ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「宜しい」と第六潜水艦煎餅〜海上自衛隊岩国航空基地史料館

2019-02-04 | 海軍

岩国基地に訪問し、まず群司令との会談に続き、レクチャーを終えたのち
一旦司令に挨拶をして車に乗り込みました。
見学ツァーの最初は、岩国基地にある資料館です。

あ、ところで忘れないうちに書いておきますが、群司令との会談中、
ふと部屋の隅を見ると、以前呉地方総監伊藤海将表敬訪問の際と同じく、
何やらメモを取っている自衛官がいました。

公式の訪問ですので、そこでどんな質問が出てどんな会話になったか、
自衛隊では逐一記録に残すことになっているのは知っていましたが、
あまり変なことを言ってそれが記録として残るにはしのびず、
ちょっと緊張したことをご報告しておきます。

 

さて、資料館見学は岩国基地見学に必ず含まれるコースのようです。
決して大きなものではありませんが、旧軍時代の資料と自衛隊になってからの
二箇所に分かれた、非常に充実した資料館でした。

 

ここ岩国があの佐久間大尉の第六潜水艇殉難の地だったこともあり、
資料館の最初の部分には第六潜水艦関連の資料が展示されています。

冒頭写真は、事故後建立された慰霊碑の実物だと思われますが、
劣化しやすい材質の石碑だったらしく、文字が解読不可能になり、
その後取り替えられたためここにあるのではと思われます。

掠れて読めなくなった文字を書き起こしたパネルが横にありました。

ホランド級潜水艦を改造した第六潜水艇は、事故を起こした時、
安全上から禁止されていた「ガソリン潜行実験」の訓練を行なっていました。

このパネルには「半潜行訓練」とありますが、つまりガソリンエンジンの
煙突を海面上に突き出して潜行運転を(シュノーケル状態?)していたのです。

沈没は、何かの理由で煙突の長さ以上に艇体が沈んでしまったのに
運悪く閉鎖機構が故障していたため、手動で閉鎖するも間に合わず、
着底してしまったということになっています。

この資料館を見て初めてわたしも知ったのですが、第六潜水艇の沈没位置は
ここ岩国港の至近距離だったそうです。

岩国基地を辞去した後、わたしは車を運転して国道二号線を呉に向かいましたが、
その途中、道路脇に「第六潜水艇記念碑」の看板を見つけました。

岩国の水交会などが殉難の地を見下ろす丘に、記念碑を建てていました。

第六潜水艇記念碑

事故後潜水艇が引き揚げられ、愈々ハッチが開けられることになった時、
内部の阿鼻叫喚の様子を想像した人々は、そこに、全員が持ち場を守り、
最後まで自分の職責を全うして死んでいる潜水艇乗員の姿を見た・・・。

何度も物の本や資料で読んだこのストーリーも、遺品を目の前に
自衛官から説明されると、新たな感動と彼らへの敬意が起こらずに要られません。

実はこの呉訪問でお会いした元自衛官とも、偶然ですが第六潜水艇の話になり、
さしものわたしも知らなかったこんな話を伺いました。

「今でも海上自衛隊は『よろしい!』という言葉を使いますが、
それは第六潜水艇の事故以来海軍で使われてきた言葉なんですよ。

最初に第六潜水艇の中を確認した基地司令が、整然と持ち場で死んでいる
乗員の姿を認めたとき、滂沱の涙を流しながら敬礼しつつ
『宜しい!』と言ったのが、その最初だったそうです」

海自の「宜しい」は、例えば

「気を付け!」「敬礼!」「直れ!」

まで言った後、「よろしい!」そして「着け!」というように使います。
上から下への「グッド」という意味ではなく、ここでは
「できました!」みたいな状況で下から報告する時に使うのですが。

昔から「宜しい」は実に海軍らしい言い方だなと思っていたのですが、
第六潜水艇が「事始め」だったとは知りませんでした。

潜水艇の中にあった佐久間大尉の洗面器(真っ黒)や
副長だった?長谷川中尉の制帽の箱までが展示されています。

第六潜水艇の乗員が殉職していた位置図です。
全員が各自の持ち場にいただけでなく、そうでなかった二人は
故障箇所にいて、最後まで艇を何とかしようとしていたそうです。

佐久間艇長は最後までこの図で見る「艇長腰掛け」に座って
あの遺書を書き認めていたようですが、絶命してから落下し、
その真下の床に横たわっていた、とされています。

自筆ではなくコピーですが、佐久間大尉の遺書もありました。
これは艇内で絶命する瞬間まで書き連ねたあの遺書ではなく、
両親に向けて送られた「武人の覚悟」ではないかと思われます。

全世界にその見事な死に様を賞賛された佐久間大尉とその乗員たちですが、
事故の原因については、

「母船が異常を報告しなかったのは、日頃から佐久間大尉が
母船との打ち合わせを無視しがちで、さらに異常を報告して
何もなかった場合、佐久間艇長の怒りを買うことを恐れたから」

とか、

「佐久間大尉は過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたため
禁じられていたガソリン潜行の実施を行い、しかも母船に報告していなかった」

という調査結果が出されています。
この辺は命を預かる艇長として責任を問われるべきだと思うのですが、
その従容と死に向かった姿が全てを白紙にした感があります。

岩国名産「六号煎餅」。
煎餅に潜水艦か佐久間艇長の顔が焼いてあるとか?

呉の鯛乃宮神社には第六潜水艇殉難者之碑があり、毎年、事故のあった日に
海上自衛隊主催で追悼式が行われているそうですが、平成29年度は
1日早い14日だったようです。

 

さて、続いてのコーナーは「予科練」です。
岩国では飛行予科練の教育が昭和16年から18年にかけて行われていました。

岩国での一期生は1,200名だったそうです。
最初に着隊して被服を支給され、憧れの「七つボタン」を受け取りますが、

「ヘエーこりゃダブダブだ服に体を合わせろ!」

「服に体を合わせろ」というのは、上から言われた言葉だそうです。

タスキをかけ、脚絆を巻いて錦帯橋まで行軍訓練(左)
座る時には膝を広げ、両手を拳にして膝に乗せる。

現在も海上自衛官は(陸海空全員かな)同じ姿勢です。

飛行服姿の記念写真(左)。
休んだ人は右端に大アップで写真が残ります。

右は宮島まで行軍した時の記念写真。
よく見ると前に鹿がいますが、皆ニコリともしておりません。

海軍兵学校の岩国分校があった時期もありました。
終戦近くなり、なぜか大量に増やされた海軍兵学校の生徒。

わたしはこの措置を、

「もう勝つことがないと戦局を冷静に判断した海軍首脳が
負けた後国を興すための人材を大量に養成しようとした」

という理由によるものと考えていますが、その是非はさておき、
いわば「疎開」状態だった岩国分校の生徒は大変だったようです。

終戦時には75期生から最後の77期生まで、
3校で1万名を超える海軍士官の卵が学んでいた。
入校式で吊る憧れの短剣は輸送途中に空襲で焼失、借り物で済まし、
純白の夏制服は緑色に染められ、酒保・甘味品もなし。

確か、食べ物もなく病気が多数発生したという話も。

兵学校で使われていた教科書が残されていたようで紹介されていました。
「ジュットランド」とありますが、これは「ユトランド沖」のことですね。

確か模型展覧会の見学の時にお話ししたと記憶しますが、第1次世界大戦で
あの「インヴィンシブル」「クリーンメアリー」などが沈んだ海戦でしたね。

物理の教科書。
「爆撃の弾道」とか、科目も実に実践的です。

物理の教科書には赤ペンで書き込んだ持ち主の計算式が・・。

予科練出身で「瑞鶴」飛行隊勤務になった人の寄贈した写真。
二列目真ん中で椅子に座っているのが士官で、その真ん中が
飛行隊長であろうと思われます。

にしても皆若いですね。

この後、構内を車で回っていて、古い建物を指さされました。

「あの入り口で撮られた有名な連合艦隊司令部の写真があります」

真珠湾攻撃の前、11月12日に作戦会議が行われた建物は
今でも岩国基地構内にあって米軍が使用しています。

前回、米海兵隊のパイロットであるブラッドとその妻に
構内を案内してもらった時、零戦の掩体壕の中を見せてもらいました。

これによると、岩国基地には零戦22型が配備されていたようです。

新聞による連載記事で、ここ岩国にあった
旧海軍第11航空廠岩国支廠を、「地下飛行機工場」について
現状(昭和62年当時)に始まり、開設に至るまでの経緯、
農家を強制的に接収し、呉の設営隊を千人投入して掘削を行い、
小・中学生まで夏休みに駆り出して作られた、ということが書かれています。

ここでは「彗星」「紫電改」などを生産していたのですが、
機体が完成する前に終戦になってしまい、結局生産するには至らなかったと。

終戦となった空廠では、進駐軍に備え証拠を隠滅する作業が行われました。
戦後の食物不足の時にはここで豚飼育が行われ、子供達には
格好の遊び場となっていたとか。

戦後トンネルが崩落仕掛けて上にあるトンネルに亀裂が走り、
放置してあるのは「行政の怠慢だ」という住民も登場します。

最後にはこの遺跡を残す地元民の声が紹介されています。
証言している人々はどちらかというとノスタルジーから「青春を懐かしんで」いるのに、
新聞は相変わらず「悪夢の遺跡、後世に残すべき」と平常運転。

海軍時代の看板がそのまま残されています。

「呉海軍施設部 岩国施設工事 藤生愛宕分遣所」

海軍空廠が建設されていた頃、呉から施設隊が派遣されていたようです。

 

現在の空廠の跡は、「悪夢の遺跡」として公開されることなく、
在日米軍の弾薬庫となっています。

 

 

続く。

 

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二人の艦長〜インディアナポリス轟沈と伊号58

2018-07-30 | 海軍

メア・アイランド海軍工廠跡の博物館の一隅でわたしは足を止めました。
あの戦艦「インディアナポリス」が彼女の運んだ原子爆弾について、そして

彼女を轟沈した伊58潜水艦とともに紹介されていたからです。

それは73年年前の今日、1945年7月30日の出来事でした。

アメリカ海軍の戦艦を攻撃した帝国海軍の潜水艦長と、攻撃を受けて
沈んだ戦艦の艦長だった二人の指揮官について、お話ししようと思います。

戦艦「インディアナポリス」はニューヨークのカムデン生まれ。

開戦後ニューギニア始めアリューシャン、マリアナ諸島、フィリピンと
太平洋に派出されては次の任務まで、ここメア・アイランド海軍工廠で
オーバーホールを受けてきて、ここが「ホームグラウンド」でもありました。

メアアイランド海軍工廠に入渠時の「インディアナポリス」です。
この時工廠では白丸で囲まれた部分の換装が行われました。

って、これ艦橋全部ですよね。

 

メア・アイランド海軍工廠は、原爆投下のための重要な役割の一部を担っています。

ヴァレーホ在住で35年間メア・アイランドで艤装に携わってきた
エディ・マルチネスは、1945年、サイクロンフェンス(クリンプネットの鉄条網)
がある日工廠の北端にある武器倉庫No.627Aの周りに巡らされ、10日後には
犬を連れた海兵隊がフェンス周りを警備するようになったのを目撃しています。

何年かして当時の極秘資料が公開されたとき、マルチネスは原子爆弾のコンポーネント、
周辺器具がメア・アイランド経由で梱包され積み込まれたことを知りました。

資料によるとメア・アイランド海軍工廠は南方に輸送するために精密機器を扱うのに
特殊な技術を持っていて、それが評価されたということになっています。
そして単独の、独立した建物が御誂え向きに島の端にあったということでしょう。

2ヶ月後、建物と柵は撤去され跡形も無くなりました。

この写真は1945年7月10日、メア・アイランドを出航する「インディアナポリス」。

メインのオーバーホールをここで受けた後、彼女は「極秘任務」として
サンフランシスコ東海岸にあったハンターズポイント海軍工廠で、
核実験(トリニティテスト)を数時間以内にしたばかりの濃縮ウラン、
広島に投下予定の原子爆弾に搭載するための濃縮ウランを積み込み、
サンフランシスコからパールハーバーに7月19日に到着しました。

その後テニアンに向かい7月26日到着、「積荷」を降ろし、
28日にレイテに向かいました。

その航路途中、7月30日、橋本以行艦長率いる帝国海軍の伊号58潜水艦の魚雷を受け、
わずか12分(5分という説もある)で「インディアナポリス」は轟沈しました。

ここにある展示の説明は、

インディアナポリスがメア・アイランドのドライドックに入渠中、
戦争省は今まで一度も使われたことのない「爆弾」を運搬する船に
彼女を指名したが、その理由は彼女の速度であり、能力であった。

ニューメキシコのロス・アラモスで進められていた「マンハッタン計画」を
実行に移すことが決定したのは7月16日のことであった。

同日の早朝、厳重に秘匿されてはいるけれど多くの提督が、将軍が、
そして技術者たちが布で覆われた原子爆弾が「インディアナポリス」に
積み込まれるのを凝視していた。

とあり、これもまたwikiとは日付が違っていて困ったものです。
7月16日といえば、インディアナポリスは太平洋上を航海中だったはずなんですが。

いくつかの大きな木製木箱が好奇心をあからさまにする人の目から
隠されるように艦内に積み込まれ、艦内の一角に安置され数人の警備がついた。

映画「インディアナポリス」には、好奇心を隠せない水兵が、警備の海兵隊員に

「中身は?マッカーサー将軍のトイレの紙って聞いたけど」

と冗談をいって睨まれるシーンがあります。
ちなみに、この海兵隊員(生存)は水兵(生存)に

「なんでマリーンに来たの?」

と聞かれ、

「To kill people.」(人を殺すためだ)

とにこりともせずに答えます。

 

「インディアナポリス」総員の出港前記念写真。

こちらは映画の全員で写真を撮るシーン。
こういう写真では兵たちは砲の上、艦橋にくまなく乗って写っているものですが、
それをしなかったのは・・・後ろの戦艦がCGだったからかな?

二つの爆弾の「心臓」はウラニウム−235で、鉛で封印された
金属コンテナに収められ、アドミラルキャビンの中に滑り止めをつけ、
デッキに溶接された台に安置された。

ということはですね。

よく歴史の”if”で語られるように、伊58の攻撃がもう少し早く、
つまりテニアンに着く直前であったなら、間違いなく
原子爆弾は
艦と共に海の底に沈んでいたということでもあります。

この原子爆弾二基のために、地球上に存在するウラン量の半分が
濃縮されたともいわれており、したがってさしものアメリカにも
追加で原爆を製造することは不可能だったのではないでしょうか。

原子爆弾の中身の図解がありました。

5番の赤い部分にあるのがウラニウム235で、
一枚26kgのリングが6個重ねてあり、先端の赤い部分には
38kgのリングが二枚内蔵されています。

8月6日の広島に続き、三日後の8月9日、「ボックスカー」から投下された
「ファットマン」が長崎に投下されました。

「ボックスカー」

しかし、その時には、原子爆弾をテニアンに運んだ「インディアナポリス」は
10日前に帝国海軍の潜水艦に撃沈され、もうこの世にはありませんでした。

「HIJMS」とは艦船接頭辞です。

帝国海軍を表すのにはIJN「Imperial Japan Navy」というのが一般的ですが、
英語圏の著述者には、たまにこの

「His Imperial Japanese Majesty's Ship」

を意味する略称を日本の軍艦を表す接頭辞に使用する人がいます。

それはともかく、ここで紹介されているI-58、伊号潜水艦58が
「インディアナポリス」を沈めました、と書かれています。

伊–58艦長橋本以行(もちつら)中佐の写真もありました。

ところで冒頭の絵は、映画「パシフィック・ウォー」(この邦題のセンスの無さよ)
を観て、わたしがどうしても描いてみたいと思ったシーン。

ニコラス・ケイジ演じる

チャールズ・バトラー・マクヴェイ3世

が、「インディアナポリス」沈没の指揮責任を問われ、
裁判に出廷した後、橋本中佐と敬礼を交わした瞬間です。


一応参考までにこの映画を観た感想を検索してみたところ、

「CGがチャチ」「これは戦争映画じゃなくサバイバル映画」

などという理由で評価を低くしている人が多いようでした。
(確かにわたしも回天発進シーンでガクッとなりましたが)

しかしわたしはこの映画の「サメとの戦い」は、乗員の味わった苦難を
わかりやすく、かつ映画的またはドラマ的に観ている側に伝えるための
ツールに過ぎないと感じました。

でも、こんな煽り文句にしてしまう媒体もあるからねえ・・。

 N・ケイジ、サメと闘う──「米海軍史上最大の惨劇」が映画化

言っときますが、ケイジがサメと戦うシーンは一度もありません。

念のため。


この映画のテーマは、自らの国を背負って戦った彼我の軍人たちの、
人間としての弱さ、(サバイバルシーンにもみられた)醜さと相反する美しさ、
そして苦悩と後悔、許しであるとわたしは思います。

例えばそれは、回天戦を命令した橋本艦長が一人になった時に見せる表情、
「インディアナポリス」が沈没していく際の音声を聞き、父親(神道家らしい)
の幻影と会話するシーンなどに表れています。

よくあるアメリカ映画、たとえば「パールハーバー」などのように、日本軍を
わかりやすい悪として描くことなく、逆にここまで日本軍人の人間的な部分に踏み込んだ
戦争映画は、わたしが思い出す限りではこの作品が初めてかもしれません。

第二次世界大戦中、自艦を失ったことで軍事法廷で裁かれた軍人は
アメリカはもちろんのこと、世界でもマクヴェイ艦長ただ一人でした。

なぜ彼はアメリカ海軍から弾劾されなければならなかったのでしょうか。

表向きの訴追理由はこうです。

「インディアナポリス」がテニアンを出発してから航行中、
魚雷回避のためのジグザグ航行を行わなかったことが、
敵の攻撃を許し、自艦を沈没させる結果を招いたから。

この時、検察側はその重要な証言者として、伊58潜の橋本艦長を
ワシントンD.Cの軍事法廷に呼んでいます。

1945年の12月10日のことでした。

マクヴェイ艦長の起訴も異例でしたが、自国の軍人を糾弾するために
かつての敵国の軍人を証人に採用するというのは異例を通り越して異常でした。


検察側は、日本側に原子爆弾運搬の情報が漏れていた可能性を疑っていました。
おそらく海軍は当初、機密漏洩を艦長訴追の理由にするつもりだったのでしょう。

まず、橋本中佐(9月に中佐に昇任)にその件を尋問したのですが、
伊58が「インディアナポリス」遭遇したのは全くの偶然だったと彼は答えます。


ついで訴追されたのは艦長として彼が危険回避行動をとらなかったことですが、
マクヴェイ訴追に有利な証言をさせるためにわざわざ呼んだ橋本中佐は、
予備審で、

「インディアナポリスがたとえジグザグに航行していても我々は撃沈できた」
(つまりマクヴェイは悪くない)

と断言したため、検察側の当ては全く外れてしまいます。
これでは艦長を有罪にできないとして、検察は橋本を法廷に出しませんでした。


映画「インディアナポリス」では、橋本が出廷したという設定になっており、
実際の予備審での発言と同じ内容のことを証言させています。

実際の法廷で、もしこの証言がなされていたら、さしもの軍事法廷も
艦長を有罪にすることは難しかったのではないかと思われますが、
映画では史実通り、マクヴェイの判決は有罪ということになっていました。

しかし、第二次世界大戦で戦ったベテランの海軍軍人たちは、
この結果に大なり小なり疑問を持ったのではないでしょうか。

自艦を失ったことで艦長がその責任を問われなければならないのなら、
同罪に相当するアメリカ海軍軍人は一人や二人ではないはずです。
つまり、なぜ彼だけが、と誰しもが思ったことでしょう。

そのように考えたうちの一人にチェスター・ニミッツ元帥がいたため、
この大物の鶴の一声により、この裁判判決そのものが無効になりました。

彼は事実上無罪となって海軍に復帰し、1949年の退役時には少将に昇任しています。

しかし、一度有罪判決を受けたことによって、一部乗員遺族からの、
彼への非難と怨嗟の声はいつまでも止むことはなかったのです。


マクヴェイ少将がコネチカットの自宅でピストル自殺をしたのは
1968年11月6日、「インディアナポリス」轟沈から23年後のことでした。

近しい人々に、妻を癌で亡くし孤独に苦しんでいると打ち明けていた彼は、
また死の前日、遺族からの恨みの手紙を受け取っていたとも言われています。


彼の遺体は自宅の裏庭で庭師によって発見されました。
その手には彼が幼い時からお守りにしていた水兵の玩具が握られていました。


ところで今日は、冒頭にも書いたように「インディアナポリス」が
73年前に撃沈された日ですが、いかなる運命の皮肉か、この日7月30日は
チャールズ・バトラー・マクヴェイ三世の誕生日でもありました。

毎年巡りくる己の誕生日、彼はおそらく片時も頭から離れたことがない、
883名の部下の命日を、同じ日に迎えなければいけなかったのです。

何という戦後でしょうか。

 

さて、この時海軍側は、最初から、

マクヴェイ艦長にインティアナポリス撃沈の責任を負わせようとしていた

といわれています。

海軍たる大組織が、なぜここまでして一艦長に責任を負わせようとしたのか。
それが明らかになるのはそれから50年後のことです。

映画「ジョーズ」を観てこの事件に興味を持った小学校6年の少年、
ハンター・スコットが事件の背景を調べ、このような仮説を立てました。


当時の海軍は秘密行動中の「インディアナポリス」の位置情報を把握しておらず、
沈没してから4日間も救助をさし向けなかったため犠牲者が拡大した。
その責任を、上層部は全てマクヴェイ一人に負わせようとしたのではなかったか。

スコットは調査の段階で、「インディアナポリス」の生存者316名のうち、
150名に詳細な聞き込みを行ない、仮説の正しかったことを証明してのけたのです。

その聞き取りの段階で、様々な生存者の声が明らかになりました。

最初に沈没から生き残ったのは1,196名のうち約900名、
しかし初期の段階で助からなかった人の死因は、主にオイルの嚥下だったこと。

油を頭からかぶった状態で陽に炙られ漂流しているうち、目が見えなくなり、
海水に浸かったままの体からは体温が奪われ、極限状況に精神を蝕まれ、
暴力的になって互いに争ったり、また幻覚のアイスクリームやホテルを求めて
「永遠に」どこかに泳いでいってしまった人々のこと。

映画でも描かれていたPBY水上艇のマークス大尉も証言を行いました。
彼の水上艇が海面に着水して
最初に拾い上げた男は、錯乱状態で、ただ、

「俺はインディアナポリスから来た」

と繰り返していたことや、映画で描かれたように、翼に乗せて収容した56名が、
その多くが取り乱して痛みに転げまわり、翼や機体を蹴飛ばしたりして穴を開けたため、
水上艇は二度と飛び上がることができなくなって、救助の艦艇が全員を収容した後、
機銃で沈めるしかなかったということなどを。


マークス大尉は救助するために漂っている人たちの体を引き揚げましたが、
多くの者が手足を失ったり、全身が酷く腫れていて、搭乗する事そのものが
彼らにとってゾッとする痛みを伴うらしいことを知ります。

海から遭難者を引き揚げるために腕を掴むと、彼の手に剥がれた肉が残りました。

海水でずっと洗われていた体から体毛はほとんどなくなり、
まるでイモリのように
真っ白でツルツルした皮膚をした一団は
皆一様に啜り泣いており、
マークスとクルーはその異様な姿に戦慄しました。

 

ハンター少年の提言がきっかけで、マクヴェイ艦長の名誉復権運動が起こった、
という話は日本にも伝わり、かつての伊58艦長橋本以行の耳にも達しました。

彼は早速、上院軍事委員会委員長のジョン・ウォーナーへ電子メールを送り、
その運動を熱心に支援したといわれています。

そしてついに2000年10月30日。

チャールズ・マクヴェイ艦長は
「インディアナポリス」の喪失に対して全く責任を問われない

ことが正式に認められ、彼の名誉回復がなされました。

その証書に当時の大統領クリントンが署名を行う僅か5日前、
橋本以行はそれを知ることなく91歳でこの世を去っています。

 

ところでこの映画、「USSインディアナポリス 勇気ある男たち」では、
冒頭画像にも描いたように、チャールズ・マクヴェイ3世と橋本以行、
現世では一度も相見えることのなかった二人の出会いが創作されました。

確かに、もしあの世というものがあって、そこで彼らが出会ったとすれば、
人間としての過ちを互いにを許しあい、
堅く相手を抱きしめる代わりに
祖国の為に戦った軍人同士であらばこそ如是敬礼を交わしたに違いありません。

そんな二人の冥界での邂逅の姿を、この映画はラストシーンにおいて、
彼らを知る後世の全ての人々の眼に映しだしてくれたのだとわたしは思っています。



 

 

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旧呉鎮守府庁舎 地下壕作戦室

2018-04-03 | 海軍

 

さて、というわけで、観桜会の模様をお伝えいたしましたが、今日は
その前に見学した呉鎮守府時代の地下壕の内部をみた話をします。

その前に、我が家の自慢の桜が満開の様子を。
桜が満開の時だけ、寝室のカーテンを開けて寝たりします。

昔この敷地には何かの長官校舎があったとかで、
この桜二本はその名残です。

呉地方総監庁舎前からもう一度。
ちなみにこれはNikon1で撮影したものです。
このあと受付をして、庁舎の間の坂道を降って行くように指示されました・

この桜の向こう側が、庁舎の海側に面した「表門」の前庭であり、
今回の観桜会会場となります。

坂道を下っていくと右手に見えてくるのがこの小屋です。
天井につけられた通風換気口の形状といい、屋根といい、
作られたのはまず確実に鎮守府時代だと思われます。

窓が小さく、消火栓があること、さらには扉は鉄なのに、天井は抜ける素材。
可燃物あるいは爆発物を収納していたのではないでしょうか。

小屋の向こう側に石段が見えていますが・・・・、

ここを上っていくと、観桜会会場への近道となります。
明かりが用意されているようですが、夜に備えてわざわざ設置したのでしょうか。

地下壕司令室の入り口はわざわざ土で覆い、芝を生やしてカムフラージュ。
これは特に上空の飛行機から見え難くしています。

地下壕の下に立ち、上を見上げたところ。
ここを入っていったところに作戦司令室があります。

作戦司令室はこちらから見ると一階にあることになりますが、
長官庁舎のところから見ると「地下三階」ということになります。

かつて地面に植えた蔦が、コンクリート面を覆い隠していたのでしょう。
それにしても不思議なことに、ある高さから下には全く蔦が這った形跡すらありません。
いったいどんな事情でこんな造形になってしまったのでしょうか。

日本の城の銃を出す穴のような、鉄扉の覗き窓がいくつかあります。

「地下壕プロジェクト」は一応の完成を見たようです。
壕の入り口には全天候型の説明看板が設置されていました。

グーグルマップを加工したらしい地図と地下通路の所在を合わせたものです。
この前に見学を行なった潜水艦基地の説明の方が、

「昔はここから総監部まで地下でつながっていたという話です」

とおっしゃっていたように、地下道は鎮守府を中心に広範囲に
張り巡らされていた時代があったのです。

ここに書かれている解説を書き出しておきます。

「昭和17年、日本は米軍機による初空襲を受け、昭和19年ごろからは
連日のように空襲を受けるようになり、爆撃の被害を避けるため
日本海軍の地下施設は地下に建設されるようになった」

うーん・・・記述内容はともかく、この文章にいい点はあげられないな・・
って何様だよ、と言われそうですが、それはともかく。

「当確施設は、呉鎮守府庁舎(現呉地方総監部庁舎)裏側の崖の斜面を
切り開いて建設されており、昭和b17年設計、昭和n18年夏頃に着工、
昭和20年4月ごろに完成し、「地下作戦室」と呼ばれていた。

また、空襲による被害を最小限とするため、当確施設完成ごは重要書類なども
『地下作戦室』で保管されるようになった」

これは去年のサマーフェスタで初めて施設が一般公開された時に配られたパンフの一部です。
今回入っていくのが「旧地下作戦室」ということになります。

この番号6番は、この時観桜会が行われていた会場の真下になりますが、
ここは掘りかけてやめた趾があるのだそうです。

ここに限らず、掘りかけはあちらこちらに見られるのだとか。

呉海軍、ただの防空壕にとどまらず、ワクワクしながら一大地下要塞、
「少年探偵団・僕らの秘密基地」を作ろうとしていたんじゃ・・・。


なお、4番は地方総監庁舎の脇から出てすぐのところにある
地下道へ続く階段があります。
庁舎で執務をしている人たちが、素早く地下に避難するためです。

実は去年、わたし、この階段を降りかけてやめております。
観桜会の時でひどい雨が降っており、しかもよりによって
後ろ下がりの白いスカートを履いていたもので、階段を三歩おりた途端、
裾に階段の泥がべったり付いてしまい、それ以上進むのを諦めたのでした。

壕への入り口は大人なら屈まなければ入れません。
階段は50段で、大変急なものです。

地図でいうと3番、急な階段を降りていって、作戦室に通じる道を
進んでいくと、地下道が崩落してしまっている部分があります。

 

庁舎の脇を通り、坂道が始まる辺りの地下にも道が掘り進められていますが、
そこは地下水が染み出し、地面がぬかるんでいるそうです。

どこからともなく湧いて来る地下水のせいで、地下壕の湿度はいつも高いのだとか。

去年は扉越しに中を見せてもらいましたが、
確か撮影はご遠慮ください、と言われました。

外側は大きなレバーで施錠する頑丈な鉄の扉(変形しないような工夫あり)、
それを開けて内側には普通の木の扉が残されています。

「火気厳禁」の文字が往時を偲ばせるレトロな字体です。

レバーを回すと上下にわたしたバーがどうにかなって、
(どうなるんだろう)扉がしっかりと閉まる仕組みのようです。

木の扉はかつて赤に塗られていたのでしょうか。

それ以外の部分はどうも最近補修したように見えます。

ここが地下作戦室。

地下壕の中で一番広いこの空間は幅約14m、高さは最大で約6m。
空港からここに来る時に必ず通る休山トンネルとほぼ同じくらいの大きさです。

戦時中は呉鎮守府司令部が作戦指揮の会議をするのに使っていました。

見学のために入っていけるのは、入口の平方10メートルほどのスペースだけ。

内部に立ち入ることができないように柵が設けられています。

左のほうに見えるのが元々の床だったのではないでしょうか。

中に入っていけないその理由が、この天井です。
プロジェクト進行中の段階で聞いていたところによると、天井が
ところどころ破れていて崩落しかねない状態であるため、
見学者には全員にヘルメット着用を義務付けるとか、
そういう案も出ていたようです。

実際にメディアに公開した時にはヘルメットを着用させたとも聞きました。

最終的に、入り口から内部を見るという展示法に決まり、
観覧場所の入口付近上部には足場を組んでそこだけ屋根を付け、
剥離による崩落の対策としました。

左奥の扉は後から作り直したもののようです。
 OD色の金属らしい構造物がありますが、これが何かはわかりません。

この階には会議室の他に発電機室、換気施設、排水施設がありました。

二階部分に通路があって、鉄の扉の開け閉めを行えるようになっています。
壁にも天井にもいたるところにワイヤが見えていますが、たとえ直撃があっても
崩壊しないような堅牢な作りになっているのでしょう。

この灯りの支柱は昔のままのようですね。

ここが作戦室だった時、奥の壁一面には西日本の作戦図が掲示されていて、
敵の飛行機が飛来すると、その地図上のランプが点滅して、
瞬時にその進行方向を把握することができたそうです。

庁舎横の階段を降り、地下通路を抜けるとこの扉の向こうにやってきます。

ただし、

扉は錆びついてしまって開けることは不可能です。

外部を封鎖した時のために、分厚いコンクリートの壁(厚さ1m以上?)に
空気を流通させるためらしい穴が穿ってあります。

この堅牢さにより、昭和20年の呉大空襲の際、庁舎が爆撃されても
壕内は全くの無傷で、保管されていた重要書類等も無事でした。

こ見学のための入口部分を保護するために設置された屋根のパイプです、

作戦室の前は玄関のエントランスのようなスペースがあります。

エントランス脇には部屋が二つありました。
奥の部屋は先ほどの新しい鉄扉から出入りできます。

その一つの部屋がこれ。

もう一つの部屋。
なぜか室温計が設置されていました。

入口を入って右側には二階に続く階段があります。

作戦室の上部は吹き抜けになっていて、通信室、事務室、映写室、
それから休憩室があったということです。

ここで夜を明かすこともあったのかもしれません。

地下壕の設計が始まったのは南雲忠一が呉総監だった時です。
完成したのは昭和20年の4月なので、南雲はもちろんその時には
とっくに転勤し、のみならずサイパンで戦死していました。

完成当時長官だった沢本頼雄中将はすぐに転勤しているので、
結局壕の恩恵に浴したのは、呉鎮守府長官として大空襲を経験した
金沢正夫中将ただ一人だったということになります。

これを左に入っていくと、さっきの分厚い扉の向こう側。
おそらく換気施設と排水施設があったものと思われます。

去年の夏、サマーフェスタで配られたパンフの表紙。

今回、地方総監の提唱によって、これだけの整備が行われました。
観桜会でも話題になっていましたが、現在、呉の観光コースの一部に
この壕見学を組み入れるという計画もあるようです。

 

プロジェクトに取り組んだ呉工業高等専門学校の学生と教員有志の皆さん。

何れにしても、誰も手をつけなければ、陽の目を見ることもなく
もしかしたら朽ち果ててしまっていたかもしれない地下壕を、
調査と修復によって公開できるまでにしたことは
後世に残す偉業であったとわたしは心から賞賛せずにはいられません。

何より実行を決断された呉地方総監と、プロジェクトに携わられた方々、
呉地方隊には、国民の一人として心からお礼を申し上げたいと思います。

 

 

 

 

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「出雲」追悼式と「名取」殉難碑参拝〜大正13年 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

2018-02-24 | 海軍

さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の遠洋航海はついに横須賀に寄港、
無事に帰国してきたわけですが、最終回として航海中に二回行われた
慰霊式典についてお話ししておきます。

寄港地に我が同胞が命を落とした場所、あるいは現地の殉国者の墓などがあれば、
慰霊に赴き花を手向けるのも昔からの遠洋艦隊の大事な行事です。

例えば平成29年度の海上自衛隊練習艦隊においては、

パールハーバー:アリゾナメモリアル

サンディエゴ:海軍墓地

チアパス:日本人移民墓地

ニューポート:ペリー提督慰霊

バンクーバー:日系人慰霊碑

アンカレッジ:アッツ島日本人戦没者

ウラジオストク:太平洋艦隊の戦闘名誉慰霊碑 
      日本人死亡者慰霊碑

ピョンテク:ソウル顕忠院

と、ほとんどの寄港地で慰霊を行ってきました。
調べたところによると、海上自衛隊の遠洋航海は、バンクーバーでは
エスカイモルトに立ち寄ることもあるということですが、
もし次回同じ機会があれば、練習艦隊途上客死した海軍士官候補生
草野春馬の墓参を行なってあげてはいただけないだろうか、と提案しておきます。


大正13年度遠洋練習艦隊も、いくつかの慰霊を行なったわけですが、
そのうち一つが、「出雲」殉難者のために行われたという慰霊です。

■ 出雲殉難者追悼会

異郷の海のバンクーバーの水底深く不慮の最後を遂げた
可惜十一勇士追悼会はホノルル在泊中出雲艦上でしめやかに行われた

説明にはこうあり、アルバムの一ページ全て使って写真が掲載されています。

「出雲」の殉難者ということで、「出雲」艦長が参拝している写真です。

ところが「出雲十一人の殉難」というのが全く検索にかかりません。

 

そこで第一次世界大戦時にそんなことがあったのかどうか調べてみました。
あまり知られていませんが、帝国海軍は日英同盟を盾に?
イギリスから出征を要請されて、臨時的に

「特務艦隊」

を結成し、船団護衛部隊を出しています。

「出雲」はその第二船団の旗艦としてメキシコ、その後地中海のマルタに派出され、
ドイツ海軍の潜水艦と戦ったという経歴を持ちます。
ちなみに同戦隊中の駆逐艦「榊」からは多数の戦死者を出しており、マルタには
戦没者の慰霊碑が建てられているのです。

そして「出雲」は第一次世界大戦が勃発してすぐ、遣米支援隊の旗艦として
この練習艦隊にも同行している装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」とともに
アメリカ西海岸を防衛する任務に当たったことがわかりました。

もしバンクーバー付近で「出雲」が殉職者を出すとしたら、この時か?

と思ったのですが、もしその時殉職者があれば、それは戦死扱いとなり、
少なくとも歴史に残っていなければ変です。

またしても謎にぶち当たり、首をひねりながら写真を見ていてあることに気がつきました。

写真を見ると、わざわざ神官による祈りが捧げられ、
立派な祭壇に十一命の名前が祀られているのがわかります。

で、その後ろにあるの、これ、骨箱じゃないですか?11柱の。

しかも、そのあと仏教会の人々による読経も挙げられ、
殉職者の宗教に配慮している様子まであります。

「各団体よりの香り花の数々」もあまりに豪華なものですし、
特務艦隊の護衛の時の殉職者慰霊にしては盛大すぎやしないでしょうか。

つまり、考えられるのは、当練習艦隊がバンクーバー付近を航行時、
何らかの事故が起こり、11人が「水底に沈んで死亡」したため、
ご遺体をホノルルまで運び、現地の方の協力を仰いで荼毘に付し、
艦上で追悼式を行なったという可能性です。

それらしい「出雲」の事故の記事はどこを探しても出てこないので、おそらくは
あまり対外的には問題にならない範疇の事故だったのではと想像されます。

 

 練習艦隊はサイパンにほんの少しだけ寄港していますが、
その時にも慰霊を行なっています。

サイパン寄港のメインの目的はこれだったのではないでしょうか。
「名取」殉難者の碑参

軽巡洋艦「名取」は大正11年三菱長崎造船所で竣工された
「長良」型の2番艦です。

この練習艦隊の3年前の大正11年3月、演習中にボイラーが爆発し、
一戸機関中尉以下11名の殉職者を出したということが伝えられますが、
この「演習」は南方、つまりサイパン付近であったということでしょう。

名取殉難者の記念碑に詣で、そぞろ2年前の勇士の
壮烈な最後が偲ばれて思わず暗涙にむせんだ。

 

その後「名取」は昭和19年8月18日、敵潜水艦「ハードヘッド」の雷撃を受け、
レイテ島東方海面において沈没しています。

この時に総員退艦で海に逃れた乗員のうち、当時27歳だった航海長は、
先任将校として、カッター三隻に分乗した生存者195名の命を預かることになり、
水も食料もない中、船を漕いでフィリピンに向かうことを決断しました。

この計画を無茶だと思う生存者が救助艦を待つようにと提言しましたが、
若い先任将校は頑として所信を変えることはしませんでした。

そのため、航海中はこの計画を懸念する乗員によって航海長暗殺も計画されます。
しかし、結局13日目、短艇隊はついにスリガオにたどり着き全員が助かりました。

航海長が決断を素早く行い時間のロスがなかったこと、その後の不安な局面でも
部下から進言されても計画を翻さなかったこと、そして何より断行と決定するや

全員が命をかけて漕ぎつづけたからこその生還であったといわれています。


ところで、このアルバムの主、つまりこの遠洋航海に参加した海軍軍人とは
誰だったのでしょうか。

最後の個人写真用のページに貼り付けられた二枚の写真がありました。
これがアルバムの持ち主であったことは間違いないと思われます。

この通常礼装と帽子から士官であることはわかります。
なんとなく感じとして特務少尉みたいな雰囲気もないではありませんが、
勲章が多いのでそれは多分違うでしょう。

参加した人が別個にもらう個人写真も最後の方に貼ってありました。
この中にこの人がいるはずなんですが、そもそもこれはどういう写真でしょうか。
軍楽隊の人たちがメインにおり、士官が両はしにいるように見えます。

もしこれが「練習艦隊司令部付附き」だとしたら士官と
の軍楽隊、主計兵曹、兵たちが全員写る可能性はあります。

それにしてもこの人はどこにいるのか、全くわかりません。
そもそもこの人らしきヒゲの人があまりにも多すぎて・・・(笑)

野球部に関わっていたらしいこともこの写真からわかりました。

そこでもう一回出してくる幕僚の写真。
この後列中央の人、その左の人もこの人に見えなくもありません。
だとしたら司令部八雲乗り組みの山際忠三郎中尉である可能性があります。

実は名簿の山際忠三郎の名前の横に赤線が引いてあったので、
もしや?と思ったのですが、本人がわざわざ引くとも限らないし・・。

野球の写真を検索していて、この人じゃないかな、と思った人(右側ひげ)の
隣の人の膝に艦隊キャットがいたのでサービスとして拡大しておきます。

やっぱりねずみ対策で軍曹猫を乗せてたんでしょうか。

 

最後に。

この練習艦隊参加の有名人の中には、「出雲」の分隊長兼衛兵司令、
有馬正文大尉、そして軍楽隊長の内藤清五軍楽特務少尉がいました。

有馬大尉は第1分隊長を務め、その分隊には源田実候補生がいましたが、
源田はのちに有馬のことを

「誠心誠意であると共に、非常な気魄に充ちた人であった」

「海軍で私が範とした一人」

と回想しています。
遠洋航海終了時、分隊長として候補生たちに向けたはなむけの言葉は

「他人のために酒を呑むな」

だったということで、源田はこの言葉に強烈な印象を受けたそうです。

有馬正文は少将になってから自発的に特攻を選んだ軍人です。

「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、
もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。
特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」

として1944年10月15日に、参謀や副官が止めるのも聞かず
司令自ら一式陸攻に搭乗し特攻に出撃してしまいました。

出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた
「司令官」という文字を削り取っての出撃でした。

そして前にも一度あげたこの写真ですが、右側の指揮者が内藤少尉(当時)です。

「軍艦」作曲者の瀬戸口藤吉に指揮を習い、日本で最も有名な
軍楽隊長として、内藤は最終的には少佐まで昇進しました。
戦後は東京都消防庁音楽隊長を務めていたそうですが、
最後まで武人のような厳しさでタクトを振っていたという話があります。



さて、アルバムを一冊具(つぶさ)に読み込み、現代の練習艦隊と比べて
変わっていないところ、
その精神をいまだに受け継いでいる部分をあまりにもたくさん発見し、
ネイビースピリッツを養成する鍛錬の形というのは、時代が変わっても
そうやすやすとうつろうものではないということを改めて知ったような気がします。

 

また今年も、江田島を巣立っていく若き士官たちが、船と航路は違えども
太平洋に漕ぎ出し、この頃と全く変わらぬ厳しさと、そして希望を持って
遠洋練習航海に参加していきます。

彼らの若々しい顔にこの時代の若者の面影を重ね合わせるとき、海の武人に
求められるものは永遠に普遍かつ不変であることをまた思わずにいられません。

 

大正13年遠洋航海シリーズ  終わり。

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大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜横須賀帰国

2018-02-22 | 海軍

さて、しばらくお休みをいただいていた練習艦隊シリーズ、
再開です。

大正13年度帝国海軍練習艦隊はいよいよ帰国の途に向かいました。

大正13年7月24日に兵学校を卒業し、国内巡航に出航したのち、
11月10日、遠洋航海に向けて横須賀を出航した練習艦隊、
帰ってきたのはいつだと思います?

4月4日ですよ。
つまりこの時代の遠洋航海は9ヶ月弱だったということなのです。
海外の遠洋航海が5ヶ月であったことを考えると、長かったのは
江田島を出てから遠洋航海に行くまでの国内巡航だったことがわかります。
当時は日本であった満州や朝鮮半島にも行っていれば、時間もかかりますよね。


■ 南洋

(ホノルルよりヤルートまで
航程 2243哩  航走 9日23時)

南洋と椰子。椰子の果実水と脚気。自然の力。

なんかひとつ腑に落ちない言葉が混じってるけど気のせいかな?


 

■ ヤルート

(自 3月14日 至 3月15日)

絢爛たる物質文明の影はホノルルを以って終わり、3月14日
艦隊は我委任統治の最初の島ヤルート島ジャボールに投錨した。

初めて見た南洋、それは候補生には人文地文の上に於いて
大に裨益(ひえき、助けになる)する所があった。

ヤルート島は流石マーシャル諸島の都だけあって
土人の服装等は中々立派な物である。

この頃別に土人という言葉に軽蔑的な意味は含まれていなかったので、
普通に地元の人、くらいの意味で土人を連発しています。

「土の人」=「現地人」

どこが悪いのかと思いますよね。

彼らが「立派な服装をしている」と感心した彼らの服装は、
ちょっと洋装風なのが日本人にはしゃれて見えたのかもしれません。

ヤルートは今「ジャルート環礁」といい、戦後はアメリカ統治を経て
1986年に独立したマーシャル諸島の一部となりました。

続いてはやはり日本統治下にあったトラック島に移動。
艦隊航行中、「恒例検閲」という観閲が行われていたようです。
艦隊司令百武中将が艦内の下士官兵を閲兵して歩く儀式です。

規律を維持し緊張を保つ意味で頻繁に行われていたのだと推察されます。

写真最前列の真ん中が練習艦隊司令官百武中将です。

■ トラック

(ヤルートよりトラックまで
航程 1084哩 航走 4日23時)

(自 3月20日 至 3月29日)

トラック諸島には春夏秋冬の四大島と七曜島其の他
十数の小島から成り、サンゴ礁が之を囲繞(いにょう・巡らす)して
天然の防波堤を作っておる中々良い港である。

此処には二十日から二十五日迄五日間おった。
此の間恒例検閲、石炭搭載、水中爆破、陸上見学等があった。
又島の学校の運動会、余興の土人の踊りも見た。
そして支庁の「ベランダー」に幾度涼みに行ったことであろう。

トラックの「土人の踊り」を皆で見学。

案外近代的でスマートな形のカヌーですね。
バランスを取るための仕掛けがアバンギャルドでなかなか面白い。

トラック島はよほど暑かったと見え、候補生たちはなんどもトラック支庁の
風通しのいいベランダに涼を求めて立ち寄ったということです。

トラック島は西太平洋、カロリン諸島に位置する島で、今では
そのあたりの島を含めてチューク諸島と名前を変えています。

「日本の真珠湾」と呼ばれるくらい、そこは帝国海軍の一大拠点となっていました。
1944年2月には大規模な米軍の空襲を受け、壊滅しました。

この時逃げ遅れた船は全て撃沈されていますが、ただ一隻の例外は、
座礁しながらも沈まず助かった「宗谷」でした。

 

トラック諸島を出航し、練習艦隊はサイパンに到着しました。

行き先はどうでも、最後にはこれら委任統治されている島に立ち寄るのが
当時の帝国海軍練習艦隊のおきまりのコースだったようです。

■ サイパン

(トラックよりサイパンまで
航程 615哩  航走 2日17時)

(3月28日 午前8時着 同日午後7時発)

朝8時に到着して、夜7時には島を後にしています。

 

サイパン島は小笠原の南方750マイルの処にある、
土人の家、殊に「チャムロ」族の住み家などは内地人のそれより立派だ。
甘藷栽培は今後益々有望である。

 

滞在時間が11時間だったということは、おそらくこの写真もスナップではなく
現地で売られていた「イメージフォト」の類ではないでしょうか。

「チャムロ族の娘」と説明がありますが、チャモロはグアムの先住民です。
旅行に行った時に現地のフィリピン人ホテルマンが言っていたところによると、
政府に保護されているので働かずに太ってばかり、ということです。
(未確認情報ですので念のため)

こちらはカナカ族の夫婦の正装。

そういえば映画「さらばラバウル」では、平田昭彦演じる若い士官搭乗員が
日本人の経営する飲み屋で働くカナカ族の娘と熱い恋をする、
という設定でしたが、この映画について書いたとき、

「カナカ人の娘は・・・ないんじゃないかな」

と否定してみました。
いくらなんでも当時の兵学校出士官ですからねえ。

「土人」と呼んでいる人との結婚は流石にハナから考えないと思うの。

しかもこれを見る限り子供も大人も完全に「裸族」ですから。

この写真も11時間の間にどこかに滞在して撮影されたものでしょうか。
どうもチャモロ人とカナカ族では随分生活レベルが違ったようです。

■ 小笠原

(サイパンより小笠原まで 
航程 750哩 航走 3日14時)

(4月1日午前8時着 同 午後5時発)

小笠原に上陸して警察署の表札を見ると

京橋区築地警察署 小笠原分署 

と書いてある。なんとなく内地に帰った気分になった。
たった半日の滞在に、砲台、捕鯨会社、正覚坊の池、
帰化人村などを見学した。

さすが帝国海軍、どこまでも前向きでアクティブです。
この「正覚坊」というのは地名だと思っていたらそうではなく、
この写真にも写っているアオウミガメの別名なんだそうです。

絶滅危惧種なので、ほぼどの国でも法令でその捕獲禁止がうたわれていますが、
現在もなお、かなりの数が世界中で捕獲され続けています。
小笠原諸島では、今でも父島および母島において食用目的のウミガメ漁が認められており、
ただし年に135頭の捕獲制限が設けられているのだとか。
近年人工孵化と稚ガメの放流が行われており、生息数は安定してきているそうです。

「南洋の産物、清涼品」とありますが、バナナ、パイナップル、
ヤシの実にマンゴーといったところで、この頃は珍しかったのでしょう。

鯨見物とありますが、捕鯨会社でとれとれのクジラの解体を見学したようです。
見物している候補生や水兵さんが心持ちドン引きしているような・・・。

鯨を捌く様子など当時の日本でも滅多に見られるものではなかったでしょう。

■ 横須賀寄港

(小笠原より横須賀まで
航程519哩 航走 2日15時)

大正14年4月4日午前8時横須賀に入港し、ついに
146日2万416哩の外国航海を無事に成し遂げたのである。

 

到着です。お疲れ様でした〜!

というわけで最後のページにはこのようにあります。

四月八日、九日両日にわたり 畏も摂政殿下より拝謁を賜り
建安府拝観を差許されぬ 

ちなみに、この練習艦隊司令官を務めた百武三郎中将は、
拝謁と「建安府拝観」6日後に佐世保鎮守府長官に就任しています。

さらにいうと、この練習艦隊に参加した「出雲」は、到着後の5月、
秩父宮雍仁親王イギリス留学のため香港まで殿下のご座乗の栄誉を賜りました。


最終回に続く。



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大正13年 帝国海軍練習艦隊〜さらばホノルルよ

2018-02-11 | 海軍

大正13年帝国海軍練習艦隊は、バンクーバーを出航し、その後
また太平洋航路を再びハワイに向けて航海を行いました。

ところで、このアルバム、ホノルルの最初のページだけが明らかに
ちぎり取られていて存在しません。
ここにどんな写真があったのか少し気になります。

 

行きにはハワイのヒロ、帰りにホノルルと同じハワイを経由するコースです。
ホノルル港にはたくさんの日系同胞が迎えに来ており、この後
司令官以下幹部を運ぶためかたくさんの車も埠頭に横付けされています。

写真は日報時事ホノルルのサイン入り。

岸壁にはたくさんの日系人が歓迎のため集まりました。
ほとんどが当時のアメリカ人と同じ洋装ですが、
わざわざ今日のために選んだらしい着物で来た女性もいます。

右の男の子は日米開戦の時には30代半ばごろです。
日系部隊の一員として戦争に加わったかもしれません。

ファーリントン氏が誰かわからなかったのですが、おそらく
ホノルルの市長というところかもしれません。
奥方、油断して鼻を掻いたところを写真に撮られてしまいました。

■ ホノルルに於ける日本人歓迎会

日の御旗を慕い集まる在留同胞の熱狂的歓迎には
乗員一同は深く感銘したことだった。


この広いグラウンドが歓迎会会場となったようです。
行進曲軍艦で行進し整列した練習艦隊乗員一同。

お高いところから歓迎会の挨拶を行う司令官百武三郎中将。
飾り付けられた生花のまた豪勢なことよ。

現地在留邦人による歓迎会は野外の広場で行われました。
2月ですが、ハワイでは外でちょうどいい気候ですね。

特に美しい乙女等の真心込めた歓迎の劇や唱歌は
海の若人を極度に喜ばした。

「極度に喜ばした」という表現は大げさでも何でもなかったでしょう。
この写真に写っているお嬢さん方を見ても、「海の若人」が
久しぶりの『日本女性』に思わずポーッとなったに違いないと推察します。

練習航海も一種の出会いであり、例えば兵学校67期の遠洋航海では
ハワイの富豪の家に遊びに行った候補生たちの思い出として、

「富豪のナイスな(美人の)娘が(真珠湾の九軍神の一人になった)
横山正治候補生一人に露骨に好意を示したので皆を腐らせた」

という逸話が残されています。

ところで、これは約30年くらい前の、我が海自練習艦隊の寄港行事です。
平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補が新任幹部として加わっておられます。

この時艦隊はハワイを出航して以来二週間ぶりの寄港だったということですが、
現地美女の半裸でのダンスは、練習艦隊乗員たちを「極度に喜ばせた」どころか、
「この日は頭に血が上って大変なことになった」という話です。

写真は「パペーテ」という港に寄港した時で、踊っているのはタヒチ美女。
タヒチというと、世界でも指折りの「肥満愛好国」でもあります。

太っているほど美人と言うお国柄なので、ここで踊っている美女は
たとえ今現在お元気であってもこの時の原型を留めていないと想像されます。

おまけ:この写真をくださった方の新人幹部時代。(可愛い///
両側を思いっきり濃い人たちにがっちり挟まれての記念写真です

■ ホノルルに於ける野球と相撲

練習艦隊士官および候補生の野球「チーム」は、ホノルルの実業及び
新聞記者団「チーム」と闘って四対二の「スコア」で見事に之を破った

歓迎野球試合はワイパウで行われ、百武司令が始球を行いました。

野球チームを構成したのは士官と候補生だけだったようです。
真ん中のグラサン士官は「監督」かな?

「八雲」の相撲部員だけでこんなにいたみたいです。
いただいたコメントによると、相撲をさせるためにわざわざ連れてきたという
相撲部員がいたようなのですが、やはり気合い入ってます。

本格的なまわしに旭日や錨のマークをあしらっているのが海軍らしいですね。
それと皆さん体格が流石に立派!

左は「浅間」乗組の相撲部員。
行事の正式な着物を着た人までいます。

そして右写真はホノルルで行われた相撲大会の模様です。

亦各寄港地の在留同胞の好角家と競技して勝ち続けた艦隊角力部員は
此処地に於いても所謂天狗力士と闘って悠々勝ちを占めた。

寄港地の一般力士を「天狗力士」などとディスるのはどうもいただけませんが、
まあ、日頃鍛えている艦隊力士の敵ではなかったということでしょう。

 

親善剣道試合も行われました。
艦隊の皆さんは防衛大学校の生徒のように、必ず何か一つ
武道をすることになっていたのかもしれません。

■ ヌアヌパリ

古戦場「ヌアヌパリ」の陖崖に立てば一望千里美しく続く甘藷畑の緑、
遥かに展開する太平洋の大海原、恍惚として澄み渡る碧空をあおげば
冷風颯々として衣を払う一霊境。 

 

ここでいう「古戦場」とは、その昔ハワイ王朝の元祖であるキング・カメハメハが
ハワイ統一の王としての地位を築くために対立していたカラニクプレ酋長の一族と戦い、
このヌアヌパリ渓谷に敵をを崖っぷちに追い詰めたカメハメハの軍隊は
一人残らずこの谷から突き落とし、勝利を治めた場所であることを言います。

「霊境」とは日本人らしい言いかたです。

一行はホノルル市内を見学。

(此の自動車の数を見よ)とキャプション付き。
縦列駐車の車間距離がほとんどありません(汗)

この頃は「バンパーはぶつけるもの」だった?

■ 布哇(ハワイ)と砂糖  

実際布哇の存在は砂糖によりて認められて居ると云って良い。
更に吾人は此処地に於る「パインアップル」と
「アイスクリーム」の美味には
永久に忘れぬ事であろう。 

「ハワイは世界一アイスクリームが美味しい」という伝説がありましたが、
もしかしたら練習艦隊の軍人たちが持ち帰った土産話から来たのかも。

ワイキキの海岸には今こんな東屋のようなものはないと思いますが、
この頃はのんびりした海岸だったのかもしれません。

「サンヂエモン氏日本式公園」とありましたが意味わからず。
地元の個人宅の庭でしょうか。

■ ホノルルに於ける「アットホーム」

旗艦浅間の後甲板は旗や幕で彩られ、甲板上の所々には
面白い飾り物が作られていた。
「アットホーム」に集まった白人邦人の綺羅を飾った紳士淑女たちは
明るい溶け合った気分で角力、剣道、柔道、さては演芸、そして
軽いご馳走に満足の一日を艦上にし過ごした。

候補生は此等の来賓の為に接伴役として天晴れ外交官振りを発揮した。

 

艦上レセプションのことを当時は「アットホーム」と称したようです。
女性は流行りのドレスに帽子をつけ、お洒落していますね。

現在でも練習艦隊の艦上レセプションに行くと、(毎年ではありませんが)
練習幹部が各グループをエスコートして、会場で世話をしたりしてくれます。

海軍軍人は須く国際的な社交に通じるべし、ということで、
昔からテーブルマナーやパーティでの振る舞いが仕込まれますが、
これも海軍軍人が外交を務めるという国際的な慣習に従ってのことです。

テーブルの上には今ほど「ご馳走が並ぶ」というわけではなく、
軽い茶会くらいの感じでお菓子が提供されています。

「面白い飾り物」とはこれのことでしょうか。
一富士二鷹三茄子を具現化した・・って茄子はどこ?

浅間の演芸部は各地で「もっとも好評を得た」ということです。
カツラや衣装一式を航海に持ち込み訓練の合間に練習をして臨みました。

前で脚本を持って居るのが脚本家、軍服は演出美術大道具その他。

■ ホノルルと別るゝの日

ヤルートに向って静かにその巨体を動かした旗艦八雲の
後甲板から聞こえた
勇ましい軍艦「マーチ」は
いつしか悲壮な「ロングサイン」に変わって

桟橋を埋めた同胞の誰もの顔に異様の緊張さが見えた。

別離! 別離! 

さらばホノルルよ、在留同胞よ、永久に健在なれ。

 

悲壮な「ロングサイン」

同胞の顔に「異様の緊張」

という表現は少し大仰すぎないか、と思ったのですが、これは
ホノルルでいかに彼らが愛されたかの証でしょうか。

それとも日系に訪れるこの後の運命を双方が予感していた・・・?

日系兵士で構成された日系部隊は、「GO FOR BROKE!」という
ピジン英語で「当たって砕けろ」という意味のモットーのもと、この後
彼らの祖国アメリカのために戦うことを余儀なくされます。

余談ですが、平成29年度の海上自衛隊練習艦隊の活動報告を聞きに行った時、
紹介スライドの端に常にこの「GO FOR BROKE!」という文字が見えるのに気がつきました。

練習幹部が自分たちで考案し、取り入れた「練習艦隊のモットー」だったそうです。


練習艦隊を見送る為に現地の邦人たちは、日の丸を満艦飾風に
揚げた船を何艘も出してきてくれました。

「何処迄送つてくれるのだらう」

彼らは艦隊の後をいつまでもいつまでも追いかけてきました。

そして出航した後の岸壁からはいつまでも見送りの人々が手を振り続けました。

ホノルル在泊中、旗艦は「八雲」に変更されました。
司令官を乗せたランチが「八雲」に向っていきます。


この時参加した何人かの士官候補生の中には、この17年後の1941年12月7日、
真珠湾攻撃のためにハワイに帰ってきた者がいました。

空中指揮官として攻撃を指揮した淵田美津雄、
そして航空参謀として
計画を立案した源田実の二人です。

奇襲決行時、特に淵田は、真珠湾に向かう機上、この時のハワイへの寄港と、
そこに住む日系人たちの熱烈な歓迎の日々を
思い起こすことがあったでしょうか。 


続く。


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桑港・接伴艦「コロラド」級三姉妹〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

2018-02-07 | 海軍

 

大正13年練習艦隊は中南米の航程を経て、西海岸にやってきました。
アメリカでの寄港地はサンフランシスコです。

この頃、現在の練習艦隊が必ず寄港する西海岸最大の軍港、
サンディエゴには寄港していません。

なぜなら、昨日もお話ししたようにサンディエゴが海軍基地となったのは1922年。
この練習艦隊の2年前です。
とても海軍基地として外国の艦隊が寄港できる状態ではなかったのでしょう。


■ 桑港

(マンザニヨより桑港まで 航程1573哩 航走 6日15時)

(自 1月23日 至 1月30日 7日間)

吾練習艦隊歓迎の為、米海軍の精鋭「ウェストバージニヤ」
「コロラード」
「メリーランド」の三艦が、各浅間、出雲、
八雲の
接伴艦の役を取られたのは実に嬉しかった。

日米国旗の交叉される所彼我の間には正義と平等、
親善と理解の曲が高鳴らされて居た。

「ウェストバージニア」は1923年、つまりまだ就役して1年の新鋭艦です。
当時の超弩級戦艦でかつ最新型。
「コロラド」「メリーランド」ともに同じコロラド型の三姉妹です。

実はですね。

この時にアメリカがわが接伴艦にわざわざ戦艦、しかも「コロラド型」三姉妹を全て
出してきたということを知り、わたしは後世の歴史を知る者として軽く戦慄しました。

その訳をお話ししておきましょう。
彼らのサンフランシスコ見学について紹介する前に、
このことだけはぜひ知っていただきたいと思います。

 

ちょっと面倒臭い話になりますが、この少し前に行われたワシントン軍縮会議に遡ります。

ご存知のように英米日で5・5・3と決まった軍艦保有割合を日本は不満に思いましたが、
実はアメリカはアメリカで、日本に対して大変な危機感を持っていました。

この軍縮会議までに日本は16インチ砲を持つ戦艦「長門」をすでに保持していました。
対するアメリカが保有していた16インチ砲搭載艦も「メリーランド」ただ一隻。

つまり、世界にたった二隻の16インチ砲級を、日米が一隻ずつ持っている状態だったのです。

 

しかも、ワシントン軍縮会議では、会議までに完成していない軍艦は廃棄すること、
と決められたのにも関わらず、日本は当時未完成だった長門型2番艦「陸奥」
もう完成済みだと言い張って保有を認めるようにと強硬に主張してきました。

「5・5・3の3の保有しかないくせに、
16インチ砲搭載戦艦を二隻持つだとお?」

とアメリカさんは頭にきたんですねわかります。
ここで「陸奥」所有を認めてしまうと、日本が圧倒的に有利になってしまいますからね。

 

そこでアメリカがどうしたかというと、本来廃棄対象であったはずの
「コロラド」級の「コロラド」「ウェストバージニア」を、

「陸奥の保有を日本に認めさせる代わりに」建造することにしたのです。

なお、この措置のため就役した順番が、

「メリーランド」「コロラド」「ウェストバージニア」

となってしまったので、本級を「メリーランド級」ということもあるそうです。

 

とにかく、この時練習艦隊の接伴艦に、アメリカがこの三姉妹を出してきたのです。
日本にとっては割とどうでもいい話だったかもしれませんが、アメリカにとっては
因縁も因縁、大変な「問題の艦」を見せつけてきたことになります。

現在の感覚では、どう好意的に解釈してもこれはアメリカ側の「威嚇」であり、
「嫌がらせ」
としか思えないわけですが、当時の練習艦隊がこれをどう受け止めたのかは
このアルバムの調子からは全く読み取ることはできません。

皆さんもご存知のように、軍縮会議の結果決められた保有数に日本は不満たらたらで、
その不満が日本の進む方向を変えたといえなくもないわけですが、
これもアメリカ側からいうと、

「日本は(陸奥を持つことができて)参加国中一番特をした国」

だったということになります。
日露戦争以降、アメリカは日本を「オレンジ計画」で仮想敵国として
潰しにかかっている真っ最中だったのですから、これも当然の意見かと思われます。

ワシントン軍縮会議が行われたのはこの練習艦隊寄港のわずか2年前だったことを考えると、
アメリカがこの時なぜわざわざ接伴艦に「コロラド」級三姉妹を選んだのか、
その意図は歴然としているではありませんか。

「貴国が16インチ砲搭載の戦艦『長門』をゴリ押しで持つことになったので、
我が国はやむなくこの二隻をそれに対抗して持つことになったのだ」

とアメリカが嫌味ったらしくこれらを見せつけてきたのに対し、

「実に嬉しかった」

とアルバムの筆者は無邪気にこれを喜んでいます。
さらには、

「彼我の間には正義と平等、親善と理解の曲が高鳴らされて居た」

などと、言わせてもらえばオメデタイというか、お花畑のようなことを
(アルバムのキャプションに過ぎないとはいえ)
書いているわけです。


まあ、実のところ、練習艦隊という立場で訪米をしているに過ぎない海軍軍人は
性善説で相手の行動を量るものですし、万が一2年前の経緯をこの接遇に
因果付けして何かを感じたとしても、胸の内にしまっておいたに違いありません。


しかし、少なくともこの写真で練習艦隊旗艦を観閲するアメリカ海軍の
「ワイレー中将」は、そんなおめでたいことは考えて居なかったと思われます。

この「ワイレー中将」とはおそらく、

Admiral Henry Ariosto Wiley (1867 –1943)

のことで、1924年当時には現地の海軍基地司令であったことがわかっています。

米西戦争に参加し、第一次世界大戦では戦艦「ワイオミング」の艦長として
他の戦艦9隻(戦艦部隊ナイン)とともに英国艦隊に派遣され、そこで功を挙げています。

この写真の3年後に海軍大将になり、アメリカ合衆国艦隊司令を務めたほどの軍人ですから、
このとき、日本の練習艦隊に向かって、にこやかに握手をしながら
テーブルの下で匕首を突きつけるがごとき訳ありの接待を考案したのも、
もしかしたら実はこの人物の意向であったかもしれません。

もっとも、日本側が「テーブルの下」の匕首に気づいていたかどうかは、
先ほどもいったようにあくまでもこの写真集からは読み取ることはできません。

知っていても知らないふりをし、表情に出さずに静かにやり過ごしていきなり

朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス

と暴発するわけわからない国、というのが真珠湾攻撃以降の日本への
世界的な評価になったという気がしますが、少なくともこの軍縮条約のとき
そのおとなしい日本にしてはよくごねたものだ、という感想を持ちます。

なお、現場の海軍軍人たちが国と国のいざこざとは一切関係なく交流するのは
古今東西同じ傾向でもあります。

そういえば軍人ではありませんが、つい最近我が河野外相と中国の女性報道官
華春瑩氏とが実にいい笑顔でセルフィー撮ったのが話題になりましたよね。

国家間の軋轢が深刻な両国の外相と報道官のツーショット。
これを見た日中両国民の感想は概ね好意的で、中国国民のネットの意見も
むしろこれを非難した民進党議員を逆に非難するという調子でした。

 


練習艦隊の接伴を行った「コロラド」三姉妹のその後について書いておきます。

戦艦「メリーランド」USS MarylandBB-46

ー「大和」との対決を望むも叶わず

 

真珠湾攻撃の際には、内側に係留されていたために損傷は軽微であった

タラワ、クェゼリン、サイパンの戦いに参加
1944年10月、レイテ島スリガオ海峡海戦では戦艦「山城」以下の撃沈に貢献 

陸軍特別攻撃隊靖国隊の一式戦「隼」が突入し主砲塔に命中
大破炎上、31人が死亡し30人が負傷

1945年3月ウルシー環礁に到着、戦艦「大和」との会敵が予想される直前、
またしても特攻機が突入し3番砲塔に直撃して使用不能に

メリーランドの艦長も乗員たちも、「大和」との対決を望んで戦列を離れようとせず、
戦闘航海に支障なし」と嘘をついて損害を隠したが、
その時すでに「大和」は大和は坊ノ岬沖海戦で戦没した後だった

メリーランドは戦争を生き延び、1947年4月3日に退役し廃艦処分にされた

 

戦艦「コロラド」USS ColoradoBB-45

ーフレンドリーファイアで破損ー

 

真珠湾攻撃の時にはオーバーホール中で、太平洋艦隊で唯一健在な戦艦となった

1944年5月サイパン、グアム、テニアン島で支援砲撃任務に従事

11月27日、陸軍特別攻撃隊八紘隊の一式戦「隼」2機が「コロラド」に突入し、
19名が死亡、72名が負傷、船体にも損傷を負う

1945年1月9日、友軍の誤射により上部構造を破損し18名が死亡、51名が負傷

終戦後は厚木飛行場への占領部隊空輸の支援を行う 

1959年にスクラップとして売却される 

戦艦「ウェストバージニア」USS West VirginiaBB-48

ー真珠湾の遺恨をレイテで晴らすー 

真珠湾攻撃では、甲標的と航空機によって左舷に6本の魚雷が命中
40㎝徹甲弾を改造した2発の爆弾も命中(不発)
砲塔上のカタパルトの水上機から航空燃料が漏出し発生した火災で30時間も燃え続ける
浸水によって着底し、乗員は艦を放棄して退避 

修復と近代化の改修工事を受けて1944年に太平洋艦隊に復帰

同年レイテ沖海戦でのスリガオ海峡で「扶桑」「山城」をはじめとする
日本海軍艦隊を撃破

1945年9月2日の降伏文書調印式に臨席
当艦軍楽隊から5名が「ミズーリ」に移乗し、式典で演奏を担当する 

その後日本に駐留し占領政策に従事 

不活性化のため係留されたシアトルでは隣は姉妹艦の「コロラド」だった

1959年スクラップ処分される

 

続く。

 

 

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パナマ運河通過!〜大正13年度 帝国海軍遠洋練習艦隊

2018-02-04 | 海軍

さて、アカプルコから大正13年度帝国海軍練習艦隊はパナマに向かいました。
パナマ運河を通過するというのは遠洋航海のハイライトです。

当時の船は石炭を動力としていたので、艦隊の皆さんは寄港地で
船に石炭を摘む作業を総出で行いました。

頭から顔を覆うヒサシ付きの帽子をかぶり、サングラス、脚絆着用。
これぞ、この時代の艦隊勤務につきもの、石炭積み作業。

明治、大正の戦争文学にも石炭を使ったボイラー室の仕事の過酷さが出てきますが、
その石炭を積むのも並大抵の重労働ではなかったらしいことがこの写真からもわかります。

右側に後ろを向いて何かを運んでいる人の列がありますね。
まさかとは思いますが、これも石炭を機関室に運んでいるのでしょうか。

石炭は低い石炭船の船倉から、外舷の高い軍艦に、すべて人力で積み込み、
10メートルもある外舷に板で階段を造り、その一段ごとに兵員が腰を掛け、
下の石炭船から丸い大きな竹籠にいっぱい石炭を入れては、次から 次と
手送りで上に揚げていくことになっていました。

船まで石炭の荷を上げるまでの仕事は水兵が行いますが、
下士官や候補生もそれを見物していたわけではもちろんありません。

手拭いで頬かむりをし、眼鏡を掛け、口にはマスクを当てて 、
写真ではわかりませんが、チョークで顔を白塗りしていたそうです。

石炭船から上げるだけでなく、これを機関室(船の底)まで
運ばなくてはいけないのです。
大正年間にはエレベーターがあったという話もありますので、
おそらく彼らは機関室につながるエレベーターまで石炭を運んでいるのでしょう。

この写真で旗艦が「出雲」になったということを初めて知りました。
どうも当時旗艦は航海中交代するものだったようです。

写真には

大日本帝国練習艦隊 旗艦出雲
大正十三年十二月廿九日 バ航 入港

とあります。

という訳で大正13年度帝国海軍練習艦隊は、南米のアカプルコを出立し、
パナマのバルボアに到着しました。

■ パナマ運河

世界一を標榜する米国民は流石にえらい仕事をして居る。
パナマ運河もその一ツで構造の豪壮、設備の完全共に驚嘆に値する
我が国には「船頭多くして船山に登る」という諺があるが
此処では閘門(運河の水量を調節する水門)によって本当に
船が山に登って向こう側の海に降ろされる。

パナマ運河は、パナマ共和国のパナマ地峡を開削して
太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河です。

1913年、つまりこの遠洋航海のわずか11年前に開通したというのは
世界的にも大変な出来事として衝撃的に喧伝されていたものと思われます。

 

日本人にとっては地球の裏側の出来事で、あまり関心はなかったかもしれませんが、
何しろそれまでは太平洋側と大西洋は南北アメリカ大陸で遮断され、
船を使った運輸を行おうと思ったら、わずか80キロの反対側の海に行くため
南米大陸先端のマゼラン海峡やドレーク海峡を回らなくてはならなかったのですから、
南北アメリカ大陸の国々にとってはこの快挙はそれこそコペルニクス的転回だったのです。

練習艦隊で此処を通過した海軍軍人たちも、この巨大な構造物とそれを成し遂げた
技術には大いに驚き、
アメリカという国の底力に感嘆した様子が記されています。

帝国海軍の練習艦隊の行き先に「パナマ運河」が初めて出てくるのは
大正10年、太平洋横断後、パナマ運河経由でヨーロッパに回るコースの時です。

その前年度の初めての世界一周、大正7年、鈴木貫太郎が司令官だった時の
練習艦隊も通過していた可能性はありますが、こちらは資料がなく定かではありません。


さて、そこでこの写真をご覧ください。

我が日本国海上自衛隊の遠洋練習航海においても、パナマ運河は必須コース。

最近の練習艦隊でパナマ運河でなくマゼラン海峡をあえて超えた例がありましたが、
これは「艱難辛苦汝を珠にす」的な意味で選ばれたのでしょう。(多分)

練習艦隊司令官真鍋海将補が後日水交会で行なった報告会では、
パナマ運河を航行する「かしま」の艦橋から撮った映像が早回しで上映されました。

「こんなに速く進めたら本当に楽なんですけどね」

と真鍋海将補は会場の人々を笑わせていましたが、実際、
パナマ運河というのは最小幅91m、最浅12.5mという難所でもあるので、

熟練の操舵をもってしても目を瞑ってスイスイというわけにはいかないのです。

待ち時間を含めると、通過には現在でも丸々24時間かかるということです。

パナマ運河は当初アメリカ統治下で、総督を置き、軍が管理をしていました。
民政となったのちも、運河総督は代々アメリカ陸軍軍人が務めています。

それ以外にも陸軍はパナマ運河軍と称する防衛隊を結成したようですね。

月夜のパナマ運河、これはどう見ても絵・・・ですよね?

紹介文に出てきたところの

「閘門によって船が山に登って向こう側の海に降ろされる」

というのが具体的にどういう意味かというと、パナマ運河を大西洋側から入ると、
まずガトゥン閘門というのがあり、此処で3つの閘門を越すと、
船は結果的に
海面から26mの高さに持ち上げられることになるということです。


出典:海上自衛隊ホームページ 平成29年度練習艦隊活動報告

これがまさに船が山に登って降ろされているの図。

パナマ運河を通過するアメリカの艦船。
流石に自分たちが通過している写真を撮ることはできなかったようです。

「カレバカット航行中」とありますが、現在の日本語では「クレブラカット」
 別名「ゲイラード・カット」と呼ばれる分水嶺の地帯のことです。

パナマ運河の太平洋側の都市バルボアで艦隊は正月を迎えました。
現地の陸軍を観閲するために正装して歩く司令長官百武中将と艦長たち。

案内はアメリカ陸軍軍人が行なっていますね。

■ バルボアの正月

(自12月28日 至 1月5日 8日間)

遠く太平洋を隔てて常夏の国で白服に汗を流して
思い出多い正月を迎えた我々は清しき椰子樹の陰に佇みて
はるかに祖国の雪景色と炬燵情調を偲ぶのであった。

白服で 雑煮を祝う 椰子の国

お正月を迎えた出雲の舷門の様子です。

こちらは「八雲」のお正月舷門。
注連縄をかけ門松の代わりに椰子の木でデコレーションしていますね(笑)

1月5日、バルボアを出発するにあたって、旗艦が「出雲」から
「浅間」に交代される事になりその引き継ぎの儀式が行われているところです。

状況がわかりませんが、捧げ銃の儀仗隊の前を、これから
敬礼した練習艦隊が下艦し「浅間」に乗り替えるところでしょうか。

遠洋艦隊中、旗艦の交代は2回行われました。
つまり、全部の艦が一度ずつ旗艦を務めたことになります。

ガトゥン湖の水力発電所を見学する候補生たち。
皆さん手ぶらですが、大きな水筒を背負っている用意周到な人もいますね。

一番右の人は制服を思いっきり汚しているのを写されてしまいました(笑)

バルボア、というのはスペインの探検家で征服者?というか植民地政治家だった

ヴァスコ・ヌニェス・デ・バルボア将軍

の名前から取られた地名です。
スペインからカリブ海を通ってパナマ地峡をあの悪名高い?ピサロと一緒に進み、
海が見えたので、

「新しい海(太平洋)を発見した」

と報告し、ついでに自分の名前をその地につけたというわけです。
当時のスペインの探検家らしく、結構残虐なこともやらかしています。

同性愛者を犬に食べさせるの図。

なぜ同性愛者なのか、なぜ犬なのか、色々疑問ですが、
ツッコミどころは見物している人々が全員モデル立ちしてることでしょうか。
なにポーズ決めてんだよっていう。

それと犬の首が妙に長いのも気になりますね。

ちなみにバルボア将軍、黄金を求めてさらに探索しようとしていたら、
かつての部下ピサロに
処刑されてしまったそうです。(-人-)ナムー

いやー、義理も人情もあったもんじゃありませんわこの時代は。

大西洋側のコロン県クリストバールには載卸炭場がありました。
当時は石炭が動力だった船のために、此処で給油ならぬ給炭を行なったのです。

現在のコロンにはコロンビアの麻薬組織が蔓延り、周辺の移民が流入し、
ただでさえ危険なイメージのある中南米一危険な土地と言われています。

300年前海賊モルガンに壊滅させられたオールドパナマの廃墟

と説明があります。

モルガンことヘンリー・モーガンはカリブの海賊、
つまり「パイレーツ・オブ・カリビアン」でした。

イギリス出身のカリブの海賊で、この一帯を遠征しては荒らし回っていましたが、
軍隊並みに力を持っていて、パナマ遠征では2時間の戦闘で市を壊滅させた、とあります。

モーガンの経歴を読んで驚くのは、海賊をやめた後、彼は

イギリスから重用され、治安判事、海事裁判所長などを歴任し、
1680年には、なんと
ジャマイカ島代理総督にまでなった

ということです。
「カリブの海賊」の話って、ファンタジー以外の部分は割と実話に基づいてたんですね。
イギリスが海賊を利用していたっていう。


バルボアを1月5日に出航、練習艦隊は再びメキシコの
マンザニーヨに向かいました。

航程1747.3マイル、6日と21時間の航程です。

儀式やレセプションではもちろん、艦内での娯楽として
コンサートを行なった軍楽隊の演奏中の写真が残されています。

アルバムによると、艦内では乗員の慰安のために、何度となく
音楽演奏が行われたといいますから、これもその一環でしょう。

指揮者と何人かの隊員は腰に短剣を佩しています。
検索してみると、ヤフオクでは「軍楽隊高級士官用短剣」なるものが
オークションに出たという形跡もありました。

それから彼らの軍服が兵学校生徒のそれのように裾が短いのにご注意ください。
これでよく知らなかったり暗かったりすると兵学校生徒と間違えて
うっかり敬礼してしまい悔しい思いをした下士官が結構いたそうです。

 

寄港地で日本からの便りを受け取ることもできました。
家族が鎮守府宛に出すと、海軍が先回りして届けておいてくれたようです。

わたしも練習艦隊あてに手紙がいつ届くのか知りたいという下心もあって、
実は手紙を出したことがあります。(もちろんお礼がメインの目的ですが)

とりあえず呉地方総監部にある練習艦隊宛に出したところ、
出航前の艦上レセプションの段階では届いていないようでしたが、
結局どこかの寄港地で追いかけるように先方は受け取ったようでした。

 

毎日発行されていたという「軍艦新聞」。
ガリ版に手書きで書いて、謄写版で刷って配られました。

現地の観光案内などもあり、皆が情報を得るのに重宝していたようです。

 

謄写版のローラーを動かす水兵さん、楽しそう。
この頃はカーボンのようなインク紙に、直接それを削り取る鉄筆で原稿を書き、
それを一枚一枚刷っていたのです。

ほぼ毎日のように発行されていたといいますから、大変な努力ですね。
きっと当ブログ主のように、皆に読んでもらうことが何よりの喜びだったのでしょう。

なんちゃって。

 

 

 

続く。



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アカプルコ・赤道直下の餅つき〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊 遠洋航海

2018-02-02 | 海軍

 

さて、ハワイ出航後の練習艦隊は南アメリカに向かいます。
航路途中、訓練を行うのは今も昔も同じです。

■ 公開中の諸訓練

(ヒロよりアカプルコまで

航程3190.5マイル 航走 17日14時間)

真の偉大に接し、無限を味合わんとするものは先ずまさに海に往くべし。
艦ゆけば雲もまた追い雲行けば艦もまた追う。
洋中に於いて視界幾十哩は実に我等の自由なる天地なり。
如何に我等が弾丸を飛ばし、小銃を放つと雖も無限に寛大にして何等の羈絆なし。

我等は天際の空の水平線に接するあたりを眺めて我が職務に勉るのみ。

写真に添えられた文章は、特に当時の基準として格調高い訳ではありませんが、
それにしても時々現代ではお目にかかることもない熟語が出てくるので、
なかなか漢字の勉強になります。

羈絆(きはん)

「おもがい」「きずな」「たびびと」と読む羈と言う字に
脚絆の絆を合わせたもので、行動するものの妨げになるものの意味です。

つまり、如何に我等が弾丸を飛ばし小銃を撃っても、なんの妨げるものもない、
と言う意味になります。

我々には生涯経験することのない「無限に寛大な海」を、海軍軍人は
航海中に行われる訓練によってその初心に叩き込むことになります。

艦腹から突き出るこの時代の砲から立ち上る白煙。
艦砲射撃の訓練とそれを見守る候補生たち、帯をして訓練に臨む水兵の様子。


船の形や訓練の方法は変わっても、この航海が初級士官である彼らの
初めて海の武人としての基礎を身につけるための最初の試練であることに変わりありません。

 

さて、遠洋航海に乗り出し、ハワイで過ごした後、練習艦隊の寄港地は
メキシコのアカプルコです。

大昔のユーミンの曲に「ホリデイはアカプルコ」と言う曲があって、そのような
地の果てのような場所ででホリデイを過ごすなんてどんなリッチな主人公なんだ、
と漠然と思った記憶があるのですが、
その後アメリカに移住してみると、
メキシコは(当たり前ですが)目と鼻の先の隣国でした。

そのため、在米中にはユカタン半島の先っちょにあるリゾート、
カンクンでのホリデイを
体験することもでき、アカプルコもわたしの中では
決して「地の果て」ではなくなりました。


ところで平成29年度海上自衛隊の遠洋航海も、ハワイの後はサンディエゴ経由で
メキシコに向かい、
チアパスに寄港後、これも恒例のパナマ運河を経由してから、
帰路にマンサニージョと言う都市に寄港しています。

マンサニージョは「Manzanillo」と綴るため、日本語の読みは
「マンサニーニョ」「マンザニーヨ」とどうも落ち着きませんが、
実は大正13年の練習艦隊も「マンザニーヨ」と記しているところの
この地に寄港したことがわかりました。

もしかしたら、明治の遠洋艦隊実施の際に寄港地に選ばれた都市が、その後も
連綿と
海軍、そして海上自衛隊の継続的な寄港先になっているのかもしれません。

 

それでは太平洋航行中の訓練風景からお送りしましょう。

「臨戦準備」とタイトルのある写真。
アーティスティックに吊られた舫越しに、甲板上の機銃が見えます。

その機銃射撃の訓練を行なっている最中の候補生たち。
右側で体育座りしている人の着ているのが幻の候補生の制服だと思われます。
しかし艦内で座り込んでこんな訓練をするのに白い服とは・・・・。

古い白黒写真でもはっきりとわかるくらい黒ずんで汚れていますね。

射撃を行なっている右には衝立のようなものを支えもつヘルメット着用の下士官がいます。

護衛艦などで甲板を探すと、大抵「溺者救助用」のダミー人形がありますが、
その伝統も遡れば明治大正の帝国海軍からのようです。

ただしこの訓練は「溺者」などと言う甘いものではありません。

「傷者運搬」

つまり、戦闘状態になった時、負傷した者を運搬する訓練です。

広瀬中佐が殉職した閉塞作戦から帰還した中佐の部下の写真でも、
ちょうどこの写真のようなものに簀巻きにされていた人がいましたが、
骨折などで体を動かさない方がいいような重傷者も、これに包んで
体に負担を与えず移動させることができるグッズです。

これだと階段を引っ張り上げることもできますね。

「砲側通信」と説明があります。

この頃の砲撃は、目視によって目標 (敵艦) の対勢、即ち照準線に対する向きと
速力を判定し、射撃計算、即ち発砲諸元の算出を行い、旋回手や 俯仰手は、
「準備」 の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正し、
砲手のそばにあるブザーが2回ブッブーとなると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃てー」 。
引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけで、 そして 「撃てー」 の合図で、
どちらかの舷側の 6インチ砲は一斉に射撃を行うことになっていました。

そして弾着の修正も行われます。
一発撃つのにこれだけの手間が必要ということは、各部署間の連絡が
必要となってくるわけですが、これらの組織・系統を結ぶ通報器や電話、
伝声管などの通信装置のうち、射撃指揮所と方位盤、測的所、発令所を結ぶものを

「射撃幹部通信」

発令所と各砲塔・砲廓砲を結ぶものを

「砲側通信」

と言いました。

よくわからないのですが、この真ん中にあるものが通信機器なんでしょうか。

■ アカプルコ

(自 12月19日 至 12月21日 二日間9

ここは三百年の昔伊達政宗の命を奉じて遠く騾馬に使した
支倉常長以来屡々(しばしば)我が国船の往来した處として
頗る縁の深い市である。
廃墟のようなサンヂエゴ砲台、厚い壁に小さな窓の民家、
石コロの路、豚と蝿、ペリコとインコ等何れも談の種となるものである。

「豚と蝿」という記述がすごいですね。
もちろん今ではそんなものはないでしょう。

ユーミンがホリデイにバカンスをするお洒落なリゾート地なんですから。


文中の支倉常長(はせくらつねなが)は安土桃山時代の武将で、
伊達家の家臣として慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、
アジア人として唯一無二のローマ貴族となり、さらには洗礼を受けて
ドン・フィリッポ・フランシスコの洗礼名を持つに至りました。

支倉常長さん

支倉は油絵で肖像画を描かれた最初の日本人と言われています。

その後日本では切支丹禁止令が出たので、本人は失意のうちに死去、
子孫も処刑により支倉家は断絶の憂き目にあいました。

(切支丹禁止令といえば、余談ですが、遠藤周作原作、映画『沈黙』、
まだご覧になっていなかったら是非見ていただきたい映画です。
リアム・ニーソンやスターウォーズのカイロ・レンの俳優が出ていて、
浅野忠信の英語がやたらうまくて、窪塚が絶妙ないい味を出してます。)

ちなみにこの説明による「伊達政宗の命」とはスペインとの通商の締結でしたが、
その途中に寄港したのが、スペイン領だったここアカプルコだったのです。

 

 

街並みはテラスのあるスペイン風の二階家が見えています。

「アカプルコ公園」だそうです。
ベンチには二人で座っている水兵さんの姿がありますね。

「砲台より港を臨む」

この砲台というのは、海賊からスペインの貿易船を守るため、
1616~1617年に建造されたサンディエゴ要塞のことです。

ダウンタウンの小高い断崖の上に位置し、堀を巡らせた建物は五角形、
石造りの砲台が並んでいる昔ながらの観光地となっています。


サンディエゴ砲台から見た「八雲」「浅間」「出雲」。
一番後ろ、二本煙突が「浅間」です。

サンディエゴ要塞入り口。

同じ方角から見た現在の入り口の写真を上げておきます。
当時は橋に手すりなどはなかったようですね。
城壁の上部の白い構造物は後から設置(復元?)したようです。

「アカプルコ土産」という題がついています。

当時の写真には珍しく、軍服でニコニコしていますね。
冒頭の紹介文にもあるように「ペリコとインコ」が当地の名産です。

ペリコというのも緑色の「アカガタミドリインコ」のことですが、
練習艦隊の皆さん、お土産についインコを買ってしまった模様。
全員が一羽ずつ、手に乗せたり肩に乗せたりして嬉しそう!

階級章はこの写真ではわかりませんが、特務士官という感じですね。
インコちゃんたち、ちゃんと日本に連れて帰ってもらえたのよね?

「武器・体技・遊技」とタイトルがあります。
これらの催しは、アカプルコを出港し、バルボアまでの、
航程1478マイル、7日と22時間の航海中に行われました。

剣道、銃剣、弓術、すもうなどが武技・体技です。

アカプルコでは剣道、柔道などを現地の賓客に観覧していただきました。
どんな試合が行われているかは、皆さんの表情から伺い知れますね。
前列に座っている全員の顔が・・・・・・・・(笑)

( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)

さぞ白熱した試合が展開されたのでしょう。
右から三番目の白の軍服が、練習艦隊司令百武三郎中将です。


かと思えば、片足を縛ってケンケンで紐の先の飴を咥える「飴食い競争」。
真面目な顔で一生懸命やっている様子がじわじわきますね。


■ 航海中

 

毎日目に見える様な気温の昇騰と共に「バルボア」は近づき、
記念すべき遠航の正月は眼前に迫ってきた。
甲板からは景気の良い餅搗く音が一日中聞こえた。

 

冒頭写真は艦上での餅つき大会の様子です。
今と違い、餅つきはお正月を控えた日本人の特に大事な、そして
故郷を思い出す心の行事だったので、盛大にこれを執り行った様です。

アルバム中、全員が相好くずして笑っているのは唯一この写真だけです。

ただし日本のお正月準備とは違い、ぐんぐん上がる気温のため
現場では大変な暑さになっていたことが写真からもわかりますね。


 

続く。

 

 

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ハワイ・ヒロ寄港〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

2018-02-01 | 海軍


横須賀を出航した我らが帝国海軍練習艦隊。
ここからがいよいよ「遠洋航海」の始まりです。

そしてこの艦隊には個人的な想いから遠洋航海を古川中将から
横取りした(笑)百武三郎中将が練習艦隊司令として
今や意気揚々と乗り込んでいることでしょう。

 


■ 航海中 

横須賀よりヒロまで航程3859.1哩航走
16日と13時間

海は神秘なり海洋は偉大なり
藍碧の洋と碧瑠璃の空と相呼応する状は無限なる宇宙の一つの「シンボル」なれ
見よ、雄大、偉大、荒天、平穏、寂寞、単調と海洋の有する種々の相を
おゝ我が帝国の使命を有する海神の寵児等が艟艨(どうもう)海に浮かぶるの時、
幾千年、幾万年の太古より溢れ湛えし水は驚愕し、歓喜し、舞踊し、
果ては舷側近く喜びの音楽を奏でて陽の光に輝く波の宝玉を齎らしぬ


まず、平成29年度練習艦隊の横須賀出航は5月22日、
ハワイの真珠湾到着は6月2日。
11日しかかかっていないわけですが、この頃の「4日の違い」
がその頃と今の船の性能の違いであるわけです。そして、それに続く大変詩的な文章の中にある

艟艨(どうもう)

という言葉ですが、各々の漢字は舟編に童の艟、同じく舟編に蒙と書いて、
どちらも訓読みで「いくさぶね」と読みます。

いくさぶね+いくさぶね=いくさぶね

で、艟艨(どうもう)=いくさぶねとなるのです。

言葉自体に感嘆の意を含むので、戦後自国を守るためにであっても
「日本の保有する船はいくさぶねではない」という建前から、
「駆逐艦」「戦艦」という言葉を無くしてしまった自衛隊では
さらに一層使われることのない死語と成り果てた言葉の一つでしょう。

現在海上自衛隊遠洋航海で出港前に行われる海幕長の訓示では、

「さまざまな形に姿を変える海」

という言葉が必ずと行っていいほど出てきます。
冒頭の言葉にも、形を変える海の姿がさまざまな表現で言い表されています。
そしてこれはある日の艦首に砕ける波の様子。

もちろんこうなると甲板に出るのは禁止になるはずですが、
海の怖さを甘く見ている空自出身の某空母艦長などは、わざわざ台風の時に
甲板にのこのこ出ていって

「私はお前を恐れぬ!」

とか言って波をかぶり、脚を掴んで海に落ちるのを防いだ副長に呆れられます。

全く、パイロット出身の空母艦長ってのはよお・・・。

ところで日本国自衛隊が保持を予定している空母「いずも」においては、
艦長は海自からなのか、それとも空自出身がすることになるのか、
気になるところですね。

アメリカ軍空母はパイロット出身が勤めることになっていますが、
先日ある海自の幹部の方に聞いてみたところ、

「操艦できない艦長なんてありえない!」

ということでした。

太平洋航海中の写真も残されています。
訓練の一環で実弾射撃が行われました。
5〜6の水柱が水平線に立ち上がっているのが見えます。

候補生たちは事業服を着用しているようですね。

11月21日の午前9時半、東経180度子午線を通過しました。
慣例に従って神事とお祭りを行なった様子です。

「今日御祭す 波路一百八十度」

後ろにはいわゆる「土人」に扮した乗員の姿が見えますが、
この神職は一体・・・?

まさか従軍神父みたいに神職が乗り込んでいたわけでもないだろうし・・・。
これもまさか・・・コスプレかな。

 

 

■ ヒロ

(自 11月26日 至 12月15日)

在留同胞の万歳の辞と日の丸の旗に迎えられて
艦隊は悠々弧月湾に入る。
一万四千尺の高峯「マウナロア」は我らの眼前に控え、
若人の憧れて椰子の木茂る布哇島は月光を浴びて我が舷側に其の姿を浮かべた。

想えば三十年の昔、「キャソリック」寺院の鐘の響が
椰子の葉末を渡る時、夕陽淋しき入相を待ちし「ヒロ」の街も今は
自動車の鋭く強き眼光の交錯する市と化し、
一圓茫々たりし原野も緑滴る甘蔗畑と変わった。

されど想え、この発展の歴史の中に潜む在留同胞の汗と力を。

文中の「弧月湾」から臨む「 マウナケヤ」です。

「弧月湾」というのが現在ないので想像ですが、これは「カーブ」を意味する
「ハナウマ湾」の日本人、日系人だけの呼び名ではないかと思われます。

ハワイの日本人移民が始まったのは1868年のことで、
1902年にはサトウキビの農家の70%が日系だったとされています。

ただし、この練習艦隊がハワイに訪問したのと同年の1924年、
アメリカではついに排日移民法が成立しました。

本土では日系人が収容所送りにされたのはご存知だと思いますが、
ハワイではすでに彼らが社会の中心を担っていたため、もし彼らを収容所に入れると
現地の経済がたちまち立ち行かなくなるという現実的な理由から、
ごく一部の者だけが「見せしめ」に収容されるということになりました。

この写真の頃にはすでにそれが交付された後で、
したがって練習艦隊の海軍軍人たちもそのことを重々承知をしていたはずです。


この写真に見えるのは、おそらく自分たち日系人の行く末に不安を感じつつも、
昨日と同じいつも通りの生活を続けているらしい人々の姿です。

「されど思え、この発展の歴史の中に潜む在日同胞の汗と力を」

と称揚しながらも、練習艦隊の乗員たちが、忍び寄る暗雲を
現地の人々の様子から感じる瞬間があったやもしれません。

「ヒロ公園より軍艦望遠」とキャプションがついています。
今でもヒロ湾を一望する湾岸には公園が幾つか広がっているので、
おそらくそのうちの一つであろうと推察されます。

右上はヒロに入港したときの様子。
デリックで海面に降ろされる内火艇に3人乗っているのが見えますね。

左下は横須賀出航以来初めての燃料の補給です。
この頃は石炭を積み込むことが「燃料補給」でした。

 

■ キラウエア火山

壮観か?凄惨か?将(はたま)た恐怖か?
ある時は魔の蛇のごとく、ある時は呪いの女神の焔の如く湧出し、
飛散し昇騰する噴焔の物凄さよ。

 

この頃のカラー写真というのが、フィルムからカラーだったのか、それとも
後から彩色したのかというと後者だと思うのですが、
それにしても真っ赤っかにしすぎではないだろうか。

というキラウエア火山の噴煙の写真。(冒頭)

ヒロのあるハワイ島の活火山で、1883年から噴火を繰り返しており、
よくまあこんなところに人が住んでるなあという状態なのですが、
桜島もそうであるように、そこに住んでいる人は割と平気みたいです。

まあ日本そのものも、外国から見たらよくそんなところに住んでるなと
言われても仕方がない国なんですが、みんなわかってて住んでますしね。

初めて外国に出て、このようなものを目の当たりにした練習艦隊乗員たちの
感動と驚き、自然に対する畏怖がいかばかりであったかは
想像に余りあります。

その火山見学に、練習艦隊の皆さんは無謀にも白い制服でやってきました。
11月ですが、ここでの季節を夏と規定して、皆さん夏服を着ている訳です。

こちら、百武司令(一番左)と3人の練習艦艦長たち。

候補生たちも火山口を夏服で見学です。
以前紹介した六十七期の遠洋航海では、火山見学の時
わざわざ冬服とマント着用でやってきていましたが、それは
この先達の経験から忠告を取り入れてのことだったかもしれません。

火山までは車をチャーターするほかないわけですが、これを全て
地元の日系人たちが手配したということが書かれています。

■ 歓迎

布哇島が生まれてよりこの方。
嘗て無かったと言われるほどの所謂(いわゆる)島を挙げての
在留同胞の心からの歓迎!!
それは到底筆で表すことはできない。

殊に自動車の百数十台を連ねて三十哩を距てた
キラウエア火山への案内等には乗員一同如何に感謝したことであろう。

そしてハワイを発つ日、日系人同胞は熱烈に練習艦隊を見送りました。
錨を上げた艦隊の周りを、岸壁はもちろん手作りらしい日章旗を
押したてて漕ぎ、名残を惜しむ日系人の姿が写真に残されています。


思い出多き滞在の日も慌ただしく過ぎて、艦隊は
艦も沈まんばかりの同胞の贈り物と熱誠な見送りの裡に
墨國はアカプルコに向け出航した。

 

続く。




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「鹿島立ち」横須賀出航〜 大正13年 帝国海軍練習艦隊

2018-01-28 | 海軍

さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の国内巡航、もう一息で終了です。

■ 名古屋

その昔那古野(なごや)と云われた荒涼な原野も今や
人口六十余万を有する大都会となって、その繁華、
流石中京の名に背かぬ。

「尾張名古屋は城で持つ」謳われた城は市の北方に聳え、
天守閣上の金鯱は燦として輝く。
乗員一同はすぐ近くの熱田神宮に詣でて武運長久を祈った。

城で持つという名古屋城。

昨日の俗説によると、名古屋は不美人の三大産地の一つということですが、
こちらは何を根拠にそうなっていることやら、と思い一応調べてみたら

「徳川御三家の尾張藩が美人をみんな江戸に連れていったから」

もう一つの仙台についても、伊達政宗が美人をみんな(略)と、
甚だ怪しげな俗説にすぎないようです。

同じ俗説でも秋田、博多に美人が多いというのはなんとなく納得しますが。

名古屋城見学をしている水兵さんたち。

このスタイルは、(上夏服、下冬服)合服です。
ということはこの写真が撮られたのは9月後半、7月末に日本を出港し、

出雲から名古屋まで約2ヶ月かかったことになります。

「中京」というのが「中部の京」を意味していたことを今知りました。

この頃から結構な都会だったんですね。
中心部には市電も走っています。

一行は熱田神宮に参拝を行いました。

官(朝廷、国)から幣帛ないし幣帛料を支弁される官幣神社である
熱田神宮は現在でも神宮(伊勢神宮)を本州とする神社本庁です。

三種の神器である草薙剣を祀っているそうです。

そして、現在でもそうですが、伊勢神宮の後、練習艦隊は横須賀に入港し、
その後遠洋航海までの間帝都で様々な行事をこなすことになります。

中でも皇居に赴き天皇陛下の拝謁を賜るのが最も大事な行事となっていました。

 

しかし、アルバムにはただこの冊子中唯一のカラー写真として
皇居お堀と橋の画像(昨日の冒頭写真)が挟まれているだけで、
他の寄港地のような感想も
なんの説明すらもありません。

そのことが、皇居参内の儀式を神聖なものとみなし下々の語るところではない、
としたように思われました。
アルバムの写真に添えられた感想ごときで陛下の拝謁について述べるのは
あまりにも畏れ多い、とされたからでしょうか。

おかげで、皇居参内を率いたのが国内巡航を行なった古川中将なのか、
それとも遠洋航海司令となった百武中将なのかもわかりませんでしたが、
翌年全行程を率いるのが古川中将ということに決まっていたので、
この時だけは舞鶴から百武中将が馳せ参じたのではないかと考えます。


国内巡航を無事に終え、大正13年度練習艦隊は横須賀に寄港し
帝都における行事の合間に
候補生たちは東京見物や見学などを行います。

明治神宮や海軍関係の施設、靖国神社参拝より何より、
若い地方出身の候補生たちにとってもっとも楽しみにされていたのが、
実は銀座だったらしいということが、後年の彼らの供述から推察されます。

銀座ツァーには東京出身の地元に詳しい候補生をガイド役に、
カフェーや天ぷら屋、買い物を楽しんだということです。

 

また、この頃は寄港地出身の候補生の家に宿泊することも許されていたので、
各地の候補生の実家ではクラスメートを地域を挙げて歓迎したものでした。

そして、美人の妹の写真を何かの折に見て密かに期待を寄せ、
練習艦隊寄港の際に彼女を見たさに級友の実家に押しかけ、
実際に嫁にしてしまう候補生も結構いたという話です。

戦前は海軍士官の結婚には届けが必要で、身分が不釣り合いな女性
(芸者とか外国人とか)はその許可が下りなかった頃ですから、同級生の妹、
というのはある意味最も確実な結婚相手候補とされていたのです。


■ 横須賀出航 大正13年11月10日

雄々しい首途!!
希望に輝くその鹿島立ち!!
「ロングサイン」の「メロディ。
万歳の叫び。
帽の波。
横須賀あとに万里の長途にのぼる我等は、
「日本の御山富士よりどんな臆を受けたことであろう。

 

平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補は、江田島を発つとき

「鹿島立ち 見よ若桜 みをつくし(澪標)」

という句を詠まれました。

練習艦隊旗艦が「かしま」であることと、「旅行に発つこと・旅立ち」を意味する
「鹿島立ち」を掛けたのは素晴らしく気の利いた洒落だと感心したものですが、
そもそも練習艦隊旗艦を「かしま」「かとり」としたというのも、遡れば
「鹿島立ち」にあやかってのことだった、ということを皆様はご存知でしょうか。

 

いい機会なので説明しておきますと、「鹿嶋」「香取」は旧軍艦の名前になっているように
いずれも元々は軍神であり、両神宮共に武運の神を祀る処とされています。

鹿島立ちの語源とされている説は二つあります。

一つは奈良時代のこと。

東国から筑紫、壱岐、対馬などの要路の守備に赴いた防人は、
任地へ出発する前に鹿島神宮の前立ちの神たる阿須波神(あすはのかみ)
道中の無事を祈願したということから、のちの武士にもこの習慣が伝えられました。

もう一つは、鹿島の神、武甕槌(たけみかづち)香取の神、経津主(ふつぬし)
天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先だって、
葦原中津国(あしわらのなかつくに)を平定したことからという説です。

防人が無事を鹿島神宮に祈願するようになったのは(前説)
後説の伝説が流布したから、ということですよね・?

つまりどちらも正しいとわたしは思うんですが・・・。

 

それはともかく、この練習艦隊参加の「出雲」や、翌年参加の「磐手」の後釜として
設計された練習艦の名前はまさに「鹿島」「香取」と言いました。

この頃の武人の語彙に「鹿島立ち」という言葉が生きていたからこその命名です。

このアルバムの頃には軍艦「鹿島」「香取」は存在もしていませんが、
その壮途に対し「鹿島立ち」といういにしえの言葉が送られているのです。

さて、そんな具合に、国内巡航でいいことがあった候補生も、
なかった候補生も、等しく横須賀を出航する日がやってきました。

横須賀に停泊した練習艦隊旗艦には、海軍大臣財部彪が来訪しました。

財部は前にも書いたように軍神広瀬中佐と同期で恩賜の短剣のクラスヘッド。
山本権兵衛の娘婿だったこともあり超スピード出世で、この頃には
加藤友三郎内閣の海軍大臣にまで成り上がっていました。

この数年後、ロンドン軍縮条約で全権を務めた財部は、当時の艦隊派や
肝心の海軍軍令部(が味方につけた犬養毅と鳩山一郎)に糾弾され、
統帥権干犯問題で辞任することになっています。

(時の海軍と組んで、『日本の艦隊保有量が不公平だ』とする側に
野党の犬養が与したことについて、以前そのダブスタを指摘したことがあります。
結局犬養って今の野党と同じ、単なるアンチ政府主義だったってことですよね。
『憲政の神様』はそれらを思うと過大評価ではないかといつも思います)

不鮮明ですが、手前の白い列が見送りの軍人たち、そして
艦上の候補生たちが帽振れをしているのが確認できます。

これは現在護衛艦が繋留している岸壁でしょうか。

帽振れをしているので出航直後だと思いますが、場所は・・・
右側が現在の潜水艦基地にも見えるのですがどうでしょうか。

岸壁を離れ横須賀港を出て行く「八雲」「浅間」「出雲」。
動力は石炭なので、煙突からは黒々とした煙がたなびいています。

横須賀に停泊している海軍の艦船の乗員たちが見送っています。
ここで注意して欲しいのは、練習艦隊と見送りが白の第二種なのに、
この艦上では全員が冬服を着ているということです。

季節的には秋の衣替えシーズン過渡期(多分9月)で、
一般にはもう冬服が着用となっていたのが、練習艦隊は
出航の儀式は白と決めて行ったようです。

そういえば!

我が日本国自衛隊の練習艦隊も出航は5月で衣替えには早いですが、
純白の礼装で臨むのが慣例になっています。
過渡期であれば出航は白、というのは海軍時代からの不文律だったのでは・・。

 

 

 

続く。

 

 

 

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内地巡航〜大正13年帝国海軍練習艦隊

2018-01-27 | 海軍

 

大正13年から90年後の海上自衛隊においても、練習艦隊遠洋航海は
代わりなく行われています。

実習対象が「少尉候補生」から「新任幹部」と変わっても、
江田島での卒業式の後、表門から出航していった練習艦隊が
まず国内巡航を行ったのち、世界一周に向けて船出し、世界の各地で
文化交流や現地の海軍との「グッドウィル・エクササイズ」と呼ばれる演習、
そして「リース・レイイング」なる現地での戦績などでの慰霊式などを行って、
海軍軍人としてのスキルと見識、見聞を深めるという意義に変わりありません。

当時は国内巡航で当時国内であった大連や旅順、そして鎮海(チンフェ)に
まず寄港したのち、本土を廻るというのが慣例となっていたようです。

さて、というところで今日は国内巡航についてです。


■ 杵築(出雲大社)

縁結びの神様が鎮座まします。
誠心込めて詣でたる若人等には嘸ぞや霊験いやちこであろう。

一生懸命「きづき」で変換していたのですが、杵築は『きつき』でした。
朝鮮半島の鎮海からまず九州に戻ってきた練習艦隊は、まず
出雲大社に参拝するために島根県杵築に立ち寄りました。

この鳥居は現在はコンクリート製のものに変わっているようです。

出雲大社が縁結びの神というのは冒頭にも書かれており、
練習艦隊乗員も、「誠心込めて」お参りをしているわけです。
若い独身男性が多いので当然かと思いますが、それにしても
海軍兵学校の練習艦隊なのに

「縁結びの神様なので、一生懸命お願いすれば、
きっと君にも素敵な彼女ができちゃうかもよ?」

みたいなノリなのがほっこりしますね。

「霊験いやちこ」という言葉を見てはて?と思い調べると、

「いやちこ」=灼然

で、「あらたか」の別の言い方なんだそうです。
そういえばあらたかは「灼か」と書きますね。

今口で「霊験いやちこな神様だから」などと言っても、
十中八、九「は?」と聞き返されるのがオチでしょう。

あーこれで一つ日本語の読みに詳しくなった。

稲佐の浜には弁天島といって、現在は豊玉毘賣の命を祀っている岩があります。

現在の弁天島。
左の亀裂が深くなり、明らかにこの90年で岩の形が激変していますね。

■ 舞鶴

舞鶴は飛んで三景の一天橋立に遊ぶ
白砂青松十数町の間涼風を浴びつつ散歩する
爽快なる気分は忘れ難い

島根県から日本海を時計回りで舞鶴に寄港しました。
今でも練習艦隊の国内巡航は時計回りと決まっているようです。

天橋立の海岸沿いに全く建築物が見えません。
今は両岸にぎっしりと住宅が立ち並び町ができています。

天橋立といえば股覗きですが、この慣習には仕掛け人がいて、明治後期に
吉田皆三という人が環境事業の活性化の一端として(つまり町おこし)
喧伝され、観光客を通して広まったものです。

まあ、寿司業界が初めた「恵方巻き」古くはチョコレート会社が仕掛けた
バレンタインデー、それに続くホワイトデーみたいなもんですね。

天橋立は『丹後国風土記』でイザナギが天へ通うために作ったものとされ、
股のぞきを行うことで、天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬
天にかかるような情景を愉しむことができることから考えついたようです。

練習艦隊のみなさんも、皆で股覗きを真面目に行ったことでしょう。

■ 新潟

何処となく古の江戸情調の偲ばれる新潟の市は
新来の我等には一汐なつかしい味を興へる

信濃川と万代橋、米と石油、雪と美人がここ新潟の名物とか。

候補生は石油工業見学の為、新津油田に赴いた。

 

この頃すでに「秋田美人」というのは全国でも有名だったのですね。
なぜここに美人が多く、京都、博多と並ぶ美人の産地となっているかについては
いろんな説があるのですが、日照が少なく色白の肌の人が多い、
という理由以外で面白いのは

「関ヶ原の戦い以降、常陸国(現在の茨城県)の大名佐竹義宣が江戸幕府から
秋田への転封を命じられた腹いせに、旧領内の美人全員を秋田に連れて行ってしまった。
その後水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏へ抗議したところ、
秋田藩領内の美しくない女性全員を水戸に送りつけてきた為、
秋田の女性は美人で水戸はブスの3大産地の1つ(他の2つは仙台と名古屋)になった」

という説ですが、これって・・・・どうなの。

ってか誰がその送りつける女性の人選を行ったんですか。

候補生は新津油田の見学をしたとありますが、江戸時代から平成にかけて
ここでは採掘が行われていたそうです。

この頃には12万klを達成し、名実ともに産油量日本一の油田でしたが、
1996年に最後の井戸の採掘が終了し、油田としての役目を終わりました。

万代橋は現在でも国の重要文化財に指定されているということですが、
明治年間に信濃川に初めて掛かった橋でした。

重要文化財となっているのは1929年(昭和4年)完成と言いますから、
練習艦隊の写真のおそらく直後に取り壊しが始まり、架け替えられています。

白黒写真でわかりにくいですが、橋脚は木で組んでいるもののようですね。

新潟市街。

右に見えているのが信濃川だとすると、現在の新潟駅と川の間の地域でしょうか。
(新潟に詳しくないので適当に言ってます)

それにしてもこの写真・・・随分高いところからですが、何処から撮ったんでしょう。

■ 函館 

聞いてさえ血湧き肉躍るボートレース!!!
海の男の兒にふさわしいボートレース!!!

その火の出るような競漕が波静かな「ウスケシ」の海で行われた

鴎群れ飛ぶ「ウスケシ」の港
楡の若葉に日は溢れ
谷間の鈴蘭の香も揺らぐ

練習艦隊、なんと函館に来てまでカッター競技を行ったようです。

右下はまさに二艘のカッターが「波の火花」を散らして
雌雄を決しているところです。

そして左下、賞品が授与されたところ。
防衛大学校でもカッター競技には皆大変なファイトを燃やし、
全力で勝負に挑むそうですね。(参考:あおざくら)

もちろん幹部学校でも。

■ 大湊

緩やかな傾斜をなす鉢伏山の裾野に大湊が横たわる
淋びたりと雖も我が北海の重鎮!!!

冬季は「スキー」に「スケート」に高適の地である。

 

この頃の習慣として外来語をかっこでくくって書いてあります。
大正13年当時にスキー、スケートって一般的だったんでしょうか。

そういえば昔、ある海軍士官がスキーをしている写真を見せてくれた人が、

「この時代にスキーをやるなんてどんだけ特別階級だったんでしょうね」

とおっしゃっていたのですが、雪や氷があれば手作りの道具でもできるため、
案外庶民的な遊びでもあったのかなと思えてきました。

大湊要港部、現在の海上自衛隊大湊地方隊です。
掲揚台には少将旗が上がっているのが確認されますが、
これは大湊要港部の司令官が少将配置であるからです。

ちなみにわたしが存じ上げている海軍軍人の父上は、
この写真の撮られた10年ほど後に司令官を拝命しています。

宇曽利湖は恐山付近のカルデラ湖です。
グーグルマップで見ると、現在でも湖岸には建物一つもありません。

(しかしそんな土地で営業している”恐山アイス”って一体)

大湊というところにわたしは行ったことがないのですが、恐山が近い、
というだけで北海の要所ながら淋しいところなんだろうなあ、と
冒頭の紹介文を読むまでもなく想像しておりました。

艦隊陸戦隊の上陸とあります。
練習艦隊のことだろうと思うのですが、陸戦隊を臨時結成したとか?

大湊要港部のスキー陸戦訓練、とあります。
雪中訓練というと昔は陸軍、今は陸自の専売特許のようなイメージですが、
何がいつ起こってもいいように海軍の皆さんはこうやってスキーで
陸戦訓練を行なっていたということのようです。

やはり日露戦争を経ての経験から得た教訓でしょうね。


現在の海上自衛隊大湊地方隊は、かつての非鎮守府基地から「昇格」したことになります。
冷戦時代にはもっとも緊張していた基地であり、現在もなお、
日本の北端部の守りを行っている「我が北端の重鎮」であることに変わりありません。

■鳥羽

鳥羽から汽車で一時間宇治山田に着く。
国の鎮めの伊勢神宮に参拝す。

 何事のおわしますかは知らねども
     かたじけなさに涙こぼるる

 

最後のは有名な西行のもので、家族を捨てて修行の旅にでた西行が
伊勢神宮にたどり着き、その神々しさに打たれて詠んだ句です。

陸奥からいきなり三重県に回航、伊勢参拝を行いました。

山田駅前の集合、とキャプションがありましたが、これは伊勢神宮に近い
「宇治山田駅」のことで、当時は単なる「山田駅」らしかったことがわかります。

船ではなく各地に宿を取り、参拝の朝駅集合になったようですね。 

ところで、参拝をするために行進しているこの写真の先頭、
おそらく練習艦隊司令官だと思うのですが、これはおそらく
国内巡航の時のみ艦隊司令を務めた(と判断しているところの)
古川中将には見えません。

この姿形、どう見ても百武中将ではないでしょうか。

 

百武中将はこの時まだ舞鶴要港部司令の職にあったはずですが、
国内巡航で「ここぞ」という寄港地の時には舞鶴から馳せ参じ、
その時だけ練習艦隊司令官を交代して素知らぬ顔で?務めたようです。

 

続く。

 

 

 

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「外地」と言う名の日本〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

2018-01-26 | 海軍

大正13年度帝国海軍練習艦隊、「司令官交代の謎」を追って
ひょんなことから隠されていた(と言うか放置されていた)史実を発見し、
古本屋でのこの写真集との出会いは大変価値のあるものだったと
今更ながら自己満足にふけっているわたくしです。

一度帰国までのエントリを全部作成し、アップする際にチェックし、
その後新しくわかったことや間違っていた箇所を加筆訂正しているのですが、
今回はアップしてから読者の皆様方に問いかけ、アイデアをいただき、
もう一度全てを見直すことで限りなく正解に近づくことができました。

この場をお借りして御礼を申し上げる次第です。


ところで、ひょんなことといえば、最近、我が家のご先祖が
土佐藩士出身の陸軍軍人であったことがわかりました。
海軍でなかったのは残念ですが、わかったことは児玉源太郎と同期で、
児玉が大尉時代には大阪陸軍省で同僚だったという事実です。

今回、ご先祖が児玉源太郎と一緒に写っている写真を発見し、
江ノ島の児玉神社に詣でたことや、日露戦争の勝因の一つとなった
「児玉ケーブル」というべき海底ケーブル敷設について
児玉の功績をここでアップしたのも何かのご縁かと浮かれてしまいました。

この人物のその後もわかっているのですが、予備役となった後、
為政者として地域に貢献し、地元の名士になったようです。

歴史を紐解くことは現在と過去の対話、という言葉がありますが、
写真ひとつが時には過去を解き明かすドアとなるということが、
練習艦隊司令官問題に続いて実感できた不思議な出来事でした。


さて、問題解決のために、キイとなった鎮海要港部での写真を
皆様にお見せするために順序が入れ替わっていましたが、
改めて江田島出港を果たした練習艦隊が、国内巡航に先立ち、
国内は国内でも当時日本であった「外地」に赴くところから始めたいと思います。

「外地」「内地」

今では聞きませんが、終戦までの日本では普通に使われていた言葉です。

「外地」の定義は「大日本帝国における内地以外の統治区域」で、
「属地」と呼ばれることもありました。

具体的には以下の地域を指します。

 

この「関東州」の欄を開いていただければお分かりのように、大連は関東州、
1905年のポーツマス条約で日本がロシアから引き継いだ租借地にあります。 

一応念のためにあえて書き添えておきますと、ポーツマス条約
日露戦争講和条約のことで、アメリカが仲介をして締結されました。

これもお節介かと思いますが、講和内容を記しておきます。

日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。

日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。

ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。

ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、
付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。

ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)
の租借権を日本へ譲渡する。

ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。


これ以降、大連、そして旅順は「日本」となったというわけです。
朝鮮半島についていえば、もし日本が日露戦争で負けていたら、
朝鮮は日本が行ったような「統治」ではなくロシアの一地方として組み込まれ、
勿論今でも独立することはなかったと誰が見ても明白なのですが、
それでもあそこの人たちは、日本に「ひどい収奪支配を受けた」とか言って
いまだにひどい精神的苦痛を受け続けているらしいですね。

そして、日本の中国大陸進出のきっかけは、福島瑞穂()が口を開けばいうように
「侵略」というものではなく、戦争後の条約によってアメリカの立会いで認められた
正式な権利であったということになるのですが、その話はともかく、
赤太字の項目で日本が正式に得た租借地、それが関東州だったのです。

大正13年当時、大連も旅順も租借地になってすでに20年が経過しており、
日本が心血を注いで外地に求めた「理想の都」がすでに形になりつつありました。



【大連】

臼杵(うすき)佐世保を経、平穏なる海上に翡翠の漣を立てて
亜細亜大陸の一角大連港を訪う

豪壮な建物、美しき道路、緑滴る並木、完備せる埠頭、
先ず吾等の眼を驚かす星ヶ浦、老虎灘などに杖を曳いた後、
市の中央大和ホテルの屋上に立ちて全市を瞰下する時、
吾等の胸に去来するものはなんであったろうか

 

冒頭写真は大連の中心部。
放射状の市の中心部広場は実に美しいですが、
これらは皆日本統治となってから整備されたものです。

塔の前の銅像が誰のかはわかりません。

大連に上陸する練習艦隊の士官候補生たち。
埠頭には出迎えの人たちが並び、日本国旗が随所に見えます。

ヤマトホテルは現在でも営業しているということです。
ここにも銅像がありますが、軍人のようですね。広瀬大佐とか?

南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営し、多くの要人が利用した歴史があり、
2階には清朝最後の皇帝溥儀が泊まったという部屋も残されています。

スパイとして中国当局に処刑された愛新覚羅の血を引く川島芳子
ここで最初の夫と結婚式を挙げ、その写真が残っています。

戦艦「大和」がその巨大な艦体をトラック島に停泊させていた時、
彼女は「大和ホテル」と揶揄されていましたが、そのネタ元はこちらです。

大連市の中央通り。

旧横浜正金銀行大連支店(中国銀行大連分行)など、
日本が統治していた1910年代ごろに建てられた欧風の建物で
今も大連市内に残って使用されている建築物はいくつかあります。

アメリカに入植してきたイギリス人が「テムズ川」「ニューロンドン」と名付けるように、
日本も整備した新しい橋に「日本橋」という名前をつけたようです。

そういえば「三丁目の夕日」で「今にこの上に高速道路が走る」と
登場人物が予言していたところ、薬師丸ひろ子のトモエさんが、
戦争前に思いを寄せ合った男性と偶然再会する場所にとても似ていますね。

道ゆく人々も全て和装で、ここは日本だったんだなと思わせます。

日本が租借した遼東半島の「関東州」の大きさは鳥取県と同じくらいの大きさでした。
旅順はその最南端というべき位置にあります。

【旅順】

錨地から眺めると港口の狭いのに今更ながら閉塞隊の苦心を思う

白玉山頂二万五千の霊に捧げるに、若き勇士は何を以ってしたことであろう
赤い夕日の沈む時、上甲板に涼をとりつつ回顧する老雄の感慨や蓋し無量
緑の間にチラツク赤い建物は一寸外国を覗いた様な気を起こさせる

 

旅順というと海軍の閉塞作戦、そして水師営の会談などを思い出すわけですが、
この頃、大正13年はまだ日露戦争から22年しか経っていません。

それはちょうど彼ら候補生が生まれた頃にあった戦争で、
彼らは幼い頃、その武功や英雄伝をおとぎ話のように聴きながら育った世代です。

おそらく彼らは学校の訓育において、広瀬中佐の部下を思う責任感や、
そして勝って驕らず敗者をいたわった乃木将軍の武士道を学んだのでしょう。

そんな彼らが広瀬中佐や東郷元帥と道を同じく海軍を志し、
夢見て入った海軍兵学校、機関学校を卒業した今、
士官候補生としてその戦跡をみる気持ちは如何ばかりであったでしょうか。


練習艦隊が旅順を訪問することになっていたのも、彼らにその地を見せ、
先人の苦労を目の当たりにするとともに、海軍将校の一員であることの
責任を自覚させるというところに目的があったのでしょう。


そして紹介の文中にも窺えますが、この練習艦隊に参加した者の中には
将官から熟練の下士官に至るまで、若き日に日本海海戦、もしかしたら
旅順攻撃に参加したという軍人がまだ残っていたのです。

例えば司令官の百武三郎中将は「松島」「鎮遠」などを擁する
第三艦隊参謀として日本海大戦に参加しています。

水師営の会見が行われた建物を見学です。

20年前の建物ですが、前に石碑を建てて保存してあります。
これはもちろんその後中国側に破壊されたはずです。

 

候補生たちは市内観光に馬車を利用したようです。
三、四人で一台をチャーターすれば、一日観光できたのではないでしょうか。

閉塞作戦を記念する碑も見学しました。
この碑の台になっているのは、ロシア軍が使用した砲台の基でしょうか。

表忠塔というのは白玉山にあります。

戦争が終わってから、東郷元帥と乃木将軍が共同で作ったもので、
材料は日本から運ばれてきた、と説明されているそうです。

旅順港を一望俯瞰できるこの塔は、現在も保存されており、
現地の観光スポットになっているそうです。

中国人は何処かの国のように「日本憎けりゃ杭まで憎い」とばかりに
統治時代のものを測量の杭だろうが桜の木だろうが、なんでも破壊してしまうという
稚気じみた国民ではないので、日本が建てた堅牢な建築物はそのまま使い続けます。

ここも「そんなことがあったから残しておく」という態度で現在でも保存されているのです。

まあ、これが普通だと思うんですけどね。

爾霊山(にれいさん)記念塔

日露戦争が終わった1905年に建て始め、1913年に完成しました。
銃弾形の塔は二〇三高地で拾い集められた弾丸と砲弾の薬莢を
溶かし鋳造して作られたのでこれだけ年月がかかったということです。

そう、ここは二百三高地。
ここを

爾霊山(二百三高地→203→にれいさん\(^o^)/)

と名付けたのは他ならぬ乃木将軍であったそうです。

乃木将軍の二人の息子もここで戦死したことを考えると、
爾(なんじ)の霊の山という字を選んだわけが自ずと見えてきます。

爾霊山慰霊碑も未だに健在で、一世紀を経たその姿を見ることができます。


さて、練習艦隊はこの後、外地の一である朝鮮半島は鎮海に寄港し、
その後内地に帰って本当の国内巡航、「内地巡航」を行うことになります。


続く。


 

 

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大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜百武中将の司令官交代と兵学校卒業式

2018-01-09 | 海軍

さて、新橋の古本市で手に入れた大正時代の練習艦隊の記念アルバムを
順を追ってご紹介しています。

次に進む前に、わたしは読者の皆様にも推理していただいた、

「艦隊司令官が古川中将から百武中将に変わっていた件」

もう一度整理してみます。
皆様のご意見を見ながらつらつら考えていて、実は
ある可能性を発見したのです。


●まずこの練習艦隊が大正13年に出航をしたことは間違いありません。
13年、14年というのは遠洋航海が14年にも及んだという意味で、

「13年度遠洋航海」を意味することはもはや確定です。

●そして大正13年度遠洋航海の参加艦艇は「八雲」「出雲」「浅間」。

●参加した兵学校の期数は52期です。

wikiにも載っている、つまり海軍に残された遠洋航海に関する正式な記録は

大正13年海兵52期等は古川司令官
大正14年海兵53期等は百武司令官

というものですが、アルバムを見れば一目瞭然。
実際の大正13年遠洋航海艦隊司令は最初から最後まで百武中将一人です。
そもそもこのアルバムには、全行程を通して一切古川司令官の姿はありません。

だいたい司令官が二人いて、前半と後半で交代、などは考えられませんよね。

なお、

●アルバムの揮毫は百武三郎中将のものだけである

●参加名簿の艦隊司令官は百武三郎の名前しかない

つまり、

大正13年度 海兵52期等遠洋航海司令官は 百武中将だった

 

というのが史実であり、現在残っている記録はその訂正を行なわず
間違ったまま残されたものではないか、
というのがわたしの出した結論です。

それでは、なぜそのようなことになったのか。

まず司令官交代の考えられる理由としては三つです。

1、大正13年の艦隊司令だった古川鈊三郎が何らかの事情で行けなくなった

2、百武三郎がどうしても今年参加しなければならない事情があった

3、その両方


実は、この遠洋航海について最後まで精査した今、わたしは
2番、百武中将の事情でこうなったのでは、大胆にも仮定します。

 

アルバムに沿ってご紹介していく過程でそのうちお話しすることになりますが、
今回の遠洋航海のルートは南米からアメリカ、そしてカナダに寄港するのがメインです。

カナダではブリティッシュコロンビアのエスカイモルトに寄港しますが、
一行はここで、かつて練習航海途上、不幸にも病気で命を落とした兵学校19期卒の
士官候補生、草野春馬の現地にある墓所を訪ね、慰霊を行なっているのです。

 

百武三郎は兵学校19期のクラスヘッドとして卒業しています。
その彼が士官候補生として参加した遠洋航海航路途中の悲劇でした。

ここからは全くのわたしの推測です。

 

大正十三年六月。
兵学校五十二期の卒業と国内巡航を一カ月後に控えた日のことである。

百武三郎は大正十四年度練習艦隊司令官に任ぜられたとの知らせを受け、
若き日に駐在武官として欧州に行ったきり、もう一生行く事も無いと思つてゐた
外国を艦隊司令として再び見られることに内心欣喜雀躍した。

「さうだ、『クラスメート』の草野が死んだブリチッシュコロンビヤに行き、
彼の墓参りをする最初で最後の『チャンス』ぢゃ無いか」

百武は客死した「クラスメート」の棺を候補生全員で涙と共に葬り
彼を一人異国の地にに残してきたあの日をまざまざと想ひ出した。

「草野・・・・貴様の墓所に花を供えに行つてやるぞ」

しかし、百武は14年度の予定航路を具に聞くや愕然とした。

東南亜細亜、そして豪州だと・・・・。

一生に唯一度、艦隊司令官として遠洋航海に出ると云ふのに、
嗚呼痛恨の極み、一年違ひで北米廻りでないとは!!

・・・否。

俺たちが士官候補生として遠洋航海を行なつたのと
今年の練習艦隊の『コース』は、ほぼ一緒だと聞く。

それなら、今年行けば善い。来年でなく、今年行くのだ。

さうだ、古川に今年の司令官を交代して貰へばいいのだ。

幸ひ古川は俺より二期学年も下だからなんとかなるだらう。

彼奴が四号の時に俺が修正した事も多分なかつただらうと思ふ。(笑ひ)
頼めば快く今年の艦隊司令を代わつて呉れるに違い無い。

きつと・・・・・。

 

んな風に考えた百武中将は、クラスメートの眠っている墓所を訪ねる、
というこれ以上ない「行かねばならぬ理由」と、古川より二期上のクラスヘッド、
という立場を強権的に生かして(笑)出航間際に
無理やり司令官を交代してしまったのでは?というのがわたしの推理です。

どうでしょう。
え?まるで司馬遼太郎並みの針小棒大な創作だって?


百武は古川とは同じ中将といっても二学年上というだけでなく、
佐賀藩士出身で、二・二六事件のあとは鈴木貫太郎に代わって侍従長を務め、
後に天皇陛下の第三皇女、和子内親王の教育係を行なった、
というくらいの超エリート軍人ですから、いかに理不尽な願いでも
申し出を断ることは周りもできかねたのではないでしょうか。

しかし、謎はもう一つあります。
直前に急遽変更になったとはいえ、なぜその後も書面は書き換えられなかったのか。
そしてそのまま今日までその情報が残されているのか。


これも推測ですが、百武中将のゴリ押しが本当に出航の直前だったため、
司令官の交代が急で、
辞令とかそれに伴うお役所仕事をゼロからやり直す暇もなく、
書面上は「13年度古川中将」のままで百武中将が実質司令官となったのでは?

そして練習艦隊は出航してしまったので、書類は結局書き換えられず、
のちの歴史にも
変更前の記述が残っているのではないでしょうか。


この推理がもし、万が一当たっていると仮定すればですが、
艦隊司令の突然の交代申し入れは、ことに事務方にとって

大変な迷惑でしかなかったにも関わらず、結局海軍は
百武中将の無茶な希望を叶えてやったということになります。

それも、書面を変更せずにしれっと人間だけすげ替えてしまうという
今なら考えられないようないいかげんなやり方で。

だとすれば、海軍というのは建前は建前として、なかなか粋な計らいをする、
”情を汲む組織”であったといえますし、百武ほどの軍人であればこんな無理も通る
「隙のある」組織であったということもできるかと思います。


もちろんこの一連の推理はあくまでもわたし個人の判断に基づくものですので、
どなたか司令官交代と文書の整合性について、何か史実をご存知でしたら
ぜひご教授いただければ幸いです。

 

さて、練習艦隊の第一歩は海軍兵学校の卒業式から始まります。
(一緒に参加する海軍機関学校の卒業式については写真や資料がないので
お話しすることができないわけですが、今はさておきます)

それにしてもこの冒頭の写真は一体・・・・。

江田島に行ったことのある方なら、これが大講堂の裏門に近い出入り口、
例えばこの頃ならかしこき辺りの方々が出入りになられるところを
現在の「レストラン江田島」のある建物の前から見たところ、
とおわかりいただけると思いますが、それにしてもフォーカスが無茶苦茶です。

建物にはもちろん、手前の柳の葉にもピントが合っていない不思議な写真。
しかもこれがページいっぱいの大きなものです。


「偉大なる海を想い、渺茫たる太陽を憧憬せし若人の
華やかなる活動の舞台は将に展開せんとす
見よ、江田島の湾内に浮かぶ練習艦隊八雲浅間出雲の三艦
希望に輝く初夏の空、恭しくも聖上陛下第三皇子高松宮殿下を
御同窓として戴き祝福されたる若人の門出
輝く軍艦旗の下にたちて、江田島よ、さらば!」

わたしは幸運にも昨年度の幹部学校卒業式に出席していますが、
同じ江田内に「かしま」をはじめとする自衛艦が浮かんでいたのを思い出します。

煙突からは黒煙を噴き出しているという船の姿形の違いはあれど、
あの光景を知っている目には、この白黒の写真から実際の空気の色まで想像できます。

練習艦隊は卒業式をを目前に、江田湾で壮途への出航をいまかと待っています。

そして大講堂での兵学校52期の卒業式が行われました。

大正一三年七月二十四日

山階宮武彦王殿下の御台臨を辱ふし
古鷹山下海軍兵学校に於て卒業式挙行さるる


52期の卒業式は真夏に行われました。
写真で玉座におられる山階宮武彦殿下は、父君の菊麿王に続き兵学校46期卒、
皇族として初めて海軍航空隊に所属し、「空の宮様」と異名をとった殿下です。

経歴を見ていて驚いたのですが、この前年の大正12年の関東大震災で
山階宮家の鎌倉別邸にたまたま滞在中であった武彦王は
初子懐妊中の妻佐紀子妃を建物の倒壊によって亡くしているのです。

wikiには、その結果、武彦王は精神を病み開かずの間にお籠りになった、
ということが書かれているのですが、この時には少なくとも海軍軍人として
こうして人前で儀式を行っておられます。

ちなみに当時殿下は二十六歳、薨去された佐紀子妃はまだ二十歳でした。

武彦王はこの翌年の1925年(大正14年)3月には、民間航空振興のため、
練習費を徴収しない飛行機搭乗者養成機関、『御国航空練習所』
を建立しておられます。

この写真の直後には早くも後添えをお貰いになる話が出たということですが、
その縁談も王の病状が原因で破談になったということです。


尚、52期クラスヘッドは入江籌直ですが、戦史にはその名前を残していません。
源田実は17番、淵田美津雄は108番の成績です。

卒業式を終え、大講堂から表門に敬礼しながら退場される高松宮殿下。
殿下が赤痢にお罹り遊ばすのはこの2ヶ月後の9月です。

どうも殿下は卒業後、国内巡航には最初から参加されなかったようです。
つまり11月の横須賀からの遠洋航海に参加するつもりをされていたのが、
9月に病気になって、参加が取りやめになった、ということではないでしょうか。

卒業後、皆は「伊勢」など練習艦にランチで乗り込んでいくのですが、
殿下のランチだけは一応表玄関から卒業していったものの、どこかで乗り換えて、
一度は都にお戻りになったということではないかと思われます。
ランチの天蓋の下には、遠目にもそうとわかる殿下の制服姿が確認できます。

あ、ということは赤痢は卒業後罹ったということに((((;゚Д゚)))))))

練習艦隊の軍艦に乗り込んで「帽振れ」をする候補生たち。
この頃の軍艦の艦体というのは海面からほぼ垂直にそそり立って見えます。

そして「帽振れ」は今よりずっと、なんというかフリーダムな雰囲気ですね。
今は自衛隊では登舷礼で並ぶ位置にマーキングして美しく整列するようですが、
これを見る限り、帽振れの最中も手すりを掴んで舷側に鈴なり状態。
少なくとも当時は今ほどかしこまった儀礼ではなかったように見えます。


この後、大正、昭和と時代が進むにつれ、帽振れは徐々に儀礼化してゆき、
今の形に落ち着いたのではないかと思われます。

もっともこの頃の軍艦は、候補生が一列に整列して並べる形状ではなかった、
ということなのかもしれませんが。

 

さて、江田島を旅立った士官候補生を乗せた練習艦隊は、まず国内巡航、
国内の寄港地を周る訳ですが、この頃の国内巡航には今では存在しない
「外地」が含まれていました。

中国大陸、そして朝鮮半島です。

 

続く。

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大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜淵田美津雄を探せ

2018-01-08 | 海軍

今風にいうと大正13年度遠洋練習航海、当時の名称で
帝国海軍練習艦隊の遠航アルバムを手に入れたので、それをここで
ご紹介していくことにしました。

なお、平成29年度遠洋練習航海の航路と重なっている寄港地については
水交会で行われた練習艦隊報告会で艦隊司令真鍋海将補が紹介された
スライドの写真などを活用してお話ししていくつもりです。

前回は艦隊司令官の名前がアルバムと違っているということで
その謎を解き明かそうとしてみましたが、やっぱりわからないので断念。

今日は練習艦隊参加艦艇とその乗組員、参加した候補生の写真を紹介します。


まず、軍艦「八雲」の乗組員総員写真です。

たくさんいすぎて後ろの人は顔が全く確認できませんが、
それではこうやって目立ってやろうとばかり、
マスト横で変なポーズをしている人がいますね。


軍艦「八雲」はドイツから輸入した装甲巡洋艦で、1900年から就役し、
日露戦争に参戦したあとは練習艦の代名詞のようにもなっていました。
その後、老体に鞭打って大東亜戦争にも対空砲専門で参加をしています。

そして戦没を免れて生き残ったあとは、近距離専門の復員業務に携わり、
ここでも触雷などに逢うこともなく無事にその一生を全うしました

 

冒頭画像は軍艦「浅間」総員の写真。
主砲に座って得意そうに腕組みをしている水兵さんたちを拡大しました。

写真を撮るときに動いてしまい、顔がブレてしまった人がいますね。

みんな20歳前後、もしかしたら十代が多いのかもしれません。
こうして特にセイラー服や下士官姿の青年を一人ずつ見ていると、
当たり前ですが、そのまま今の海上自衛隊の海曹海士にいそうな顔ばかりです。

この写真は1924年に撮られたものですから、彼らは今の海士のひいお爺ちゃん世代。
確実に全員がこの世にいないのが何か不思議な気がしてきます。




「浅間」も「八雲」と同じく装甲巡洋艦で、戦後まで生き残っています。

イギリス製で、なんども天皇陛下が座乗されるお召し艦になっており、
もし高松宮殿下のご参加があったなら「浅間」に乗り組まれていたに違いない、

とわたしは予想したのですが、その後、参加候補生名簿を見て驚きました。

あったのです。

「浅間乗り組み候補生」の最初に「宣仁親王」のお名前が。

アルバムが作成されるということは、その時点でもう練習航海は終わっていたはずですが、
写真はともかく、なぜ殿下の御名前が参加名簿から消されなかったのか・・・。

まあ、理由はわかりますが、何だか配慮申し上げすぎて変なことになってますね。

 

さて、第一次世界大戦で派出されたメキシコで座礁、その後広島湾でまた座礁、
(こちらは当直将校のミス)とご難続きの「浅間」さんでしたが、
大東亜戦争では幸い最後まで生き残りました。

「浅間」に乗った少尉候補生の中には福地周夫(ふくちかねお)の名前があります。

福地は「陸奥」運用長を拝命直後、大動脈瘤と誤診され、療養のため退艦したことで
その直後におこった謎の爆沈事故から逃れたという強運の持ち主です。

また福地大佐は珊瑚海海戦において被弾した「翔鶴」において、運用長として
冷静な判断による的確なダメコンを行なった、ということを評価され、
当時帰国して講演会をしたそうですが、その時肝心の艦隊主要指揮官幕僚は
「あの」ミッドウェイ海戦に備えた図演のため一人も参加していなかったという・・。

こうして後から知ると何という歴史の皮肉なのでしょうか。

軍艦「出雲」総員写真です。

「出雲」は日露戦争の殊勲艦で、あの上村艦隊の旗艦として
蒜山沖海戦ではロシアのリューリック号を撃沈し、
さらには海上の敵兵を救助したことでも有名になりました。

日本海海戦では「磐手」とともに連合艦隊のしんがりで活躍しています。

そんな「出雲」ですが、その後第一次世界大戦ではメキシコ動乱に
警備艦として派出され(集団的自衛権の行使というやつですね)
帰ってからは装甲巡洋艦の類別のまま練習艦に採用されていました。

この写真の頃には一等海防艦に種別変更されています。

「出雲」の右舷側もアップにしてみました。
一人お立ち台に立っている水兵がいますが、ここは
この時代の軍艦の信号兵のポジションでしょうか。

波が高い時にここに立つのはむちゃくちゃ怖いと思うんですけど。

しかし、海軍の団体写真では誰一人歯を見せたりしてませんね。

「八雲」の准士官以上です。

准士官とは下士官出身で士官に準じる待遇を受けるもの、という定義で、
この頃にはそれまでの上等兵曹から兵曹長という呼称に変更されていました。

写真を見ると年配の軍人はほとんどが口髭を立てています。
この頃の流行りでもあったんでしょうね。
海上自衛隊では髭は先任伍長、というイメージがありますが、
オフィサーで髭を生やしている人は見たことがありません。

右から5番目は艦長の鹿江三郎大佐ですが、足の揃え方といい、
視線が明後日を向いていることとい、どうも緊張感がないような・・・。


「浅間」の准士官以上です。

「浅間」の撮影の日は運悪く雨が降っていたようです。
軍人は傘をささないという習慣がありましたから皆は平気だと思いますが、
写真屋さんはさぞかし苦労したことでしょう。

この写真を見る限りかなりの雨が甲板を濡らしています。
こういう雨の中で撮られた海軍の団体写真はあまり見たことがありません。

よく見たら上階で何やらお仕事をしている水兵さんがいますね。

雨が降っているので信号旗のラックにカバーでもかけているんでしょうか。
作業が写真に写ってしまうのは構わなかったのでしょうか。

「出雲」の准士官以上。
手すりに幕が貼られています。

現代の自衛艦も、出国、帰国行事の時にはこのような白幕が貼られます。
「出雲」は着々と出国行事のための準備中だったのかもしれません。

それにしても「出雲」はこの時就役して26年たっているはずですが、
さすがの日本海軍、手入れが行き届いて主砲はピカピカ、ペンキは塗りたて。

これも全て出国行事に合わせて万全の補修を施したのでしょう。

「八雲」に乗り組む予定となった士官候補生たち。
兵学校の短いジャケットからもうすでに士官用の長いジャケットに変わっています。

「八雲」に乗り組んだ少尉候補生の中には、後年真珠湾攻撃の飛行隊長となった
淵田美津雄、「神風特別攻撃隊」の命名者となった猪口力平がいます。

猪口力平の顔まではわかりませんが、あの!淵田大佐なら、
きっとどこにいるかわかるに違いない!

とわたしは半ば確信を持って全員の顔を熟視して探してみたのですが、
最上段に立って非常に目立っている二人のうちの左側、

この人淵田さんじゃないですかね。
遠目に見た方が淵田美津雄っぽく見えるかもしれませんのでお試しください。

なお、少尉候補生の名簿は、どうやら成績順らしく、「八雲」の2番目に

内藤雄(たけし)大佐

の名前があります。
兵学校卒業時の成績は236名中6番、クラスでも昇進がトップグループだったため、
福地周夫が少佐の時、もう中佐で、小沢治三郎を補佐する参謀になっていました。

戦闘機に進んだ源田とともに「戦闘機の源田、爆撃機の内藤」として知られ、
海軍爆撃術の体系化に功績があった士官搭乗員です。

しかし優秀で、連合艦隊司令官古賀峯一の参謀にまでなったことが彼の死を早めました。

昭和18年4月。
古賀長官と共に内藤が乗り込みダバオに向かった二式大艇は
その途中で行方不明になり、撃墜されたと後に認定されました。

この「海軍乙事件」で、内藤は死後1階級昇進し大佐に昇進しています。

 

こちらは「浅間」の士官候補生たち。

先ほどの水兵さんはカバーをかける仕事を終わったようですね。

それから、左手の舷門のところに鳥打ち帽をかぶった一般人が
ちょうど仕事を終わったのか退出していくのが写り込んでいます。


それから、一人なぜかこの雨の中サングラスをかけている候補生が・・・。
目が腫れているかなんかで見せたくなかったんでしょうか。

しかし皆キリッといい顔をした青年ばかりですね。

そして「出雲」の士官候補生たち。
この写真のどこかには少尉候補生時代の源田実が、小柄な体躯ながら
ぎょろりと鋭い眼をレンズに向けて写っているはずです。

この真ん中の人・・・・どうですか?

また、この「出雲」には、のちに日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、
その技量と統率力から「陸攻の神様」「 海軍の至宝」と言われた

入佐俊家少将

も乗り組んでいました。
常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも信頼を受けた指揮官でした。

入佐は1944年(昭和19年)、小沢治三郎中将のたっての指名を受け、
第六〇一海軍航空隊司令兼空母「大鳳」の飛行長となりますが、
その後マリアナ沖海戦で「大鳳」が爆沈した際に戦死しました。

戦死後は二階級特進し、海軍少将に任ぜられています。

続いて、練習艦隊絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊の写真。

この写真の司令部付きというのはおそらく従兵のことではないかと思われます。
士官の世話を身近で行う従兵は気が利いて頭の回転が早く、
しかも清潔感のある人物しかなれなかったので、それだけにその後の出世も早かったとか。

最後に、軍楽隊の皆さんをアップにしてみました。
自衛隊の練習艦隊音楽隊は各音楽隊からの志望で結成されているそうですが、
この頃はどうなっていたのかはわかりません。

さあ、これで練習艦隊全部隊の紹介を終わりました。
それでは次回からいよいよ航海の写真をご紹介していきましょう。

まずは江田島での卒業式、江田湾出港からです。


続く。

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