。

おいおい・・・。

「大晦日にまた招待された。一緒に酒を飲むんだ。スコットランド兵は写真を見せてくれると・・・」
「あっという間に6点入れられた。何人かはバイエルンというチームにいたそうだ」
「司令部の馬鹿どもにみんなで乾杯だ」

そして、手紙を検閲されその夜のことがばれた彼らはそれぞれが「お仕置き」を受けます。

なかでもドイツ軍の一隊は、貨車でドイツ本土を通り抜け、別の前線に送られるのですが、故郷に立ち寄ることを許されません。
兵の持っていたハーモニカを踏みつぶし、あの日の罰であることを思い知らせる上層部。

しかし、貨車が動き出したときに彼らはハミングを始めます。
唄を封じることはできないからです。


あの日敵軍が唄っていた民謡を。
歌詞も知らないあの曲を。




繰り返しますが、ダイアン・クリューガーは余計。
この人の出演部分だけ無くせばいい映画と言ってもいいかと思います。

だいたい、同じ勝手なやつの話を入れるのなら、フランス側でネストール、ドイツ側でフェリックスと呼ばれて、両軍を行き来してごはんをもらっていたネコの話で十分じゃ。



それでは取ってつけたように「ジョワイエ・ノエル」
(この映画の原題。フランス語でメリークリスマス)






総員起こし

2010-12-23 | 海軍



海軍生活の朝は「総員起こし」で始まります。

海軍兵学校の朝について何度か書きました。
カメラマンは就寝中の部屋に入らず、リモコンで生徒の寝顔と、総員起こしの瞬間を撮影したと、「メイキング・オブ・勝利の礎」の日に書きました。
起きるなり猛スピードで起床動作をおこなう、というのはもちろんのこと兵学校に限ったことではなく、海軍生活において朝は「総員起こし」で総員が飛び起きるのがきまり。

しかしこの言葉そのものは「起床」というだけの意味ではありません。
総員起こし(そういんおこし)そのものの意味は、組織の構成員を一気に総動員させること。

朝起床の意味での「総員起こし」は現在も海上自衛隊、海上保安学校で行われています。
海上自衛隊幹部候補生の生活のドキュメントDVDを見た話をしましたが、こちらでも同じようにその瞬間飛び起きるやいなや、パンツ一枚であたふた(と見えた)と用意を始め、毛布を畳んだりしてなんと起床後五分でグラウンドに整列しているんですわ。
うーん、兵学校のように顔洗いと歯磨きを先にさせた方がいいんではないか?
その方が体によさそう。
余計なお世話ですか?

陸さんのことは知りませんが、およそ軍隊というものは敵がやってきたときに起きてすぐ配置につかなければいけませんから、日頃からこのような起床法をしていました。
しかも、総員起こしの15分前、および5分前にはそれぞれ「総員起こし15分前」と「総員起こし5分前」の号令があったそうです。

ここで、寝床で心の準備をするんですね。
海兵団の実際でもう少し詳しく説明すると、起床十五分前になると
「総員起こし15分前」
という放送が流れます。
同時に電灯も点るので、それで目を覚まします。
といってもまだ服を着てはいけません。
襦袢と袴下だけで用便をすまし、吊床内の毛布を整頓したり括り綱を整えて、次に襲ってくる吊床訓練の用意をしてから、もう一度吊床に入って寝たふりをします。

「総員起こし、五分前」
全員吊床の中で息をころし、次の号令がスピーカーから発せられるのを、全神経を集中して待機するのです。

・・・・それにしても、毎朝毎朝、こんな緊張が続くんでしょうか。
 
そしていよいよ「総員起こし、総員吊床おさめ」
ここで、一日の最初の戦闘が始まるわけです。


それにしても、朝に弱い方、よく寝坊する方、思いませんか?
海軍に「お寝坊」はなかったのだろうか?と。
海軍というものが生まれて、そういう「不祥事」は一度もなかったんだろうか、と。

ご安心ください。それがあったのです。総員寝坊が。

本日画像は、実はちょっとした間違いがあります。
朝釣りをしていた司令が停泊中の他艦で「総員起こし」が始まったので、自分の艦が
「お寝坊」したことに気づいたのですが、画像では駆逐艦(それも雪風)で描いていますが、実は潜水艦。
絵を描いてから記事を確かめるのはやめよう。←自分に言っています

司令が釣りをしている寝坊艦は伊○潜です。

南洋の島に停泊中、前日は魚雷の実験発射で、皆が寝たのはかなり遅かったそうです。
で、当番が寝坊、総員起こしの号令をかける係も寝坊。
当然前夜寝るのが遅かった総員、寝坊。

他艦で総員起こしが始まったのに慌てた司令、自ら通信室に走り「総員起こし」
アナウンスを。

さすがに皆その声で飛び起きます。
「今のは司令の声だっ!」

発射管室でも、兵員室でも、士官室でもアワをくって起きた先任将校も、士官も、下士官も、兵もこそこそと上甲板に上がってきました。

この司令は、実験に立ち会わなかったのか、それとも若いみんなより睡眠時間が短くても済んだのでしょうか。
なぜか一人で総員起こし前に釣りをしていたわけですが、この司令、謹厳で有名だった方にもかかわらず、この件で「総員お咎め」を課すことはなかったとか。

みんなが前夜頑張っていたのに免じてお目こぼしをしたのでしょうか。











映画 大空のサムライの特撮魂

2010-12-21 | 映画

  映画「大空のサムライ」より笹井醇一中尉(志垣太郎)



うーん、この笹井中尉、濃い。暑い。
主役の藤岡弘と一緒だと暑苦しさ倍増。
もうその話はええって?

志垣太郎のデビューって「巨人の星」の星飛雄馬役だったって知ってます?
配役の決め手はこの眉毛であった、に一票。

映画にありがちなことなのですが、笹井中尉、最初から最後までがっつりと第三種軍装に身を固めっぱなし。
そういう意味だけでも暑苦しい。なんたってここラバウルなんですから・・・。
映画って、こういうところにリアリティがないですよね。
実際の笹井中尉はほとんどシャツ姿(第二ボタンまで全開)で過ごしていたようです。

笹井中尉亡きあとのラバウルで司令部始め大野中尉、川添中尉、馬場中尉、山口中尉といった士官が
全員おそろいでこの陸戦服をきっちりと着用して写っている集団写真があります。
もしこの写真に収まることがあったら笹井中尉もこの三種軍服姿を残していたのでしょうが・・・。

さて、前回配役、脚本についての感想を書きました。
今日は特撮技術と参りましょう。
あ、音楽もね。

 
「東京上空三〇秒」
という1944年アメリカ制作の映画で特撮が当時としては優れていた、という話をしました。
この映画は、特撮監督に当時新進気鋭だった川北紘一を起用。
「東京」とは比べ物にならないくらい空撮シーンに途轍もない比重が込められた撮影となっています。

この川北紘一氏は円谷プロで研鑽を積み評価されていた助手で、この映画が特技監督としてのデビューです。
会社は当初この映画の特撮に零戦のミニチュアを使うことに難色を示したらしいのですが、
それを押し切ってラジコン模型での撮影で効果をあげました。

この映画の空戦シーンは、そのすべてがラジコン飛行機か、あるいは吊ったユーコン模型の下をカメラがレール移動するという撮影法で撮られていますが、映画をご覧になった方はおそらく当時にしては迫力があり模型にしてはリアルな映像に気づかれるのではないでしょうか。

この特撮チームの「戦い」については、DVD再発売の際つけ加えられた特典映像で
その奮闘ぶりを見ることが出来ます。
川北氏はこの映画の監督デビュー後数々の作品を手がけました。
「零戦燃ゆ」も川北特技監督の手によるものです。
「特撮の鬼」の別名を取り、『特撮魂 東宝特撮奮戦記』(洋泉社)
という自伝も書いておられます。

特典映像では特撮のNGシーンも見られます。
最終的に映画では採用されなかった「ドッグファイト」の空撮シーンについての説明によると、
縦の回転をする戦闘機を撮るために、糸で吊って水平回転している二機の模型をカメラをホリゾンタルから(倒して)撮影したのですが、再生してみれば端っこにスタッフが、それも横向きで映っていて、ボツ。
(どうして撮影時にスタッフは誰も気づかなかったのでしょう?)


2010年現在、CG技術が映画に取り入れられるようになってからはどんな非現実的な映像も可能になり、「特撮」という技術そのものが過去のものとなっています。
しかし、この時代、その技術の粋を集めてこれだけの空戦シーンを作り上げたその「特撮魂」。
これは称賛に値します。


その川北氏自身が語っていることですが、戦闘機のパイロットの視点で撮られた戦争映画というのはそれまでになかったもので、たとえば「ひねり込み」の空戦技術を伝授するときにフットバーやスティックの動きをかなり細かく映像で再現したり、あるいは笹井―坂井の「ミーティング」で弾道が下を向いてしまう状態を回避するための「マイナスG」理論を黒板で俳優に図解させたり、そのような細部にこだわることで「パイロットの視点」という面を強調しているそうです。

この特撮チームによるその撮影方法を少し説明すると、たとえば編隊飛行の零戦を撮るとき、
吊った飛行機を少しずつ動かしながら、地面のレールをカメラが走りながら撮るという方法。
ラジコンの撮影ではフィルム速度を速くして撮ったものを低速にすることで飛行機の重量感を出します。

戦闘機の照準を通して敵機などを見るという映像は、プロジェクターを使用して景色や雲の流れを表現。
さらにそこを模型が移動していくというわけ。
 自爆し発火する飛行機については三分のタイマーを仕込み、空中で「演技をさせた」ということです。

最初に観たとき「戦闘開始に増槽を落とす零戦」にかなり驚きましたが、これも川北監督は坂井氏の意見を取り入れたそうで、増槽が落下時にどのような動きをするかということまで指導を受けたということです。
因みに増槽はマグネットでくっつけてあり、落とすときにはリモコンでマグネットを切りました。

また、ラジコンは全部で日米両軍分20機ほど(10分の一から大きなものは発進用の3分の一スケール)制作したそうですが、ラジコンとはいえ実際の空を80キロから100キロのスピードで飛ぶのですぐフレーム(画面)から外れてしまい、さらにその飛行機に「芝居をさせること」は困難を極め、無線も当時のものは操縦がうまくいかず、「自爆」してしまう機もいくつかあったそうです。。
当然使用フィルムも膨大なものとなり「会社には評判が悪かった」とのこと。


メイキングを見てからあらためてこの空撮を見なおしてみました。
この観点から見ると、超力作です。
他が大したことないと言っているわけではありません。

しかし、この付随音楽。
何とかならんかったのか。

しまりのない音楽で全く評価できない、と「海兵四号生徒」
の感想において書いたことがありますが、この時代の映画音楽にはやたら点の辛いエリス中尉、この映画についても全く容赦しませんよ。

悲壮な場面には悲壮な曲調、というのはこの時代の定石というか常識だったわけですが、そうなると必ずマイナーのじゃーんじゃじゃーん、って感じになってしまい、これが実に感興を殺ぐのですね。

ちなみに、メインテーマは

ラーーー↑ド↑ミーーーー、ファ↓ミーー↓ード↓ラ―ーーー

という安易なメロディから成っています。
例の一式陸攻が空中で弧を描きつつ自爆するシーンですが、途中まで無音。
それはよし。
固唾をのんでそれを見つめていると、左回転で10時の位置に来たとき爆発するのですが、
このときにマイナー(♯13thだったかな)のコードがじゃーん、ときて上のメロディが
「じゃーん・じゃ・じゃーん」とくる。
効果音に「すごいでしょう、哀しいでしょう」
と感情をリードするような押しつけがましさがあると、何か萎えてしまうんですよ。
折角無音で緊張が高まっているのに、実にもったいない。


この映画の作曲者は「三匹の侍」などの音楽を手掛けている超ベテラン。
しかし、映画音楽というのは何より時代の空気を取り入れますから、
数世代を経てなおかつ感覚の変化に耐え得る音楽というのはまれです。

余談ですが、一世を風靡したという「ある愛の詩」の音楽も、今映画とともに聴くと
「いや、このシーンには壮大すぎるだろ」
と思わずにはいられません。
その当時は映画のヒットに音楽の効果が多大な寄与をしていたのだと思うのですが。

しかし、これは逆に言えば、たとえば爆発するシーンにリベラのような聖歌や優雅な音楽を当てはめたり、
エンドタイトルに流行りの歌手の歌うバラード、なんていう「流行の手法」は20年後には
「がっくり」
なんて言われてしまうということかもしれません。

当時の最新鋭特撮技術が時代の波に弾かれて今日全くと言っていいほど不要のものになってしまったように。



確かに当時としては優れたこの空戦シーンも、今観るとそれそのものは
「当時にすれば」「この手法で撮ったとしては」という注釈つきでしか評価できません。


しかし、この映画特撮クルーの見せた「特撮魂」だけは
技術が古くなってしまった今となっても全く色褪せていないと言えましょう。










「MY FATHER」~ヨーゼフ・メンゲレの息子

2010-12-20 | 映画

このMy Father, Rua Alguem 5555(わが父、アルゲム通り5555番地)
という映画につけられた邦題は
「死の天使」アウシュビッツ収容所人体実験医師
といいます。

映画会社広報担当がひねり出したこのタイトルのセンスについては皆さんの判断に任せるとして、
原題「我が父」では全く客が呼べないであろうと判断したゆえの苦渋の選択であろうこの説明っぽさも、
ひとえに「ヨーゼフ・メンゲレ」という名前の日本での知名度の無さからでしょう。



1979年、最後のナチ、モサドの執拗な追及を最後まで逃れた大物、
ヨーゼフ・メンゲレのものであろうと言われる白骨死体が南米ブラジルで発見されました。

ヨーゼフ・メンゲレ。
絶滅収容所での彼のあだ名は
「美男(シェーン)ヨーゼフ」そして
「死の天使」

ナチスの軍医大尉であったメンゲレはアウシュビッツで囚人の選別にあたりました。
親衛隊の制服に白い手袋を付け、オペラのアリアを口ずさみながら
囚人の女性すら魅惑されたと言われるエレガントな身振りで右と左を指し示します。
一方は労働に残され暫時の猶予へと、一方はガス室への道へと。

そして、囚人を使い学術的にはほとんど意味がないと思われる実験を繰り返し、多くの犠牲者を出しました。
中でも双子に異常な興味を示していたメンゲレは、収容者の群れから双子を選び出し、
幼い彼らに菓子を与えながら実験をしたと伝えられます。

実験の結果がどうであろうと「モルモット」と呼ばれた被験者は全て抹殺処理されました。
「ヨーゼフおじさん」と慕う子供たちを車に乗せてドライブに連れ出しましたが、
次の週にメンゲレの実験台に上がっていたのはその子供たちだったといいます。




この映画は、メンゲレの息子であるヘルマンの自伝をもとに、「父がメンゲレだった男」の葛藤を描きます。

幼いころ「伯父さん」だと思っていた男性が実は父親で、ナチスの戦犯だったと「息子」が知ったのは
戦争も終わり、イスラエル諜報特務局がその行方を血眼になって探しているときでした。
その実の父に呼ばれて極秘にブラジルを訪れる息子。

巷間伝わる死の医師のあらゆる所業を、逐一目の前の老いた父の一挙一動に重ね、息子は絶望を感じます。
徹頭徹尾父と自分の理解は防水壁のように隔てられて全く通じあうものすらない。

そんな息子に父は滔々と語るのです。

「我々は過ちを犯した。それは認める。
しかし、お前は戦場を知らない。
そして、収容所の実験の科学への寄与を否定できようか。
今日の全ての種に寛容な世の中を見ていると間違っていると思えてならない。

選別は強い種を残し劣等種を淘汰するために必要なのだ」


最後の言葉を聴き父に殺意を覚える息子。

しかし、かれはそのまま黙って父の元を去ります。
父が白骨となって発見されたときまでブラジルの地を踏むことはありませんでした。



劇中、ユダヤ人俳優であるマーリー・エイブラハム演じるジャーナリストに
「なぜ彼の犯罪を知っていながら見逃したのか」
と聞かれ、息子はこう答えています。

「息子だからだ」


世界的に有名な、そして死んだとされて骨が見つかっても生存を疑われ行方を追われている犯罪者。
復讐のために法廷に引きずり出そうとする大勢の「生き残り」に追われている最後のナチ。
他人のような父親。
なのにいまだに絆を断ち切れず、理解しようとしている。

そして父は死んでなおこうして息子に説明させている・・・・。


何の愛情を受けたことも無く、再会してなお理解しがたく、憎しみと憤怒と絶望と、
殺意の対象ですらあった男。
その弁明に、亡霊のような白人至上の人種優生論に、一片の共感も感じられず、
もとより愛しているとも愛されているとも思えぬ父。

しかし、世の中で一人だけ父と呼ぶことのできる人間。


父という人間とではなく、断ち切れぬ血のつながりと息子は和解しようとしたのかもしれません。


実際のメンゲレは息子に向かって

「息子よ、お前も新聞に書かれていることを信じるのか。
全て嘘だ。お前の母に誓って言おう。
決して人に危害をかけたことなどない」


と言ったと伝えられています。



1979年当時は本人のものであることが疑われていた白骨は、
1992年、DNAテストにより、ヨーゼフ・メンゲレ本人のものであることが確認されました。







映画「大空のサムライ」

2010-12-19 | 映画
大空のサムライに興味を持ったとたん、この映画の存在についても知っていたわけですが、何故か今まで見たことはありませんでした。
巷で見る映画評があまり芳しくなかったのと、この配役を見ただけで
「それは、ちょっと・・・・」
と観るのをためらってしまったからです。

それを言っちゃあ話が進まないのですが、坂井三郎が藤岡弘、って?
笹井中尉が志垣太郎、って?

いや、別に実物に似ている必要はないんですよ。
所詮娯楽映画ですから。
しかし、本日画像は、

「参謀の暴言に反発し、飛び出してきた坂井先任と揉み合う笹井中尉の図」

なんですが、
右が坂井、左が笹井。
人物のサイズが全く逆になっている・・・・。
二人が二人とも出てくるだけで暑苦しいくらい濃い顔の俳優、というのは個人的には暑苦しい顔嫌いのエリス中尉的にはいただけないとはいえ、時代の流行りだったということを考慮すればまあ許せるとしても、このサイズ差は・・・・。

おまけにこのシーンで
「まて、話そう、坂井!」
と追いすがる笹井中尉の手を坂井先任、払いのけるんですよ~。
ありえねー。

まあ、この程度のヘンなことは、映画ですから言いだしたらきりがありません。
そのへんはさらりとスルーしつつ、二回に分けてこの映画の感想をお話しします。

なぜかDVDがとても高額なので、「購入派」のエリス中尉としては若干のためらいがあり、今に至るまで観ることが無かったわけですが、先日Uターン禁止で捕まったあの日、「医龍」と一緒に借りてきました。

「初心者」の頃に観なくてよかった、というのが最初の感想。
ある程度ラバウルと台南空のことについて知識を得て、さらに
「大空のサムライ」
のフィクション度とか、信憑性とかについてある程度のことが分かってきた今観るからこそ余裕を持ってそのフィクション性を楽しむことが出来たのかもしれません。

 
この映画は1976年公開。
冒頭実物の坂井三郎氏が被弾した飛行帽とゴーグルを手に
「サムライとは私のことでなく、散っていった戦友であり、戦った敵搭乗員」
と語るところから映画は始まります。

本人がこのように出演し、映画の予告にも「実話」としっかり明記されているので、何の知識もなく観た人は、かなりの勘違いをしてしまうでしょう。

そもそも、真実からかなり逸脱しているらしい大空のサムライをさらに加工修正しているのですから、これは全く別の戦争映画として観た方がずっとすっきりするのになあと思って観ました。
というのは、事実を全く切り離して純粋に映画として観た場合、ストーリーは十分見ごたえがあるのですが、それゆえに原作の「サムライ」からすら乖離してしまっているからです。


まず、坂井三郎、笹井中尉、斎藤司令以外の台南空隊員は、本田兵曹と半田飛曹長を除いてそれに関係していそうな人物さえ出てきません。
それは、全く別のエピソードを展開させるために実在の人物では都合が悪いためでしょう。
この長大なストーリーの中から映画に使うエピソードにどれが採用されるのかが興味のあるところだったのですが、おそらく多くの「サムライ」ファンが
「編隊宙返り」
はなく、その代わり
「一空事件」
が挿入されていることに驚くのではないでしょうか。
以前「我自爆す天候晴れ」というテーマでこの事件について伝わっていることを書いたことがあります。

生きて捕虜になってしまったせいでラバウルで死に場所を与えるために鴨番機として出撃させられ最後は自爆したという陸攻隊の話です。
(ちなみにこの陸攻隊隊長は地井武男。イケメンです)

実はその筋の方によると信憑性にかなり疑問のある話なのだそうです。

しかしこの映画では、この逸話がかなりの比重を持って語られます。
そして、この陸攻隊の最後と、坂井氏が見たという
「最後に宙返りをして自爆した陸攻機」
との最後をこの搭乗員たちの最後ということにして描いています。

陸攻機での宙返り直前に
「我自爆す 天候晴れ」
の打電をし、さらに長符を打つ、という設定です。

つまり、痛快な編隊宙返りと、この陸攻機の悲壮な最期の宙返りが
「被る」
ゆえ、前者を切り捨てたのだと思います。
そんなにしてまでなぜこのエピソードが使われたかについては後で述べます。

その他扱われるエピソードとしては本田兵曹の戦死なのですが、全体的にやはり悲劇的なエピソードの間になぜか空戦についての坂井氏の理論へのこだわりのシーンが何度かはさまれ、もしかしたらこちらは坂井氏自身の希望でもあったのかなあと思わされます。
このことは次回の稿に回します。


さてその本田兵曹(この俳優は実物に瓜二つって感じでそっくり)になぜかラバウルの病院に勤務している姉がいて、これが大谷直子。
エリス中尉はこの手の
「戦争映画に華を添える意味で出てくる女優との絡み」
が何より嫌いなのですが、そのときの「流行りの」女優を使ったりする配慮が見えるとさらにげんなりします。
このころ大谷直子は二六歳の人気絶頂期。
この直後伝説の名作鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」に出演します。

しかしさすがに実在の人物であり、映画にいろいろ指導をしていた坂井三郎とのラブシーンはご法度ですから、大谷直子は無理やり?本田兵曹の戦友と突発的に絡まされます。

この展開が実にうざい。

なぜか坂井先任が
「先輩を自分のミスで死なせてしまい落ち込んでいるこいつを慰めてやって欲しい」
と頼み、大谷直子扮する本田の姉は
「看護婦として死んでいく患者を抱いて慰めた」
という話をしているうちにいきなり盛り上がり?発作的に抱き合ってしまうのですが、
この流れがよくわからない。

思わず見ていて
「なぜにっ?!」
と叫んでしまいました。

明日死んでしまうかもしれない搭乗員がつかの間の慰めを近くにいた女性に求めてしまうという、実際にはいくらでもありそうな話ですが、ただでさえストイックに書かれた(著作者談)「大空のサムライ」にとっては全く蛇足の感を免れません。

おまけに特典映像で見た予告編には、わざわざこの衝動キスシーンに

「生死をかけた最前線でひたむきに生きる男と女!」

って、被せているんですが、時代とはいえ、ダサい。
ダサい上にピントがずれている。


文句はともかく、何と言っても一番のクライマックスはガダル決戦の時に負傷し帰ってくる様子なのですが、これが意外とリアルでよかった。
この映画はカラーなので、坂井さんの顔は当然真っ赤な血でまみれています。
先日画像に描いた「帰還してきたときの写真」では白黒なので、血の色がわからないんですよね。
おまけに坂井さんは瞬間とはいえ自分で歩いていますから(すごい精神力です)怪我の悲惨さがそれほど伝わってこないのです。

帝国海軍の映像でカラーのものを観たことがありますが、カラーであるというだけでモノクロ映像で全て再生していた目には物凄く真実味を持って映るのです。

坂井さんの血の色も、白黒写真と文章だけでは感じえない生々しさを(意外なことに)あらためて伝えていました。



さて、このように単なるドラマとしては面白く、しかし実際にあったこととしてはいかがなものかと思わずにはいられない脚本ですが、この脚本は須崎勝弥氏といい、かつて海軍予備飛行兵であった方の手によるものです。
氏は学徒動員によって海軍に入隊しました。
須崎氏は「二階級特進の周辺」という特殊潜航艇についてのルポを上梓しており、これについてはいずれ書く日もあるかと思いますが、海軍組織の「上層部」「軍部」というものの体質を一貫して強く非難する立場の方です。

原作にたくさんのドラマチックなエピソードがあるのにもかかわらず、無理解で搭乗員の死に対して鈍感な上層部という原作にないエピソードをあらたに作ったり、坂井氏の兵学校出身者批判を入れたり、何と言っても信憑性に疑問のある一空事件をあえて大きく取り上げたのは、この方の意向が大きいのではないかと睨んでいます。

実際はどうだったかはわかりませんが・・・。




それにしても、暑苦しい男前が何より苦手なエリス中尉ですが、この
「キング・オブ・ザ・暑苦しい顔」
の藤岡弘氏には、何故か好感を覚えております。

アップは何ですが、離れて観たときの体のバランスが頭抜けてよく、何と言っても役者としてどう、というよりキャラクターとして実に目に楽しい人物であるからです。
昔NHKの連続ドラマ「あすか」に出てた時もよかったな。

海保職員映像流出事件で、ブログで熱く職員の行為を肯定し、政府批判をしたというニュースを観たのですが、どうやら熱いのは顔だけではないのかも・・・。


俳優としても「本気の熱さ」を持っていたのかも、とこの暑苦しい坂井三郎を見て思っています。









戦艦大和設計図を手に入れる

2010-12-18 | 海軍


タイタニック設計図の記事を見て、何人かの方に
「大和が来たらぜひアップを」
というメールをいただいていたのですが、やっとお約束を果たす日が来ました。


少し前に
「印刷は出来上がったが、額装に(タイタニックのときのことを考えても)半年かかる」
と言っていたのですが、その額装を今回はこちらですることにしたため予定より早くなったのです。


タイタニックよりさらに大きな2メートル半、100分の一の設計図が、2枚。
上が側面図、下が上面図です。

 


この図面について若干の説明があります。

図面来歴
本図を含め全ての図面は第一号艦基、
本設計より呉海軍I廠船設軍極秘19第215号~220号図並びに
戦艦大和資料によるもの200分の1~100分の1に基づき
×××氏長年の本艦実姿研明により作図された諸図面に氏の監修を加え、
それに各部名称その他を追記し永久保存用として作図の意により承諾を得て
原図作成に至ったものである
 


そして、この図面は昭和20年4月時点の復元であるとのこと。
それにしても、あまりにも大きすぎて俯瞰の写真が載せられません。
また別の日に主砲部分や、細かいところを接写したものを載せますが、
「どこの部分が観たい」
というリクエストがあればお寄せ下さい。

取りあえず、今日は艦橋部分です。

艦橋には昇降機(エレベーター)があり、士官はそれで登ったそうですが、
ここだけでざっと30メートルの高さ。
10階建てのビルが建っているようなものです。
この艦橋を、下士官、兵はラッタルを使って登るのですが、常に駆け足でないといけなかったのですから、
フネの上には運動不足などという言葉はありえなかったわけですね。
(メタボ世代の)将官以上こそ、健康のためにラッタルを上り下りしたほうが足腰にいいと思うのですが。
さて、それでは艦橋へどうぞ。




 あまりうまくつながっていませんが・・。

少し字が読みにくいので、興味のある方のために表示を書きうつしました。

方向探知機(一番てっぺん)から右に降りて行って

 二号一型(二十一号)電波探知機
主砲射撃塔
十八糎双眼望遠鏡
二号二型(二十二号)電波探信機
防空指揮所
第一艦橋
十三糎連装機銃
一・五米測距儀
九六式二十五糎機銃射撃指導装置
第二艦橋
司令塔(字が隠れていますが、第二艦橋の下の線の先です)

方向探知機から左に降りて行って

 方位測定儀
十五米測距儀
六十糎信号灯
空中線兼信号灯
風向き及び風速信号器
六十糎信号灯
速力信号標
九四式高角砲射撃指揮装置

となります。

第一艦橋は昼戦艦橋と言い、司令官や艦長が通常の指揮を取る部屋です。
ここにおいて指揮を執った艦長は全部で五人。
勿論旗艦の艦長ですから優秀なのは当たり前ですが、中でも名艦長と言われたのが
四代目艦長森下信衛

シブヤン海海戦のとき、森下艦長は防弾チョッキもつけずに、くわえ煙草で
第一艦橋ではなく防空指揮所で指揮を取り、同行の武蔵が二〇発の爆弾、魚雷を受けているのに
大和は砲塔に爆弾を一発受けただけだったそうです。
10時間にわたる長時間の戦闘でただ一発だけの被弾、というのは森下艦長の操艦の
異常な上手さを物語っています。
 さらに、この戦果を自分の手柄にせず、「対空機銃兵の腕が良かったから助かった」
としか言わなかったそうで、下からの人望も厚かったそうです。

もう一人、松田千秋という名艦長もいますが、五人の艦長の中で大型船艦の操縦に長けていたのは
この森下と松田二人だけであった、とされています。


最後の艦長有賀幸作は、戦艦の操艦は初めてで、沖縄特攻のときには意見の食い違いから
航海長や航海士と空襲中にもかかわらず大げんかをしていたという話も伝わっています。
しかし、結果沈んでしまったとはいえ、あれだけ大部隊の空襲に遭い、
およそ300機からの攻撃を受けながら命中弾はわずか10発であったというのは驚くではありませんか。



沖縄特攻に出撃する際、大和総員の最初に行ったのはなんと「演習」だったそうです。
この期に及んで演習から始めなければならなかったというのは、
普段から十分に演習する時間や、何より燃料がなかったため十分な訓練ができていなかったことと、
有賀艦長に代わってすぐの作戦であったためでした。


それでは最後に海軍旗と中将旗をどうぞ。

  



おまけ。
  






酔うイング

2010-12-17 | 海軍


時化に襲われたときの豪華客船の監視ビデオ映像を見たことがあります。
カメラは定点ですから、ただまっすぐな床を、そこにいる人や家具が行ったり来たりしているだけに見えるのですが、被せている音楽は

「セイリング」ロッド・スチュアート(T_T)

見ている方は笑っていられますが、テーブルや椅子とともにあっちへ滑りこっちへ滑りしている人の中には柱に激突している人もあり、さぞ怖ろしかっただろうなあと思わされます。
この映像はダイニングとともに地下の荷捌き場のものもあるのですが、スチールのロッカーや小型リフトまでぶっ飛んでおり、物凄いことになっています。
これは豪華客船のものでしたが、料金は半額返還になったということです。


さて、エリス中尉が中学生のとき、市内の各校から四、五人が選出されて
「少年の船」という大型船に乗り込み、瀬戸内海を周遊して大島や小豆島、四国松山に立ち寄るという企画がありました。
当時一年生ながら学校代表選手として選ばれるという光栄に浴したわけですが、船上生活でも色々な学習が行われ、その一環で特にフネというものに対するレクチャーを色々と受けました。
操舵の知識、海の交通に関する知識、ロープの結び方など、今にして思えば貴重な経験だったわけですが、その中に

「ローリング、ピッチング、ヨーイング」

という船の揺れ方についての講義があったことを思い出しました。
少し説明しますと
ピッチング pitching というのは縦揺れ、
ローリング rolling というのは横揺れ、
ヨーイング yawing というのは水平面での左右揺れ。


さらに、小型船においては
ヒーヴィング heaving 上下動 

も起こります。
「男たちの大和」
で、鈴木京香扮する内田二曹兵曹の養女が大和沈没地点に行くまでに激しく酔っていましたが、あの小型船でほとんど座る場所もない状態のまま八時間(でしたっけ)というのは現実に可能なんでしょうか。

時化るとフネはピッチングが激しくなった
パンチング punching というのが起こります。 
これは船首が波に叩き付けられることをいいますが、その直前の
フォーリング falling 急速落下
とあいまって、大抵の「陸の人」はここでダウンしてしまうのです。


エリス中尉が乗り込んだ艦船(ちょっと言ってみただけです。本当は遊覧船みたいなもの)は、波の穏やかな瀬戸内海を航行していたわけで、海軍的には微動だにしないレベルの航海を終えたのですが、それでも「上陸」したあと丸一日「地面が揺れている」ような気がしました。

人間の平衡感覚というのは実に環境に左右されるものですが、船酔いの原因は内耳の前庭・半規管への過度の加速度刺激の反復により、過剰刺激が自律神経障害をおこすためと考えられています。
面白いのは、加速度刺激が常に一定であれば酔いは起こらないらしいのです。 
一定のリズムのなかに異なる揺れが混じると酔いを生じるそうです。



ここで医学的に酔いの症状を解説。


「読んでいて気持ちが悪くなる」
と言った、敏感すぎる方がいないとも限らないのであくまでも医学的に。

 乗り物酔いの兆候の最初におこるのは顔面蒼白です。
これに引き続いて悪心(吐き気)が起こります。
吐き気 nausea はギリシャ語の naus から来ています。 naus とは船のことなのです。 
吐き気に引き続き嘔吐が起こる場合とそこまで行かない場合があります。 
また冷汗はよく見られます。
胃運動の低下、次いで二次的な胃の拡張、十二指腸および腹筋の収縮による嘔吐がもたらされます。
唾液の分泌が増えたりもします。 
また呼吸換気量の増加、あくびの頻発、脈拍数の増加あるいは減少、血圧の増加あるいは低下などが見られます。




しかし、人間の身体とは何て素晴らしいんでしょう。
このような状態を「胃液も出ない」ほど繰り返していると、次第に慣れてしまうのです。

ですから、たとえば海軍士官ですと、練習艦隊などのときに時化ると、不慣れな少尉候補生はほとんどが「オスタップを抱きかかえっぱなし」状態ですが、航海が終わるころには(グロッキーですが)酔わなくなってくるのだそうです。



豊田穣氏の「海の紋章」では、練習艦隊のときに総員討ち死にに近い船酔いについて微に入り細に入り解説があります。

「微と細」は省略しますが、艦長始め上官はこの
「慣れればなんともなくなる」
ということを知りぬいているので、穏やかな航海が続いたりすると

「カームだね」
と艦橋の鍋島副長は物足りそうであった。
「そうですな、折角候補生が揃っているというのに・・・・。
このへんが一番シケるところですがね」
長井副長も残念そうであった。



練習艦隊では艦長会食と言って、候補生が班(約一四名ずつ)ごとに艦長と一緒にフルコースの食事を取るという行事がありました。
候補生の向かいには、艦長、副長、航海長、そして指導官が座り、オードブルに始まりメイン三皿のケーキ、フルーツに至るコースを懇談しつついただくというのですが、

艦の後部は、特に揺れが激しいようで、舷窓の外の水平線が、四十五度以上傾いたかと思うと、突然、上方に投げ上げられ、不意に消滅したりした。
(中略)
すると艦長が不思議なことを言った。
「今日の候補生は、少食だね」
「そうですな。海もわりに静かですがね」


艦長も副長も、よく言えば暖かく、実は半ば面白がって見ていた節があります。

この練習艦隊では酔いに強いものとそうでない者がくっきりと分かれ、秀才でクラスヘッドの級友が誰よりも船酔いに苦しんでいるのを見て
「なぜか妙に安心した」
などという感慨を豊田氏は持ったりしたもののようです。

指導官は必ずと言っていいほど候補生に
「ピッチング、ローリング、ヨーイング」
の説明のときに
「酔っちゃうからヨーイング」
というギャグを飛ばしたそうですが、それにウケる候補生はわずかで、ほとんどはどんよりとした顔でそれを聞いていたということです。


気持ちはわかる。
こんなときにおやぢギャグ飛ばすなよ笑う元気もねーよ、って感じでしょうか。


とにかく海軍軍人であれば誰もが通る道、このような試練を経て「潮気のついた船乗り」になっていくわけですが、このような艦隊練習なく飛行機乗りになった予備士官の皆さんなどは、移動でフネに乗り込むときに大変な思いをしたようです。

ある軍港の薬屋に、海軍士官がぞろぞろ現れました。
「酔い止めの薬ください」
「あなたたち海軍さんでしょう」
おばさんが驚いて聞くと

「我々は飛行機乗りなので船酔いには弱いのです」



さて、冒頭マンガは以前いただいたコメントにあった

「船室に特別仕立ての特大ベッドを作らせた中国人船長が時化に遭うの図」

それではBGMスタート。

I am rolling,
I am pitching home again 'cross the sea.
I am yawing stormy waters,
to be near you,
to be free.

I am punching,
I am heaving home again 'cross the sea.
I am falling stormy waters,
to be near you,
to be free.




参考:海の紋章 艦爆飛行隊奮戦記 豊田穣 集英社文庫
   家庭医学大全科 法研








代車に乗りて我が未熟さを知る

2010-12-16 | つれづれなるままに
民主閣僚というのは失言をしないと死んでしまう動物なのか?
口を開く前に言っていいかどうか考えろ!
いや、もうずっと口を開かないでくれ!

アンチ民主の国民だけではなく、当事者以外の民主党幹部も全員がそう思っているであろう毎日。
またもやらかしました。

「就任から半年、今までは仮免」by第94代内閣総理大臣

もうね。
アナタきっと卒業試験受けても通りませんから。
アナタが仮免のくせに教官の補助ブレーキも無視して公道を驀進するものだから、
日本の国際的地位、経済、技術力等々は皆当て逃げされて路上に死屍累々ですよ。



と、本日の話題に美しく?繋げてみましたが、クルマについてです。

もう考えたくも無いほど昔に仮免を終了し何回も切り替えを行ってきたところのエリス中尉ですが、
ゴールド免許をいただいたことはほとんどございません。

というのも、毎日のように車を運転していれば、違反の一つや二つしてしまうものなのですよね。(そうですよね?)
特に、路上駐車を、乗っている車のステイタスとそのネイビーブルーに賭けても絶対にしない、といくら誓っていても、家の前の道に5分停めていて切符を切られたり、この間のようにUターンしてはいけないところでしてしまってたまたま後ろにパトカーがいたりと、よくもまあこういろいろと起こるものだと感心するくらい違反というのは運転生活につきものです(よね?)

しかし、ダテに何回も免許を切り替えているわけではなく、車庫入れだけは自分ながらほれぼれするほど上手く、
尻込みするくらいスペースの無い場所に切り替えることも無く一発で入れることができる・・・・つもりでした。

そう、あの日までは。


目黒にある某防衛庁資料室の周りには、駐車場が点在しているのですが、三台で満車だったり、
二時間止めると3,000円になったりと、地価を反映して無茶なものが多いのです。

しかし、自称尉官の身といえど、某防衛庁資料室の門を敬礼しながら車で入っていって停めさせてもらうほど自衛隊と懇意ではないので、いつもなんとか周りに車を止めるスペースを探して右往左往するのですが、
ある日のこと、一方通行ではないが一車線しかない細い路地に迷い込みました。

そのうち抜け出ることができるだろうと思って直進していると、何といきなり
道は行き止まりに。

いくら運転に自信があっても、来たことも無い道で、
それも排気量3000ccエンジン直6DOHC24バルブの車で、これはきつい。
軽く慌てつつふと見ると、行き止まりの手前にマンションがあり、その一階が二台だけ停められるコインパーキングになっているではないですか。

ピコーン。(思いついた音)

「限界まで進んでバックしつつパーキングに車を入れるのだ」

悪魔のささやきに耳を貸したエリス中尉、右に切り返しつつ無事に車をパーキングに入れました。
なにしろ車のわきに人が通れるスペースも無い道で、これは今考えても無謀。
何度かの切り返しをしたのですが、どうも静かーに静かーに、バンパーの左角を向かいの民家のレンガ壁にすりすりしていたようなのです。

ようなのです、というのは、そのときにまったく感触を感じず音も聞こえなかったのに、
あら不思議、次の朝気付くとしっかり傷ができているではありませんか。

orz

さっそく保険会社に電話しました。
すると

「えー、事故を起こしたところの住所は?」
「うーん、防衛庁資料室の周りの突き当たり」
「住所はお分かりにならないと・・・?」(つきあたりじゃわかんねーよ)
「えー、多分二度と行けないし、もう二度と行きたくないんですけど」
「はあー、いや、現場を見ないと判断しかねますので・・」


で、二度とそんな道を探してまたあそこに迷い込みたくないエリス中尉、
「いやだから、防衛庁のー」
「防衛庁から見て後ろ側のー」

防衛庁防衛庁って、いったい防衛庁で何をしとったんだアンタは、と言いたげな不審そうな調査員を相手に口で説明するのですが、地図ではわからない、と言われ、さらにそのせいなのか一カ月以上処理を放置されてしまいました。

そして、しばらくぶりにかかってきた電話で調査員、

「もう事故現場に行かれることなんてないですよねー?」

ええい、またそこからかいっ!

エリス中尉、覚悟を決めました。

「分かりました・・・。じゃ、こうしましょう。
保険でお金を出してもらうのは左角の傷だけでいいです。
現場が見られないので、前後の傷を一事故として扱えないってことですよね?
じゃ、後ろは自費で直しますから」


・・・・・ちょっと待て。


おめーは、さっき「こすったのは前角」と言ってなかったか?
後ろの傷ってなんですか?

これは、「嘘ではないが本当でもない」
という、つまり、そのときは前だけの傷だったのだけど、どうせ直すなら、あわよくば一事故として、
コインパーキングで奥になぜか出ていた釘が後ろバンパーに喰い込んだときの古傷
をついでに直せないかな?と欲をかいて見たという・・・。
(二事故で処理すると来年の保険代が上がるんです)

だって、毎月高い保険代払ってるんだから、それくらい元とってもいいよね?
ディーラーの人も
「ダメ元で言うだけ言った方がいいです」
って言ってたし。

しかし、敵もさるもの、現場を見ずして前後同時に傷がついたなどという事故にお金を払うわけにはいかん!
とねばっていたものと思われます。
まあ、駐車場の入り口に釘があって食い込んだ、というのは、少し苦しかったか。
うーむ、この巧妙な嘘を怪しむとは敵ながらあっぱれ。
そのプロ根性に免じて、保険請求は前バンパーだけにしといたるわ。
 
最初から相手をたばかるつもりなど全くないので、すんなりと要求を引っ込めました。
当たり前だ、どあつかましい、って?

ともあれ、やっとのことで車を修理に出したのですが、ここでもまた大きな問題が。
年末で代車が出払っている、というのですな。

いや、無いわけではないのだけど、ディーラーで扱っている車種ではなく、
なんと日産○―チしかないと。

この○―チに乗っている人には大変失礼なのですが、ディーラーでこれを出されたとき
「トースターとか、電子レンジの横に並べて売っているようなクルマ」
だなあ、という感想を持ちましたですよ。

でも、この手の小さな車の中ではスタイルが可愛いですよね。
若い女の子が乗るには微笑ましくていいよね。
狭い道も近所に多いし、小回りも利くし、

・・・・と、自分に言い聞かせてみましたが・・・・。


いやあ、アクセルを踏むとガクン、とシフトが切り替わるときに衝撃がある、ステアリングが嘘のように重たく、かっくんかっくんする、坂道でぜいぜい言う、そして何と言っても高速走行で車線変更やランプに入るのにパワーがないのでタイミングがつかめない・・・。


だいたい乗るヒトも若い女の子でもないしさ。


そして、決定的な事件が。
イライラしながら運転している割には、このへんがなまじベテランドライバーの驕りとでも言うんでしょうか、
高速道路でボーっと考え事をしながら

ETCレーンに突っ込んでしまいました。


バーが迫りくるとき初めて自分がETC装備の無い車に乗っていることを思い出し
慌ててブレーキを踏み停止。
すると当然の成り行きとして後ろから来た車がみるみるバックミラーの中で迫ってくる。

ぎゃ―――っ(本日画像)


唯一の安心は後ろのトラックがクラクションを鳴らしていたこと。
トラックのドライバーはかなり早い段階で前のバカマーチがバーの前でブレーキを踏んだことに気付いたようです。
おそらく15センチくらいの後ろに急停止して、ウーロン茶を積んだトラック、クラクションを鳴らしつづけます。

見りゃわかるだろっバー開かないんだよ!クラクション鳴らすな!

などと間違っても言う立場でもなければ言う資格も無いわたし、
係のおじさんが走ってくるまでの約20秒が永遠のごとくに長く感じました。





それにしても、今までの車人生、実家の三菱(父は戦車も作っている丈夫な車だから、と)に始まって、
シルビア、セリカ、プレリュード、BMW二台を乗り継ぎ今の車に至るまで、
一度たりとも自分の運転技術に疑いを持ったことがなかったのです。
事故で御殿場のお星様になってしまったシルビアは別にして、
どの車も、売るときにはかすり傷一つついていないくらいだったんです。
(プレリュードはなんだか指で押したようなへこみがあっちこっちにできてましたが。どんな柔らかいんだか)


しかるに、今まで自分の技術と思っていたのは、車の性能と偶然に助けられていたせいではないのか?

高速に乗ってわずか20分で自分が乗ってる車が何か忘れるし。
車体をこすっても一晩気付かないし。

運転技術も大したことがないなら、○―チに乗ってるワタシって一体何?
一挙に自信をなくし謙虚を通り越して卑屈になる極端なエリス中尉。

こうなるとネガティブ一直線。

ミッドタウンで隣にフェラーリがとまっているのを見て、
「この車一台で○―チたった20台分か・・・・100台分の間違いじゃないの?」


高速では
「すんませんすんません、所詮○―チですさかいに、これ以上スピードでまへんのや。
ちょっといれたって。へえすんませんなあ(へこへこ)」


代車に乗りて己の未熟さを知った一日でした。











空母バンカーヒルの物語~小川清の時計

2010-12-15 | 海軍

この群馬県出身の日本人は、鼻筋の通った、ほとんど西洋人と変わらないような顔立ちをしていた。
当時のアメリカのプロパガンダでは、日本人の姿はアメリカ人とは全く違うように描かれていた。
しかし、この日アイランドの前を通った水兵は皆、
小川清の若々しい顔を目にした瞬間のことを、今でも覚えている。
青ざめてはいたが、汚れ一つなかった。
この遺体を見た者たちは、以後、それまでとは全く違った感情を持って戦争と向き合うことになった。



空母バンカーヒルに特別攻撃隊として突撃した小川清少尉の零戦は、同時に特攻死した安則盛三機に続いて、1920年の5月11日、「アイランド」と呼ばれる艦橋に突き刺さりました。

突入前に投下した爆弾と、自らの機によって、バンカーヒルはいたるところ火の海となり、この突入の瞬間だけでも多くの人命が失われました。

しかし、小川機はバンカーヒルに多大なダメージを与えたのにもかかわらず、機体の識別が出来るくらいに原形をとどめ、さらに驚くべきことには操縦者の小川少尉の遺体は―下半身こそ無くなっていたものの―傷一つなく、まるで眠っているようであったそうです。



「上半身だけ見ると、生きているようでもあった」


生存者の一人、シュカカン氏は、インタビュアーに向かってこう答えました。

小川の傷一つない丸い顔は、何も教えてくれなかった。
何と言ったらいいのか、その顔は―極めて普通だった。



この二機の「カミカゼ」がバンカーヒルをずたずたにしたあと、このエセックス級空母にいた乗員のうち戦死者は346名、行方不明43名、負傷者264名。

まさにこの突入は文字通りバンカーヒル艦上にいた男たちの運命を変えました。
彼らのみならず、おそらく全てのアメリカ人の心に、自分たちの生きる世界と、その周りに起こることに対する計り知れない不安が植え付けられたと言っても過言ではなかったでしょう。


以前のブログで話したように、ニューヨークの同時多発テロのとき、エリス中尉はアメリカに住んでいました。
そのとき住んでいたボストンには百年は経過した古い建物が多く、大抵は中を改装するだけで使い続けているのですが、その同じ建物の中で68年前、同じように開戦を知った人々の幽霊のように、老人たちが
「初めてアメリカ本土が攻め込まれた」
ことを語っている姿は日本人の私には感慨深く映りました。


たくさんの民間人が戦争で死んだ日本と違って、アメリカ人にとって戦争は常に
「遠い戦地でのみ起こるもの」
でした。


程度の差こそあれ、バンカーヒルの乗員にとってもそれはほとんど同じと言えました。

「第二次世界大戦のような戦争になにか『やり方』というのがあるとすれば
飛行隊の一員となって空母に乗るのが一番だと思う。
我々は攻撃しても、その損害を見なくて済んだ。

苦しむ人も、負傷者も、そして死人も、全く目にしなかった。
自分たちが大勢の人間を殺したということは分かっていた。

(中略)

惨事を目にすることなく帰還して、熱いシャワーを浴び、身につけるのは清潔な服。
それから温かい食事。
まさに『戦争の快適なやり方』だ。



今まで「快適な戦争」をしていたバンカーヒルに二機のカミカゼが突入した瞬間、彼らは自分たちが戦争とそれが引き起こす惨事について今まで何も知らなかったと思い知らされることになりました。

さっきまでいた場所に直撃弾が落ち、同僚が消えてなくなっている。
見るのも怖ろしい死体が何日たってもどこからともなく発見される。
爆死、焼死、窒息死、圧死。
あらゆる惨い遺体を水葬にすると、それが浮かび上がってずっと後を追いかけてくる・・・。


二機の特攻機はバンカーヒルの乗員たちが心の中に築いていた「安心な世界」を一瞬にして破壊してしまい、もはや彼らの日常の思考から「死」を払拭することは不可能となってしまったのです。

誰だか判別もつかない肉塊となって、国旗を掛けた水葬台から毛布に包まれて滑り落とされるのが、自分であっても何の不思議はなかったという思いから、彼らはもう逃れることはできなくなったのでした。

 
この地獄の直接の原因となった美しいカミカゼ搭乗員の死体が、この後どうなったのか、生き残ったものの口から語られることはありませんでした。
ただ・・・。
シュカカン氏が何度か遺体の前を通るたびに、乗員が「記念品」を求めて小川の遺体から純白のマフラーを、財布を、鉢巻を、指にはめていた指輪を持ち去り、見るたびにその様子が変わっていったというのです。

シュカカン氏はその行為を「泥棒」と標榜したのですが、それが泥棒だったのか、辛くも難を逃れた奇跡を孫子に伝えるためのよすがのつもりだったのかはともかく、小川少尉の遺体から付けていたものはことごとく乗員によって持ち去られたものと思われます。

そして戦争が終わり何十年も経ち、人々が、そしてバンカーヒルで命ながらえた人たちが、一人、また一人と世を去って行きました。

バンカーヒルの水兵だったロバート・ショックが亡くなったとき、遺品を整理した孫は、
戦争中の記念品の箱の中に、小川少尉のものと思われるパラシュートのベルトの切れ端、
血痕のついた手紙と写真、そしてやはり血まみれで文字盤の読めない航空時計を見つけました。

それらの手がかりが・・・なかんずく、「川少尉」という漢字のついた飛行服の切れ端が、
あの日バンカーヒルに突入したのが小川清であったということを、戦後何年も経ったこの世界に知らしめることとなったのでした。


小川少尉は胸に航空時計を下げていました。
突入の瞬間時計は胸郭を突き破り、胸腔内にめり込みました。


すでに誰も読むことのできない血で覆われたガラスの内では、
文字盤の針がその瞬間を永遠に指しているのでしょうか。










「ムルデカ17805」~軍人を演ずる男優について

2010-12-14 | 映画

日本の男優というのは、しかし皆どうして旧軍人の役がはまるんだろう。

日頃茶髪や金髪の男優が、この旧軍の軍服に身を包んだとたん、なんだか目つきや姿勢まできりりと引き締まり、見事に「軍人」になってしまうのはなぜか。

今絶賛こき下ろされ中の市川海老蔵にしても、「出口の無い海」で回天搭乗員を演じたときは実に清廉な、帝国軍人(あの映画の場合は軍人にならざるを得なかった大学生)の空気をまとっていたように見えました。

エリス中尉は、私生活でどんな破たんしていようが、鼻もちならない嫌われ者であろうが、スクリーンの上で演技ができるのであれば支持、と日頃思っているのですが、この海老蔵に関して言えば
「これだけ化けられれば許す」
かな。

ただ、その本業、歌舞伎俳優てしてかれがどうであったか判じることができるほどの歌舞伎に対する知識がないので、事件そのものに関してはノーコメント。

と言いたいところだけど、一言穿った事を言わせてもらうなら、
「なぜ今?」
かれの素行の悪さと嫌われっぷりは今に始まったことではなかったそうで、事件そのものも「嵌められた」という説が有力。
ではなぜ今「嵌める」のかというと・・・。

なんだかね、押尾事件といい、これといい、報道で大騒ぎ「させたい時期に」起こっているのではないか、と、茨城県の地方選の結果をろくに報じないでこればっかりやっているマスコミを見ると一つの言葉が浮かんできてしまうんですよね。

「目くらまし」




さてとにかく、日本人男性で俳優という仕事をしていて、一度や二度は経験していそうな「軍人役」。

その風格やなんかによって司令官向き(例:三船敏郎、小林桂樹)将官向き(丹波哲郎)士官向き(中井喜一)学徒士官向き(小栗旬)兵曹向き(ガッツ石松。陸軍ね)二等兵向き(ホンコン、Mr.オクレこの人たちも陸)と使用上の注意は分かれるものの、多少大根であっても、軍服を着せればみななぜかそれなりにさまになってしまう。

この現象を、
日本の男優がその根っこに持っているが、決して大きな声で公言できない役者としての冥利の一つに
「旧軍人を演じる」
というものがあるせいでは?
とエリス中尉、実はひそかに思っているのですが、いかがでしょう。





さて、この映画で軍人役をしているのが、山田純大。
ご存知「男たちの大和」にも下士官役ででていました。
陸軍中野学校卒の中尉という役どころなのですが、陸軍の軍服がそう好きでないエリス中尉もこの人の長靴のやたら似合う軍服姿を見て、カーキも悪くないと思ってしまったくらいです。

陸軍軍服のいいところは、本日画像の酷暑地用の半袖ですが、ウェストが極限まで高く、
ベルトが太くてコルセットのようになっている。
ジョッパーズと言われる太腿部分がゆったりしたズボンの膝から下はまっすぐなブーツ。
これは非常に下半身が長く、バランスがよく見えます。
山田純大は腰が非常に高いスタイル良しなので、アップ映像より全身像で魅せる俳優だと思います。

(身長180センチ、股下90センチだそう。道理で)

そして、インドネシア人の解放武装組織PETA(人民解放軍)を結成しその訓練にあたる島崎中尉の熱血漢ぶりを好演しています。

前半でオランダ軍司令部にほとんど丸腰(日本刀一本)で単身乗り込み、降伏を勧告するシーンがあります。
これが史実としてはどうだったのかはわかりません。
しかし、日本の軍人というのは、誤解を恐れず言うなら日本人はこのような状況においてはこの島崎中尉のように
「身命を賭して」
と誓うことによって、公人としての途轍もない勇気に身を守られるものなのだろうか、と思わされます。

ひいては、この私を捨て公でありたいという思いが己の命をも国に捧げると言う情熱につながるものでありましょう。
「国に騙された」
「戦争という悪に虐げられた」
という一面からだけで、意気高く戦った彼らの死を断じては申し訳ないように思います。


そして、日本語で通訳させながらの降伏勧告。
躊躇うオランダ軍中将に向かっていきなり島崎中尉、英語で

「人命の尊さを考えると、ここで撤退を決定するのも尊い決断ではないか」
というようなことを言い始めるのですが、この英語があまりにも流暢なので驚いて
山田将大の履歴を調べました。
アメリカで学生時代を過ごしLAで大学を卒業しているとのこと。

経歴から見てもバイリンガルと言ってもいいのではないかと思いますが、
それを売りにしている俳優さんでもないようですね。

その意気やよし。


さて、この映画は
「日本の侵略戦争を美化するもの」
として、左派グループの糾弾と上演廃止を求める声にさらされました。

その理論の不思議さについてはまた稿を改めたいのですが、この団体に言わせると
「侵略を美化する邪悪な目的」
の映画であるこの「ムルデカ17805」は、日本軍を神の部隊のように描いている、何しろこんな日本軍人がいるわけがないということにつきるのだそうです。

たとえば、厳しい規則に耐えかねて塾(軍事教練を日本軍が与えていた)を脱走したインドネシア青年に、日没までずっと直立不動でいる罰を与えるのですが、島崎中尉は
「部下の不始末は上官の責任」と言い、隣りでずっと一緒に立っているのです。

この事件は島崎中尉のモデルとなった柳川宗則中尉が実際に青年塾のインドネシア青年に与えた罰直だそうです。

この映画は、日本人の持つ責任の取り方、あくまで義に誠実であろうとするこのような美点を描くとともに、権力をかさにきて現地人を蔑んだり、大本営の意向に逆らえず無体な命令を下すといったありがちな日本人の欠点も公平に描いています。

しかし、糾弾派にとってはその描写はまったく意味をなさないとのこと。
「こういう日本人も出てくるがしかし」
の一言で、矛先は相変わらず「日本の侵略美化」に向かうのです。

やれやれ。

さて、この映画には軍人役で保坂尚輝(島崎中尉の中野学校の同級生である中尉)、
直接の上官である大尉(榎孝明)
今村中将(津川雅彦)
などが出てきます。

津川氏はこの制作者がこの映画の前に作った「プライド」という映画で東条英機を演じ、さらに自身のブログで保守再生日本を訴え日本の国体維持の精神を説く漢ですが、案の定左派からは目の敵にされているようです。

津川氏ほどの俳優としての実績とすでに得た名声があっても、今の日本でこういう思想を明らかにすると言うことは大変なことのようです。
ましてやスポンサーの意向一つで明日から首が飛ぶ「電波芸者」の俳優やタレント、キャスター(笑)が政治的に中立であろうとすることなど不可能なことなのでしょうね。

主演の山田純大という俳優さんについて、全くと言っていいほど先入観も無かったのですが、この好漢島崎中尉を早い時期に演じたことによって不愉快な目に遭わなかっただろうかと、要らぬお節介の心配をしてしまいました。


しかし、島崎中尉を演じたことがかれの俳優生活にとって
「冥利」
であったかどうか、いつか語ってくれないかなあ、ともひそかに思っています。