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江田島健児の歌

2012-01-21 | 海軍



楽譜作成の無料ソフトをダウンロードしたので、それで作成してみました。
それにしても、良い時代になったものだ・・・。
楽譜を書くのが仕事だったころ、清書はインクで書き、さらにパート譜を作り、間違えたときは
修正インクや切ったり貼ったり、もう大変だったものですよ。
コピーではダメなことも多かったものですから。

そんなことに費やされた貴重な青春を返して!と胸ぐらをつかんで(誰の)やりたいくらい、
今回このソフトを使ってみてその便利さに驚きました。
メロディはゆうせんで聴いた、戦中にレコーディングされたものの採譜です。



陸軍士官学校は校歌がありますが、海軍兵学校に「校歌」はありません。
校歌に相当するのが、この江田島健児の歌
兵学校創立50周年の記念として生徒から募集した歌詞に軍楽少尉が作曲をしました。


この曲についてお話しする前に、少し軍歌の種別について説明します。

第一種、第二種、第三種と別れているのは軍服だけではありません。
軍歌もまたこのように種類を分けられていました。

第一種軍歌が最もフォーマルなもので、軍や政府が制作に携わったもの。
「海ゆかば」「陸軍士官学校校歌」「艦隊勤務」「如何に強風」など。

第二種軍歌は、レコード会社や放送局などの民間団体の手によるもの。
一般の公募による作詞作曲が採用されたりしたものと思われます。
「ああ紅の血は燃ゆる」「麦と兵隊」「轟沈」など。

第三種軍歌。
これは正式に「これが第三種」と決められたものではありません。
第一種にも第二種にも属さない、例えば慰問歌手が戦地で歌ったりする、
あるいは兵士たちが故郷を思って、あるいは酒の席でにぎやかに歌う、
つまり戦時愛唱歌のことです。

「誰か故郷を思わざる」「支那の夜」「湖畔の宿」
悪戯に厭戦気分を煽るということで公には許されなかったこう言った歌謡曲。
しかし、日本から遠く離れた戦地で兵士たちが口ずさみ、涙を流すのはこういう曲でした。

慰問歌手は軍上層部に何を歌うのか聞かれたとき「第三種軍歌です」と答え、
いつの時代も建前を重んじる上層部はそれがどのような曲が知りつつも、
「第三種『軍歌』ならばよし」とOKを出したのでした。


その種類分けで言うと、この「江田島健児の歌」は勿論第一種軍歌に相当します。
そこでふと気づけば、海軍の軍歌は
「軍艦」「海ゆかば」「太平洋行進曲」「愛国行進曲」「艦隊勤務」「ラバウル小唄」
思いつく限りでもざっとこれ全部、共通点がありますね。
(愛国行進曲は『軍艦』の作曲者瀬戸口藤吉の作曲)

そう、全てが長調(Dur、major)でできているのです。

海軍、海のイメージはすべからく明るい曲調で行くべし、と誰が決めたかは知りませんが、
少なくとも第一種軍歌は例外なく長調なのだそうです。

映画「海兵四号生徒」では、生徒たちが棒倒しをしたりカッターを漕いだりするシーンで、
この曲が流れていました。
若い彼らの躍動感にピッタリな長調のその明るい曲調が耳に残っていたのですが、
これが「江田島健児の歌」と知ったのは後のことになります。

この「江田島健児の歌」は先ほども述べたとおり大正8年、在校生に応募を募り、
当時(悪い意味で)「モッブ・クラス」と言われた大所帯約800名の生徒から、
100ほどの詩が寄せられました。
その中から選ばれたのは神代猛男(こうじろ・たけお)生徒の詩。

神代生徒は、応募した歌詞を家族に送る際
「これが当選すれば校歌となりますが、たぶんダメでしょう」
と、謙虚なというか自信なさげな一文を書き添えています。

この時に家族に送った歌詞と実際に江田島健児の歌として残っている歌詞は、
かなり違っているのだそうですが、もしかしたら作曲の段階で推敲されたものかもしれません。


ともあれ見事このこ神代生徒の作詞したものが末代まで残ることになったのですが、
神代学生自身は中尉任官まで逡巡しつつも、自分の進むべき道はそこに無いことを悟り、
後に海軍を辞めてしまいます。

時折しも軍縮時代。
「海軍の未来は必ずしも明るくない。
将来については家族とよく相談の上辞めるものは申し出よ」

などと肩たたきのようなことを生徒が教官から言われるような時勢でした。

神代中尉が辞める決意に及んだ原因のもう一つに、海軍において一生ついて回る成績順、
ハンモックナンバーが下位だったこともあるようです。
(272人中172番)
この成績では今後海軍での出世など望めない、それより自分のやりたいこと、
文章を書くことで自分を試してみたい。かれはこのように考えたのでしょう。

これに遡ること何年か、神代猛男は故郷の三重県津市では「地元の神童」でした。
進学した東京、芝中学でやはり秀才であった同級生の福林正之とともに
憧れの海軍を目指して猛勉強の末、海軍兵学校入学を果たします。
この時不合格だった福林はそののち東京大学に進学しますが、
夏季休暇に純白の第二種軍装に短剣を吊って母校に颯爽と現れた神代の姿に
羨望と、自らが絶たれた道への絶望を感じたといいます。


しかしその十余年後、如何なる運命の悪戯でしょうか。
海軍を辞めた神代は、その福林に紹介の労を頼んで新聞記者に転身することになります。
そして張り切っていた矢先に急性中耳炎が元であっけなく他界してしまうのです。
わずか三十三歳でした。


ところで、皆さんはこの福林正之という名前に聞き覚えはありませんか?
そう、戦後、一人の元零戦搭乗員であった坂井三郎

「戦争そのものの是非善悪の論は別として、
ともかくも我々日本人は世界の列強を相手に5年間も戦い、
その結果我々の国家と民族と運命にこんなにも大きな変革を与えたのだから、
歴史的な事実は事実としてあくまでもその正確な記録を後世に残すのが
われわれ現代人の義務だ」


という言葉で熱心に口説き落とし「坂井三郎空戦記録」、
後の「大空のサムライ」に続く大ヒット本を生んだ出版共同者の社長、
福林正之
その人です。

かつて自分が果たせなかった夢を実現した友に敗北を感じたこと。
その友もまた夢破れ海軍を去り、自分と道を同じくするも間もなく冥界に発ったこと。
福林が坂井三郎の姿を通して海軍搭乗員の世界を日本人に膾炙することに傾けた、
その情熱の源には、もしかしたらこの友への想いがあったのかもしれません。

その福林が兵学校で歌い継がれた友の手による「江田島健児の歌」を聴くとき、
脳裏に過(よぎ)るのはいかなる感慨だったでしょうか。

 
江田島健児の歌   神代猛男作詞  海軍軍楽少尉 斎藤 清吉 作曲

一、澎湃寄する海原の 大濤砕け散るところ
  常盤の松の翠濃き 秀麗の国秋津洲
  有史悠々数千載 皇謨仰げば弥高し
二、玲瓏聳ゆる東海の 芙容の峰を仰ぎては
  神州男子の熱血に わが胸さらに躍るかな
  あゝ光栄の国柱 護らで止まじ身を捨てゝ
三、古鷹山下水清く 松籟の音冴ゆる時
  明け放れ行く能美島の 影紫にかすむ時
  進取尚武の旗挙げて 送り迎へん四つの年
四、短艇海に浮かべては 鉄腕櫂も撓むかな
  銃剣とりて下り立てば 軍容粛々声もなし
  いざ蓋世の気を負ひて 不抜の意気を鍛はばや
五、見よ西欧に咲き誇る 文華の蔭に憂いあり
  太平洋を顧みよ 東亜の空に雲暗し
  今にして我勉めずば 護国の任を誰か負う
六、嗚呼江田島の健男子 機到りなば雲喚びて
  天翔け行かん蚊竜の 池に潜むにも似てたるかな
  斃れて後に止まんとは 我真心の叫びなれ


参考: 戦争歌が映し出す近代  堀雅昭  葦書房




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