ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

旅しながら淡々と写真を貼る 江田島

2011-10-31 | 海軍

「え~また行くのー」
「行く」
「行ったばかりなのに」
「今日は漢字の練習しなくていいから」
「なら行く」

という情けない会話の末、半年を待たずして再び江田島海軍兵学校跡探訪を果たすことになりました。
嗤わば嗤え、蔑まば蔑め。
新しく知ることなどなくとも、そこに身を置くこと、それのみが我が願い。

しかし、今回行くことで新たに知る事実が待ち受けていようとは、
このとき神ならぬ身のエリス中尉は知る由もなかった。

 

前回左画像の「古鷹」というフェリーで行きました。
これは、東北の震災のとき、現地に出動していたというニュースを見た覚えがありますが、
もう帰ってきているようでした。

しかし今回乗ったのはこれ。高速艇です。
車で通勤する人は大きいのしか乗れませんが、
こちらはフェリーで20分のところをわずか10分で小用まで行けてしまうので、とても楽でした。
江田島の人々はこれで呉まで通学通勤をしているのです。
 
そして着いた小用港と、バスで術科学校に向かう途中の景色。
ほとんど昔からかわっていない山道のようですが、
当然のように下級生のうちは港と学校の間を歩いて行き来したそうです。
これ、荷物を持って歩いたら結構大変ですよ。
しかし例えば東京まで帰る生徒の場合、学校から船、呉から電車で、広島に着くだけでも
軽く数時間かかってしまいます。
さらに広島から東京まではまる一日?
休みが短いと東北や北海道の生徒は帰れなかったくらいです。



前回は最初の訪問だったので紹介する部分が限られていましたが、今回は余裕(?)。
あまり一般の紹介に乗っていない部分の写真を中心にお送りします。
ここが昔も今もこの場所にあった「裏口」。
(ご存じと思いますが、卒業生が船出する港側が「正門」ですね)
ここで住所氏名、通行バッジをもらって手続きをします。

 

兵学校生徒が古鷹山になぜ登るか、と言うことについては解説の方(前回と同じ)が
「この山がこの辺で一番高いから」
だそうです。
この大講堂の裏口では、よく学生が団体写真(少人数の)撮っているのですが、
最近あるきっかけで兵学校出身の方がここで撮った写真を見たばかりでしたので、
その景色と全く変わっていないこの場所にその方の姿を当てはめて感無量でした。




毎日号令を聴いているから?まっすぐに伸びたと言われている松の木の林。
本当のところは「江田島に風が少ないから」ということのようですが、どうでしょう。
だって、植物って人の感情の影響を受けるって言うじゃないですか。
モーツアルトを聞かせたり褒めたりしていたらすくすく育つけど、
罵っていたら枯れてしまうという実験もありましたし。
兵学校の松だからまっすぐ説、かなり信憑性があると思うんですが・・・。



着いてすぐ食堂で遅いお昼を頂きました。
息子は昨日に続いて「海軍カレー」。
「昨日も食べたのに」「好きだからいいの」
「カレーってインドから来たのを海軍がアレンジしたんだよ」
「じゃわざわざ海軍ってつけなくてもカレーはみんな海軍カレー?」
「まあ、(心情的には)そうなんだけどね」

わたしは画像の茸と卵のカレーをいただきました。
この日は金曜で海軍的にはカレー曜日だったので、ランチがこれだったわけです。
息子をここに一人残してツアーに出発。

 

余裕をかまし過ぎて、写真がヘンに細かいところばかりです。
学生館前でパチパチやっているみんなを尻目に、床や植え込みばかり撮っているヘンな人一人。
左は大講堂のランプですが、アールデコですね。
右は大講堂の床です。
そう、110年前から、いろんな方々がその足元に踏みしめてきた、その石造りの床。
「この上を、あの方が・・・」(笹井中尉でも菅野大尉でもお好きなお名前をどうぞ)
と感慨にふける方は多いものと思われます。




大講堂横に埋められていた「完成記念」?
大正5年5月18日、とあります。



さて、ここでレンガの話。
前回来た時と今回でほとんど同じ説明をしていた解説の方が
「実は60日前に分かったことなのですが」
というショッキングな話をしてくれました。
その話をしたいのですが、残念ながらここからの宿泊先に電波が全く来ておりません。
wifiも届いていません。
なぜなら宿泊地は岡山県は倉敷の山の中。そこは「THE 田舎」。
ですので、その無線(実質的に)地帯から復活してから続きをアップします。

というわけで衝撃の真実とは?
(含みを持たせて続く)







旅しながら淡々と写真を貼る 呉

2011-10-30 | つれづれなるままに

というわけで一年を待たずしてに二回呉に来ることになりました。
ホテルの部屋が何故スイートになっていたのかは・・・分かりません。
 

普通と言えば普通のスイートなのですが、寝室の隅に何の役にも立ちそうにないトマソン椅子が。
「何この椅子」
「なんでくぼみが・・・」
「わかった、病気になった人を看病する人が座る」
「高貴なお方が泊ったときのボディガードの待機場所」
「寝るときこんな近くに座られたらいやだってば」
「あ、どっかにボタンない?座ってボタン押したら非常時にベイルアウト」
「それかシューターみたいに下に落ちる」

さんざん楽しませていただきました。
もしかしてそれが目的かも。

ちょうど呉に来る車中で「スペースカウボーイ」を観たばかりだったので、
冒頭のベイルアウトシーンが浮かんでしまったのですが、この映画について少し。
「グラン・トリノ」といい、この映画といい、
クリント・イーストウッド監督は「イケてるジジイ」を描くのを最近のテーマにしているようです。

イケてる老人そのものであるCEですが、かれのように特にイケてるわけではない、
普通の中高年層にも夢を与えようとしていると思うんですね。

このスペース・カウボーイは全部で4人。
映画終盤、着陸困難な機から「本来のメンバー」の若いもの二人は離脱してしまいますが、
爺さんたちは全員が機を無傷で着陸させるために最後まで機内に留まります。
トミー・リー・ジョーンズの「ホーク」は、地球とスペースシャトルのメンバーを救うため、
わが身を呈して核弾頭を積んだ衛星と共に月に「特攻」。

(最後のシーンは荒野の用心棒のパロディ?自分の映画をパロるとはさすがC・E)

誰にも若いはつらつとしたときがあるわけで、その輝きのような生命力を、
たとえ外見は老いても持ち続けることは可能だというメッセージ。
エリス中尉が搭乗員に興味を持って以降、世の中のお爺さんを観る目が変わったように(笑)
イーストウッド監督のこれらの作品には「かっこいいジジイって、いるよな」と思わされます。
「老人が行かなきゃいけないなんてこんな設定おかしすぎる」
なんて映画評もありましたが、わかっていないなあ。
これは「お爺さんのためのおとぎ話」なのに。

 

さて、映画はともかく、呉に来た目的は皆さまご想像の通り
「大和ミュージアム」と「海上自衛隊資料館、てつのくじら」。

こういうものに興味を持ち過ぎの母親の反動でこういうものにあまり興味を持たない息子は、
YOU‐ME(ユウミー)というこの辺りに多くあるモールに行くことを餌に連れてきました。
なぜか前に行ったときおもちゃのフロアーが気にいったみたいです。



この「工廠」っぽい景色が呉ならでは。
大和ミュージアムでは、海軍整備の時代、鎮守府の設置から呉の街における文化、スポーツ発展の歴史、
さらに大和建造に至る歴史の流れの間に市民生活の様子を紹介しています。

ミュージアムについてはまた別の日にお話しするとして、
この広大なスペースには子供を対象にした学習コーナーが備えられています。

船の操舵シミュレーターとか、コンピュータを使ったクイズ、
波のガブリを体験するセット。
波を起こす機械。
などなど。ボランティアらしいリタイア組が説明をしてくれます。

ここには大きな映画上映コーナーもあり、はやぶさの帰還をドキュメンタリーでやっていました。
画像が見えたとき科学者たちが叫ぶ、心からいとしげな
「はやぶさー、お帰りー!」
と言う言葉につい涙が・・・。
ご存じと思いますが「最後に地球を見せてあげたかった」と言う理由で、
かれらははやぶさに地球の写真を撮らせたのですってね。

ちっ、とんでもないロマンチストだぜ、日本の科学者たちって奴らは・・・(ぐすっ)

ところで今やっている竹内結子のはやぶさ映画、キャストは錚々たるメンバーなのに大コケしているとか。
そりゃーはやぶさが「ただいまー」(かどうかは知りませんが)なんてリアルにしゃべる映画、
誰も観たくないわ。
擬人化に萌える科学者の姿が感動的だからって、擬人化を本当にやってしまうなんて。
感動の本質ってもんをわかっとらん。

映画と言えば出口近くのコーナーでは「ロケを呉でしましたよ!」と大きく謳って、
年末の映画「山本五十六」の予告をがんがんと流していました。

はやぶさ映画の失敗ではないですが、最近の戦争映画の流れを観ていて、この五十六ものが
「良かれと思って」変な解釈や演出をした結果とんでもないことになるのではないかと、
一抹の不安にかられて仕方ないのはわたくしだけでしょうか。

やたら「戦争反対していた」ってことを前面に押し出して、
五十六が平和主義者だった、ってことばかり強調したりー。
「だから五十六は偉大だったんだ」って方向で、推進派を徹底的に悪者にしたりー。

なんか、観る前にそう言う流れが見える気がするの。
きっとこの予感当たると思います。

 

てつのくじら館はなんと無料。
就役を終えた「あきしお」の中に入れるというのが売りのミュージアムです。
ここにもリタイアしたおじさんたちが解説員として詰めていますが、
他と違うのは彼らは「元自衛官」であるということ。
なんでも「あきしお」の最後の艦長さんもいるというではありませんか。
スペースカウボーイではありませんがかつて厳しい訓練に耐え、掃海活動をしたかもしれない、
そう、爺さんは爺さんでもタダものではない爺さんたちなわけです。

海自の資料館についても日を改めます。
出てきたらちょうどお昼タイム。
前回火曜日でこの辺の施設が全て閉まっていて(T_T)
行けなかった海を望むレストラン「ビーコン」に行ってみました。
くじらの手前に見える丸い看板と水色のひさしがそれ。
前回仕方なく探索した大和公園(大和実物大体験公園)を望む場所にあります。

 
ただ地の利のいいお洒落なレストラン、という認識で味に全く期待せず入ってみたのですが、
どっこい、ここがなかなかのちゃんとしたレストランであるのにびっくり。
わたしは1600円のランチ、魚のコースを頼んでみました。
 
野菜はこだわりの取り寄せ、新鮮で盛りつけも行きとどいています。
テリーヌのようでテリーヌにあらず。
サトイモのマッシュをベーコンで巻き、上にはキャビアをのせた前菜。
パンは自家製でアツアツでした。
 
白身魚の料理には東京のレストランで(ロビュション、フォーシーズンズ含む)
なんども失望しているのですが(素材次第なのでシェフの腕ではカバーしきれない)、
ここのは、不味くて当たり前のタラを使ってカリッとした外側、ふわっとした身、ソースはかけずに味を押し付けず。
完璧です。

パンナコッタは、息子と争って食べました。絶品です。

そして、息子の頼んだ海軍カレー。
カレーは「士官用」と「兵用」があり、その違いは
「ローストビーフが付いているかどうか」
息子はご飯をお代わりして完食しました。
ちゃんと軍艦旗をつけてくれるのが嬉しい。
ちなみにこの旗、もらって帰りました。

もし呉を訪れたらぜひ立ち寄ってみてください。
フォーシーズンズホテルにも伍する腕利きのシェフ(とエリス中尉勝手に認定)の料理が、
リーズナブルなお値段で楽しめること請け合いです。


明日また移動なのですが、ホテルをチェックアウトしてからもう一度江田島行ってみようかな。
(さらに収拾がつかなくなって続く)






旅しながら淡々と写真を貼る 博多~呉

2011-10-29 | つれづれなるままに

博多で宿泊したWITH THE STYLEのことをもう少し。
画像はフロアエレベータホールに立てかけてある絵。
これからも「スタイルのある」ホテルを目指しているということがお分かりいただけるかと思いますが、
普通のホテルとは少し違い、例えば全ての宿泊客がクラブラウンジでドリンクを楽しむことができたり、
部屋にあるドリンクは全てフリー、朝食はブッフェではなくオーダー式、という「お得感」を感じさせてくれます。


二日続けて楽しんだ屋上のスパも、飲み物が人数分用意されていますが、
宿泊客であればいつでも無料で利用できるのです。
そして、なんといってもチェックアウトが2時。
どんな遅くても12時が普通なのに、この2時間は「予定のない旅」には非常にありがたい。
この日は移動だけだったので、たっぷりぎりぎりまでお部屋を楽しむことができました。

ただ、朝食メニューが1時までオンで、そのせいでランチのルームサービスがないので、
大抵の人はお昼にホテルを出てしまうかもしれません。
我々はチェックアウトしてから遅いランチを一階のイタリアンレストランで頂きました。
 

マグロパスタとスペアリブ。
不思議なくらいパスタとこっくりしたソースの味が絡んで、しかし洗練された味付け。

そう、博多を一言で言うと「イケてる地方都市」。(独断)

最新の設備の博多駅舎や、渋谷や池袋などメではない東急ハンズの広さ(しかも新しい)
なんでも揃いそうな駅ビル、
「博多って、もしかしたらヘタな都内よりずっと洗練された都会かも・・・・」
おまけに昔から噂には聞いていましたが、女の子のレベルが非常に高し。

そうそう、博多でトランクを買いました。


リモワのエアーサルサです。
東急ハンズの中国人の店員さんが一生懸命説明してくれました。
「ワタシもこの仕事始めてからこれを使ってますが、とても丈夫です」
うんうん、特大サイズをガンガン使いまくっているから良く知ってますよ。

今回期間が長いので、その特大を持ってきたのですが、この後何日かTOが別行動になり、
女手で在来線乗り換えの荷物持ちをしなければならないので、特大を洗濯物と共に送り返し、
取り回しのしやすい小型を購入したというわけ。

それにしても、売り場で比べるとスタイルや色、軽さの違いは歴然。
最もデザインが良くて使いやすそうなものを選ぶと、これになってしまうんですね。
心情的に「メイドインジャパン」を謳っているものを選びたいのはやまやまだったのですが。


そして、移動ではもっぱら息子が上にまたがって足こぎしていましたが、
「エアー」になってさらに素材が軽量化したらしく、驚異の軽さ、驚くべき操作性。
まことに持ち運びながら嬉しくなってしまうような優れモノです。
これがブランドの底力というものなのかもしれません。

さて、本日は博多からへ。

もしや、と思われた方、その通り。
本日の停泊地は海軍の街、呉です!パチパチ

もしかして、以前エリス中尉が、江田島訪問を優先したせいで、次の日、大和ミュージアムとてつのくじら館が休館していて涙にくれたという話を覚えておられる方はおられますか?
所用の合間にさりげなく再チャレンジを無理やり挟みこんでみました。



ipadに入れた「スペース・カウボーイ」をとなりに立っていたよそのおじさんと一緒に観ながら(笑)
ごとごとと電車に揺られていると、車窓にはこのような景色が。
JRの呉行きの線路って、昔からここを走っているんですよね?

では休暇から戻るとき、この同じ島や海を、兵学校の生徒たちは見ていたということでしょうか。

呉の某ホテルにチェックインすると、なぜか部屋が
スイートルームにアップグレードされていました。

なにゆえ?(謎をはらんで続く)





旅しながら淡々と写真を貼る 小倉

2011-10-28 | つれづれなるままに

皆さま、お鮨はお好きですか?
我が連れ合いであるTOは、築地の朝鮨に通い詰め、
外国から来た友人に「本当のすし」の布教をすることを使命と定めていたすし好きです。

最近、外国人観光客がうろうろしすぎて入っていはいけないところにも入り込むため、
築地の気の荒いお兄さんたちは今やガイジンさんに向かって
「ゲットアウト!」
なんて言っちゃうそうですが、そのころは外国人はほとんどいなかったそうで、
TOがネタの説明を英語でするのでお店の人からお礼を言われたこともあるそうです。

アメリカによくある「ご飯丸めて生魚乗っければスシ」という態度の雑駁なジャンクフード
(チャイニーズやコリアンのインチキジャパニーズ)しかしらなかったアメリカ人は、
一様に口の中で渾然一体となってとろけるスシにまず茫然とし、
次に「ここに世界一のスシがある!」と陶然とするものだそうです。

わたくしも何度か「これは芸術だ」と思う味に出会ったことはありますが、
きっとこれからも記憶に残るであろう鮨屋に、この日遭遇しました。

博多滞在中、有名な食通の方に教えていただいた「天寿司」です。
 
博多から新幹線でひと駅。
このためだけに訪れた小倉。生まれて初めての訪問です。
駅から歩いて3分くらいのビルの一階にその小さな(カウンター5席)店はあります。

 

分かりにくいのですが、カウンターの奥から一筋の水が絶えずちょろちょろと流れていて、
そこで手を清めながら手でつまんでいただきます。

当たり前のようにここは予約で、他のお客さんはいません。
席に客がついてから、おもむろに大将登場。

我が家は「子供を一流鮨屋のカウンターに座らせない」という教育方針を守ってきたのですが、
息子はこの日誕生日。

「今日は誕生記念に最高に美味しいお鮨食べに行こう」
とTOが言うと
「スシロー?」(震災後避難していた関西で一度行った)
「違うっ!」

しかし、食物のアレルゲンが多く、そのせいで食べず嫌いなものがある息子を、
このようなお店に連れていくのはなかなか勇気のいることでした。

大将、息子に「なんか嫌いなものは?」
TO、気を使って「大人と同じものを出していただいて結構です。私が食べますから」
大将「いや、食べられないもの出すわけにもいきません」
息子「マグロ好きです」
大将「そう、じゃ最初はマグロ尽くしで行きますか」

大人たちには寿司の上にゆず胡椒や梅肉、ショウガや薬味を巧みに乗せた芸術品のような
寿司が次々と出てきます。


何しろカウンター越しに会話しながらですので、写真を撮るのも遠慮がち。
慌てて撮ったのでピントがことごとく後ろのキュウリやネタに合ってます。とほほ。


大将はまるでカウンセラーのように息子の好きな魚を聴きだし、
「サバが好きならこれはどうかな」
と太刀魚を炭火で炙ったものを出してくれ、
大将「これ(漬け寿司)どう思う?正直なところ聞かせて」
息子「うーん、普通」
大将「普通かー。じゃ、少し焼いてみよう」

お鮨っていうのは、もともと一人ひとりの好みを聴きだして対応していくものですから、
と淡々とおっしゃる大将です。
「味はだんだん覚えていくものですから、大きくなれば何でも食べるようになりますよ」

あれ嫌いこれ嫌いが母親のせいのように思えて小さくなっているわたしにはほっとする言葉です。

このお店は勿論禁煙ですが、さらにびっくり、お酒も置いていません。
禁酒禁煙の鮨屋です。
「ビールくらい置いてないの?」
とよく客から聞かれるそうですが、先代からの信念で一切お酒は出さないとのこと。
日本でお酒を出さない鮨屋というのは大将の知る限り全国で二軒だけだそうで、
もう一軒は石川県にあるのですが、なんと
その石川の禁酒鮨屋に前日行って、次の日九州小倉のこの店に来た方
が過去いたそうです。

「やはりお酒が出るとお鮨をカウンターに置いたまま飲んでしまったり、っていうことがあるからですか」
と訪ねると
「直ぐに食べてくれないで『不味かった』なんて言われたくないですから」

この店でお寿司を頂くというのは、まさにこの大将と対峙してその職人の匠を全身全霊で味わう
「真剣勝負」かもしれません。

しかし、職人として決して譲らない頑固さを持っていながら、決して威圧的だったり押しつけたりすることなく、
「味はついていますが塩でも醤油でもお好みでどうぞ」
といった鷹揚なもてなしをしてくれる大将です。

大将は二代目です。
先代が亡きあと、先代の一番弟子、商社マンだった大将の兄上、そして大将がその味を引き継いでいます。
一番弟子の方はもう御年77歳ですが、いまだ現役で握っておられるそうです。
(ちなみに魚町にある「もり田」というお店)
「普通に観たら『もうお爺さんだなあ』と思うんですけど
仕事になるとスイッチ入る
ようですね」
さすがは職人さん。
このお店は松本清張氏も贔屓にしていたとのこと。


息子が誕生日であることを会話の途中で話したのですが、なんと。
「おじさんからのお祝い」
と、息子の食べた分をサービスしていただきました。
マグロ尽くしを始め、結構食べたのに・・・。

誕生日に寿司カウンターデビュー。
好みを聴きだしてアレンジを加えてくれるような職人の技を舌に学ばせてやることができたのですから、
息子にとってはとても意義深い記念の食事となったかもしれません。


と言うわけで用事の合間に美味しいものも味わいつつ、旅は次の地へと駒を進めます。
さあ、明日はどっちだ?(なし崩し的に続く)









旅しながら淡々と写真を貼る 博多

2011-10-27 | つれづれなるままに

お詫びと訂正がございます。
前スレッド最後に山口国体のゆるキャラが「ちょるちょる」などと書いてしまいましたが、
正しくは「ちょるる」です。
これについて調べていて、「エコハ」という山口の緑色のゆるキャラがどう見ても緑のピカチュウで、
ピカチュウサイドからクレームが出て着ぐるみ禁止、というそれがどうした話を知ってしまいました。
ゆるキャラ界も内部では色々とゆるくない生臭?話があるようです。

微笑む九州新幹線つばめ。
さて、前回最後の画像で、山口から九州に移動したと気付いた方はおられますでしょうか。
博多駅に着いた途端、停まっている九州新幹線に食らいつくエリス中尉。
鉄子なんじゃなくて、ただただ新幹線が好きなんですよね~。
 

このモダン・ジャパネスクなセンスの良さに思わずうなってしまいます。
2004年開通のロゴを観てびっくり。
考えたら全線開通は今年だったけど、一部開通(新八代―鹿児島間)はこんなに前だったんですね。
 
博多の駅がおそろしく綺麗になっていました。

そして以前泊ってとても気に入ったホテル、WITH THE STYLEが博多での宿。
前回はまだオープンしたばかりでした。
都会の滞在型リゾートホテル、というコンセプトなので、狛犬のようなシークワーサー、じゃなくて、
沖縄のシーサーが玄関に鎮座しています。
チェックインが4時なので、クラブでお茶を飲みながら待ちました。
ここはチェックアウトも遅く2時です。

チェックインを待つ間ふと見つけた新聞広告。これは!別府で飛行学生が羽を伸ばしたというあの杉乃井旅館のことですよね?
なんと8800円で泊まれます。
まさか昔の建物は残っていないのでしょうが。


このホテルを息子が何故気に入っているかと言うと、
小さい時にここでジュースを飲みながらジャグジー風呂に入ったのが忘れられないからなんだそうです。
ペントハウスで空を観ながらのお風呂。
周りはビルばかりで、風光明媚とは言い難いのですが、それでも一時間貸し切りで人目を気にしなくてもいいのが嬉しい。
今回は用事を済ませて帰ってきた夜10時過ぎに予約しました。
 

そのまま光に吸い込まれてUFOにさらわれそうな光が・・・。
ビールもありましたが、飲めない我々は頂きませんでした。
星空を眺めながらお風呂につかってビールを一杯できたらなあ。
こんなときは、下戸って、人生少し損している気がします。
更衣室も一時間借り切りになりますので、そこで水着に着替えて楽しみます。
スタッフや他の客は誰も来ないのですが、周りにビルがあるので。


ipadで購入したディズニー映画『ラプンツェル』を、お風呂につかりながら観ようと思ったのに、
雨が少し本降りになってしまい、断念。
その後部屋で観ましたが、最近のアニメの「表現力」、特に人の表情は凄いですね。

ラプンツェルをさらって自分の若さを保つだけのために幽閉していた偽母の、
「どんなことををしてでも若さを手に入れたい!」
という餓鬼のような女独特の強欲は、見てはいけないものを見る思いでした。
そう言えば昔、ハンガリーに、若さを保つために若い女を誘拐してその生き血を飲んでいた
エリザベート・バートリという伯爵夫人がいましたっけ。

童話って、人間が誰でも心にもっている陰の部分のカリカチュアなのかもしれませんね。


この日は息子が「誕生日前日だから」ということで夜更かしをし、寝たのは1時。
「あー遅くなった。明日は絶対8時に起きなきゃ!」
「なぜ?」
カーネーション観るから」
ホテル滞在のもう一つの楽しみは、朝のドラマを大きな画面で観ること。
皆さまには当たり前のことでしょうが、我が家には相変わらずテレビがありませんので。

今までこの会話をした人全員が、テレビはほとんど見ないという人も含め、
「あれ、面白いよね!」
と言っています。
前の「おひさま」もそうでしたが、日本の古き良き時代に青春を過ごした人、それを知らない人、
皆が自分たちの親や祖父母の時代のドラマを観たがっているってことじゃないんでしょうか。
どうしてこういったものをもっと作ろうとしないのかなあ。
荒唐無稽な(と言う噂の)韓流ドラマやでっち上げ朝鮮歴史ドラマなんかよりずっと共感を得ると思うのですが。


博多には二泊します。(行きがかり上続く)






旅しながら淡々と写真を貼る 山口

2011-10-26 | つれづれなるままに

訳ありの用事で今実は西日本にいます。

しばらくの間、合間に滞在地で撮った写真を淡々と貼っていきます。
各地の用事を盛り込んだら、凄い行程になってしまいました。
まず初日。
飛行機で山口・宇部空港着。
空港まで知人が迎えに来てくれ、ホテルにチェックイン。

冒頭写真は宿泊した部屋なのですが、部屋になんと12メートルくらいの温水プールがついています。
この7月にオープンしたばかりの「古希庵」
それが山口でのお宿でした。
これがその入り口。
湯田温泉にある温泉旅館なのですが、さすが最近のオープンだけあって、超ハイテクです。
この扉は自動ドア。自動ドアがハイテクと言うわけではありませんよ。
このドアに見られるように、昔ながらの旅館の雰囲気を生かした、しかし最新設備のホテルになっています。

この日、実は山口では国体が行われていました。
現地の方いわく「それなりに盛り上がった」ということでしたが、
それに合わせてスタジアムができたりして、一部業種が潤ったという程度のものらしいです。
でも、やっぱり開催地って有利なんでしょうかね。
山口県が総合一位だったんですって。

国体の人出のせいで知人のお薦めのお店が皆満席になってしまい
「ここならまあまあだから」
と連れて行かれたのが、山口朝日放送局のビルにあるイタリアンレストラン。
サンマと水菜のパスタをいただきました。(写真撮り忘れ)
そのあと、その方のお宅拝見。

息子と同じ年の男の子がいるので、彼らを遊ばせました。

会社を経営している方なのでただでさえ立派なお宅でしたが、なんといっても土地の広さは羨ましい。
庭が広いのはもちろん、周りにも家があまりなく、山々を望む見晴らしのいいことと言ったら。
差しさわりのない写真しか載せられないのが残念です。
情報速度や流通に地方格差の無くなった今、地方に住むって何のハンディでもなく、
むしろ安い土地で広々と住める地方住まいを本当の「リッチ」というのではなどと考えてしまいました。

息子達は「太鼓の達人」をしていましたが、ドボルザークの「新世界」(最終楽章)が鳴ったときは、
「叩きた~い!」
腕がむずむずし、横から参加したくて仕方ありませんでした。
夕方にホテルに戻り、いったん部屋に入りました。

 

 


経営者の父君の「古希」の記念に創ったので、「古希庵」という名前が付けられたそうです。
どこもかしこもピカピカで、庭にはサクラ、楓、沈丁花、金木犀などの季節を楽しむ木は勿論のこと、
ツワブキやウルイ、野草も植わっている植栽がまだなじんでいない感じが初々しい。

夜は先ほどの知人家族と、息子の誕生日祝いを兼ねて夕食会をしました。
 

ふぐさしです。
ちなみに知人の息子さんは「肉嫌い、ふぐ刺し大好物」
だそうで、さすが山口の子供。

失礼して、とお食事の写真を撮っていたら
「ブログしてるんですか?」
「いっ・・・・いいえええ」

声上ずってるし。
TOにすら極秘にしているので、TOの知人であるその方にはさらにそれを言うわけにいかず。
何につけ嘘をいうのは心苦しかったです・・・。
 

マツタケの土瓶蒸しとお寿司。
マツタケが特に好きというわけでないエリス中尉にとっては非常にビミョーな、
マツタケ尽くしの宿一泊、というイベントが、実はこの旅の後半に控えております。
昔、嵐山で仕事関係の方にご馳走になって、最後まで食べられなかったなあ・・・。

この後、ふぐのてんぷらやステーキなどがこれでもかと出てきたのですが割愛。
やはり後半は多過ぎて残しました。
タイの洪水について心配そうに語りながら、上等の肉をおなかいっぱいで残す日本人。
我ながら「呑気なものだなあ」と感心しました。


息子の12歳のバースデイケーキ。
去年のフォーシーズンズのケーキも美味しかったですが、ここのも素晴らしかったです。
後半の食事を持てあました子供たちと女性陣、このケーキは全員がぺろりと食べてしまいました。
口に入れるとまるでとろけるようなスポンジと、すっきりした甘さのクリームは絶品でした。

この夜はこの後家族でプール・パーティ。
泳ぎつかれたら温水プールから直接お風呂にドボンと。
冬、雪が積もったときに泳ぎたいね、などと言いながら楽しみました。
 

明けて翌日、大浴場は当然のように露天で、私一人の貸し切り状態。
温泉の質は非常にまろやかでした。
清冽なくらい綺麗なお風呂、写真が撮れなかったのが残念。
 

ドレッシングすら手作りの(これは当たり前のようで当たり前でない)、手のかかった朝食。

 

食後はチェックアウトまで足湯を楽しみました。
この後、新山口まで移動して、次の停泊地へと進みます。


ほら、国体やってましたね。
でも、山口に来るまでまったく知らなかった・・・。

このゆるキャラは「ちょるちょる」(だっけ)といって、頭が「山」
ちょるは、たぶん「何々しちょる」っていう方言から。(じゃないかな)
それにしても、ひこにゃんって、ゆるキャラ界のスーパースターなんだなあ、
となぜかこれを見てあらためて納得してしまいました。
ごめんよちょるちょる。(ですよね?)

さて、新幹線に乗って、降りた某所にはこないなものが~!
かっ・・かわいいぞ~!

これで次の停泊地がだいたい分かってしまいましたね。

さあ、明日はどっちだ?(なんとなく続く)






機種決定~日高盛康少佐

2011-10-21 | 海軍人物伝

         

日高盛康少佐海軍大将日高荘之丞の孫にあたります。
日高荘之丞大将は戦功により男爵の爵位を授けられ、兵学校校長を務めたこともありました。
山本権兵衛とは兵学寮の同期。
「坂の上の雲」で中尾彬氏が演じた、といえばお分かりでしょうか。

爵位が生きていた頃の知人である兵学校の後輩などが日高少佐について語ると、
必ず「男爵」と爵位を付けています。
しかし日高家は昭和17年に爵位を返上しています。


この日高少佐の兵学校66期、飛行学生33期は、士官パイロット揺籃の地であった霞ヶ浦航空隊ではなく、
筑波航空隊で教育を受けました。32期が教育中であったためです。
このとき筑波はできたばかりでした。

士官搭乗員が皆口を揃えて言うように、この半年間は日高少佐らにとっても
「大いに青春を謳歌しあった生涯最良のとき」であったそうです。

66期の教官には真珠湾で自爆を遂げた飯田房太大尉がいて、日高少尉らを鍛えました。
「お嬢さん」というあだ名の、温顔の好青年でしたが、内に烈々たる気魄を秘めたリーダーぶりだったということです。
ただし、硬派一本でもなく、日高少佐と同期の藤田怡与蔵少佐などはレス通いを指南された、
と想い出で語っているそうですから、もしかしたら日高少尉もこの飯田大尉の言うところの
「夜間訓練」参加組だったかもしれません。

 

さて、いよいよ卒業の日が間近に迫ってくると、寄ると触ると彼らの話題は「機種決定」
皆、希望や期待を膨らませ、勝手な憶測が乱れ飛びます。

この練習機過程では、全員が一通りの操縦技術を習得するようになっていますが、
ここから先は適性に応じて専門の機種に回されるというわけです。

「血気盛んな若者に偵察は人気がなかった」
と、半ば予測でこのように考えを述べたことがありましたが、
実は日高少尉らにとってはそれどころではなく、
卒業時3分の一が偵察に行かなければいけないというのは
「大問題だった」。
人気がないどころか誰も行きたくなかったということです。

当時シナ事変で、渡洋爆撃など中攻隊の活躍が目覚ましく、
攻撃隊の指揮官にはパイロットよりは偵察が望ましい、という考えが生まれ始めていました。
つまりそれまでは「操縦適性の劣るものが偵察に行く」という傾向にあったのですが、
この辺りから「操縦適性のある者は、偵察適性も優れているはず」という風になってきて、
むしろ優秀なものを偵察に回す、という動きになってきていたのです。


皆戦闘機に行きたがるので
「偵察は操縦が優秀だから行くということにすれば少しは志望が増えるのではないか」
という兵学校がひねり出した苦肉の策のようにも思えます。

だがしかし。

いくら「偵察は優秀」と言われても、花形の戦闘機乗りに憧れるなというのが無理。
当時戦闘機は日進月歩。
その最新鋭のマシンを駆って空で戦う戦闘機乗りに、
ただでさえ積極先取の飛行学生が魅力を感じたとしても、何の不思議もありません。

日高少尉もまた戦闘機を「大熱望」していました。

しかし、狭き門でもあり、そもそも日高少尉の操縦の成績はご本人いわく
「どうひいき目に見ても抜群とは言えなかった」。
因みにこのとき「抜群であった」のが、真珠湾作戦にも参加した先ほどの藤田怡与蔵少尉でした。

そして、日高少尉にとってさらに不吉な予感のすることに、トンツーの成績はトップクラス。
衆目の見るところ「日高は偵察決定」というのが当日までの下馬評でした。
ところが蓋を開けてみればびっくり、日高少尉は戦闘機。
このとき戦闘機に選ばれたのは、原正、山下丈二、藤田怡与蔵、坂井知行の5人です。

戦闘機に決まったものはみな躍りあがって喜んだそうです。

山下丈二少尉は、このあと七五二空の分隊長としてニューギニアで戦死。
坂井知行少尉は先日書いたように66期のクラスヘッドでしたが、
五八二空の分隊長になってわずか一五日後、ラバウルに着いたばかりの空戦で戦死しました。

このクラス30名の内訳は10名偵察、20名が操縦。
20名の操縦の内訳は5名戦闘機、艦爆3名、艦攻6名、中攻5名・・・・
・・・・あれ?

一人足りませんよ。日高少佐。
手記には人数を数えながら一人ずつ名前を書きだしておられるのですが、
どうも一人、どうしても名前の出てこなかったクラスメートがいたようです。

このときの日高少佐の感慨。
操縦と発表されたものは戦闘機でなくて希望と違ったとしても、まあ一様にほっと胸をなでおろしたが、
偵察と発表された中の一部の人たちは一大ショックであったに違いない。

うーん、そんなにイヤなものなんですか、偵察。
まあ、後ろに座っているだけだからねえ。
責任感の重さのわりにつまらないといえばつまらないかもしれません。

というか、飛行機に乗るのならやはり自分で操縦したいですよね。
わたしだって、いまだに人の運転で助手席に乗るのは苦手で、ってそういう話ではないか。



さて、めでたく専攻も決まり、大分に向かうわけですが、
この戦闘機の5人は揃って卒業を迎えることはできませんでした。

原正少尉は射撃訓練に複葉の95戦で飛び立ったのですが、
機首をあげた刹那両翼が吹き飛んで、海に一直線に突っ込んでしまったのです。
この殉職については藤田怡与蔵氏もその手記に書き残しています。

原少尉は一週間見つからず、やっと見つかった無残な遺体は、
ばらばらになった手足胴体を包帯で固定して納棺しなければなりませんでした。
他の航空隊でも訓練中の事故、殉職は日常茶飯事と言っていいほど多かったそうです。

兵学校の飛行訓練の時にプロペラの前で屈んで身体を起こしたとたん頭を切られた、
という生徒さんの話を読んだことがありますが、これなどは本人の注意力欠如でとしか言いようがなく、
こんな事故で息子を失った家族はいたたまれない思いをしたのではないでしょうか。

菅野大尉が少尉時代に飛行機の脚を回されてひっくり返ったとき、皆真っ先に
「ああ、海軍葬だ、午後の上陸は中止になった」
と思った、というのも、菅野大尉が特に嫌われていたわけでも、皆が特に冷たかったわけでもなく、
おそらく「みんなそういった事故に慣れていた」ということだったのかもしれません。


しかし、日高少尉や藤田少尉にとっては修羅場の経験の全くないころの出来事であったわけで、
そのショックはひとかたならぬものだった、ということです。

「原が生きていたら基地部隊を希望していただろう・・・・・」
配属先が決まった喜びも、このような悲しさのまつわるものとなってしまった日高少尉ら33期飛行学生でした。

この原少尉は神戸出身の都会的なモダンボーイで、やはり東京出身の日高少佐とは
同じ都会派シティボーイズを自認する、気心の知れた者同士だったのでしょう。
兵学校の休暇時、神戸を案内してもらったのが戦後も少佐にとって楽しい想い出になったそうです。

実は、原少尉が事故を起こした飛行機は直前まで日高少尉が操縦していました。
日高少尉が事故で死ななかったのは全くの奇跡的な偶然の産物ともいえるでしょう。

事故の回避や出撃の中止など、いくつもの小さな奇跡が起こり、それゆえ終戦までを生き抜き、
さらに戦後の昭和平成の世を生きて天寿を全うしたと言っても差し支えない日高少佐と、
同じ機に時間差で乗っていたがゆえに若い命を事故で散らした原少尉。

いったいどんな運命の女神の気まぐれな采配が起こったのか。
その人生の最後の瞬間まで、仲の良かった原少尉と自分の彼我を分け隔てたものが何であったのか、
その問いが日高少佐の頭から離れることはなかったのではないでしょうか。




ところで、藤田怡与蔵少佐ですが、機種決定についてはあまり感慨もなかったもののようで、
一言もそれについては触れておられません。
日高少佐のように、熱望していたけれど行けるかどうか全く自信が無かった飛行学生ほど、
戦後もその感慨がありありと思い出せるくらいに喜びもひとしおだったのかもしれません。




 


アメリカで駐車違反してみた

2011-10-18 | アメリカ

してみた、って、まさかブログに書くためにわざとしたんじゃあるまいな、って?
ま、まさか、そんな~いくらなんでも・・・ねえ

アメリカでは車が無いと生活できない場所がほとんど。
我が家が毎年訪れるボストン郊外など、幹線道路には人のための歩道すらありません。
コミューターと言われる都心への電車に乗るにも、駅まで車で行って、
駅前の駐車場(勿論タダ)に終日停めておくのです。
サンフランシスコのような都会であっても、車が無くては買い物一つ行けません。
ショッピングモールやお店の駐車場は無料ですが、パーキングは一般に高く、さらに
路上駐車はほとんどがコインメーター。

一般の道路は大抵駐車可で、住宅地などは基本どこでも停められるのですが、その際、
角ごとにあるこのような看板を注意しなくてはなりません。


これは、交通局に行って取得するGパーミットを貼っている車、つまりこの付近の住民以外は
平日日中は2時間まで駐車を許可している、ということが下に書かれており、
上の赤い看板は第1、第3火曜日の12~2時までの間は掃除の車が通るから駐車禁止、
というお知らせをしています。

このシステムはアメリカ全土共通であるため、旅行者や来たばかりの人と違って、
アメリカ人ならうっかり禁止時間に停めて、切符を切られることなど無いのかと思うと、
それが、必ずいるんですね~。
看板を見間違える人が。

繁華街、都心部はこれ以外にも夕方のラッシュアワーは駐車禁止、などという
細かい特別ルールがあったりして非常に紛らわしいのです。
昔都心でこの「特別禁止時間」に気付かず眼の飛び出るほど高い罰金を払ったことがあります。


掃除の車の前には、露払いのように、このような一見かわいらしい取り締まりの車が
ちょろちょろ走って、健気にお仕事して回ります。
乗っている人は大抵でっぷりしたアフリカ系などで、全く健気でも可愛くもないんですが。

この車は、坂のてっぺんにいるところをかなり遠くから写真に撮ったのですが、このような
サンフランシスコ名物の眼もくらむような坂でも彼らは臆することなく、くまなく走りまわっています。
普通の車でも相当怖い傾斜なのに、あの車で、特に下りは怖いだろうなあ。

しかしそれも当然と言えば当然。
彼らは民間の取り締まり員で、給料はなんと歩合制
生活かかってますから、気合いも入ろうというものです。
そして、ドライバーのクレームには決して耳を貸しません。



日本でも、取り締まり員に喰ってかかったり暴力をふるったり、という話がありますが、
ここアメリカでは文句は基本。喰ってかかるくらいは当り前。
なんと取り締まり員の過酷なお仕事をドキュメントにした
PARKING WARSという番組があるくらいです。
切符切られた人が、キレまくって係員を罵ったり、迫ってきたり、が毎週面白おかしく放映されます。
 

こんな獰猛なおばちゃんに襲いかかられたら、気の弱い人は泣いちゃいますね。
右画像の女性も、レッカーで車を引っ張られてしまい怒り心頭。
お上品な見かけによらず激しく食ってかかりますが、そんなことにひるむ係員ではありません。
「お金あげるからバスで帰ってください」・・・・ん?
良家の奥様に見えたけど単なる財布を忘れた愉快なサザエさんだったのか・・・・・

・・・・・という様子がテレビショウになってしまうアメリカ。
トラブって激している様子を全米に報道されても誰も気にしていないのがさすがです。



路上駐車用のメーター。
クウォーター(25セント)、10セント、5セント玉が使えます。
サンフランシスコは駐車料金が異様に高いので有名で、
例えば私が今回違反をして切符を切られたウェルズリーなどは、25セントで1時間チャージされますが、
なんとここでは25セント硬貨一枚がわずか8分
(などと言ってみましたが、よく考えたら一時間停めるのに2ドル、つまり160円。安っ

ここに着いてまずすることは、銀行で20ドルをまず全部クウォーターに変えることです。
でないと、小銭を作りに行っている間に切符を切られているなんてことになるからです。
変わっていなければ、駐車違反は日本円で1万3千円くらいのはず。
消費物価の安いアメリカでは異常な金額です。

おそらく
「クウォーター作りに行っていたのに、なんで違反なのよ!」
「違反は違反です」
「くぁwせdrftgyふじこ!」
「あーあー聞こえません」
「ぐぬぬ・・」
というPARKING WARが繰り広げられ、市民が文句を言いまくった結果だと思われますが、
今年、一部のメーターが最新型になっていました。

いかにもアメリカ。クレジットカードで払えるのです。
一度使ってみましたが、カードを挿入し、何分停めるか最初に選んでピッと画面を押すだけ。
勿論従来のようにコインも使えます。
こんな変革は実にてきぱきとやる国、それがアメリカです。

それでは本日タイトルの、わたし自身の違反についてお話します。
ボストンに着いてすぐのある日、なんとなく車を停めて向かいのお店に入り、
3分くらいしてから「あ、コイン入れなきゃ」とドアを開けたら・・・・

 

わずかの隙にこのような派手な色の封筒の中に不幸の手紙が。
やられた・・・・・・・・orz

さっきも言いましたが、一時間わずか25セントですよ?
円高なのでわずか20円ですよ?そんなもん入れ忘れるなつーの。

チケットには車のナンバー(何故かこのとき借りたプリウスは、ペンシルバニアナンバー)、
時間、場所、パーキングメーターのIDがきっちり記載されていました。
わずか3分でこれだけきっちり登録するとは、何たる匠の技。

しかし不幸中の幸い、罰金はわずか15ドル。
地価が安くメーターが安いので、罰金も安いわけですね。
それにしてもサンフランシスコの10分の1強ですよ。

アメリカでは罰金の支払いに警察署に行く必要はありません。
コンビニに支払いに行く必要もありません。
勿論、免許の点数が云々などというシステムもありません。
罪悪感など感じる必要もありません。淡々とHPから支払うのみ。

無精者の国ではウェブで支払えるようにしておかないと、行政が催促する羽目になりますので、
支払いシステムも実に簡単で便利です。
右側のチケットにはちゃんと「ウェブサイトで払えます」と書いてあって、HPのアドレス記載。

部屋に戻ってすぐにページに行ったら、画面にはしっかり乗っていた車のナンバーが登録されていて、
「こんなことだけはてきぱき進めおってからに・・・」
と苦々しく思いつつも、とっとと支払いを済ませました。




これはサンフランシスコで見た、通りに面したガレージのドアに貼ってあるもの。
そう、路駐の際、たまーにガレージのドアを塞いで停める迷惑なうっかり者がいるんですよ。
今回、うちのアパートでも一回、私のアルティマ(ティアナ)と、アジア系のカップルのBMWが
こういう車に出口をふさがれてアパートから出て行けなくなったことがありました。

私たちはそれで出かけるのをやめてしまいましたが、彼らはトウイング(レッカー)を
電話で呼んでいたようです。
それこそ光の速さでやってきて、あっという間に車を持って行ってくれるのです。
品物の配達に3日間のずれがあるのが普通のこのアメリカで、実に迅速な対応をするのが、
この民間のレッカー会社。
こういう業種だけは、信じられないくらいてきぱきとお仕事をしてくれるんですね。
レッカーの御代金は勿論、1日あたりいくらかの保管料金込みで引っ張った車の主に請求されます。

昔アパート敷地内で間違ったスペースに停めて持って行かれたことがあるので知ってますが。

で、この文句ですが

ここに停めた最後の車
まだ見つかってません」


じわじわ怒りが伝わってきますね。
わざわざ開けた銃痕が住人の抑えきれない感情を表現している作品です。
何度か出て行けなかったことがあったんだろうなあ・・・・。

それにしても、日本に帰ってきてガソリンを入れるたびに1万円近いお金が必要なのに、
今更ながら暗澹とする思いです。
サンフランシスコで借りていたニッサン・アルティマですが、1カ月の間ガソリンを入れたのは一度だけ。
こんな坂を毎日走り回っているのに不気味なくらいガソリンが減らないので
「もしかしたらケージの故障?」と思ったくらいです。
日本車凄すぎ。

そしてさらに、ガソリン追加で払ったのはたった30ドル(2400円)。
これでアメリカ人は「ガソリン高い!」って怒ってるっていうんですが。
どう思います?








あなたは行進曲軍艦を「完璧に」歌えるか

2011-10-15 | 海軍

歌えるか?


と聞かれて「もちろん歌詞さえ知ってたら歌えるさ、何度も聴いて覚えてしまっているから」
と胸を張って言える人の方が、現代には多いのではないかと思います。

現在の日本に溢れる数多の音楽はリズムもメロディも複雑になって、たとえば以前このブログ中で説明した
映画「パイレーツオブカリビアン」の「彼こそは海賊」にしても
二拍三連のリズム(カウントの仕方は4拍子)の曲の中間部で「三拍子に聞こえる部分」がでてくるなど、
音楽的には非常に高度なリズムを皆何の違和感もなく受け入れているわけです。

11歳の息子は今チェロでこの曲を全曲演奏することができますが、彼の場合問題になるのは常に演奏技法であり、そのリズムについては完璧に理解できているほどです。
(ちょっと親バカしてみました)

しかし。


この曲ができた114年前、当時の日本人は今とは全く違うリズムの上に生きていました。
日本人の基本は畑で鍬をふるう「おいちに、おいちに」あるいは「えんやーとっと」の2拍子であり、
決して騎馬民族の「ぱからっぱからっ」という二拍三連ではなかったのです。


民謡や軍歌のほとんどは、頭に強拍のくる二拍子であり、日本人に拍子を取らせると必ず
一拍目に拍手が来る。

あたりまえだって?
これは日本人やアジア地域の民族に見られる傾向です。
欧米の、特にアメリカ人の集団に拍子を取らせると、まず間違いなく「頭」ではなく「後打ち」つまり
「ん パッ ん パッ」
という打ち方をします。
ロシア民謡でも「カリンカ」や、コザックダンスの音楽は皆「んパっんパッ」ですね。

日本人には三拍子という概念もありませんでした。
たとえば「芸者ワルツ」という曲にお年寄りが拍子を取ったら、頭から一拍ずつ打っていくため

あな た  リー  に  田  ゆれ 

(下線で拍手、拍の頭は太字)

ってなことになってしまうんですね。

え?例がマニアックすぎるって?


前置きが長くなりましたが、この名曲「軍艦」が当時画期的であったことにこのリズムの
「汎世界的」な使い方にあります。
本日冒頭で示した後半のこの部分、赤で囲んだ部分をシンコペーションといいます。
一行目にもありますね。
ようするにリズムを拍頭で切らずに「引っ掛ける」という技法です。
音楽の時間に習いましたね。覚えてますか?

このシンコぺートはたとえばcouldn'tのように省略することを言いますが、実音を「省略」しているわけです。

西洋音楽では当たり前の技術ですが、そもそも西洋音楽そのものが先取的だったころ。
当時の日本人は受け入れはしてもこれらの西洋のリズムをなかなか歌いこなせなかった、と言われています。
「陸軍分列行進曲」の「抜刀隊」部分を当時の日本人は唄うのが大変だったという話を書きましたが、
この場合は音程の複雑さと転調という観念が当時の日本人の「体内」に無かったためです。

つまり、海軍はリズム、陸軍は音程で日本人の音楽概念をこのとき超越したわけです。
おおげさすぎるって?



ぶっちゃけていうと、当時この曲を「いきなり完璧に歌える一般人はあまりいなかった」と言うことです。

204空附きの軍医大尉で、音楽家でもあった小林勝郎氏の著書にあった話です。
氏が砲術学校で(軍医として)訓練中、週一回の軍楽隊員による軍歌指導がありました。
軍楽兵がトランペットを吹き、下士官が自ら歌いながらある日この軍艦を指導したそうです。

ところが、皆ここの楽譜の「シンコペーション部分」が正確に歌えない。
小林氏がつい「ここはシンコペーションという特別な技法が使われていて」
と口を出したら、
「軍医中尉はよくご存知で!」
と称賛のまなざしで軍楽隊員から見られてしまったというのです。
まあ・・・実は特別な技法ってほどでもないんですけどね。
著書によると軍医は東京でシェーンベルグの無調音楽なんかも鑑賞していたわけですから、
あくまでも一般レベルで語ったのでしょうが。

その後小林軍医中尉のあだ名は『シンコペーション』になりました。


飛行予備学生14期の方の回想です。
筑波颪が吹きすさぶ土浦の学生舎南の日だまりである日分隊士の寺田中尉がこんなことを言いだしました。

海軍士官たらんとするお前たちは軍艦行進曲を正確に歌えなければいけない。
我と思わんものはこの号令台の上で一人で歌ってみよ」


なんでそうなるねん、などと言ってはいけません。
軍歌行進が兵学校始め軍隊教育の基本であったように、軍歌をきちんと歌い心を合わせるということは
軍隊の統率と精神的な統一を図る上で大変重要な訓育法であったわけですから。

とにかく、それを受けて我こそはと何人かの学生が次々にチャレンジしますが、
皆歌詞は覚えていても曲のどこかで必ず微妙なミスを犯してしまうのです。


そのミスの大半がこの「シンコペーション部分」であったことは疑うべくもないでしょう。
審査員の寺田中尉は完璧に歌うことができ、自信もあったに違いありません。
いざ歌いだしても、最初に間違ったところで出されるその寺田中尉の「やめ!」の声に
次々とたおれていきます。

「こんなに難しい歌だったのか・・・・」

何気なく歌い聴いてきたこの歌の難しさに皆があらためて驚くような気持を持つうちに
コンテストは終わりました。


このとき完璧に最後まで歌いきり、みごと優勝したのは
九州の炭鉱財閥の一門の子息で、紅顔の慶応ボーイであった幾島達雄学生でした。
その後彼は昭和20年4月6日、神風八幡護皇隊員として特攻散華したということです。

 

ところで、アップしてから冒頭の譜面にミスがあるのに気付きました。
直すのが面倒なので(おいっ)クイズにしてしまいます。
どの部分が間違いでしょうか?
正解は巻末に。・・・二行後ですが。


いやー、こんなに書くのも難しい曲だったとは・・・・(←嘘)




(後ろから二小節目のファは符点四分音符、ソが八分音符)





パル博士の日本無罪論と映画「プライド」

2011-10-12 | 映画

    

法衣の立ち姿を描こうとして、つい縦長の画像になってしまいました。
画像アップ後しみじみと見つめると、パル博士の清廉で意志的なその人格がいかにも現れた立ち姿であると思います。
「その個人的な全てを覆い隠し、ただ法の代理人となって職務に当たる」
という意味で身体を覆う長い長いガウン。
ついでに、どうしてこんなにズボンの股上が長いんだろうとも・・・・・。

ラダビノッド・パル
東京裁判でインド代表判事を務め、被告人全員無罪と裁判の正当性に疑問を投げかける
「パル判決書」で、日本は無罪であると主張した法学者です。

靖国神社に行くと、パル判事の碑があり、そこにしばし佇んで説明を読む人々がいます。
何故パル判事がここに祀られて?いるのか。

その理由を「日本無罪を訴え戦犯を否定したから」と田嶋陽子氏などはあっさりと言い放つわけです。
確か田嶋氏は左派論客だったはず。
その彼女が若干乱暴な物言いとはいえ、このような認識をしていることに軽く「隔世の感あり」
の想いがします。
東京裁判史観に、一応の最終的結論が出て、それが社会に浸透しているということでしょうか。
一昔前は、左派論客のパル判決解釈は「日本有罪、一部無罪」であったように思います。


以前「嶋田大将の最後の戦い」という稿で、東京裁判について少し語りました。
その時さりげなく「高校時代から東京裁判オタクだった」などと小賢しいアピールをしてみましたが、
いくらオタクでも所詮は高校生。
裁判の流れそのものより、そこに登場する人間にもっぱら興味はあり、例えば

「パル判事は横浜のグランドホテルを常宿にしていたが、
バスタブの外で水浴びして下の階に水が漏れるのでボーイが舌打ちした」
とか、

「鈴木企画院総裁が毎朝『ウェーイ、ウェーイ』と発声練習するのを、米兵がまねしていた」
などという比較的どうでもいいようなことばかり頭に叩き込まれ、
われながら木を見て森を見ずの感ありまくりでした。

しかし、そんな高校生ですら、映画「東京裁判」で、小林正樹監督の歴史観を伺わせる
(日本無罪論は)「パル判事の真の意図ではない」
というナレーションには違和感を持っていたわけです。


パル判決書を「日本無罪論ではない」とする、いわば「日本有罪論」がいくつか出版されています。
この有罪論については、小林よしのり氏が「パール真論」で語っていたのを読んだだけですので念のため。

それにしても、判決書を読むのが大変で誰も読まないからと言って、それをわざわざ
「日本が何が何でも悪いのだし、パルだって本当は無罪だって言ったんじゃないよ」
と、己の思想に都合良く言い変えた解説を出版するというのは、いかがなものでしょうか。

東京裁判の無効性については何度かこのブログでも触れてきましたし、パル判事と東京裁判について、
少し調べればいくらでも納得する理由が読めると思いますから、ここではあらためてそれについて述べません。

でも、簡単なことだと思うんですが。

戦争の勝ち負けは正義の所在、正しかったかどうかとは全く無関係。
勝った方が負けた方を裁き罰するのは事後法。
そもそも、平和条約が結ばれたら、国際法上戦犯という存在は消滅してしまうはずなのに、
戦勝国は戦犯の存在をあえて残し、かつ国民に憎ませるように仕向けた。
日本の如何なる戦争犯罪より人道的に悪辣でかつ国際法違反である原子爆弾投下について、
言及を退けられた裁判であるというだけで公正を欠いている。



パル判事は日本が好きだったから(実際好きだったそうですが)弁護したのではなく、
法学者としてその信じるところを述べたにすぎないということではないんでしょうか。
そもそも前述の映画「東京裁判」では、出どころの怪しい(パルが『証拠に乏しい』と言い切った)
南京大虐殺のものとされるフィルム(生きている人間に土をかけている『だけ』。完全に埋めるシーンは無し)
をカットに入れているあたりですでに思想的に怪しいと言うしかないのです。


こんな簡単なことを、どうして日本人でありながら分からない人がいるの?
分かりたくないの?

と、いわゆる若年性左翼であったはずの女子高生ですら論破できそうな気がしたものです。
しかも、当の日本人がいまだに戦後レジームと自虐史観から抜け出せずにいるのを見て、
「もしかしたら日本人に植え付けられた自虐って、もう一部DNAに組み込まれてしまったんだろうか」
と不安になってしまう今日この頃でございます。
 

「悪辣な軍国日本を美化する邪悪なたくらみを持つ映画」と、映画「ムルデカ17805」を糾弾した
映画演劇労組という団体があります。
その映演労連が案の定噛みついたのが、この映画「プライド 運命の瞬間」でした。
理由はムルデカと同工異曲です。

かつての敵国と思われる陣営の映画評でも「戦犯東条を善人に描いた最低の映画」などという、
散々な、というより「本当に映画、観て言ってる?」と聞きたくなるくらいヒステリックなものを見たことがあります。
その時はまだ観ていなかったのですが、まあ敵ならそう思っても仕方ないかも、くらいに思っていました。
しかし、観た今となってはもう一度この人たちに言ってあげたい。
「本当に、観たの?」


東条英機や軍国主義を美化するもの?
どう観たってこれは「映画、東京裁判(ドラマバージョン)」でしょうよ。
あんたら、もしかして題名と予告編だけ観て非難してないか?

これは、東京裁判の流れを法廷劇仕立てで説明しつつ、裁く側、裁かれる側、
出廷した人々や彼らを取り巻く人々の人間ドラマにも焦点を当てた映画です。
中でも、ラダビノッド・パル判事については、その生い立ちから結婚と、かなりの時間を割いて描いています。

そもそも、この映画は、東日本ハウスの創立30周年事業で製作されたもの。
創立者の中村功氏の
「ラダビノッド・パルを主人公にした映画を作りたい」
という当初の希望があったのですが、、パルでは興業映画として知名度がなさすぎるので
東条英機を主人公にした、という経緯があるのです。

決して「綺麗な愛国者東条さん」を讃える映画ではなく、わたしのような「東京裁判オタク」が
「そうそう!判決の瞬間、こうやって傍聴席を見上げるのよね、広田弘毅は!」
「大川周明に後ろから頭をぺちってされてからの東条の苦笑いは、少し違うんでない?」
などと、盛り上がってしまう、法廷再現映画なのです。
食わず嫌いで観てない、と言う方、ぜひ先入観を捨てて観てみてください。

キャスティングについてですが、
東条英機(津川雅彦)・・・・・造型的には似てない。けど、仕草雰囲気がそっくり。研究の賜物か。
孫の東条由布子さんから『あの世から祖父が帰ってきたようだ』と絶賛されたとのこと。
清瀬弁護人(奥田瑛二)・・・・・奥田瑛二は好きな俳優だけど、清瀬弁護人はもっと枯れた爺さん俳優にしてほしかった。
ただし「枯れた爺さん風の演技」はさすがの奥田瑛二、もの凄く巧い。
キーナン首席検事(スコット・ウィルソン)・・・・・・・・・こちらは『油分が足りない』。
マフィア狩りで名をあげたチョイ悪検事なんだから、太った赤ら顔のアブラギッシュオヤジにしてほしかった。

この清瀬VSキーナンが、アメリカの新聞記者の言うところの
「痩せたヤギが太ったワシに噛みついている」の図にならなかったのは実に残念。



パル博士と日本とのかかわりについては、劇中、裁判中病気で亡くなった最愛の妻が
「私のことはいいから日本に帰って彼らのために裁判を」
と言ったという実話を混じえたり、彼の身の回りの世話をしたというボーイ(大鶴義丹)が
パルに諭されてインド独立の運動に身を投じる、という創作を加えたりして、
かなりの部分を使って人間パルを描こうと言う様子がうかがえます。

ちなみに「日本がボースを支持してインド独立に貢献した」とするこの主張をインド政府は退けています。
インドもこの手の微妙な問題にはディフェンシブなのでしょうか。

それにしても、昔、児島譲氏の「東京裁判」で仕入れた知識のうち、上に書いた
「バスタブの外で水浴びするからボーイが困って舌打ち」という話が映画中で

「不当な判決に激高したパル判事が、
何かに憑かれたように水を浴びまくったので、
それが下の階に漏れた」


と言う熱血エピソードになっていたのには笑ってしまいました。
パル判事は在日中、人との接触、特に民間の日本人との接触を避け、慰安目的で行われるパーティには決して顔を出さないというくらい、徹底して職務に忠実であろうとしたため、その手の個人的なエピソードが残っていないのだそうです。

ある意味戦後の日本人にとって「恩人」とも言えるパル判事ですが、
このボーイさんにとって、ただの迷惑なインド人でしかなかったりして・・・・。

 


いつの間にか本土の守りを担っていた話

2011-10-11 | つれづれなるままに

学齢期のお子さんがいるお家のお父さんお母さん、
子供の宿題を手伝うのに時間を取られてしまったことはありませんか?

「子供の宿題なんて子供だけでやるべきだ。親が手伝うなんてそりゃ過保護ってもんだ」
と思われた方、あなたは分かっていない。

少なくともうちの愚息の通っている学校に関しては、
親が参加することを前提に出される課題と言うものが意外に多く、例えば
「12月までに、
海川湖火山湾半島岬草原砂漠諸島氷河フィヨルド丘谷峡谷砂浜三角州扇情状地形
全て入ったジオラマを提出」

なんて来るわけですよ。
「材料は自分で考えて東急ハンズとかで買いなさい」

これ、11歳の子供が材料選びからみんな一人でできると思います?
絶対親が一緒に東急ハンズに行って、糊から台から、一緒に考えながら揃えないと無理でしょう?

材料を買ってきたら買ってきたで、討論しながら(学校は本当に何も教えてくれないので)
一緒に知恵を出し合って製作していかないといけないわけで。
ここ2週間というもの我が家は、というよりわたくしはこのジオラマ製作に奔走しております。

まずは既成のジオラマキットで、この世界を軽く予習することから始めさせました。
いきなり本番に入って「ああすればよかった」を最小限にするためです。
意外と面白く、むしろ親がのめりこんでしまったという・・・・。


そして、先週から本番に入り、昨日までに仕上げた宿題ジオラマ。
 

既成のお試しキット完成後、実は千葉にある模型材料を扱っている会社に伺って、
そこの製作専門の方にインタビュー、どうやって素材を扱ったらいいかを聞いてきました。
勿論息子も一緒に。

山や砂漠部分にパウダーを振って模型らしくなってはきたのですが、肝心の海。
どうしたらいいのかという決まった方法は無い、とおっしゃるわけですよ。その方は。
「私も色々試行錯誤しながら、思いついたアイディアをやっていってます」
ですって。
そういう世界なんだ・・・・・。
とりあえずジェッソという下地材を塗ってこの後色付け→メディウム(光沢)→リアリスティックウォーター、
仕上げに波がしらをエフェクト材で描けばいいのではないか?ということになったのですが、
この結果に至るまでに繰り返した実験数知れず。
塗っては乾かし、別の方法で試し、と試行錯誤の日々が続きました。

というわけで、前置きにも枕にも伏線にもなっていない話題でしたが、つまり、
ここずっと無茶苦茶忙しかった、ということを言いたかったわけです。

山陰旅行から帰ってからというもの、インターネット閲覧どころか自分のブログすらろくにチェックできなかったのですが、今朝(10月3日)久しぶりに、アップされていた記事の誤字を訂正する為に編集ページを開けてびっくり。
閲覧数がいつもより異常に多いではありませんか。

「誰かが内容をツィートしたか、2ちゃんねるあるいはまとめサイトのコメントにアドレスを貼った」
場合、このような現象が起こります。

夏前でしょうか、やたら海軍式敬礼のページに閲覧が集中したことがあって、
辿って見たらNHKの朝ドラマについて語る2ちゃんねるのスレッドでした。
なんでも「海軍軍人役の俳優の敬礼が全くなっていなかった」という話で盛り上がり、そのさなか
「海軍式の敬礼がこのページで図解されている」
と当ブログのアドレスを書き込んだ人がいたようです。
テレビを見ないうえ、当時アメリカにいたので、本当に全く駄目だったのかどうか分からずじまいでしたが、
このように演技の一挙一動をネットでどうこう語る人たちって、いるんですねえ。
リアルタイムで演技を評価されてしまうわけで俳優さんも楽じゃない時代です。


後は、韓国軍のF-15少将射出事件で嫌韓ブログに貼られたりしたことも。
それらいずれも迷惑と言うほどでもなかったのですが、今回は以前にもまして総数が多いので
「もしかしたら軽く炎上してしまったのかしら」
と怯えつつ集中アクセス記事を見ると、もう去年のことになりますが
「Fushigi Ballとは?」
というタイトルで、アメリカで大宣伝していたインチキおもちゃ(言いきってもいいよね)
を購入してしまったということについて書いた記事。
それについて

「笑えねえ・・・Fushigi Ballでググったらこんなん見つけた。
なんも知らん人にはこう見えるのかも知らん」


ってつぶやいた人がいて、そのあと連鎖して閲覧総数が異常に増えてしまったもののようです。

・・・・・いいのよ、笑ってくれても。そのために書いたんですから。

どうも、最近日本にも上陸したようですね、フシギボール。
あっさりとテレビ映像に騙されて、あんなインチキおもちゃを検証することもせず買ってしまうお馬鹿さん
(当ブログ主含む)がたくさんいるアメリカと違って、日本ではこういう人が被害者の増加を抑えているんですね!
素晴らしい。何て消費に対して冷静で賢明なんだ日本人。

しかし、冗談抜きでFushigi Ballで検索すると真っ先に当ブログのあの記事が出てくるようで、
(去年の記事ですから、日本では今話題になっているわけですが)
今やいろんなサイトに貼られているようなんですね。
いやいや、被害を減らす一助になっているようでなによりです。

このFushigi Ballですが、本家アメリカではテレビで一瞬わーっと宣伝し、今では影も形もありません。
息子、この夏テレビを見て、
「フシギのコマーシャル、もうやってないね」
そりゃやってるわけないでしょうよ。ネタバレ一巡してもうどこにも売ってないんだから。
だから、ネタが分からない人がうっかり買ってしまうのを期待して今、日本上陸しているのさ。

しかしこの目の黒いうちは我が皇国の本土でその邪悪な商品がはびこるのは許さん。
エリス中尉が鬼畜アメリカ業者のたくらみを身体を張って(嗤われながら)防いでやるわ!


ところで、検索ワードは決して調べないエリス中尉ですが、このように
「どこからやってきて閲覧しているか」
は、ちょくちょく見ます。大抵は検索エンジンなのですが、ときどき
「何故ここから?」というようなページから来る閲覧者がいて面白いんですよね。


一度、横須賀の写真を貼った記事が、どういうわけか横須賀出身の議員さんの
ホームページ(のコメント欄?)に貼られていたことがありました。

そして、勿論面白いだけでなく、
「あああ、こんな方々にお見せするのはお恥ずかしい」
というような、そう、つまり本物の海軍関係者の運営するページに貼られていたりすることもあるわけです。
我々の期友である何とか君について書かれている、とかなんとか。
これは、元、海軍軍人が見ておられるということですね?

そういう時はひたすら
「書いたことが失礼に当たっていませんように・・・」
と心の中で祈る思いです。


ところで、中国語ウィキペディアの某軍事ページに
このブログのマンガを貼ったのは誰ですか?



あ、中国人かもしれないのね。それでは

誰為維基百科貼了我的漫畫�?




(最後の「ま」が表示されない方、この字です)







アメリカの野鳥画像

2011-10-06 | アメリカ

アメリカではいつもカメラを持ち歩き、犬や猫、ウサギにリス、そして鳥がいれば必ずシャッターを切っています。
どうですか~。
このカメラ目線の鳥さん。
鳥好きにはたまりませんね。

生きとし生けるものなんでも好きだ!と大言壮語したこともあるエリス中尉、
幼少時はスズメや文鳥を飼っていた鳥好きでもあります。
スズメは、巣から落ちていたヒナを拾ってきて成鳥まで育てたのですが、冬の朝、いきなり死んでいました。
庭のアリを取って箱に入れてやったのを喜んで食べ、ちゃんと手に乗るかわいいスズメだったのに・・。
高校生の時に飼っていた(これもいきなり飛び込んできた)インコは鳴き声がうるさく、
おまけにわたしがピアノの練習をしていると対抗してもの凄い大騒ぎをするのです。
鳥の可愛さは基本黒いつぶらな目にあるというのに、三白眼で興奮すると白目を剥くこのインコ。
天敵でした。
なので「生きとし生けるもの全て」は嘘大げさ紛らわしい誇大表現です。
虫は全て嫌いだし。

さて、淡々とアップしていきますね~。
  

このガチョウたちは、先日犬が泳いでいた湖の主で、泳いでいないときは土手の上をうろうろしています。
ボストンでは、ガチョウが池から池へ移動するとき集団でえっちらおっちら行進して道を横断、
車はストップしてその間待つ、という光景をしばしば見ます。
何度か遭遇しましたが、対向車線に止まって待っているドライバーを見ると・・・

(*^_^*)←いつもみんなこんな顔になってます。

冒頭の鳥はサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジの近くの海岸、
つまりウォーキングコースにいる鳥で、

この、少し眼付きの悪い鳥といつも一緒にいます。
なので、この「テリムクドリモドキ」(もどき・・・)という種類のメスが、冒頭のかわいこちゃんではないかとは思っているのですが、思っているだけですすみません。
 
このあたりは夏でも寒いので、コーヒーショップの名前は「暖まり小屋」。
ライトのところにお洒落に止まっているテリムクドリモドキ。
何かの意匠みたいですね。

いつも朝はこうやって水たまりで水浴びしています。
 
さて次は、市内海岸近くのマーセド湖へ。
ここは、周囲を一周歩くとちょうど一時間。
散歩やジョギングに市民が利用しています。
これは、お父さん、お兄さんと小学生の弟。
弟が遅れるので「早く来いよ!」なんて言いながら父、兄は偉そうに振り返っていましたが、
この地点の1キロほど先で三人とも疲れたのか、ウォーキングのわたしが追い抜きました。
彼らのジョギングが今日だけだった、に25セント。

 

湖面の鴨とカモメ。右画像の奥にボーリングのピンが二本。

 

正確には「アメリカオオセグロカモメ」というそうです。
「カリフォルニアカモメ」も、羽の色は一緒なのですが、それは脚が黄色。
これはピンクなのでセグロくんですね。
羽の先にワンポイントの赤がはいっているそうですが、この画像からは分かりません。
真ん中辺に変な色のがいますね。
くちばしの色も黒いし、居候か?と思ったのですが、これどうやらヒナのようです。
野鳥図鑑に「ヒナはくちばしが黒いことが多い」って。
ことが多い、ってなんでしょうね。

奥に眼付の悪いモドキくんがいますが、この赤いワンポイントのある鳥はハゴロモカラス
長年ブラックバードとはこのことか、と思っていたのですが、どうやら違うようです。
この鳥が集団で飛んでいると、赤がちらちらして綺麗です。粋なデザインですよね。
サンフランシスコにはスズメ並みにあちらこちらにいます。


ざっと300メートル先に飛んでいったのをズームで撮りました。
ポケットカメラ(それも6年前のもの)ですらこの性能。すごい時代になったものです。
でもこんな時はもっとちゃんとしたカメラが欲しくなります。
小さくなければ持って歩かないのでたぶんこれからも買いませんが。

この綺麗な鳥はアメリカカケス。
最初は20メートルの距離にいました。
こっち見てますが、この後飛んで行ってしまったのです。
  
セグロカモメと縄張り争いで火花を散らすテリムクドリモドキくん。
眼付き悪いといいながら大好きだったりする・・・。

 

左はカイツブリっぽいですが、これ以上ちゃんとした画像は撮れませんでした。
これを撮っていてふと足下を見ると、このようなものが・・・・・・・。
去年はなかったので、この前の道路かあるいは湖でこの一年以内にお亡くなりになったようです。
アメリカではよく亡くなった場所にこうやって写真や十字架を飾ってあります。
合掌・・・・。

 

さて、ゴールデンゲートブリッジに戻りましょうか。
カモメくんと仲良く一緒にいるのは、この辺でいつも三羽一組になって哨戒飛行している
カッショクペリカン
くちばしが大きくてバランス悪いのに、綺麗に飛ぶんですよね。
 
これも実はものすごく遠くを狙ったので、色が判然としません。
ユキヒメドリのようにも思えますが・・・。

 

向こうに見えるはご存じアルカトラズ島。
この日、海岸ではヨットの「サンフランシスコ・カップ」が行われていました。
日本の参加ヨットがいたのでついシャッターを。

日本では見られない珍しい鳥もこの中にはいるようですね。
スズメの形状も随分違いますが、日本のスズメが世界で一番可愛いと思います。

 

おまけ*我が家のベランダに来たムクドリをガラス越しに。


母艦パイロットの着艦訓練 接艦から着艦へ

2011-10-03 | 海軍

前回に引き続き、日高盛康少佐の語る着艦訓練です。

画像は、ご存知の方はご存知、日高少佐の隼鷹乗組み時代の部下、
母艦戦闘機乗りの有名人、菊地哲生上飛曹(死後飛曹長)

対象になる他の人物を描いていないのですが、
隣りの人物や、日高少佐と比べるとゆうにサイズは1,5倍の巨漢です。

ちばてつやがもし「飛鷹のタカ」という母艦乗りが主人公の漫画を描いたら、
即刻脇役キャラに採用しそうです。
七人のサムライの塙兵曹プラス菅野大尉(漫画の方ね)という描き分けで。

というこの見かけも実際もキャラ立ちまくりだった名物男菊地上飛曹。
あまりに身体が大きいので、機体に乗り込む時は
整備員の助けが必要だったといわれています。
あまったところを無理やり押し込んでもらったりしたんでしょうか。

「上飛曹、もう少し膝曲げないとお尻が入りません!」

とか・・・。

しかし、いったん空に上がるとその飛行技術は軽快で、
戦闘技術は巧妙、かつ豪快で闘争心溢れる戦闘機乗りだったということです。
見かけどおり母艦戦闘機隊のヌシを自負し、後輩の教育にも熱心でしたが、
準士官(飛曹長)への昇進の内示が上からあっても、
頑なに辞退し続けました。

この昇進を勧めたのが日高少佐だったということです。

昭和19年6月19日、「あ」号作戦の帰途、
身をもって艦爆隊を守り、力尽き自爆戦死。

今度は昇進を拒むわけにもいかず飛曹長になりました。



さて、その菊地上飛曹が熱心に訓練を施して、
あなたは母艦着艦の第二段階に進んだとします。
第二段階からは実際に母艦で訓練が始まります。
しかし、まだまだ実際に着艦はしません。

停泊中の母艦の飛行甲板を目標に、誘導コースを廻り、
最終着艦コースを艦尾近くまで降下接近。
10mまで近づいたときにエンジン全開。
再び上昇、もう一度やり直し。

このようにして、誘導コースの取り方、母艦の見え具合、

第四旋回を廻ってからの降下の要領などを頭と体に叩きこみます。

そして、この段階では、飛行機隊だけでなく、
母艦の方でも「受け入れ」の訓練が行われます。
錨をあげて出港し、訓練海域に出て、近づいた訓練飛行隊のために
艦首を風に立てて、合計風速が14m/秒になるように、
そのときの地上風速に合わせて調節しセットするのです。

飛行機隊指揮官はフネのマストに
「着艦準備よし」の旗旒信号が上がったら、いったん編隊を解散。
一番機から順次誘導コースに入り、接艦訓練を行います。

この接艦訓練は着艦訓練の一歩手前状態の訓練で、
要領はほとんど同じですが、唯一違うのが飛行機は着艦用フックを下ろさず、
母艦も着艦ワイヤーを立てない状態で行うという点です。

つまり「タッチ・アンド・ゴー」ですね。

そのやり方。
第4旋回を終わり、グライドパス(降下率)に乗って艦尾に接近、
艦尾上方でエンジンを絞ります。
同時に操縦桿をじわっと引き、尾輪から先に甲板に着くように操作し、
3輪ともスムーズに甲板に着いたのを確認したら
直ちにエンジンを全開して発艦します。

これを何度も繰り返し、接艦に問題が無くなって、
初めて着艦訓練が実際に行われるのです。

接艦を何度も行うわけは、具合が悪いと思ったら
どの段階でもすぐパワーを入れてやり直しができるので、
心理的負担が少ないという理由です。

着艦の場合はぎりぎりの判断では失敗の危険が増大するので、
このような訓練をまず行い、十分な心の余裕を与える、というわけです。

真正面からくる理想的な合成風速に合わせるわけですから、
着艦の態勢としては本来一番容易な方法であるにもかかわらず、
これを難しいと考えるのは、ひとえに心理的な恐怖によるものです。

”あんな小さなところに降りられるんだろうか・・・
失敗したら海にボチャン”((((´・ω・;`))))


それから、こういうことをしたことのある人にしか分からない苦労として、
艦尾付近の気流の乱れによるコントロールの困難さがあるそうです。
つまり、煙突から出る煙と、飛行甲板の最後端の形状が
下降気流を生むせいだとのこと。

この空母の煙突の形は造船屋さん泣かせで、
いかに着艦の邪魔にならない形状にするかについて
改良に改良が重ねられたようです。

ホ―ネットやレキシントンなどは、
煙突が塔型艦橋の上に折り曲げて取り付けられており、
日本も戦争が始まってから出てきた隼鷹、飛鷹などはこの形状です。

ただし、空母の敵味方識別という点から見ると、
こういうタイプが出てきて以降は、すこし厄介になってしまいました。

空母を間違えて敵艦に着艦しそうになった話は、
彼我双方に数多く残されています。


さて、先ほど「ワイヤー」と言いましたが、この直径10ミリのワイヤーは、
艦尾付近の飛行甲板上に、横幅いっぱいに、
首尾線と直角に5メートル間隔で6本くらい張られています。
両端は、ドラムに巻きこんであり、このドラムがおもりとなります。

そして、このワイヤーは甲板上40センチの高さに張られ、
普段は倒しておけるような装置が両端に仕掛けてあり、
着艦のときに飛行機が下した尾部の着艦フックを
ワイヤーが引っ掛けて受け止め、機をストップさせるのです。

ワイヤーに引っかかった途端、搭乗員には約6Gの重力がかかりますから、
慣れないうちはこの重力に耐えるのも一苦労です。
シートベルトが緩いと、ショックで前の照準器に
頭をゴツンとやってこぶを作ったりすることになります。

百田尚樹氏の「永遠の0(ゼロ)」には、
ワイヤーに脚を刎ねられる整備員のエピソードが出てきます。

ワイヤーに機が引っ掛かって止まるまで、整備員は
飛行甲板の両側にあるポケットで待機しているはずですから、
実際にはありえないことのように思えますが、
戦闘中は退避どころではなかったのでしょうか。

さて、あなたの着艦させた機が止まると、
一斉に皆が飛び出してきて、ワイヤーをフックから外してくれるので、
後はフックを巻き上げ、前部リフトに向かってタキシングします。


と言うわけで、あなたは菊地上飛曹の熱血指導の末、
母艦着艦ができるようになりました。
おめでとうございます。   v(・∀・*)


日高少佐にはそのうち着艦の失敗談なども語っていただきましょう。