ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍兵学校同期会~「大和のふるさと」と空港の旭日旗

2015-02-28 | 海軍

お節介船屋さんによる写真解説:
標記の海洋構造物です。そのため中側にタイヤの防舷物が取り付けてあります。新造構造物です。

第4ドックに入渠しているのは船底部の化粧塗装のためと思われます。
建造ドックで建造中は盤木等の当たっている部分はブロックの段階で錆止め塗装、
上塗り塗装を実施して組み立てていきますが、海水に浸かる部分は
防汚塗料(カキ、海生物等が付くのを防ぐ)を塗装する必要があります。

建造中に防汚塗料を塗装している事もありますが長期に海水に浸からずにいると乾燥し、
防汚効果が低減します


昨年秋に行われた海軍兵学校某期入学記念解散式。

その後このとき知り合った兵学校生徒S氏と、ちょっとしたご縁から
おつきあいさせていただく光栄な機会を得ました。
何度かここでもお話しさせていただいたせいですっかり当ブログ的には
(ご本人のあずかり知らぬところで)有名になったSさんです(笑)

先日この同期会の事務局長を務めていた元生徒が亡くなったため、

水交会で追悼会が行われるということをおっしゃっていたので、

「もしかしたら同期会が解散となるのはそれが原因だったのですか?」
「それもありますね」

Sさんはわたしには兵学校の同級生や昔の知人について聞かせるのが楽しいようで、
独りごつように次々とそう言った人々についてのあれこれについて語るのですが、
ひとしきり話した後、まるでオチのように


「亡くなりましたけどね」

と付け足すのが常でした。
その様子はなんとも恬淡としていて、
こういう年齢になれば親しかった人間、
周りの人間が
次々と世を去っていくことについて人はこう思うようになるのかと、
いつかは来る将来を見るような思いがしたものです。

ところが、わたしにはこれだけ色々と話してくれるのに、
自分の席次の話や、兵学校での話を

「子供にもしたことがない」

のだとか。
自分の軍体験について家族が興味を全く持たず、
自分自身も戦後はどちらかというと「軍アレルギー」となって
軍に関わるものを避けてきたからなのでしょうが、そういった理由で
一言も話さないまま逝ってしまう軍人の例を

いくつか知っていたわたしは、またしても「ああ」と納得するものを感じました。



 





さて、そんなS氏とわたしを乗せた兵学校同期会ツァーのバスが、
海上自衛隊の造修補給工作部の前を通り過ぎ、「大和のふるさと」である
あのドックの前に来たところからです。


この大屋根は、平成19年に

「呉海軍工廠 造船船渠大屋根」

という名目で、近代化産業遺産に認定されています。
呉の海軍工廠関係では、

「大和」設計図
10分の1「大和」模型
重巡洋艦「金剛」のヤーロー式ボイラー
「大和型」150センチ探照灯反射鏡

など、いずれも大和ミュージアムの所蔵品が認定されています。 

この近代産業化遺産というのは、幕末から明治年間にかけて

日本の近代産業化に貢献した遺物や遺跡などを、地域活性化のために有効活用する観点から
(つまりありていに言えば観光資源としようってこと?) 
経産省が指定して決めるもので、例えば横須賀で見たドック第1号などの造船、
製鉄所関係の遺産のようなものや、ウィスキー、ダム、製紙工場など、
多岐にわたる分野に制定されています。

ちなみに航空機では零戦と三式飛行機(飛燕)が対象です。

ところで、この大屋根ですが、こんな目立つものが、終戦末期の呉の
数次に亘る米軍の空襲でもなぜ残ったかというと、アメリカが戦後の接収を考慮して、
海軍工廠の造船所の部分は爆撃目標にしなかったためです。



というわけでこのドックそのものが遺構でありながら、実際に稼働し続けているのです。

戦後、進駐軍が撤退した後、この地域は

「旧軍港市転換法」


によってすべての施設が民間に利用されることになりました。
石川島重工業と播磨造船所が合併してできた

石川島播磨工業

が、住友重機と合併してさらに

アイ・エイチ・アイ・マリンユナイテッド

となり、さらにそれがユニバーサル造船と統合されて現在の

ジャパン・マリン・ユナイテッド

となったのが去年、すなわち2013年のこと。
わたしが最初に呉に来た時にはまだなかった会社なんですね。




上の写真をズームしてみました。
これ、左に見えているのは艦首部分ですよね?
もしかしたら今から大型船を作ろうとしている?
奥に見える二つの部分もこの同じ船の一部だと思うのですが、
これが船底部分だとすると艦首部分との大きさが合わない(謎)

これ、どの部分かわかる方おられますか?

お節介船屋さんによる写真解説:
奥のブロックは船底部のブロックです。
船首部分のブロックは船腹一杯ありませんので合わないように思われたものと思います。



あまりにも部品が巨大でわかりにくいですが、
この画面の中にも作業をしている人が何人か見えます。
まさに今「建造中」であることがわかりますね。

ところで左に壁が見えていますが、この部分は造船所の

「平板工場」。

こここそがかつて「大和」が建造されていたドック部分です。
産業遺産に制定された大屋根は、本当に「大和」の
後ろだけを隠すために作られていたことが位置関係からわかりますね。



「平板」というのは読んで字のごとく造船における
船を形作るところの外壁と定義していいのだと思うのですが、
「造船」「平板」で検索すると、造船学会の

長矩形平板の水面衝撃実験とその解析」

なんていう論文のPDFなどが出てきます。
これは三角形をしているようですが、どの部分でしょうか。

お節介船屋さんによる写真解説:
角のブロックは甲板部分が下になったひっくり返っているブロックです。
上面塗装してある部分が船倉の天井になります。

船側と甲板の取り合い部の強度を掌る三角ブロックです。



このドックを「第二建造ドック」と称します。

大和のドックだった平板工場を挟んで向こう側には第三建造ドック、というのがあるのですが、
どこを探しても
第一建造ドックが見当たりませんでした。

お節介船屋さんによる解説:
呉海軍工廠時代の1、2号ドックは埋立られ現在はありません。

3号ドックは2号建造ドック、「いせ」の接岸時2隻のバルクキャリアが写っていたところが
1号建造ドックと思われます。



第二建造ドックの向こう側では隔壁のようなものが見えます。
隣の平板工場から平板を持って来やすいところなんですね。
これが船尾部分で、ここから船首に向かって作業を進めるのでしょうか。
船の建造がどれくらいのペースで進むのかはわかりませんが、
1年後に来てみたらかなり「船らしく」なっているのかもしれません。



その右側にもドックがあります。
こちらのドックは「第四修理ドック」というのですが、やっぱり第一ドックはどこにもありません。
もしかしたら第一は「大和を作ったところ」ということ?

修理というからにはもう就役している船がドック入りしているわけですが、

さて、これはどういう種類の船なんでしょうか。

お節介船屋さんによる解説:
建造と修繕と分けられているのは建造ドックは次々と新造のため、
修理船は間に挟めない事と浅目になっていると思います。

昔は船台建造でドック建造は稀でした。ドック維持はお金がかかりますし、
深くすると排水に長時間かかります。

その兼ね合いで、建造のみであれば全て搭載していない建造中に出渠させるので
浅目で良いとなったと思います。




艦橋はまるでコンクリートのような素材に見えます。



クーラーの室外機を修理するときのためにつけた
足場をなにやら調整している工員。



こちらでは三人の工員が階段部分で作業中。

ところで、わたしたちの乗ったバスの女性運転手は、運転しながらちょっとした観光案内もしてくれ、
(自衛隊関係についてはあまり詳しくなさそうだった)
ここについても色々と説明していたのですが、その途中

「ここにうちの婿がいるんですよー」

と言ったので、車内が思わず「?」となりました。
独身とは言わないけどせいぜい30代後半に見えたので。

彼女の娘と結婚した相手はここ、マリンユナイテッドにお勤めしているという意味だったのです。

「へええ、娘さんもう結婚してるの」

誰かが驚いて聞くと

「孫もいますよ^^」

年配の方が多いのでさすがに誰一人何も言いませんでしたが、
車内がそのとき「ええ~」という雰囲気に包まれました。




船の水槽のような部分をズームしてみました。
一面にタイヤが吊られていますが、これが搭載するものの緩衝材ですね。

問題は、何を載せるための緩衝材なのかということですが。
しかし、「修理ドック」といいながらここに入っている船舶はタイヤの様子といいデッキといい、
ピカピカで、どうもこれも新建造なのではないかと思われます。



さて、というわけで、我々一行はこの後呉地方総監前を過ぎ、
(走行中だったので写真がぶれてしまい載せられず)
大和ミュージアム、てつのくじら館の前を通過。

前にも話しましたが、この運転手さんはちょうどてつのくじらの
潜水艦を据え付ける作業の時、前を車で通りかかって見ていたそうです。
歩道などの段差を一切無くして道路を平坦にしたうえで、
特殊な車両での運搬据え付けは一晩で行われました。

そんな話を聞きながら、「(到着が)早すぎてごめんなさい」という言葉に送られてバスを降りたのが5時。
出発まで2時間半もあるわけで、そのせいか皆ロビーで旅行者の人から
チケットを受け取ったりするのも悠長にやっております。

移動はご覧のように今回、海軍旗の下に行われ、わたしもこのシリーズの最初に、

「旭日旗に導かれて団体行動するなど、人生で最初で最期だろう」

と書いたわけですが、そのツァーがそろそろ終わりに近づいています。
これを撮っておこうと旗を持っている元生徒(ダンディその1)を撮っていると・・・、 



その方の連れ(息子さんではなさそうだった)が、

「ナントカさん、撮られてますよ。ちゃんとポーズしましょう」

といって、二人でカメラに収まってくれました。



続いて、元生徒(ダンディその1)お一人で撮らせてもらいました。
90歳近くでオフホワイトのパンツって、おしゃれだなあ。

もう今後お会いすることはない方ですが、どうぞいつまでもダンディなままお元気でいてください。



わたしがモデルになってもらっていると、他の人たち(女子)がこれに触発されたか、
ダンディと旭日旗を記念に撮っておこうと
写真大会が始まりました。

やっぱりみんな考えることは同じ。
このダンディ(その1)は人目を引いていたらしいことがわかりました。

ちなみにダンディ(その2)が件のSさんです。

こうして、わたしの人生最初で最後の

「海軍兵学校の元生徒たちと訪れる江田島ツァー」

は終わりました。
ふとしたことから参加することになったこの小旅行。
もう二度と行われることのないクラス会の、その最後を目撃し、
さらには本物の元海兵生徒と親しく交わるきっかけを得て、わたしは
あらためて縁というものの導く”妙”に、神秘を感じずにいられませんでした。

 


おしまい


 


映画「アメリカン・スナイパー」~英雄の心的外傷(PTSD)物語

2015-02-27 | 映画

クリント・イーストウッド監督作品、「アメリカン・スナイパー」を観ました。

 イラク戦争の時にネイビーシールズのスナイパーとして味方からは
”レジェンド”、敵からは”悪魔”と呼ばれた実在の人物、
クリス・カイルが書いた自伝に、
その後彼がたどった最後までを描いた映画です。

どうしてここまで全米中の熱い関心を呼んだかというと、
自伝を書いたカイル本人が
2013年にPTSD
(心的外傷、ポストトラウマチックストレスディソーダー)を発症した

元海兵隊員、エディ・レイ・ルースに射撃場で発砲されて死んだからでしょう。


カイルは、4次に亘ってイラクにスナイパーとして出征し、その戦場で
公式戦果160人、非公式255人のイラク軍兵士、アルカイダ系武装勢力を殺害、
イラクでは「ラマディの悪魔」と恐れられ、その命には懸賞金がかけられていました。

映画は、シールズ入隊後の「地獄の特訓」と、カイルと妻タヤとの出会いの描写に続き、
銃撃に非凡な才能を示す彼が実戦に投入されてさらにそこで本領発揮し、
「レジェンド」と言われるようになるまでをまず描くのですが、
その過程は、それが実際ににあったことだをいうことに思いをやりさえしなければ、
シューティングゲームで強い人がプレイしているのを見ているような気にさせます。



カイルは、自分が殺した人間のことを「悪いやつだからやった」と、ほとんどのアメリカ人が

第二次世界大戦で日本と戦った理由について聞かれたらそう答えるように答え、
後悔を感じるとしたらそれは救えなかった仲間のことだ、と言っていたようですが、
彼自身が思うよりずっと、彼は精神的には平均的な人間にすぎず、従って、
イラクでの戦闘活動を重ねるごとに、心的外傷に深く蝕まれていくのです。

映画ではその段階とともに、彼の心の闇が生む家族との齟齬をきっちりと描きます。



元海兵隊員に殺害されたときクリス・カイルは、すでに「生きているレジェンド」であり、
自伝を出版するくらい有名でしたから、不慮の死を遂げたあとは、国中がその死を悼み、

アメリカンヒーローとして その功績を称えられました。

そのこともあって、この映画も大変な話題と賞賛を獲得することになったのですが、
まず誤解を恐れずわたしの意見を言わせてもらうと、どの監督が手掛けようと、
彼を主人公にした映画は一定の成功を約束されていたのは間違いありません。

わたしがここでお話ししたいのは、そのヒーローを
イーストウッド監督が「どう描いたか」です。



映画公開と同時にアメリカではこの映画は大変な評判となり、まず

保守サイトのブレイトバートは当初から

「 愛国的で戦争を支持する傑作」

と好意的に評価し、ジェーン・フォンダ、ジョー・バイデン
A・シュワルツネッガー
などが感激したなどととして肯定的に支持しており、
特に共和党政治家のサラ・ペイリン


「私たちの軍隊、特に私たちの狙撃手たちに神の祝福を」

という言葉で映画を、というよりクリス・カイルを激賞しています。



しかし、これに対し、左派監督、マイケル・ムーアが反論の狼煙をあげました。


僕の叔父は第二次世界大戦中、スナイパーに殺された。
彼らは後ろから打ってくるから臆病者だと教えられて育った。
スナイパーはヒーローなんかじゃない。侵略者はさらにタチが悪い」

このスナイパーというのは他でもない、日本軍の狙撃兵のことで、
ムーアの叔父は
フィリピンのルーゾン地区で戦いを終えて、
基地に戻ろうとしていたとき、ムーア曰く、

”諦めが悪くて知られていた”日本の狙撃手に、
高い木の上から後頭部を撃たれて死んでいます。

さらにムーアは、

1万キロも離れた場所から侵略してきた奴らから、
自分たちの土地を守ろうと
銃を持って戦ってる人をスナイパーとは呼ばない。
それは勇敢な戦士だ」


とツィートして、それは「大炎上」しました。

一般的にアメリカ人というのは右左関係なく
「敵は悪である」という点では一致するものですが、

ムーアはアメリカ軍を侵略者といい、「タチが悪い」といい、
あろうことか
「諦めの悪い日本兵と同じようなものだ」
と決めつけたのですから、さもありなん(笑)

これに対し、

保守系のサイト、ブレイトバートは「哀れな”釣り師”だ」
ジョン・マケインは「馬鹿げてる」
キッドロック(ロッカー)は「お前のおじさんはお前のことを恥じてるよ」
先ほどのサラ・ペイリンは最も過激で、

「ハリウッドにいる左翼は光り輝くプラスチックのトロフィーは愛撫するのに、
自由を守ってくれる戦士たちの墓には唾を吐くのだ。
左翼はクリス・カイルに及ばないと、左翼ではないアメリカ国民が考えていることを
左翼は自覚するべきだ。」

と非難した上で、ある軍曹の叙勲式に出席した際、
「ファッ●
ユー マイケルムーア」
と書かれたポスターを手にして、これは右左両陣営から非難を浴びてしまいました。


つまり、この映画はアメリカの保守・リベラルがこの映画の評価を通じて
真っ二つに分かれて激しく論争を展開する結果となったのです。
つまり保守系言論は狙撃手を英雄だとし、彼がパトリオットだと称え、

逆にリベラル派は、戦争を美化していると批判しているという構図。

今や オバマ大統領夫人ミシェルが参戦して映画を擁護するなど、ちょっとした
社会現象になっているというのですが、わたしが以前映画「大日本帝國」をそう断じたように、
この映画が現在形で「ウヨサヨ炙り出し装置」になっていることだけは確かなようです。


今回、わたしはマイケル・ムーアのインタビューを興味を持って読んでみましたが、
この人、頭が良くて、かなり納得させられるんですよね。

『アメリカン・スナイパー』に関して言えば、米兵をイラクの解放者として描いてる。
アメリカは彼らを解放してなんかしてない。認めた方がいい。
我々はベトナムでも、イラクでも、アフガニスタンでも失敗したって。
そう言えた方が将来は明るい。
自分たちの過失を、どうしておとぎ話のように語るんだ?そんなの、何ももたらさない。

おそらくアメリカ人は肌感覚として、あの戦争が間違ってるってことは分かってると思う。
イラクには大量殺戮兵器なんてなかった。
4400人のアメリカ人の子供と数え切れないほどのイラクの人々が犠牲になったことも知ってる。
その根底には、深い罪の意識があるんじゃないか。


しかし、彼は映画に対する感想を聞かれて、

「この映画が戦争やスナイパーを美化している」

とは直接言ってはいません。

ただ、彼に対して寄せられた大量のメール、たとえば

「クリス・カイルは米軍を守った。彼らの命を救った。」

などいう意見には、

「救った」だって?

そもそも兵士の命を危険に晒すこと自体が間違いだっていうのに。

僕たちは過ちを犯した。自ら侵攻し敗北した。現実から目を背けてきた。
行った時よりも事態を悪化させた。


と反論しているんですね。

ふーん、言うなあ
、マイケル。

いや、わたしもね、この映画は戦争を美化なんぞしていないし、
クリス・カイルを
ヒーローとして描いてなんかいないと思いましたね。
これを見てカイルをヒーローだと思う人間がただいるというだけで。


カイルは、自分でも自分が徐々に壊れていくのを自覚しながら、
そして妻が行かないでと止めるのにも関わらず、何度もイラクに「戻って」いきます。
いつからかそれはそれが元オリンピックのメダリストであった
「ムスタファ」という名の
イラク側のスナイパーと決着をつけるためになっていくのです。

そして、2キロ先に潜伏しているムスタファを狙撃すれば、彼の、
アメリカ軍の居場所が
近隣の敵に知れて総攻撃に遭うということがわかっている状況で、
カイルはやっぱり「宿敵」を撃つことをえらぶわけです。

もしかしたらそれをすることで自分が死ぬかもしれないのにもかかわらず。


このあたりにわたしは、クリント・イーストウッド監督がかつて俳優として演じた
「荒野の用心棒」や「夕日のガンマン」のような、西部劇のエッセンスを強く感じ、
もしかしたらイーストウッドは、西部劇の構図でこのスナイパーを描きたかったのかと思いました。


しかし、この映画は、「荒野の用心棒」でガンマン・ジョーがライバルのラモンに
敢然と立ち向かい、最後には倒した時のような爽快感を決して与えてくれません。
「プライベート・ライアン」で、皆が命を呈して救ったライアン一等兵が、
年をとってアメリカの国旗に敬礼するシーンのような感動もありません。

そういった単純なカタルシスを阻んでいるのは、ひとえに
クリス・カイル自身が
苛まれていたという真に迫ったPTSDの描写です。

息子とじゃれあう犬を思わず本気で殴り付けようとしたり、
オイルチェンジの
待合室で「あなたに命を救われたことがある」と名乗り出る
シールズの元隊員に対しては
敬礼も返さず、挙動不審で目が泳いでいたり、
自分にだけ聴こえる銃声を聞きながら真っ暗なテレビの画面に見入ったり・・。



ここで思い出さずにはいられないのが、イーストウッド作品の名作(とわたしは思う)
「グラン・トリノ」のイーストウッド自身が演じた主人公コワルスキー。
朝鮮戦争の帰還兵で、そのとき己の犯した罪のPTSDが彼の後半生を
意固地で偏屈、神を信じないものにしたという設定でした。

あの「父親たちの星条旗」でも、擂鉢山の5人として英雄となった兵士たちは
戦後、戦闘と英雄として担がれたことの二重のPTSDに苦しんだと描かれました。


この映画を全編通して見る限り、クリス・カイルはただ信念を持って
250人のイラク人を殺害したと自分で言い切る以上に、

自分のしたことの罪に押しつぶされそうになった弱い面を持った人間として描かれ、
クリント・イーストウッド監督は
、彼に、「ガンマン・ジョー」ではなく、
コワルスキーやアイラ・ヘイズに近いものを見ていたのではないかと思われました。


つまり、保守とリベラルでこの作品を挟んで大騒ぎするのは、
全く監督の本意ではないし、
描こうとしたところは
まったくそれらの論点の外にあるのではないかということなのです。



実在のクリス・カイルは、殺害された日、PTSDで心神耗弱となった元海兵隊員の
母親に頼まれて、そのケアを行うつもりで一緒に射撃に行っています。

そんな人間に射撃をさせて果たしてPTSDがなんとかなるものなのか、
常識的に考えてこの対処が大間違いなのでは?
とおそらく日本人なら誰でも思わずにいられないのですが、

すでにこのあたりの感覚が狂い出していることに、周りの誰もが疑問を持ちません。

そしてわたしが心底不気味だと思ったのは、その最後となる外出の前、
カイルは自分の妻にふざけて銃を突きつけ、
さらにはその銃を子供にもふざけて向け、
その後、その銃を日本間で言うと鴨居のようなところにひょいと置いて出て行ったことです。

彼がPTSDの元海兵隊員に射殺されたというのは、実際にあったとは思えないほどに、
このアメリカン・スナイパーにとって実に象徴的な最後であり、
その最後があったからこそ
イーストウッドは彼の映画を撮りたいと思ったのでしょう。

そして、たとえその悲劇が起こらなかったとしても、いつか彼のPTSDが

何かのはずみで銃と結びついた、別のとんでもない悲劇を起こしていたかもしれない、
という背中に粟立つような思いを捨てきれないのはわたしだけでしょうか。


全く音楽の流れない、長い長いエンドロールは、英雄の物語の終焉にしては
あまりにも多層的で相反する真理
を内包しているかのように感じました。


クリス・カイルが元海兵隊員に射撃場で突如銃を向けられ、
同行したベテランと共に殺害される姿を映像で描かなかったのは、
彼のまだ幼い子供達に配慮してのことだといわれています。




 


映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」~二・二六事件

2015-02-26 | 映画

さて、映画開始以来から陸海軍の青年将校たちが起こしてきた流血事件を、
間に民間人の犯罪であった濱口首相暗殺を交えてだらだらと(だってそうでしょ~?)
語ってきたこの映画、ようやくここで2・26事件に到達しました。


 

というわけでここで初めて宇津井健登場。

相沢事件で相沢が軍法会議にかけられたことを憤り、クーデターを2月中に起こそう!
などと青年将校たちが盛り上がる中、一人浮かない顔で考え込む様子の安藤大尉。
仲間に革命結構に加わることをを促され、その態度を責められても返事をしません。
人一倍部下思いだった安藤大尉は、まず兵のことを考えていました。
決起すれば彼らを反乱軍にさせることになりかねないからです。



そんなある日、安藤大尉は部下の兵が盗みを働いた科で叱責されている現場に立ち会います。
悪いこととは思いながら実家に送るための金を戦友から盗んだのでした。
実家が貧農でとても食べていけないので、妹は女郎をしている、という彼の告白を聞き、
あらためてショックを受ける安藤大尉。

この話はいろんな媒体で再現されているので実話であろうと思われます。





2・26事件の決起将校たちは、決行前、陸軍上層部の軍人たちの考えを探るために
主だった何人かに接触していますが、彼らの意向はある意味はっきりしていました。

川島義之海軍大臣の言ったという、

「気持ちはわかるがしかし我々の立場も汲んでくれ」

というのが陸軍のお偉方の総意であったということです。

これは山下奉文ですが、皇道派の幹部だった山下は彼らに理解を示したと言われ、
このとき軽口のつもりか、サービスのつもりか、


「海軍の岡田か?あんなやつはぶった斬るんだ」

などと実際にも言ったようで、これも幾つかの媒体が映画に採用しています。
これは単に、山下が日頃岡田首相が嫌いだったという話なのでは・・。

しかし青年将校たちはこんな言葉に「お墨付き」をもらったように力づけられ、
決行への意志をさらに固めるのでした。(−_−;)


さて、相変わらず決起には否定的であった安藤ですが、ある出来事が考えを変えます。




懇意にしていた新聞記者の藤野が、憲兵隊に拷問死させられたのでした。
この一連のストーリーは創作で、安藤大尉が藤野を訪問し、

「暴力による革命は絶対にいかんよ」

と諭されたこともあり、決起には不賛成であったということにしてあります。
実際安藤は襲撃することになる鈴木貫太郎を訪問し、その人格に感銘し、

鈴木の書を所望してそれを自宅に掛けていたのですが、
話が複雑になるためか、それらのエピソードをこのように「薄く」語ることにしたようです。


 

ここで藤野の娘がなんとなく安藤に好意を持っているように描かれていますが、
この映画製作当時、将校たちの人間関係、特に妻については世間に明らかにされていなかったからでしょうか。
まるで安藤大尉が独身であるようにも見えます。


ところでこの部分にはとんでもない矛盾があります。

新聞記者藤野は、軍政府の樹立をなにより戦争への近道であるとして、
軍部の暗躍を世間に明らかにしようとして惨殺された人物です。

ところが安藤大尉始め青年将校たちの決起の目標は、武力革命で軍事政権を打ち立てること。

つまりそれこそが藤野の恐れていたことのはずなのです(笑)
なのにその安藤大尉は彼の死によって決起を決心する・・・?


というわけでこの大失敗に気づいたとたんに、硬派すぎるが誠実に作られていると思っていた
この映画の評価を、Bランクにだだ下げしたエリス中尉でした。


これは明らかに脚本家のミスで、安藤大尉が軍部の暗部を暴こうとする新聞記者に
啓蒙されていたという無茶な創作がもうすでにアウトでしたね。
というか、このシーケンスにスタッフの誰も疑問を抱かなかったんだろうか。




なぜか藤野は新聞記者のくせに()東郷平八郎の直筆「忍」の書を所蔵していて、

「5.15のときに東郷元帥は海軍将校を厳罰に処するように言ってわたしにこれをくれた」

などと言います。
果たしてその東郷元帥は本物だったのだろうか。

忍という字は心に刃を乗せると書くんだよ、などと言ったのだろうか。


安藤大尉はちゃっかりこの書と、藤野の遺体とともに送り返された獄衣を所望して持って帰ります。
いや、それはどう考えてもどちらも家族が持っているべきでしょう。
それに安藤大尉、東郷の書はともかく、何のために人が死んだ時に着ていた血まみれ服を欲しがる。



それはともかく()ついにこれで安藤が決心をしたので、2.26事件は決行されることに。



雪の降る中次々と出動した歩兵第三連隊の兵たちは、まずは岡田啓介首相を
・・・・殺害するつもりで義理の弟を殺してしまいます。

 

こちら鈴木貫太郎侍従長宅。
鈴木貫太郎と安藤大尉の関わりについて、そして2.26のとき、安藤大尉は
なぜ鈴木を直接殺害しなかったのかについて、このブログでは推理も交えてお話ししたことがあります。



この映画では安藤輝三が刀で鈴木に斬りつけ、妻が安藤にすがって命乞いした、

ということになっていますが、実際のところは随分違っていたようです。

お時間とご興味のある方は目を通してみてください。

「天空海闊」 ~鈴木貫太郎

鈴木貫太郎と安藤大尉

 

他には高橋蔵相、斎藤内大臣、渡辺教育総監が襲撃に遭いました。




収拾に向けて鳩首会談して対策を講じる軍参議官たち。


 

彼らの行動を取り敢えず抑えるために、まずは

「諸君の行動は天聴に達せられあり、これ以上は大御心を待つ」

という陸軍大臣の告示文を出してなだめてみました。



そのうちお怒りまくられた陛下からもついに討伐命令が詔勅されたので、
とりあえず兵たちを原隊に復帰させることにし、それに従わないものがあれば討伐も止むを得ず、
という結論に達します。


 

中央、真崎甚三郎。(この役者も本人かってくらいそっくり)
行き詰まった青年将校たちが真崎にすがりつくように助けを求めます。
しかし真崎は


「原隊に戻れ。
もし引き上げなかったら、老いたりといえどもこのわしが陣頭に立ってお前たちを討つ」

と決め台詞。
真崎の事件への関与は色々と言われていますが、とにかく裁判では無罪でした。

しかしこの件で天皇陛下のご不興を買い、他の皇道派の軍人とともにこののち失脚しています。



真崎の言葉に呆然とする青年将校たち。


「真崎閣下も我々を見捨てたのか」
「もう誰もあてにできん!天皇陛下に直接親政を奏上するしかない」

完璧に彼らはあてにしていた最後の頼みの綱に見捨てられ孤立してしまったのです。



このあたりから、安藤以外の決起将校たちは極端に弱気になり出します。

しかし、一番決心が遅かった安藤大尉一人が、最期まで行動を貫くことを主張しました。
途中で止めるくらいなら最初からするな!と内心同志にも怒り心頭だったに違いありません。

そして一同が自決を考えた際も安藤大尉一人が徹底抗戦を訴えてそれを退け、

山王ホテルを拠点に最後まで頑強な抵抗を続けました。

投降を決断した磯部の説得にも「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じようとしませんでした。

 

安藤隊が最後まで立てこもっていた山王ホテル。
そこになぜか新聞記者藤野の娘、里子の姿が・・。



 

この時になって、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に
勅使を派遣してもらうことを提案しましたが、奏上を受けた昭和天皇は

「自殺するなら勝手にさせればよい。このような者共に勅使など論外だ」

と激怒され、拒絶あそばされたということです。

 

 

史実によると、安藤大尉は大勢が決したと知ると、部下に訓示を与え、
みなに隊歌「吾等の六中隊」を合唱するよう命じました。
そして曲が終わったその瞬間、ピストルを喉元に発射して自決を図りましたが、
陸軍病院で手当てを受け、一命を取り留めています。

この映画ではなぜか安藤大尉の自殺はカットされています。

「銃殺」もこの映画も、「安藤のメガネ」、そしてこの自決を描かなかったのはなぜでしょうか。
メガネはともかく自決は映画的にもドラマチックで意味のあるシーンとなったはずなのですが。

眼鏡といえば、裸眼の安藤大尉にもがっかりですが(宇津井健は眼鏡さえすればかなり似ていたのに)
この映画では実際美青年であったとされる栗原安秀と中橋基明を演じる俳優が
・・・なんというかまったくイメージが違うのが残念といえば残念すぎです。

もう少しこういうところで、サービスがほしい。映画としてのサービスが。

 

この映画では自決しようとする一同をなぜか安藤大尉が押しとどめ


「軍法会議で我々の意図を国民に訴えるんだ」

などと、本人なら絶対に言わなかったであろうことを言います。
そうだそうだ、と皆でうなずき合うのですが、そんなことで変えることができる世の中であったなら
そもそも流血革命なぞ起こす必要もないよね、思ったのはわたしだけ?

しかし、実際、彼らが自決せず裁判を受けることを選んだのには、
5・15事件の首謀者の刑が軽かったことから、まさか自分たちが死刑になるとは
思っていなかったという判断も手伝っていたといえます。



 

しかし上告はおろか弁護人もつかない暗黒裁判の末、首魁19名が死刑という判決が下され、
あっという間に処刑当日。

処刑場に到着し、自分で顔に被されていた目隠しをとって刑架を凝視する安藤大尉。んなあほな。


 

この特殊な形状ですっかり有名になった2・26の処刑台ですが、

この処刑が行われた東京陸軍刑務所には、その敷地跡に渋谷合同庁舎が建てられました。
現在、庁舎敷地の北西角には、処刑された19名の霊のために観音像が建てられています。



実際には、陸軍から籍がなくなって元将校となった受刑者たちはは全員獄衣のまま処刑を受けています。

映画では安藤大尉は目隠しを断って銃殺隊を凝視していますが、そういう記録はありません。

安藤大尉は家族からもらったお守りを身につけて撃たれたということです。


 

「天皇陛下万歳」を叫ぶ将校たち。
「風に乗って誰かの笑い声すら聞こえた」とこの1年後に処刑された磯部の書き残した獄中記にはあります。


 

銃殺隊は立ったまま受刑者を狙っていますが、実際は台に備え付けられた銃が

各自が頭に巻いた鉢巻の中央の丸い点を狙うようになっていました。

もし目隠しをしないとこのような受刑者の顔を見ることになってしまうので、

規則で目隠しは絶対にさせることになっていたようです。

相沢事件で処刑された相沢中佐も目隠しを拒否したのですが、執行官に


「規則ですし、それでは執行者が困るので」

と言われ、

「執行者が困る、それでは目隠しをしよう」

と言って刑を受けたということでした。






そして映画の最後でこれである(笑)


青年将校たちの愛国的意図は実らず、彼らの犠牲的精神を悪用した首脳部は
日を追って国政の主導権を握り、やがて世論を無視して事変を誘発し、
ついに大東亜戦争の火ぶたを切って日本の運命を敗戦の悲劇へと叩き込んだのである。

というのが最後のナレーターなのですが・・・・うーん・・・
言いたいことは幾つかあるけど、とりあえずひとつだけ。

 


まず、青年将校たちの愛国的意図とはなんだったですかね?
確か、軍事政権を樹立し天皇親政を行うことだったと思うのですが、
そうなっていれば実際の歴史よりましな展開だった、って何を根拠にいうわけ?
あれ、これと同じことを「ファイナルカウントダウン」で書いたなわたし。



とにかく、まさかそうなっていれば、その後日本は戦争に突入することはなかった・・・・
なんて言ってるんじゃないでしょうね?



と制作者に文句をつけつつ終わります。









 

 


映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」~5・15と相沢事件

2015-02-24 | 映画

というわけで、映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」、(長いんだよこのタイトル)
やっとのことで、この後青年将校たちが軍事政権確立のために起こす、幾つかの事件の緒となる
「三月事件」「十月事件」の謀議までたどり着きました。


 

もう一度出してくる「桜会」の謀議の模様。
綺麗に右に海軍、左に陸軍と並んでおります。
陸軍の一番前にいるのが、橋本欣五郎中佐とともに「桜会」を結成した長勇
海軍側の一番前が、これに続く5・15事件では首魁となった三上卓海軍中尉です。
三上中尉を演じているのは中村竜三郎という俳優です。

顔つきがどうも歌舞伎役者みたいだし名前が名前なのでもしかしたら、と思いましたが、
歌舞伎の中村とはあまり関係なさそうです。
時代劇を中心に出演していた俳優さんのようです。


三上中尉は5・15のとき首相官邸を襲撃した中心人物で、犬養首相と対峙した時
「話せばわかる」と首相に言われて一瞬その気になり、応接間に付いて行った士官です。




「桜会」で海軍側の代表であった藤井斉(ひとし)中尉

(映画では少佐となっているがこれは間違い)やってくるなり

「今度の計画は手荒くやろう」

などと、海軍の流行り言葉で熱く意気込んで見せます。
首班に戴こうとした宇垣陸軍大将に、冷たく袖にされた彼らは

「荒木(貞夫)閣下以外はあてにならないので、我々だけで一挙にやりましょう」

と小規模での反乱を企画します。(10月事件)
帝都に戒厳令が出されれば同志が呼応して立ち上がると期待してのことでした。

 

この決起には、霞ヶ浦の爆撃隊などが参加する予定になっていました。

藤井中尉は霞ヶ浦航空隊の航空学生出身で、同志を募っていたということです。

このシーンは戦時中のフィルムを流用しているようです。

 

しかし、青年将校たちがあてにした唯一の人物荒木貞夫も彼らの計画反対の意を唱えます。
荒木はその思想行動から、一時は皇道派青年将校たちのアイドルのようになっていましたが、
だからといって、革命政府の首班に担がれることまではまっぴらごめんという立場でした。

荒木は自分で育てた青年将校たちが暴走しだしたので、慌てて憲兵隊を出動させ、
橋本中佐らの計画を止めさせるとともに、スタンバイしていた各部隊を抑え込みます。



「部隊に出動中止命令が・・・・!」


橋本中佐にも憲兵の手が迫ってきていました。



こちら霞ヶ浦航空隊。

爆撃隊と計画を練っていた藤井中尉の元にも知らせが入ります。

「計画は失敗しました!」


 

ぐぬぬぬ・・・・バン!
とテーブルを叩くわかりやすい三上中尉。




こちら歩兵第三連隊。

そう、ここでやっと、2・26の将校たちが登場してきたのです。
ただし後年一番有名になったため主人公となった宇津井健演じる安藤輝三大尉は

この時点ではまだ顔出しもしておりません。

ここでの中心はまだ停職免官になる前の磯部浅一
磯部自身も貧農の家の出身で、村の篤志家の援助で軍人になった人物ですが、
昭和飢饉のため困窮する農村を見ていられず革命に身を投じました。
十月事件の失敗を聞いた彼らは憤慨します。

「待合なんかで計画を立てるからこんなことになるんだ!」

そう、これわたしもそう思います。障子と薄い壁だけで仕切られた日本の屋敷はどうもね。
失敗の原因はこれじゃありませんが。




さてこちら、憲兵の手から逃れて身を隠している橋本中佐。

どこにいるかというと、お寺。
なぜか匿っているのが芸者の若駒姐さんです。
なぜお寺で芸者が軍人をかくまうのかよくわかりませんが、映画だからそうなったようです。

橋本中佐、計画の失敗を気に病み、よりによって仏前でピストル自殺しようとします。
匿われて居候しているというのになんて迷惑な奴なんだ。後のこととか考えろよ。


と思ったら案の定、ピストルを構えた途端、若駒がまろび出てきてそれを止めるというお約束。

「よく止めてくれた」

などと言いながら、橋本中佐はそのときタイミングよく
捕まえにお寺にやってきた憲兵に
おとなしく身柄を預けるのでした。


それにしても憲兵に橋本中佐の居所がどうしてわかったのでしょうか。
これって若駒が通報したんじゃないかと思うのはもしかしてわたしだけ?

若駒はこのあと仏前でよよと泣き崩れるのですが、
実在の橋本欣五郎はこのあと検挙されるも、謹慎20日で済んでいます。
もうほとんどお咎めなしということだったわけですから、
若駒姐さんも泣かなくたって20日で橋本少佐は帰ってきますよ。


ちなみに戦後、橋本欣五郎は極東国際軍事裁判、通称東京裁判で有罪となり、

カテゴリA戦犯として終身刑に処せられます。
獄中で詠んだ句は、

「思い残す こともなけれど 尚一度 大きなことを なして死にたし」

まだ革命の夢を捨てきれんかったようです(・_・;
超余談ですが、橋下には出獄後結婚した三度目の妻がいましたが、(若駒か?)
橋本の臨終間際に離婚を申し出て去ってしまったということです。

合掌。



 

さて、10月事件に失敗した海軍の藤井中尉は大尉に任官、上海事変では
「加賀」乗り組みの航空隊長として出征しました。

この映画では、藤井中尉、なぜか陸戦隊で戦闘中被弾し、

「内地に帰って腐った奴らを叩き切るまで俺は死なんぞ!」

と言いながらがっくりとわかりやすく死んでいきます。

実際の藤井中尉は空母「加賀」攻撃隊の操縦士として上海上空で撃墜され、
日本海軍搭乗員初の戦死者として歴史に名を残すことになっています。


ついでに、ちょっとした豆知識ですが、
海軍航空隊で、史上初めて空中戦闘を行ったのは空母「鳳翔」の戦闘機隊です。



場面は変わってこちら霞ヶ浦航空隊。



「惜しい人を亡くしました・・・・」

この時には霞ヶ浦航空隊とは無関係だった(はずの)藤井大尉の短刀と写真がなぜか飾ってあります。

「もうがまんできん!藤井少佐のためにも決起するぞ!」



そこで陸軍の磯部一等主計に、共に立つことを迫りますが、
磯部大尉は慎重です。
10月事件で橋本少佐らが失敗したことと、青年将校を抑える統制派(東条英機ら)が
力を得ているので、下手に動けば危険であり、今は慎重であるべきだと考えたからでした。



「わかりました。海軍だけでやります」


と帰ろうとする海軍チームに士官学校学生が後を追ってきて

「自分たち10名も参加させてください!」

どうやら「陸軍士官学校事件」を絡ませているように見えますが史実ではありません。
ちなみに磯部はこの士官学校事件で村中孝次とともに陸軍を免職になります。

 

またもや土浦の料亭で謀議をする一行。

だから料亭は話が漏れやすいと何度言えば(略)

民間人は右翼団体の党員で、犬養首相暗殺と同時に帝都の暗黒化を図る役目。
具体的には彼らは日本銀行や立憲政友会に爆弾を投げ込んだりしています。

 

そして5月15日。
一行はことに先んじて靖国神社にお参りしたようです。
今とは随分違う1958年当時の靖国神社鳥居前の写真をご覧ください。
地面が全く舗装されておりません。
そしてこのころは戦前のオールドカーがまだこのように残っていたんですね。



そして三上中尉らは首相官邸で犬養首相を暗殺。

なぜ犬養首相だったのか?という理由は彼らにもはっきりしていなかったようで、
もともと上海で撃墜された藤井中尉がターゲットにしていたのは若槻内閣でした。
若槻内閣のときにあのロンドン軍縮条約が締結されたからです。

後年理由が色々と推測されていますが、実のところ藤井中尉が

「後を頼む・・・がくっ」

とならなかったらどうなっていたことやら。
なにしろ、彼らの計画は当初

「退廃文化を日本にもたらしたチャップリンを犬養首相と面談中一緒に暗殺する」

というものであったらしいので・・。
ちなみにチャップリンは当日、思いつきで相撲観戦に出掛けた為、難を逃れたそうです。
このときこの稀代の喜劇王が気まぐれを起こさなかったら、歴史はどうなっていたでしょうか。




しかし刑は大変軽く、求刑死刑に対して判決は禁錮15年。5年後には仮出所しています。
この軽すぎる実刑が、2・26への流れを加速したというのは歴史に見る通り。




そしてこの余波で、2・26の余震となる、こんな暗殺事件が起こりました。

相沢事件です。

ちなみに、この役者はすごく変な眉毛を描いているように見えるのですが、
そのせいでとても本物の相沢三郎に似ています。
冒頭画像で確かめてみてください。

「銃殺」でこの相沢中佐を演じたのは丹波哲郎だったわけですが、
どう考えても
この丹波演じる相沢中佐はかっこよすぎて、

「青年将校たちに心酔していた、実直でさえない中年士官」

という相沢の実態からは程遠くなってしまいました。
もともと青年将校たちの革命思想に賛同していた相沢が、
「士官学校事件」における磯部浅一らの停職処分に反発したというのが犯行の動機です。

「天誅~~~!」「逆賊~~!」

と言いながら相沢は永田局長を殺害。
相沢は軍法会議にかけられ、銃殺刑に処せられます。

このときに「やめろ、やめろ」と言いながら現場から逃げ、

上官を救おうとしなかったとされた同室の山田大佐は、それを責められ、
2ヶ月後に「不徳の致すところ」と書き置きを残して自殺しました。

ここにも反乱事件の被害者が一人・・。 


最終回、2・26事件に続きます。

 

 


映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」~満州事変

2015-02-23 | 映画

1月の末、首都圏では雪が降りました。
雪で覆われて明るく見える窓からの景色を見ていて、また2・26事件について書こうと思いました。
去年は鶴田浩二が安藤輝三大尉を演じた映画「銃殺」をベースにお話ししたのですが、
今年はまた別の2・26映画を元にしてみたいと思います。

というわけで今年お題として選んだ映画は・・。

「重臣と青年将校 陸海軍流血史」


それにしても、なんだかピリッとしないというか、インパクトに欠けるというか、

映画の題というよりは本のタイトルみたいで、いまいち耳目を引かないと思いません?
内容も内容なので、さぞかしヒットしなかったのではないかという気がするのですが、
このタイトルになった理由は、この映画が2・26だけを書いたものでなく、
張作霖爆死事件に始まり、5・15で決起した海軍将校たちについても触れているからなのです。

つまり、歴史的事実を比較的淡々と並べ、そこに青年将校たちが決起する様子と、
それを利用したり制御できなかったり制圧したりする重臣たちを描いているという次第なので、
こういう題になるのも致し方なし、という気もしましたが、
せめてもう少し短いタイトルをつけるという考えは、制作側にはなかったのでしょうか。


ただでさえその内容というのが、特に前半は、青年将校たちが皆で相談しあってるシーンと、
重臣の爺さんたちが皆で会議しているシーンが交互に来るような地味な作り。
このあたりの歴史に
少しでも関心がないと、はっきり言ってまったく面白くありません。

制作側もその辺りは自覚していて、高倉みゆきの芸者とか、憲兵に拷問死させられる
新聞記者の娘に三ツ矢歌子などを使って色を添えてはいますが、
どちらの登場人物もあまり本筋に意味をなさないだけでなく、登場人物との関わりも薄いので、
とってつけたような文字通りの「飾り物」にすぎません。

とはいえ、映画のストーリーより歴史を語ることが目的の当ブログにとってはありがたい教材。
というわけで始めたいと思います。



昭和3年の満州における張作霖爆破事件から映画は始まります。

日本の援助によって満州の主権地位を得た元馬賊の頭目、張作霖は、
その地位が確保されるや、大中華民国建設の野望(こちらから言うとね)に乗り出し、
日本排除の運動を起こしました。

写真は民族意識が高揚した中国人たちが抗日運動に使ったポスター。
絵が超絶ヘタですがそれはスルーで。


張作霖はもともとソ連のスパイをしていたのですが、捕まって処刑されるところを、
あの児玉源太郎が「見所がある」として助命するよう計らってやり、
その後は日本側の逆スパイとしてソ連で活動していたという過去があります。

つまり張作霖はあっさり今までの味方を裏切ってこちらに付いたというわけですが、
この行動は日本的解釈で「改心した」からでは決してなく、
生きるためには忘恩も不義もなんでもあり、
という中国人特有のものと言えます。

さしもの児玉もそこまでは見抜けなかったのでしょう。



というわけで、おなじみ張作霖爆死事件が起こります。

急進派の陸軍軍人たちが「忘恩の徒」(日本側から見ればね)である張作霖を倒せば、
満州を一気に手に入れることができると考え、計画した暗殺事件でした。

三人の中国人(あらかじめ買収してあったアヘン中毒患者)を爆殺現場で放し、
用意していた銃撃隊で全力攻撃(笑)

実際は三人は銃剣で刺されたそうですが、うち一人は生きていて、息子の張学良の元に逃げました。


 

これを仕組んだのは関東軍参謀の河本大作中佐(二人のうち右側)でした。
河本中佐はこれに続き派兵を要請するも、陸軍大臣に却下されて涙を飲みます。



宇垣一成。この俳優は本物そっくりです。
宇垣はこの後の浜口内閣で陸軍大臣になります。


「こんな事件を起こしおって、陸軍の馬鹿者どもが!」

と激昂する岡田総理に、

「事件の関係者を厳罰に処分して大手術をやりましょう」

とけしかけます。



さっそく岡田総理は翌日の会議で関係者の処罰を提案しますが、
皆事件に頬被りしたいのでスルー、そして何より肝心の陸軍は身内をかばうため躍起になって反対し、

「陸軍は総理の反省を促したい!」

などと逆ギレします。なんでやねん。
まるでテロリストに国民が殺害されたのを全部総理のせいにするどこかの左翼みたいだわ(棒)



というわけで、陸軍省は案の定、

「事件を起こしたのは北伐軍スパイ三名であって陸軍の関与はない」

と公式発表します。



事件当時から、この事件は関東軍の陰謀であるという説が報道関係者の中にありました。
新聞記者藤野五郎(架空の人物)もそのような疑問を持つ一人。

「外電では軍の関与があると言われているらしいのに、おかしいじゃないか」


日本を軍国主義に塗りつぶすつもりだ、だからなんとしても本当のことを国民に知らせなければ。
藤野はこのように意気込むのですが、同僚は憲兵の目が光っていると忠告します。(伏線)



その後、この事件について、天皇陛下より


「犯人は陸軍軍人ではないと最初に発表させておいて、
当事者を厳罰に処すとはどういうことか」


とその矛盾からご不信を買った田中義一(陸軍大将でもあった)首相は辞任し、
後継内閣首班には浜口雄幸が指名されました。



ところでこの映画のキャストを見ると、一番最初に名前があるのが冒頭絵にも描いた、

橋本欣五郎中佐を演じた細川敏夫なのです。

どうも元々こちらが主人公として作られていた映画らしいです。

橋本欣五郎は東京裁判にA級戦犯として裁かれたことで馴染み深い(わたしには)軍人ですが、
その本質は「革命家」でした。
陸大を出た若き日、トルコ公使館付き武官となったことが、彼を革命に傾倒させました。


トルコで橋本は、以前「女性パイロット列伝」でお話ししたサビハ・ギョクチェンの養父、
ムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に影響を受けて帰って来ました。

「ご趣味は?」

と聞かれると

「革命です」

と答えた・・・かどうかは知りませんが、何しろそれが彼のライフワークになったのです。
陸軍の同志を集めて、


「軍政府を樹立して国家改造をやらないと日本はダメだ!」
「軍政府ができれば天皇親政を実現できる!」
「そのために昭和維新を断行せねばならん!」

などと熱く語り合ううち、その思想は次第に具体的な形を取り、ついには

現在陛下の周りを取り囲んでいる重臣、元老を排除せねばならない

という結論に帰結するのです。

そう、続く5・15事件も、2・26事件も、一言で言うとこの結論が、
政府重臣などを次々と暗殺するという直接行動に結びついていったものなのです。




着々と陸軍内で同調者を募り、革命への準備を進める橋本中佐が

民間人の代表である思想家大川周明に会うために築地の料亭にやってきました。

そこで客に無理やり酒を飲まされ気分を悪くして座り込んでいる芸者の若駒と出会います。
なぜか都合よくポケットから

「いい薬があるからやろう」

と薬の包みを若駒に渡す橋本中佐。これいったいなんの薬だよ。
その若駒は顔を上げて少佐の顔を見るなり


「あのー、橋本さんでいらっしゃいますか」

と目を輝かせます。

「参謀本部の橋本だがどうして・・」

「ちょっと噂を伺っておりましたので」

橋本中佐、これで納得するのですが、かりにも革命が趣味という軍人が、
「噂になっていた」
という説明程度であっさり納得するのはどうも不用心じゃないか?



まあそれは映画だからどうでもよろしい。
大川周明にはなんと丹波哲郎がこの一場面だけに登場しています。
一場面だけなのに大物でないと嫌、といつもわがままを言う丹波ならではの配役である(笑)
「反乱」ではこれも1シーンだけ、相沢中佐役で出演していますが、この人が演じると
概ね実在の人物よりかっこよくなりすぎるのが問題です。(例:小沢治三郎)

ところで超余談なのですが、



この絵をみてくださいます?
わたしが昔描いた「軍人としての丹波哲郎」というエントリの挿絵なのですが、
これは「不如帰」という映画で陸軍軍人を演じた丹波さんの艶姿。
後ろの床の間が、この映画の床の間と一緒に見えませんか?

今調べたところ、 「不如帰」はこの映画と制作年が同じです。
もしかしてこれ、同じセットで掛け軸だけ変えて撮られたのでは・・・。


とどうでもいいことに気づいてしまいましたが、それはともかく、
大川周明の思想は基本「日本主義」、外交面では「アジア主義」で、インド独立を支持し、
日中とも日米とも戦争は避けるべきとして、特に日米戦争前夜は開戦の阻止に奔走したにもかかわらず、
終戦後は戦犯として市ヶ谷の法廷に出廷させられています。

東京裁判では心神耗弱(昔は精神異常でしたが)のため退廷のうえ不起訴となった大川が、
法廷で、前席の東条英機の頭を
ぴしゃりと音が出るくらい叩いたという出来事がありました。
自分の頭を叩かれた東条が、後ろを振り向いて苦笑いするシーンを見て、皆さんは

「東条英機って大人~」

とちょっと彼の大人物ぶりに感心したりしませんでしたか?
ところがあれは奇行の一部だけがフィルムに残されたもので、 実際は

大川は何度もしつこく東条の頭を叩き続けたため

しまいには東条も後ろを振り向いて睨みつけたって知ってました?
そりゃ怒るよね。どんな温厚な人でも。


ここでは大川は橋本中佐に革命資金だといって札束を渡し、
革命決行のために具体案を何やらささやきあいます。 
橋本中佐が

「我々は閣僚を議事堂に閉じ込めて、浜口内閣の退陣を要求し、軍政府を樹立します。
決行日は」


ここまで言った時、外に人影が。

しゃべるのをやめてガラリと障子を開けると、



「おばんです~」

そこにはなぜか先ほどの芸者若駒が。
いつも思うのですが、こんな機密性のない座敷で昔の人たちは密談していて、
壁に耳ありショージにメアリーが心配ではなかったのでしょうか。

それはともかく、若駒を追い払おうとする橋本中佐に大川周明が

「この娘はなかなか変わった子でね、言うなれば勤王芸者だ。
我々のグループの一員に加えてある。何をしゃべっても大丈夫だ」



「しかし芸者の君がどうしてまた我々の仲間に」


橋本中佐、先ほどもそうですが、この問いに対する若駒の

「皆さんのお話を伺いまして、もうじっとしていられなくなりました」

という答えに至極あっさりと納得して

「ほう、それは感心だ」

などと呑気にお酌を受けたりします。


そして昭和5年11月13日、東京駅。
浜口首相銃撃事件が起こります。



駅で首相到着を待つ右翼団体愛国社党員の佐郷屋(さごや)留雄
この役者、小澤征悦かと思いました(笑)



このときに浜口首相が撃たれた現場のなぜか一階下に、今でも遭難現場のプレートがあります。

浜口首相は一命を取り留めましたが、この時の傷が元で翌年死去。
佐郷屋は死刑判決を受けたものの1940年に恩赦となり、戦後は右翼活動をしつつ
極真空手のナンバー2としてキックボクシングを日本に広めました。(なんだそれ・・・)

なぜ軍人によるものでもないこの事件が、映画に挿入されたのかわからないのですが、
まあこれも「右翼による流血史」ってことで、ひとまとめにしたのでしょう。
右翼団体と青年将校の考えは、必ずしも一緒ではなかったと思うのですが。

犯人の佐郷屋は「浜口は陛下の統帥権を犯したからやった」と犯行後述べた割には
「統帥権ってなんだ」という質問に答えられなかったそうですから推して知るべし。

つまり永田鉄山を殺害した相沢三郎中佐と同じような、
「お調子乗りの愛国犯罪」であったとわたしは断じたいところです。




そして映画の構成上、陸軍の青年将校たちはこの民間人の起こした事件に沸き立ち、


「我々も準備が整ったから、すぐに行動を起こすべきだ!」

と盛り上がるのでした。

「よし、やろう」

と力強く言い切る橋本中佐。
いいのかそれでーっ(笑)



彼らは、あてにしていた宇垣陸軍大臣に、革命のあかつきには軍事政権の首班として
立ってくれることを大川周明を通じて頼むのですが、宇垣、渋い顔。

「わしゃーそんなこと引き受けた覚えはないぞ!
革命などもってのほか、首謀者を取り締まれ!
いうことを聞かんやつは満州送りだ」
(意訳)

せっかくここまで出世したのに、わざわざそんなややこしいことに首を突っ込みたくないでしょう。

上に立てば面倒ごとは避けて、無事に任期を終えることだけを考えるのが人の常です。

 

そして昭和6年、柳条湖事件が勃発。
またもや列車の爆破事件が起こり、陸軍が「中国側がやった」としたのですが、
その証拠というのが現場に残されていた中国軍の帽子と銃って・・・(笑)

なんというか、こんなバレバレの工作をやっておいて開き直るあたりに、
現代のアメリカ政府のやらせの数々を見るような気がしますね。私見ですが。

このときの首謀者は関東軍高級板垣征四郎作戦参謀であった石原莞爾でした。

この場面では本物の戦車が本当に使われているのですが、これはなんだったのでしょうか。
・・・自衛隊?

 

ところで映画が始まってからずっと橋本中佐とか重臣のお爺さんばかりが出てきて、
全く面白くもないだけでなく絵面としても地味~だったのですが、ここで
ようやく出てきましたよ。

陸海軍の青年将校たちが。

実は橋本欣五郎中佐は「桜会」という超国家主義的な秘密結社を作り、
政党政治が腐敗しているとするとともに、農村が疲弊していることを憂えて、
いわゆる満蒙問題を主張して農民を救おうとしていました。

桜会には参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校20余名が参加し、
そのなかでも橋本を中心とした急進的なグループは、大川周明らと結んで、
1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画していたのです。

このシーンは、陸海軍の将校たちが一堂に集まり、その謀議をしているシーン。
なんと、ここまでで映画はもう半分終わっているのです。
安藤大尉たち2・26の首魁将校たちが登場するのはまだまだ後半3分の2位から。


というわけで、これはいわゆる「2・26映画」ではないらしい、
ということがここまで観てようやくわかったわたしです(笑)



後半に続く。 



海軍兵学校同期会~帝国海軍の遺したもの

2015-02-22 | 海軍

「広島に原爆が落ちた時の話はしたかな」

Sさんが話の途中でこう言いました。
兵学校同期会の会食の席で、わたしは正面に座った元生徒に

「8月15日の原爆のときはどうしておられましたか」

と聞いて、周りの何人かから思い出話を伺ったのですが、
Sさんからはまだ聞いたことがなかったので首を横に振ると、

「兵学校の稼業は8時に始まるので、僕のクラスは化学の実験室で実験の用意をしていた。
8時15分になった時、目も眩むような閃光があって、しばらく経ってから轟音が聞こえてきたんです。
窓から音のした方を見たら、キノコ雲が見えましたよ」

当時は原子爆弾ということはすぐにわからなかったため、皆は「特殊爆弾」と呼んでいたそうです。
わたしが会食の時に聞いた元生徒は何度も

「終戦になって順次疎開することになり、広島駅にいくと
駅だったところにプラットホームだけがあるんだよ。
あとは瓦礫の山だけ」

といっていましたが、Sさんも全く同じ情景を胸に刻み込んだそうです。

「そのときは驚いてそれ以上のことを考えられなかったが、後から考えたら不思議でね。
だって、8時15分でしょう。
広島駅にはたくさんの人がいたはずで、駅舎が跡形もなくなったということは、
あそこで大量に人が死んでいたはずなのに、
そのときにはもう一体も屍体を見ることがなかった。
それで、僕は何かの講演の時にそのことを話したんです。
そしたら、聞いていた人の中に二人陸軍にいた人がいてね。

どちらも陸軍の駐屯地で被爆して、壁際にいたとかで助かった人たちなんだけど、
陸軍は直後にまず生存者を集め、
隊内の犠牲者の遺体を片付け、負傷者を手当てし、
すぐさま街に出て、まず広島駅の周辺の遺体を片付けたそうです」

当時広島には第五師団の広島師管区がありましたから、
おそらく彼らはここの歩兵であったと思われるのですが、
自らも傷つきながら陸軍は瓦礫の整理により交通を確保し、
線路が使えるようにしてから遺体の収集に当たっていたというのです。

広島について書かれたどんな情報にも、軍が被爆直後から動き、
直後の混乱に対応したなどということはなかったので、わたしはこの話に少し驚きました。

あのNHKに至っては、

「原爆投下を日本陸軍は事前に知っていて、広島・長崎の人々は、
原爆投下目的らしき任務のB29が飛来してきた情報がありながら、
参謀本部の判断で、空襲警報も迎撃命令も出されぬまま犠牲になった」

という、それなんて沖縄、なトンデモ陰謀説ををまことしやかに
放映して、こんな形で

「投下したアメリカより悪かった帝国陸軍」


という印象づけをしていたくらいですから、ましてやこの手のことは

マスコミによっては全く流布されてこなかった真実ではないでしょうか。

わたしなど、もしNHKがいうように「陸軍が投下を知っていた」のならば、
どうしてルーズベルトが真珠湾から主要艦を避退させたように、
広島の陸軍に対して何の対策も講じなかったのか、と思うわけですが。


さて、兵学校でも「特殊爆弾」について噂は流れていましたが、
やはりその2週間後に日本が負けるなどとは、生徒たちには夢にも思わないことでした。

「1号は知っていたんじゃないかな。
図書館で新聞を閲覧することも許されていたから」

昭和20年8月15日の江田島は、無風快晴となりました。
平日より15分早い11時30分、「食事ラッパ」が鳴り響き、
不思議に思いながら食堂に急いだ生徒に対して、当直幹事は

「本日1200から天皇陛下の御放送がある。
全員急いで食事を済ませて、第2種軍装に着替えておけ」

と命令してから着席を命じました。
生徒たちは食後歯を磨き、入浴して身を清めてから、新しい下着と
白い軍装に着替えて部幹事室に集合しました。

玉音放送は誰にとってもほとんど聞き取れませんでしたが、

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」
「・・・・やむなきに至れり」

などという言葉や、前列の1号たちが泣いているのを見て、これは負けたのだとSさんは察しました。


午後1時、千代田艦橋前に整列した4,500名に対し、
副校長の大西新蔵少将は

「我々の祖国は降伏した。日本は完全に敗れたのである。
このように冷たい現実の前に立った我々が血気にはやって軽挙すれば、
かえって日本の立場を不利にする口実を
つくらせるだけである。
諸子はくれぐれも自重せよ」

と訓示をし、広い練兵場を埋め尽くした生徒たちは
今度はほとんど全員が泣いていたということです。


午後2時。

江田島の上空に海軍の夜間飛行機「月光」が2機飛来し、
低空で飛来しながら伝単(宣伝ビラ)を撒きました。
それには

「戦争終結の事、聖断に出ずれば我ら何をか言わん。
然れども、こは敵の傀儡たる君側の奸の策謀にすぎず。
帝国海軍航空隊◯◯基地は断じて降伏を肯んずるものにあらず。
これより本機は沖縄に突入せんとす。
子は七十余年の光輝ある海軍兵学校の伝統を体し、最後の一員となるまで本土を死守し、
以って祖国防衛の防波堤となるべし」

副校長の「自重せよ」の訓示から1時間も経たぬうちに、
それとは正反対のアジテーションが行われたのです。

さらには終戦3日後の18日、司令塔に菊水のマークをつけ、
八幡大菩薩の幟を立てた潜水艦3隻が江田内に入ってきて、
白鉢巻姿の乗員が手に日本刀を振りかざしながら、悲痛な声で徹底抗戦を呼びかけましたが、
生徒たちは
それに対して礼儀正しく答礼したのみでした。

生徒たちは、飛行機の伝単の後、生徒監事から

「くれぐれも軽挙妄動は慎むべきである」

と訓諭を受けていたのです。

それから間もなく、生徒たちには「休暇帰省」が発令されました。
8月21日の朝、四国地方出身の生徒を乗せた船が表玄関でもある
表桟橋から出航して行ったのを皮切りに、次々と故郷に向けて復員して行きました。

「近くの出身で、カッターで家まで帰った連中もいたな」

江田内からこれを最後に漕ぎ出す時、彼らはどう思ったのかとか、
故郷まで漕いで行ったカッターはその後どうしたのかとか、
わたしは瞬時に色んなことを考えてしまいました。


江田島では重要書類をいかにして守るかについて
なんども教官の間で議論が交わされていました。

東郷元帥の遺影や貴重品は宮島の厳島神社などに奉納し、門柱にはめてあった
「海軍兵学校」の勝海舟の筆による門標は
江田島の八幡神社に預けられましたが、
大講堂2階と教育参考館に展示してあった御下賜品、戦死した先輩が遺した遺品、
軍機文書は焼却することになり、
生徒たちは3日間にわたって練兵場で焼却作業を行いました。

彼らは燃え上がる炎を囲んで滂沱の涙を流しながら、
軍歌を合唱し続けたということです。

復員は8月24日に完了しました。

10月になって、故郷に帰った彼らの元には修業証書(卒業ではない)
が送られてきましたが、
それには最後の兵学校校長だった
栗田健男中将の校長訓示が添えられていました。


これらの話をしてくれたSさんのご尊父は海軍中将で、
栗田中将は
かつてその部下だったこともありましたから、
父親は
休みの日には是非遊びに行くように、と息子に指示したのだそうです。

どんな教官でも生徒が休暇に遊びに来ると歓迎するのが常で、
「じんちゃん」と親しまれ生徒に人気のあった草鹿任一校長など、
夏場遊びに行くと褌一枚で出てきた(気さくすぎる?)
とわたしは別の兵学校卒業者から
聞いたことがあります。

しかし、栗田校長はその頃すでにあのレイテ沖での「謎の反転」で
主に海軍内から非難を浴びていたこともあって、世間に対して

「俺にはもう何も聞かんでくれ」


状態だったせいなのか、S生徒が遊びに行っても
「門前払い」だったそうです。


「でもね、あの訓示は素晴らしかったですよ」


Sさんはそう言って栗田校長の訓示を見せてくれました。

「百戦効虚しく、4年に亘る大東亜戦争茲に終結を告げ」

で始まる名文の訓示は、生徒たちのこれからを

「諸子が人生の第一歩において、目的変更を余儀なくせられたことをまことに気の毒に堪えず。
然りと雖も、諸子は歳歯なお若く頑健なる身体と優秀なる才能を兼備し、
加えるに海軍兵学校に於いて体得し得たる軍人精神を
有するを以って、
必ずや将来帝国の中堅として、
有為の臣民と為り得ることを信じて疑わざるなり」

「惟うに諸子の先途には幾多の苦難と障碍とが充満しあるべし」

「諸子の苦難に対する敢闘はやがて帝国興隆の光明とならん」

「海軍兵学校たりし誇を忘れず、忠良なる臣民として有終の美を済さんことを希望して止まず」

と訓じ、激励して終わっていました。



海軍兵学校はこうやって77年の歴史を閉じました。
終戦の時点で兵学校に在学していたのは、4期合計で15,129名、
これはなんと、77年間のそれまでの兵学校全卒業生より4、000名も多い生徒数でした。

敗戦を見越して海軍が「戦後の復興に役立つ人材を集める」
という目的で大量に生徒を採用したという説も、この数字を見ると納得できます。

この多くの兵学校在校生は、周知のように日本の戦後再建において大きな原動力となり、
戦後の各界の要職を占めて居ました。
わたしは今回の旅行でその一部を垣間見たにすぎませんが、
彼らの実績は間違いなく今日の日本を作り上げてきたことです。


亡き帝国海軍が未来の日本に遺した最大の遺産とは、
かつて兵学校で学んだこれらの人々だったのではないでしょうか。

わたしの尊敬する元海自士官は、このことについてこう述べています。


兵学校77期、78期という、終戦が目に見えているような時期に、

海軍がなぜそんなに大人数を採用したのか。
海軍はそんなに先が見えていなかったのか。
あたら有能な若者を死地に追いやろうとするような組織だったのか。
こういう疑問は素朴に湧いてくることです。

その疑問に答える、このような説があります。
『帝国海軍が戦後の日本復興のために行った最高の作戦』と。

敗戦後の日本復興のため、血気にはやる若きBest & Brightest を
一人でも殺さないで、後の世に残すためだと。

どこにもその説を裏付ける証拠はありません。

でも、あのおじいちゃんたち一人ひとりの人生を見ればわかります。
兵学校を卒業しなかった若者たちが日本の再生復興のため、
その生涯をどんなに見事に祖国のために捧げたか。
そして敗戦国日本がどんな国になったか。

やはり日本海軍は偉大でした。 



 


 


戦艦「伊勢」乗組員のアルバム

2015-02-21 | 海軍

年末に参加した護衛艦「いせ」艦上での戦艦「伊勢」慰霊祭。
この日「いせ」には少ないながら一般の参加者が乗り込んだのですが、
いわゆる「体験航海」といっても一般に募集されたものではなく、「伊勢」の遺族、
「いせ」の後援会、そしてその人たちが「厳選して呼んだ知人」といった陣容でした。


この参加者に、お祖父さんが「伊勢」に乗っていたという方がいました。
「伊勢」という名前はそのお宅では普通に馴染みの深いもので、
特に戦艦や護衛艦にさして興味のない彼女でも
「いせ」という「おじいちゃんのフネと同じ名前」の護衛艦を知ったときは
「大変興味を持った」ということでした。

そして幾つかの偶然があり、彼女は今回「いせ」で行われる「伊勢慰霊式」に、
遺族としてではなく、誘われたという
立場で参加することになったということです。

ホテルのロビーでグループが集合したとき、早速彼女は祖父愛蔵貴重なアルバムを
そこで立ったまま開き、そこにいたヲタ達は
貴重な写真に騒然となったわけですが、
その後「いせ」に乗艦し、士官室で出航を待ったりしているときにも
アルバムは皆に興味深く回覧され、その中には「いせ」の乗員もいました。

わたしも皆がそうしたようにアルバムの写真を撮らせていただきましたが、
今日はその中から、おそらく彼女のお爺さんが購入したのではないかと
思われる写真を、ご本人の許可のもとにご紹介させていただきます。


冒頭写真は観艦式における受閲部隊を「伊勢」の主砲の間から撮ったものです。

「これはいったいどこに立って写しているんでしょう」


わたしが呟くと、近くにいた人が

「それはここだよここ、来てごらん」

と模型の前に連れて行かれました(笑)



「伊勢の主砲はこことここにあってね・・」
 
主砲がどこにあるかくらいはわたしにもわかります。
「どこに立っている」というのは筒の上なのか他の場所なのかという程度の意味だったのですが、
まあいいや(笑) 

ところで冒頭写真、「伊勢」の後ろを航行しているのはなんでしょうか。
この写真がいつのものかなどは一切わからないので、もしこれが

1927(昭和2年)の大演習観艦式ならそれは「日向」、
1930(昭和5年)の特別大演習であれば「長門」、
1933(昭和8年)なら「足柄」、
紀元2600年の帝国海軍最後の観艦式となった特別大演習なら「山城」。

観艦式の資料によるとこういう絞り込みが出来ます。
この間には「火垂るの墓」で描かれた神戸での観閲式などもありますが、
伊勢が参加した大規模なものとなるとこの4隻のどれかということになります。

それから艦隊の上を飛んでいるのが90式艦上戦闘機のようにも見えるので、
だとしたら時期的に昭和5年以降ということは確かです。


先日購入したばかりの(笑)「写真・太平洋戦争の日本軍艦 大型艦」を見ると、
どうもこのシルエットは「山城」に思われるのですが、いかがなものでしょうか。

 

水兵服が見えることから海軍陸戦隊ですが、小官恥ずかしながら、
銃火器の種類はさっぱりというか、あまり調べる気がないので
なんなのか全くわかりません。


「中国大陸ですか」

とアルバムの主に聞いてみたのですが、どうやら違うとのこと。
国内で演習でもした時のものでしょうか。



これはどうやらお祖父さんが航空訓練を受けていた時のもののようです。

練習機だと思うのですが機種が判然としません。

複葉機ではありませんが、足の間につっかえ棒みたいなのが見えますし・・・。
どなたかお分かりの方おられますか?



ここからの一連の写真は皆靖国神社で撮られています。
おそらく例大祭などの時ではないかと思われますが、
そのすべてに説明が全くないので、この人物も名前がわかりません。

陸軍軍人であった皇族のどなたかであると思われるのですが、
何しろ陸軍に籍を置かれた皇族の方々は昭和天皇を始め28人もおられたので・・。



靖国神社拝殿の階段をお降りになる天皇陛下。
後ろに陸海軍軍人が一人ずつ付き添っていますが、左側は南雲忠一・・ですよね?



これはわかります。近衛文麿公ですね。
どう見ても総理大臣としての参拝です。

これが第一次内閣が成立後に行われた公式参拝
だとすれば、
間も無く起こった盧溝橋事件を受けて、
中国との間に戦闘が起こることになり、
これが日本の運命を大きく変えていくことになるのですが・・・。 


近衛の後ろを歩いている人物は牛場友彦

東京帝国大学、オックスフォード大学を卒業した近衛の秘書官です。
日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問を務めるなど
財界の大物になり、弟の牛場信彦は白洲次郎の伝記にも登場していた外交官です。

このとき1901年生まれの牛場はおそらく36~7歳だったはずですが、
年より若く見え、いかにも切れ者のような怜悧な眼の光をしています。

インターネットで牛場友彦の写真はどこをどう検索しても出てこないため、
もしかしたらこれは貴重な一枚なのかもしれません。



この人物は荒木貞夫のようも見えますがいかがでしょうか。
陸軍人であるのにもかかわらず軍服を着ていませんが、もし荒木だとしたら
第一次近衛内閣では文相を指名されたときの参拝なのでつじつまが合います。




わたしが士官室でビデオを見たりおしゃべりしていると、
アルバムを見ている一団からこちらに来るようにと声がかかりました。
行ってみるとこの写真のあるページを指し示し、

「山本五十六がどこにいるかわかる?」

わたしが0.1秒の速さで左側を指差すと、

「わかる人がもう一人いた~」

と周りの皆さんが盛り上がっています。
どうやらそこにいた人々(アルバムの所持者含め)の中で
山本五十六の顔を知っているのは一人だけだったようです。

山本五十六の顔がわからない人なんているの?などと今なら思いますが、
よく考えたら、それもこれだけ4年半の間ほぼ毎日のように海軍のことを考えて
生きてきたからこそ当然のように思えるだけで、もしかしたらわたしも
5年前ならわからないうちの一人だったのかもしれません。

さて、この写真ですが、上のものとは同じではなさそうです。
というのも靖国神社の鳥居をくぐってくるのが海軍軍人ばかりで、
天皇陛下のご列席があったとしたらこんなラフな感じで参拝しないだろうからです。

皆さんはこれ、なんだと思いますか?

あくまでも推理なのですが、ヒントは五十六の右の人物。
これ、嶋田繁太郎ですよね?

嶋田と山本五十六は兵学校32期の同級生。
そして1940(昭和15)年11月15日、この二人、全く同じ日に

海軍大将に進級

しているのです。
海軍において大将に進級した時に靖国を参拝するかについては、
詳しいことはわかりませんでしたが、もしこの写真が進級の後
靖国にそれを報告するような形で参拝したときのものであれば、
嶋田と五十六の二人が仲良く並んで歩いて行くのも納得できます。

実はめっぽう仲が悪いと評判の二人だったのですが。

ところで海軍兵学校32期の中で、この二人だけが大将になったわけですが、
山本五十六の卒業時のハンモックナンバーは11番、嶋田は27番(192名中)です。

二人とも恩賜の短剣には無縁だったわけですが、それでもここまで出世したわけで、よく

「海軍はハンモックナンバー偏重」

と言われるわりにはこういう人事もあるのだということです。
もっともこの学年のクラスヘッドだった堀悌吉は、

「神様の傑作、堀の頭脳」

と言われるほどの伝説の秀才だったのですが、大角人事
予備役に追いやられ、すなわち海軍をクビになってしまったという、
いわば変則的な学年であったと言えないこともありません。

嶋田繁太郎は同じクラスの堀のことを大変評価していたため、戦後

「堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に時局に対処できたのではないか」

と言っていたことがあるそうです。 
確か自分も海軍大臣だったわけだけど、そのことはどうなのかな(笑)

映画「聯合艦隊司令長官山本五十六~太平洋戦争70年目の真実~」
(長いんだよこのタイトル) でも縷々描かれていたように、
堀は”戦争自体は悪である”との考えを持っており、堀と親友でもあった
同期の山本五十六もまた戦争には最後まで反対であったとされます。

これらのほかにもアルバムの写真には米内光政など海軍の高級将官
の写真が数多くありました。 


「こんな写真、どうやって撮ったんでしょうね」

「撮ったんじゃなくて売ってたんじゃないかな」

海軍内でもしかしたらこれらは販売されていたのかもしれません。
というかアルバムには一切覚書などのメモすらなく、何の説明もつけられていません。
どうやらお祖父さんはあまりそういう方面にマメではなかったようです。

ページをさらに繰って行くと、どこかはわからない水辺に、まるで
丸太をくり抜いたような船が浮かべてある写真がありました。

うーん・・・・どこかでこういう船のことを調べたことがあるぞ。

「あ、これ、サバニ船っていうんじゃなかったですか」

一同、返事がありません。

「あの久松五勇士が乗っていたという・・・」

それをわたしが言った途端、そこにいた男性二人が

「ちょっとなんでそんなことまで知ってるの」
「女の人の口から久松五勇士という言葉を聞こうとは思わなかった」

と口々におっしゃいました。

女が久松五勇士を知っていたっていいじゃないか ヲタだもの みつを



ところでつい最近、わたしの言論について


「女の人でそれだけ考えをまとめて話せる人は見たことがない」

とある知人から言われたということがあったのですが、あくまでも数の問題で、
男性は左脳型の人が多く、女性は右脳型の人が多いという程度の違いではないですかね。

ちなみにわたしは左脳優位か右脳か、というテストをしたら

「右左脳」(直感的に捉え論理的に分析して処理)

であるという結果が出ます。


閑話休題、久松五勇士で驚かれてしまったわたしですが、
その後少しだけそれらの話に三人で花を咲かせました。

「8時間船を(サバ二船ね)こぎ続けて八重山についてから、
郵便局は島の反対側にあったんですよね」

「そこから休まず走り続けてねえ」

「あの僻地みたいなところの住人が、ロシア艦隊を
日本が血眼で探しているってことを知っていたんだからすごいですよ。
新聞も来ていなかったというのに」

「いや、やっぱり日本人として今は国難の時と思ってたんでしょうね」


初めて会う人たちなのにどうしてこんなに話がはずむのかしら。
それはやっぱり同好の士というかヲタ同士だから?
オタクは国境も超えるのだから、年齢性別などさらになんの障害にもなりません。

「それにしても、このアルバムもったいないねえ」

お一人がアルバムの主に言い出すと、

「これ、売ったらすごいお金になるよ」

と別の人。
彼女は

「これは絶対に売ったり譲ったりできないんです。
祖父の遺言で・・うちの家宝みたいなものなので」

先代が亡くなって1週間くらいしか経っていないのに、遺品の刀を刀剣の里に持ち込んで
お金に変えようとするような人も世の中にはいたりするわけですが(笑)
彼女のお家は全く逆で、伊勢の乗組員であったお祖父さんを誇りにしており、
それゆえにそのよすがとなるこれらの写真を門外不出にして大事に所蔵し、
ただ家の宝として、これからも子々孫々に譲り伝えていくつもりなのでしょう。

昔靖国神社境内で行われていた古物市で、一人の軍人の名残り、
軍籍簿や写真、書類の一切合財が3万円で売られていたのを見たことがあります。
古物商に

「どうしてこんなものがここで売られているんでしょうか」

と聞くと、

「遺品整理だね」

ということでした。
遺品を売ってなけなしの金額を手にするというのも、なにやら殺伐とした印象があるのですが、
それを管理していた人が孤独死してしまったなど、いろいろな事情もあったのでしょう。

逆に彼女のうちのように、自分の身内の個人史となる写真を、
それがいかに貴重なものかということを全く知らないまま、
家の蔵などにしまいっぱなしのままの家庭というのも、実は
この日本にはたくさんあるのではないかという気がしました。

「これ、どこか博物館か資料館みたいなところに出して
ちゃんと管理してもらったほうがいいんじゃないの」

彼女はそういわれて

「そうですか・・・」

と曖昧な表情を浮かべていましたが、もしそうしたときに
二度とこれらの写真が手許に戻ってこないという可能性があるかぎり、
彼女のうちの人々は、今後もそれを決してしないのではないかなあ、
とわたしはその横顔を見ながらそんなふうに思ったものです。



 


 


海自ヘリ事故の報道と塗り換えられた陸自最強伝説+おまけ

2015-02-20 | 日本のこと


最近起こった自衛隊関係のニュースについてです。
まず、2月14日に墜落がわかった海自のヘリの記事から。

不明ヘリ発見、3人心肺停止=宮崎の山中に墜落―海自


(産経新聞12日記事)

12日午前、鹿児島県の海上自衛隊鹿屋基地所属のヘリコプター1機が
訓練飛行中に行方不明になった。ヘリには隊員ら3人が搭乗。
鹿児島県上空での交信を最後に行方が分からなくなったといい、
海自と空自の航空機が付近を捜索している。

防衛省によると、ヘリはOH6DA。
4人乗りの小型ヘリで、パイロット養成の練習機として配備されており、
海自の学生ら3人が乗っていた。

ヘリは同日午前9時19分に鹿屋基地を離陸。
同11時5分に鹿児島県伊佐市付近での無線交信を最後に行方が分からなくなったという。
ヘリの燃料は同日午後0時20分ごろまで飛行が可能だったといい、
防衛省は不時着したか、遭難した可能性もあるとみて付近を捜索している。

同日午前の鹿児島県上空は雨雲で視界が悪かったという。

(朝日新聞13日記事)

海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)を12日に離陸後、
鹿児島・宮崎県境付近で行方不明になっていた同基地所属の訓練用ヘリコプターOH―6DAの機体が、
13日午前9時20分ごろ、大破した状態で宮崎県えびの市の山中で見つかった。
搭乗していた3人は、搬送先の病院で死亡が確認された。


自衛隊によると、ヘリが見つかったのは鹿児島県境に近いえびの市内竪のJR真幸駅の北東。
第211教育航空隊所属で、3等海佐の山本忠浩機長(39)と40代の3等海佐の男性教官、
20代の2等海曹が搭乗していた。

海自によると、2等海曹は機体の外で、他の2人は機体の下敷きになった状態で見つかった。

ヘリは12日午前9時19分、鹿屋基地を離陸。鹿児島県伊佐市付近まで北上後、
同県出水市付近で折り返し、基地に戻る予定だった。
だが鹿児島空港事務所などによると、同11時前後に空港の管制官との間で

「天気が悪いので迂回して鹿屋へ帰る。(宮崎県の)えびの、小林、都城を経由する」
とのやりとりがあった。
同11時5分ごろ、伊佐市上空付近を飛んでいる、と鹿屋基地と交信したのを最後に連絡が途絶えた。


第一報では「海自の学生ら3人」となっていましたが、
その後「機長・教官・学生」であることが明らかになりました。
日曜日に行われた東京音楽隊の定期演奏会に検閲予定だった武居海幕長は、
自体を鑑みて出席を取りやめたということです。

海幕長は17日に記者会見を行っており、その席でこのヘリコプターが2013年、
機体後部の回転翼に動力を伝える部品が破断し、修理していたと明らかにし、
「これらのことも踏まえ、事故原因を調査している」と述べました。

破断したのは「テールドライブシャフト」と呼ばれる軸状の部品で、
地上での回転翼の動作試験中に折れたそうですが、すぐに部品を交換し、
以降は同様の不具合は起きていないということです。

現時点で事故原因は究明できていません。

さて、そこでお約束のように「付近住民の不安」を拾ってきた社あり。 

(毎日新聞・2月13日) 

「どこかに不時着してくれていたら」。希望を打ち砕く光景だった。
12日に鹿児島・宮崎県境の上空で消息を絶った海上自衛隊の小型ヘリ。
一夜明けて捜索にあたっていた自衛隊が、宮崎県えびの市の山中でヘリ機体を見つけた。
機体とともに搭乗していた自衛官3人も心肺停止状態で見つかった。
「無事を信じていたのに」。
夜明けとともに捜索にあたった関係者は、うつむいた

海自などは周囲が明るくなり始めた午前7時ごろから、捜索を再開した。
現場付近の住民から「雷とは違う大きな音がした」と情報が寄せられた
JR肥薩線真幸駅(宮崎県えびの市)付近を重点的に捜索。
宮崎県警約60人と合同で、上空からはヘリコプターなど5機、
陸上からは500人態勢で機体や搭乗員の行方を捜していた。

捜索開始から約2時間半後の午前9時20分過ぎ「機体一部を発見」との知らせが入り、
周辺は一気に慌ただしくなった。
真幸駅近くの前線本部では地図を広げた隊員らが無線交信に追われ、
既に山中に入っていた隊員らに、現場とみられる滝下山(標高785メートル)
山頂付近に向かうよう指示が出された。
報道陣に囲まれた広報担当者は間もなく
「3人が確認された。未確認だが、脈がない」と沈痛な表情で漏らした

行方不明機が所属する海上自衛隊鹿屋航空基地でも仲間の安否を気遣い、
険しい表情を浮かべる自衛官らが慌ただしく行き来した。
早朝から報道関係者の対応にも追われ、断片的に入る情報にいら立つ関係者も
何度も詰め寄る報道陣に「後輩が乗っていた。私も知りたいんだ」と言い返す自衛官もいた。

大がかりな捜索に、近隣の住民も不安を募らせた。千葉シヅ子さん(77)は
「低い高度でヘリコプターが飛んでいたので、怖いとは思っていた」と表情を曇らせた。
別の70代女性は「こんな近くに落ちていたとは」と顔をこわ張らせた。
【重春次男、杣谷健太】


まずは殉職された3人の隊員の皆様のご冥福をお祈りいたします。

働き盛りの幹部二人とまだまだこれからの若い練習生の死。
いつも危険と隣合わせの任務とはいえ、ご家族はじめ周りはどんなにか無念であることでしょう。
2曹は航空学生で採用され、回転翼の過程に進んだところで、
まだウィングマークを取っていない段階であったのかもしれません。

この記事でわたしの「センサー」にかかった部分を赤文字にしてみました。
早速ですが先日の「おおすみ」事故におけるマスコミ対応に通じる
「煽り」みたいなものを感じますね。

「苛立つ関係者」「言い返す自衛官」

これらからは言外に「事故を起こしておいてその当事者のくせに」という非難が含まれています。
だいたいこういうときに自衛官が群がるマスコミに対して

「私も知りたいんだ」

なんて社会派ドラマの登場人物みたいな言葉使いをすると思いますか?
そして「近隣の住民が不安」という、マスコミお得意のイメージ操作。
まるでヘリが住宅地の真ん中に落ちたような書き方ですが、現場は「山中」。
最寄りの「真幸駅」とやらもグーグルマップで調べてみれば無人駅で、駅前には店らしきものもない、
つまり「付近住民が怖いと顔を強張らせたり不安を募らせる」要素は”あまり”ありません。

おそらく、毎日の記者二人は付近の民家に片っ端から突撃し、高齢の女性を選び、

「すぐそこに落ちたんですよ。おたくも危なかったですね」

などといって、おばあちゃんたちの

「そりゃ怖いねえ」

 という一言を取ってきて、ついでに顔を強張らせたことにしたに違いありません。
たぶんね。
ヘリの墜落といえば、報道ヘリが起こした事故は結構あって、


1984年、朝日放送と毎日新聞のヘリが空中衝突(住宅街に墜落)3人死亡

2004年、信越放送のヘリが送電線に接触して墜落、4人死亡

2007年、静岡でNHKのヘリが貯水池脇に墜落、1人死亡

2008年、青森朝日放送のヘリが海に墜落、4名死亡


これらの事故の時に、報道陣は近隣住民にインタビューしたんでしょうか。
そして、近隣住民の不安の声をお届けしたんでしょうか。
京都の市街地の上空で8機のヘリがニアミスしたということがあったとき、
下で見ている住民が文字通り顔を強張らせていた件はどう記事にしたんでしょうか。

全くこういうダブルスタンダードの報道には怒りを覚えずにいられません。
おい毎日、おめーのことだ!


続いては、第一空挺団の事故ニュースです。

(十勝新聞2月13日)

パラシュート十分開かず 隊員にけがなし 陸自降下訓練


【鹿追】11日午前9時15分ごろ、鹿追乳牛育成牧場で行われていた
陸上自衛隊第1空挺団(千葉県船橋市、習志野駐屯地)の降下訓練で、
隊員1人のパラシュートが十分に開かないまま降下した
陸自第5旅団(帯広)広報班によると、隊員にけがはなく、訓練は続行した。

訓練は9、10の両日、同牧場で行われる予定だったが、
両日とも強風と雪のため中止になり、予備日の11日朝から行っていた。
隊員約170人が参加し、高度約340メートルを飛行するヘリコプターから降下する訓練中だった。

近くで見学していた男性(53)は「何度も見ているが、普通の速度じゃなかった。
膝ぐらいまで雪が積もっていたからけががなかったのだろうか」と驚いていた。

同団は2008年から毎年、管内の民有地や公有地で積雪地演習を行っている。
09年に行った訓練では、ヘリコプターから飛び出した隊員が上空で宙づりになる事故があった。
12年に同牧場で行った訓練の際には、隊員2人が
降下予定地点を約1キロ離れた牧場(民有地)に着地するトラブルがあった。

 
もちろんパラシュートが十分開傘しなかったというのは大変な事故です。
たまたま見ていた人によるとすごいスピードで落ちていったようですが、
もし開かなかったらと思うと、これは自衛隊に徹底した調査をお願いするべき事案
・・・・なんですが、なんだか突っ込みどころが多くて・・・このニュース・・。

まず、

「隊員には怪我はなく」「訓練は続行した」

なんで訓練続行しているんですかー!
いくら怪我がなかったからって大事を見て病院で検査するとかさせてやってよ。
まさか


「大丈夫か!」「レンジャー!」
「訓練続けられるか!」「レンジャー!」

とかいう会話で判断したんじゃあるまいな。


ところで以前、朝霞駐屯地の基地訪問で案内してくれた1佐は、空挺団の降下ビデオを見ながら、


「皆普通に地面に着いた後転がってるでしょう。
これは立てないのではなく、衝撃を逃がすためなんですよ。
パラシュートで降りても2階から飛んだくらいの衝撃があるので」

と教えてくれたもんだ。
わたしが、

「空挺団って階段使わないで2階から飛び降りるって本当ですか」

と聞くと、

「ああ・・お酒飲んで酔っ払った時とかだけですけどね」

酔っ払って飛ぶほうがずっと危険だと思うがどうか。
というわけで陸自超人伝説がまた一つ増えてしまったわけですが、今回は
雪が積もっていたというのが幸いしたのは確かでしょう。
しかし、どこかでソ連だかロシアだかの一個連隊が、雪が深いから大丈夫!
ってパラシュートなしで降下して全滅したって話を読んだことがあるぞ。

そしてこれは微笑ましい。
このニュースの最後にさりげなくある、


「二人が牧場に着地するトラブルがあった」

という事故ですが、これはつまり傘を抱えて牛さんの群れの中を駆け抜けたりしたのね。
パラシュートで興奮した牛に追いかけられたりする二次災害が起こらなくて何よりです。

 


さて、最後にわが自衛隊とは全く関係ありませんが、軍事関係ニュースで笑ったものを。



バーナード・シャムポー在韓米第8軍司令官が「チェ・ボヒ(崔宝煕)」という韓国式の名前を受けた。 

韓米同盟親善協会(ウ・ヒョンウィ会長)によると、6日、ソウル龍山(ヨンサン)陸軍会館では
「2015年韓米親善の夜行事兼米第8軍司令官韓国名命名式」が開かれた。 
この席でウ会長はハングルで

「米8軍司令部司令官チェ・ボヒ中将」と書かれた命名掛け軸を与えた。

シャムポー(Champoux)のイニシャルCからチェ氏を姓とし、
バーナード(Bernard)のBから「宝」の字を入れた後、
「宝のように輝く」という意味を込めて「ボヒ」という名前を付けたと、ウ会長は説明した。 

シャムポー司令官の父が朝鮮戦争当時、鉄原(チョルウォン)地域の戦闘に参戦した縁を考慮し、
本貫は「鉄原(チョルウォン)チェ氏」とした。 
名付けた人は韓国戦争の従軍記者だったソ・ジンソプ協会名誉会長(84)という。
行事に参加したチョン・インボム特殊戦司令官(中将)は
シャムポー司令官の夫人に「全秀鎮(チョン・スジン)」というハングル名を付けた。 

名前を受けたシャムポー司令官は
「私の偶像であり韓国戦争に参戦した父が韓国で体験した話をよく聞かせてくれたため、
韓国はいつも私と一緒だった」とし
「韓国に赴任し、勤務しながら、韓米同盟の強い力を実感し、韓国人の温かさを感じる」
と述べた。 

ウ会長は
「チェ・ポヒ司令官と崔潤喜(チェ・ユンヒ)合同参謀本部議長の名前には共通の文字がある」
とし
「韓国式の名前を通じて両国同盟がさらに強まることを望む」と述べた。 

協会は米国人に民間外交活動レベルで韓国式の名前を贈ってきた。 
2010年にはバラク・オバマ大統領に呉韓馬(オ・ハンマ)という名前を付けた。
ヒラリー・クリントン元国務長官には韓煕淑(ハン・ヒスク)、
コンドリーザ・ライス元国務長官には羅梨秀(ラ・イス)という名前が付けられた。 

 

 
まず、この国の人に聞きたい。
なんで人に勝手に自分の国の名前をつけるのかを。

 日本人はアメリカ人によく「俺の名前漢字で書いてよ」と頼まれて
「サミー」は「寒」で意味はクールってことだよ、などとやりますが、(ネタで)
オバマが「オハンマ」とかライスが「ラ・イス」はともかく、(ネタか?)
なんでいきなり、よりによって「チェ・ボヒ」なんて名前を押し付けるのか。 
しかも頭文字がCだからチェ?Bだからボヒ?  

 

だいたいボヒじゃなくてシャムポー中将、お愛想言ってるけど顔が引きつってるじゃないですかー。
そんな名前つけられてどうしろというのか、みたいな表情がありありです。




さらにこちら。
チャールズ・キャンベルという立派な名前があるのに、
何が悲しくてわざわざキムと呼ばれねばならんのか。

しかもこの名前、キムの後は「韓国を守れ」ですよ。
 
在韓米軍の軍人さんたち、さすがに大国の軍将官だけあって人間ができているのか
ニコニコと表面上は嬉しそうに受け取っていますが、
だいたい相手が望んだわけでもないのに「命名式」。
なんで上から目線なのか。

たとえば第7艦隊の司令官に、

「日本の名前を命名します。山田守です。しっかり日本を守ってください」

といって「山田守中将」という掛け軸を渡すみたいなものですよ。
韓国人の皆さんだって、たとえばですけど南米のどこかに行って、いきなり

「お前はここではゴンザレスな」

とか上から目線で言われたら何それ、って思いませんかね。
こんなことをする割には自分たちは普段本名を名乗りたがらないのも謎(笑)






 


映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」~”嘉義についたら起こしてくれ”

2015-02-19 | 映画

以前、予告編をここでアップしたことのある

「KANO 1931 海の向こうの甲子園」

を観てきました。

日清戦争の後の下関条約によって日本が清国より割譲したのが1895年。

この時から台湾の日本による支配が始まりました。
条約によって正式に割譲されたのですから決して「武力支配」ではありませんが、
台湾に対してなぜか「支配してすまないと思う」日本人が今現在もいるようです。

わたしにいわせると、すむもすまないも条約だろ?の一言で終わる話ですし、
そもそもこんなことを言う人に限って条約のことを知らなかったりします。

おそらく割譲後に起きた
台湾人の抵抗運動と、それを武力で日本政府が抑えたことで、
日本が台湾を武力で押さえつけて支配したと思い込んでいるのでしょう。

蜂起したのは決して台湾の「一般人」ましてや「良民」ではなかった、という、
(つまり現地を牛耳ってそこから利益を得ていた地元ヤクザのようなもの)

なぜか語られない実態を考慮せずに、支配の構図だけを見て結論を出しているのです。

が、(笑)このことについては
以前後後藤新平について書いた項で縷々お話ししましたので、今日は割愛します。

このお話は、そういった騒乱がひと段落したころの1931年の台湾を舞台に、
ダメダメチームだった嘉義農林高校ナインの前にある日突如現れた
凄腕監督と、 選手たちの歩んだ「甲子園への道」を描きます。

ストーリーは、史実の通り、嘉義農林がその年の甲子園で準優勝するまでで、
彼らが地元で一度も勝てなかった相手を下して以降、
監督の厳しい指導のもと、球児たちが力をつけて強くなっていく過程がコアとなっている、
つまり単純なものですが、だからこそ見ていて裏切られることのない爽快感があります。


そして、この映画は、わたしの好きな映画の条件、すなわち

「男たちが」「皆で何か一つのことをやり遂げる」「実話ベースの物語」

を満たしています。
わたしがこの最初に自分のこの傾向に気づいたのは「炎のランナー」でした。
「炎のランナー」でパリ・オリンピックに出場した実在のアスリートが主人公だったように、
当映画は野球で、実際に戦後日本の球界で活躍した選手が何人かいます。


しかも、わたしが訪れたことのある台南が舞台であり、これも実際に訪れた、
八田ダムを作った嘉南大洲の父、技術者八田與一が出てくるというではありませんか。

台湾という国には、金美齢さんとの出会いもあって個人的に大変な親近感を持っていますし、
地震の後の支援によって「雨天の友」であることがわかった今となっては
日本と台湾は「相思相愛」の国同士といってもいいくらいの「ラブラブ」
(金美齢さんが自分と安倍総理とのことをこう言っていた)でもあると思っています。



かつて台湾が「日本」であったころ、そこで「普通の」人々はどう生きていたのか。

そのとき日本は台湾をどう遇したのか。
そんなことが実話ベースのストーリーから読み取れるかもしれないという期待をもって
この映画を見てみました。

というわけで。

野球好きはもちろん、野球に興味のない人にもぜひ見ていただきたい映画です。
皆さん、まだお住まいの地方で上映をしていたら、ぜひ映画館で観てください。

DVDでも決して後悔しないと思いますが、特に甲子園球場での試合のシーンは、
大スクリーンで観るのがオススメです。


さて、というわけで今日はまだ見ていない方のためにストーリーについては触れませんが、
この映画に登場した実在の人物についてです。


 

監督 近藤兵太郎

早稲田大学卒。
コーチとして出身校の松山商業をベスト8へと導く。
台湾の嘉義農林高校で簿記を教えていたが、3年後野球部の監督となり、
その年、1931年の甲子園大会で嘉義農林を準優勝まで導いた。


松山商業時代の教え子に、東京巨人軍、大阪/阪神タイガースの監督であった藤本定義、 
大洋ホエールズの監督を務めた森茂雄などがいます。

近藤監督を演じる永瀬正敏が好演です。
永瀬の演技は台湾でも絶賛され、6部門で台湾の映画賞にノミネートされましたが、
審査員に反日スピーチで有名なジョアン・チェンがいたせいで(と言われている)
無冠に終わりました。

まあ、中国にとっては実に面白くないストーリーでしょうね(笑)





呉明捷( ご・めいしょう)中央


本編の主人公。
ピッチャーで4番打者、甲子園では完全試合、全試合完投を成し遂げ、
その圧倒的な投球から「麒麟児」とよばれた。

映画ではスラリと背の高いハンサムな曹佑寧くんが演じていますが、
この写真を見る限り、当時の呉選手に似ています。
監督のウェイ・ダーションは

「呉明捷と蘇正生がこの映画のポイントなので、似た俳優を選んだ」

と言っています。
ただし、

 

30年後にはこうなってしまったようで(T_T)
(近藤監督は右から2番目、呉明捷は一番左)

この映画で呉選手を演じた俳優のツァオ・ヨウニンは実は俳優ではなく、大学野球の選手。
キャストは一般公募されたのですが、条件が

「野球歴5年以上」

確かに、野球をするシーンが皆、さまになっているせいで、
の映画には
説得力というか引き込む力があります。
彼は一年間大学を休学して撮影に臨んだそうで、学校に戻った今では大人気で
追っかけのファンが
彼の出る大学野球を観に押しかけるのだとか。 

 


呉波(呉昌征・石井昌征)

映画で、近藤監督に無視されても

「手伝わせてください」

と頼み込んで、グラウンドの整備をしたり球拾いをしたりする少年がいます。
嘉義農林の生徒ではありませんが、野球部に憧れ、絶対に生徒になる、と決めて
入学するまで毎日ボールボーイのようなことをしていたこの少年は、
その後嘉義農林の選手として甲子園に出場することができました。

そして21歳で東京巨人軍に入団。

俊足、強肩の外野手として活躍し、「人間機関車」と呼ばれる名選手になりました。

1942年、43年には2年連続首位打者となり、その後阪神でプレー。
他の選手が

「外野からあれだけ正確なバックホームができるなら投手もできるだろう」

といったことから(おいおい(⌒-⌒; ))投手としても登板するようになります。
そして戦後初のノーヒットノーランを達成しました。
登板のない日は打者として1番・センターを務めていたという怪物でした。

巨人と阪神、ライバル球団のどちらもで主力選手として活躍した例は珍しく、
巨人対阪神のOB戦では川上哲治や藤村富美男など両軍の選手たちから

「君はこっちだ」

とからかわれていたそうです。
そして、1995年、本人が亡くなって8年後に、彼の名は野球殿堂入りしました。

戦争が始まった時、呉は阪神タイガースにいましたが、プロ野球は中断となり、
甲子園球場のグラウンドは芋畑にされていました。
そこで昔取った杵柄(笑)、呉はかつて嘉義農林学校に学んでいた経験から、
耕作指導員として(甲子園の土の)土壌改良に取り組んだそうです。

かつての憧れの甲子園で、将来芋を作ることに学校時代の勉強が役に立つとは
本人は夢にも思ってもいなかったに違いありません。

映画で呉波少年を演じているのは台南市出身のウェイ・チーアン。
ローラーブレードの選手で、プロデューサーの甥だそうです。





蘇正生(そ しょうせい)

映画では、テニス部の彼がラケットで流れ球を打ち返したことで、
近藤監督にその肩を買われて野球部入りをします。

近藤監督は実際、監督に就任してから台湾全島を歩き回り、
有望な選手を探し出して嘉義農林にスカウトするということをしています。
コーチの仕方ももちろん良かったのですが、それだけでは
就任した年に甲子園で準優勝することはできなかったでしょう。

蘇選手は卒業後横浜専門学校(現:神奈川大学)でプレイした後、
台湾の野球発展に尽くし、

「台湾野球界の国宝」

と呼ばれていたそうです。
本作品製作にあたってはまだ存命だった(2008年に死去)ため、
映画スタッフが聞き取ったエピソードが取り入れられました。


錠者博美 (札幌商業高校投手)


この映画は甲子園大会から13年後の1944年から始まります。
台湾を通過して戦地に赴く汽車に乗り込んでいく帝国陸軍の軍人たち。
その中に、甲子園で嘉義農林と戦った札幌商業高校の投手であった
錠者博美選手の13年後の姿があります、

陸軍大尉として台湾経由でフィリピン戦線にこれから向かう彼は、
汽車に乗り込んだとき、こう言って眠りにつくのです。

「嘉義についたら起こしてくれ」

この言葉は、台湾を経由する日本兵の一種の「流行り言葉」であったと言われています。
敗戦色が濃厚となった大東亜戦争末期、生きて帰れないかもしれないという状況で
台湾を通過していく日本兵、あの1931年の甲子園を覚えている日本兵たちは、
どんな状況下でも、決して諦めなかった、あの嘉義農林の球児たちを育んだ土地を一目見たい
と願ったということらしいのです。

そしてその通り、錠者選手、いや今では錠者大尉は、一人嘉義の町を歩き、
今では人気のなくなったかつての嘉義農林のグラウンドに立つのでした。

錠者博美という選手は実際に札幌商業高校の選手でしたが、フィリピン戦線ではなく、
中国大陸に出征し、終戦まで生き延びたものの、戦後はイルクーツクの収容所に収監され、
そこで亡くなっています。

マー・ジーシアン監督は、日本兵の間で交わされた「嘉義についたら起こしてくれ」
という言葉を映画に取り入れるために、錠者博美を日本兵の象徴として描いたのでしょう。


そして1931年に甲子園に出場した日本人選手のうち、傷ついた手で投げ続ける呉投手に

「打たせればいい、俺たちが絶対にとってみせる」

という「鉄壁のトライアングル」、セカンドの河原信男、ライトの福島又男は、
どちらも招集されて出征し、戦死しています。


甲子園に来た嘉義農林ナインに、嫌な質問をする記者がいます。

「漢人、蕃人、日本人、そんな寄せ集めで野球ができるの?」

実に嫌な言い方で、ちょっとした映画の「憎まれ役」といったところ。

「漢人は打撃が強く、蕃人は足が速い、日本人は守備に長けていて最高のチームだ」

と近藤監督に言い返されて、試合では大敗したらコケにしてやろうと
手ぐすね引きつつ観戦するのですが、彼らの活躍に次第にファンになり、最後には

「天下の嘉農」

というタイトルで記事を書くに至ります。
この「天下の嘉農」は何を隠そう、あの菊池寛が大阪朝日新聞に寄稿した観戦記の中で

「僕はすっかり嘉農びいきになってしまった 」

と絶賛したことから、各新聞が嘉義農林のキャッチフレーズにした言葉でした。
嘉義農林の活躍は当時一種の社会現象となるほど騒がれたため、13年経った後に、
このときの熱狂を、戦地に向かうため台湾を通過する日本人たちが思い出したとしても
全く不思議ではなかったということになります。


八田與一

さて、そしてこの映画で出番は少なくても強烈な印象を放っているのが、
大沢たかお演じる烏山島ダムを作った八田與一でした。

映画では烏山島ダム完成の放水の様子が再現されています。
実際に放水が最初に行われたところを見たわたしには全く完璧に再現されていると思われました。
もしかしたら本当に烏山島ダムで撮られたのかと思ったくらいです。


それから、この映画をすでに見られたという方、甲子園出場が決まった後に
嘉義の町で行われたパレードで部員の一人、

上松耕一(プユマ族出身、本名:アジワツ、台湾名:陳耕元)

が目を止める「お嬢様」がいたのを覚えておられますか?

彼女は
蔡招招という嘉義女子中学の学生で、後に上松の妻になったそうです。
上松選手はスカウトされてきて、甲子園出場の時には史上最年長の27歳だったので、
おそらく
実際に結婚した時には彼女と13~4歳は年の差があったと思われます。
 




ところでわたしは台南に旅行をした時、台南駅前のシャングリラホテルの
コンシェルジュである若い女性と観光案内の件で話をしていて、
烏山島ダムを作った技術者が八田與一という日本人であることをいうと、
彼女はこの地方の出身ではないのか(台南地方の出身者は学校で習う)
日本人がダムを作ったという話は初めて聞いた、と語りました。

「そうだったんですか」

と興味深そうに言っていましたが、この映画は台湾で大ヒットしたので、
もしかしたら彼女は映画を見て、このときの会話を思い出したかもしれません。



それでは最後に、1931年全国高校野球選手権大会の試合結果を貼っておきます。



 

【試合結果】

 

1回戦

 

中京商 4x - 3 早稲田実

 

広陵中 4 - 1 和歌山商

 

秋田中 6 - 0 千葉中

 

平安中 6 - 5 八尾中

 

小倉工 6 - 0 敦賀商

 

長野商 2 - 1 大分商

 

 

 

2回戦

 

中京商 19 - 1 秋田中

 

広陵中 6x - 5 平安中

 

松山商 3 - 0 第一神港商

 

桐生中 2 - 0 福岡中

 

嘉義農林 3 - 0 神奈川商工

 

(札幌商 4 - 2 大連商)(411塁降雨ノーゲーム)

 

札幌商 10x - 9 大連商

 

小倉工 5 - 2 長野商

 

大社中 12 - 11 京城商

 

 

 

準々決勝

 

中京商 5 - 3 広陵中

 

松山商 3 - 0 桐生中

 

嘉義農林 19 - 7 札幌商

 

小倉工 22 - 4 大社中

 

 

 

準決勝

 

中京商 3 - 1 松山商

 

嘉義農林 10 - 2 小倉工

 

 

 

決勝

 

中京商 4 - 0 嘉義農林

 

チーム

1

2

3

4

5

6

7

8

9

R

嘉義農林

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

中京商

0

0

2

2

0

0

0

0

x

4

1.       :  - 

2.       : 吉田 - 桜井

3.      [審判](球)梅田(塁)鶴田・水上・川久保

 


海上自衛隊東京音楽隊 第54回定期演奏会 後半

2015-02-17 | 自衛隊



8、團伊玖磨(福田滋 編曲):「キスカ・マーチ」

2月15日、東京オペラシティで行われた東京音楽隊定演の鑑賞記二日目です。

昨日のエントリをアップしてから教えていただいたことが幾つかあるので

まずそのことをご報告しておくと、わたしが開演前にお会いした呉音楽隊長は、
「元呉音楽隊長」であったことが判明しました。
なんと、移動があって現在は東京音楽隊の教育課におられるとのこと。
ついこの間まで呉にいたのに今は東京在住ですか・・・。
転勤が普通の自衛隊といえ、音楽隊でも移動があるとは知りませんでした。

それから、N響並みに定期公演が多い!と驚いたのですが、わたしが
前回聞かせていただいたのは「定例公演」であったことがわかりました。
東京音楽隊にとって定演は

防衛大臣直轄部隊としての訓練検閲の受閲

という位置付けであり(さすがは軍楽隊!)、やはり年一回のものなのだそうです。

それでは誰の観閲(おっと検閲ですね)を受けるのかというと海幕長なのですが、

今回は、先日起こった鹿屋の練習機事故によって殉職した隊員たちの喪に服するという意味で
海幕長が欠席したため、海幕総務副部長による検閲(という名目の鑑賞)を受けたということです。

さて。 


前回のあらすじ

わたしがコンサートにお誘いしてこの日隣に座っていた元海軍兵学校生徒のS氏は、
徹底したアンチミリ(タリー)で、この日もミリっぽい曲に拍手しなかったが、
三宅三曹の歌った「ソルヴェイグの歌」には拍手していた。


というわけで、後半に演奏された映画「キスカ 太平洋奇跡の作戦」の主題曲
「キスカ・マーチ」のとき、わたしは身を固くしていたのですが(笑)、
個人的に團伊玖磨のこの曲は好きですし、何と言ってもこの映画については

アメリカ軍の戦った敵

という題で漫画まで描いたくらい入れ込んで解説した映画。
(いまだに人気ページだし) 
Sさんの反応を気にしなければもっと楽しめたのにと残念です。
決してSさんのせいではないんですが。

ところでこの日、会場でジャーナリストの笹幸恵さんにお会いしました。
本日のプログラムは彼女的に大変好みだったらしい、とお連れの方がおっしゃっていたのですが、
特にこの「キスカマーチ」がポイントだったんじゃないかな(笑)となんとなく思った次第です。


4、デンマークとロシアの歌による奇想曲 サン=サーンス

 
 

全プログラム中わたしが一番意欲的だと思ったのがこの曲でした。
音楽関係者でもなければほとんどの方が聴いたことがないというくらい
マイナーな小品ですが、となりのSさんが
一番感銘を受けたらしいのが実はこれでした。
Sさんはピアニストが好きなので()、ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、
という変則的なピアノ4重奏で、ピアノの比率が非常に高いことがポイントだったのでしょう。



サン=サーンスは民族派ではありませんが、曲の題材にデンマークとロシア
(ロシアに嫁いできたデンマークの王女に献呈されたため)の旋律が使われたため、
プログラムに使用したようです。

わたしはもともとサン=サーンスのオーボエソナタやホルンソナタなど、
管楽器の小品が好きで、特にオーボエソナタはiPodにも入れているくらいですが、
この曲は旋律に「サン=サーンス節」が色濃く出ているとあらためて感じました。

一般のオーケストラでも時々団員が協奏曲でソロを取らせてもらえますが、
今回のこの選曲もおそらく優秀な隊員にソロで演奏させるという目的があったと思われます。

4人のソリストの演奏は、サン=サーンスの管楽器曲特有の「フランス的軽さ」
というか、洒脱さとまではいきませんでしたが、典雅にまとめられ好演でした。

終わってからアナウンスで名前を紹介されたのですが、

プログラムには記名がなかったのが、少し気の毒な気がしました。
これは三宅三曹の場合もそうで、どんなに目立っていても個人名を書かないのが
自衛隊音楽隊の基本姿勢のようです。


5、ルスランとリュドミラ 序曲 グリンカ




もともと管弦楽曲なので、吹奏楽のバージョンを貼ろうと思ったのですが、
中学生の演奏しかなかったので、最もこの日の演奏に似たテンポで
演奏されユーフォニアムとチューバの合奏バージョンを持ってきました。

始まった時おもわず「速っ」と心の中でつぶやいたくらい速かったです(笑)
それを全員管楽器の楽団がやるのですから、司会の三宅さんが

「超絶技巧による演奏をお聞きください」

とわざわざ言ったのもよくわかります。
各自のテクニックの確かさが発揮され、この日のプログラムの中でも特に印象的でした。

6、「わが祖国」より「モルダウ」 スメタナ




民族音楽といえばスメタナ、スメタナといえば民族音楽。
ことにこの「わが祖国」はどんぴしゃりのテーマでそのものです。
本日のメインプログラムはこれではなかったか?と思うほどの気合の入りようでした。

勿論ブラスバンドで聴くのは初めてですが、このブラスバージョンは
決して珍しいものではないらしく、幾つものバージョンがYouTubeでも見つかりました。


そして後半。

7、行進曲「興亜」橋本国彦


帝国海軍軍楽隊の演奏による

橋本国彦というのは、わたしが以前「太平洋の翼」という映画の時に取り上げた
「大東亜戦争海軍の歌」の作曲者です。

「見よ檣頭(しょうとう)に思い出の 
Z旗高く翻(ひるがえ)る 
時こそ来たれ令一下 
ああ十二月八日朝 
星条旗まず破れたり 
巨艦裂けたり沈みたり」

というあれですね。
で、この「興亜」となんとなく似てるんだ。旋律の癖が。
というか同じ人なので当然なのですがね。

このときご一緒だったSさんは、前にもお話ししましたが、兵学校で同期だった
「憧れのハワイ航路」「艦隊勤務」の作曲者、江口夜詩の息子と親友だったというので、
わたしはここにも書いた

「憧れのハワイ航路の前奏に、朝だ夜明けだと続けても全く違和感がない」

という説をこの日恐る恐る言ってみたところ、笑われました。
ちなみにこの手の曲は最も「軍歌嫌い」のSさんの琴線にネガティブな意味で触れるものらしく
終わった後には拍手どころかピクッとも反応をなさいませんでした(^◇^;)


9、南鳥島の光 坂井格

自衛隊委嘱作品。
この題名から、戦前の「興亜」みたいな曲かと怯えたのですが
(いや、わたしは好きなんですよ。わたし自身はね)そうではなく、本日初演でした。

レアアースで注目されている南鳥島に防衛のために駐留してこの時にも任務に就いている、
自衛隊員への応援の意味を込めて書いた曲だそうです。
会場には作曲者が来ていて、終わった後紹介されていました。

10、吹奏楽のための舟歌 伊藤泰英



こちらは少し昔の委嘱作品で、「金比羅船ふね」のメロディがいきなり冒頭に取り入れられています。
この曲を依頼したのは呉音楽隊。

もう少し先にアップ予定のエントリに、掃海隊の慰霊式の話があるのですが、
呉地方総監が執行者となってその慰霊式を行うのが、慰霊碑のある金刀比羅宮なのです。

この曲は聴きなれたメロディもあって受け入れられやすいらしく、
Sさんも「あれは面白かったですねえ」と感心していました。
以前横須賀地方隊の演奏で聴いて感心した「ぐるりよざ」と同じ作曲家だそうです。
道理で。

11、この道 山田耕筰

北原白秋の詩は、札幌での想い出が述べられています。
これを三宅三曹が独唱しました。
あえて苦言を呈させて貰えば、三宅さんの声は低音に響きがなく”鳴らない”のが難点。
そのせいで歌詞がほとんど客席まで聞こえてこなかったのが、残念といえば残念です。
(厳しくてごめんね(_ _;))



 12、火の伝説 櫛田てつ之扶(てつのすけ、てつは月編に失う)

 

 
委嘱作品ではなく、「民族音楽的観点」から選ばれた曲のようです。
京都を舞台に行われる、「八坂神社の大晦日の火縄」「大文字の火」「時代祭の篝火」
・・・つまり、火の祭事、神事を描写しながら人々の営みと関わる「火」を
主題に歌った叙事詩のような作品です。

音楽的構成からも決して安易なものではなく、演奏者の意欲が感じられる選曲でした。


アンコール 早春賦

アンコールでは三宅三曹が最後にもう一度歌ってくれました。
昨日の冒頭にも書いた通り、この日は大変厳しい寒さでしたが、
この曲で一足先に春を感じてもらおうという計らいです。

三宅さんは歌い終わった後、客席と、楽団に向かっても挨拶していましたが、
そのときの音楽隊員、特に女性隊員の表情を見ていると
(わたしはこんな瞬間に”何かがあるなら”特に女性の顔に表れるものがあると思っているので)
やっぱり彼女は皆に好かれているんだなと今回も確信した次第です。

そして、一番最後に

行進曲「軍艦」 瀬戸口藤吉


わたしはこの曲で手拍子をする風潮が嫌いです(笑)

この曲が海軍軍楽隊で生まれて以来、どういうときに演奏されてきたかということを考えると、
手拍子で調子を取るような曲ではないし、少なくともわたしはそうするべきではないと思っています。
海上自衛隊の演奏会が必ずこの曲で終わるということを、ロビーに揚げられた自衛艦旗と共に
たいへん重く考えているという、ごくごく個人的なこだわりに過ぎないのですが。


「早春賦」のあと、最後に指揮台に立った手塚2佐は少々不審に感じられるほど
長い時間瞑目してから、初めてタクトを振り下ろして「軍艦」の演奏を始めました。
おそらくですがこの長い時間にも同じような理由があるとわたしは感じました。




ところで同行したSさんは、この日演奏された「キスカ・マーチ」が主題歌の映画、
「キスカ 太平洋奇跡の作戦」を観ていないだけでなく、
「キスカ作戦」そのものをまったく知りませんでした。

そこでわたしは講談師よろしく、アッツ島の玉砕に始まり微に入り細に入り、
キスカ作戦についてもと海軍軍人に説明する羽目になったのです(笑)
一通り喋り終わった後、Sさんは

「本当によく知ってるねえ」

と言いましたが、その後またこう付け加えました。

「僕は本当にそういうのを見るのも聞くのも避けていてね。
兵学校の集まりでも皆が軍歌を歌いだしたら逃げたりしていた」


それに対し、わたしはためらいつつこう言いました。

「わたしもSさんのように戦争を体験していたら、おそらく
同じように戦争を語ることも関わるものを見聞きするのも避けていたかもしれません。
語りたくないという方がいても、それはもっともなことだと思います。
事実、そんな方が戦後たくさんいて、家族にも何も語らないまま死んでいきました。

でもわたしはその時を知らないからこそ、尚更知らねばならないと思うんです」


行進曲「軍艦」が始まると同時に、会場では一斉に手拍子が始まりました。
しかし、少なくとも周りでは唯一わたしと隣の席のSさんだけが、
全く違う理由ではありましたが、手を上げずにただその調べをただ聴いていたのです。



終わり




移動中のTOから送られてきたこの日の富士山。
怖いくらい澄み切った空を切り取るような富士の稜線が美しい。



 





 


2015年度 東京音楽隊定期演奏会 前半

2015-02-16 | 音楽

先週末の関東地方は異常とも言える寒さと風に見舞われました。
東北地方では雪と強風で飛行機が欠航し、なんでも仙台空港では
某韓流コンサートに行けなくなったファンがANAのデスクで
「号泣・罵倒・絶叫」
しながら臨時便を掛け合ったというほのぼのニュースがありましたが、
(ANAの皆さん、心の底から対応お疲れさまでした&同情します)
わたしもこの日車で移動していて、風に飛ばされた布団が4号新宿線の下道路沿いの
ガードレールに引っかかっているというシュールな光景を目撃しました。

しかし前日のバレンタインデーで恋の始まりの予感を感じたり、
さらなる愛を深め合ったカップルにとって「少~しも寒くないわ」な日であったように、
この日東京オペラシティで行われた東京音楽隊の第54回定期演奏会を聴いた人々は、
寒風も少しも寒くないくらい、温まった心で帰路についたはずです・・・

・・・・と、自分でも嫌になるくらいありがちな書き出しとなりましたが、
少なくともわたしはそうでした。もちろんバレンタインデーのせいではありませんが。
というわけで、コンサートの模様を今年もご報告いたします。




東京音楽隊の定演を聴くのは二回目となります。
前回はすみだトリフォニーホールで行われた1年半くらい前のものですが、
それから今までの間に何回も定演は行われているのを知りました。
2014年の12月12日、つまり1ヶ月前の定演が「第51回」だったのに今回は「第54回」。

このペースでいうと10日に一回は定期演奏会をやっていると言うことになります。

定期的にやるから定期演奏会なんだろ?と思われるかもしれませんが、
このペースはまるでN響並み(N響定演は月三回2プロずつ)。
もしかしたらこれほど頻度が上がったのは自衛隊の「最終兵器」である三宅由佳莉三曹
(冒頭写真右)の知名度と人気を反映してのことではないかと思われました。

写真はコンサート終了後、客より先にロビーに出て、左側の音楽隊長手塚2佐とともに
この日の聴衆に挨拶をする三宅三曹。
自衛隊のコンサートとはとても思えません・・・・と一瞬考えましたが、
考えたら終了後に出演者がこんな風にロビーで愛想を振りまくコンサートは、
今まで1~2度しか見たことがありませんし、
自衛隊の定演でも三宅三曹出現前は、まずなかったことなのでは・・・。


さて、この日のチケットは東京音楽隊より直接送っていただいたのですが、
開演の3時間前に座席券と引き換えするというものでした。
東京オペラシティなら、しかも独奏ではなくブラスオーケストラの演奏なら、
後ろの方で聴いた方が音響的にいいのはわかっていましたが、わたしには当日
どうしても早く行って前の方の席、少なくとも一階の席を取る必要があったのです。

というのは、これは偶然なのですが、昨日のログでお話しした兵学校76期の、
「長門」艦長だった海軍中将の息子という方をお誘いしていたためです。
88歳とご高齢の方にホールの階段を登らせるわけにはいきませんからね。



といっても、会場は日本の生んだ偉大な作曲家、武満徹を記念した
「タケミツ・メモリアル」というくらいで、音響はもちろんのこと、
建築家である76期氏が目を輝かせて「この建築は素晴らしいねえ」と
絶賛したくらいの超近代的なホールですので、当然エレベーターくらいはあるのですが、
まあ自衛隊イベントは並ぶのが基本、という考えが染み付いているわたしは
この日も交換時間の1時間前にナチュラルに並んでチケットをゲットしました。



早くから並んでいる人のために、ガラス張りの外側に向けてこのモニターが置かれ、
自衛隊の広報ビデオ(三宅さん出演のもの)が流されていました。
さすがは気配りの自衛隊。
大抵の人たちはおしゃべりをしたり、デバイスや文庫本を見ながら時間をつぶしていましたが、
たとえ音は聴こえないとしても、こういう目に見える変化があるとないでは大違い。
演奏会が始まってからはモニターは奥に移動していました。

並んで立っていると、自衛官たちが時々整理のためそこここを歩くのですが、
わたしはその中に呉音楽隊長のお姿を見つけたので、声をかけました。

「呉ではどうもありがとうございました」
「今日はわざわざ・・・?」

隊長が「わざわざ」と言ったわけは、わたしが「某地球防衛協会顧問」という肩書きで
呉音楽隊を訪問したので、某地方に在住の人間だと思っているためかもしれません。

「呉で兵学校の皆さんと呉音の演奏を聴かせていただきましたが、
今日はあの日いらしていた76期の方をお連れしたのです」

「それはそれは・・・楽しんでくださいね」

「音楽隊長が代わってからお聞きするのは初めてなので、楽しみです」

「新隊長、スキンヘッドなんですよ~」


なんというかこの方らしい(お会いするのは3度目ですが)コメントでした(笑)
呉からわざわざいらしていたのは会場整理のための応援(『裏方です』)だそうです。
自衛隊のコンサートはこのように音楽隊の相互の協力で行われるものなのですね。

さて、座席券交換時間が来たらあとはあっという間に順番は来て、
しかも早くから並んだ甲斐あって前過ぎず後ろ過ぎずの完璧な席、
しかも通路側2席というありがたい場所です。

心安らかにあとは有り余る時間でゆっくりとランチをいただき、気力は十分。
開場時間ちょうどに76期のS氏と待ち合わせて入場の時、
自衛隊音楽隊の演奏会は初めてというS氏に

「ビッグバンド風のジャズも聴けるはずですよ」

と勝手に予告したのですが、これはあとで全く外れであることが判明しました。
このあたりが自衛隊音楽隊そのもののレパートリーの広さの証明でもあるのですが、
どうやらプログラムは定期演奏会ごとにテーマをガラリと変え、
同じようなものにならないようにバラエティをもたせている模様。

わたしが前回聞いたのは、前半は自衛隊ピアニストの太田沙和子2曹による
ピアノコンチェルト、後半はジャズトランペッターをゲストに迎えての
ジャズ風のプログラムでしたが、この日はガラリと雰囲気を変え、

「行進曲と民族音楽」

というのがテーマになっていたのでした。
行進曲は東京音楽隊に限らず自衛隊音楽隊が最も得意とする分野で、
正面切ってそれを主題に据えてきたというのは、後から中の人に聞いたところによると、

「新隊長の手塚裕之2佐のカラー」

であるということでした。
しかし全編行進曲ではプログラム的にも如何なものか、ということで(多分)
民族主義を打ち出したロシアの5人組から2曲、あるいみ「日本の民族音楽」
の範疇である自衛隊委託作品、という構成になっていました。

まず、コンサートのオープニングは

1、双頭の鷲の旗のもとに(J.F.ワーグナー)

双頭の鷲とはオーストリア・ハンガリー帝国のシンボルで、
軍楽隊長が作曲しました。
日本ではすっかり運動会の曲と認識されております(´・ω・`)

続いても勇壮な行進曲で、わたしも聴くのは初めてだった

2、戦闘用意! Klar zum Gefecht!(H.L.ブランケンブルグ)

この曲はほとんど無名で、日本国内で演奏しているのは自衛隊だけという希少さ。
もしかしたら自衛隊が発掘してきた曲なんじゃないかと思ったり・・。
ちなみに題名も「戦闘用意」だったり「戦闘準備完了」だったり、
準備できたんかできてないのかどっちやねん!と突っ込みたくなるような二つが
いろんな国で翻訳されているうちに生まれてきてしまったようです。

原題だと「戦闘用意」でいいと思うんですがねえ。

さて、わたしは実はしょっぱなでこのような「軍靴の足音」っぽい曲が続き、
音楽関係者として面白いと思いつつも隣が気になって仕方ありませんでした。
というのは、S氏というのは、音楽には造詣が深く、個人的には

「ピアニストが好きで一時結婚していたこともある」(^^;;

という方でありながら、いやだからなのか、徹底したリベラリストの観点から

「音楽は怖いんです。それで鼓舞されて国民は戦争にも突き進んでしまう」

という、それどこのナチス党とワーグナー(”双頭の鷲に”の方じゃありません)、
みたいな考えを、戦後69年間頑として持ち続けてきた人。
こういう人が一番苦手なのが「戦闘用意!」(だか準備)みたいな曲である、
というのをわたしは隣にいてビンビンと感じ取ってしまったからでした。

なぜか始まりの時には拍手しても、これらの曲が終わってから、Sさんの手は上に上がりません。
あー、もしかしたらSさんドン引きしておられる?
お年を召されて極力体を動かすことを節約していたのかとも思いましたが、
どうやらそうではなく、拍手するしないはSさんの興不興を表していたとわかったのは
その次のプログラムが終わった後でした。

3、「ソルヴェイグの歌」歌劇「ペール・ギュント」より



この曲は東京音楽隊の誇る最終兵器、歌手の三宅三曹によって歌われました。
三宅さんはこの日最初から司会進行を務めながらアンコールを含めて三曲、
喉を披露してくれましたが、この曲は原語、すなわちノルウェー語での歌唱です。

東京音楽隊がノルウェーで行われた軍楽隊の祭典であるミリタリー・タトゥー
に出場した時、彼女が着物を着て「ふるさと」を歌った映像は
ここでも紹介させていただきましたが、そのノルウェー語での歌、
なんでも発音をノルウェー大使館のノルウェー人にチェックしてもらい、

「ノルウェー人が歌っているとしか思えない」

と褒めてもらった、と本人は嬉しそうにコメントして、さらなる拍手を受けていました。

わたしもこの歌は彼女にとても合っていると思いましたし、

どちらかというとミュージカル風の歌唱タイプだと思っていた三宅三曹が、
このようなクラシックの小品を格調高く、かつ完璧な音程で歌い上げているのを聞いて
人気の陰で彼女が慢心せず、研鑽を積んで着実に実力をつけていると感じました。

そして問題の隣のS氏ですが、「ソルヴェイグの歌」の後、惜しみない拍手を(笑)
・・・わかりやすい。わかりやすすぎるよSさん。


この時も思ったのですが、三宅さんという人は万人に好かれるオーラを持っています。

歌手というのは得てして傲慢で自己主張の強すぎる人が多く、(一般論ですよ)
むしろそんな強い性格でないとやっていけない世界なだけに、どんな歌手にも
「この人だけは敵にしたくない」と思わずにいられないようなアクの強さを感じるものなのですが、
そういった歌手とは全く立場も立ち位置も違う歌手とはいえ、三宅三曹には
逆に聞いていてニコニコと自然に微笑みが浮かんでくるような・・・・。
いわば「本人の人柄の良さ」が際立つのです。

自衛隊の歌手を採用するという話になったとき、さぞ多くの歌手がオーディションを
受けたのだと思われますが、自衛隊の「顔」として彼女を選んだ当時の選考委員は
歌の実力より、もしかしたらこの万人に好かれる清潔さと可愛らしさ、
そして人間の伸びしろみたいなものを見抜いたのかもしれない、とわたしは思いました。

歌が終わった時、隣の女性がため息をついて

「はあー・・・きれい!」

と感極まったようにつぶやきましたが、そういうことです(笑)

一時テレビなどの媒体への露出が増えてわたしが懸念を感じていた頃、当ブログでも
何人かの読者が

「自衛隊には彼女を守ってあげてほしい」

と苦言を呈していたことがありますが、少なくともこの日、彼女自身に
注目に慣れた嫌味さはもちろん、潰されたり圧迫されているような様子は微塵もなく、
実に上手く「育ててもらっている」なあと感じてわたしは嬉しく思いました。

冒頭の写真はもうすでに出来かけていた人垣の合間から撮った(のでブレた)のですが、
このあと人垣はものすごいことになり、わたしが会場を後にする頃には
本人が見えなくなるくらい周りに人を集めていました。

おそらく手塚隊長が一人で立っていてもこうはならなかったでしょう。当たり前か。



というわけで、全くプログラムを紹介できなかったので明日に続く(笑)














 


海軍兵学校同期会~最後の兵学校生徒

2015-02-15 | 海軍

「良かったら一度遊びに来なさい」

江田島で行われた海軍兵学校の同期会のツァーで第一術科学校見学の後、
呉の観光ポイントを
時間つぶしのために回り道したバスが空港に着いて、
三々五々ロビーに向かうとき、隣を歩いていたS氏がわたしに唐突に声をかけました。

「本当ですか!」

今回のツァーにお誘いくださった我々の同行者は、わたしのことを

「この方は大変海軍への興味をお持ちでして」

とS氏に紹介してくださり、そのときS氏は

「そうですか、それは嬉しいですね」

とにっこり微笑んだ、ということを以前お話ししたわけですが、
このエリス中尉に社交辞令は通用しない、とブログ読者であればもうすでにお察しの通り、
この時のお誘いを真に受けて、
わたしたちは帰って来てからすぐS氏に連絡を取り、
ご自宅に
遊びに行ってまいりました。

世田谷の、若者に人気のある雑踏から少し離れた住宅地域。
そこにSさんが一人暮らしをしている古いマンションはありました。

築30年の「マンションブームの走り」くらいに建てられたと思しき
マンションの蛍光灯で照らされた廊下からドアを開けたとき、
わたしはついわあ素敵、などとはしゃいでしまいました。

そこはまるで別世界。

元海軍軍人で戦後はその業界では名前が知られたスペシャリスト。
こんな方ですから、やはりお住まいも80歳半ばのご老人が独居、というイメージとは全く違う、
まるでモデルルームのような
洗練された空間だったのです。

今は仕事を引退して住んでいるだけですが、現役の時には
ここが仕事場だっただけあって、
外に出ている生活じみたものは全くなし。
そもそも玄関も三和土もない部屋はドアを開けたら靴のまま奥まで普通に歩いて行ってしまいます。

「靴を脱がなくてもいいと、皆気楽に来てくれるんですよ」

そうかもしれません。
特に、今日はお宅に上がるのだから脱ぎやすい靴、そして靴を脱いでもおかしくない装い、
などと考えてその日の
衣装を選んできたわたしは、S氏の次の言葉に驚愕しました。

「特に女の人は、ハイヒールなど履いていると脱ぐのが嫌でしょう」

パンプスを脱いでコーディネイトが台無しになる、
という密かな苦痛を理解できる女性すら決して多くはないこの日本で、
「靴を脱いで楽にしてください」と勧められることはあっても、
このようなことに言及する男性などリアルで見たことがなかったからです。



最初に見たときにも只者ではないと思ったわたしのカンは、少し知ってみると大当たりであったことがわかりました。
やはり、Sさんは只者ではなかったのです。



Sさんに紹介されたときに最初に聞かされたのが、ご尊父は海軍中将で、
戦艦「長門」の艦長を務めていたことがあった、ということ。
ご存知のように戦艦の艦長というのは大体任期が1年ですから、
「長門」の艦長は米軍に接収され水爆実験の的となるまでの最後の艦長、
米海軍のW・J・ホイップル大佐を含め32人もいるわけです。

S氏の父上であったS中将も、他にいくつもの軍艦艦長や、陸戦隊司令など
要職を数多く経ているにもかかわらず、そのなかで「長門艦長」というのは
彼の海軍人生において最も誇りとするところの配置だったのでしょうし、
息子のS氏にとってもやはりそうだったのだと思われます。

戦艦「大和」の艦長を命じられた有賀幸作が、海兵団にいる息子に

「大和艦長 有賀幸作」

と軍機ガン無視で書いてしまうくらいそれが嬉しかった、という話からも、
名だたる艦の主になるというのは、
海軍軍人として本懐というべきものだったのですね。

S中将は息子によく

「海軍で最も楽しいのは兵学校の1号(最上級生)と艦長だ」

と言っていたとのことです。
そういえば井上成美大将も、後日、

「一番愉快だったのは『比叡』艦長の時だった」

と語り、海軍省軍務局時代にも部屋には『比叡』の絵を飾っていた由。
まあ、そういうことをすでに当ブログにおいて書いたことのあるわたしは、
その話を聞くや、

「連合艦隊の司令長官、というのもその一つという説がありますが」

と差し出がましく口を挟ませていただくと、

「そうかもしれないが・・時代にもよるんじゃないかな」

とにかく、艦長になるのは大佐のときですが、昇進してその後
それこそ井上成美のように軍令部などに配置されたが最後、
次は司令長官に昇りつめるまでは色々と巻き込まれたり
板挟みになったり責任ばかりが重く権力があるわけでもない、
非常に宮仕え的な海軍生活になるわけですから、一国一城の主であり、
船の中では絶対の権限を持つ艦長が男として楽しくないわけがありません。

(女であってもたぶん・・・)


S氏はお若い頃、ハンティング、狩猟を趣味にしておられたのですが、

海外に(4大陸制覇したらしい)銃を持ち出すのは手続きが大変で、
特に飛行機に載せるときの名目は「機長預かり」ということになるのだそうです。

もし機長がそれを拒否したらその飛行機には銃は積めません。
つまりそれほど飛行機における機長の権限は大きい、ということなのですが、

「船も同じですよ。船長や艦長の権限は大きい。
一蓮托生で失われかねない乗員全員の命を預かるわけですから」

民間でもそうですから、軍艦の艦長の権力がいかに絶大だったかということです。

さて、S氏は何か「長門」にまつわる思い出があるのでしょうか。

「ありますよ。
僕は小さかったけどはっきり覚えてるんですが、
親父が艦長だった時長門の中で食事をしたことがある」

なんと!

戦艦「長門」のディナーを食べたことのある人と、今面と向かってわたしはお話ししているのだわ。

「白いテーブルクロスがかかっていて、座っているテーブルの後ろに、
水兵さんが、左手にナプキンをかけて直立してるんですよ。
そして、その水兵さんが一皿一皿フランス料理をサーブするんです。
びっくりしたね。帝国海軍というところはこんな洒落たことをするのかと」


この話を聞いてしばらくたってから、ふと気になって、
その時Sさんがおいくつだったのか調べてみると、なんと4歳。

4歳の時の記憶なんて、誰にだってそうたくさんはないと思うのですが、
4歳児がフランス料理や水兵さんのサーブに驚き、
80数年経ってもそのことをはっきり覚えているというのは
Sさんにとってこの時の食事がよほど強烈な印象だったと見えます。

もう一つついでに。

わたしはSさんの年齢を3歳は若く勘違いしていたことをこの時知りました。

背筋はまっすぐ、今だに煙草を嗜み、おしゃれで、ボケるどころか耳も遠くなく、
人の話も完璧に聞き取って的確に返事を返してくるスーパー88歳。

やはり「只者ではなかった」と舌をまく思いでした。

若い時はさぞや優秀な切れ者だったのだろうと思うわけですが、
実は遊んでばかりで中学受験で東京のナンバースクール(一中、二中など)に入れず、
さらに麻布中学から兵学校を受けるも「4修」はならず、東大生のカテキョをつけていたそうです。

そのときSさんの家庭教師だった東大生は、戦後応召から帰ってきて、
Sさんの妹さんと結婚し「弟」となったそうで、

「僕に教えに来ている間、妹に目をつけてたんだよ」

この方(Sさんの義弟)はその後政界に出て、政務次官まで務めたそうです。

さて、そのSさんが、2号になったときに、501分隊の先任、つまり、

序列で全てが決まる江田島ではそれだけで「学年で5番」とわかる配置を任されました。

「1年の間倶楽部に一度も行かずに勉強をした」

成果だったそうです。
それほど頑張る気になった理由は、父上のS中将が、

俺はアウトバットザラスト、ビリから2番目だった」

と常日頃いい、(卒業時にはクラスの半ばまで盛り返した)
軍人になるならハンモックナンバーが良くないとダメだ、と息子に言って聞かせたからでした。

二人の息子のうち兄をすでに兵学校に入学させていた父親としては、
次男は軍人にしたくなかったようです。

「戦争も始まっていたし、二人とも死なれちゃかなわんと思ったんだろうね。
技術者になれ、といわれたこともあった」

「どうして海軍に入ったんですか」


「海軍しか見えてなかったから」


S氏の部屋で見せてもらったアルバムには、兵学校生だった兄が
兵学校の休暇で帰ってきたときに撮ったらしい家族写真がありました。

そこに写る海軍兵学校の夏の真っ白な軍装姿の兄、
都会の学校とはいえ、
兵学校のそれと比べると明らかに見劣りする、もっさりした制服姿の弟。


S氏は兵学校を受けた動機についてそれ以上のことは言いませんでしたが、
その写真を見た瞬間、スマートな兄の兵学校生徒姿が弟の憧れに
おそらく火をつけ、結果同じ道を選んだのだとわたしは直感しました。

内心反対していた父親は次男の兵学校進学をそれ以上止めず、ただ

「兵学校に入るなら勉強しろ」

とだけ言ったのだそうです。
自分が軍人である以上、決して本音はいえなかったこともあるでしょう。 

わたしはSさんに招待された時、その手土産代りに、兄上が
零戦の飛行隊長として戦死した時の行動調書と、部隊の編成表を
目黒の防衛庁戦史資料室で探し出し、コピーを持参しました。

戦争中のこのような資料を、必ずしもすべての人が歓迎するとは限らず、

「軍というものが嫌いで、同期会でも軍歌を歌ったことがない」

というSさんが、そのことをどう受け止めるか心配もありましたが、
実際には大変喜んでいただけたようです。

写真コピーで原本の黄ばんだ色さえ明瞭に映し出された行動調書の

兄の名前の上に「中尉」と書かれているのを見て、Sさんは


「中尉になってたのか・・・少尉だと思っていた」

とつぶやきました。
中尉で戦死したなら、おそらく最終階級は大尉のはずだと思います。
とわたしは言いかけて言葉を飲み込みました。

そんなことはおそらくSさんにとってどうでもいいことだからです。


S氏は兄だったS中尉の戦死を終戦まで知りませんでした。
戦後、父親は海軍の関係者からそのことを聞かされて知り、
家にはただ「英霊」と書かれた紙が入った骨箱が送られてきました。
長男の死を知った夜、父親の元海軍中将は部屋で一人、朝まで泣き続けていたとSさんは語りました。

「母親はあきらめられなかったんだろうね。
わざわざ九州まで行って、戦闘の行われた付近を訪ねて歩き、
息子の最後を知る者がいないか聞いて回ったらしい。
でも、何もわからずに帰ってきた」

つまり、それから何十年かののち、わたしが、なぜか数年前に
まるで何かの啓示を受けたように海軍の世界にのめり込みだしたこのわたしが、
こうやって最後の状況がわかる資料を探し出すまで、

「こんなことは調べてみようとも思いつかなかった」

Sさんは感謝の言葉とともにまたこんなことを言いました。

「母親はこういうことも一切知らないで死んでしまったんですよ」

そして、この風変わりな趣味を持つ女性(エリス中尉)にSさんは依頼をしました。

「3号が終了した時のハンモックナンバーを見てみたい」 

それを受けてわたしは国会図書館、防衛庁戦史資料室などに通い、
名簿という名簿を皆探したのですが、その結果はまた別の日に話すとして、
冒頭の不思議な広告は、その過程で偶然見つけた「お宝情報」です。

ある昭和の年代に編纂された海軍兵学校名簿の1ページで、広告主は

「海軍が特別に海に落ちてもいいような素材を開発して作った
特殊な布地を再現したので、それで作る兵学校制服とスーツ」

を宣伝しているのですが、モデルもご本人。
失礼ながら兵学校の制服が全然兵学校のものに見えないのが残念な体型でいらっしゃいますが、
何しろこの方、その「特殊な素材」を資料をもとに、往時の職人を探し出し開発したと・・・
なかなかの発明家でいらっしゃいます。

・・・・・発明家

といえば?
そう、ドクター中松ですね。(そうなのか?)
名簿を検索している途中であるページにあった制服姿に
ふと心を奪われ、図書館にコピーを頼んでそれが家に郵送されてきてから
初めてこの広告主が若き日のドクター中松であることに気がつきました。

よく見れば名前の後に「77期マ15」とあります。
なんと、慌ててドクター中松の経歴を調べたところ、海軍兵学校舞鶴分校、
すなわち統合前でいう「海軍機関学校卒」であることがわかりました。


ついでにこの人、マハトマ・ガンディー賞とかイグ・ノーベル賞を
受賞していることも初めて知ってしまいました。

兵学校の後、戦後旧制高校からやり直して東大工学部に進学、
これはまさにSさんと同じコースであったことになります。


しかし、戦後の多士済々が兵学校からこんなにも輩出されてたんですね。
ただ、Sさんに言わせると

「兵学校の卒業生からはあまり評判は良くなかったみたい」

何をやったドクター中松(笑)

ところで、上の宣伝のスーツか兵学校生徒制服をもし作りたかったら、
会社の口座にお金を振り込むことになっているのですが、
皆さん、その振込先名義を見てください。

東京都民銀行 口座名義「大日本帝國海軍」

・・・・・・・・・・。

続く。
 


米海軍アイスクリーム事情~ハルゼー提督とアイスクリーム艦

2015-02-14 | 海軍人物伝

わたしがいつぞやネットを探して古本屋で見つけた
元海軍主計中佐、瀬間喬著「日本海軍生活史話」は、旧海軍の「食」に関する
あらゆる資料が掲載されている労作(昭和60年発行)です。

食べることはある意味戦闘以前に軍隊にとって重要な一事であるため、
それらを司る役目である主計は重職であり、その元主計士官によって集められた資料は
海軍に留まらず
戦前の日本の「食」のあり方を窺い知る貴重な記録となっています。

んが、ありがちなことですが、実際のところ日本海軍は糧食、補給、廚業に対し
まともな関心を払わぬことが多かったようです。

この著者である元海軍主計中佐に言わせると、糧食に関することは主計科に丸投げで、
肝心の主計科士官たちの中でも、本流は会計経理に進むため、

衣食に携わる主計業務は蔑視に近い軽視という扱いを受けていたというのが実情だったそうです。

れでは陸軍はどうだったかというと、なぜか海軍よりずっとマシだったらしいのです。
2・26事件の首魁であった磯部浅一は一等主計でしたが、もともと安藤輝三大尉と同期の
歩兵であったのにわざわざ主計に転科しています。
その理由というのは、貧農家庭出身の磯部らしく、

「革命のためには、経済学を専攻する必要がある」

という深謀からきたものであったそうですが、いざ転科してみたら磯部大尉の意に反して
”飯炊き勉強ばかりやらされて”、というくらい廚業重視で本人苦笑、というものであった由。

今も昔も「海はグルメ」ということになっているのにこれはいかなることでしょうか。
食に対してこだわりはあってもそれをするのは下の者の仕事、という感覚?

瀬間元主計大佐は、このあたりの意識に甚く不満を感じていたようで、この本の後書きで、

「司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』の中で『上は大将から下は主計兵に至るまで』
とあったが、いかにも主計兵が最下等のものであるようで快い気持ちはしなかった」

とうらみつらつら書いています。
司馬遼太郎が意識せずに、しかし深層心理のうちに

主計は兵科よりも下等なものであると認識していたのが現れたということでしょう。

しかし司馬遼太郎のような所詮権威主義の言うことはこの際置いておいて。
当たり前ですが、食は軍隊の最基本です。
食べねば軍隊は機能せず、それどころか戦わずして負けてしまうのです。

事実、後年南方に日本軍が進出していき、戦闘どころか根拠地で食料不足になったときに、
その壊滅を未然に防いだのは往々にして司令官ではなく優秀な主計士官でした。

現地との折衝や食料の自給、それらを計画指導し、主計士官が部隊を救った例は沢山あります。

そして艦艇生活での食。
それは選択の幅のできる陸よりずっと重要視されており、

従って海軍軍人に一番愛され人気のあったのは、他でもない給糧艦「間宮」でした。

「艦これ」ブーム以来、プラモデル会社の人々が一番驚いているのが
「間宮」の模型が売れることだそうです。
「間宮」は艦これ的にも愛されキャラとして絶大な人気があるそうですが、
それもこれも実際に彼女が海軍さんたちに深く愛されていたという史実からきています。


彼女の特徴のある一本煙突はそのままあだ名になり

「おお、一本煙突が来たぞ」

と、すべての軍人たちが・・・・それこそ上は大将から一水兵に至るまで、
「間宮」の来るのを待ち望み、大喜びでこれを迎え、昭和19年12月に
南シナ海で戦没したという報せには多くの軍人が涙したといいます。


つまり「間宮」は「士気を高める」という意味で戦闘に役立っていたのです。
本筋ではありませんが、もう少し間宮についてお話ししておくと、「間宮」は特務艦で、
軍艦ではないので、軍艦旗は掲揚していますが艦首に菊の御紋章はつけていません。



後部上甲板には一応もしものときのために肉牛の場があったそうです。

人もおらず、そもそも肉牛など乗せることもなく、結局一度も使われないままでした。
真水や氷などの配給も行う関係で、洗濯機がなく洗濯夫の乗っていない
駆逐艦などの艦のために、洗濯を代わりにしてあげることもできました。

艦隊のお昼ご飯はだいたい洋食だったので、「間宮」では毎日パンを焼いていました。
つまり、「間宮」が寄港した艦隊の乗組員は毎日焼きたてのパンを食べていたのです。

艦内生産をしていたのは有名な羊羹、最中、洗濯板と称するパン菓子、こんにゃく、豆腐。
そして今日話題のアイスクリームです。
「大和」にもアイスクリーム製造機があったという話を書いたことがありますが、
こちらの真偽は少々怪しいようで、冷凍室があったのだからアイスクリームも作れただろう、
といった程度の話であるようです。

もっともアイスクリームの作り方というのは簡単といえば簡単で、冷凍庫さえあれば
それで冷やし固めたものを手で2時間おきに練ればできあがるので、
(フランスの王宮の料理人は事実そうやって作っていた)「大和」でも
フランス料理を供する時などには大きなしゃもじで練って作っていたのかもしれません。

余談ですが、海軍の食事レシピは、供する相手が士官か兵かで微妙に変わってきます。
一言で言うと材料費と手のかかるものは士官にしか出しません。

昭和7年に海軍主計に使用されていたデザートレシピによると、

ベークドアップル・・・士官
ピーナッツボール(ドーナツボールのこと)・・・兵

マデルケーキ(マデル酒を入れたパウンドケーキ)・・・士官
ダンブリン(牛のケンネン油に粉を混ぜて焼いたケーキ)・・兵

といった具合に差がつけられています。
牛の腎臓周りの脂を「ケンネン油」といったそうですが、こんなものをお菓子にするか・・・。


普通、アイスクリームを作るときには生卵を熱さずに使いますが、
「間宮」のアイスクリームは食中毒の恐れがないように卵を使わず、
缶入りのカーネーションミルク(無糖練乳)を使用して作ってあったそうです。

もしかしたら「アイスミルク」のようなさっぱり系だったかもしれません。

「間宮羊羹、「間宮最中」とともにこのアイスクリームは廉価(皆お金を払って食べていた)
で供給するために大量生産を目標としていましたが、材料、製造法が
正直で真っ当であると艦外からも大変好評であったということです。


さて、というのは前置きで、本題に入りましょう。



アメリカ人というのはアイスクリームが好きです。

ある調査によると、アメリカ人のアイスクリーム消費量は平均年間一人当たり48パイント、
世界で最もアイスクリームをよく食べる国民だそうです。

昔は日本にはアイスクリームだけ売っている店なんてのはなかったのですが、
いつの間にかアメリカの「サーティワン」などが進出してきて、
モールのブース程度とはいえ、専門店が普通に並ぶようになってきました。

しかし、アメリカでは「アイスクリームだけ売っている」店が昔から普通にありました。
これはどういうことかというと、冬でもアイスクリームを食べる人がいたということです。

冬でも食べるのですから夏はもう1日一回はアイスクリームを食べずにはいられないようで、
息子の学校の近くのアイスクリームスタンドに、真昼間なのに老若男女
(車でないと来られませんから)が涼を求めてウィンドウに鈴なりになっています。
こういうのを見るたび、アメリカ人のアイスクリーム好きに感嘆してしまうのですが、
これは軍人であってもいささかも変わりなし。


アメリカ軍では、軍隊の士気向上のためにアイスクリームは不可欠と考えていました。
米国陸軍省が部隊の士気を維持するために不可欠な6項目をリストアップしたのですが、
そのうちの1項目は”アイスクリーム”だったそうです。

まじで。

日本人が白い米にこだわったように、アメリカ軍人はアイスクリームによって鼓舞されたのです。
ちなみにあと5項目がなんなのかは知りません。

陸軍には日系人部隊がありましたが、日系兵士たちもアイスクリームジャンキーであったらしく、
日系人による諜報部隊について書かれたサイトを見ていたら、

「生きた捕虜を連れて行ったら褒賞としてアイスクリームがもらえるように上に説得し」

などという文章が見つかりました。
・・・・この捕虜って日本人のことですよね?



そして、アメリカ海軍。

第二次世界大戦(アメリカの話なのでこう言いますね)のとき、米海軍は、
太平洋で戦う将兵たちのために、100万ドルを費やして
「アイスクリーム・バージ」なる船を作りました。
特務艦の一種ですが、その船の任務はただ一つ。

1,500ガロンのアイスクリームを作り、保存すること。

うーん・・・海軍軍人になってこんな船の艦長に任命されたらどう思うかなあ。
だいたいそんなもん本当にあったのか?とかなり疑問なのですが、
アメリカ人の間でもやはり眉唾扱いされているネタだそうです。
しかし幾つかの文献を当たったところそれはどうやら本当だったらしく1945年に就役し、
「世界初のフローティング・アイスクリームパーラー」と呼ばれていたとか。



その資料らしきものがこれなのですが、どうやら「ナショナル乳業」という企業が
宣伝も兼ねて軍の依頼を受けて作った船みたいですね。
アイスクリームだけでなく他のものも乗せていたみたいで、
1500ガロンではなく500ガロンとなってはいますが、いずれにせよ
この船を見守る兵隊さんの満面の笑顔を見ても、アメリカ人が

「アイスクリームがたくさん!ってことはアイスクリームバージだ!」

とはしゃいで名前を勝手につけたらしいことが薄々予想されます。

はしゃいだと言えば、なんでも戦争中、ある軍艦にアイスクリーム製造機が届き、
嬉しいのではしゃぎすぎて足を骨折、本国に送り返された兵士がいたというくらいでして。

どんだけアイスクリーム好きなんだよ。



間宮さんが人気があったのは特に駆逐艦にない設備が整っていたからでしたが、
アメリカの駆逐艦な野郎たちも

「大型艦にはあるのにうちらにはアイスクリームメーカーがない!不公平だ!」

 

と随分ご不満だったようで、こんな制度を考え出しました。

When destroyers picked up downed pilots they were rewarded with ice cream from the carrier, 
in one particular case, an squadron commander got a destroyer 25 gallons of ice cream :P. 


駆逐艦が海に落ちたパイロットを助けたら、空母からご褒美として
アイスクリームがもらえたというのです。

ある駆逐艦の航空隊指揮官は、25ガロン(約100リットル)
のアイスクリームを褒賞として受け取った、とありますが、
なんでもこの単位は、「助けたパイロットの体重分」という噂です。

いずれにせよ、人命救助のご褒美にアイスクリームとしたあたりにユーモアと良識を感じますね。


このサイトでついでに拾ってきたアイスとは関係ない話ですが、大戦中、
USSオバノンという駆逐艦は、
ある夜の航行で浮上していた日本海軍の潜水艦と遭遇しました。
オバノンはそれまで超近接した潜水艦相手に戦闘をする訓練を
したことがなかったので、
どうしていいかわからず、とりあえずジャガイモを投げたそうです。

日本軍の潜水艦乗員は手榴弾だと思って急いで駆け寄り、即座に投げ返してきました。
その後、息詰まるようなジャガイモの投げ合い・・・にはならず、
オバノンは急いでその場から離脱し、同時に潜水艦の方も沈んで逃げたそうです。



さて、というわけで縷々お話ししてきましたが、ようやく冒頭マンガについてです。
題材が題材なのでアメコミのタッチで描いてみました。(描線を増やしただけですが)

米海軍では空母や戦艦など、大きな船には必ずアイスクリーム製造機が装備されていましたが、
一台しかないので、アイスクリームだけは階級関係なしに並ぶことになっていました。
日本海軍はメニューの手間ですら階級差がありましたし、米軍も基本的にそうなのですが、

ことこのアイスクリームについては万民平等、水兵はもちろん提督であろうが一列に並んで待つべし、
と決められていたというのです。

全ての者はアイスクリームの前に平等である。てか?

ある日、その掟を知らず列の先頭に割り込んだ新米士官たち。
長蛇の列の中から大喝されてそちらをみると、声の主はハルゼー提督だったというお話。


このほかにも、自艦にアイスクリームメーカーを導入させようと、ドック入りのたびに
大変な熱弁を奮ってその必要性を訴え、ついにはそれを成し遂げた艦長がいたそうですが、
きっとこの艦長は、


「あの爺さんのためなら死ねる!」

というくらい乗組員一同の株と士気を上げたに違いありません。
これが負けず嫌いのハルゼー提督なら

「悪いが俺はまだジジイじゃないぜ」

と言われてしまうわけですが。

・・とにかく、どれだけアイスクリーム好きなんだよアメリカ人(呆)

 

 




呉海軍墓地~軽巡「三隈」の避退と艦娘の論理

2015-02-13 | 海軍

呉海軍墓地にある慰霊碑の数々を巡ってお話ししていますが、
慰霊碑をきっかけに海軍艦について調べることによって、
またもや今まで抜けていた知識のピースがはまっていき、
一つの絵が見えてくるように全貌がはっきりしてきたこともあります。

艦の来歴、エピソードなども、こんなことでもなければ書くことありませんが、
艦それぞれを「擬人化」するとしたらその勇壮さにわくわくし、
自分を犠牲に他の艦を守る姿に涙し、ときには声を上げて笑い・・・。

「艦隊これくしょん」のファンがこのゲームをするようになってから
二次的に歴史に興味を持たざるを得なくなった(ファンの誰かがそう書いていた)
というのも
当然のことかもしれない、とわたしは思うようになりましたですよ。
だって、艦暦や時代背景を知らないとゲームはできない(ですよね)し面白くもないから。


ところで、去年の末にこんなことがありました。
北海道新聞が結論ありきで「艦これ」のゲームをする人にインタビューし、

その答えを捻じ曲げて、

「ゲームを通じて戦史を知り旧海軍がかっこいいと思うようになった。
丸腰で平和を訴えても国は守れない。言っても分からない国に対抗するには抑止力が必要」

などと言ったことにし、さらには埼玉大の一ノ瀬俊也准教授(43)=日本近現代史=とやらに

「祖国を誇りたい気持ちがゲーム人気につながっているが、ゲームで戦うのは自分ではなく少女。
他者に守られたい気分が、勇ましい政策への漠然とした支持に流れている」

とか言わせ、一面囲み記事にしたのです。


最初からマスコミの囲み記事など記者の思想宣伝にすぎん、
という認識を持っている者には
「ああ・・」と察してしまうありがちな記事にすぎませんが、
これが果たして記者の創造、
いや捏造記事であったことは、この後このインタビュイーが
実際にネットに降臨して、

「こんなこと自分は言っていない」と言明したことで裏付けられたという顛末です。

つまりこの准教授とやらの分析には「何の意味もない」ってことになったわけですが、
北海道新聞の御用記事専門らしいこの准教授の背景はさて置おいて(笑)、
問題は北海道新聞が、これをウルトラ三回転半左ひねりで、見事な

「安倍自民と集団自衛権への批判」に持って行ったってことなんですね。

しかも記事が書かれたのは12月5日、つまり参院選前でした。
利用できるものはゲームすら利用して自民を叩く、さすがは赤い大地の新聞社。
そのタイトルもすごいですよ。

「安保 丸腰で国は守れない」「勇ましさ求める」「それ 本当の強さですか?」

ときたもんだ。
タイトルで自己完結してやんの。もしかしたら それ 本当の”度し難い”馬鹿ですか?

(”度し難い馬鹿”は最近尊敬するある方が使っていたので個人的にウケた表現)
「勇ましい政権を支持している」のはイコール「艦これ」のゲーマーなんですか?
記者的には「艦これ」ゲーマー(提督といってあげてね)イコール安倍政権支持なんですか? 

だとしたら「艦これ」、侮れん。
一国の政治をムードすら変えて動かせるほどの、ものすごい潜在競技人口なんですね。


と相変わらずマスゴミ批判に流れてしまいましたが、本題と参りましょう。
冒頭写真は

重巡洋艦「三隈」戦没者慰霊碑

ところで、以前この「海軍墓地シリーズ」でお話ししたことがある

「第四艦隊事件」

を覚えておられますでしょうか。
事件などというから不祥事でも起きたのかと思ったら、

台風の中訓練に出た第4艦隊41隻のうち19隻になんらかの損傷が起きた

という、つまり海難事故だったんですね。

海軍はなんでも一応「事件」と称することによって、大事故や山本五十六の戦死を
すぐにそうと分からないようにしていたようですが、(たぶんね)
この場合は、
単なる不運な海難事故ではなく、軍艦設計のミスという
海軍を震撼させる事実が露わになった、
やっぱり「事件」と言うべきものでした。


第4艦隊事件の場合、まず、異常な規模の台風が来ているのに「これも訓練だ!」
と演習を中止せず
艦隊丸ごと嵐の中に突っ込んでいった、という判断が大間違いだったってことになりますが、
そもそも最悪の非常時を想定して訓練するのは、軍として当たり前の行動です。


問題はこの嵐で多くの艦のとんでもない設計ミスが露呈してしまったことなのです。
このときの損害を列記しておくと、

空母「鳳翔」 前部飛行甲板損傷
空母「龍驤」 艦橋損傷
重巡「妙高」 船体中央部の鋲が弛緩
軽巡「最上」 艦首部外板にシワ、亀裂が発生
駆逐艦「夕霧」「初雪」 船体切断、艦首喪失
駆逐艦「睦月」 艦橋圧壊、艦首損傷
駆逐艦「菊月」「三日月」「朝風」 艦橋大破
駆逐艦「白雪」「朧」 艦首屈曲
駆逐艦「潮」「曙」「叢雲」 艦尾歪み亀裂
駆逐艦「天霧」「白雪」「薄雲」 船体小破
潜水母艦「大鯨」 船体中央水線部、艦橋前方上方外板に大型の皺

とくに悲惨だったのは最新型であった「吹雪型」の駆逐艦、
「夕霧」「初雪」の船体切断、艦首喪失でした。

「初雪」は艦首の部分がすっぱりと切れて海に落下したのですが、
この中には暗号解読表などの機密書類を保管している電信室があったため、
無事だった重巡「那智」が曳航を試みたのですが、あまりにも波が高く断念。


そして漂流して敵の手に渡ることを恐れ、これを艦砲射撃で沈めてしまっています。
まだ中に生存者がいたのにもかかわらず・・・。



ところで、何故「三隈」の項でこの話をしているかというと、
このときに「三隈」が第4艦隊にいてこの強風でも無事だったからですが、
これにはちょっとした「三隈」の幸運があったのです。

実はこの第4艦隊事件にさかのぼること1年半まえの1934年3月12日、
佐世保港外にて水雷戦隊が行っていた荒波の中での演習中、

「千鳥」型水雷艇の「友鶴」が、設計上は耐えられるはずの荒波で転覆してしまうという

「友鶴事件」


が起きました。
千鳥型水雷艇「友鶴」が転覆したという事故で、乗組員113人中死者行方不明者100人、
という痛ましい結果となったのです。
この事故原因、実は1930年の「ロンドン軍縮条約」にありました。



海軍はこの条約によって、戦艦のみならず巡洋艦や駆逐艦など、
補助艦艇の保有にも
制限を加えられることになったため、制約外だった小さな艦艇に
駆逐艦以上の重武装を施し、これを「水雷艇」としました。
「艇」といいつつ実質小型駆逐艦の様相を呈していたわけです。

つまり簡単に言うと、これがとんでもないトップヘビー設計で、元性がなく、
水雷艇「友鶴」は
強風で40度傾斜しただけで転覆してしまったのです。

佐世保鎮守府司令長官米内光政の命により、徹底した調査が全艦に対して行われたのですが、
ちょうどこのとき
進水式をつつがなくすませ、艤装工事真っ最中だったのが、
そう、「三隈」でした。


「友鶴事件」の影響はあまりに大きく、「友鶴」を設計した艦政本部藤本喜久雄少将
手がけた最上型(つまり「三隈」の型ですね)は全て設計が見直され、
まず「最上」の船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかったため、
急遽「三隈」も同部分の補強を兼ねて工事のやり直しがなされたのでした。

ちなみに藤本少将はこの後全ての責任を負い、心労のためか翌年死去しています。
責任は少将一人にあったわけではなかったと思うのですが・・。


つまり、「第四艦隊事件」で「三隈」が損傷を受けたとはいえ「初雪」のような
重篤な損害に至らなかったのは、この時補強工事が施されていたからともいえます。
ただし、やはり「友鶴事件」の後修理された「最上」は、上の表でもおわかりのように、

艦首部外板にシワ、亀裂が発生

という、これも欠陥設計としか思えない損傷が生じていますから、
もしかしたら「三隈」は幸運だっただけかもしれません。
不幸中の幸いでこのとき沈没した艦はありませんでしたが、一つ言えるのは、
艤装時に補強していなければ、「三隈」は
沈没していた可能性もあるということです。


この時の教訓は海軍に生かされ、同型の事故は以後起こらなくなりました。
海自はこのときの「トップヘビー恐怖症」の伝統もしっかりと受け継いでおり、
トップヘビーな近隣諸国の軍隊の軍艦を心から心配しているそうです。

何も起きないといいですね。・・・あ、彼の国の民間船はもうひっくり返った後か・・。

三隈

さて、先ほどの「艦これ」でいうと、「三隈」の「運」は5です。
この5というのがどういうレベルかゲームを知らないわたしにはわからなかったので、
とりあえず「雪風」を見てみたところ、こちらは50。つまり50点満点のようですね。
どうやら「三隈」はかなりの不運艦だと見られているようです。

第4艦隊事件ではある意味幸運だった、と言ったばかりのわたしの立場はいったい・・。

れはともかく「三隈」の運が5点とされている理由は、その最後でしょう。
ミッドウェー海戦で「三隈」は第7戦隊の3番艦として単縦陣を組み航行していました。
旗艦の「熊野」にいたのはあの「謎の反転」で有名な少将(当時)です。

そのとき。
米潜水艦と会敵した(と思った)ため、戦隊は一斉に左回頭を行います。


旗艦の「熊野」が発した「左45度一斉回頭」という2回の命令が
2番目の「鈴谷」、「三隈」、最後尾の「最上」つまり全艦に混乱を引き起こし
隊列が乱れた後「最上」が前を横切る「三隈」に突っ込む形で衝突してしまいました。

その衝撃は凄まじく、ほぼ全員が被弾したと思ったくらいで、
「三隈」の艦体にまともに突っ込んだ「最上」は艦首が潰され、「三隈」の方も
ぶつかられた方の左燃料タンクが破損するという損害を受けます。

その後栗田少将は、衝突した両者にトラック島に帰還するように命令しました。


いまや「三隈」は「最上」を指揮する形で、手負いの二隻による航行を続けていました。
「三隈」の破損されたタンクからは、まるで目印のように油が海面に筋を引いています。
それを発見した偵察機からの連絡を受けて、彼女らに米軍の急降下爆撃機12機が襲い掛かりましたが、
この時の攻撃で両者には大きな損害はなく、逆に米軍機を対空砲で撃墜しています。

問題はこのあとです。

「三隈」は傷付いた「最上」に駆逐艦「荒潮」「朝潮」を護衛につけ、
3隻を残して単独で退避行動に入ったのです。
これって・・・・・つまり、

「三隈さんは足手まとい(最上さん)を駆逐艦に押し付けて自分だけとっとと退避した」

ってことでいいですか?

「羨望の思いでそれ(三隈の離脱)を見送った」

という最上乗員の証言があるのでそうだったと考えてもいいかもですね。


が、「三隈」の離脱前、この二隻と駆逐艦2隻を「空母と戦艦の艦隊」と米軍索敵機が誤認したため、
米軍は大編隊の艦載機を、この傷だらけの艦隊に差し向けてきていました。(T_T)

次々と襲い来る艦載機の攻撃は、「最上」より動き回って反撃してくる「三隈」に集中し、
・・・・・ついにその命運尽き、彼女は大破することになります。

wiki

「荒潮」がすぐさま生存者の多く(250名)を海から救出しますが、
そこに米軍機が来て、海面の乗員や救助中の短艇に執拗に銃弾を浴びせました。
この銃撃で「荒潮」からも戦死者が35名出ています。




この写真は戦果確認にきた米軍機によって撮られたものですが、
彼らはすでに「最上」と駆逐艦二隻は発見することはできませんでした。


夜になって「朝潮」が生存者の救助のために
「三隈」のもとに向かいますが、
もうその時には海面に彼女の姿は影も形もありませんでした。


誰にも見られずに海の底に消えて行った後だったのです。


『三隈は損傷なく専ら最上の援護に当たりしつつありしに、其身反りて斃れ最上の援護の目的を果たす。
右両艦の運命こそ奇しき縁と云うべく、僚艦間の美風を発揮せるものなり』
(宇垣纏 戦藻録)

宇垣長官は
「三隈」が「最上」を援護するために自分の身を犠牲にした、
とどうも思っているような言い方です。・・っていうかそう思ってますよね?

確かに結局「最上」は「三隈」に攻撃が集中したことで生還できたわけで、
それをもって「三隈」は結果的に「最上」の援護をなしえたことになるのですが、
一度「三隈」は自分だけ避退しているわけだし・・。


ここで、わたしたちは「熊野」や「三隈」を「オカの倫理」で・・・、
そう、彼女らを「艦娘」たちで擬人化するように、その艦隊行動を人間社会の倫理で裁いてしまいがちです。

「熊野」は無傷の「鈴谷」を連れて自分たちだけ逃げた。
「三隈」は「最上」を置いて自分だけ逃げた。

これだけ見ると決して宇垣長官の言葉にある「美風」とはとても言えません。


戦時下に決断を下すとき、艦を動かす人間はまず合理性で判断します。
「最上」を守るために無事な艦まで残って全滅する、という可能性を考慮して避退するとか、
燃料が漏れている「三隈」に「最上」は守れないと判断して避退するとか。

軍艦を走らせるためには燃料がいることや、戦闘行動は何十時間も続けられない、
いう海の上の基本が時としてこのような一見非情な判断ともなるわけです。



例の栗田反転にしても、臆病だったと非難するのが後世のムードとなっており、
このため、このときの栗田少将のとった「熊野」の行動までもを非難する意見があります。
(後ほどこの件について検証したところ、わたしも非難するしかなかったのですがそれはさておき)

「あれは結果論であり、謎の反転でもなんでもない」と、現場にいた谷川澄人氏などが言うように、
「戦時の理論」それに加えて「海の上の理論」という、平時や陸のそれとは違う
「軍艦の行動論理」があることを、我々は評価する前に考慮してみてもいいかもしれません。


旧軍軍艦を美少女に擬人化し、感情移入することでさらなる楽しみを得る「艦これ」ですが、
現代の、そして陸の倫理で読み解こうとすると
理解できなくなる「艦娘」の行動もありそうです。








キャッスル航空博物館~B-52「成層圏の要塞」

2015-02-12 | 航空機

去年の8月、カリフォルニア滞在中に車で約2時間南に下った
アトウォーターという内陸の町にある

キャッスル航空博物館

を見学してきました。

相変わらず遅々として進んでいませんが、時折こうやって
思い出したように
ここで見た航空機についてお話を続けています。
終わらないうちにまたもや別の航空博物館のシリーズが始まってしまい
尻切れとんぼに終わってしまいそうですが、努力はします。



キャッスル航空博物館は広大な飛行場後の敷地に軍用機中心に航空機が

常時60機以上展示してあるという米国でも有数の航空博物館ですが、
片隅にはこのような資料館もあり、こちらも大変充実しています。

冒頭写真は、当博物館室内展示のB−52コクピット。

 


博物館の外側に回ったところはこうなっています。
実際のB−52のコクピットの部分だけ切り取って、
博物館の建物に組み込んでしまっているんですね。
トレーラー状のものと溶接して室内から見学できるようにしてあります。



さすがに上空を飛んでいるかのようにコクピットを書き割りで囲む、
などという芸当まではできなかったようです。
こういう展示物は航空協会だけでは無理なので、常に寄付を募っているのですが、
有志企業によるドネートで展示物を制作するという例もあるようです。



CPTはコクピットのことです。
カウンティバンクという銀行による寄付による展示であると宣伝しています。

 

B−52は頭文字”B”、つまりボーイング社が開発しアメリカ空軍に採用された戦略爆撃機です。
愛称は「ストラトフォートレス」。
「ストラト」は「strategy 」、つまり「戦略」からきているのかと思ったのですが、
実は”stratosphire”から取った

「成層圏の要塞」

という意味なんだそうです。なるほどー。



ここの野外展示にもB−52がありますが、あまりの巨大さに
かなり離れないと全体の姿がフレームに収まりません(笑)

当航空博物館を俯瞰で示した案内図を見ると、展示航空機の中でずば抜けて大きく、
最も場所を取っているのが、


コンベアのRB-36H「ピースメーカー」。



次いでこのB−52です。
アメリカ軍が大陸間爆撃機の航続力に亜音速の速度性能を備えた
大型機を、冷戦下にソ連圏内の目標を爆撃するために開発しました。



実際にはベトナム戦争で冷戦時代予期していた核爆弾による攻撃ではなく、通常の絨毯爆撃を行い、
(アメリカ以外には)

「死の島」

と恐れられました。



冷戦下で、ソ連による奇襲核攻撃を恐れたアメリカは、
複数のB−52をつねに滞空してパトロールさせることにより、
万が一ソ連が核攻撃を行った場合にも航空機の全滅を避け、いつでも
報復核攻撃を可能としているというアピールをしていました。

つまり
B−52に核を積ませて常時4~5機国境圏内をうろうろ
させていたわけです。

そんなことして落ちたら危ないやないかい!

と思わず今頃突っ込んでしまったあなた、あなたは正しい。

実弾頭の核兵器を搭載してのパトロールは、一度ならず二度ならず
複数回、墜落事故を起こして その度に放射能事故にまで発展し、
そのうち最大の事故となった

チューレ空軍基地米軍墜落事故

では核弾頭が破裂、飛散して大規模な放射能汚染を引き起こし、
事故のあったグリーンランドを所有していたデンマーク政府との国際問題に発展するわ、
環境汚染は拡大するわ、除去作業に関わった作業員に賠償請求されるわで、 
これはもうソ連に取っては奇貨とでも言うべき敵の(
文字通り)
自爆だったわけですが、しかしさすがにソ連はこの事件をターザンの石と考えず、

「核戦争の危険を低減する方策に関する合意書」

に合意したため、両国で調印に至っています。
相手が腐っても文明先進国で、良かったですね。

めでたしめでたし。(棒)




通常爆弾が多数搭載できるように改造されたB−52。

これは、1956年、偵察機能を削除して長距離爆撃機に特化した機体で、B−52D(6モデル目)です。
ほとんどがベトナム戦争に投入されたもので、ここに展示してある機体もそうです。



同年代に制作されたB−52は170機と大量で、このキャッスル航空博物館始め
多くの機体が現在も展示保存されています。



大理石にみっちりと彫り込まれた気合いの入った碑文。

これはベトナム戦争でおこなわれた

アークライト作戦

の誇らしい説明文です。
グアムのアンダーセン空軍基地から飛来した27機がベトコンの拠点に対し
1,000ポンドおよび750ポンド爆弾による攻撃を行ったというもので、
おそらくベトナム人が見たらドン引きすると思われますが、
アメリカ人というのはほら、たとえばドゥーリトル空襲のことだっていまだにやたら誇らしげに語り、

「ドゥーリトル空襲記念日に皆で集まってパーティしよう!」

なんてやっちゃう国民ですから。
日本ほど自虐的になる必要はないけど、もう少しこのとき絨毯爆撃で亡くなった
非武装の民間ヴェトナム人に対して遠慮してもいいんじゃないかな、と思うの。




ここに展示されているこれらの爆弾も、そのときに使用したものを再現しているようです。
1965年から1973年までの間、「アークライト作戦」に従事したB−52は、
碑文によるとおよそ13万回に亘る出撃回数に90万の飛行時間、投下爆弾は900万発に及びます。



操縦士、レーダーナビなど最後のクルーの名前が刻まれています。
因みに操縦士はアル・オズボーン大尉、ナビはフレッド・フィルズベリー少佐。
ナビが機長より上官のようです。
真珠湾やマレー沖海戦のときの爆撃機も偵察が士官(真珠湾は淵田少佐)でしたが、
アメリカでもこういう組み合わせは少なくなかったようです。




それでは今一度室内展示に戻りましょう。
1957年の「ライフ」の表紙を飾るのは

「45時間で世界一周」

と言うタイトルがかぶせられたB−52の勇姿。
下のクルーの写真はやはり「ライフ」からで、レーダー・オペレータの中尉だそうです。
しかし、この模型を見ると、この機体の巨大さが改めてわかりますね。



このキャッスル航空博物館のあるのはアトウォーターという市ですが、
この「アトウォーター・シグナル」という新聞が伝えるのは、B−52の墜落事故のことです。



1956年の2月、カリフォルニアのストックトンとトレーシーの上空で
乗員8名のB−52ストラトフォートレスが爆発墜落、4名がパラシュートで脱出、
4名が殉職したという事故がありました。

8ヶ月前から運用されたこの機体の初めての航空事故で、
機長のフレミング少佐の遺体は散乱した機体とともに発見され、
遺体にはパラシュートを付けていた痕跡が あったことから、脱出時
パラシュートに火が燃え移り墜落死したことが判明しました。
フレミング少佐にはキャッスルガーデン(基地内の軍人用居住地?)に
妻と三人の子供 がいることなどがこの記事に書かれています。

ここに展示されているのは、生還した4人の一人で 後尾射撃手だった
ウィラード・ルーシー軍曹(写真)が事故時使用したパラシュートと、
そのときに被っていたヘルメットなどの装備品です。 



ハリウッド映画がここをロケ地として撮られたことがありました。
日本では上映されず、DVDも発売されていないのでご存じないと思いますが、そのものズバリ、

「B−52爆撃機」(Bombers B-52)



この映画の撮影は全てキャッスル空軍基地だった頃の当地で行われました。
導入されたばかりのB−52を実際に登場させる目的があり、
キャッスル空軍基地にはB−52の部隊が配備されていたからです。

この映画は、B−52が導入されようとしていたころのアメリカ空軍を舞台に、
機体のテスト飛行での危機に立ち向かうクルーと、彼らを取り巻く人間模様を描きます。



この出演者の中で日本人に有名なのはヒロインのナタリー・ウッドでしょうか。
「ウェストサイド・ストーリー」の出演と、その謎に満ちた死で有名な女優ですが、
(彼女は水死体で発見され、いまだに殺人事件であるという疑いは消えていない)
しかし、その他にもエフレム・ジンバリスト・Jr.などが主演しているというのに
どうしてこの映画が日本未公開であるのか全くの謎です。

ナタリー・ウッドはカール・マルデン演ずるベテラン曹長、ブレナンの娘、ロイスの役。
お約束ですが、父親の機のクルーであるニックネーム「ホットショット」
ジム・ハーリー中佐とお付き合いをしていて、案の定意味もなく反対されているという設定。

どうして曹長の部下に中佐がいるのかはわかりません(笑)



ブレナン機長たちが、B−52の導入を空軍にためらわせている技術的な問題を
何とかして解決しようと奮闘努力するというのが話のコアになっています。

ある極秘のテスト飛行で、空中給油の後に
コントロールパネルのショートから火災になったブレナン機。
自分の命を賭してクルーの命を救おうとしたハーリー中佐の姿を見て、
ブレナン機長は、娘との交際と、ついでに彼の技量を初めて認めるのでした。

・・・・ん?

この事故内容は、先ほど新聞記事になっていたアトウォーターでの事故と全く同じなんですが。

映画は事故の翌年の1957年の公開となっていますから、
空軍かボーイングか、あるいはそのどちらもが、
この事故後のB−52への世間の批判を払拭するために仕掛けたプロパガンダ目的の映画だったのかな、
sとふと考えたり。



衣装も靴も、アクセサリーですら皆展示されています。

館内ではDVDで映画が放映されていましたが、一種のパニック映画のような造りで、
特に事故シーンはなかなか面白そうだと思いました。

ブレナンが、好条件で民間飛行機会社からの誘いを受け、
彼が愛する空軍の生活と高報酬のどちらを選ぶか板挟みになる、というのが話のクライマックスのようです。

その結果はネタバレになるため英語版のWikipediaにも書かれていませんが、
常識的に考えれば彼がどちらを選ぶかは分かりきっています。
意表をついて案外あっさり高収入の道を選ぶ、というオチも案外アリかもしれませんが、
日本ではそれを知るすべはありません。


どなたかこの映画をご覧になったことがあればぜひ教えて下さい。
別にどうしても気になって仕方がないというわけではありませんが。