ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

台湾を行く~故宮の至宝ディナー

2013-01-30 | お出かけ

台湾最後の夜、このグルメ天国のような台北で何を食べるか、
われわれが熟考に熟考を重ね選んだ食事、それが

「故宮晶華の故宮国宝ディナー」

でした。
故宮博物院には去年訪れ、石を加工した本物そっくりの東坡肉や、
翡翠の天然の色を生かして作った白菜などを見学しました。
そのとき「工芸品の手工業の緻密さ」、その技術そのものには
酷く感心したわけですが、それではこれが芸術か?というと、
はっきり言っていくら極限まで似ていてもテーマが肉ねえ、みたいな、あるいは
芸術というものはもう少し精神性をも内包するものではないのか?
みたいな根源的な疑問が浮かんでくるのを否定することはできなかったのです。

つまり日本の浮世絵や、同じ中国でも山水画、ましてや西洋の絵画彫刻に比べると、
その芸術性に関しては首をかしげずにいられなかったというか。

名前もない職人が気の遠くなるほどの手間をかけて権力者のために造った実用品、
というようなものばかりが芸術品として讃美されるというのはいかがなものか、ってことですが、
要は、中華圏ではそういう実用にこそ美や芸術性を求める精神性が育っていたと解釈しました。

ただ、決して優劣をつけるわけではないんですが、少なくとも、
ルーブルやオルセーを巡るときのような知的興奮は感じない、と言いますか。
モナリザやニケ像ではなく、肉やら白菜がここの目玉、というあたりが、すでにね。

それはともかく、であるからこそこのような故宮博物館の至宝は、
併設レストランのディナーのテーマにもなりうるわけです。

最終日にこのプランを知ったときに、われわれは飛びつきました。
要前日予約にもかかわらず、当日聞いてみたら、三人分OKであるとのこと。
いったん予約を入れたものの、三人分はいくらなんでも多いのではと考えなおし、
二人分をキャンセルし、その場で注文することにしました。




故宮博物館には早く着いたので、駆け足で見学。
とりあえず本日のディナーに出るであろう「肉石」と「白菜」を中心におさらいです。
これは博物館ではなく、敷地内の謎の建物。
台湾でもLEDのツリーデコレーションは普通に盛んです。



この故宮晶館は最近できたばかり。
ルーブル美術館に行ったことのある方は、あそこの中のレストランが、
料理大国フランスの威信をかけたものすごい高いレベルの食を提供していることを
もしかしたらご存知でしょうか。
料理も文化であるとして、美術館が良いレストランを備え、
芸術鑑賞の余韻を美味しい料理でさらに盛り上げようというこのような企画は、
最近日本でもしばしばみられるようになりました。
この台湾においてもどうやら同じようなムーブメントによってこのレストランができたのでしょう。

 

晶館の晶は水晶、つまりクリスタルのことですから、建物も
どうやらそのイメージで仕上げられているようです。



内装はレトロモダン。
落ち着きのあるチークの木の色が温かみを感じさせます。
外装と同じようなモチーフのパーティションですが、中華料理の店に
ときどきあるように、これは完全に閉めて部屋を仕切ることができます。
団体で訪れる客のための設えであると思われます。



本日の至宝ディナーのメニューが出されています。
これを写真を撮るという目的のあるわたしが取ることにし、
(どうせ三人で食べるので誰の前でもいいのですが)
TOは別の軽いコース、息子は軽い一品を注文。
このメニューを見る限り、それでも量が多くて食べられるかどうか・・。

しかし、一般に中華圏の人は(台湾人もたぶん)、残すことを失礼と思わないのです。
「残すくらいたくさん食べ物を出してもてなさなければならない」
というのが中華式おもてなしの心、ってことみたいです。



そして、お経のような立派なメニューが出されました。
それにはこのような美しい写真とともに説明が書かれています。

故宮博物館のおそらくもっとも有名な国宝、ヒスイの白菜。



実物。
美味しかったか、って?
いやまあ、普通の蒸した白菜でしたよ。
ただ、こんな小さな白菜、どうやって調達するのかなあ、と。
ベビーコーンやペコロスみたいな「ミニ白菜」があるんだろうか。



む?
なにかが、ってエビですが、顔を出している。



なぜエビが顔を出しているのか。
それは、この翡翠白菜にはキリギリスとイナゴが一緒に彫刻されていて、
その細かい細工がまた有名なのです。

http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=04001080

二匹の虫さんが見たい方はこちら↑




芝エビも二匹。




次行きます。
このディナーが要予約なのは、実はこのスープ、中華では究極のスープと言われる
佛跳墙(ぶっちょうたん)が、この国宝の鼎のような食器で供されるからなのです。

佛跳墙。
これはお釈迦様が修行を放ったらかして(かどうかは知りませんが)
垣根を飛び越して食べにくる、というくらい美味しいというネーミングのスープ。

干しアワビ丸ごと、フカヒレ、クジャクの卵(・・・え?)など高級食材ばかりを
一週間煮込むのだそうで、まあ、逆に言えばこれだけ力技食材を使って
旨くない方がおかしい、という料理です。



どうですか!
見るからに精のつきそうな食材がゴロゴロと。
しかし、全く残念至極なことに、このスープ、
一週間煮込んでもさらに用意するのに時間がかかるのか、出てきたのが
全てのコースが終了して今からデザート、という頃。
途中で何度も「佛跳墙はもう少しお待ちください」

あの~、他のもの食べてたら、お腹がいっぱいになって、このスープの
いかにもコース料金の半分くらいのコストがかかっていそうな有難そうな
食材がほとんど食べられなかったんですけど・・・。

このコース+軽めの普通コース+息子の一皿を三人で食べても、
案の定多すぎて、このころにはもう「見るのもいや」状態ですから、
後から考えたらこれは実に不本意でした。

スープなんだから先に出していただきたかったわ。




そもそもこの野菜は何?

はい、これは台湾にしかない「ライチニガウリ」でございます。
聴いたこともありませんでしたが、普通のニガウリより甘いのだそうです。




なんか見本と全然違うんですけど・・・。
説明には「日本のからしをベースに使ったソース」と書いてありました。

とはいえ、このニガウリモドキもかなり苦かったです。
ゴーヤ嫌いのわたしには正直あまりありがたくない一品でした。

よって、TOに全て押し付けました。



おそらくこの故宮博物院でもっとも有名な「肉形石」があらばこそ、
このレストランもこのような企画を考え出したのでありましょう。
お待ちかね、トンポーローです。



同じ形に切るのが結構手間だと見た。
ここまで凝るのなら、同じような金色の肉乗せを用意してほしかった。
お味は・・・・・
わたし、こういう脂っぽいのが苦手なものですから、何とも・・。



ここで反則技。
元時代の雲林堂飲食制度集という古書から、
どうやらこのレシピを見つけてきて再現したもののようです。
見た目まるでロールサンドイッチ。
材料はガチョウ、エビ、豚の頭(え?)、カニなどと書かれているそうですが、
ここのははちみつなどで味付けしたガチョウを使用しているそうです。




たぶんこれだったと思います(-_-)
茶色いのは豆腐で、中をくり抜いてお皿のようにして春巻きを立てています。



これも、トリの料理のレシピが書かれた経典からの復刻。
中にエビ、ネギ、などの野菜をぎゅうぎゅう詰めた鶏の手羽。
丸々してますが、これは中の詰め物のせいです。



ソースはメイプルシロップとお酢がベース。
皮がパリッと香ばしく、わたしは味見しただけですべて息子に取られました。



TOのコースに佛跳墙のようなスープが。
でもこちらにはそれほど手間はかかっていないはず。



大根モチのようなもの。
TOのコースに出ていました。
今見るとおいしそうですが、
このあたりになると全くよそのお皿に食指動かず。




デザートは、工芸品の「折り畳み式棚」からインスパイアされたものが、
同じような「でもよくあるタイプの」棚にいろいろ乗せられて出てきます。




これが出てきたとき、つくづく三人分頼まなくて良かった、
と胸をなでおろしたわたしたちです。
もし頼んでいたらこれが三人分出てくるんですよ?

 





ここにも白菜発見。
しかし、これはもうすでに「ネタ」みたいなものですから、
美味しいとかおいしくないとかの話ではありません。
「白菜だ」
「白菜だね~」
パク。終り。って感じです。

 

はっきり言って日本の銘菓「ひよこ」の方が美味しいと思いました。
それにしてもわたしがこれを首だけ食べたら家族から批難されたのですが、なぜ。
右側はクルミをかたどったお饅頭です。

 

肩で息をしながら(それでもかなり残して)全品食破?しました。



これは、何が珍しいというわけではなく、入れ物です。
氷を細工した器。
これは「こんな型があるのかねえ」などと言って大して気にしなかったのですが、
あとから英語の説明を読んだところによると、この製氷をした
シェフのクオ・リンロン氏は、氷細工の大会で賞を取ったことがあるとのこと。
そのクオシェフが製作したのが、このお皿であるということですが



これ、そんなシェフの作品だとは全く思わなかったのでちゃんと撮らなかったのですが、
そう思わなくてもしかたないくらいフツーの氷だったんですよ。
しかも、このセンスのないというかやる気のなさそうな果物のアレンジ・・・。

さて、全コースこれで終了。

まあ、美味しかったし話のたね(わたしにはブログネタ)にもなったよね。
とお勘定を払って帰ろうとしたら、ウェイトレスが

 

This is for you、といって、メニューをくれました。
どうやらこのコースを頼んだ人には記念にもらえるようです。

さて、このコース、お値段はおいくらだと思います?
400元、つまり日本円で言うと12000円。

これを高いとするかどうかは意見の分かれるところでしょう。
ただ、たとえばコースに出された佛跳墙ですが、たとえばこれ、北京で食べると、
一人分で日本円の5000円、大皿で高いものは10万円。(日本円)

日本で食べると、たとえば銀座アスターでいただくと、

21万円。


なんなのこの非現実的な値段設定。

「ブッチョウタンって、この間テレビでやってたの!食べてみたい」

と女の子に言われて、2万1千円か、やたら高いスープだな、でも
まあドンペリねだられるよりましか、と思ってうっかり頼んで、
お勘定書きが来たとき青ざめるようなことになってしまいそうです。

・・というようなゴージャス料理がコースに入っていたのだから、これは
非常に安いといってもよかったのではないでしょうかね。

・・・・・ん?

・・・・・・・・・んんん?

その佛跳墙、エリス中尉、あまりにお腹がいっぱいだったので

ほとんど残したんだった・・・・orz

嗚呼、無知とはなんと贅沢であることよ。






台湾を行く~犬と猫と鳥と

2013-01-29 | お出かけ

日本だろうがどこだろうが、犬猫鳥を見かけるとシャッターを押します。
所変われば動物代わる。
日本では見られない動物の生態が見られれば旅は尚楽し。

というわけで、今回の台湾旅行で撮ってきた動物の写真をお届けします。
といっても、アメリカの自然保護区にいるような貴重な鳥動物などではなく、
その辺の野良犬野良猫野良鳥ですので念のため。



全く関係ない話からですが、1月1日の台湾のテレビニュースでは、
なんと紅白歌合戦でMISIA(米希亜)が砂漠の歌姫になった!
というニュースが流れておりました。
どの辺がニュースなんだかさっぱりわかりませんが、台湾って、
結構日本の芸能界に精通しているんですね。

こんなニュースを見ながら元旦、台南に出発。
台南に着いた次の日、さっそく以前お願いした「飛虎将軍廟」を見学。
そのあとタクシーで、オランダ統治時代の古城、ゼーランンジャ城、
そしてプロビデンジャ城を観に行きました。

 

みなさん、昔々、台湾はオランダに支配されていたって知ってます?
大航海時代(15世紀)にポルトガル人が発見し
「イル・フォルモサ」(美しい島)と名付けたのが台湾。

その後オランダ人がこの地にやってきて植民地支配を計画。
当初、彼らは住民を比較的良く扱い住民も好意的だったのですが、
城塞の完成とともにオランダ人たちは本性を剥き出して圧政を加え始めました。
歴史を紐解くまでもなく、当然の世界の常識からして自然の成り行きです。
人頭税(人間の頭数に応じて課税する)によって重税を取立て、台湾人を人間扱いしない、
ただ搾取するだけの典型的な植民地として、オランダはこの地を経営しました。
そして大陸から大量の漢人を呼び寄せます。
先住民と移民の対立を利用した分割支配を行うためです。

台湾中興の祖といわれる鄭成功(成功大学の成功です)がオランダを制し、
台湾人の手にこの地を取り返すまでの38年間、この城は使用されていました。

この鄭成功についてはまた別にお話ししたいことがあります。

このお城のある地域は、昔はもっと海がせまっていたそうですが、
今は工場や住宅街がある比較的にぎやかな街ができていました。



このゼーランジャ城一帯を記念館とした一角の道向かい。
向こうのほうに「屋上の上に増築した家」がありますが、これも
台湾でしばしば見かける建築様式(?)でした。



シュールです。

「台湾って地震なかったっけ」
「あったよねえ」
「あれ、もしかして台の上に家乗っけてるだけなんじゃあ・・・」
「おまけにあれ、二階建てじゃね?」
「震度3クラスで土台ごと確実に落ちますわ」

息子はこの家の写真を撮りまくり、しばらくipodの壁紙にしていました。
日本人は目をむきますが、電車の窓から見ていると、
こういう「セカンドハウス」が散見されました。
わたしは結構な数の国に旅行で訪れましたが、今まで
(たとえ地震が無い国でも)こういうデンジャラスな家は見たことがありません。

 

他の建築施工例。


それはともかく、お城の周りをぶらぶら歩いていると、



台湾の、中の下、くらいの家かな。
日本と大きく違うのは、ベランダや窓ばど、足場のあるところには、
高層階であっても必ずこのような鉄格子がはまっているところ。
日本がいかに犯罪の少ない国かということでしょうか。


二階だけが妙に汚いアパート。
もう少し歩くと・・・・



猫発見。
暇に任せて観察しまくります。

 

「なかなか美人さんですなあ」
「全然逃げないね。どう見ても野良だけど」
とか言っていたら、目の前でグルーミング開始。

目の前でわいわいやっているのに全く動じません。



ふと視線を感じて見ると、そこには同じ柄のオスが。
「似てるけど、こっちの方が少しかわいくない」
「弟じゃない?」

 

少しずつ近づいてきてこちらを監視しております。

中国語で「猫」は「まお」と読むのですが、面白いのは三毛猫のことを
「花猫」とかいて「ファーマオ」って言うんですね。
昔習った中国語テキストには黒猫が出てきて「小黒」(シャオヘイ)という名前でした



あんまり動じないので、頭の一つも撫でさせてくれるかと思いました。
しかし、野良にしては太ってますよね。

台湾のペット事情というものはよくわからないのですが、
少なくとも猫は台北では外には出さないのではないかと思われます。
一度、台北の繁華街で、車から、真っ白な猫に縄をつないでいる人を見ました。
一緒にちゃんと歩いてくれるような動物ではないと思うんですが・・・。



猫はこれを含めて三回しか目撃しませんでした。



本物ではありませんが。
これいいなあと思ったのが、台湾の街角にどこにでもある「貸自転車」。
どういう仕組みかわかりませんが、自動販売機のようなものがあり、
一時的に借りることができます。
玉山銀行というのが、ずっとこの招き猫をキャラクターにしています。
そういえば招き猫って、日本発祥じゃなかったですか?



お次は鳥。
ハトはどこにもいます。これは高雄の駅前ロータリーのハト。



白いハトが一羽紛れ込んでいるのを発見。



お城の庭にいたハト。
ドバトは日本のと一緒ですが、この山鳩っぽいのは、
日本と若干違う種類のような気が・・・。




このスズメの写真は前にも挙げましたが、台北の街中のスズメ。
みんなが下を覗き込んでいるのがかわいい。



台南の駅にはホームにスズメがしょっちゅう来ていました。



この台南駅は統治時代の日本が作ったもので、
今でも、日本の駅そのままのたたずまいを残しています。
台湾第二の都市、高雄駅は2002年に地下鉄乗り入れのため、
全面的な再開発が始まったので、やはり日本統治時代の駅舎は廃止。
ただし、歴史を物語る貴重な駅舎なので、博物館として保存するそうです。





ホームで発見、迷彩服を着た陸士長(たぶん)。
台湾は徴兵制です。
来年には廃止されるということですが、今現在は「良心的徴兵拒否」が認められていて、
教育、介護、医療の仕事に着くことで免除されるのだそうです。




切符売り場。
今でもこんな駅、日本のあちこちで見かけますよね。



自動改札の機械ももしかしたら日本製?



という感じで何かと日本そっくりの台湾の鉄道ですが、
こういう木材を放置して朽ちるがままにしているのは日本ではありえない光景です。

ついでに、ホームの向こうに見える台南駅駅舎は、まさに日本の統治政府が作ったもの。
いまだにそのまま使用されています。
台南航空隊のみなさんもこの駅舎を見た、ということなのですよ。
この駅舎についてはまた別の日にお話しすることにして・・。





 


ホームに来るスズメを電車待ちの時間撮っていたら・・・・・



動くものを目の端に認め、ふと線路に目をやり、びっくり!
犬の群れが線路をうろうろしている!



皆、地面を探すように見ながら歩き回っています。
これは・・・日本ではありえないなんてレベルではありません。
いろんな意味で。



毛色はともかく、顔つきが日本の犬と明らかに違います。
はっきり言って、怖い。
皆犬相が獰猛です。



野良犬、というより「野犬」と言った感じ。
ここを根城にしているのだと思いますが、いくら電車が通らないからと言って、
台鉄もここまで放置するというのはいかがなものでしょうか。
きっと夏には匂いとかいろいろ大変なことになっているのではないかと。





なんか本当にピクサーのアニメのようにしゃべりだしそうな風情なんですよねえ・・。
この二匹など、まさに会話をしながら歩いているようです。

「最近どうやねん」
「どうやて、まったくワヤや」みたいな。
(台南なので大阪弁)





中には線路でじっと動かない犬も。
「死んでるんじゃない?」と言いながら観ていたら、



眼を開けました。



この犬も死んだように動きませんでした。
そこまでくつろげるものなのか、ここは・・・・。
それともこちらは本当に死んでる?



あまりに非日常的な(われわれには)光景に、大騒ぎ。
「電車にひかれないの?」
「食べ物なんかどうしてるんだろ」
「あああ、あんなところで『俺たちの旅』ごっこしてるよ~(画像)」
「なにそれ」
「中村雅俊のテレビドラマ。みんなで線路の真ん中歩くの」
「知らん。なんでそんなの知ってるの」
「再放送で見た」





絶対会話してますよねー。
真ん中の犬はシェパードの血が入っているな。



総じて台湾の野良犬はワイルドです。
でも、こんないかにも野犬、って感じの犬が首輪をしていたり、



飼い犬っぽいのが野良犬だったり。

日本の人たちが連れているような洋犬を散歩させている人もないではありませんが、
ごくごくわずかです。
小さい愛玩犬は比較的よく見ましたが、レトリバーとアフガンを台北で一回ずつ見ただけ。
もしかしたら日本人であった可能性もあり。



一度はバイクの足元にテリア系の犬を乗せている女の子を見ました。
これ、落ちないのかしら。
首に縄をつけてるけど、かえって危なくないかな。



犬に洋服を着せる人はここにも。



ゼーランディア城の近くにあったお寺の屋根飾り。
言ってはなんだが、我々には手間暇かかっているわりに「美しい」とあまり思えません。
細部に凝りすぎて、ただ圧倒的なだけなんですよね。
感覚が違うんでしょうが。

このお寺の近くを歩いていくと、道の向こうにお墓がありました。
異国の墓地というのは非常に興味をそそられるものです。



しかし、なんというんでしょうか、台湾の墓地というのは・・・・。
落ち着かないというのか、整理がなっとらんというのか、
どこのを見てもこのアトランダムな、カオスな配置なのです。
いうてはなんだが、先ほどのお寺の飾りのような、心がざわざわさせられる感覚。
どうやら火葬もしないようですね。



アメリカの墓地は整然と緑に囲まれて、特に東部には公園のような美しい緑に
静寂のなかにも明るさがある、非常に敬虔な気持ちになりやすいものですが、
・・・・・いや、まあ、台湾のお墓の風情に文句を言うわけではありませんが。



ここには大東亜戦争にこの地方から参加し戦死した台湾人のお墓があるようです。



こういうものを見ていると、またもや眼の端に動くものを捕えました。
「犬だ」
「なんでこんなところに」
「飼い主が死んだので墓守りをしている犬?」

そういえば、イタリアで死んだ飼い主に葉っぱなどをお供えしている猫がいると
そんなニュースがありましたが、そういう感心な忠犬なんでしょうか。



と思ったらこのお墓の上にも忠犬発見。

「あれも飼い主が忘れられなくて、お墓の上で・・・・」
「じゃないんじゃない?さすがに」

先に歩いて行ったTOと息子が
「わああ!」
大きな声を出すので行ってみると



もしかしたら、みなさんここに住んでらっしゃいますか。



棺?の上は日当たりが良くて暖かいんですよ(たぶん)。




なんと、この辺の野良犬は墓場を根城にしている模様。
おまけにこの犬、耳が片方ないよ~。



この犬も耳が欠けてるよ~。
犬というより、コヨーテみたいな顔してるし、人間だったら指が無い人たちみたいな感じ。
しかも、こうやってじっと人を見るので、少し、どころかかなり怖い。








台湾の犬は精悍というか、ハードボイルドな感じです。
日本の甘やかされている飼い犬どもに向かって、

「けっ!人間のイヌが!」

と唾を吐きそうなくらい、ヤクザっぽさと凄味が漂っています。
猫にはなごんだわたしたちですが、群れをなす野犬はかなり恐怖を感じました。


とはいえ、人間と犬が仲良くしている様子はこんなところにも。



仲がいいというより、ただお弁当の端っこを分けてもらえるので近くで寝てるだけなのかもしれませんが。



烏山島ダムの料金ゲートにいた犬。
いかにも病気という感じの、ぼさぼさした毛並。
しかし、どうもなにか食べ物を貰っている様子でした。




一度、ホテルの隣の名門大学、成功大学キャンパスを歩きました。
台湾の犬おばさん発見!

日本には猫おばさんはいても犬おばさんはいません。
野良犬がいないんだからいなくても当たり前かと思われます。
野良猫のえさやりが時として地域住民の顰蹙を買うわけですが、
台湾でも野良に餌をやる行為は顰蹙なのでしょうか。
おばさんは顔バレしないようにか、大きなマスクをして自転車で乗り付け、
犬に餌を与えていたと思ったら疾風のように行ってしまいました。
やはり人目をはばかる行為なのかもしれません。



しかし、このおばさんのおかげか、学生も餌をやるのか、
ここの犬は肥満と言っていいくらい皆まるまると太っていました。
飼い犬ではないけど「学内犬」って感じです。

昔行ってた我が大学にも一時白い犬がいたなあ。
学長の名前付けられて、いつも眉毛描かれてたっけ。



日本でも昔は野良犬が存在したそうですが、今はこのような、
野犬化している犬を見るだけで不思議な感覚がするくらい町から姿を消しました。
台湾は写真でもお分かりのように、日本とそっくりな景色があちこちに見られますし、
先端では急成長している国ではありますが、それでもこういう光景を目の当たりにすると、
先進国と中進国の違いといったものを強く感じます。

お出かけから帰ってきて、ホテルの高層階から台南駅の線路を見降ろすと、
それまでは全く気付かなかった犬たちの姿が、今度ははっきりとわかりました。

それまで線路を見ても全く目に入らなかったんですね。


台湾を行く~金美齢さんと蔡焜燦さん

2013-01-28 | 日本のこと

基本的に

「世界はあまりに広くそして人生は短い。
できるだけ死ぬまでにいろんなところを見たいので、
旅行で訪れる場所はどんな素晴らしいところでも一度だけ」

と決めていた我が家が二年連続で台湾を訪れた理由が、金美齢さんです。

昨年、金さんとはある講演会で初めてお会いし、その後「遊びにいらっしゃい」と
お声をかけていただいていたのですが、ご縁はそれだけではありませんでした。
うちのTOが、その後ある地方の仕事先で金さんとばったり再会したのです。

「この運命的な出会いで、独身の男女同士なら恋に落ちるのでしょうが、
残念ながら彼(TO)には素敵な奥様(わたし)がおられまして・・・」

金さんが人に語ったという再会の様子です。
そのとき、台湾旅行から帰ったばかりだったTOがその話を彼女にすると、

「来年のお正月台湾に来るならご馳走してあげるわよ」

この言葉を聞いて、誰が再び台湾に行くことをためらうでありましょうか。

しかも、台湾という国についてその歴史も深く知らず、
「地震でたくさん寄付してくれたお礼の意味を込めついでに美味しい台湾料理」
程度の目的であった前回とは違い、金さんの講演から知りえた日本と台湾の関係、
日本が統治時代を通じて台湾に残したものをできるだけ感じる旅にしよう!と、
向学心と探究心を掲げ、満を持しての再訪です。

え?

その割には台湾に着いてから「どこに行こう」なんていってなかったか、って?

エリス中尉、自分が自分に対して認められる数少ない強みがあるとしたら、それは
「実行力とそれを遂行するための企画力」ではないかと僭越ながら思っています。
よく言えば。
悪く言えば「思い付きを熟考せず行動に移す考えの浅さ」ともいう果断即決は、
ときとして後々のトラブルを生む結果となり、「やめりゃよかった」
と思うことも過去にないわけでもなかったのですが、まあその話はさておき(-_-)

今回の台湾旅行は、この会合だけが最重要にして重要目的であったわけで、
そのほかのことは全く「おまけ」。
つまり後のことはすべてこのわたしの実行力と企画力に委ねられていたというわけ。

この会合が旅行の前半にあったことが後半の行動に大きく影響を与えることになったのですが。


この会合には、その影響のもととなった「サプライズ」が待ち受けていました。

 

指定されたレストランは、都心の一角にある普通の中華料理店。

名前からもお分かりと思いますが、ここは「鶏専門店」。
台湾っ子にも有名な美味しい鶏料理が食べられる家だそうです。



ここは金さんのお気に入りのお店だそうで、
しかも、この日私たちのために珍しい烏骨鶏を予約してくださっていました。



金さんは時間通りに店の前に現れました。
皆で店の奥の個室に入り、二つのテーブルに分かれて座ります。
勿論、メンバーは皆初対面。
個人参加であるわたしたちにはよくわからなかったのですが、
金さんの「私塾」や、あるいは「李登輝友の会」の人々であるように思われました。

テレビによく出演しておられるので皆さまのほうがご存知かもしれませんが、
実際に見る金さんは、小柄ながら実にオーラのある人物で、
お肌もつやつやして実にお美しい。
これで御年79になんなんとするとは、知らなければ誰も思わないでしょう。



おまけにこのお洒落なこと。
白髪と色白の肌ににエルメスオレンジのストールが映えて粋です。



金さん、どうやらエリス中尉と同じくエルメスファンと見た。
バッグもストールと同色のエルメス、右の紙袋は、金さんの定宿で、
台湾の家のように支配人以下全従業員に迎えられるというシャーウッドホテルの紙袋。
ちなみに被っておられるお帽子もエルメス製でございました。



型通りのあいさつの後、金さんが紙袋から出してくれたのは、
エビアンのボトルに詰めたホテルのオレンジジュース。

「ここのは美味しいので、お酒の飲めない人のために持ってきたの」

ということで、それはわたしたち家族のためってことですか?
台湾は果物が美味しいので、フルーツジュースも美味ですが、
それをわざわざ持ってきてくださるという金さんのお心遣い。
こんなところにもこの女性が多くの人を惹きつける秘密が垣間見えました。

皆が席に着いた頃、金さんが
「今日はサプライズゲストを呼んでるのよ」とおっしゃったので、
一同ワクワクして待つことほんの少し、そのゲストとは、



タイトルでもお分かりのようにそれが蔡燦坤さんでした。

蔡燦坤(さい・こんさん)

もしあなたが司馬遼太郎の「街道を行く―台湾紀行」を読んだことがあるなら、
その文中、「老台湾」と司馬が称した「元日本人」、蔡さんのことが書かれているのを
ご存知かもしれません。

あるいは、小林よしのりの「台湾論」で、金美齢さんとともにその漫画に登場、
この漫画の中で語られている日本統治から戦後国民党の支配に変わった台湾が、
いかに蒋介石の元で大陸からの支配により荒廃し、白色テロによる戒厳令で
圧政に耐え、日本時代と日本精神の素晴らしさを懐かしんだかと言ったストーリーは、
全てこの蔡さんの著書

「台湾人と日本精神(リップンチュンシン)―日本人よ胸を張りなさい」

からそのほとんどが取られていることをご存知かもしれません。
わたしは実はこの本をそのとき読んでいませんでした。
度々その題名を目に止め、読みたいと思いながら機を逸していたのを
このときほど後悔したことはありません。

その後帰国と同時にこの本を注文し、第一空挺団の降下始めに持参し、
降下および訓練の始まるまでの待ち時間を利用して、立ったまま読破しました(笑)

そして、この本によって、今回台湾で見学した歴史的な痕跡、建築物や記念館や、
あるいは現在残る国民党政府の「聖地」など―と史実が見事につじつまが合ったというか、
絡んだ糸がほどけたような、「そうだったのか」と合点がいったような気がしました。

それについてはまた写真を挙げながらお話ししていくつもりです。

とにかく、その伝説の「元日本人」「老台湾」そして「愛日家」、蔡焜燦氏が、
今まさに目の前に、しかもすぐ近くに座っているのです。



「みんな僕の本読んだの?」

わたしは勿論、テーブルの誰一人として読んだものは無かったらしく、
皆きまり悪そうに俯きました。
今まで何度も読もうと思っていただけに、ここで「読みました」
と言って差し上げられなかったのが今でも悔やまれます。

ところで、参加者は二つの卓に別れ、こちらには蔡さんが、向こうには金さんが、
と、その後もずっと動かずに食事が進行しました。
こちらでは蔡さんがいかに普通の日本人より知日であるかに驚かされっぱなしです。

しかも、かつて体育の教師でもあった(体育だと戦後公用語となった北京語を使わなくて済む)
という蔡さん、いきなり、
「西郷隆盛が自害した時に介錯したのは誰だったか?」
というような「日本人なら誰でも知っているべき」小ネタを先生口調で問いかけ、
「知らんのか。しょうがないなあ」と講釈が始まります。

ちなみにこの話がどういう流れであったかというと、金さんが開口一番

「わたし、今はなんといっても安倍さんとラブラブだから」

と言って一座を笑わせたことから始まった話。
つまり別府晋介の晋と、安倍晋三の晋が一緒の字である、ということが
おっしゃりたかったのではないかと思います。

「西郷隆盛は最後に『晋どん、ここらでもうよか』と言ったんだよ」



わたしは蔡さんのなさった質問に『ハイ!』とこれもつい生徒のように手を挙げました。
そのうち蔡さんは
「そこの別嬪さん(強調)、あんたは何をしているの」
「ハ、ピアノを弾いています」
それからというもの、何かというと円卓の中の紅一点だったわたしに

「皇太子殿下のお誕生日はいつか?」
「知りません」
「美智子さまのお生まれになった日はいつか?」
「知りません」
「肉弾三勇士の名前を知っているか?」
「(全く)知りません」

と、日本人でもほとんどが知らないような質問を・・・・。orz




時折このようにメモを出しては字を書きつつお話は続きます。
この写真を拡大したのは、蔡さんの使っている万年筆を見ていただきたく。
いかにも昔の文人が愛用したような、ただものではない万年筆。
金さんの持ち物に目を奪われるように、蔡さんのこの筆記具にも、
「昔の日本人」を見るようで、わたしは手許を凝視してしまいました。

「みんなだめだなあ、本当に日本人なの?」
「ここにいるだれも俳句はしないのか?」

蔡さんはしょっちゅうこのように皆に問いかけ、その都度一同下を向くのですが、
それはわたしたちに呆れているというより、いかに自分が日本人であったか、
そして日本をよく知っているかを日本人、ここに集まった若者に伝えたくて仕方がない、
そんな蔡さんの無邪気な自慢の発露であるように思われました。

つまり、この人はたいていの日本人の知らないことを知っているだけでなく、
元日本人として日本を評価し、熱烈に日本を愛してているのです。

ちなみに「建国記念日」は紀元節、「文化の日」は「明治節」に戻すべきだ、
とおっしゃってもいましたよ。

蔡さんは18歳まで、日本人でした。
台湾に志願兵制度ができたとき、志願して陸軍整備兵となり、奈良教育隊で終戦を迎えました。
日本が負けたとき、蔡さんはじめ台湾出身の兵隊は、皆泣いたそうです。

戦後、日本の統治政府が去った台湾に戻った蔡さんは、他の台湾人と同じく、
大陸からやってきた国民党の無教養で野蛮で、略奪や汚職を何とも思わない民度に愕然とします。
そしてそのあと、2,28事件などを経て、李登輝総統によって民主化がもたらされるまで、
台湾の暗黒時代、いわゆる「白色テロ」の時代を通じて、自分が日本の教育によって
その骨肉を作られている「元皇民」であるということをいつも実感し続けてきたのでした。

この日、その蔡さんの口から聞く「歴史的証言」について、
思い出す限り何かの折に触れて書き残したいと思いますが、
とにかく、蔡さんは「日本人の心を持つ、台湾人」、
まさに司馬遼太郎のの言う「老台湾」そのものでありました。

蔡さんの独演会の合間に、向こうのテーブルでは金さんが、

「娘が言うのよ。
わたしがもう七十八歳で無かったら、安倍さん安倍さんなんて言っているのを
ヘンな風に勘違いされてしまうからよかったわねって」

「安倍さん、三回も電話くれたのよ。
総裁選のとき、解散のとき、選挙の後。
『総裁選立候補しました』『総裁になりました』『選挙勝ちました』って。
いちいち報告してこなくても、こっちは知ってるのにねえ」

などと皆を笑わせています。
ご存知かもしれませんが、金さんは第二次安倍内閣の成立を念じ、
東奔西走してその力になっていた一人です。
このときには安倍氏が新内閣の総裁として選挙に勝ち、金さん言うところの
「日本人のための政治をする内閣」が成立したことに対する一方ならぬ感激が
まだ尾を引いているのではないか、と思われました。

さて、そんな和気藹々とした?会話の中、テーブルには

  

黒っぽい肉が金さんが特にレストランに頼んで出してくださった烏骨鶏。
じつに滋味あふれるお味の肉でした。

蔡さんは、テーブルでひとしきり話をしたと思ったらつと立って、
そこにいる全員に前置き無く、話をひとくさり始めます。



詳細を忘れてしまったのが残念ですが、ある文書か書籍について
「これをあんたの事務所で皆に送ってもらってだね」
と蔡さんが金さんに言うと、金さん、言下に
「やーだよー!」

皆大笑い。
というようなやりとりに二人の厚い友情?も垣間見ることができました。
ちなみに、蔡さんはその著書で金さんのことを
「台湾のジャンヌ・ダルク」だと絶賛しています。

同じテーブルに(詳しくは自己紹介しなかったので会話から想像するだけでしたが)
わかっただけで新聞記者、中学校の先生などの方がおられました。
台湾からの義捐金に対する感謝イベントを企画したと思しき人もいました。
李登輝友の会から来ている人もおられたようです。

興味深かったのは、北海道から来た中学の先生たち。
エリス中尉、例の「コスタリカ事件」で家庭教師をクビにしたばかりで、
その話をごくごくかいつまんでさせていただきました。
ところで、北海道と言うと別名「赤い大地」。
日教組活動が盛んで、北教組による民主議員への裏金工作事件もありました。
「北海道というと・・・・・」
それを思い出し、ついこれだけ言ったところ、そのうちの一人の方が、

「そういった教育を何とか変えようとしているんです」

とおっしゃいました。
金美齢さんを囲む会に出ている方であるからには、当然そうなのでしょう。
具体的にどのような活動をしているかとかいうことまでは聴きませんでしたが、
帰りに金さんがその先生たちに向かって、

「わたしはさ、ほら、何を言ってもある意味大丈夫だけど、
急にいろいろとやると、反動(だったかな)がどうしてもくるから、
気持ちはわかるけど、その辺は焦らずにね」

というようなことを言っているのを聞いて、
その冷静沈着かつ賢明なことにあらためて感銘を受けました。
この言葉により、わが身の果断即決に流れ易きを反省した次第です。

さて、何回目かに皆の前に立った蔡さん、なぜかいきなりわたしの名を呼んで
「こっちに来なさい」
言われるがままに隣に立つと、

「あんたピアニストなんだから歌いなさい。『十五夜お月さん』。
♪じゅ~う~ご~や~お~つきさ~ん」

いきなり歌いだす蔡さん。
「せ、先生、キイが高いです」

以降、蔡さんが三番まで歌詞を朗読し、それについてわたしが
全曲この歌をみんなの前で歌うはめになったのでございます。

十五夜お月さんという歌を台湾人の蔡さんがが一言の間違いもなく覚えている、
というのも不思議な話ですが、エリス中尉がが小さいとき、もちろん覚えていませんが、
聴くといかなる時も涙を流した、というのがまさにこの曲なのです。

父がうまくもない自分の歌で赤子が泣くのを面白がって繰り返すため、
母が怒って「いい加減にして」と文句を言ったこともあるという思い出の曲でした。

不思議、というほどではないにせよ、縁というものを感じた一瞬でした。

TOはあとで「君があんなに蔡さんにいろいろと話しかけられていたのに、
僕は存在すら気づいてもらえなかったらしいのが印象的だった」
と拗ねていたのですが、まあそれはほかの男性陣も似たようなもので^_^;


「老台湾」と「台湾のジャンヌダルク」を囲む、若い世代の日本人たち。
この二人の台湾人より日本の文化に詳しく、この二人の元日本人より
日本を本当の意味で評価している日本人はいないのではないか、と
最初から最後まで圧倒されるがままと言った感のある一夜でした。




お開きのあいさつをする金さん。
「向こうのテーブルばかりでこちらにお構いもできずにごめんなさいね」



この日の食事はお二人にごちそうしていただきました。
金さんによると「何日にもわたる酒池肉林」のうちの一日だったとか。



皆でお見送り。

最後のあいさつのとき、金さんが
「台湾は人が暖かいでしょう」
と誇らしげにおっしゃいました。

実はこんなことがあったのです。
皆が到着してしばらくした時、タクシーの運転手が店に来て、
「さっきここで降ろした人が座席に携帯を忘れていった」と持ってきました。

すぐさま蔡さんが出て行き、どうやらお礼のいくばくかを握らせたようです。

帰ってきた蔡さん、携帯を忘れた人に「手を出しなさい!」
その手を軽くぱしっとたたいて、
「あんたが忘れ物などするから、わたしが御礼をした」
その人は頭をかいて恐縮し、皆、台湾のタクシーの運転手が、
まるで日本並みに誠実で親切であることに感心しました。
ところがこの話はここで終わらなかったのです。

そのお金を受け取った運転手は、自分がそれを取らずに、
車の中に待たせている客にそれを渡そうとしたらしいのです。

というのは、もともと携帯を見つけたのは次に乗った客でした。
その人は車をレストランの前まで戻ってこさせ、さらに
運転手に携帯をレストランに届けるように頼んだのだそうで、
さらに蔡さんから預かってきた運転手の出すお金を
「そんな御礼などいらない」
とわざわざ返しにこさせたというのです。

よく「忘れ物が必ず帰ってくる国」日本が、訪れる海外の人々に驚きとともに
絶賛されているようですが、台湾もまたこうなのです。
蔡さんに言わせればこれも「いまだ残る台湾人に根付いた日本精神の証拠」。

運転手と乗客、二人の台湾人の行為に一同が感心して嘆声を漏らすのを、
二人の日本精神を体現する台湾人は実に誇らしげに眺めていました。



 


台南を行く~シャングリラ・ファーイーストプラザホテルの実力

2013-01-27 | お出かけ

息子がクレープに入っていたそば粉でアレルギー症状を起こし、
久しぶりに旅先での「事件」というものに遭遇した我が家です。

我が家は旅行好きで、しょっちゅうあちこちに行っているわりに
重大な事件には今のところ遭遇していませんが、
この事件は今までの中でもベスト10に入るくらいのちょっとした騒ぎでした。

ちなみに、今まで起きた旅行中の大(中?)事件を思い出すまま挙げてみると

1、マイアミ旅行中TOがぎっくり腰になって荷物をすべてわたしが運んだ
  (そんなときに限ってエレベーターの無いモーテルの二階に部屋があった)

2、ボストン空港からクリスマスにマイアミに行くとき(1とは別の時)、
  クリスマス休みを取る搭乗客が多すぎて飛行機に乗れなかった
  空席待ちを二本かけて最終便で現地に着いたのは当日深夜 
  こんな時に限ってこの日予約していたのはリッツカールトンだった

3、恒例の夏滞在中、サンフランシスコで息子が滑り台から落ち腕の骨を折った

4、パリで借りていたアパートのガラスドアが、突風で閉まったときに粉々に砕けた

5、ローマのホテルのカフェでホテル従業員(女)の釣銭詐欺にあった

6、高知の温泉に行ったとき、出発前空港で食べた夕食の何かに食あたりし、
  帰りの出発までずっと旅館の天井を見て過ごした

まあ、この程度ですから、事件などというものに数えられるほどでもないのですが。

その他、ニースのホテルでは部屋が取れていないためTOがフロントとケンカ、
キーウェストでは窓を挙げたら目の前に排気口がある部屋で部屋を変えろとクレーム、
部屋を変えたら今度は食べ残しのキーライムパイがテレビの後ろから出てきてクレーム、

ホテルへのクレームとその対応にいらいらしたことなら数えきれないくらい。

つまり本題ですが、この台南シャングリラ・ファーイーストプラザホテルの危機対応には
今までいやというほどホテルに泊まってきた我々にも絶賛すべき
手際の良さと誠意とホテルのホスピタリティが溢れていたと言うことができましょう。

えてしてこのような巨大ホテルは、超一流でもなければサービスが雑になりがち。
ましてや駅前の一等地にあるホテルで必要以上に高くないのに食事が美味しい、
そんなところをわたしは日本で今まで見たことがありません。

このシャングリラは、まさにその希少なホテルの一つでした。

台北のホテルは、確かにお値段も食べ物のおいしさも「それなり」でしたが、
日本人にとってそれなりでも、おそらく台湾人にとっては
「もっと安くておいしいところなんていくらでもある」というものなのだと思いますが、
このホテルは台北のどのホテルと比べても段違いに上等でした。

着いて二日目、メインダイニングに行ってみることにしました。
最上階にはバーラウンジではなく、得意中の得意、台湾料理のレストランが。

 

周りに予約で座った客はすべて日本人観光客。
レストランの従業員は基本英語で接待し、日本がしゃべれる何人かが
各テーブルを走り回っていました。
しかし、決して達者な日本語ではなかったので、
英語がしゃべれない隣の中年夫婦は見たところ大変苦労なさっていました。

ここでは二種類のコースを頼み、三人で分けることに。



冬瓜の中に詰められた魚のすり身。
ソースはカボチャ。



エビのソースがけ。



銀杏と白菜の煮物。
台湾で目覚めたのが銀杏の美味しさ。
この白菜と餡で絡めたのが美味しいんですよ。



どこでも頼んでしまう水餃子。
スープをたっぷり含んだ餃子を蓮華に乗せて
「あつっ」
などと言いながらフーフーしていただく。
どこに行ってもこの餃子だけは掛け値なしに美味しい。



ピーマンと鳥の炒めもの。
これがいわばメインコースでした。



これは隣のテーブルの人が食べていたもの。
あまりにも不思議な造形なのでこっそり写真を撮りました。
何だったのか最後までわからず。
餃子の皮のようなものか、野菜にソーセージ状の肉をコーン巻にし、
それを積み重ねたものだと推測してみる。

ここはこのホテルのメインダイニングですから、いろいろと気合の入った料理、
お味は勿論見た目も凝りに凝った一皿がいただけるのですが、
ルームサービスもキッチンから直接頼めるのがうれしい。
むしろ、和洋中取り合わせて好きな量いただけるので、
我が家にはこちらの方がありがたいことが多いのです。

というわけで、頼んでみたルームサービス。



食事の量の割にデザートが多すぎないかって?
しかし、これすべて一皿が結構ボリュームがあるんですよ。
デザートも、日本のケーキの1,5倍は優にあります。



息子の頼んだチキンバッファローウィング。
少しピリ辛で、結構な味付けでした。



シンガポール風ビーフン。
野菜もエビもたっぷりです。
非常にあっさり味の、いくらでも食べられてしまうお味。



そして冒頭の大きな写真(大きすぎた)のピラミッド。
これ、なんとトンポーロ―なんですよ。
二日目に行ったレストランで、やはり隣の人が食べていたのですが、
同じものをメニューの写真に発見したので頼んでみました。
これ、どうやって肉をこんな風に重ねてあるの?



おまけに中はくりぬかれてソースがなみなみと湛えられています。
おそらく、大きさの違う四角く切った肉を積み重ね、ピラミッド状にして、
それからその形のまま焼き、焼きあがってから仲をくり抜くのではないか、
と想像してみましたが、それにしてもこんなに正確に肉を切り、
細工をした料理を、ルームサービスにまで出すという・・・・・・・・。

いろんな意味でこれははっきり言ってヘンタイです。
技術を究極まで極めるのが日本人ですが、こちら方面の技術、
しかもこの技術が使われているのが特別の料理でもなんでもないというあたりに、
台湾の人の食にかける熱意のヘンタイぶりが覗えます。

そしてお味も大変よろしかったのですが、脂っこいものの比較的苦手な我が家の面々、
三人がかりでもこのピラミッドを制覇することができず、残してしまいました。

今写真を見ると、もったいないことをしたなあ、と思います。



デザートは、ブラウニー。



チーズケーキ。

ケーキ類も皆絶品。
見た目から想像する味から4割くらい甘さを引いてください。
それがこのホテルで食べたケーキの味でした。



たとえばこのモンブランですが、「モンブランにうるさい」エリス中尉が、
パリのラデュレより、銀座のホテル西洋銀座より、明らかに上であると
厳かに宣言するほどの逸品でございました。
TOなど、出発間際にもう一度食べたくてわざわざ買いに行ったくらいです。
残念ながら売り切れていましたが。



美味しかったのは洋物スイーツばかりではありません。
この「SAGO」が入っている(サゴヤシから取るタピオカ)珍しいマンゴーのスープも。

ところでいつも美味しいものより珍しい食べ物に関心を示すTO。
去年台湾中部の日月潭に行った時も、日月潭でしか捕れないいう
「総統魚」を注文していましたが、今回もメニューを丹念に眺めていたと思うと
ウェイトレスを呼んで「これは何であるか」などと聞いています。



老鼠班。

齢を取ったネズミの斑点。
どう見ても食欲をそそらない名前の魚ですが、TO的にはこの
「要予約」というあたりに「珍しもの好き」の血が騒いだのでありましょう。

このパンサー・グルーパー、お値段も「時価」。
しかも、予約してもその日捕れなければ食べることはできません。
「よっぽどおいしいんだろうなあ。食べてみたいなあ」
とTOが繰り返し言うのでググル先生にお伺いしてみたのですが、

・・・・・・・・・・・ひいいいい。

この、日本名サラサハタというハタ科の魚、白に黒のドットが等間隔にある模様。
このたびアレルギー騒ぎを起こした息子の湿疹でも貧血起こしそうになった
トライポフォビアのエリス中尉には、非常にキツイ画像が出てきましたです。はい。

それにしても、こういうセンサーって、魚とか植物や特に皮膚には反応するけど、
ただの水玉もようやダルメシアンなら平気なのはなぜなんでしょうか。

その上に書いてある47番の「マーブルドゴビー」と言う魚は、もともとタイの淡水魚で、
台湾では養殖されてその淡白な味が主に蒸して食べられているそうです。
こちらはカワアナゴのような感じで、こちらなら食べてみたいと思いました。

48番のナポレオンフィッシュ、これは日本の水族館でもおなじみ。
水槽の下の方をやる気のない態度でのそのそしている鈍重な魚です。
これも要予約で食べられるのだそうですが、この巨大な魚を予約して捕ってもらったら、
まるまる一匹分お代金を請求されそうですね。
これも当然ですが「時価」でございます。

と言うように、このホテル、この台南でも結構「特別の人々」が利用するような
ステイタスのあるキッチンを持っているらしいことがわかりました。


しかも、巨大ホテルのルームサービスなのに、デリバリーしてしばらくしたら
電話がかかってきて「どう?美味しい?」

用事は何かと思ったら、それだけ。
「It was so GREAT!」
お世辞抜きでこういうと、おじさんは(シェフかな)実にうれしそうでした。

美味しい料理を提供するだけでなく、マニュアルではないおもてなしの心を大切にする、
日本にもこれだけのホテルはそんなにあるとは思えません。

台湾のサービス業の底力を知った台南シャングリラ・ファーイーストプラザでした


 


台湾を行く~台南でアレルギー騒ぎ

2013-01-26 | お出かけ

我々は元旦に台南に移動しました。
ここでお世話になったのがシャングリラ・プラザ。

台南に旅行を計画している方、このホテルお勧めですよ。
どう素晴らしかったかを淡々と写真を貼りつつご報告します。

実は、台南の駅の南口を出て道を渡ればそこはホテル。
しかし、何も知らない外国人の我々は、北口から出てタクシーに乗りました。
知っていたとしても、北口の階段にはエレベーターもないので乗ったかもしれませんが。
まあ、運転手さんにしたらぐるっと一回りするだけで、一方通行の道のため
結構な料金が稼げるのですからありがたい客だったでしょう。



駅前、成功大学という一流大の前の道。
熊本式ラーメンの店があります。



ここがロビーフロント。
筒状の高層建築なので、ロビーの天井がやたら高い。
座っていたらかわいいチャイナ服(スリット非常に深し)のお姉さんが、
甘いお茶を(竜眼茶)持ってきてくれました。
さらに何も頼んでいないのに地図をくれ、
「どこか観光に行きたいところがあればご相談ください」
このときには八田ダムに行くつもりだったので、
「烏山島ダムに行ってみたいのですが」というついでに、
「八田という日本人が作ったので八田ダムとも言います」というと、
「日本人が作ったのですか。知りませんでした」とおっしゃる。
このあたりの子供は郷土史で八田與一のことを習うと聞いていたので、
もしかしたらこのお嬢さんはよその土地の出身かもしれません。



元旦ですが、日本ではないのでまだクリスマス飾りがあります。

 

ロビーに飾ってあった瀬戸物の置物。息子が
「これ、トライポフォビア(ブツブツ恐怖症)には辛くない?」
うーん、確かに・・・・というか、いちいち思い出させるのはやめろ。

そのように人をからかっていた息子本人が、トライポフォビアも真っ青の
大惨事に巻き込まれるとは、このとき想像できたであろうか。(伏線)

 

部屋は三つベッドを最初から入れているトリプルルーム。
広くて居心地がよく、今までで一番気に入りました。



バスタブの両脇にトイレとシャワーブース。
変わった作りの洗面スペースです。

嬉しいのは、台湾の一流ホテルは、アメニティのシャンプー類に、
ロクシタンのものを使っていること。
ここのも容器はオリジナルでしたが、中身はロクシタン。
ついつい未開封のボトルまでせっせとトランクに入れてしまいました。



窓からの眺め。
左が台鉄の線路で、台南駅です。
このフィールドトラックは、成功大学のキャンパス。


なぜか、いかにもお年寄りを含む一般市民のような恰好の人たちが、
ウォーキング(というよりただ歩いているだけみたいな)していました。
市民にウォーキングコースとして開放しているんでしょうか。

遅い朝ごはんを食べたっきりで夕方になってしまったので、
小腹が減ったわたしたち、アフタヌーンティをいただくことにしました。



ここで事件が。
ガレット(クレープ)を置いていたのですが、その色が黒っぽく、
そば粉が入っているようだったので、わたしはそこにいた二人の女性
(一人はウェイトレスで一人はチーフではないがパティシエ風)に
「これは何からできていますか?」と聞きました。

息子はかなり重度のそば粉アレルギーで、二歳の時、
パリの屋台で買ったガレットを口にして大騒ぎ、ということがあったため
この手のものはいつも材料を聞くようにしているのです。
日本だと使用材料を明記しているところもありますが、もちろん台湾では
そんなことまで気を遣うホテルはありません。

通じなかったので「Buckwheat?」と単語を繰り返し聞いたのですが、
彼女たちのどちらもがこのそば粉という単語がわからなかった模様。
二人で相談して
「材料の粉が何かって聞いてるんと違う?」
「そうや、粉を聞いているんや」と理解したらしく、
調理服のほうが「ホールウィート」と言ったのですよ。確かにね。
わたしはそれを二度確かめお皿をもらってきました。

それを真に受けたわれわれが、食べてみたいという息子に
半分だけとはいえクレープを食べさせてしまい、悲劇は起こったのです。

10分も経たないうちに「喉がかゆい」と言い出し、次いで
「喉が腫れたみたいに痛い」と・・・・

やっぱりそば粉だったじゃないか!

とりあえずその程度ではあったので、部屋に戻り、様子を見ていました。
「しんどいから少し寝る」
横になった息子が夜になって起きてきたのを見て息をのみました。

 

ひいいい~!
トライボフィビアなんて言っている場合じゃない。
熱を持ったブツブツが喉、お腹、鼠蹊部に!
「かゆい?」
「熱くてかゆい」
去年台湾で買い旅行に持ち歩いている紫雲膏の出番です。
ごま油のような紫の軟膏をべったりと塗りまくり、とりあえずマネージャーに連絡しました。

飛んできたマネージャーは、われわれの説明を聞き、
「何もないと思いますが、一番心配なのは呼吸が困難になることなので」
というと、緊急の場合も考えて待機するから、何か異常があったらすぐに連絡を、
といって、一応現場の事情を確かめに戻りました。

そして、戻ってきて言うには
「現場のものはそば粉だと説明した、というんですが・・・・」

どうやら女の子たちはよっぽど怒られたか、クビになる可能性があると思ったのか、
自分が「ホールウィート」だと答えたことは言わなかったようです。

「それは違うと思います。
当初、彼女たちはバックウィートという言葉を知らなかったように思いました。
何度も『これはバックウィートか?』と聞いたのですがそれに対しては
返事がなかったのですから」

というと、「そうですか・・・」とマネージャー。
ただ、われわれは別に興奮も激高もせず、ただ淡々と事実を述べただけで、
マネージャーの申し出に対し逐一「Thank you」を繰り返していたので、
場は冷静に運んだ、と思います。

息子には水をたくさん飲んで体の中のものを早く外に出すように指示し、
様子を見るためにわたしは夜起きていたのですが、本人も楽になったのか
本など読みだしたので、皆で「もう大丈夫だね」と安心していたらチャイムが鳴りました。

ホテルの女の子が二人、「ハッピーニューイヤー」とお菓子を持ってきたのです。
クッキーに2013、と砂糖で書かれたものでしたが、それと一緒に、
ホテルで売っているらしい、チョコレートトリュフの小箱が一つ。



「これ、食べていい?」
息子、お腹がすいたらしくクッキーを食べ始めました。
チョコレートの小箱は、どうやらマネージャーの計らいで
「いわゆるお詫びのしるし」であった模様です。
「このチョコレートは君が体を張って手に入れたようなものだ」
ということで、最初の一つは彼に食べさせてやりました。

そんなこんなで夕食どころではなく、お腹が空いていましたが、
「もう遅いから寝て、明日の朝ごはんを美味しくいただこう!」
「あー、朝ごはんが楽しみだね!」
「ほんとほんと」
そういって三人、ベッドに入りました。

明けて次の日。

 

夕食抜きでお腹も足取りも軽く、われわれは朝食会場に向かいました。
正確に言うと二人が愚図愚図していたので、待ちきれないわたし一人でレストランに向かい、
受付で「1201号ですー」と部屋番号を言うと、なんだか全員が「はっ」とした顔で見るのです。

な、なんですか?

アレルギー騒ぎなど一晩経ってとっくに頭から無くなっていたわたし、
なぜ皆がこうこちらを見るのかわからないまま、席に着き、
とりあえずサラダを取ってくると、席にはここのマネージャーらしい女性がいて

「息子さんのアレルギーがあったというお客様ですか?」(英語)

おそらく、このホテル飲料部では朝礼の時に、
「材料について聞かれたら決していい加減な返事をしないこと。
昨晩1201の日本人客がアレルギーを起こしたのだが、そのとき・・・」
というような経過説明並びに厳重注意があり、さらには
「1201の客が朝食に現れたら、必ず様子を聞くこと」
と全員が言われていたのに違いありません。

「ああ、そのことなら、彼は今朝は大丈夫です」
「もう大丈夫なのですね。それはよかった」
彼女はにっこりとして、わたしの肩に手を置きました。

その日、日中にもマネージャーから二度、大丈夫だったか、という電話がありました。

「しっかりとした対応をしてるよね」
「いいホテルじゃない」
わたしたちのこのホテルに対する評価はこれでうなぎ上り。

 

朝ごはんのバッフェの種類の豊富なこと!
和洋中、食べきれないほど充実したメニューです。
アメリカだと朝食バッフェはどんな一流ホテルでも、
サラダなどはでない(彼らは果物が野菜の代わりだと信じているため)のですが、
名実ともにここの朝ごはんは世界一の品ぞろえです。
右は中華風おかゆのトッピング。
右はその場で作ってくれる「肉入りスープ」。
生の肉に熱いスープをじゃっとかけて供します。
ただ、わたしは朝に食べるものはわりと決まっているので。



ホワイトオムレツ!
さすがに泡だて器でふわふわにしてはくれませんが、
ホワイトオムレツを頼んだとたん、黄身と白身をさっと分離器で分けました。
野菜を全部入れてもらって、まあまあのオムレツです。

 

食べてみなかったけど、なんだかおいしそうだったもの。

このホテルの素晴らしいところは、巨大ホテルでありながら、
料理がやたら美味しかったこと。
特に、お得意の中華料理は、終始呻りっぱなし。

ここでTOはあるメニューを見つけました。
それは日本ではほとんど食べることのできない、
ここ台湾ならではの特別な食材だったのです。(続く)





開設1010日記念シネマギャラリー(戦争映画編)後半

2013-01-25 | 映画

シネマギャラリー戦争映画編、後半です。



「バトルシップ」



ユニバーサル映画100周年記念作品。
え?これが?などと言ってはいけません。

東日本大震災という国難に見舞われた日本に対し「俺たちがついてるぞ!」というメッセージ。
「きれいなジャイアン、アメリカ」が作った「トモダチ・バンザイ映画」だと解釈してみました。

実際に援助の手を差し伸べてくれるだけでなく、混乱に乗じて周辺某国が
火事場泥棒的強行作戦に出ないように、日本周辺に空母、強襲揚陸艦など
緊急配置してくれたのも、ほかならぬアメリカ。

国を挙げて喜び、今こそ日本を叩くとき、などと言っていた某国と違い、
「雨天の友」であることを印象付けました。

こういうことに対し「政治的な下心」だの、「同盟国だから仕方なく」だの、はては
「HARPによって地震を起こしたのはアメリカだ」などという陰謀論を言う奴は、
この際キャンプファイヤーで焼いたマシュマロの角に頭ぶつけてタヒぬがよろしい。

あの災害に関しては、彼らがあの後してくれたことだけを見ようではありませんか。
もちろんほかの国の援助に対してもねっ!

・・・・と言い切りたいところですが、しかし、誰にそそのかされたのか、
つい最近「ロナルドレーガン」の乗組員が、
「おかげで被曝した!金よこせ」
とばかりに東電に裁判を吹っかけてくるという案件がありましたね。
せっかくのいい話が、これで台無し。

・・・・と思っていたら、あの「テキサス親父」が、
「日本人よすまなんだ。
アメリカ軍は情報を知っていたのだから、訴えるべきはそちらなのに、
あいつら何をトチ狂ったんだか」
と謝ってくれたそうです。

ですよねー。

ちなみに、これを観た後、護衛艦「さみだれ」見学をしたエリス中尉、
よせばいいのに「さみだれ」艦長に「バトルシップ観ましたか」と聞いて、
読者の顰蹙を買ったのは記憶に新しいところです。



日本戦没学生の手記「きけ、わだつみの声」




手記「わだつみの声」そのもののお家騒動はじめ、
この映画にもまつわる「左」的なバイアスについてと、
戦争という「秩序崩壊の生んだ新たな階級社会」に放り込まれた
高学歴兵士たちの憂鬱を語ってみました。

昨日、左派映画人たちが「大日本帝国」で気を吐いたと言う話をしましたが、
なぜ映画人たちに吉永小百合をはじめ左派が多いのか、ということも、
「わだつみの声の戦後史」と言う本を読んで納得しました。


「ひめゆりの塔」


実は、このブログの「人気ページベスト3」。
その一角が現在のところ、この「映画『ひめゆりの塔の怖さ』」です。

沖縄戦における日本と日本軍悪玉論者の左巻きな人々に対し、
その主張の矛盾に真っ向から熱く疑問を投げかけてみました。

はっきりいって映画の感想はおまけって感じ(笑)

「パールハーバー」
 



読者のさくらさんからリクエストをいただき、どっぷりと語った
マイケル・ベイ監督、制作ジェリー・ブラッカイマー、「パール・ハーバー」

いや、もういろんな意味で心から楽しませていただきました。
この流れで「チーム・アメリカ」なんてキワモノ映画があったことも知りましたし。

「大金をかけた屑映画」としてナンバーワンの賞を撮ったこの映画、
「チーム・アメリカ」で「パールハーバーは○○だ」という曲まで作られて、
いまでもその地位を確固と映画界に打ち立てております。

最近定期的に観ているCSI:NYのプロデューサーがブラッカイマー。
昨夏、偶然サンフランシスコでこの撮影に出くわし、生の
ゲイリー・シニース(様)を目撃したことがきっかけで観始めました。
これがまた面白いんですよ。CSI:NY。
ブラッカイマーが良くも悪くも、大した制作者であることは認めます。


「人間魚雷出撃す」



潜水艦の戦闘シーンは非常に評価できるのですが、全体的に
「戦後の自虐的反戦思想」に染まりすぎ。
いつも思うことですが、「戦争が悪であること」は周知の事実なのに、
その解釈のまま、当時の軍人を描くのはいい加減にやめてくれんかな、
とこの「回天」を描いた映画でもこのように感じました。

昨日も書きましたが、どのように描いても「戦争賛美している!」
と大騒ぎする連中の非難から逃れられないのが、戦後の戦争映画の宿命。
しかし、「右に寄りすぎ、あるいは戦争中のことをそのまま書く」
ということに対してガンガン文句をいう連中はいても、「大日本帝国」みたいに
あまりに左過ぎる表現に関して騒ぐ人々というのはいないんですね。

さても不思議な現象ではあります。

そして、そんなこんなで声の大きいものに配慮し続けた結果、日本映画界には
「男たちの大和」「聯合艦隊司令山本五十六」みたいな戦争映画しかでてこなくなったと・・・。

「聯合艦隊司令長官 山本五十六」


その「連合艦隊司令長官 山本五十六」。

いまどきこのような映画をつくってもおそらくろくなものにならない、
と呉で宣伝を観たとき断言したのですが、大方その予想は当たりました。
だいたいねえ、五十六を「反戦」という観点からのみ語るってどんな無茶よ?

「全然似てないどころかイメージ変わりすぎだろ?」
というこれまた無茶な配役(上二人)も含めて、なんだかなあ、の五十六映画でした。

でも面白かったし、実際楽しんで観たので娯楽映画としては上出来だと言っておこう。


「太平洋の嵐」


名作、太平洋の嵐。
「ハワイ、ミッドウエイ大海空戦 太平洋の嵐」というのが本題なのですが、
「真珠湾に始まってミッドウェーで大敗する連合艦隊の栄光とその終焉まで」を描くので、
タイトルに何でもかんでも詰め込みすぎて、わけわからないことになっています。
「海軍の戦はハワイ(勝)に始まりミッドウェイ(負)に終わる 太平洋の嵐」
っていうのはどうだろうか。(提案)

いろいろ戦争映画を観てきましたが、この映画ほど配役に隅々まで力を入れた
力技キャスティングはあまりないのではないかと思われます。

そうそうたる男優を眺めているだけで眼福という言葉が浮かんでくるゴージャス戦争映画。
超美人の上原美佐一人だけを女性出演者としてフューチャーしたのも戦略として良し。

エリス中尉個人的にはもっともおすすめの戦争映画です。


「野戦音楽隊」



画像が雑で暗いので作画にも全く気合が入りませんでした(言い訳)

戦争中に作られただけあって、いろいろと「お上の宣伝」ぽいですが、
ストーリーは非常に単純で、素人っぽいオチになごみます。
どうしてこんなに素人っぽいかというと、本当に一般公募されたストーリーだったから。
なぜか一瞬だけでてくるのが李香蘭で、この作品を最後に彼女は
「李香蘭」から「山口淑子」になりました。

上原謙、佐分利信、佐野周二という美男俳優ばかりをそろえた割に、
映像が酷過ぎてあまり男前に見えない、というのが残念な映画でした。

「フライボーイズ」
 

去年のアップではありませんが引っ張り出してみました。
フランスの航空隊に「助っ人」として集められたアメリカ人部隊。
彼らの青春群像にいろいろ混ぜ込み、ジャン・レノをまぶして一丁上がり。
主役、男前のジェームス・フランコ。
「かっこいいヒーロー」ではなく、等身大の青年ばかりが出てきます。

次々死んでいくので「次はだれの番?」とか当てっこして楽しむことも(顰蹙)


「太平洋の翼」


加山雄三の鴛渕大尉はじめ、実在の人物をキャラクタライズしたこの映画太平洋の翼」。
あまりにもその傾向がまんが「紫電改のタカ」を思わせるので調べてみたところ、
この映画の公開直後に漫画の連載が始まったことがわかりました。
もしかしたら、映画から着想を得た、ってことは?
ちばてつや氏がこの漫画を「気に入っていなかった」のは、もしかしたらこのあたりに理由がある?
と勘繰りついでにちばてつやタッチでこの映画の登場人物を描いてみました。

自分ではとっても気に入っているアイディアだったのですが、あまり反応がなくて悲しい。
というか、映画も漫画も古すぎて誰もピンとこなかった、ってことでしょうか。
うん、そういうことにしておこう。


1000日記念シリーズは、台湾旅行記を挟みつつ並行して続きます。




台湾・烏山島ダムを行く~日台の桜

2013-01-24 | 日本のこと

烏山島にダムを作るという計画は、技師八田與一が土地を選定しました。
「ここなら大規模なダムが作れる」

あまりにも対象となる土地が広大すぎるため、
予算が膨れ上がることに台湾総督府は難色を示しました。
なにしろ、総督府の総予算の三分の一、予算の一年分が必要だというのです。

もともと総督府が台湾に治水工事をし、米を作るというのは、
内地(日本)のコメ不足をここで補おうという、いわば
「植民地統治国としてのまっとうな搾取」を目的としていました。

ですから「治水によって水が流れる地域を半分に削減したとしても
それは目的には十分かなうし、第一費用も工期も半分で済む」
そう総督府は考え八田にそのように提案しました。

しかし、八田は「それでは全ての平野に水か行き渡らない」と食い下がりました。
同じ土地でありながら水のある地域と無い地域ができれば、地域格差が生まれてしまう。
治水工事はそこに住むすべての住民を幸福にするものであるべきだ。
これが八田の考えでした。

台湾の統治を「日本が搾取するための植民地経営であった」(だから悪である)
と言い募る人たちに聴きたいのですが、もしあなた方の言う通りであったなら、
このとき後藤新平ら台湾統治責任者が、この八田の案にOKを出したでしょうか。

この工事が為ったことそのものが、八田のみならず、台湾総統府、
そして日本政府が台湾を「日本の国の延長として当然のように豊かにしていく」
と考えていたことの証左であるとわたしは考えるのですが、いかがでしょうか。



八田の業績や生涯を紹介するビデオを見た記念館の前の道。

バイクが止まっていますが、これはわたしたちのために来てくれた
記念館の係が、わたしたちが出て行ったので「もうしばらく用事ないし」
とばかりに帰っていく様子。
合理的といえば合理的です。

誰も来ないのにどんな場所にも一日人を座らせておく日本式とは少し違います。



もしかしたらこの苔むした煉瓦の壁は往時のものでしょうか。
タクシー運転手の王さんは、「ここをあがるんやで」と階段を指さしました。
(台南地方は日本で言えば大阪みたいなものなので、王さんは関西弁)
まったく言葉が通じなくても、本当になんとかなるもんです。



コンクリの剥げたところからここにも煉瓦が顔を出しています。
これもおそらく昔からのものでしょう。
八田與一もこの階段を踏んでここを上ったのに違いありません。



階段を上るとそこに広がるダム湖。
日本政府はこの工事のために5414円を出資しました。
八田は、このダムの建設の際、地質は勿論、地震が起こることも考えて、
その工法(セミハイドロリックフィル工法)を考え出したということです。

余談ですが、朝鮮戦争当時、アメリカ軍は北朝鮮にある水豊ダムを空爆しました。
ダム空爆は、イギリス軍がドイツルール工業地帯ののダムを空爆して打撃を与えたように、
戦況を有利に運ぶためにしばしば計画されましたが、アメリカ軍は結果として
このダムを決壊させることはできませんでした。

なぜか。

水豊ダムという名前からもうすうすお分かりかと思いますが、
これは統治時代に日本が作ったもので、建築技術が優れていたため、
数度にわたる空爆にもびくともしなかったのです。

「朝鮮半島に対する過酷な植民地支配」
とか言っている人たちには、日本がこういうダムまで支配地に作ったことを
どう解釈するべきか、是非論理的に説明していただきたいものですね。




ここが100年前はただの砂地であったなどと信じられないほど、
湖はなみなみと青い水を湛えています。
水系の全長1万9千キロ。
これは地球を半周するのと同じ長さになります。

ここにも、護衛艦の縁にあったような謎の物体が。



2012年に完成したばかりの、八田公園への道。
昨日お伝えした「八田住居村」があります。
ここの資料館はなかなかモダンな展示がされていましたが、
テレビ画面にずっと八田の紹介ビデオが流されていました。



ちょうどここに書かれている事故は、トンネル内に満ちたガスによる引火爆発です。
この事故で50人以上が死亡しました。
八田は犠牲者の家庭を一軒ずつ回って、頭を下げました。
その真摯で悲痛な様子に、人々はむしろ心を打たれたと言います。

もともと、労働環境を整えたり、日台の関係者を分け隔てなく扱い、たとえば、
アメリカから来た人種侮蔑的な技術者に対しても「白人の鼻をあかしてやろう」
と一緒に戦うことを口にしてきた八田です。

日本が関東大震災に見舞われ、そのあおりで工事の予算が縮小されることになったときも、
八田がまず首を切ったのは台湾人ではなく優秀な日本人技術者からでした。
その理由は二つ。

「日本人技術者で優秀なものであれば再就職先はいくらでもある」
「このダムは台湾人のためのものである」


工事が再び順調に進められるようになったときには、
八田はクビにした日本人技術者をもう一度現場に呼び戻しています。



タクシーの運転手王さんが「ここにいけ」と示した階段の一つ。
この急な階段を上っていくと、このような景色が開けます。
放水口から流れ出る水が作る疎水です。





樹齢100年は軽く越していそうな大木。
二本の木が一体化してしまっています。
どうやらここを多くの鳥が住処にしているようでした。



洋風のような台湾風のような建物があります。
誰もいないようですが、事務所か何かで、この日はお休みだったのかも。




その隣にあるのがこの工事慰霊碑。
ダム工事が完成した時、このダムにかかわって命を失った人々の名前が、
一人残らずここに記され、顕彰されています。



碑の正面にある感謝、並びに追悼文は、八田與一本人の筆になるものです。
そのきっかりとした几帳面な文字は、技術者であり、緻密な計画を
全て細々と書き残した八田らしさに溢れています。

この追悼文の残り三面にわたりびっしりと、その人名がしるされています。



そのうち一面がこれです。
見ていただきたいのですが、日本人名と台湾人名が、
それこそ順不同で並べられています。

これは、性別民族関係なく、「死亡順」なのです。
ガス爆発事故で亡くなったのは50人でしたが、10年に及ぶ工事期間、
亡くなった関係者の総数は136名に及びました。

名前の中に女性名が混じるのは、この中に「病没」をも含むからです。
とくに正面に八田の書にもありますが、日本からわざわざ台湾に来て、
異国の地で亡くなった関係者の魂をも、八田は顕彰するべきだとしたのです。

工事関係者の「労働組合」もあったようです。
この写真の左から二行目に
「事故死没者 組合外」
とあるのは、組合員ではない、おそらく臨時雇いの工夫たちのことでしょう。

「なんで八田さんは俺たちを日本人と同じように扱ってくれるんだ」

この記念館で買い求めた虫プロ製作の「パッテンライ!八田與一」というアニメで
劇中、台湾人の阿文(おそらく本名は文一字。阿は阿Qのような接頭の君付け)
が八田に聴きます。
八田の答えは

「海に国境があるか?
俺たち土木屋は、その土地に住む人々を幸せにするために働くんだ」

というものでした。




前回お話しした桜の横には、まるで神社のように絵馬を掛けるところがありました。
台湾の人も願い事を書いたものを木に吊るらしいことを去年の旅行で知りましたが、
ここでは日本からの観光客だけではなく、台湾人もまた絵馬を吊っています。

しかし、明らかに日本人名なのに日本人ではないような文が散見されます。
「事故らない」と書いているのはどうも李さんという台湾人のようですが。

もちろん、四文字熟語でお願いする中国語絵馬も多し。
日本語が書けると、ついこういうところでは日本語でお願いしてみるのかな。



「台湾の人がもっともっと大好きになるような日本にしていけますように」

鈴木さん、わたしもそう思います。
まずは中国にへつらうあまり台湾を軽視、無視してはばからない政府と、
なによりマスゴミを何とかせねばなりませんね。



三つとも日本語を使っていますが、台湾の人ですね。
一番左の人は「ここから仙台に愛を」と書いているのかな?



もしかしたら台湾から親の転勤が終わって日本に帰る小学生でしょうか。
絵馬の表側には、八田夫妻の肖像が印刷されています。
もしかしたら「縁結び」の神様のような扱いでもあるのでしょうか。



さて、すべての見学が終わり、隆田駅に向かいます。
灌漑後に創られた道なので、どこまでもまっすぐ。



道のわきには水を湛えた水田が続きます。
それもこれも、八田與一という日本人がいなかったらなかった光景。
最近読んだ台湾人の書いた本に

「もし、台湾が日本ではなく、未開のまま中国国民党に最初に統治されていたら、
おそらく海南島のような貧しい国のままで近代化はありえなかっただろう」

とありました。
何かと植民地支配という言葉をネガティブにとらえ、
まるでそれが悪いことのように言う人たちもいますが、
台湾の人々は実はこのように評価しているのです。
そして、そのような評価の証拠となる光景が、ここにあります。



大きな酒瓶を看板替わり。
見るからに大規模なお酒の会社もありました。
良質の水がなくてはありえない業種です。

この辺で取れるコメは蓬莱米といい、日本のコメどころと同レベルの、
非常に美味しいものなのだそうです。



隆田駅前に付きました。
客待ち中のタクシーの運転手さんたちが、碁をしています。
二人がこちらを見ているのは
「なんでこんな光景を写真に撮るんだ?」と不思議がっているから?
寝そべった犬や、誰も携帯を見たりしていないのがいかにも台湾の風景。
今回の旅行で結構気に入っている写真の一つです。


先に「謝謝」といって車を降り、後から勘定を終えて出てきたTOに
「いくらだった?」と聞くと、
「700元(2100円くらい)だった」
「チップ上げた?」
「あげた。100元プラスしてあげた」
「安いねえ」
「おっちゃんも高めに言ったんだと思うけど、それでも安いよね。
彼らにすれば、6000円もらって、チップが1000円ってかんじ」

あまり張り込むと、日本人を今度乗せたときにもう少し吹っかけてみようかな、と
おっちゃんが考えてしまう可能性もないではないですが、それより、
日本人はちゃんと対応してあげるとそれなりに謝意を表明するものだと分かれば、
次に来た日本人にかれはより一層気持ちよく接してくれるでしょう。





ここにあった「絆の桜」は、日本と台湾の人々が力を合わせ、
大事業を成し遂げたということの象徴のようです。
ほとんど同じ大きさで、お互いその枝を相手に絡ませるようにしながらも
決して交わることなくしっかり向かい合って立っている。

花が満開になるとき、この木はまるで二本で一つの桜の木のように見え、
その花びらはお互いに伸ばした木の枝の間を舞いながら散るのでしょう。






台湾・烏山島ダムを行く~八田與一という人

2013-01-23 | 日本のこと

八田與一が今日も台湾人に尊敬され愛されているのは、
かれが優れた頭脳とともに、誠実でかつ公平な視点を持ち、
愛情あふれそまた人に分けるだけの人間性を供えていたからでしょう。

大事業を成し遂げるのには人を動かさねばなりません。
しかし、自分の元で働くものを自分の道具と見なして、その人格を軽んじたり、
ましてや統治国の住民だからと奴隷扱いしては、うまくいくものも行かなくなる。

日本の台湾統治は決して搾取するものではなく、教育を与えインフラ設備をする、
世界一寛大なものであったというのはもう歴史的にも証明されていますが、
それでも統治前まで「化外の地」(これは大陸の中国人がそう呼んでいた)
であったこの台湾の住民は日本にとってあくまでも「二等国民」。
一般に日本人が台湾人と親しく交わったり、飲食を共にすることはなかったと言われますし、
単純労働者として雇った現地人を対等に扱わなかった日本人もきっといたでしょう。

八田は工事にかかわった同じ仲間として、決して台湾人と日本人を区別しませんでした。



台南の人々は今でも八田與一を「嘉南大しゅう(土へんに川)の父」と呼びます。
その父に敬意を表し、功績を駈り継ぐため、彼らはその住居群を日本風庭園とともに
ここに復元する計画を立てました。
日本の、八田の故郷である石川県の協力を得て、それは2011年に完成しました。
当時の建築の名残が残る、公園の芝生。
いかにも植えられたばかりで枝ぶりの落ち着かない木々が、
かつてのように生い茂るのはどれくらい先のことでしょうか。



しかし、かつての居住区があったころからそこにあった木は、
このように当時のままにその枝ぶりをとどめています。
この部分は、かまどらしきものだけが残された住居跡。
煤で黒くなったかまどだけが、往年の人の気配を感じさせます。

 

公園の中には真新しい展示室がありました。
パネル展示とともにこのような八田の遺品が飾られています。




またこのようなかつての居住区を再現したジオラマがあります。
昭和初期において、テニスコートが居住区内にあったというのも驚きます。
労働環境を健全に整えようとする意識の表れでもありましょう。
八田はここに働く人たちのためにお祭りや映画などの娯楽を企画し、
それを日本人だけでなくすべての者が楽しむことのできるようにしました。

なにより八田は、工事のための人間を集めるとき「その家族も一緒に住めるように」
ということを重要な条件としたのでした。
日本人は勿論、台湾人の人夫についてもです。
その理由は、

「この工事は長きにわたる。
その間彼らが家族と一緒に住み、精神的支えを持つことが労働意欲の源となる」

働くものすべての心を安寧に保つことこそこの大工事を成功させることにつながる、
それが八田の考えたことでした。



この公園内には資料館のジオラマどころか(というかこちらがメイン)、
かつての実際の住居が実物どおりに復元されています。
これら八田家始め何軒かの日本式住居は、すべて台湾芸術大学と識者が、
日本からの技術指導を受けて作り上げました。



日本人にとっては、「少し田舎に行けばどこにでもある古い家屋」ですが、
中国人、特に大陸からの観光客には珍しいらしく、
ガイドに連れられた団体がこの赤いテープを外して家に上がっていました。

しかし、わたしは「ふーん」と思ったものの、わざわざこのピカピカの
(古い感じを出すためにわざわざそういう木を使って作られているのですが)
室内の中まで入ってみる気にはなれませんでした。

写真で見ましたが、長らく残っていた彼らが実際に住んでいた家屋は、
経年劣化ででおそらく改築することができず、(日本人ならきっとできたと思いますが)
仕方なく壊して、わざわざゼロから作り上げたということのようです。

しかし、本当に住んでいたわけでもない家を上がって見てもねえ、
と思ってしまったのはわたしが日本人だからでしょうか。



座卓の下の煙草盆、酒器などは、実際に日本で集められたもの。



まっさらな畳、座布団にちゃぶ台、お正月なのでちゃんと注連縄(しめなわ)飾りも。

しかし、惜しい。

注連縄を付ける正しい場所まではかれらにはどうやらわからなかったようです。
日本ではいくらなんでも引き戸に正月飾りを付けたりしませんよね。
注連縄とは厄払いのために、つまり「結界」の意味を持つわけですが、
戸のような開けたり閉めたりするところにはその意味を考えても付けないのが普通です。
そもそもこんなところに付けていたら、開け閉めで落とす心配が・・。

それから、当時の家はこんな鍵をこんなところにかけなかったのではないかと。
まあ、これは単なるセキュリティのための鍵なのかもしれませんが。



そして、彼ら渾身の製作、日本風庭。
日本文化を学び、それをここに再現しようとしてくれた台湾の人たち。
ありがとうっ!

しかし・・・・・違う。

何が違うのかわからないけど、これは違う。
石畳の配置、池の周りの囲い、灯篭の位置も、獅子脅しの場所も、
こうして全く違う配置をされて初めて、日本人としては
「何が違うのかはっきりわからないけど、でも全然違う気がする」
と思ってしまいませんか?

やはり日本人に生まれてそれ以来そういうものを見てきて、
DNAにも組み込まれている視覚の記憶というものは、
指導を受けて再現した外国人の造ったものに違和感を感じてしまいます。

台湾の人々の気持ちと八田與一に寄せる思いがわかるだけに、
不愉快とか腹立たしいなどとは断じて思いませんが、
文化が違う、って、つまり越えられない壁みたいなものなんだなあ、と、
あらためて感慨深く認識した次第です。



立派な桜の木が寄り添うように二本立っています。
この前に、まだ石の色も新しい石碑があります。
桜が満開の季節、この木の下に立ってみたいものだと心から思いました。



おお、元内閣総理大臣、森義朗。
「日本は神の国」と発言しただけでマスゴミと左翼に引きずり降ろされた
森元総理は、(今にして思うけど、何が悪かったんです?)石川県出身。
八田與一と同郷であることからこの揮毫となった模様です。

先日、うちのTOさんがあるところで森元さんと奥様に会い、
職場に直筆サイン入り著書を送ってもらったそうです。
持って帰ってくれと再三言っているのにTOはずっと忘れています(-_-)

台北には海部元総理の揮毫をありましたが、総じて元総理というのは
こういう依頼をしょっちゅう受けるようですね。
TOがお会いした会合もいわばそういった「顔」としての元総理出席でした。
政治的活動ではないが、象徴としての親睦や記念行事に顔を貸す仕事。

そういえば、先日、中国政府は何を思ったのか鳩山元総理を呼びつけて、
現防衛大臣のいうところの「国賊行為」に及んできたわけですが、
鳩山氏もまた自分が必要とされている!と張り切ってしまったんでしょう。
むしろ、元総理にできることは「顔貸し」程度のこと、と百も承知の上で
我が方に有利な発言を引き出そうとしたあの国のやり方に、
なんとなく藁をもすがる、という言葉が思い浮かびました。

もしかしたら、かなりあせっているのでしょうか?


それはともかく、この二本の桜の意味するものは、揮毫の「絆」という字に伺える通り、
「台湾と日本」であるというのは疑うべくもないところです。



ここの売店には、中国人の団体がぞろぞろ入っていくものの、
皆何も買わずに出ていってしまっていました。
だからというわけではありませんが、日本人としては、
ここに働いている売り子さんたちのためにも、売り上げに協力させていただきました。

これはプリン味のアイスキャンデー。
ちゃんと先はカラメル、黄色い部分はプリンの味がしましたよ。

 

そしてこの二本のDVD。
どちらも1000円くらい。
右側は「八田来!パッテンライ!」という虫プロ製作のアニメ。
ホテルで観たのですが、これが侮れなかった。
実に見応えがあり、どうも劇場公開用に作られたようです。
主題歌は台湾出身、一青窈。(ひととようで一発変換できてしまった。びっくり)
このDVDについても、またそのうち・・・とりあえず一通りお話が終わったら、
また紹介する日もあるかと思います。


さて、かつて八田與一は工事の責任者として日本人も台湾人も分け隔てなく扱いました。
それは決して「事業推進上の建前」などではなかったのです。
次はそんなことからお話ししたいと思います。









台湾・烏山東ダム~八田與一の妻

2013-01-22 | 日本のこと

            


烏山頭ダム、学術名八田ダムを設計し建設した台湾統治政府の
土木技師、八田與一は子沢山でした。
なんと妻外代樹のとあいだに二男六女の八人の子供を設けています。
ダムが着工して10年、完成したのは1930年と言いますから、
この写真が撮られた1935年、八田は仕事を完成させその名声は高く、
いまなお美しい妻と健やかに育った子供たちに囲まれ、
おそらくは台北で幸せの絶頂にあったのではないかと思われます。

10年後、この夫婦がいずれも不幸な死を遂げることを誰に想像できたでしょうか。



誰もいないので人相は悪いが気のいいタクシー運転手の王さんが、
携帯電話で八田與一記念館の係員を呼んでくれ、中に入りました。
ここは2001年に完成したそうです。
記念館といっても、四方に写真が張られ、大型テレビで説明ビデオ(日本語)
を見るだけのスペース。

しかし、アウトラインをわかっていない見学者には、非常にわかりやすくできたビデオです。
この写真もその記念館に飾られていました。



見れば見るほど美しい、八田の妻、外代樹さん。
どういうわけか、彼女の学生時代の通知表なども飾られていました。

 

年度が上がるにつれどんどん成績が良くなり、
何と卒業時には乙から一等の特甲に。
外代樹さんに何が起こったのか。
彼女は石川県金沢の開業医で、県議も務めた米村吉太郎の娘。
(小村になっているのは、母方の姓を継いだため)
しかも最初から性質は怜悧、勤勉、明瞭、沈着、端正、温良・・・。
考えられる限りのほめ言葉が彼女の人間性を物語ります。

八田與一にとってこの美しく賢い女性は最高の妻であったと思われます。

前回書いたように、1942年、八田はフィリピンに派遣されて向かう途中、
米潜水艦の魚雷により乗っていた太平丸が撃沈し、かれも死没します。

その遺体は一か月後に漁師の網にかかって、台湾に帰ってきました。



しかし、外代樹はそれを知ってすぐさま後を追ったのではありません。
彼女は戦時中、子供たちを連れて烏山島に疎開しており、
終戦までを悲しみにおそらく耐えながらじっと過ごしました。
その間、息子が学徒動員で戦地に赴いていたのです。

戦争が終わりました。
8月31日、長男が戦地から戻ってきます。

息子の生きてかえってきたのを見届けた翌9月1日、
外代樹夫人は送水口に身を投げました。
黒い着物の正装で、飛び込んだ場所には草がをきちんと揃えてあったといいます。



ここです。

戦時中、任務で「戦死」した夫の死を悲しむことは、
他の幾多の未亡人たちがそうであったように
彼女にも許されることではありませんでした。

しかし、戦争が終わり、息子も無事で帰ってきたというのに、
どうして彼女は死なねばならなかったのでしょうか。
戦地から帰ってきて、母を支えようと思っていたであろう息子は、
この母の死にむしろ呆然としてしまったのではないでしょうか。

愛する夫の後を追ったこの日本女性の鑑ともいえる外代樹夫人の死は、
内外に衝撃を与え、今なおその夫婦愛を称賛する声が溢れています。

しかし・・・・、と言っていいのかどうかわかりませんが、わたしには
この外代樹夫人の死はむしろ「緊張の糸が切れた」、あるいは
「これからどうして生きていっていいかわからなくなった」、つまり、
敗戦の混乱とこれからの生活の不安、
ことに夫と暮らし慣れ親しんだ台湾、
夫が心血を注いで作ったダムのある地から去らねばならないという・・・
そういった混沌とした戦後の事情が彼女の不安定な気持ちを
死の彼岸へと後押しした結果ではないかという気がします。

もし、息子が戦死していて、それを知り死を選んだのなら、理解はできます。
夫もいない、息子も失われた、それなら生きていても仕方がない、
そう思ったとしても、ある意味自然なことです。
しかし、息子は現に生きて戦争から帰ってきたわけですし、
さらに彼女には、夫との間に生まれた7人の子供たちもいたのです。
写真を見る限り、彼女が自殺した昭和20年当時、
末の子供はまだ学齢期だったのではないでしょうか。

「それほど彼女は夫を愛していたのだ」と多くの人は言うでしょう。
そして、その愛の深さに今日多くの人が感動しています。
この、夫婦愛の象徴ともなっている彼女の死に今さら物言うつもりはありませんが、
考えれば考えるほど「彼女はなぜ死なねばならなかったのか」
は、重たい疑問を心に残さずにはいられません。

八田與一がそれを知ったらどう思ったかということも含めて。



相当な樹齢を経ているらしい桜の木。
彼女がこの放水口に佇み、その奔流に身を投げたときも、
この木はここにあったと思われます。
この桜の木の下で68年前にそれは起こりました。

彼女自身の魂のために、心から祈らずにはいられません。
彼女と彼女の夫もまた、あの戦争の犠牲者なのです。



台湾~台南・烏山頭ダムを行く

2013-01-21 | 日本のこと

さて、台南でどこに行こう?

のんきな我が家は台湾についてからそんな相談をし始めたわけですが、
そのときわたしはかねてから知っていた「八田ダム」に行こう、と提案しました。

日本が統治するまでは文明の及ばない「化外の地」であった台湾。
原住民が住んでいるものの、農業などはとんでもない、
そもそもこの地には作物を作るにも水がなかったのです。

ここにダムを造り、この地方を水で潤し、田畑はもちろん貯水池や養殖池の
いたるところに見られる肥沃な土地に変えたのは、
他でもない、統治していた国日本の土木技術者、八田與一でした。

日本人にはあまり知られていない、しかし台湾南部の人々の、いや台湾の恩人、
この八田さんの造ったダムを観に行こう!

一も二もなく提案は決議され、最後の滞在の日、ここを訪ねることになりました。
台南から車で二時間はかかるだろうといわれたので、
最寄りの駅まで行って駅前からタクシーに乗ることにしました。



これがダムの最寄、隆田(ロンジン)駅。
ところでこの隆田といい、高雄、新竹、空港のある松山、
台湾の地名は、なんとなく日本っぽいと思いません?
それもそのはず、これらの地名も皆日本人が付けたもの。
たとえば高雄ですが、地元の人間が「打狗」(ターコウ)、つまり
「犬を叩く」という音を聞いてそれに充てた地名だと言われています。
日本人が「たかお」と読むのを台湾人は「ガオション」と発音します。
松山は「ソンシャン」ですが、「マツヤマ」といっても通じます。



隆田の駅前。
このひとつ前の駅で間違えて降りたのですが無人駅だったので、
駅前にロータリーがあってタクシーが留まっている程度には開けた町のようです。
日本にもこんな町ありそうですね。
何かが違う、と思ったら駅前にパチンコ屋がないことでした。
台湾にもパチンコ屋は無いではありませんが、ごくわずかです。

さて、この画像の左に写っているタクシーに乗り込むことにしました。
そうではないかと思ったけど、運転手は全くと言っていいほど、
英語は勿論日本語もわからない人でした。
しかも、こちらが中国語がしゃべれないのがわかっているのに、
確信的配慮の無さで中国語をためらいもなくしゃべり続けます。

わずかとはいえ中国語を勉強したことがあるエリス中尉ですが、
これだけべらべらと(しかもたぶん訛りあり)しゃべられては、
単語の一つも聴きとることができません。
おっちゃんの言うことは無視して、とにかく、地図を指さし、
「ここへ行きたい」=「ウォーシャンチウチャーリー」攻撃をただ繰り返すのみ。
すると、おっちゃんうなずいてまた平常のスピードでペラペラやりだします。

これは後から考えると
「お客さん、どこに行きたいんかは分かったっちゅーねん。
もしダムに行って観光するんやったら貸切料金でええんかて聞いてんねん。
そーやーかーらー、もうそれはわかったっちゅうに」
みたいなことを大阪弁で言っていたのではないかと思います。

まあしかし、日本人の親子三人が来てタクシーに乗りダムに行きたいと言えば、
それは観光に違いない、と常識で考えればわかるというもの。
おっちゃんも全く通じないままに「じゃ貸切ってことでええんやな?」と納得したようです。

ま、つまり観光は言葉なんて全くわからなくても何とかなる、ってことですね。



車窓からの景色。
おっちゃんはガッツ石松の弟、って感じの、どちらかというとコワモテの風貌で、
はたしてこの人に人気のないダムなどに連れて行かれても大丈夫なのかどうか、
疑うわけではありませんが、ふと今まで聞いたことのある「外国旅行での犯罪例」
などが頭をかすめました。(失礼だな)

それはTOも同じ思いだったようで
「このおじさん、大丈夫かなー、少し人相悪いんだけど」
などと、本人の横の席で、わからないと思ってこんなことを言います。
言葉が通じない同士って、お互い何を言われているかわかったもんじゃありません。

ダムと言うからには山の中にあるのだと思い込んでいたのですが、
行けども行けども(といっても駅から10分くらい)こんな平地が続きます。
すると、写真に取り損ねましたが、大きな車専用のゲートがありました。



どうも病気らしい毛がボサボサの犬が、首輪をしてうろうろしています。
ここでまたゲートのおばちゃんが全く配慮の無い超ハイスピード中国語攻撃。

「ここで入場料払うんだって言ってるんじゃない」
「それだけ言うのになんでこんなに大騒ぎしているの」
「うーん、運転手の分も払えとかかな」

そうこうしていると業を煮やしたおばちゃんが電卓に金額を打って見せるので、
(一人105元?)
「最初からこうしてくれればいいのに」
とこちらも日本語で言いながらお金を払いました。

タクシーのおじさんは、ここでもらったパンフレットを指さし、
「ここと、ここと、ここに行けばいいんだろ?」と念押ししています。
ここで、相変わらず車に関することにかけては先の読めないTOが、

「帰ってもらって歩いて回ろうか?ホテルみたいなのがあるからご飯食べて、
帰るときにはさっきのゲートのおばちゃんにタクシー呼んでもらえばいい」

と、まるでここが箕面のハイキングコースであるかのように言うので、

「そんな簡単に歩いて移動できるとも限らないし、
タクシー呼ぶのにまた、あのおばちゃん相手に大騒ぎすることになるから、
このタクシーにずっと回ってもらった方がいいと思う」

とそれを止めました。
結果的にはあまりに広く、移動にも車がないと無理だったので、
広大なダム敷地内を車で移動しながら、またもやわたしがTOに

「ね?だからあの時車を帰さない方がいいって言ったでしょ」

と威張るはめになりました。
わたしだって、威張りたくて威張っているわけじゃないんですけどね。



最初の見学コースがいきなりお墓と八田與一の銅像です。
さっき供えたばかりと言った風な花と煙草、お菓子など。
いったいどんな人がこのようなお供えをするのでしょうか。
外代樹というのはとよき、と読み、八田與一の夫人です。
夫亡き後、ダムに身を投げて後を追いました。
なぜ墓石の文字が赤字なのかはわかりませんでした。



八田夫妻の墓の横にあったのは、この小さな墓石。

「技師中島力男氏の分髪」

と書かれています。
中島技師は、東京農大出身で、八田の引いたダムによって
穀倉地帯となったこの地で、計画給水による蓬莱米の生産に
その力を注いだ、やはり日本人でした。
かれは終戦後もここに留まり、台湾のために尽くしました。

嘉南地域の人々は、この中島技師に対する感謝も忘れてはいません。



そして、TOが墓石に額づいてお祈りしていますが、
その墓石の手前にこのように八田像があるというわけです。
なぜか、赤い「立ち入り禁止」のラインが両側に立てられていました。
中国人が台座に乗ったり、像に手をかけたりして写真を撮るのでしょうか。

あの連中の写真を撮るときのナルシストぶり、ご覧になったことあります?
思いっきりポーズを決めて、まるで映画スターみたいに表情を作って、
傍で見ているだけで日本人は恥ずかしくて目をそらしてしまうのですが、
・・・まあ、両手でピースサインしないと写真が撮れないらしい日本の女の子も、
かなり外国ではバカにされていそうな気もします。



クリスマスシーズンのせいか、いたるところにポインセチアがありました。
八田與一の像はここを見下ろす場所に座っています。



この蒸気機関車はベルギー製。
ダム建設のために購入されたものですが、
八田がダム計画を進めるにあたって最重要視したのは、
このような最新の高価な機材を海外から確保することでした。
それは総予算の一割を必要としたと言います。
土木機材のすべては八田自身がアメリカに行って自分の目でそれを確かめ、
全てを購入してきました。

この蒸気機関車は砂、資材、および作業員、住民を運ぶための交通手段でした。



はった、ではなく「はた」と書いてあります。
虫プロの制作した「パッテンライ!」(八田が来た)というアニメの
DVDを買って帰りましたが、それによると
台湾人は八田を「パッテン」と呼んだようです。

そういえばわたしの知り合いで中国駐在の方も、面と向かっては
日本読みで「ナカタ」(仮名)と呼ばれているけど、従業員同士では「チュンティン」
らしい、と言っておられました。



烏山島ダムは1920年に着工され、1930年に完成。
実に10年の年月をかけて出来上がりました。
このダムは「セミ・ハイドロリック・フィル工法」という、
八田與一オリジナルの工法で造られています。
八田が偉人と称えられるのがここで、この工法は、

「コンクリートを土台の一部だけに使い、その上から土砂を掛け、
そこに水をかけ続け、こうやって細かい土砂を下に落としていき、
ダムの基底を落ち着かせて固める」

という独自の方法でした。
この工法の利点は、底にコンクリートを使わないため、
ダム内に土砂がたまりにくいことだということです。
八田が、この地方の地質を知悉(一応シャレ)したうえで編み出した工法で、
これはのちにアメリカの土木学会に論文が認められています。

このダムは、正式名称「烏山東ダム」、しかし、学術名が「八田ダム」
とされるゆえんです。
アジアで、この工法で造られているダムはここだけ。
台湾の国宝に指定されており、さらにはいま世界遺産に申請中だそうです。



巨大な土木機材の一つ。
なにしろこの工事は、かかわったものが最初は戸惑うほど、
気宇壮大なもので、当初は皆機材をどうやって使うのかさえ
わかっていなかったといいます。

アメリカから派遣された技師は、総じて有色人種を蔑んで、
技術指導のためにやってきながら、ろくに使いかたを教えようとしません。
八田は日本人と台湾人の部下をこう叱咤しました。

「覚えるのは簡単だ。外人の鼻をあかしてやれ」



ダムの堤。
堤防の幅は9メートル。
標高66,66メートル、(低いですよね)
長さ1273メートル、高さ56メートル(標高と10メートルしか差がない)
ダムの底幅は303メートル。

このダムが、嘉南平原を水の無い荒れ地から穀倉地帯に変えました。



わたしたちが堤防を見学している間ぶらぶらしている運転手さん。
ここを観終わって、連れて行ってくれたのが、八田與一記念館。



この記念館は2001年に完成したそうで見学コースの一つ。
入ろうとしたら、誰もいなくて鍵がかかっていました。
すると、運転手さんは携帯で電話して、係を呼んでくれました。
ドアに貼ってある紙に
「御用事の方はここに連絡してください」と書いてあったようです。
おっちゃん、ありがとうね。



待っている間、その横にある貯水口を見ました。
アニメ「パッテンライ!」では、主人公の台湾人少年が、
ダム完成の際、八田技師に勧められてこの貯水口のハンドルを
開けるシーンがありました。



ダム放流の際、ここから非常に激しい勢いで水が噴き出します。
そのことからここは珊瑚飛瀑とも呼ばれています。
1997年に新送水口が完成し、ここは現在使われていません。



噴水のように聳える美しい尖塔は、
送水管内の水圧を安定させるために造られました。
この先からまさに噴水のように水を出して調整しました。

 

記念館の入り口のガラスのモニュメントには、
八田與一が夫人の外代樹と最後に撮った写真が使われています。

八田はダム工事完成の功を認められ、勅任官の地位を与えられていました。
武官で言うと、中将、少将が与えられるのと同じ高等官待遇です。

1942年5月、八田は南方開発派遣要員として、フィリピンに向かいます。
この写真は、軍服のような高等官の制服を身に着けた八田が、
おそらくは台北の自宅を出るときに夫人と撮ったのではないでしょうか。



八田が乗った「大洋丸」。
八田はフィリピンの綿作のための灌漑に必要なダム建設のために、
その適地を調査する役目を帯びてこの船で現地に向かったのでした。

しかし、1942年5月8日、出港してすぐ五島列島沖を通過中、
「大洋丸」はアメリカの潜水艦に撃沈されました。
八田の遺体は一か月後の6月13日、沈没現場からはるか離れた
山口県萩市沖合で漁師の網に掛かって発見されました。

享年56歳でした。



八田の葬儀の模様。
八田は外代樹夫人との間に二男六女の八人の子供をもうけています。
それにしても、外代樹夫人はじめ、白装束に身を包んだ
八田につながる女性たちの美しいこと・・・・。

夫人は日本が敗戦した直後の昭和20年9月1日、
夫がその心血を注いで作り上げたダムの送水口に身を投げ、自殺します。

次回、その外代樹夫人のことをお話しします。




第一空挺団降下初め「優しくなくては空挺団ではない」

2013-01-20 | 自衛隊

観衆が降下並びに訓練を見守った土手の上からフィールドに続く道、
そこで人がせき止められているのを見て、下に行けることを知りました。
間近でヘリや戦車を見るチャンスです。



これらのヘリにも近づけるのですが、一人立っている隊員が
「準備が整うまでお待ちください」
そう言われたらたとえ仕切りがなくとも誰もそこから動きません。
さすがは日本人。

準備をしている間近寄っていいのはPAC-3と戦車など。



戦車の周りに人が集まっています。






戦車は洗車中。
先日訪れた台湾では、タクシーやパトカーが全く洗車していないらしく、
やたら汚い車が走り回っていたものですが、さすがは日本。
泥だらけでも当たり前の戦車を使用後にきれいにするとは、びっくりです。



まだ顔に迷彩が残っています。

さて、そうこうしているうちにフィールドに自由に行けるようになりました。
そして何気なく下を見てみると・・



こんなものが落ちていました。
これなんですか?
なんか弾薬関係か薬莢ではないかと思うんですが。
拾って帰ればよかったかなあ。



ただのトラックに見えますが、これでもちゃんとした武器。
「94式近距離地対空誘導弾」。
誘導弾の発射装置です。
防衛省の研究部門が開発し、東芝が製作しました。

「どのくらいの距離を飛ぶんですか」
こんな質問をしていた人が横にいましたが、
「それは機密事項ですので」
とあっさり言われていました。
そりゃそうでしょうな。




これは・・・トラックにはさすがに見えません。
96式装甲車。


それでは、フライングエッグから近づいてみることにしましょう。






いきなり中を覗き込んでみると、パイロットのヘルメットが・・。



輝け!みちのくと書かれたシール。



後部を見られるように開けてくれています。



写真を撮ってみましたがこれがなんなのか見当もつかず。
なんでこんな見るからに柔らかそうな素材のものがヘリに内蔵されているのか。
もう少し粘ったら、自衛官が横に立って説明してくれたんですが・・。
このあと資料館である「空挺館」に行きたかったので我慢しました。

空挺館、結局行けなかったんですけどね。



テールローターは目立つように白と赤でペイントされています。



お次。
真ん前から見るとわかりにくいですが、OH-1,ニンジャです。
このニンジャは「観測ヘリ」。
どうして観測ヘリに宙返りしたりするような機能が搭載されているのか。
武器を積んでいないので、できるだけ逃げ足を早くしたとか?

 

サーチライトに隠れミッキー発見。



この角度からが非常にかっこいい。
あまりにもヘンタイ的な動きをするので、アメリカ軍が驚いたというのは本当かな。



UH-1J。
これはパイロット二名に加え、11人乗ることができます。

 

「微笑んでいる」といった意味が分かっていただけたでしょうか。
これは・・・・カエル?亀?

右側はAH-1Sの後ろ姿。
やたら薄いのに、両脇にものすごい武器を抱え込んでおります。



何しろこのコブラ、用途は対戦車ヘリです。
このいかつい装備はこのヘリが「ガンシップ的なもの」を目指したから。



AH-64D、アパッチロングボウ。
近くで見ると、ローターの上の鏡餅というかちょんまげがでかい。
この形状のものをレドームと言いますが、この大きなレドームが
このアパッチの大きな特色になっています。

このヘリも戦闘用なので武装がものすごいです。
このヘリはたとえ20ミリ弾くらいのものが命中しても30分飛び続けられるのだとか。
どういう仕組みなんでしょうか。



アパッチ、後ろ姿。
こうしてみるとレドームの大きさと機体の幅、ほぼ同じくらいですね。



展示の一番端にあるCH-47チヌークに近づいてみました。





ローターの角度が完璧に下向き。



先についているとんがった針先には、
安全キャップをつけていました。
ロープが張られているので近くには近寄れないのですが、
それでも万が一のことを考えてのことだと思われます。



これはなんでしょうか?

これ、チヌークのローターのエッジです。
どうも、中が空洞になっているように見えるのですが・・・・。



真後ろから写真を撮ってみました。
これもカエル?



中が見えるように後ろのハッチを開けています。
内壁は緩衝材のようなものを貼りつめている模様。
万が一の時にもけがをしないように。



脚立は何のために?
それからあの、椅子とかないんですか?
皆どうやって離陸の時とか体を固定しているの?



窓が一つだけドーム型のガラスです。
おもに上空を見るためかと思われます。
空気抵抗を防ぐためか、この出っ張った窓ガラスは一つだけ。



ここで、PAC-3のところへ行ってみます。



隊員がブルーのマフラーをしていますが、迷彩が微妙に違うのは、
彼らが陸自ではなく空自の隊員であるからです。
空自のブルーなのですね。

隊員さんが抱っこしているのはママに連れてこられたお嬢ちゃん。
パパと記念写真です。
それまでの厳しい表情が破顔一笑、すっかり「パパ」の顔。



警備だろうが戦車隊だろうが、つかまえては質問するおじさん。
どの自衛隊イベントにもいます。



各機の前では隊員が子供たちのためにヘルメットを被らせるサービス実施中。



ヘルメットが大きすぎて、全く顔が見えなくなり、隊員さんも思わず大笑い。



このように立っていますが、何か聞けば一生懸命教えてくれます。
ただし武器の性能に関して根掘り葉掘り聞いても答えてくれません。



ここは「体験コーナー」。
落下傘の降下部隊が背負うパラシュートを背負わせてくれます。



「お、重い!」
訓練ではこれ担いで走ったりするんでしょうねえ・・・。

 

先の震災での第一空挺団の活躍ぶり。
会場のモニターに流されていた空挺団紹介のビデオでは

「強くなければ空挺団ではない」
「賢くなければ空挺団ではない」

そして、

「優しくなければ空挺団ではない」

この三つのモットーが彼らの活動とともに紹介されていました。
軍隊が「優しいこと」を強調する国、日本。
確かに世界レベルで見る限り、少し不思議な傾向ではあります。

しかし、国を守る義務を負って「ことあれば生命の危険を顧みず」任務にあたる、
責任感の源はどこかというと間違いなく「人を愛する」ことなのです。
逆に言うと、人が愛せなければ戦うこともできないと言いましょうか。




74式戦車の前では隊員さんがヘルメットを被らせてあげるサービスをしています。
そこにやってきたのはお兄ちゃんと妹。
お兄ちゃんには自分のを被らせてあげるよ、と隊員さん。
この期待に満ちた子供の目をご覧ください。



じゃ一緒に写真撮る?



女の子はピースサイン。



じゃ、敬礼してみる?
「敬礼!」
隊員は陸自式、男の子は海軍式敬礼です。
この隊員さん、なんかいい感じですね。

この二人があまりにかわいいので、しっかり連写してしまいました。
わかりにくいように写真を小さくしてみましたが、
それでも二人のキラキラした目はお分かりいただけるかと思います。

小さい子がカメラでヘリを撮っていると
「一緒に撮ってあげようか?」と声を掛けてあげている隊員もいました。
つれなく、「いい」と一言で断わられていましたが。

全てが終わり、空挺館をぜひ見学しようと、出口に向かいます。
HPに「三時締切で空挺館が公開されている」と書いてあったので、
またもや歩いて演習場を出ました。



演習場の駐車場内から出口まで延々と続いた車の列はほとんど動きません。

この演習場と習志野基地は隣と言えば隣同士なのですが、何しろどちらも広いので、
歩いて移動すると優に20分以上かかります。

やっとのことで、到着すると、



あれ?誰も入って行けないみたい。



習志野基地正門。
なんと、警備の隊員によると空挺館の入館受付は2時で終了していたとのこと。
10分ほど遅れたので入れませんでした。

残念。

でも、これで来年またここに来る目標ができました。
少し様子もわかりましたし、その頃にはもう少しカメラも使いこなせているでしょう。

今度は準備を万端整えて臨みたいと思います。

とにかく噂の第一空挺団の頼もしさを目の当たりにして大興奮の一日でした。
来年もまた来るぞ。



2013年度第一空挺団降下初め「防衛大臣訓示」

2013-01-19 | 自衛隊

というわけで、30分あまりの訓練展示が終わりました。



最後の攻撃を迫撃砲部隊が遠慮なく与えている間、
ふと気づくと後方にこれらの航空機群が全機ホバリング待機していました。
写真を撮れなかったのが悔やまれます。
しかし、参加ヘリが全機一所に全く動かずとどまっている様子は、
何とも言えない「不気味な恐ろしさ」がありました。

全てが終わって、それらが移動していきます。



地上部隊はお片付けタイム。



各種装備をみなトラックに積んでいます。
この後全員整列があるので、その準備です。



左上は、降下した「空の神兵」の皆さん。
やはり隊伍を組んで移動します。
映画「空の神兵」でも、降下兵たちは少しの距離もちゃんと整列して歩いていました。



部隊旗と国旗を持って集合地点へ。



あまりにも遠くてよくわかりませんでしたが、
おそらく皆右手にラッパを持っているものと思われます。



なんでも、この日のために何日も前から実戦風訓練が行われていたようです。
近所では砲撃の音がずっと聞こえていたとか。



斜面の裾に全員が整列し、えらい人たちは上に立ちます。
台がなくても全員によく見えるというわけで、地形を生かした恒例の配置でしょう。



ギリ―スーツ着用で「なまはげ」になっていた隊員たちが、偽装を脱いでいます。
全員が襟に手をやるような、同じ動作をしているのは、なぜ?
もしかしたら襟から偽装の葉っぱみたいなのが入ってかゆかったりするのでしょうか。



これは前の列に座っていた人のブルゾンの背中。
空挺隊ジャンパーです。
こういうのを見ると元隊員か熱心なファンどっちだろう、と観察してしまいます。



右手は報道、右下は音楽隊。
来賓にお尻を向けないように指揮していますが、これはラッパ隊。
旧軍ラッパと現在のラッパを交互に演奏して違いを説明していました。
「食事の合図」が演奏されたとたん周りがざわめきました。

「これ知ってる知ってる!」
「どこかで聞いたなあ」

「正露丸のコマーシャル!」

正露丸の「露」がロシアの意味で、元々は日露戦争にあやかった
「征露丸」という勇ましい商品名だったことを皆知ってるかな?



皆が集合している間に、消防車が水を撒いています。
スモーク程度でも火災につながるのでしょうか。



セレモニーのために皆が整列している中、
迫撃砲が置いてある偽装網の下には、お留守番の隊員が一人。
武器をほったらかしていて万が一のことが起こっては大変ですから。



なぜか整列せずに歩いている隊員もあり。
基本的に訓示を受けるのは本日の戦闘訓練を受けた部隊ってことらしいです。



小野寺五典防衛大臣。
今回、何回も「皆さま、拍手をお願いいたします」と会場に対しコールがありました。
わたしは初めてだったのでそんなものだと思っていましたが、
あるところで目にした記事によると、去年はそんなことはなかった、というのです。
去年の今頃、防衛大臣は民主党の・・・誰でしたっけ。

自衛隊で講話をする人物については思想調査をして報告しろ、といった、あれ?
それとも「もしもし」のあれ?
「防衛問題については素人だがこれが本当のシビリアンコントロールだ」と言った、あれ?

・・・・ああもうどいつもこいつも。
これじゃ今まで拍手が起こらなくても当たり前だわ。

隣にいた二人の中学生が、こんなことをしゃべっていました。
A「小野寺?森本じゃなかったっけ」
B「代わったんだよ。
森本大臣って空自で三等空佐まで行ったんだぜ」

おお、よく知ってるね少年、と聴いていたら、

A「政治家なんてどうせみんな税金を貪ってばかりの人間のクズだろ?」

おいおい、中2病真っ盛りかい、Aくん?

B「そんな政治家ばっかりじゃないよ」

うん?B君、キミはもしかして、結構わかってる?

わたしに言わせれは「そんな政治家じゃない」政治家の一人が、
この日あいさつした小野寺新防衛大臣。
国会質問を見ていても、その国民、特に弱者の代理となり
その声を国政に生かそうとするこの人の政治姿勢が覗えます。
また、どんなときも、どんな相手にも真摯に対峙し、
バカにした態度や無礼な放言をしないその様子から、
温厚で誠実な人物であるらしいとわたしは実は好ましく思っています。

余談ですが、だからこそ今回の鳩山訪中の件で、この小野寺大臣ですら
国賊という言葉が頭をよぎった」と言ったことからも、
いかにわれわれがかつてとんでもない総理大臣を戴いていたか、
あらためて実感しました。
小野寺さんでなければ「売国奴」と言ったかもしれません。

さて、その小野寺大臣がこのあいさつにおいてはっきりと

北朝「鮮が人工衛星と称するミサイルを発射したり、
中国の船や航空機が尖閣諸島周辺の領海や領空に侵入したりするなど」

と言ったことは、あらためて今の日本の置かれたのっぴきならない状況、
そしてまた政権が交民主党から自民に交代したことを実感させました。

「あらゆる事態に対応できる能力を維持してほしい」

という自衛隊員に対する訓示が、これほど現実味を持って響く状態になるとは。

こういう状態にさせてしまったのは、いったいだれの責任なのか。
ほとんどの日本人が小野寺大臣と同じ言葉を脳裏に過らせたのではなかったでしょうか。



さて、防衛大臣訓示が終わり、撤収に入ります。



ちゃんと地面に落ちたごみも拾ってい・・・・るのかな?



偽装用ネットをちゃんと丸めてたたんでいます。



この人は荷物番。(たぶん)



後ろ向きで見えないけど、使った迫撃砲を、
また牽引するために車のジョイントに接続しているのものと思われます。



皆そろって退場。



戦車も退場。



展示位置に帰ってきました。



PAC3も観客展示用に戦車の横に配置。



戦車が止まるなり、前に二人、歩哨が立ちました。
そういう規則らしいです。



チヌークも展示用に着地する模様。



一番最初に定位置に着陸しました。



PAC3は射出台に角度を持たせて観客サービス。
どうやらこの状態で展示するようです。



続いてアパッチロングボウが来ました。



ヘリの着地はテールが先なんですね。



着地するなり駆け寄る隊員。



続いてAH-1S コブラ。








シールを貼られて微笑んでいるように見えるUH-1J。
このシールが何のために貼られていたのかはわかりませんでした。





続いてOH-1。
チヌークに続いて、順番に右から着地していきます。
気が付きませんでしたが、おそらく順番を待ってほかの機は
上空にホバリングしていたのかもしれません。



このOH-1のとき、こんな感じで枯草が猛烈に舞い上がりました。
近くに人がいたらおそらく眼を開けられないくらい。



こんな感じですから。



機体が薄いので、倒れないように脚には安定性を持たせているようです。



フライングエッグ、OH-6Dが最後になりました。



この時も結構枯草が舞っています。



二人が駆け寄って橇部分をなにやら固定している模様。



何か踏みつけている?



ところが、いったん着陸したと思ったのに、位置が悪かったのか、
着陸誘導をした二人が離れていきます。

それはそうと、ヘリのローターが回っているとき、下を歩く人って自衛隊員でも
こんな風に首を縮めてしまうんですね。

潜水艦が攻撃されているときに皆が上を見るようなものかしら。
あれ、上見る意味ってあまりないように思うんですが・・・。



おそらくほかのヘリと一線に並んでいなかったのでしょう。
駐機やり直し。
「もう少し前~」

 

今度はOK。



それにしても中は非常に狭そうです。
夏場、こんな全面的にガラスに囲まれた機内はどんな温度になるのでしょうか。
ちゃんとクーラー完備しているんでしょうか。
C-1の乗り心地は「非常に悪い」とどこかで読んだことがありますが、
ヘリの居住性って、どの程度考慮されてるんでしょうね。



さて、こちらではOH-1のドアが開きました。
なんと、こんなところから出入りするのか!



どうも開くのは片側だけのようです。
操縦士(後席)は窓の位置も結構高くて降りにくそう。



おお、こんなところに足台が。
って、タイヤに乗っちゃってるじゃないですか。
ところどころ見える取っ手のようなものは、足を掛けるところだったのね。



操縦席側、射撃手側、ドアが別々です。



ところでフライングエッグ操縦席。
もしかしたら操縦士はイケメンですか。
それはともかく、これどうやって降りるんだろう。



ぱか。
おおおお、ドアの形状が想像を絶するかわいさ。
なんかこんな動物、いますよね。
・・・・コアラ?ポケットモンキー?



ヘリの固定準備。
ポーズがお茶目です。



操縦士が降りた後。
・・・・やっぱりせまいよこれ。
フットレバーが、極限のスペースに配置されていますね。

ヘリの操縦の時は手を離せないと聞いたことがありますが、
このタマゴの場合はどちらが操縦士でどちらが射手なんでしょうか?



というわけで、皆が見守る中、フィールドに今日活躍したヘリ、
全部で6機がきれいに着陸しました。
この後ヘリを近くで見られることが分かったので、行ってみることにしました。

次回、本当に本当の最終回です。




2013年度第一空挺団降下初め「我が丈夫は天降る」

2013-01-18 | 自衛隊

こういうイベントから帰って来るたび、巷にあふれるバズーカみたいなレンズで撮った写真と、
ツァイスレンズ搭載とはいえ、小さなデジカメで撮った写真の明らかな差に、
「一眼レフで撮ってみたいなあ」
と、ついついカメラの商品比較ページなどを開いてしまったりするのですが、
ここでふと我に返り、当ブログの「本来の目的」は決して写真そのものではなく、
それを見たことを皆様にお伝えすることなのだから、と思い直すわけです。

しかもですね。
そもそもよく考えたら、エリス中尉、買って半年になろうとしているのに、
いまだにカメラの説明書を一度も読んだことすらなかったんですねー。
これでまともな写真が撮れたら誰も苦労せんわ。

今回も、実は取り扱いがわかっていないための失敗を幾度となく繰り返し、
こんな体たらくでは、せっかくのツァイスがすすり泣くのではないか、
といつものようにイベントから帰ってきて深く反省したエリス中尉、
意を決してちゃんとマニュアル、読みました。

次のイベントからはもう少しましな写真をアップできると皆さまにお約束します。

というか、こういうのの使い方、教えてくれる教室みたいなものはありませんか?
(あくまでも他力本願優先のエリス中尉である)

さて、それはともかく、空陸からの偵察隊侵入、陸戦隊の配置に続き、
いよいよ空の神兵、落下傘部隊である第一空挺団が
*:.。..。.:*・キタ*・゜゜・゜(゜∀゜)゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*!!!!



第一空挺団のシンボルともいうべき、輸送機C-1登場。
見た目がいかつくて鈍重にも見えるのっそりした体躯でありながら、
意外と敏捷性があって90度の旋回が可能。

「走る鳥的」とエリス中尉命名してみましたが、なぜか心惹かれる
「キモかわいさ」を持っています。(よね?)

航続距離を長くすることに対し、覇権主義的だと当時も左派勢力が騒いだので、
それに配慮して硫黄島や沖縄に行くのさえ増槽が必要になってしまいました。
当時の首相、佐藤栄作が、野党の批判をかわすためにこんな先を見ない仕様にしたのです。
そもそもも運用されてすでに30年以上にもなるご老体ですから、
今後少しずつC-1は置き換えられて引退していくようです。



使用されたC-1は4機。
一回につき10名が降下します。
ぱらぱらとC-1が卵を産むように空に落下傘を撒いていく感じ。
そして冒頭写真は全員が「産み落とされた」瞬間。
10の落下傘が一列に並びます。



赤いのは救命具であるという話でしたが、確かめてません。
ちなみに、わたしはこの降下初めを初めて見たのでよくわからなかったのですが、
なんでもフリーフォールで空挺団団長が降りるのは初めてだったという話です。
これって、毎年恒例、当たり前の行事じゃなかった、ってことですか?

だとしたら団長、漢だなあ。



きっと二番目の飛行機のどれかが、エリス中尉の後ろに立っているおばちゃんの息子、
「マサル」であると想像する。
自分の息子が空挺団にいるって、母親としてはどんな感じなんだろうなあ。


実は、このイベントに参加するにあたって、付近のホテルを予約することを考えました。
ホテル探しをカード会社のデスクにお願いしたのですが、
「付近のホテルはどこも満室で・・・・幕張まで行けばあるということですが」
「いや、幕張から行くなら家から行ってもあまり変わらないかもしれません」

思ったよりこれは人気のある行事だったのね、とその時は思ったのですが、
よく考えたら、たとえば二番機から降下したマサル(三曹)のご家族のように、
前日、大阪市浪速区から上京して、そこからさらに電車を乗り継いで、
息子の晴れ姿を見に来ているような人たちはホテルに泊まるしかありませんものね。



同じような写真が続きますが、飛び降りた瞬間の隊員の態勢、
どれもすごいことになっているのをお見せするため。
これ、頭が下になってませんか?



しかも、ほとんど間を開けずきっかりと同じ時間で飛び出していく・・。
そして、等間隔に傘の花が咲いていきます。



ところで、この降下中、ずっとアナウンスは
降下の瞬間がわかるような「降下降下降下!」という合図を出していました。
実際の隊員の降下とそのアナウンスがぴったりリンクしていたのはなぜでしょうか。
このあたりのシステム、どなたかご存知ないですか?




足の先に何かぶら下がっています。
最初は一緒に落下するのですが、途中で紐を伸ばし、この状態になります。

ところで、みなさん、指揮官降下のとき、つい脳内で円博志「夢想花」
が流れてしまったエリス中尉ですが、この日流されたBGMに関しては、
並々ならぬ興味と関心をもって注意深く耳を傾けていたのです。



ただでさえ流れてくる音楽を聴きたくなくても聴いてしまうのが音楽関係者の習性ですが、
果たして降下の際、どんな音楽が使用されるかは特に重大な関心事であったわけで。

そして、流れてきたのは

「He's A Pirate」(彼こそ海賊~パイレーツオブカリビアン)!

これははまっていましたよ~。
それから、おお、と思ったのが

「坂の上の雲」テーマソング

自衛隊でどうやら最近多用されているこの「坂の上の雲」。
やはり海軍の話だから?
そして「地獄の黙示禄」でおなじみ

「ワルキューレの騎行」

そして・・・

「空の神兵」!! ♪ .∵・(゜∀゜)・∵. ♪

これが流れたときに、一字一句違わす心の中で一緒に歌えてしまった人間は、
この時習志野演習場にいた観客の中でもおそらくエリス中尉だけであったのでは、
と自負するくらいわたくしこの曲に思い入れがあります。
これがいまだに第一空挺団の事実上の隊歌だと聞いたときからです。

よもやまさか、妙なクレームに屈したりしてやめてしまっていないだろうな、
と心配していたので、いや、心から安心しました。

実は・・・それどころか、どさくさにまぎれて、結構軍歌がバンバン流れていたのは
ここだけの話(´・ω・`)


「我がますらおは天降る 我が皇軍は天降る~わがこうぐんは~♪」



チヌークから戦闘物資が落とされます。
この間、BGMにかぶせて、各部隊間の通信もすべてアナウンスされます。
「何とか部隊どこそこに配備」「了解!」

幼き日、一度でも戦争ごっこをしたことのある男の子なら、ワクワクしてしまうでしょう。



次々と地面に降りた部隊と、いつの間にか終結した部隊が。
しかもこのひとりひとりが自衛隊最強精鋭です。



チヌークから落とされた武器?を取りに行く。



こちらは降下隊員が足の先に吊るしていた物資を外しています。



当たり前ですが常に移動は全力疾走。
2日寝ないで何十キロも装備を担ぎ行軍する訓練もある部隊。
俗に「最狂の部隊」と呼ばれる所以です。



こここれは、どう見ても、銃・・・・?
いまさらですが、降下隊員は今フリーフォールではなく、
「飛び降りれば自動的に傘が開く」やり方で降下しています。
たぶん、「空の神兵」で見たように、Dカンを降下口に引っかけて
飛び降りると同時に傘が開くのでしょう。



マサル「おかん、見てるか~?!」



どうも、物資と人間は変わりばんこに降下しているようです。





きっと風圧に耐えるのも大変なのでしょうね。
なんでも、雪が振ると、彼らの迷彩服は「雪上迷彩」になるそうです。
雪が残っている習志野で「雪上バージョン」をやってくれたらぜひ見たい。



完全に頭が下になっている・・・・。
飛び降りるとき、C-1の時速は200キロを超えています。



4機のC-1が20人ずつ、総勢80名の隊員が降下を終わりました。



続いてC-47Jがジープを輸送してきました。
軽装甲機動車を運んでいないのはもしかして「リスク軽減」?
なんでも、過去、これに失敗して車をダメにしたことがあるとかないとか。
確かに突風でも吹いたら一発でひっくり返りそうです。



120ミリ重迫撃砲ももれなくついてきます。
このあと接続してセットで使用するためです。



おじさん、邪魔 (´・ω・`)
なぜ最前列なのに立つ(怒)



無事に降ろされた車を確保する。



そして、チヌークの後部から・・・・・・・



ロープを伝って何人も降りていきます。
ということは、ひとつ前の写真は全員安全ベルトの類いはしていないと。



UH-1登場。
なんでも対戦車用の地雷を撒いていたようです。



緑のテントは偽装用。
テントの下で迫撃砲を準備しているのが見えます。



フライング・エッグ。



ニンジャ。
それにしてもみんなここぞと思いっ切り派手に飛んでませんか?



コブラが二機で攻撃。



ここでちょっと休憩。
前列にいた人の斬新なヘアスタイル。(前頭部)



敵陣に向かって迫撃砲を撃ちまくり。



派手に火の手の上がる敵陣地。
中国からも韓国からも新聞の取材が来ていたようですが、こういうイベントを
彼らはどういう気持ちで眺めるのでしょうか。
特に中国からの記者は。



狙撃手が乗っています。
どうやら負傷者が出た模様。



ヘリのテールの上部に見えているのが
「負傷兵とそれを運ぶ戦友」の図?
これだけやって負傷者が一名とは、すごいなあー(棒)



そこに出てきたのは、PAC-3。
そう、ここには空自の基地もある、と最初に説明しましたが、
空自の対空ミサイル部隊もここ習志野には配置されています。



これはすごい。
チヌークの先に狙撃手が数人。
ヘリの動きに合わせてロープの先はブランコのように大きく揺られます。
ジェットコースターどころではないスリルで、高所恐怖症の人なら死ねるレベル。

 

四人います。
これ、こちらがターゲットにならないのかしら・・・。
右はカメラを傾けて撮ったのではありません。

そして見事敵を制圧。

終了の合図です。

次から次へといろいろあって、シャッターを切るのに夢中、
いろいろ状況説明もしてくれているのですが、そっちに気を取られると
目の前では次の展開が・・・、といった調子で、
あっという間に終わってしまいました。

訓練そのものは30分くらい。
そんなに早く終わる?という感じですが、あの日本海海戦も、
結局30分で勝負がついたと言います。


あと一日、訓練後の模様をお伝えしようと思います。







2013年度第一空挺団降下初め「まなじり高きつはものの」

2013-01-17 | 自衛隊

試験降下、指揮官降下に続いて始まった本格的な降下訓練。
その模様をお伝えします。



降下訓練は独立してではなく、「島嶼奪還」という仮定のシナリオに添って行います。



敵国軍が侵攻し配置されているとされる場所。
それにしても、付近純民は二階から観覧し放題です。
毎日のように訓練があるので今さら、って感じなんでしょうが。

昔の知り合いで伊丹駐屯地の道へだてて向かいに住んでいる人が、
「訓練の砲撃の音に『うるさい』とクレームを入れたら、
『すみませんがお名前とご住所を』と聞かれたので
『いやです。攻めてこられるから』と答えて電話切ってやった」
と武勇伝のつもりで得々と語ったという話を聞いたことがありますが、
なぜ何年も昔から住んでいるのに今さらクレームを入れたのかについては
高校生だったエリス中尉、疑問にすら思いませんでした。
今にして思えばあの人は、

・・・え?

そういうどうでもいい話を盛り込むからなかなか話が進まないんだ、って?
はい、わたしもそう思います。次に参ります。



なぜ二発なのかわかりませんが、おそらく開始合図。



勿論のこと、こういう演習には陸のみならず海空も役割を担います。
P-3Cキタ━━━━━━━━m9( ゜∀゜)━━━━━━━━!!



イッタ━━━━m9( ゜д゜)っ━━━━!!

我が海自のオライオン(様)からも、落下傘降下。
これらも「偵察隊」であるとのこと。



おお、おまけに敵陣になんと爆弾を落としていかれた(設定な)のか!
帝国海軍ばんざーい。

 

そこにすかさず偵察隊が降下ッ!(池上遼一の劇画調で)



先日指揮官降下で使用されたのと同じ傘。
FF(フリーフォール)でダイビングするので傘が白です。

 


これもせっかくなので降下員アップ。
もしかしたらこの隊員、超イケメンですか。

手に持ったハンドル部分で傘を調節している様子がわかります。

昨日、「全員日本の足で降り立ったように見えた」
などと書きましたが、上がってきたyoutubeなど見ると、結構皆地上で一回転しています。
というか、ずっと空を見上げていたものであんまりちゃんと見ていませんでした<(_ _)>
衝撃のことを考えると、その方が安全なのでしょうか。



そこに地上部隊のバイクも現れる。



バイクもちゃんと草で偽装しています。
このフィールドですが、後で航空機展示があり、降りて歩きました。
習志野基地開設以来、ずっとこの草地のまま使用されてきたわけですが、
勿論整地なんてしていませんから、地面はデコボコ。
そこに、葦のような枯れた草が生えているのですから、
よくバイクがまともに走れるものだと感心します。
やはり地面の衝撃を受けないように、「立ち乗り」しているのが見えますね。



そこにすかさず偵察隊から連絡を受けたアパッチロングボウが!(シルエットのみ)
いよいよ本格的な攻撃開始。
それにしてもこの機はローターの上のちょんまげみたいなのが大きい(笑)



こういう風景の中、信じられないくらいの角度をこれでもかと見せつつ
猛スピードで旋回します。
この奥に住んでる人たち、いいなあ・・。



続いて現れたのはUH-1J。
射撃手が両側のドアから体を出しているんです・・・が・・・・。
これ、そりの上に立ってます?
命綱とかつけているように見えないんですが・・・。
ズームする時間がなかったのが悔やまれます。



この狙撃手たち、偽装用の葉っぱでできたスーツを着用しています。
遠目にはわかりにくいですが、スターウォーズに出てくる人みたいなあれです。
ギリ―スーツというそうです。
冬は暖かくていいかもしれませんが、夏は大変です。
枯葉仕様なのでもしかしたら夏は別のギリ―スーツがあるのかもしれません。

ところで日本古来の雨具である「蓑」ですが、戦時中これをアメリカ軍は
「偵察兵のギリ―スーツ」だと認識していたそうで・・・・・そりゃ違うって。



このへりからも隊員が乗り出していますが、



懸垂下降、つまりラぺリング降下(ロープを使って降下)していました。
後ろにある民家に干してある赤い洗濯物がシュール・・・。
ギリ―スーツの三人が伏せているのがお分かりでしょうか。



フライングエッグ、OH-6D登場。
偵察にきたカイユースちゃんは実は攻撃もできるのよ。



そこであらわれるOH-1(部分)。
もちろん宙返りはしてくれませんでしたが、あまりの速さにびっくり・・



個人的にわたしがもっとも好きな戦闘ヘリです。
テールがかわいいですよね!



下から見たOH-1。
何が何だかわかりません。

ちなみに、雪の次の日、自宅上空をまさしくこのニンジャが通過したのを目撃。
意外と日本の空にはたくさんの軍用機が飛んでるもんです。
実は今まで気が付かなかっただけなんでしょうね・・。

 

再びアパッチ。
入れ代わり立ち代わり飛んできては無慈悲な攻撃を加える日本自衛隊。






またもや弾着!
・・・・というか、ピンクの洗濯物はやめて(-_-)



派手な赤いスモークは炎のつもり。
でも、終わってから消防車が水をかけていました。



そこにAH-1Sコブラが二機で登場。
近くに中学生二人が立って、防衛大臣の到着の時には

「防衛大臣は降下しないのかよ~」
「しねーよ」

などときゃぴきゃぴしていましたが、このコブラに大興奮。
この攻撃の時はものすごく高度を高く飛んでいたので、
下から見た写真しか撮れませんでした。


後から着地した時に撮ったのがこれ。



「すげー」
「かこええ」
「おれ模型欲しくなった」
「今日模型屋いったら売り切れてんじゃね?」

いや、男の子ってつくづくこういうのが好きなんですねー。
そういえばエリス中尉の周りはほとんど男ばかり。
勿論若年層から引退組まで、一人で来ているのはすべて男。
女の人というのは、近くにシートを置いていた家族のお母さん
(男の子三人で末が女の子の4人兄妹)、
彼氏に連れてこられて耳たぶ引っ張りっこして時間つぶしをしていた
女の子がひとり、後ろにおばちゃんが一人。

女性が一人で来ているというのは、周りを見回しても自分だけ。

おばちゃんは電話で

「あかんわー、なんか来るたびに皆立つから何も見えへん」

と、大きな声で愚痴っていましたが、
そんなことで怯むような奴はカメラなんて最初から持ってきません。。
一番前にいる奴が立つし、高い脚立は平気で立てるし・・・。
航空祭と違ってここは禁止されていないらしく、さらにお互い様なので誰も何も言いません。
ただ、おばちゃんが電話で

「マサル、二番目の飛行機やいうてたんやけど」

というのを聞いたときは、本当に気の毒になりました。
せっかく息子さんの晴れ姿を見に来たのに・・・・。



というわけで、引っ張るわけではありませんが、いよいよ、
第一空挺団、精強無比なつわものどもの降下が始まります。
二番目の飛行機にはついにあのマサルが登場します。
どうぞお楽しみに。









2013年度第一空挺団降下初め(空挺団長降下)

2013-01-16 | お出かけ

第一空挺団降下初めについてお伝えしています。
この日の訓練展示のテーマですが、

「島嶼防衛を想定した訓練」。

どうです?

つまり、離島における軍事進攻ならびにその奪還を想定しているのです。
なんと時期を得た、いかにもマスコミと隣国の嫌がりそうなネーミングではないですか。

プロペラ機を領空侵犯させて、もしかしたらこちらに「最初に撃たせて」
「あの事件」よもう一度とでも思っているらしい時代遅れの覇権主義国が隣にいて
現在進行形でケンカ売ってるわけですから当然ですよね。

ところで、先日このブログでも話題になったこの国の元駐在大使、
放言でクビになったあの元大使が東京でこの件について記者会見しました。
「この臨界点を超えてはならない」と日本に対してのみ自制を求め、
日本とこの国は「夫婦みたいなものだから仲良くするしか道はない」などと
一般人になっても相変わらずなことを言いたい放題だったようですが、
このBKD(ビーケーディー)に対してわたしは言いたい。
隣国を援助する国は亡びる、というマキャベリの言葉を添えてね。

「あれは単なるタチの悪い隣の赤の他人。
一度たりとも結婚などした覚えはない」


結婚相手は一人しか選べないんだから、
わたしはどうせなら相思相愛の台湾を選びたいわ(笑)
おっと、こんな話をするつもりではなかったの。

でも、もう一言だけ言わせていただきますね。
今回この降下訓練を報じた中国の新聞は、
まず、タイトルに

「アジア太平洋の平和に挑戦する安倍氏の強硬な動き」
としたうえで、
日本の防衛政策に精通するあるアナリストは
「今回の演習を通じて日本の軍事力を民衆に見せることで、
政権基盤を固めることを期待したもの
と指摘する

なんて書いているらしいんだけど、ご冗談を(笑)
あんたとこじゃあるまいし、軍事訓練で政権基盤が固まるような国なら苦労しませんて。

だいたい、降下訓練も訓練展示も毎年やっていて、これは「降下始め」なの。
年頭行事なのよ。わかる?

でも、この論調、全く同じような調子をどこかで読んだような・・・・。
あ、朝日と毎日でしたか。
あの新聞は、中国の新聞と同じ立場の記事を書いているってことだったのね。(棒)



それはともかく、それぞれが配置に付き、アナウンスがいよいよ「お試し降下」
(つまり、この後お偉いさんが飛ぶので露払い」の開始を告げました。



お試しは一人だけの降下なので、使用機も小さなUH-1から。



 

雲一つない真っ青な空に飛びだすパラシュート。
このパラシュートはフランス製。
昔、この第一空挺団の前身である帝国陸軍挺進団について書きましたが、
その訓練の様子で傘を安易にたたむことが命の危険に直結するため、
真剣にその実習を受けるシーンがありました。

「きちんと傘をたたむこと」ですが、今でもそれは最重要なのだとか。
たたみ方がまずいと最悪開かないというような事故を招くのだそうです。

 

着地点を示すため、下で目印のスモークを焚きますが、
この地点にほぼ違わず見事定点着地。
何の苦も無く両脚で降り立っています。
この日の訓練で何十人もの空挺隊員が降下しましたが、見ていたところ、
着地の時に立てない隊員は一人もいませんでした。
風がない日だったせいでしょうか。
それとも、そんなことは彼らにとって「当たり前」なのでしょうか。



簡単に見えますが、着地の時受けるショックは大変なもの。
鬼塚曹長みたいにC-1から落下傘なしで降りるわけでもあるまいに、
ふわふわ落ちてくるんだから大したことないんじゃない?って?
いやいやいや、その着地のショックは、ほとんど

「二階から飛び降りたのとほぼ同じくらい」

軽く言いますけどね、ヤワな一般人が二階から飛び降りたら、骨折るよ?下手すると。
なぜ空挺団というのが、いかに人間離れした鍛え方をしているか、というと、
こういう降下など、「目的のための手段に過ぎない」つまりできて当たり前。
この後の戦闘行動こそが本当の、そして最終目的であるからなのです。



傘を抱えて走る露払い降下員。
すれ違うのは赤旗、つまり「敵役」の戦車隊。
この模擬戦闘では「敵陣」は赤旗で示されていました。

あ、いま気づいたけど、敵が「赤旗」って、これ・・・・。



せっかくなので降下要員アップ。
航空祭と違って、たとえソロ降下でも名前は呼んでもらえません。
しかしたとえ名前は無くても、空挺団員である限り、それは
「とんでもない強靭な肉体を持つ自衛隊最強の精鋭」と同義なのです。


空挺団所属ということは、イコール空挺レンジャーの資格を持つということです。
自衛隊のエリートを自認する彼らは、元々高い身体能力を篩い分けられた
精鋭集団である上に、たとえば一か月くらい山中でサバイバル訓練をし、
泥水啜り草を食んだり、一晩中山中行軍して、辛さのあまりおかしくなった人がふと、
崖から下に飛んでしまったりするような極限の(その隊員はしかも死ななかったという)
訓練で、いやがおうにも鍛え上げられた、人間凶器のような集団。

ここで、本日のサバゲー・・・ではなく、訓練についての説明がアナウンスされました。



この赤旗と赤い煙の立つ部分が、侵攻し占拠された敵陣地。



こちらが我が日本軍基地。



これは・・・赤陣地の近くの「司令部」。
煙を出しているのは「ここがそうですよ」という観客へのサービス。



AH-64Dアパッチロングボウが降りてきました。

 

お迎えが二人来て、要人らしき人を取り囲んでアテンドしています。
黒い服に白い襟、白髪。
うーん・・・・・・これは・・・・・・・

服部幸應?

んなこたーない。
防衛大臣かとも思ったのですが、政権交代で新防衛大臣になった小野寺さんは
もっと若く見えるしなあ・・・。



さらにチヌークさんが後ろのドアを開けました。
これ、タラップの傾斜が急にならないように計算して
斜面に後部を向けて着陸していますね。
毎年やっているのでどこに停めるか決まっているのかもしれません。



そこから降りてきたのは・・・・・あれ?
どう見てもこれは一般の人ではない?
お年寄りや女の人までいる。
報道関係者にも見えないし、この人たちはなんだろう。
もしかしたら噂に聞く「自衛隊協力会」の人たちかな。

さて。
用意が整ったところで、突然ですがここで空挺団団長の降下です。
なんと。
空挺団というのは、それそのものが非常に特殊な部隊。
日本で唯一の空挺団でありますからして、ここの偉い人となると、
長がつくからといっても机の後ろにへばりついていることは許されません。

現場のトップが高度300メートルからフリーフォールでダイブすることを
当然のように要求される、それが陸自第一空挺団なのです。

前田忠男空挺団長は、防大31期を昭和62年に卒業したと言いますから、
47、8歳というところでしょうか。
この年齢の陸将補というのは若いような気もしますが、いずれにせよこの年齢では
若い隊員と同じ条件で飛ぶのはきつそうです。



陸将補の降下とあって、皆興味津々。
降下地点にはわかりやすいようにスモークが焚かれています。



しかし、スモークとは全く違うところに行ってしまいそうな団長の落下傘。
「ああああ」
「だめじゃーん」
やはり中年になると勘が鈍るのか。
皆がハラハラして見守る中、元第一空挺団の昔取った杵柄、
左回りに旋回しながらポイントへのアプローチを試みている様子。



それでもなんとかポイントに近づいているようではある。
他の隊員に比べるとぐっと体重もありそうですが、これが錘となって、
軽すぎて飛ばされてしまうよりは傘も安定するのかなと。

しかし、パイロットなら「いつまでも空を飛びたい!」という気持ちを持ち続けるのも
わからないでもありませんが、落下傘とはいえ生身で空を飛ぶのって、どうなんでしょうねえ・・・。
勿論、実際の降下訓練も忘れない程度にときどきおやりになるんでしょうが、さすがに
陸将補にもなると、荷物かついで行軍とか、銃持ってマラソンとかしないでしょうから、
やはり降下そのものに少し恐怖心が生まれてしまうのではないかしら。

そして、この多くの関係者の前で観衆の上に落ちてしまったり、派手に転んで
「亀の子」になったり、もしそんな無様なことになったが最後、
今後どんな偉そうに訓示をしたって説得力ゼロ、部下の心に全く響きません。

このプレッシャーは体力の衰えよりきついと見た。

そんな万感の思いを込めて、陸将補は飛ぶ。
BGMは円博志、「夢想花」。

「飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで回って回って回ってまわる~」(嘘)



というわけで、回りながら陸将補、スモーク地点からはるか離れてはいるものの、
ちゃんと二本の足で習志野演習場の大地を踏みしめることができました。
下半身写ってませんが。

後から当日来ていたらしい元自衛隊の髭の隊長、佐藤正久議員のブログを見ると、
このFF(フリーフォール)をするにはどうやら資格がいるようです。
前田陸将補はその資格を持っており、白い傘はFF用のものなのだとか。
FF用は、作戦に使用する機材を携行して降下するので、普通のスポーツ降下の傘より、
若干大きなものなのだそうです。



何しろ偉い人なので、一般の隊員とは違い、自分で片付けなくてもOK。
二人の隊員が駆け寄り、パラシュートの取り外しも手取り足取りやってくれます。



「見事でしたな陸将補どの!(って呼ぶのかな陸自だし)」
とニコヤカに団長の降下成功をねぎらう隊員。
ヘルメットの隊員は黙って傘を片付ける係です。
「いやー、ちょっと流されてしまったわい」
「そんなことはありません!さすがです!」
なんて会話をしているのでしょうか。(妄想)



こちらは陸将補に少し遅れて降下したやっぱり偉い人。
えー、この人の肩書は・・・・忘れました。
さっきの陸将補の傘とこちらの傘をまとめて片付けています。
ちなみにこちらの人も降下成功。



会場の右手には大きなスクリーンがあり、ずっと第一空挺団の
紹介ビデオなどやっていたり、どういうわけか
「I love you ふくしまーI need you ふくしまー」
という、あまり大きな声では言えないけれど、音楽関係者にとっては
かなり「イラっとくる」あの福島応援ソングが流されたりしていました。

実演が始まると、見ることのできない人のために、このように
アップの映像が流されていたようです。
まあ、ほとんどの人はあまり見ていないようでしたが。
これはどうやら陸将補どのが意気揚々と引き揚げるの図。




というわけで、無事に偉い人の降下が終わりました。
さすがは第一空挺団、指揮官先頭を絵に描いたようなしきたりですね。

前田陸将補のモットーは

「心常に空挺を離れず」

さすがです。
心のみならず実際に空挺してしまってますから。


というわけで、案の定こんな話になると重爆の隅をつつくように
いろいろと突っ込まずにはいられないエリス中尉、
今日も肝心の降下訓練までたどり着けませんでした。


続きます。