終了後1週間にわたってお届けしてきた自衛隊観艦式参加記、
「ちょうかい」もようやく木更津港に帰ってきました。
全てが終わりただ入港を待つだけの時間というのは、2回の予行のときには気付かない
「祭りの後」の切なさを感じずに入られません。
しかし、その前に、少し時間を巻き戻して、浦賀水道に入る前からもう一度。
ずいぶん巻き戻ってしまいましたが、これは安倍首相が訓辞を終え、
「くらま」から防衛相、財務相とともに飛び立つ前です。
今から着艦して安倍首相らを乗せ、まず「いずも」、その後「ロナルド・レーガン」に
座乗し、戦闘機の座席で写真を撮ったわけですね。
現職首相が米空母に乗艦するのはもちろん初めてのことです。
要人を乗せて発艦するヘリを見守るように、海上保安庁の巡視艇が警戒しています。
警備のための海保船は2隻配備されていました。
というわけで、遠くからでもホッとした空気の漂う、首相下艦後の「くらま」。
ずっと「ちょうかい」と並行するように航行しながら横須賀に帰投しました。
さて、関越を終えた観艦式参加艦艇部隊が三浦半島の観音崎を通過したときです。
艦内アナウンスがあり、祝砲が観音崎で撃たれることが告げられました。
わたしは艦橋の窓から極限まで望遠でズームしてこんな画像を撮りましたが、
周りの人々はあまりにも遠いせいか、あまり気づいていなかった様子。
音も全く聞こえませんから無理はありません。
白い煙がこのように何度となく立ち上ってはたなびく様子が繰り返されましたが、
礼砲は21発撃たれたということでした。
礼砲の数というのはそこにいる「権威者」の位によって変わりますが、
21発というのは最高数で、国旗、元首、皇族に対して行われます。
「くらま」に対して祝砲が撃たれたので、並行して航行している「ちょうかい」からは
真横でそれをみることができたわけですが、果たしてそのとき首相はまだ乗ってたっけ?
ところでどうして観音崎で祝砲が撃たれるかなんですが、この理由はおそらくですが、
旧海軍からの名残ではなかったかと推測されます。
皆さんは「東京湾要塞」という言葉を聞いたことがありますか?
今回の観艦式の航行中にも見ることができる、この遺跡は
日本が海軍を持ってすぐに明治年間から建設が始まり、30年をかけて
大正年間に完成した人工島に築かれた「東京海堡(とうきょうかいほ)」という
要塞のための施設だったものです。
日本を要塞化するにあたり、山県有朋が提唱して東京湾には三つの海堡が建設されました。
これはそのうちの「第二海堡」と呼ばれるもので、1914年に完成しました。
艦隊が浦賀水道に入るとかならず見ることができるこの遺跡は、
浦賀水道と内湾の北側境界に位置していて、建造当初は兵舎や砲台が建設され、
第一、第三海堡、そして自然の島である「猿島」とともに防衛線の一角として運用されていました。
グーグルマップからキャプチャした第二海堡の鳥瞰図。
面積は41,000㎡といいますから、かなり大きなものです。
大正年間に完成したというのにこの完璧なフォルム、今更日本の土木技術力が
当時世界レベルであったことが窺えます。
第二海堡は1923年の関東大震災で壊れたため除籍されてそのままでしたが、
海軍が大戦中には砲台を建設し、潜水艦の防潜網が張られていたそうです。
しかし、敗戦後、米軍は日本軍の軍事力を無力化するために、
第一海堡、第二海堡ともに爆破処理してしまいました。
現在の様子を見る限り、灯台はもちろん、工事用の車両らしき姿も見えます。
これは護岸の整備工事だそうで、地震などによって海底に土砂が流れ出した場合、
ただでさえ8〜12mの水深しかないこの海域が、さらに浅くなってしまうからです。
つまりこの三つの海堡と、東京湾を望む高台に設えられた砲台は、
「敵が首都に攻めてくるときには海からやってくる」という思想の元に
計画設計された「東京要塞」だったわけですが、大戦末期には敵の攻撃は
その全てが硫黄島やグアム・サイパンを基地とする航空機となったわけですから、
事実上これらの要塞は、帝都防衛の任を負うにも、全く無力だったということになります。
ところで皆さん、思いませんか?
浦賀水道というのは「海の銀座のようなもの」と艦内の観光案内アナウンスでも
そう言っていたくらい、輻輳の甚だしい「海の難所」です。
そんなところに、なぜ未だに遺跡とはいえ二つの海堡がまだ残されているのか。
第三海堡というのはかつて観音崎沖にありました。
観音崎はこの写真を見ていただいてもわかるように、結構な高度のある崖で、
当然観音崎沖というのは水深も深く、約39mだそうです。
そこに海堡を造ったのですから、工事は難航し、完成まで30年を要しました。
しかも、完成直後、関東大震災に見舞われ、4.8mも沈下してしまったため、
以降は大東亜戦争中も全く使われていないままでした。
この名残が浦賀銀座の輻輳部分にあれば、当然ながら海難事故の原因になるとして、
船舶関係者となぜか石原慎太郎が撤去を強く要請していたのですが、
第3海堡にに関しては、2000年から7年がかりの工事で撤去が完了しました。
引き揚げられた構造物は、漁礁として海に投機されたり、遺跡として
公園に移送されたり(うみかぜ公園にある旧第三海堡兵舎)したそうです。
第一、第二海堡についても、船舶関係者となぜか石原慎太郎は撤去を主張しているそうですが、
この部分の海深が浅すぎて、たとえ撤去しても大型船通行のためにはさらなる浚渫が必要ですし、
そもそも海堡そのものがあまりにも堅牢に建設されていて、
撤去するのは無理かもしれないということで、未だにそのままになっているのです。
この時代、このような人工島と堅牢な海堡を作る技術とはどのようなものであったのか、
現在も第三海堡の遺跡を引き揚げて研究が行われているそうで・・・・
なんかすごい話ですね。
第二海保の護岸工事の様子がよく分かるショット。
現在、ここは灯台と、消防庁の演習場となっており、今後も存続される予定です。
で、話を戻しますが、観音崎、ここにはかつての砲台跡が残されています。
観音崎砲台跡
東京湾要塞というのは、そもそも清国の北洋艦隊から帝都を守るため考案されました。
北洋艦隊ったら、「まだ沈まずや定遠は」の定遠とか、「鎮遠」なんて戦艦のあれですよ。
日清戦争が終わり、すぐに対象はロシア太平洋艦隊になるわけですが、このころの戦というのは
我が方の「旅順港閉塞作戦」がロシア陸軍の旅順砲台の前に失敗に終わったことを見るまでもなく、
砲台というのが要地防御にとって大きな戦力となっていたのです。
というわけで、日本政府は浦賀水道を通ってくる(しかない)敵を想定して、
それはそれはたくさんの砲台を建設しています。
横須賀軍港周辺には
夏島、笹山、箱崎、波島、米ヶ浜、猿島。
に、いずれも砲台が造られていました。
このうち猿島砲台は周囲わずか1.6kmの自然島にあった要塞で、
近年この島に国が「猿島公園」として海水浴場などを作り、
要塞跡は国の史跡として指定されています。
仮面ライダーシリーズではショッカーの基地になっていたそうです。
うーん、ショッカーの野望って、世界征服だったという記憶があるのですが、
こんなところに要塞を持っても、せいぜい日本を侵略するのが精一杯だと思う。
しかし、ここ、一度行ってみたいわねえ・・・と思ったら
こんなのがあったぞ。
すかたび 秋の猿島ツァー
おおお!これ、当ブログ的には一度取材するべき?
それはともかく、 東京要塞で砲台が作られたのは横須賀だけはありません。
房総半島には第一、第二海堡以外にも
- 富津元洲堡塁砲台
- 金谷砲台
- 大房岬砲台
- 洲崎第一砲台
- 洲崎第二砲台
館山海軍航空隊も、房総半島の「東京要塞」の一環として作られました。
また三浦半島には、
- 城ヶ島砲台
- 千駄崎砲台
- 千代ヶ崎砲台 - 国の史跡
- 観音崎砲台
- 三崎砲台
- 剱崎砲台
その他弾薬庫などがあったそうです。
それではこの日、祝砲は観音崎のどこから発砲されたのでしょうか。
それらしいところをグーグルマップで探してみると、ありました。
海上自衛隊観音崎警備所が。
望遠レンズで捉えた写真に見える観音崎の灯台はこの写真の上側にあります。
これこそが「東京湾交通センター」通称「東京マーチス」なんだって知ってました?
それを考えると、祝砲は、 明らかにこの警備所より山頂に近いところで上げられているような。
この山麓の真ん中辺になんか広場みたいなのがあるぞ。
ここじゃないのかな、と思ったけど、どうやらここは公園の一部みたい。
まさかいくら人がいないといっても公園では祝砲撃たないですよね。
もう一度確認してみると、マーチスの建物と灯台の位置から見て、
ここではないかと思います。
といっても誰にも正解はわからないかもしれません(笑)
未だに観艦式の時にここで祝砲が撃たれるのは、日本で祝砲の撃てるのが
ここだけだから、という説がありました。
かつてこの近海で行われた何度かの帝国海軍の観艦式において、
東京湾周囲にある数ある砲台の中、ここで祝砲が発射されていたから、
とわたしは想像したのですが、もしこのことをご存知の関係者の方がおられたら、
ぜひこの二点についてご教示いただけると幸いです。
というわけで思わぬ寄り道をしてしまいましたが、次回、平成27年自衛隊観艦式シリーズ、
本当に本当の最終回。