ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

上部砲塔砲手兼フライトエンジニア〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-01-31 | 航空機

メンフィス・ベルの搭乗員とその配置についてお話ししてきましたが、
最近appleTVでスピルバーグのこんなドラマが始まったのを知りました。
なんたる偶然、なんたるタイミング。
まさにわたしがこのシリーズで取り上げていく米陸軍爆撃隊、
そしてヨーロッパにおける爆撃任務がテーマです。

第二次世界大戦が題材 スピルバーグ&トム・ハンクス製作総指揮 
「マスターズ・オブ・ザ・エアー」予告 


ドラマシリーズ『マスターズ・オブ・ザ・エア Masters of The Air』
海外版予告編

始まったばかりで今第二話までしか見られませんが、
appleTVを契約している方、ぜひご覧ください。

当ブログがこれからこのシリーズで取り上げるミッション、
そして武器なども、実にリアルな映像で登場して一見の価値ありです。


さて、今日は、メンフィス・ベルに、トップ・ターレットガンナー、

フライトエンジニアとして乗り組んだ軍曹についてお話しします。

冒頭写真はメンフィス・ベルのトップ・ターレットです。
トップターレットはボールターレットの反対で、飛行機上部の砲座です。





戦闘配置の時にだけそこに立てばいいので、
飛行時はパイロット二人の後ろにいる感じです。

万が一、上部砲塔の砲手が機外に脱出しなければならなくなった場合は、
爆弾倉のドアから脱出することになります。

それが可能ならば、パラシュートをつけてここから飛び出したでしょう。



ターレット単体はこのようなもので、砲手は足置き場に登り、
エポキシガラスのドームに頭を入れて、発射桿を握り、
自分の足場ごと回転してターゲットを狙います。

空軍博物館所蔵の実物

装備されているのは二連装のブローニングM2 50口径機関砲で、
それぞれが1秒に14発発射します。



上部砲塔からに限ったことではありませんが、
銃撃するターゲットが航空機の場合、対象の速度を計算し、
さらに砲弾が自重で落下する位置と相手の飛行機がくるように撃ちます。



これは実際のB-17の操縦席ですが、こんな感じに
二人の間から顔を出して、指令を受けます。




こちらは映画「メンフィス・ベル」の一シーン。
上部砲手兼技術軍曹のバージ(リード・ダイアモンド)は、
操縦席の後ろから指令を受けたり、話しかけたりしています。

上の「マスター・オブ・ザ・エアー」ももちろんこのシーン満載でした。

■ 上部砲手/ 技術軍曹の任務と責任

重爆撃機プログラムの様々な段階における訓練は、
各搭乗員がそれぞれの職務に適するように設計されているのですが、
機関曹/上部砲塔砲手は空軍の専門技術学校で高度な訓練を受けます。

上部砲塔の位置がコクピットのすぐ後ろということから、
砲手でありながら高度な訓練を受けることによって
パイロットや副操縦士と密接に協力し、エンジンの作動、燃料消費、
すべての装備品の作動をチェックするという重要な役目をこなし、
かつ砲手としても技術を持つ人材がここに配置されることになりました、

この図で、ノーズの先端から下を見ているのが爆撃手です。
上部砲手はこの爆撃手と連携して爆弾投下を補助する役割を負うので、
爆弾倉のコック、ロック、装填の方法を熟知していなければなりません。

それから、爆撃手のすぐ後ろにいるナビゲーターとも連携します。
無線機器に関する一般的な知識を持ち、
送信機と受信機のチューニングを補助できること、
燃料のマネージメントにも責任を持ちます。

そして、他の配置に増して航空機識別には専門的な知識が問われます。
パイロットや副操縦士を含め、乗組員の誰よりも
飛行機について詳しくなければならない。
それが技術軍曹たる上部砲手が持つべき資質なのです。

そして、砲手でもある彼は、当然ですが、兵装、
特にブローニング機銃に精通していなければなりません。

ただ撃てればいいというのではなく、銃の取り外し、清掃、
再組み立ての方法、銃の整備方法、ジャム(つまり)や停止の除去方法、
銃と照準器の合わせ方を誰よりもよく知っていること。

兵装だけでなく、エンジンについても熟知していることが求められます。
これには乗員全員の命、装備の安全、任務の成功がかかっていますから、
上部砲手がその鍵を握っていると言っても過言ではありません。

■ 上部砲塔砲手ハロルド・ロッホ


左端:ハロルド・ロッホ

ハロルド・ロッホは1919年11月29日、ウィスコンシン州生まれ。

ハロルド・ロッホは12人兄弟の一人でした。
父ジョセフはウィスコンシン州デンマークで居酒屋を経営していましたが、
禁酒法が施行されてしまったので、海洋建設会社に就職しています。

ハロルドは1937年に高校を卒業してから、時給75セントで
パルプ、セメント、砂糖の船に荷を積む労働をしていましたが、
1941年12月、第二次世界大戦が始まると、陸軍航空隊に入隊。

若い二等兵は基礎訓練終了後マクディル飛行場に向かい、
航空砲手、無線技師、航空機技師になるための訓練を受けました。

1942年5月16日、航空機関士兼航空砲手として戦闘任務に就く許可を得て
伍長に昇進し、8月1日には軍曹になっていました。

メンフィス・ベルには最初第2機関手として配属され、後に砲塔砲手に転換。

ロッホは戦闘地域に入る前に殉職しそうになったことがあります。
しかも、究極のフレンドリー・ファイアーで。

ある日彼がテクニカルサージャントとしての任務として
翼の上でガスタンクをチェックしていたら、
尾部砲手のジョン・クインランが(写真の前列飛行眼鏡、フライトスーツ)、
本来のロッホの職場であるトップ・ターレットにもぐりこんで、
ふざけて銃座に着き、翼の上にいるロッホを狙って撃つ真似を始めたのです。

トップ・ターレットの銃にはそのとき実弾が1発残っていました。
 クインランが引き金を引くと、弾丸はロッホの頭をかすめました。

「クインランはこの一件で地獄を見たよ」

当たっていたら軍法会議行きだったかな・・・。

■ ヨーロッパ戦線へ

メンフィス・ベルはその後大西洋横断をしてヨーロッパ戦線に就くのですが、

途中、補給のためスコットランドのプレストウィックに立ち寄りました。

そのとき給油を手伝っていたスコットランド人のかわいい女の子が、
彼に名前を尋ねてきました。

「ロッホLOCHだよ」

「ロッホ・ローモンド」というスコットランド民謡をご存知でしょうか。

スコットランドはアイルランドの一部、アルスター地方とともに
スコットランド語を話す地方です。

英語とは近い関係ですが、分類としてはゲルマン語派に属する言語で、
「ロッホ」Lochは湖とか入江という意味になります。

余談の余談ですが、「蛍の光」も原曲はスコットランド語の歌詞で、
タイトルの「Auld Lang Syne」から、海軍兵学校ではこの曲を
「ロングサイン」と呼んでいました。(発音的にはラングサインが正解)

ただし、英語に変換すると「Old long Since」なので、
もう一つの日本語題「久しき昔」が意味としてはより正確です。

余談の余談ついでに、ロングサインこと蛍の光の曲は、五音音階による旋律で、
固定ドでいうファとシがない「ヨナ抜き音階」の曲となります。

ヨナ抜き音階は明治時代特に軍歌(嗚呼玉杯に花うけて)や
童謡(どじょっこふなっこ)民謡(木曽節)に多用されました。

その流れから現代の演歌はほとんどがヨナ抜き音階でできており、
現代のポップスも「千本桜」「恋」(星野源)などヨナ抜き多数です。

閑話休題、話を戻して。

ロッホという名前がスコッチ由来だったので、スコットランド人の女の子が、

「スコットランドの名前のアメリカ人飛行士に会ったことを喜んでくれた」

ため、彼はとても楽しい気分になったということです。

そのとき、飛行場の周りには、小さな子供たちが遊んでいたので、

ロッホは、乗組員が食べなかったサンドイッチの箱があったことを思い出し、
それが古くなって廃棄するくらいなら、と小さな子供たちに見せると、

子供たちは大喜びで、

『白パンだ!白いパン!』

どうも彼らは白いパンを見たことがないようでした。

アメリカ人の目から見たら、白いパンは豊かさの象徴で、
スコットランド人は白いパンを知らない=貧しい、だったのかもしれません。

言わせてもらえばアメリカの白パン、砂糖などの白い食べ物至上主義、
安易な加工品を便利で先進とする大企業優先のコマーシャリズムは、
現在のアメリカに肥満人口世界一という不名誉なタイトルを与えていますが、
このころのアメリカ人には知るべくもないことでした。

ただし、ここで金持ち国のエリート搭乗員という選民意識から、
貧しい子供に施しをしてちょっといい気分になっていたロッホには
のちに手痛いしっぺ返しが待っているのです。

■ Cレーション窃盗〜イギリスでの生活

とにかく、彼はそのとき「かわいそうな子供たちに」
サンドイッチを分け与えてしまったわけですが、
その後イギリスに上陸し、配給として与えられる食料の多くが
野菜(キャベツと芽キャベツ多め)であることをもし知っていたら、
決してそれをしなかったでしょう。

アメリカ人の芽キャベツ嫌いは異常。

お腹が空いているなら大人しく芽キャベツ食っていればいいものを、
ロッホや仲間たちは空腹に耐えかねて、ついに倉庫に忍び込み、
非常用に保管されていたCレーションのケースを盗むに至りました。

その箱を隠し持ち、誰もいないときにこっそり食べていたら、

盗まれたのが発覚し、大がかりな捜査に発展してしまいます。

捜査のためにMPが数人出てきて、ベルのメンバーも取り調べられましたが、
結局最後まで犯人だとはバレずにやり過ごすことができました。

バレずにすんだのはよかったけど、戦時中の窃盗は重罪だぞ。
しかもその理由が「芽キャベツ嫌いだから」て。


また、イギリスは寒く、宿舎を暖める石炭は全く足りませんでした。
おまけに支給された「まるで馬の毛でできたような」英国製の毛布で寝ると

「多くが"兵士の呪い "にかかった」

兵士の呪い、それは疥癬に冒されるという恐ろしいものでした。
そこでロッホは毛布を使わず、フライトスーツで寝ることにしました。
フライトスーツはムートンで裏打ちされていたので、
快眠とはいえないまでも、少なくとも疥癬の痒みからは逃れられたのです。


給料日には、飛行場のあちこちでポーカー大会が繰り広げられました。

給料のほとんどは数人のギャンブラーの懐に入っていきました。

ハロルドはそういうゲームには参加しようとしませんでした。
両親がトラクターを買うため、給料のほとんどを家に送っていたからです。

■ 結婚と戦後の人生

最初から最後までのベルのメンバーとして任務を完遂し、
帰国して国債ツァーに参加した、というところまで他のメンバーと一緒です。


そのように仕組まれたので当然とはいえ、ベルのメンバーは
士官から下士官まで全員がツァー中絶賛モテ期到来だったため、
調子に乗って女性に手を出しすぎた人がいるかと思えば、逆に
昔からのガールフレンド以外目をくれず生涯添い遂げた人もいました。


彼の場合はそのどちらでもなく、ツァー中に知り合った女性と結婚しました。


戦時国債でテキサスに出会ったのはエグジー・アン・ミラー。
二人は1944年に結婚し、8人の子供と15人の孫に恵まれました。

仕事は戦後住宅建設業、H P Loch & Sons Construction社を立ち上げ、
そのかたわらブラウン郡登記官を連続14期務めました。

1974年にリタイアしてからは、鹿や鳥の猟を楽しみ、毎週カジノに通い、
2004年11月12日、愛する人々に囲まれ、豊かな生涯を閉じました。



 映画「メンフィス・ベル」のキャストと

後列右から3番目
前列右から2番目が上部砲塔砲手、TSを演じたリード・ダイヤモンド


”敵の領土に入る時には張り詰めた一種の期待感がある。
そこで何が起こるかは誰にもわからない”

ハロルド・ロッホ


続く。


”Dit-Dit-Dit-Dah-Dit-Dah”最後の通信士〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-01-29 | 航空機

2005年10月1日、第二次世界大戦中、ヨーロッパで
25回の爆撃任務を遂行したメンフィス・ベルの最後のメンバー、
ロバート・ハンソンが、心不全のためアルバカーキで死去しました。

享年85歳。

のちに有名な爆撃機の無線オペレーターになったハンソンが
陸軍に入隊したのは1941年、真珠湾攻撃の起こる3ヵ月前のことでした。



通信士として、ワシントン州ワラワラでの訓練を経て、
彼はメンフィス・ベルに配属されることになります。

フライング・フォートレスと呼ばれたこの巨大爆撃機と10人の乗組員は、
1942年9月に戦時中の拠点であったイギリスへ飛びました。

そして、11月7日から1943年5月17日の間、148時間飛行し、
ドイツとフランス上空に60トン以上の爆弾を投下しました。


■ 軍で給料をたくさんもらうための”裏技”

メンフィス・ベルの10人は、映画でも描かれたように、
その出生や育ってきた環境は様々です。

基本的に社会の上流階級?しかなれない士官は、その多くが
裕福な会社経営者の息子だったり、アイビーリーグを出ていたりしますが、
(メンフィス・ベルに兵学校卒士官はいなかった)
下士官兵には家が貧しいので入隊したという若者も多々いました。

映画「メンフィス・ベル」にも、シカゴ出身のチンピラ、
ジャック・ボッチ(イタリア系)と腰部砲手としてコンビを組むのが
よりによって信心深いアイリッシュのユージーン・マクヴェイで、
二人は何かと最初おりが悪く衝突しますが、戦いを経て和解するという設定。

左ジャック(ニール・ジェントリ)、右ユージーン(コートニー・ゲインズ)

メンフィス・ベルの通信士、ロバート・ハンソンもまた、
兄弟とともに孤児院に預けられていました。

ロバート・J・ボブ・ハンソンは1920年5月25日、
モンタナ州ヘレナで生まれました。

3人の息子と1人の娘を持つボブの父親は建設労働者であったため、
大恐慌に見舞われると、わずかな仕事を追い求めるようになりました。

ここで、伝記作者?としては情報が錯綜することになります。

子供たちが孤児院に入っていたのは幼い頃に母親が死亡したから、という説と、
両親が離婚し、ボブは弟のセシルとハロルド、妹のバイオレットとともに、
ワシントン州ガーフィールドに住む叔父に引き取られた、という説があります。

どちらかはもう確かめようがありませんが、
彼が実の両親ではなく叔父に育てられたのは事実であり、
その叔父の家で彼は豊かでないながらもちゃんと育てられたのは確かです。

彼は実際高校生の時には陸上競技のスターだったというくらいですから。

子供を引き取って育てたといっても、叔父の家も裕福とはいえず、
高校卒業後、彼はすぐに就職して父親と同じ建設労働者となりました。

その後、彼は徴兵も始まったことだしと軍入隊を考えました。

「1941年5月、戦争に行くことが分かっていたので、志願することにした。
でも、募集の軍曹のところに行って、入隊したいと言ったら、
『お前はどうかしている。まず徴兵されろ。
それから、引き返して再入隊するんだ。
そうすれば月給30ドルになる』と言われた。


これはシアトルのリクルート事務所の軍曹から聞いた、

「陸軍からもっと給料をもらうためのちょっとした方法」

つまり陸軍の一等兵の月給の21ドルが30ドルになって
 (゚д゚)ウマー
な裏技だったわけです。

数ヵ月後、彼は徴兵され、ワシントン州タコマ郊外のキャンプに送られます。
そして軍曹の助言を素直に実行すべく、3日間だけそこで過ごし、
除隊しました。

(なんか昔、郵便局に毎日預け入れと降ろしを繰り返したら
預金が増える、と言っていた人がいたけどそれを思い出した。)

3日間の兵役給として2ドル10セントを受け取った彼は、
即座に空軍(航空隊のこと)に再入隊。(ここで歩兵は諦める)

基礎訓練のためにミズーリ州ジェファーソン兵舎に送られました。


■ 軍隊生活〜いきなりキッチンポリス

初日、軍曹が入隊者を整列させ、怒鳴りました。

「兵役経験のある者は外に出ろ!」

出ましたよ。彼は外に出ていきましたともさ。

他の下士官兵が外で行進し、汗を流している間、ハンソンは兵舎に戻り、
のんびりし、食べ、眠り、楽しい生活を送っていました。

彼のそんな生活が終わりを告げたのは、基礎訓練が終わったときでした。
パレードの行進に出ることになり、軍曹の一人がハンソンに向かって


「おい、ハンソン、分隊の指揮を執れ」

と命じ、そこですべてが明らかになったのです。

新任の "リーダー "が、隊員をどう率いるべきか、
これっぽっちも知らないことがばれたのですから、
さあ大変、上から下への大騒ぎになってしまいました。

上層部は、彼が基礎訓練を避けるためにズルをしたと判断し、
軍法会議にかけるところまで話は進んでしまいました。

しかし、実際、彼は嘘をついたわけではありませんでした。
「兵役経験がある者」という軍曹の呼びかけに素直に答えたまでです。
たとえ三日でも、兵役経験には違いないのですから。

・・・・という言い訳をされてぐうの音もでなくなった上層部は、
(こういうとき”問答無用”という言葉のない国の軍隊は不便)
軍法会議にかけるような事案ではないと結論づけましたが、勿論のこと、
何のお咎めもなしでこのふざけた男を放免するつもりもありません。

そこで彼は「落とし所」的にキッチンポリスに回されました。
要は炊事当番兵のことで、KPデューティともいいます。

なぜポリスなのかですが、米軍では"police "という単語を
"秩序を回復する "から"掃除する "という意味で使うことがあるので、
キッチンポリスは、厨房の秩序を回復する、厨房を掃除する、
という意味が含まれているのではないかと言われているようです。

とにかく、そのポリス仕事は、週6日、毎週毎週、
来る日も来る日もジャガイモの皮むき(これがKPの象徴)をし、
その間に基礎訓練もこなすという素晴らしく面白くない任務です。

しかし、この男は最初から最後まで、何とついていたのでしょうか。

キッチンポリスとなってわずか2日目、彼は皮剥きから解放されました。
2日目というのでまだ基礎訓練は一度も受けていません。

イリノイ州スコット・フィールドの無線学校への転勤命令を受けたのです。

■ 無線学校

しかし、こんな男が、無線学校で何も起こさずにいられるでしょうか。

案の定スコット・フィールドで彼はまた問題を起こしました。
動機は『ルーティンが簡単すぎて退屈になったから』。

その日、訓練生は、モールス信号を受け取り、
それをタイプライターで打ち出すという訓練を行なっていました。

要領のいい彼は1分間に30ワードを打つことができましたが、
他の訓練生はせいぜい1分間に5、6ワードのペースです。
彼はすっかりいい気になって、新聞を読みながらコードを打っていました。

何日か経ったある日、教官はイヤフォン越しにメッセージを送ってきました。


「ハンソン、新聞を読むのをやめろ」

しかし彼は新聞に夢中で(というか、どうせすぐ打てると思い甘くみて)
教官の送ってきた電文をしばらく見ませんでした。

お断りしておきたいのは、このメッセージは彼だけではなく、
訓練生全員に送信されたものだったということです。

当然クラスの全員の目が彼に注がれます。

部屋中のタイプライターの音が止まって、彼が気づいた時には、
全員が彼に注目していました。



■ 拘束された父ちゃん

無線訓練を終えたハンソンは、マクディル・フィールドに行き、
そこで初めて飛行を体験し、1942年5月16日、
無線オペレーター兼エアガンナーとして戦闘任務に就くことになります。

グループが1942年6月にワシントン州ワラワラへ移ったとき、
彼も一緒に転勤しましたが、当時はまだ空軍基地がまだ完成しておらず、
滑走路のコンクリートの打設工事の真っ最中でした。

そして驚くことに、空港のコンクリートの一部を打設していたのは、
建築現場で働く彼の父だったのですが、勿論彼は知る由もありません。

しかし父親の方は、自分の工事現場に息子の部隊がやってくることを知り、
フロリダからの一行が到着したとき、息子がどの飛行機かまで突き止めて
一目会うために、ピックアップトラックをエプロンに走らせたのでした。

轟音を立てて走る父ちゃんのトラック。


トラックはすぐ後ろにMPを乗せたジープを何台も従えていました。
そしてMPはすぐにピックアップトラックをを取り囲み、
あっという間に運転手を拘束して連れ去ってしまいました。


当時は開戦したこともあって、軍設備での警戒警備はマックスでした。
今でもそうでしょうが、そんなときに無許可の民間人が
爆撃機の近くまで押しかけることが許されるはずはありません。

結局父はそのまま息子には会えずに終わりました。
その後、彼はそのことを聞かされて知りますが、
息子は父の非常識を責めることは生涯一言も言わなかったそうです。

「父さんはただ息子に会いたかっただけだったんだ」

いい息子を持ったな、トーチャン・・・。

■ メンフィス・ベル

ワラワラで彼はメンフィス・ベル乗組が決定し、
1942年9月、戦時中のイギリスまで飛行するベルに乗り込みました。

そこから1942年11月7日から1943年5月17日の間、
彼はメンフィス・ベルの爆撃ミッションに通信士として参加。

ベルが行ったミッションの飛行時間は148時間にのぼり、
投下された爆弾の量は60トンを超えます。

前にも書きましたが、ベルはロリアンの潜水艦基地攻撃中、
機体の尾翼が戦闘機によって撃ち落とされたことがあります。

この時のことをハンソンはこう語りました。


「尾翼を撃ち落とされた時、モーガン少佐は機をすごい急降下させ、
2、3千フィートも落ちて頭を天井にぶつけた。
このまま墜落するならベイルアウトすべきかどうか悩んだ。

その後、機長は再び機を引き上げたので、私は仰向けに床に叩きつけられ、
上から弾薬箱と周波数計が落ちてきた。
何が起こっているのかわからなかった」


このとき機が立て直せたのは、運もありましたが、
ロバート・モーガンの操縦技術によるところが大きかったかもしれません。

映画「メンフィス・ベル」の腰部砲撃手の二人は、
ジャック(シカゴの不良)が相手ジーンのお守りを拾ったのに隠して、
それにジーン(信心深い)がパニックを起こすのに、
通信士のダニーが手に巻いていたゴムバンドをお守りだ、
といって渡し、納得するシーンがありましたが、
ハンソンもまた「ウサギの足」のお守りを携帯していました。



映画で通信士のダニーを演じるのは、エリック・シュトルツです。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で最初にマーティ役に抜擢され、
撮影も進んでいたのにマイケル・J・フォックスに交代されてしまった、
という話が有名ですが、その後の俳優活動は輝かしいものでした。

映画では、おそらくベルの乗組員一のインテリであり、
詩人でもあるダニーを演じており、このダニーから映画では
「ダニー・ボーイ」がテーマソング的に使われています。

最後のミッションで重傷を負う唯一のメンバーという設定でしたが、
実際の通信士、ハンソンは、そのお守りのおかげだったのか、
日誌を書きながらくしゃみをしたところ、その瞬間、
弾丸がそれまで彼の頭部が占めていた空間を通り抜け、
日誌を直撃した、という命拾いをしています。

ちなみに「メンフィス・ベル」は最初から最後まで誰も傷つかず、
無傷だったというわけではありません。

実際にメンバーが時々変わっているのは、彼らがミッション中の
大砲や機銃掃射で戦死しているからです。
現に最初の乗組員のうち4人は戦死し、補充されたメンバーが
25回ミッション達成者としてツァーに参加したというだけのことでした。

ハンソン軍曹の無線オペレーター席の窓の横には、
恋人のアイリーンの名前が書かれていました。
万が一、彼が戦闘中に死亡した場合、真っ先に連絡すべき人物として。


アイリーンとは、帰国してツァーを行った後すぐ結婚し、
63年間、死が二人を分つまで添い遂げました。

■ 戦後の生活と映画「メンフィス・ベル」

戦後、ハンソンは基地のあったワラワラに住むことになりました。
ナリー・ファイン・フーズのセールスマンとなり、
後に地域マネージャーに昇進、
また、スポケーンのキャンディー会社で働いた後、
アリゾナ州メサに引退し、最後はアルバカーキで余生を送りました。

1989年、映画「メンフィス・ベル」が制作されることになり、
ハンソンはパイロットのロバート・モーガンをはじめとする乗組員たちと
イギリスに渡り、ビンブルック空軍基地で撮影中の現場を訪ね、
そこで出演していた俳優たちと記念写真を撮りました。



真ん中近くの水色のシャツ=ハンソン シュトルツの肩に手を置いている

ハンソンは、このとき感想を聞かれて冗談混じりに答えました。


「彼らはかつての私たちほどハンサムではないけれど、
若くて熱狂的で、まさに私たちそっくりだよ」

映画が公開された後、孫の高校のクラスでスピーチをしたハンソンは、
映画に描かれたのは実際に起こったことなのかと質問されて、

こう答えています。

「すべてがメンフィス・ベルで起こったことではないが、
映画の中のことはすべて、どこかのB-17で起こったことだ」



■"dit, dit, dit, dah, dit, dah "

彼が2005年にこの世を去った時、彼の昔からの友人が、
「最後のメンフィス・ベル乗員」の彼を、良き友人であり、
良き夫、良き家庭人でアメリカの英雄だったと褒め称える弔辞の最後に、
このようなことを付け加えました。

「無線通信士がモールス信号を終了する際、
次のようにキーを打ってサインオフします。

Dit-Dit-Dit-Dah-Dit-Dah。

そして、ロバートは電話をこれで終わらせるのが常でした」

▄ ▄ ▄ ▄▄▄ ▄ ▄▄▄ 

これはSK(上バー)であり、意味はOUT(終了)です。

その良き人生の終了に敬意を表し、彼を愛した人たちは、
皆でこのプロシージャをもって彼を見送ったのでした。


続く。


「腹部砲手の死」〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-01-27 | 飛行家列伝

映画「メンフィス・ベル」で心に残った戦闘シーンといえば、
ガラスドームに囲まれた銃座を敵の弾が破壊し、
他のクルーがそこに入るためのハッチを開けたら、
ドームがなくなって銃手がぶら下がっていたというものです。

Ball Turret Scene - Memphis Belle
今日はそのボール・ターレットとそこに配置されていた搭乗員、
セシル・スコット軍曹についてのお話です。

まず、B-17のボール・ターレットの説明から始めましょう。




機体中央下部のDFのペイントの下側のレドーム、これがボールターレット。
いかにもとってつけたような部分ですね。
機体のお腹部分にあることから「ベリーガン」と呼ぶこともあります。



こちらでもどうぞ。
飛行中の銃口は後ろ向きが基本位置の模様。



これは国立空軍博物館のメンフィス・ベルを前から見た場合。
タイヤの向こうに見えているのがボール・ターレットです。
これも銃口は後ろ向きに固定されています。



外から見ると結構な大きさに見えますが、
決してそんなことはありません。
左下のハンガーみたいなのが気になりますが、なんでしょうか。


内部がどうなっているかはこれが一番わかりやすいかもしれません。
ボールに入り込んでハッチを閉めると、全体が360度回転し、
下方と水平位置の敵機に狙いをつけます。

爆撃機を下から攻撃してくる戦闘機を機銃で追尾すると、
砲塔と一緒に回転する状態でした。

遊園地のアトラクションなら楽しそうですが、
高高度の空中でガラスボウルに閉じ込められて逃げ場はなく、
時には敵機がこちらを狙って撃ってくるわけです。

まず恐怖心を克服することから始めなければならなかったでしょう。

B-17 Ball Turret Gunner (Dangerous Jobs in History)
「第二次世界大戦の最も危険な仕事の一つ」

このビデオでは、ターレットの中にどうやって入るか、
銃手がどんな姿勢をとるかに始まり、
アルミニウムとプレキシガラス製のボールは容易に銃弾が貫通し、
銃手は命を落とすことが多かったこと、
また、もし機の機械系統が破壊されて、強制着陸を余儀なくされた場合、
ボールは中から開けられなくなり、
銃手は脱出できないまま着陸で押し潰されて生存できなかった、
などということが説明されています。

WW2 Ball Turret with Twin .50 Cals at the Big Sandy Shoot 実物で銃撃してみた

Ball Turrets - In The Movies
映画に出てくるボールターレットシーン。
「メンフィス・ベル」では、ターレットに入るラスカルが、

「前のミッションのことでただ神経質になってるわけじゃないよ。
だって俺ってこんなネズミ捕りみたいなところに座る配置だからさ」

それに対してヴァージが、

「隅々までちゃんとチェックするから安心しろよ」

みたいなことを言っています。
これは伏線で、実際には冒頭のシーンのようになるわけで、
いくら不備がないかチェックしていても攻撃されれば終わりというわけです。


映画といえば、こちらはワイラー監督のドキュメンタリー映画のポスター。
なんと、ポスター図柄のメインがボールターレットガンナーです。

「最も危険」であるからこそ、このようにクローズアップされるわけですね。

■ セシル・スコット



映画「メンフィス・ベル」でボールターレットガンナー、
リチャード「ラスカル」ムーア軍曹を演じるのはショーン・アスティン
映画出演時は19歳だったはずです。



これがメンフィス・ベルの「最も危険な配置」にいた男、セシル・スコット。

Cecil Harmon Scott は、身長の低い青年でした。
俳優のショーン・アスティンがそうであったように

世界で一番危険な仕事、といわれたボールターレットの砲手だった彼は、
実に穏やかな表情の好青年で、実際に肝も座っていたとみえて、

"攻撃される前は、たいてい恐怖を感じるものだが、
飛行機が近づいてきて攻撃し始めると、もう大丈夫だ"

などという言葉を残しています。

セシルが軍隊に入る決心をし、募集事務所で手続きをしたとき、
入隊基準となる最低身長に1/4インチ足りなかった彼は、リクルーターに

「君の身長は兵隊として小さすぎるし、体重も軽すぎる」

と言われて最初は受け付けてもらえませんでした。
そこで彼は少しでも身長を伸ばすために毎日鉄棒にぶら下がり、
また、体重を増やすためにバナナを食べまくりました。

4分の1インチなんてせいぜい6ミリですから、
当時のアナログな身長計では誤差範囲でなんとかなったのかもしれません。
体重も、食べまくって増やしてなんとななる程度だったのでしょう。

意気揚々とペンシルベニア州ハリスバーグの事務所に戻り再検査を受けて
めでたく数字をクリアした彼は、空軍の二等兵として受け入れられました。

しかも、突然彼は陸軍航空隊から指名を受けます。

陸軍は、突如小柄な航空搭乗員の必要性に気がついたのでした。
B-17爆撃機の砲塔の中で丸くなっている砲手。
こればっかりは、小さくて体重の軽い者にしか務まらないということを。

航空隊の求める人材の条件を、今度こそドンピシャでクリアした彼は、
熱烈に望まれてB-17のボールターレットガンナーに就職。
そして出征。

ついには1942年8月1日にワラワラで軍曹に昇進することになりました。


彼はイギリスに行ってからメンバーに「スコッティ」と呼ばれていました。
いかにも背丈の小さな彼にふさわしいあだ名です。

後年、副機長のヴェリニス軍曹がロンドンで犬のスコッティ(テリア)
を買ってきましたが、彼がその名前をすでに持っていたため、
犬の方は名前を「シュトゥーカ」と付けられたに違いありません。

ちなみにスコットは左から2番目

メンフィス・ベルの乗組員の多くがそうであったように、

セシル・ハーモン・スコットの家庭も大恐慌の影響を受けています。

彼の父ロスはペンシルベニア州の木材伐採会社の経営者でしたが、
やはり厳しい時代をそれなりに経験していました。

夫婦には子供が7人いましたから、彼らは育ち盛りの子供たちのために
十分な食料を家庭の食卓に並べるのにかなり苦労をしたそうです。

セシルの身長が人より小さかったのはそのせい・・・?
いや、単に遺伝だよね。たぶん。

セシルの妹、メアリーは、幼い頃の思い出として、
雪を食べたことを語っています。

「メープルシロップときれいな雪を混ぜると、本当においしかった・・」

メープルシロップは地産なので我々が思うより安かったと思います。

セシルの学歴については、色々とサーチしましたが、

たとえば物故者のデータを集めたサイトなどでも、近しかった人が

「とても静かな人でした」

と思い出を書いているくらいで、メンフィス・ベル以外のことは
第二次世界大戦が始まるまでゴム会社で働いていたこと、
戦後はフォードで働いていたことくらいしか情報がありません。

戦争が始まった時、彼は25歳くらいだったと思われます。

イギリスではスコッティと呼ばれた彼は、危険な配置に就き、

ドイツの戦闘機からメンフィス・ベルを守るボールターレットの砲手として
他の乗組員から頼りにされていました。

彼はその時のことを戦後このように語ります。

「砲塔の中で7時間過ごしたことがあるけど、悪くなかったよ。
あそこからならすべてが見渡せたしね。
敵の戦闘機の位置がこちらから見て高すぎて狙いにくかったら、
チーフ(パイロットのボブ・モーガン)に高度を少し上げるように言って、
そいつを狙うんだ」

彼の証言には、どう訳すのか悩んでしまったこんな文章がありました。

時々スコットは、その「ベリーガン」の位置から、
ドイツ軍のパイロットがプロペラにぶら下がって、
機を失速させて下からこちらを撃とうとしているのを見た。


これは原文のままだと「hanging on their propeller」となるのですが、
いくらなんでもパイロットがプロペラにぶら下がるわけがないので、
わざとストールさせるため(trick)、迎角を大きくして、
という意味ではないかとわたしは解釈します。

「そうやって彼らはこちらの爆ボムベイの爆弾に当てて爆発させ、
飛行機ごと吹き飛ばそうとしていたんだと思います。」


その後、彼らがその失速状態から抜け出せず、
墜落していくのを見届けるのも、ターレット内のスコッティの役目でした。

いずれにしても凄惨な話です。


ターレットに彼の名前が書かれている

第8空軍の他の多くの砲手と同様、スコットは多くの敵機を銃撃しましたが、
公式には彼の成績となったのはたった1機の「損傷」だけでした。

なぜなら、彼自身が自分の銃撃で相手の飛行機を撃墜したと認識しても、
彼のような配置の砲手が「撃墜」のクレジットを得るには、
第三者の確認が必要で、実際にはそのようなことは不可能だったからです。

上の説明動画は、のちの詩人、第二次世界大戦中腹部砲手だった
ランダール・ジャレルの詩の一節で終わっています。

ボールターレットガンナーの死

母の眠りの中から僕は国に落とされた
そして濡れた毛皮が凍りつくまで、その「腹」の中で蹲っていた
地上から6マイルも離れ、人生の夢から解き放たれた
僕は真っ黒な対空砲火と悪夢のような戦闘機で目を覚ました
僕が死んだとき、彼らはホースで砲塔から僕を洗い流した


ジャレルは次のように解説しています。

「小さな球体の中で逆さまになっている砲手は、
まるで子宮の中の胎児のように見えるのです。
戦闘機は炸裂弾を発射する大砲でこちらを攻撃してくるのです。

最後のホースというのは蒸気ホースでした」




セシル・スコットは戦後 フォード・モーター・カンパニーに就職し、
そこで定年まで30年間勤務。
1979年、ニュージャージーで63歳の生涯を閉じました。



続く。


スナイプス(喫水下で航行する男たち)〜USS「エドソン」

2024-01-25 | 軍艦

USS「エドソン」の艦内ツァーも最終日となりました。


ボイラー室には消火用の二酸化炭素のボンベがあります。
二酸化炭素は危険物なので中身は空にしてあることを明示しています。


全体的に赤く塗られているのは消火設備ではないかと思ったのですが、
#2エンジンルームの予備コンデンサーと排気装置だそうです。

艦船用タービンジェネレーター
Ship's Service Turbine Generator(SSTG)

蒸気で動くタービンは、主発電機の巻線を回す別のシャフトに接続された
シャフトに取り付けられ、艦上で様々な目的のための電気を生産しました。


蒸留プラント
2段フラッシュ式蒸留プラント

右側の丸いタンクの蓋?には
「海水ヒーター」とあり、各パイプには供給先が書かれています。

メイン蒸気システムは蒸留プラントに過熱蒸気を供給し、
海水を瞬時に過熱して蒸気にし(フラッシュプロセス)、
凝縮させて再びフラッシュさせます。

2 回目のフラッシュプロセスの後、得られた凝縮液が収集されます。
これらは、以下の目的で使用されました。

蒸気を生成するためのメインボイラープラント用
飲料用や化学薬品(臭素や塩素など)が添加された淡水タンク用

■ スナイプス Snipesとは?

冒頭写真は、ボイラールームのおどろおどろしい地縛霊よろしく、
「釜の中で絶叫する男」・・実に趣味の悪い「エドソン」の展示です。
おそらく、ハロウィーン前になると出回る、庭先の幽霊飾りでしょう。

余談ですが、アメリカではここ何年か、この手のハロウィーンのおふざけが
だんだん悪趣味になってきて、わざわざ家の前に井戸を置いて、
そこから手が出てきているとか、蜘蛛の巣を家全体に張り巡らすとか、
悪ノリする家庭が目立つような気がするのですが、
この「ゾンビ」もその一連の装飾品として売られていたものでしょう。
(そして、そういったろくでもない飾りのほとんどは驚くほど安い)

なぜそのようなものがここにあるかと言うことを考える前に、
ここボイラー室で働いていた海軍機関士たち・・・

スナイプス”Snipes”について説明します。


「スナイプス」

SNIPES OF THE US NAVY:
アメリカ海軍のスナイプス:
艦底で生きる水兵たち:


彼らはこのように呼ばれます。

その誇り高き歴史と伝統とは。
彼らは誰なのか、何をする人たちなのか。

説明になるかどうかわかりませんが次をお読みください。

海軍エンジニア

これを読んでいるあなたは入隊ほやほやの新人だろうか?
DC資格を取ろうとしている?
水上戦のピンを取得しようとしているところだろうか。

そんなあなたは、艦の底深くでフネを動かしている乗組員を訪ねて
甲板の下を冒険したことがあるだろうか。

彼らはどこから来て、いったい何をしているのだろう?
一度でもそんなことを考えたことがあるだろうか。

スナイプとはいったい何なのか?

「スナイプ(Snipe)」という言葉はもともと、
機関部の船員に向けられた侮辱と考えられていた。

他の一般的な呼び名は「ビルジ・ラット」や「ブラック・ハット」で、
「ビルジ」や高温で汚れた機関室で働く乗組員を指していた。

カバーオールを着用する前の時代、船員は季節の制服として
の白とブルーの「アンドレス」(脱衣服)をよく着ていた。

カバーオールは「ディキシー・カップ」「ホワイト・ハット」と呼ばれた。

しかし、スナイプスは、彼らの職場環境があまりにも汚かったため、
ダンガリーシャツに移行した最初の乗組員だった。

第二次世界大戦の頃、乗組員たちは「白い帽子」を紺や黒に染め始めた。

これは、船上での日常生活につきものの油汚れを隠すために、
新しいデニムのズボンで帽子を洗ったせいで、

紺になったのだ(つまり染めたのではない)と考えられている。

そもそも陸上勤務やトップサイドの仕事に就ける幸運な乗組員たちには
こうした問題は起こりようもないので、機関兵を
「ビルジ・ラット(ねずみ)」程度にしか見下さないことも多かった。


【ソルティードッグ・オールドスクール
SNIPEの歴史】


艦船機関部の歴史は、木造帆船の時代まで遡ることができます。

艦船を動かす帆を作るのが文字通り仕事であった帆職人や、
船を浮かべて水密を保つ大工とメイトもそれに含まれます。

以下は、現代のSNIPE格付けの例。

艦体整備技師
ダメージ・コントロールマン
機械工
機関手
電気技師
ガスタービン システム技師


世界の海軍が蒸気動力に転換するにつれて、
艦艇の燃料庫から石炭を回収し、艦の炉室に輸送する責任を負う、
「コール ヒーバー」が登場しました。

動力が蒸気ボイラーからガスタービンエンジン、原子炉へと移行していくと、
その100年ほどの間にさまざまな肩書きが生まれては消えていきました。

第二次世界大戦では、米海軍がCBRN防衛/ダメージコントロールのために
化学戦スペシャリストを創設したこともあります。

ここで語るのは、現代の鉄鋼船の金属工や配管工と一緒に働く
シップ・フィッターのことです。

現在は巡洋艦、潜水艦、航空母艦で働く原子力訓練を受けた者と、
それ以外を浮揚させ、動かす者という棲み分けがされていますが、

今日、これらの男女は、エンジンの稼動維持から消火活動、
ダメージ・コントロール、そして通信システムの管理という重要な任務まで、
それこそあらゆることを担っているのです。


さて、USS「エドソン」のスナイプたちが生息していたこの場所に、
次のような「嘆きの歌」が貼ってありました。


”スナイプの嘆き”

今、私たちの誰もがおりにふれ海を眺める際、
そこに、この国の自由を守るために出航していく
強力な軍艦を眺めたことがあるだろう。

この国の自由を守るために任務に出て帰港してくる
力強い軍艦を眺めたことがあるだろう。

そして私たちは、誰もが一度は魅力的な海の男たちの物語を

本で読んだり、人から聞いたりしたことがあるだろう。

雷、風、雹の中を雄々しく航海する男たち。

しかし、彼らを語る勇壮でロマンチックな海の上の伝説では、

滅多に語られることのない「場所」がある。

それは喫水線の下にあり、そこでは生きた犠牲が払われている。
- 水夫たちが "穴 "と呼ぶ 熱い金属の生き地獄だ。

そこには蒸気で動くエンジンがあり、シャフトを回転させている。
火と騒音と熱気で魂を打ちのめされる場所だ。
地獄の心臓のようなボイラー、憤怒の蒸気の血、
そこでは怒れる神々が造形され、夢の中で悪魔となる。

轟く炎からの脅威は、まるで生きている疑問符のようだ。
それは今にもそこから飛び出し、あなたを舐め尽くすだろう。

タービンは地獄で孤独と喪失に苛まれる魂のように悲鳴を上げる。
どこか遠くの上空からそうするように命じられたタービンは、
あらゆる鐘の音に応えて、動く。

ただひたすら火を灯し、エンジンを動かす男たち、
彼らは光を知らない。


そこに人間や神のための時間はなく、恐怖に対する寛容さもない、
その様相は、生きとし生けるものに涙の貢ぎ物も払わない。
人間ができることで、この男たちがやったことのないことは、
そうそうないからだ。

甲板の下、穴の奥深く、エンジンを動かすために。

そして毎日毎時、彼らは地獄で見張りを続けている。
もし火が消えれば、艦は役立たずの砲弾となる。


怒れる海には船が集結し、戦争をする。
下にいる男たちは、自分たちの運命がどうなるのか、
ただ険しい笑みを浮かべて待つだけだ。

彼らは、戦いの叫びを聞くこともなく、
運命に翻弄される者のようにただ下に閉じこもっている。

戦いの叫びも聞こえない「下にいる男たち」は、
弾が命中すればただ死んでいく。

いや、それでなくとも毎日が戦争のようなものだ。
1200ポンドの熱せられた蒸気はときとして彼らを殺す。

だから、もし君が彼らの歌を作ったり、
彼らの物語を語ろうとしたりしたら、
その言葉そのものが君の耳に響くだろう。

その言葉は、焼かれた炉の慟哭を聞かせるだろう。

そして人々はほとんどこの鋼鉄の男たちのことを耳にすることはない。
船乗りたちが "穴 "と呼ぶこの場所についても、
ほとんど知られていない。

しかし、私はこの場所について歌い、
あなたに知ってもらおうとしている。
なぜなら、そのうちの一人が私だからだ。

汗に塗れたヒーローたちが、
超高温の空気の中で戦うのを私は見てきた。
しかし誰も彼らの存在を知らない。

こうして彼らは、軍艦が出航しなくなるその日まで、
ずっと戦い続ける。
ボイラーの強大な熱とタービンの地獄のような轟音の中で。

だから、戦うべき敵を迎え撃つために撤退する艦を見かけたとき、
できることなら、かすかにこう思い出してほしい。

できることならかすかに思い出してほしい。

"The Men Who Sail Below "を。 



さて、ここで長らく語ってきたUSS「エドソン」の物語も終了です。

機関室の「喫水下の男たち」に想いを馳せたあと、
通路に沿って進むと、明るい五大湖沿いの夏の光景が広がりました。

目の前の桟橋は、岸壁から「エドソン」までを繋いで、
ここに訪れる人々を迎え入れる唯一の通路です。


USS「エドソン」の博物館としての管理と運営は、
わたしが少しお話をした、「この町で唯一の日本人」である女性とその夫、
ベトナム戦争のベテランを始め、地元の人々のボランティアで成り立ちます。

この日、彼らは集まって青い屋根の建物の下で会合をしていました。


海兵隊員の名前を命名された海軍の艦艇一覧です。
「エドソン」もこのなかにあります。

右側に「KIA」とあるのは、キル・イン・アクション、戦死した人です。

この中で唯一「エドソン」だけが、Diedとなってますが、
その理由は、メリット・エドソン将軍は戦死ではなかったからです。

他の海兵隊戦死者のほとんどが1942年か43年、おそらく
南太平洋での日本軍との戦いで戦死したと思われるのに対し、
エドソン将軍だけが没年が1955年となっています。

これは「エドソン」の建造計画が立ち上がったちょうどその時、
海兵隊の戦功者であったエドソン将軍が逝去したことから、
急遽他の第二次世界大戦戦死海兵隊員のリストに「割り込む」形で
「エドソン」が誕生したのだと考えられます。



かつては波乱の海の戦いを見守った甲板からは、
いまでは永遠に平穏なサギノー川の流れがただ見渡せるだけです。

そのときに揚がったのと同じ星条旗を掲げながら。


「エドソン」の甲板から、一羽の美しいサギが飛翔しているのが見えました。
サギノー川の上にサギか・・・・


と日本人のわたしだけは思ってしまうのだった。



それでは「エドソン」の甲板に別れを告げることにしましょう。


最後に今までの旅を振り返ります。


車に戻り、もう一度全体写真に挑戦しましたが・・・またしても失敗。


思い余って?土手を駆け上り、もう一度・・。
これでも少し艦尾が切れてしまいました。
(実は眩しすぎて対象をはっきり捉えることが難しかった)



悔しいのでさらに土手を一番上まで駆け上がりました。
これでやっと「エドソン」の姿を収めることができたというわけです。

そしてこれが最初で最後の完全な艦体写真となりました。


わたしたちはこの後、オハイオ州クリーブランドに向かいました。


「エドソン」シリーズ終わり


#2エンジンルーム〜USS「エドソン」

2024-01-24 | 軍艦

ミシガン州のヒューロン湖に流れるサギノー川沿いに係留された
駆逐艦USS「エドソン」の艦内ツァーも終盤に差し掛かりました。


艦尾から艦首方向に進むと、数段階段を降りて次の区画に入ります。
この写真の右側にあるのが冒頭の艦内図です。




バックアップジェネレーターとラダーコントロールは、
甲板階の二階下の艦尾にあります。
さらにそこから1階分下に降りてきました。
見学できる最下層階になります。



今いるところは×印の位置。
これから見ていくのは、#2エンジンルーム、第2機関室です。

ここに収められている機器についてざっと前もって挙げておくと、

2基のメイン エンジンのうち1基
各エンジンは 35,000 馬力、合計 70,000 馬力を生成

 淡水蒸発器 2 台のうち 1 台
海水をボイラー給水と飲料水に変換する

メインコンデンサー
自動車のラジエーターのように機能し、蒸気を冷却して液体に戻し、
ボイラーで再利用したり、機械を冷却する

 
サービスジェネレーターの4基のうち2基
発電機で電力を供給する



■ Disalinator 
海水淡水化装置とアメリカ海軍の取り組み



何か意味がありそうだけどただのポンプ。


艦内図によるとこの辺りにDesalinater(海水淡水化装置)があるのですが、
画面中央に大きなU字をひっくり返したようなパイプと、
その近くにあるものがそうではないかと思われます。

アメリカ海軍の船舶における海水淡水化の歴史は長く、記録によると、
第二次世界大戦中、USS「サバンナ」の乗組員に
真水を供給するために蒸留プラントを使用したのが最初です。

このプラントは海軍による設計・建設で、
1日あたり約4,000ガロンの淡水を生産することができました。

朝鮮戦争とベトナム戦争中も、艦船で淡水化装置を使用していました。
「エドソン」にあるのと同じタイプのものです。

1970年代初頭、初の逆浸透プラントがUSS「ニミッツ」に設置されました。
このプラントは1日当たり約20万ガロンの淡水を生産することができました。

もちろん現代の海軍艦船では多くの海水淡水化プラントが稼働しており、
これらは、船舶の乗組員や非常用に真水を供給し、
船舶の環境への影響を軽減するのに役立っています。

現代の世界でスタンダードとなる海水淡水化プラントは、
高濃度の溶液に高い圧力をかけることによって水だけが膜を通過し、
塩分が取り残されるという理論のものになっています。

しかし、この逆浸透方式には長所と短所があります。

まず、対象となる艦船の目的(任務)によっては、
浄水システムをカスタマイズする能力が制限されること。

次に、季節により水を生成する能力が制限されること。

第三に、12,000ガロンの蒸留プラントが、
ROプラントで生成された水をすべて処理できなかった場合、
艦は最終的に廃水を海に排出しなければならないことです。

こうした欠陥を考慮して、海軍は現在、艦船群に
どのような水生産戦略を導入すべきかを決定するための調査を行っています。

そして導かれた一つの仮定が、

浄水プラントをモジュール化し、必要に応じて交換する

と言う戦略です。

これによって、資源をより無駄なくかつ効率的に利用できるようになり、
また必要に応じて水の生産量を増やすことも可能になるかもしれません。

■ エレクトリック・ジェネレーター


GE ジェネラル・エレクトリック社製500KW発電機です。


右舷側に2基、図のように並んで設置されています。

エドソンには 4基の発電機がありますが、
そのうち2基は前部 #1 エンジン ルームに、
2基はここ #2 エンジン ルームにあります。

1 キロワットは 10 ~ 100 ワットの電球に相当すると考えた場合、
「エドソン」には、2,000 キロワットを生産する力があるので、
100 ワットの電球を 20,000 個点灯することができるということになります。

キロワット時で測定すると、これは
アメリカの平均的な家庭 2 軒の 30 日間の電力使用量
に相当します。

■#2メインエンジン

第2機関室のメインエンジンは2つのコンポーネントで構成されています。
高速回転する「蒸気タービン」と「減速機」のセットです。

「蒸気タービン」は 7,000 RPM で回転し、
「減速機」はこの速度を 1~250RPMの間で適宜減速します。 

プロペラが 250 RPM で回転すると「エドソン」は
32 ノット (36.6 MPH) を超える速度で巡航できます。

減速機

減速機のギアシステムは、歯車を介して主蒸気エンジン、
主蒸気タービン出力駆動軸を主軸に連結する働きをします。

このトランスミッションの主な目的は、
蒸気タービンの低トルク-高速の速度を、
艦の主駆動軸とプロペラ システムの高トルク-低速に減速することでした。



このステーションには、主蒸気システムやその他のサポートシステムの
圧力と温度を測定するためのさまざまなパネルとゲージがあります。

この中のスロットルバルブは、主エンジンからタービンに送られる
蒸気の量を変えることによってエンジンの速度を増減しました。


ターボジェネレーターのスイッチパネル
高圧危険と至る所に書かれている



「フラッシュ」エバポレーター

パイプには水が左から供給されて生成されたものが右から出るという
矢印が記されています。

この装置は蒸気と真空を使用して塩水を飲料水、
またはボイラー給水に変換します。
2 台の蒸発器で 1 日あたり最大 16,000 ガロンの水を生成できます。

毎日の水使用量: 
 
最大生産量: 16,000 ガロン
1.ボイラー用: 6,000 ガロン
2.乗組員用: 7,530 ガロン
(これには、料理、飲酒、入浴、洗濯、調理が含まれます)
 3.予備: 2,470ガロン (船の洗浄やその他の淡水のニーズに使用されます)

■ スチーム タービン エンジン


ここからはさらに下層に向かって深く降りていく
垂直のラッタルを見下ろすことができます。


緑色の(前進)舵輪の左上にはエンジン オーダー テレグラフがあります。
スピードチェンジのオーダーを艦橋から受けると、
エンジンルームはオーダー通りに表示します。

赤い舵輪は

アスターン・スロットル バルブ Astern Throttle Valve

で、これで蒸気がプロペラを逆回転できるようにします。


あたかも森のように直立するパイプとノズルの間の通路を進むと、


スチーム タービン エンジン

エンジンから生まれる蒸気の熱エネルギーを
出力ドライブシャフトを介して主減速機に届け、
シャフトとプロペラを駆動して船を推進させます。

蒸気熱エネルギーを機械エネルギーに効率的に変換する設計です。



2B2  メインフォースド ドラフトブロワー
 強制通風機

ボイラーに空気を供給するために設置される強制通風送風機です。


足元の地下にも関係機器が見えます。


ボイラーデュープレックス 燃料フィルター 

この装置の機能はボイラー燃料油の最終フィルターです。
ボイラーを停止せずにフィルターを交換することができます。


写真下にぶら下げられている赤い取手のついた黒い棒は、

ライト-オフ トーチ Light-Off Torch(松明)
ボイラー燃料油バーナーガン 

ボイラー炉に「火をつける」ために使用されます。
燃料オイルは 1000 PSI でガンからポンプで送られます。

ガンの先端には「スプレープレート」が付いています。
これにより、燃料が非常に細かい「ミスト」として噴霧され、
「Billowing Fireball」が生成されます。
「エドソン」は 4 つのボイラーに一つづつバーナーガンを備えていました。


燃焼制御エアコンプレッサー 

「Worthington」3 ステージエアコンプレッサーは、
100 PSI の圧縮空気を供給します。

この空気は「自動燃焼制御システム」の制御空気として使用されます。
このシステムは、ボイラー蒸気圧力、ボイラー再水流量、燃料流量、
ボイラーへの空気流量を自動的に調整します。

万が一システムに障害が発生した場合、
ファイアルームはバルブ、レバー、および乗組員一丸となっての
「チームワーク」システムで、全体を手動で操作することになっています。


ボイラールームの気温は華氏110度にまで上がりました。
これらのようなダクトは、ボイラールームで働く乗組員のために
ファイアルームの各所に設置されて、
外気(必ずここよりは涼しい)を送り込んでいました。


バーナーガンの横に何やら軍艦らしくない実験室のようなコーナーが。
詳しい説明はなかったのですが、これらはオイルのサンプルです。

下から「プリビアス(前回の)オイルサンプル」
「ベースライン オイルサンプル」
「ブルー」「ホワイト」「レッド」と記されています。

具体的にどういう状態のオイルで、なんのためにサンプルがあるのか、
全くわかりませんでした。


エアコンプレッサー (HPAC) 

空気貯蔵フラスコに貯蔵される 3000 psi 以上の空気を生成します。


この空気は、魚雷発射システムに使用される蒸気減圧弁などの空気制御弁、
またその他限定されないさまざまな目的に使用されました。



この圧力は、蒸気低減ステーションを通じて
90 ~ 125 ps の範囲内の圧力まで段階的に変化させることができます。


さらに通路を進んでいきます。

続く。


主砲下部装填室と機械修理ルーム〜USS「エドソン」

2024-01-22 | 軍艦

USS「エドソン」艦内ツァー続きです。


このハッチは関係者以外使用禁止。
見学者は階段で移動します。


覗いてみると下は砲弾のラックが見えました。
ということは、ここは砲に砲弾を供給するシステムですね。


降りてみるとそこは砲弾供給システム。
ここは甲板の主砲の真下にもうけられたハンドリングルームです。

この写真では何が何だかわからないので、
まず全体像の画像をご覧ください。

写真に写っている「L」は、この下部分装置左側の意味だと思われます。

ちなみにスプロケット(英: sprocket)とは、
軸の回転をローラーチェーンに伝達したり、
ローラーチェーンの回転を軸に伝達するための歯車のことでで、
チェーンホイールとも言います。




写真の部分はローダー(装填)ドラムのホイストということになります。



図で水兵さんがバリバリの正装をして配置されていますが、
Projectile Hoist=弾頭上げのためのホイストです。



弾頭が装填されている状態。
ここから階上のマウントに直接送られそこで装填されます。



もう一つついでに甲板の砲を上から見た図。


ファイルケースがたくさんあるこの部屋は、サプライオフィスです。
日本語で言うと需品科です。


サプライオフィスのデスクの上には監視カメラのモニターが・・。
自分が写っているのでつい撮ってしまいました。

■ 機械修理 
Machinery Repair Shop


左のハッチを進んでいきます。
出口に消火ホースがあるということは火災の起きやすい現場?


マシナリー リペア ショップです。

重精密切削加工機と金属加工用機械を完備した機械修理工場には、
機械修理工(略称MR)が常駐していました。




海軍の機械修理工(MR)は、艦船を支援し、

割り当てられた機器の中間および組織的なメンテナンスを行います。

ボルトなどの機械用金属部品の製造、変形したねじ穴の締め直し、
機械の稼働による変形箇所の修復を専門とする配置で、
フライス盤、ボーリングミル、グラインダー、電動ハックソー、
旋盤、ドリルプレス、および船上の機械工場で見られる
精密測定機器の使用に熟練していなければなりません。

現在の海軍には2種類の機械修理工:

Machinery Repair Maintainer
機械修理整備士
  Machinery Repair Technician
機械修理技師


がいます。

機械修理工は1948年に創設された配置で、
機械工航海士(Machinists Mate)外部機械工(Outside Machinist)と、
工場機械工(Shop Machinist)の2つが統合されたものです。



彼らは重金属の切断の専門家だったので、
艦内でengraving(彫刻)の必要があると行っていました。

まさか氷やスイカの彫刻はしないと思いますが、彼らは作業場にとどまらず、
必要があれば艦上のあらゆる場所で金属の溶接、
切断、研磨までやってのける「何でも屋さん」でもあります。

写真手前の機器は研磨機械、向こうにあるのは旋盤機械だと思います。


修理ショップのデスクとファイルキャビネット。
当時から使われていたものかどうかわかりませんが、

「道具を使ったら必ず元に戻してください」

という注意書きがあり。


各種修理が行われた作業台と、部品収納棚、ツールと木材置き場。
残されたカッターのメーカーは「クラフツマン」。

CRAFTSMANイケイケHP

アメリカ人にとってガレージは家庭の「マシナリーショップ」でもあります。
そのガレージでゴキゲンの「ガレージバンド」。

ヒューレット・パッカードが最初に何やらを作った家が、
現在「ヒューレットパッカードガレージ」という名称であることは、
この国における「ガレージ」という言葉の広い意味を象徴しています。

■ No.2 非常用ディーゼル ジェネレーター ルーム





非常用ディーゼル発電機が置かれたコンパートメントです。
これは船舶用蒸気発生器が停止した場合に使用されるバックアップ発電機で、
定格 240 馬力の 
6-71 シリーズ カミンズ ディーゼル
Cummins Diesel
でした。

Cummins Inc. エンジン部門


このシリーズのエンジンは非常に信頼性が高く、
現在でも海軍でさまざまな構成でこれらのエンジンが使用されています。

「Aギャング」=補助部門は、「EN」またはエンジンマンで構成され、
発電機のエンジン部分を保守しました。
発電機はフライホイールから直接駆動されました。

「EN」とは米海軍機関士のことで、海軍の艦船や小型船で
内燃機関を操作、修理、整備する下士官水兵です。
通常、これらのエンジンはディーゼルエンジンを指します。

ENはまた、全艦艇に搭載されている空調・冷凍システム、脱塩プラント、
エアコンプレッサー、小型補助ボイラーの保守・操作も行います。

そして微妙に気になる「A GANG」ですが、海軍のスラングで、
船舶や潜水艦の補助部門を指す言葉です。

衛生、暖房/空調、非常用ディーゼル、油圧、高圧空気、低圧空気、
酸素発生装置、飲料水、ハッチのメンテナンス、各種システムを担当します。

発電機はフライホイール(Flywheel、回転系の慣性モーメントを利用した
機構に用いられる機械要素のひとつ。弾み車、勢車)で直接駆動されました。

発電機の定格は 100kw、450 ボルト (交流)、60 ヘルツ、160 アンペア。

艦内の発電および配電システムはを保守していたのはEM、
または電気技師の同僚で構成される電気部門の乗組員たちです。

非常用電力は、同じくこのスペースにある非常配電盤を通じて
重要な電気回路に配電され、

たとえ死傷者が発生した場合でも艦が戦えるようにすること
を想定していました。

たとえば、配電システムが損傷した場合でも、非常用電源ケーブル、
非常用電源ボックスを使用して非常用電源を使うことができます。

■ アフターステアリング

このコンパートメントの奥がアフトステアリングです。
アフター・ステアリング・コンパートメントは、
船の最後尾のコンパートメントにあり、
メインステアリングギアが配置されていた場所でした。

駆逐艦の護衛艦には、電気モーターで油圧ポンプを駆動し、
油圧ラムを動かして舵を切る電気油圧式操舵装置がありました。


これはわたしが昔見学した、ハドソン川沿いに係留されている
駆逐艦USS「スレーター」のアフトステアリングです。

ブリッジでは、操舵手が船のハンドルを回すと、
電気信号が舵からステアリングギアに送信されます。

信号はアフトステアリングで処理され、
ステアリング ギアに舵角の指示を示します。

油圧は電気制御バルブを介してステアリング 油圧ラムに送られ、
ラムと舵(後部ステアリングの下に位置)を動かすのです。

また油圧ポンプのクランクを手動で回すスタンバイ操舵方法もありますが、
もちろんこれは困難で疲れる作業でした。


最後に、このコンパートメントの壁にあった絵をご紹介します。



「アンダーウェイ リプレニッシュメント」
(海上補給)


と題されたこの水彩画のポスターは、USS「インディペンデンス」
1965年10月、USS「マウントカトマイ」(Mt. Katomai)から
補給を受けている南シナ海でのシーンを描いたものです。

USS「インディペンデンス」CV-62は、1965年5月10日、
初の太平洋艦隊での任務でベトナム沖の南シナ海に展開しました。

100日間にわたる作戦行動に参加しましたが、これは
ベトナムに展開した五番目のアメリカ軍空母となります。

「インディペンデンス」と第7航空団は、
1965年6月5日から11月21日までの活動で
北ベトナムのハノイ - ハイフォン間の輸送路に対する
最初の大規模攻撃を行い、航空史上初の空対地ミサイル攻撃を行いました。

この給油が行われたのは、そんな戦闘のさなかだったことになります。

このとき空母は北ベトナムの軍事補給目標に対し、
昼夜を問わない定期的な攻撃を継続し、7,000回に及ぶ出撃を行いました。


一方の「マウントカトマイ」は、1965年2月26日、
第7艦隊の艦船に補給するため、サンフランシスコを出港し、
真珠湾経由で5月15日にスービック湾に到着。

数日のうちに、南シナ海での再武装作戦のために出港し、
ベトナム沖の空母打撃群と戦闘艦にサービスを提供する任務を
11月下旬まで行っていました。


続く。


海上自衛隊横須賀音楽隊「やまと新春ふれあいコンサート」

2024-01-19 | 音楽

知人に誘われて、横須賀音楽隊の新春コンサートに行ってまいりました。
会場は、昨年のふれあいコンサートが行われたのと同じ、やまと文化会館です。



去年もそうでしたが、今年も主催は海自の第4航空群です。
厚木航空基地に配備されている対艦・対潜航空部隊で、
隷下には硫黄島航空基地隊も含まれています。

2020年のXのポストによると、硫黄島基地は猫天国だそうで。
しかも黒猫多め。

硫黄島は猫カフェ状態

ところで、戦争中は決していなかったはずの猫が、
いつから野生化しているのだろう・・・。

硫黄島の動物

御楯特攻隊慰霊碑の上でくつろぐ七面鳥。
摺鉢山山頂だそうですが、これは米軍が持ち込んだのかも・・。
(ヤギは米軍が持ち込んだのが野生化したらしい)

ところで、第4航空群のマスコット「うさよん」

目が「4」と「A」になってますが、Aは多分エアの意味だろうな。
んでもって、口はきっと「エアウィング」のWに違いない。
耳が片方折れているのも何か意味がありそうですが、
どこを検索してもこのキャラクターが出てこないのでわかりません。



そして左側の大和市キャラクター「ヤマトン」はさらに謎。
戦艦大和とは一切関係ないのはわかるとして、そもそもこれは何?

「大和市にある泉の森で生まれた葉っぱの妖精。
手に市の花「野ぎく」をもって市内外のイベント会場に遊びに行く。
その見た目からは想像できないくらい運動も得意で、
なかでも大なわとびは最高で33回を記録!!」

・・・葉っぱだったか・・・。


■ 「ふれあい」コンサート

この日のコンサートは、大和市長のお言葉によると、

「横須賀音楽隊の皆さんを大和市にお招きし、
地元の中学生とのふれあいを目的にした交流演奏会」(ママ)


という題目のもとに企画されていました。
つまり、厳密にいうと「ふれあう」のは横須賀音楽隊と中学生であり、
我々はその成果としての演奏を鑑賞する、ということになります。

穿ち過ぎか?
と思いましたが、現実にステージの様子を見ていると、
同じパートで隣同士になった中学生に、音楽隊メンバーが話しかけたり、
何か一言助言を与えているような様子が散見されました。

本番でこれですから、おそらくリハの時には、もっと
ふれあいがあったに違いありません。

自衛隊音楽隊の活動の一環に、地域の学校への指導があり、
その成果?として、自衛隊演奏会に学校のブラスバンド部が招待され
合同演奏を行う例があり、わたしも何度かそれを見てきました。

今回は大和市の2中学が集まるというものです。
プロと中学生の部活が同じステージに立つというのは、
オーケストラなどではあり得ないわけですが、
日本の青少年のブラスバンドは裾野が広く大変レベルが高いので、
そういうことも可能であるのだなと改めて思いました。

■ 中学校合同ステージ

第1部は、大和市立光丘中学校と南林間中学校合同演奏でした。

1.プロローグ・ワン/Prologue One/田村修平/Shuhei Tamura
〈浜松日体中・高等学校吹奏楽部〉COMS-85154

コンサートの幕開け専用に作曲された曲だそうで、
作曲者本人によるご指導コメント入り。
指揮者の入場は曲が始まってからというのがオリジナル指定です。

最初、チューニングかな?と思ったらもう曲が始まっていました。
面白いアイデアだと思います。

2、星の船 Star Shipー西邑由記子 Yukiko Nishimura
近畿大学吹奏楽部
 

「星の船」とは、たなばたの織姫と彦星のために、
一年に一度だけ天の川を渡る船のこと。
優しく切ないメロディがとっても素敵な曲。

3、おジャ魔女カーニバル!!
【大阪桐蔭吹奏楽部】
 

動画を見ていただければわかりますが、全員に振り付けがつきます。
演奏しながら回ったりスィングしたり、
あっちでぴょこぴょこ、こっちでぴょこぴょこが最後まで続きます。
曲は「おジャ魔女どれみ」の挿入曲(だと思う)で、
ほとんど女子ばかり(男子もいたけれどごく少数)の中学生軍団が
ぴょこぴょこは微笑ましくも可愛らしいステージです。

自衛隊音楽隊がこれをやるのを一度見てみたい。

4、フライ・ハイ/ 星出尚志/Fly High by Takashi Hoshide 
東京フィルハーモニーウィンドオーケストラ 真島俊夫指揮




エンディングにふさわしいかっこいい系の曲。
1と2を光丘中の顧問の先生が、3と4を南林間中の先生が指揮しました。

■ 第2部 海上自衛隊横須賀音楽隊

音楽隊長北村善弘1等海尉指揮により4曲が演奏されました。

5、ボン・ボヤージュ!/広瀬勇人/ Bon Voyage! 



プログラムには「!」がついていませんでしたが、
広瀬勇人作曲の金管7重奏で間違いないと思います。

海上自衛隊音楽隊は必ず何かしら海に関連する曲を選びますが、
フランス語の「ボン・ボヤージュ」の「ボワイアージュ」は、
もともと船による旅という限定的な意味がありました。

自動車、列車、飛行機ができる前からある言葉で、
当時は「長い旅行」イコール船の旅だったのです。

6、アイノカタチ

ご存知MISIAとGreeeenのHIDEのコラボソング。
この日一曲だけ、中川麻梨子3等海曹(ですよね)が歌で参加しました。

7、うみ〜唱歌によるファンタジー
【YRP オープンイノベーションデー ~光で未来を!~】横須賀 


横須賀音楽隊の演奏がドンピシャで出てきたので貼っておきます。
「我は海の子」に始まり、「海」が緩徐楽章のように挟まれ、
そしてまた再び「我は海の子」に帰っていく構成。

聴いていて、おそらく編曲者の伊藤康英氏は、
「我は海の子」の全歌詞をご存知の上で編曲されたのだと思いました。
特に次の最終段ですね。

いで大船を乗出して我は拾はん海の富。
  いで軍艦に乗組みて我は護らん海の国。 


8、行進曲「軍艦」

本日の演奏会構成上、ここで行進曲「軍艦」が出てきました。
演奏曲最後ではない「軍艦」を聴いたのは初めてです。

■ 海上自衛隊横須賀音楽隊
南林間中学校・光丘中学校合同演奏


ステージいっぱいに3団体のブラスバンドが集結しての演奏です。
全体人数が多いので、横須賀音楽隊はバンドをミニマムにしており、
乗っていないトランペットの方が司会を務めておられました。

9、アルヴァマー序曲

ブラスバンドのスタンダード中のスタンダード。
やっぱりみんなでやるのはこういう共通言語みたいな曲ですね。

指揮は、南林間中の顧問、白石篤先生でした。

10、ジャパニーズグラフィティXII

ジャパニーズグラフィティとはなんぞや?

日本の歌謡曲やアニメソングをメドレーにしたシリーズで、
この日の7はつまり銀河鉄道999と宇宙戦艦ヤマト。

「グループサウンズコレクション」「坂本九メモリアル」
「青島幸男作品集」「弾厚作(加山雄三)作品集」「レコード大賞シリーズ」
「キャンディーズメドレー」「ウルトラ大行進」
「いい日旅立ち(山口百恵作品)シリーズ」「時代劇絵巻」
「刑事ドラマテーマ集」「スポコン漫画シリーズ」「ARASHI(Jポップス)」
「アニメヒロインメドレー」「坂本冬美メドレー」「美空ひばりメドレー」
「アニメヒーロー(鉄腕アトムなど)大集合」「ザ・ドリフターズメドレー」
「小林亜星作品集」「ドクターストーリー(『仁』『ドクターX』など)


などがあるそうです。
そういえば、呉音楽隊で「小林亜星シリーズ」聴いたことがあるな。

[吹奏楽] 銀河鉄道999・宇宙戦艦ヤマト 🚂⚓ 海上自衛隊横須賀音楽隊


乗り物フェスタの時の横須賀音楽隊演奏。
もう13年前の映像なので、メンバーも変わっているんでしょうね。

この指揮は光丘中学校の草葉優先生が受け持ちました。
両顧問の先生は指揮をしない時には自分の専門楽器
(トロンボーンとトランペットだったかな)で演奏をされましたが、
横須賀音楽隊のメンバーにはお二人が大学時代の同窓生もいて、
何十年かぶりの共演となったというこぼれ話があります。

11、宝島
~海上自衛隊東京音楽隊~



最後は誰がやってもいつ聴いても楽しい「宝島」で盛り上がりました。


やまと文化会館は去年のコンサート以来1年ぶりでしたが、
付近店舗の盛況ぶりや人の流れなどを含め、去年とは空気が違うというか、
長らく人々が閉じ込められていた疫病を原因とする閉塞感が
同じ場所に立ってみると一掃といっていいほどなくなったのを感じます。

何より、横須賀音楽隊の皆さんと、中学生たちのふれあいは
客席から見ているだけで未来を、ひいては希望を感じさせるものでした。

ひた向きな若い人の熱い演奏を、しっかりと受け止めて支えるプロの力。
きっと中学生たちには自衛隊の皆さんへの憧れが芽生えたことでしょう。

今回の企画と素敵な演奏に心から拍手を送ります。






年初め映画タイトルギャラリーその3

2024-01-16 | 映画
■ 「FBI vs ナチス」
They Came To Blow Up America
〜実在事件をベースにしたアメリカ防諜啓蒙映画


我が日本における防諜啓蒙映画「間諜未だ死せず」を取り上げた流れで、
アメリカにおける防諜を目的とした国策映画を扱ってみました。



日米の防諜啓蒙映画を並べてみると、
戦争に突入してからだったのでアメリカ人俳優が調達できず、
全てを日本人俳優で賄ってしまったこちらのに対し、
アメリカのこれは、日本人が中国人を演じるようなノリで
ドイツ人を演じているという同じような作りです。

同じ白人でも多民族国家であるアメリカには実に色々いるので、
この映画でもドイツ人らしいアメリカ人を配しているのかと思えば、
主人公のドイツ人スパイ、アメリカ在住のドイツ系移民の息子である
カール・スティールマンを演じているジョージ・サンダースは、
どこからどうみてもドイツ系の要素がありません。

事実サンダースはれっきとしたイギリス人。
(ブライトンスクール→マンチェスター工科大学卒の上流階級)
ライター夫人を演じる女優アナ・スタンはロシア人ですし、
ナチスの親衛隊長ティーガー大佐はイギリスのシェイクスピア俳優ときた。

かろうじて、実はスパイだったホルガー医師は、
シグ・ルーマンというカリフォルニア生まれのドイツ系俳優、
カールのお父さんもドイツ系アメリカ人俳優が演じていますし、
ドイツ美女ヘルガはオーストリア人女優が起用されました。

ホルガー医師を演じた俳優、シグ・ルーマンは、戦前まで
ジークフリート・ルーマンという本名で活動していましたが、
反独感情が高まったこともあり、芸名を変えています。

アメリカがドイツと戦争になるとドイツ系の需要が高まり、
啓蒙映画や悪役で引っ張りだこになったというのは皮肉ですね。

こんな事情を知るまでは、アメリカではドイツ系の俳優など調達し放題だろう、
と思っていましたが、いかにドイツ系が民間にいたとしても、
人前に出る仕事である俳優には、あまり数が足りておらず、
しかも反独感情で表に出にくかったらしいとわかります。

ヘルガ役のオーストリア女優ポルディ・ドゥーア(Poldi Dur)は、
1944年(!)にアメリカで製作された、「ナチスそっくりさん大集合映画」
ドキュメンタリー「The Hitler Gang(ヒットラーギャング)」で、
ヒトラーが最後に結婚したゲリ・ラウバルを演じています。


観てみたすぎる


頭なでなで中

本作品はアメリカで実際に起こった「パストリウス作戦」なる
ナチスの潜水艦による侵入&爆破作戦をベースにしています。

この事件は、アメリカに潜入した工作員のうち二人が
早々にFBIに仲間を裏切って密告したため当局に露見し、
その他の工作員たちは問答無用で処刑されてしまっています。

当初彼らは戦争が終わるまで収監される程度の処罰と言われましたが、
ルーズベルトは強硬に彼らを直ちに処刑することを求めました。

この映画と「パストリウス作戦」について調べるうち、作戦立案者である
ヴィルヘルム・フランツ・カナリス(Wilhelm Franz Canaris)
という情報部の部長が、日本の陸軍参謀から派遣された
大越兼二大佐と組んで、「対ソ戦、英米との戦争は日独を滅ぼす」とし、
三国同盟に反対していたという史実を知ることができました。

■ 「スピットファイア」
The First of The Few(最初の人々)


RAF(ロイヤルエアフォース)の名機、
スピットファイアの設計者、レジナルド・ミッチェルの伝記映画です。

本作の公開年、ドイツ軍機に乗機を撃墜されて死亡した俳優、
レスリー・ハワードがミッチェルを演じ、自らが監督も手がけた作品。


戦時中ということもあってRAFの全面協力のもと、
実際のパイロットたちが出演してセリフもこなしています。

映画は、語り手としてミッチェルの友人であり、
開発のパートナーにもなった架空のテストパイロットが
彼の若い頃から死までの歩みを振り返る形で進行します。

3つのパートに分けましたが、その最初は、
若きミッチェルが当時の飛行機界の登竜門だった国際レース、
シュナイダー・トロフィーレースで優勝するところまでが語られます。


中編では、ミッチェルがスピットファイア開発に至るまでに出会う人々、
そして開発に乗り出すきっかけとなる出来事が描かれます。

この日のイラストは、実在のミッチェルの肖像(真ん中下)の周りに、
映画に出演したその関係者を描いてみました。
左上のレディ・ヒューストンは実在の彼女の写真をもとにしています。


「レディ・ヒューストン」
熱烈な愛国者、国粋主義者の大富豪で、その地位と財産を
気前よく彼女の信じるところの「国のために」寄付した伝説の女性です。
国会が失業対策のために予算を回す動きのあった当時、
彼女は航空界の発展の原動力となるレースの参加費をぽんと出しました。

「ヴィリー・メッサーシュミット」


実際のメッサーシュミットを映画では随分線の細い人が演じています。
これは実際のミッチェルとレスリー・ハワードにも言えることです。
映画ではドイツに招聘されたミッチェルが、ナチスの関係者から
隠すことのない征服欲をちらつかされ、危機感を覚えることで
自国に強い飛行機を作るべきだと決心することになっています。

「サー・ロバート・マクリーン」
エンジニアであり、航空業界の大物、ヴィッカース社の会長。
スーパーマリン社を買収し、ミッチェルらに新型機、
スピットファイアの開発を奨励した人物です。

後編

右上のヘンリー・ロイスは言わずと知れたロールス・ロイス創始者です。
「マーリンエンジン」がスピットファイアに搭載されました。


サー・ヘンリー・ロイス

映画では、ミッチェルは病に冒されて最後の日々を自宅で過ごし、
パイロットのクリスプが家の上空を完成したスピットファイアで飛び、
軍に採用されたという知らせを受けて死んでいくと描かれます。

映画の中で散々説明しましたが、原題の「The Few」は、
当時慣例的にそう呼ばれていたところの、彼の飛行機で戦った
RAFの「一握りの人々」であり、それに「ファースト」をつけることで

祖国全体に恩恵を与えたミッチェルを含む開発者たちが含まれるのでしょう。


■「海の底(The Seas Beneath)」
ジョン・フォード初期の海軍映画

後半

ジョン・フォードは映画監督になってよほど海軍ものが撮りたかったらしく、
サイレントからトーキーへと映画会社が舵を切った途端、
海軍兵学校もの「サルート」潜水艦もの「Men without Women」を撮り、
満を持して?ドイツ潜水艦と海上戦を行うアメリカ海軍映画を製作しました。

偽装船に乗り込んで島に潜入するアメリカ海軍軍人に忍び寄るのは
美しい女性の姿を借りたナチスのスパイ。

現地のスペイン美女スパイにひっかかり、まんまと身分を悟られた若い少尉は、
責任をとって敵のボートに忍び込み、射殺され、
アメリカ軍の偽装船を率いる大尉は、ドイツ潜水艦長の妹に接近され、
こちらもまんまと相手を好きになってしまうという体たらく。

海上戦の末、偽装船は潜水艦を撃沈して打ち勝ちますが、
兄を捕虜に取られた艦長の妹にむかって、

「そこの教会で結婚式を挙げよう」

といきなりプロポーズして玉砕する大尉の間抜けさがなんとも物悲しい。

第一次世界大戦直後、
まだ海上の戦争に人々がロマンを求める余地があったころの
なんとものどかなストーリーです。

若き日のジョン・フォード海軍ものの原点。

■ 海の牙(Les Maudits 呪われしものたち)
ルネ・クレマンの極限心理ドラマ


第二次世界大戦末期、第三帝国の復興拠点を南米に樹立するという
絶望的な野望の下、Uボートに密かに乗り込んだ人々がいた。
その極限の空間で、歪んだ権勢欲と欲望が渦巻き、ぶつかり合い、
ついには悲劇の破局に至る・・・・。

と、映画の宣伝風に説明してみました。
ルネ・クレマン作品ということで評価が高いようですが、
確かにストーリー展開と人物描写、観客を惹きつける要素はあるものの、
決定的に残念なこと、それは、軍事的な考証が甘すぎることです。

特に、ドイツの敗戦を受けた潜水艦の艦長が
即座に自艦を放棄して民間船にスタスタ移乗するなんて噴飯ものです。

そして、たった数人で南米に第三帝国の拠点を作るなんて、
ちょっと考えれば絶対に無理だって誰だって思いますよね。

そういった大きな矛盾を無視した上にいくら作品を構築したところで、
ツッコミどころが多すぎて感興を削ぐというのがわたしの感想です。

というところで、最後の作品を除きご紹介を終わりました。
今年も楽しみながら戦争映画をご紹介できればと思っています。




年初め映画タイトルギャラリー その2(おまけ『ゴジラー1.0』を観た)

2024-01-14 | 映画

「潜水艦映画にハズレなし」

というのは、潜水艦映画ファンなら誰でも聞いたことがある至言ですが、
そのリストにどうしてこのイギリス海軍潜水艦映画である

「潜水艦シータイガー」
We Crushed at Dawn : Sea Tiger


が滅多に上がってこないのか、今となっては不思議でなりません。
たまたま当ブログは、ハリウッドの戦時高揚映画、
「潜航決死隊 Crush Dive」を以前取り扱っていたため、後発のアメリカが
「シータイガー」からプロットから小ネタまでパクっていた証拠を掴みました。

ハリウッドというところは、もちろん映画産業を牽引してきたわけですが、
経済規模が大きく商業主義最優先であることから、玉石混交、
このようなあからさまなパクリが多々存在します。

ついでに、最近はポリコレが映画をどんどんつまらなくしていて、
画面越しにLGBTが説教かましてくるような作品にうんざりする人が多数。

低予算の「ゴジラマイナス1.0」のあるべき映画の面白さが注目され、
人々がハリウッドはもう終わり、とSNSで声を挙げるにまで至っています。

もう本当にね・・・ポリコレに準拠する作品を作りたいなら、
最初からそういう人物が登場する映画をゼロから作ればいいの。
過去の名作を「ポリコレウォッシュ」するのはやめて・・。
お願いですから。

「それぞれの人生」

乗組員たちのキャラクターと状況を表すセリフを抜粋してみました。

左上:
ホブソン「どうして家から出たんだ?」
妻「ジム、あなた一度くらいシラフで家に帰ってこれないの?
前回もそうだったでしょう」

頭がよく数か国語ぺらぺらで仕事ができる聴音員のホブスですが、
人を寄せ付けない雰囲気で艦内でも一人浮いています。
酒飲みで家庭もうまく行っておらず、妻の兄は
二人を離婚させようとしているという設定。

右上:
艦長フレディ・テイラー大尉
「セイモア嬢に明日のランチのアポを電話で取ってもらいたいんだ」
「んで火曜だが、ミス・・・えーと、カーターだ。
いやいや、ちょっと待って待って。
えっと、確かミス・デイビスだったかな」

「シー・タイガー」のテイラー艦長は兵学校卒の士官です。
階級社会であるイギリスでは上流階級しか士官になることはできません。

扉絵の四人の士官たちも、特に予備士官であるブレース大尉、
ボランティアリザーブ(英国海軍士官予備軍)のジョンソン中尉は
おそらく大学を出ていると思われます。

テイラー艦長は独身貴族を大いにエンジョイする女性好きのようですが、
そのアポイントメントを全て電話で執事にやらせています。

左下:
ウィルソン主席砲員「わたしゃただお役に立てればと思ってね」
操舵CPOダブス「この四角頭野郎」


二人は「シータイガー」のCPOと兵で上下関係がありますが、
コリガンの結婚式に出席していた女性をどちらもが好きになり、
それを知っているウィルソンは、親切ごかしでダブスに
女性の名前を教えず、のみならず出鱈目の名前を刺青するという悪行ぶり。

仮にも階級が上の軍人にこんなことをして大丈夫なのか?
と心配になりますが、イギリス海軍ではもしかしたら
士官とそれ以外ほど、下士官兵の階級差は大きくないのかもしれません。

「スクェア・ヘッデッド」(四角頭)には、いくつかの意味があり、
イギリスにおけるドイツ系&オランダ系への差別用語でもありますが、
ウィルソンという名前はどちらでもありませんから、
おそらく単純に「馬鹿者」という意味で使っていると思われます。

右下:
砲手コリガンCPO「あー、ちょっと間違いがあったみたいで」
エセル「いいえ、あなた間違ってないわ。もう少しで間違うところだったけど」
コリガン「どういう意味だ、エセル?」

CPOのコリガンという男はマリッジブルーなのかなんなのか、
これまで何度も同僚のCPOダブスの妹エセルとの結婚を、
任務に乗じて先延ばしを繰り返し、今回に至ります。

今回の結婚式の日、ようやく彼が年貢を納める時になったと思ったら、
幸か不幸か「シータイガー」に緊急出動命令が出てしまいます。

これは決して彼のせいでもなんでもないのですが、
度重なるキャンセルにエセルはキレてしまい、

「もう少しであなたと結婚して間違いを犯すところだった」

と彼に三行半を突きつけているのです。


緊急に「シータイガー」に命じられた任務とは、
ドイツ海軍の新造戦艦「ブランデンブルグ」を撃破することでした。

出航のシーンに始まり、潜水艦の航行や停泊しているシーンは
すべて英国海軍の協力のもとに撮影され、エキストラはもちろん、
当時海軍情報部にいた「007」の作者、
イアン・フレミングが艦隊司令役で出演するという見どころがあります。

イアン・フレミング海軍時代

「シータイガー」は「ブランデンブルグ」を追う途中、
避難ブイにいたルフトバッフェのパイロット3名を揚収し、
彼らの会話からホブソンが戦艦の位置を特定しました。

「バック・フロム・ザ・デッド」死からの生還

「ブランデンブルグ」を攻撃する「シータイガー」は、
駆逐艦に追われ、あの「潜水艦死んだふり作戦」を決行。

捕虜にしたドイツ航空士ハンスが機密を漏らそうとした
同僚を殴って殺してしまったので、その遺体を「利用」します。

のちの潜水艦映画には何度となくでてくるこの作戦ですが、
わたしはこの映画が「最古」であるのではないかと今のところ考えています。

映画はここで潜水艦が無事に帰還して終了、というものではなく、
この後彼らがドイツ軍の港がある基地に潜入し、
燃料と物資を奪うためにドンパチやるところまで描かれます。

そして、イギリス中が戦没したと思っていた「シータイガー」のメンバーが、
生きて母国に辿り着き、次の任務まで幸せに暮らすでしょう、
というところで映画は終了します。

潜水艦映画に興味のある方ならずとも、ぜひ鑑賞をお勧めしたい良作です。

■ 「ゴジラ−1.0」


ハリウッド映画の話が出たので、ついでに。
「ゴジラー1.0」を観てきました。

去年の段階で「いいらしいよ」と映画情報を送ってくれて知ったのですが、
その後実際に公開されて、特にアメリカで評価が高く、

「低予算でこんな面白い作品が作れると証明してハリウッドに恥をかかせた」

とまで言われているのでぜひこの目で確かめようと思ったのです。
しかし正直、日本人のわたしにとって、この映画に語られるテーマの一つ、

「敗戦の屈辱とサバイバーズギルトから、自らの命と引き換えに

愛するものたちを救おうとする気持ち」

「からの、自らの命を捨てずに自分の中の戦争を終わらせようとする」

心境の変化というモチーフは、決して真新しいものではなく、
軍批判も日本という国の体質批判も、何回となく
これまでの創作物で試みられてきたものであり、その意味で
海外の人々が言うほど新鮮な切り口とは思えませんでした。

核批判、反戦のメッセージ、それは戦後の日本戦争映画の基本スキームであり、
表現の方法に差はあれど、それは幾度となく繰り返されてきた
「セイム・クリシェ」と呼んでも差し支えない語法で語られます。

(銀座襲撃の後の元海軍軍人を集めたシーンでは、ここだけの話、
その演劇くさいお約束的やりとりについ気恥ずかしささえ覚えたと白状します)

加えて、その中に流れる出演者たちの各々の「戦争のPTSD」は、
これも日本人であればDNAレベルで理解できるものであり、現に

「あなたの戦争は終わったか」

「自分の戦争はまだ終わっていない」

などという言葉を、わたしは確かに他の作品中に聞いた経験があります。

ただしこれは決して批判の意味ではありません。

そこでこの映画の世界での評価の高さについて考えを致すとき、
日本では「お約束」となっていたこれらの表現は、これまでのところ
本作品ほど大々的に世界に対して発せられたことがなかったため、
日本人以外にはむしろ新しいものとして捉えられたのではないかと思います。

戦後70年間、何度も繰り返されたこれらの物語は、
今回の「ゴジラー1.0」にも揺るぎなく取り入れられ、
その全体的な構造が恐ろしいほどシンプルに人々に伝わるのを助けます。

どこの国の人々が、特にアメリカ人が最も嫌う字幕で観ても、
なんの不都合もないくらいストーリーが感覚にすっと入ってくることは、
たとえ作品に何億のお金(そのうちほとんどが宣伝代)をかけ、
どんな精巧なヴァーチャルを作り上げようと、達成できるものではありません。

さて、何人ものアメリカ人の鑑賞者が「泣いた」というこの映画。
アメリカ人はこの映画の何に泣くのか。

少なくとも、わたしが泣いたのは以下のシーンです。

「高雄」登場シーン

ゴジラ対決のため戦勝国から一旦返還された駆逐艦群、
「雪風」「夕風」「響」などが相模湾に集結し横一列で並んで航行するシーン

「震電」飛行シーン

「雪風」と「響」の作戦シーン

民間船集結シーン

敬礼シーン


こうしてみると、ミリシーンばかりだわ(笑)

それから、一緒に観たTOは気付かなかったようですが、
最後の決戦で駆逐艦が搭載している砲弾の説明で、
「46センチ砲」といっているのに気がつきました。

アメリカから「ソ連との緊張があるからゴジラ退治はそっちでやれ」
と放置されたため、日本はあるものでなんとかしようとしたわけですが、
大和型の砲弾も爆雷としてリサイクルしていたということになります。

「今までのゴジラ映画で一番いい」

のみならず、

「これまで観た映画で一番いい」

とまでアメリカ人たちが絶賛しているのを知ると、
すこし微妙な気持ちにはなりますが、純粋にエンタメとして面白い、
という映画の条件の原点を満たしているハリウッド作品が
昨今ではあまりなかったということでもあるのでしょうか。

続く。


令和5年映画扉絵ギャラリー

2024-01-11 | 映画

年が明けてからあまりに衝撃的な事件が相次ぎ、
ブログのアップが途絶えがちになっていますが、とりあえず
年末年始恒例の映画ログ回顧をイラスト共に振り返ります。

■ 「8/15」
凡庸という名の厭世的ドイツ国防軍映画




2023年に、というより過去当ブログ映画部が取り扱った中で
最も「勝手の違う」戦争映画でした。
まず、ドイツの戦争映画につきもののナチスが出てこない。

ナチス批判が焦点にないというのは、撃墜王マルセイユの映画以来ですし、
そもそも外国人には「ドイツの普通の戦争映画」を見る機会がありません。

(その意味で、最近Netflixで初めてドイツ人スタッフによって
『西部戦線異常なし』が制作されたのには喝采を送りましたね)

当作品は国防軍の砲兵将校が戦後に描いた小説がベースで、
ドイツ国内では小説を含め、テレビシリーズなども有名です。

繰り返しますが、「8/15」は現在のドイツでも使われる
「凡庸」「月並み」を意味する言い回しで、その語源は
陳腐化したドイツ軍の標準装備、MG08重機関銃から取られています。

MG08は第一次世界大戦のときの最新型なので、映画の舞台である
第二次世界大戦時にはすでに30年前の機材となっていました。

この映画はロシア侵攻後、冬将軍によって短期決戦の機会を逃した
ドイツ国防軍の補給部隊の内部をこれでもかと内部告発しており、
そのどうしようもない戦況において、「つまらん規則」
「才能のない上官」「もう終わってる上からの命令」に縛られて疲弊し、

翻弄させられ押しつぶされていく現場をこれでもかと描いています。

現地の娘と恋に落ちるもスパイで裏切られる若い士官、
死ぬほど欲しい鉄十字を持っている部下が憎くて任務の邪魔をする上官、
また、同じく、嫉妬からあえて無理な命令で優秀な者を死に追いやる上官、
こんな状況でも物資の横流しで私腹を肥やすことしか考えない兵曹。

現場の兵たちは明日をも知れぬ命と薄々知りながらも
その運命をあえてみないふりをして今日の享楽に興じる・・・。

のちにあらゆる国の戦争映画に見られる軍隊の姿がここにあります。

砲兵隊隊長であるフォン・プレニエス中佐が、
スパイのロシア女性に裏切られたヴェーデルマン中尉に向かっていう、

「わたしにはこの欺瞞に満ちた戦争で祖国を危機に陥れた責任がある」

という言葉が、誠実なドイツ軍の「中の人」の総意を表しています。



■ 「僕は戦争花嫁I was a Male War Bride
ケーリー・グラント一世一代のキワモノ作品



後半

稀代の二枚目俳優、ケーリー・グラントがフランス軍人に扮し、
アメリカ陸軍の女性軍人と恋に落ちて、普通に結婚し、
彼女の「戦争花嫁」として渡米しようとしたら、
前例のないことなので上を下への大騒ぎとなり、
ついには馬の尻尾でズラを作って女装し海軍の検閲を強行突破しようとする、
という、文字通りキワモノ的怪作。

他国軍同士の連携作戦で戦後のドイツで共にミッションを行うも、
反発しあって相性最悪というところから始まって、
主に男性の方が酷い目に合っているうち、突然愛が芽生えます。

まあ、これは突然好きになったというより、それまでの反発も
好きの裏返し的な相手への強い関心だったってことなんでしょうけど。

そこまでならまあよくある展開なのですが、この映画では
実際にフランス人がアメリカ人女性と結婚したとき、
アメリカ軍にその前例がないがために起こってくるトラブルについて、
決して荒唐無稽に思えない事例?を挙げて解説しています。

煩雑なペーパーワーク、ドイツで結婚するアメリカ人とフランス人、
ということで3回別の教会で式を上げなければならない。
法律は「花嫁法」しかないので男性を「花嫁」にしなければならない。
アメリカ軍の宿泊施設には「花嫁」しか泊まることが許されない。
かといって米陸軍士官宿泊所にはフランス人は泊まれない・・・。

ここまですったもんだしてようやく海軍の輸送船に乗ろうとしたら、
「女性と軍人しか乗せられない」
と門前払い・・・。

そこで最後の手段としてケーリー・グラントは女装を余儀なくされるという、
まあ、こうして書いてみれば非常に明快でわかりやすく、
その割に先が読めない斬新さが観ていて面白い快作でもあります。

身長190センチのケーリー・グラントが女装、というだけでも
当時から否定的な意見が多かったという当作品ですが、
わたしはそのテンポの良さ、古典的で上品なユーモアを高く評価します。

■ 「間諜未だ死せず」
大事(防諜啓蒙)の前には小事(外人俳優がいない)も辞せず


戦時中に憲兵隊の映画指導、防諜協会後援で制作された、
文字通りのバリバリ国策&防諜啓蒙映画。

日中戦争の最中、スパイとして日本に潜入した中国軍人王少尉が、
日本社会で情報撹乱や人心へのプロバガンダを行いながらも、
心の清らかな日本女性に密かに恋心を抱いていきます。

アメリカ人スパイ組織に雇われたフィリピン人スパイ、ラウルが
官警に追い詰められて自決したとき、アメリカスパイ組織は
ラウル密告の疑いを王にかけ、彼を拷問の末抹殺してしまいます。

アメリカスパイ組織を追っていた憲兵隊の武田少佐(佐分利信)が
ノーランを逮捕した日は、昭和16年12月8日。
武田はノーランに日米開戦を誇らしげに告げますが、ノーランは

「ジャック・ノーラン死すとも間諜は未だ死せずですよ」

と嘯き、視聴者に戦時の教訓を垂れるというエンディング。

本作の見どころ?は、中国人役はもちろん、日本在住アメリカ人スパイ、
米陸軍中佐、フィリピン人スパイ、その他アメリカ人たちを
全て日本人俳優がメイクをして演じているというその異様さです。

アメリカ映画でドイツ人同士が英語で会話し、観客は
それを「ドイツ語の会話」であるという前提で理解するように、
この映画では、どう見ても化粧した日本のおじさんである彼らを、
アメリカ人だと解釈しながら観ることを余儀なくされます。

このやっつけ感と、作品最後で高らかに日米開戦を称揚してしまったことから、
本作は映画史と出演者にとって完全に「黒歴史」となりました。

■ 「陸軍の美人トリオ」Keep Your Powder Dry
オシャレなWACリクルート宣伝映画



左上:
リー「『グッドラックソルジャー』ですって?
お父様はとっくにご存知だったのね」
父「もちろんだ。『常に備えを怠るな』だよ」


左下:
隊長「中隊の隊員のうちおよそ半数が、あなたの資質について
士官に相応しくないと考えているのです」
リー「な・・・なんとおっしゃいましたか隊長?」


上中:
ヴァレリー「WAC入隊ですって?
それでなきゃ遺産が受け取れないなら、やるわよ。
もちろんそんなの嫌だけど、遺産のためならね」


下中:
ヴァレリー「なぜって、WACであることはわたしにとって
何よりも大切なことだからよ」
「それは私にとってたいせつな・・プライドよりも大切なものなの」

上右:
夫「ダーリン、心配しないで。僕は大丈夫だから」
アン「ああジョニー、どうか無事でいて」


下右:
アン「今はわたし・・自分のことでいっぱいなの」
「どうか一人にしておいて」



左上:「こうよ!」ピシャっ!

上中:リー「そのキレやすい性格がそのうちあなたを色んな問題に巻き込むわ」

右上:パシッ

右下:
隊長「ダリソン士官候補生
あなたに辛いニュースを伝えなくてはなりません」
アン「夫ですか・・・か・・彼が怪我を?」
隊長「・・・・」
アン「死んだのですか?」
隊長「3週間前だそうです」

左下:
リー「わたしたち卒業よ!」
アン「二人とも嬉しいわ!」
ヴァレリー「やったわね!」

挿絵を描いた時にはアメコミ風にやってみようと、
あえてセリフを英語で細々と書き込んで説明もしなかったので、
小さいスマホなどで見た方は読めなかったのではないかと思います。

ということで、今回は挿絵のセリフを翻訳しておきました。
これをみれば大体映画の内容もわかってしまうという・・。

この映画のイけているところは、なんといってもタイトルです。
ミリタリー用語から発生した、

Keep Your Powder Dry

という言葉の「パウダー」はもともとガンパウダー、火薬のことですが、
これが湿気ていたらいざというとき先制攻撃できないことから、
いつも火薬を乾燥させておくように、という訓戒が生まれ、
これから転じて、「常に備えよ」を表す慣用句になりました。

女性軍人を主人公とした本作のタイトルにこれを使うと、
「パウダー」は「火薬」「白粉」のダブルミーニングとなります。

大富豪の超美人、お遊びでモデルをやっていたヴァレリーが、
遺産を受け取る条件としてWAC入隊したのを、
情報将校の娘であるリーは面白く思わず、二人は最初から対立します。

間を取り持つおとなしいアンは、戦地に行った夫を
自分なりに支援しようと考えて入隊してきたという女性。

このように、三人三様、全くタイプの違う三美人が主人公です。

三人の関係性とキャラクター描写がエンタメとして大変よくできています。
今のハリウッドでは、もうこんなシンプルな面白みを味合わせてくれる
軍隊映画を作ることは(ポリコレで)不可能になってしまったことを考えると、
この映画にはもう無形文化遺産の指定をして欲しいくらいです。


■ 「戦場のなでしこ」
戦場に散った女性たちの内部告発


「陸軍の美人トリオ」(常に備えあり)に続き、
日本の女性が登場する戦争関連映画を探してみたらば、
もうとんでもないダークマターでした。

戦後大陸で起こった女性軍属の悲劇という史実を、当事者というか、
犠牲者を手配していた看護婦長の手記を元に映画化したもので、
従軍看護婦がロシア兵に組織的に慰安婦にさせられていたという事件が、
この映画によって広く世に知られるようになりました。

映画では当事者たちの尊厳に配慮してか、リアリズムはある程度配して、
美しく悲しく看護婦たちが自決したように描かれていますが、
実際の彼女たちの最後はとてもそんなものではありませんでした。

わたしが最も違和感を抱いたのは、肝心の婦長の行動です。

ソ連軍から逃げてきた一人の看護婦が、派遣看護婦が慰安婦にされたことを
必死で訴え、その後絶命までしているというのに、その上で
くじ引きでさらに3名をまだ派遣しようとしていたという異様さ。

婦長という立場で上からの命令を中止できないのはわかりますが、
看護婦たちが集団で自決したのは、派遣がまだ続くこと、
守ってもらえないということに、つまり絶望したからでしょう。

集団自決した者だけではありません。

部隊の帰国が決まったとき、わざわざ駅まで同僚を見送りに来ておきながら、
婦長の目の前で自決してしまった3名の看護婦がいました。

この3名は、最初にソ連軍に送られたメンバーで、隊に戻ることを拒否し、
それどころか、ダンスホールで働いて、もう手遅れとなった性病を
ソ連兵にうつすことで復讐を続けていたという人たちでした。

これが、何を意味するとお思いになりますか。

彼女らが、彼女らを地獄に送り込んだ張本人と祖国を
恨んでいなかったわけがないのです。


映画ギャラリー後半へ続く




靖國神社 2024年1月1日午後4時

2024-01-09 | お出かけ

東日本大震災以来の未曾有の大災害の報せを何処でお聞きになりましたか。
わたしは他でもない、靖國神社の境内でした。

時間は2023年の年末に戻ります。

■ 2023年末



1年に一度の帰国の機会にMKがやらなくてはいけないことの一つ、
歯医者関係の予約も仕事納めギリギリに入れてもらい、
この日は朝から汐留と歯医者のハシゴとなりました。

汐留ではクリーニング、代官山では矯正の後チェックです。

終わってちょうどお昼時間になったので、いつのまにかできていた
歯医者の向かいのビルのブルーボトルコーヒーに入りました。

後で知ったのですが、このときオープンして1週間目だったそうです。


当店目玉のブランチプレート、「サーモン」。

といってもよくあるスモークサーモンサンドではなく、宮城産の鮭を
半生に仕上げたメイン、焼いたアボカド、たっぷりの野菜、半熟卵。

パンがまた驚きの美味しさで、パレスホテルにも入っている
「Et Nunc」のものを使用しているとのことでした。



夜は銀座の我が家行きつけの割烹で。
MKがマグロ付きなので、食材については前もってお願いしておきました。



湯気が立ち昇る熱々の蕪の煮物。
わたしは飲めませんが、他の三人(TO、MK、関係者)は
「利き酒」でお酒を楽しんでいました。
ちょっとずついろんなご当地酒を出してもらい、
「これ」というのを決めて注いでもらいます。



カモ好き家族なので、これがメイン。

MKには日本に帰ってきた時の「バケットリスト」があって、
短い滞在時間、しかも年末年始の予約の取りにくいところで
そのTO DOをできるだけ叶えることを目的にしているわけですが、
我が家に比較的近い坦々麺の店がコロナで潰れてしまい、京都の鶏専門店も、
大将が引退して途端に味が変わったため、リストから外れました。

残ったリストの中から実現したもう一つの店は・・・、



東京駅前ホテルの和食店の昼食にしか出さない鯛茶漬け。
市場からの仕入れができない年末年始は予約が難しいのですが、
今年は奇跡的に?30日にいただくことができました。

この日は丸善でMKがメガネの調整、わたしはTOの勧めで
インターネットをするときのブルーライト対応メガネを作るという用事。
眼鏡屋さんのおかげで24時間駐車場が使えたので、
東京駅の地下街を歩き、八重洲口まで行きました。

MKが大学の女友達に「クレドポーの化粧落とし買ってきて」と、
あんたはどこのマダムですか、と聞きたくなるようなお願いをされていたため、
八重洲口の大丸のデパコス売り場しかあるまい、となったのです。

知らなかったんですが、クレドポーって、デパートにしかないのね。

クレドポーどころか、わたしはデパコスそのものに滅多に足を向けないのに、
このお嬢さん、日本旅行の際、日本の化粧品の優秀さにしてやられ、
化粧落としはこれでなくっちゃ、となっているんだとか。

お店の美容部員に、人事のように(人事ですが)
これいいんですかねー、と聞いてみましたが、さすがプロ、
彼女はわたしに買うつもりが全くないのを瞬時に見抜き、
セールスどころか相手にもしてくれませんでした(笑)



晩御飯も東京駅近くで食べます。
迷った末、我が家では評価の高い?スープストックTOKYOで。

31日は大掃除と新年の用意、
年明けの瞬間は家族で祝いました。

同じ時間、おめでとうと言い合った能登半島の多くの人々も、
次の日に災害が起きることなど微塵も過らなかったに違いありません。

わたしたちがそうであったように。

■ 2024年元旦



1月1日の朝。
我が家はお雑煮で祝い、新年ということで日本酒も少しいただいて、
のんびりと初詣に出かけました。

最初はいつもの靖國神社からです。

いつもなら駐車場を待つ長い列が靖國通りに伸びているのですが、
今年はそうでもありません。
わたしたちはいつも通り近くのコインパーキングに停めて歩いて行きます。

到着すると、10分後の3時45分の昇殿参拝にすぐに参列できるのがわかり、
これも今年は人出が少ないせいかなと思いましたが、
すぐに案内されるに越したことはありません。

一度に昇殿する参拝客もいつもの3分の1にもならなかった気がします。

参拝経験者はご存知と思いますが、靖國での昇殿参拝は、
まず受付で玉串料を納め、参集殿(待合所)でお茶を飲みながら待ち、
予約の参集が告げられると、皆で手洗い処を経て、
まず拝殿に案内され、そこで神職からお祓いを受けます。

その後、渡り廊下を通って本殿に上がり、そこで神職が
玉串料を納めた参拝者の名前に『〜い』という語尾をつける
独特な呼び方で名前を読み上げ、最後に二礼二拍手一礼をします。

そして本殿から参集殿に戻る渡り廊下の途中で
巫女が注ぐ御神酒を盃に受け、本殿の方を向いていただき、
お下がりを受け取って終わりです。

所要時間は約20分。

わたしたちが本殿に上がろうとしていたまさにその頃、
能登半島全域では地震が起こっていました。

わたしが最初にそのことを知ったのは、本殿に上る寸前、
何があったのか渡り廊下で5分ほど足止めされているときでした。

並ぶ列の後ろから、

「震度6以上だって」

という男性の声が聞こえてきたのです。
しかし、東京での揺れは場所によってはほとんど感知できず、
靖国神社の本殿にも揺れるようなものがなかったこともあり、
わたしたちはその重大さに全く気づいていませんでした。


お札に毛筆で字を書き込む人の手が足りず、
受け取り処でTOが待たされている間に福引をしましたが、
ご覧のように全く人が並んでおらず、全く待たずに御籤を引いて
順当に入浴剤を3つゲットしたときも、周りには何の変わった様子もなし。



冒頭の写真を撮った時からこの写真までの間に大災害が発生しました。
このとき歩いている人の中には、実態を把握していた人もいたかもしれません。



そのときも、わたしたちはまだ事の重大さは把握しないまま、
靖国神社に続いて、恒例の虎ノ門金刀比羅宮でお参りをしていました。

毎年のように紹介していますが、この金刀比羅宮は、
高層オフィスビル、虎ノ門琴平タワーを複合施設に含みます。

1679年に虎ノ門に遷座され、2001年には歴史的建造物指定されています。



その日の夕食は永田町のアパホテルへ。
元日なのでホテルしか外食は開いていません。


アパホテルといっても、ここは永田町。
場所柄、ここはアパホテルに「プライド」が付きます。
正確には「アパホテルプライド国会議事堂前」。

併設のレストランもとれたて魚と野菜にこだわった健康志向の小料理屋です。



メインはわたしにとって三度目となる鹿肉のロースト。
美味しかったです。

ただ、わたしとしてはここのBGMが気になって仕方ありませんでした。

何処かで聴いたようなコード進行の、たるいボサノバが4曲、
延々と繰り返されているのですが、普通の人は気づかずとも、
わたしにはその気持ち悪さの理由が2曲目にしてわかりました。

これらのボサノバ、どれも「テーマを演奏していなかった」のです。
最初から最後までアドリブだけ。
盛り上がりなし。パッションなし。アドリブに始まりアドリブで終わる。

注意深く聴いていると、その4曲のボサノバ、
「サマータイム」「枯葉」「オーバーザレインボウ」
(後一つ忘れた)のコード進行でした。

ははーん、これはJASRAC逃れのオリジナルBGMだな、
とわたしはピンときましたね。

こんなことを現実にやっている(というか企画した)人がいたとは、
初めて聴いたのでショックといえばショックでしたが、
アパホテルといえば全国展開しているので、
かすらっくに払うお金は結構大きいんだろうなと察しました。

新年早々、なんかすごいことを知った(聴いた)という感じ。

さて、この頃になると、わたしたちも主にTOのスマホ情報で
能登地震がただごとでないらしいとわかってきました。

それでも、まだ、そのレベルが激甚災害であるとは夢にも思っていません。

■ 1月2日

2日が明ける頃には地震の情報もニュースからわかってきました。
何人かの北陸在住の知人に連絡を入れたところ、
まず先日伺ったばかりの富山の鋳造会社は全く被害なし。
氷見在住の知人はちょうどその時間我々のように神社にいたそうです。

氷見も揺れが激しく、神社の石灯籠が倒れている映像もあったので
心配していましたが、無事ということで一応ほっとしました。



この日は新しくできたばかりの麻布台ヒルズでランチを予定していました。

2023年の11月終わりにオープンした森ビルの「新ヒルズ」で、
今東京で最も注目されている商業施設です。
ショップやレストランはもちろんのこと、レジデンスがあり、
ブリティッシュスクールも併設、ホテルもオフィスもあり。

この日選んだのは創作イタリアン。



カウンター式のテーブルで味わうシェフの一品。
本来はその日の食材をシェフと相談しながら料理法を決めていくのだとか。
この日はお正月なのでプリフィックス?です。



今回の年末年始を通して4回目となる鹿肉料理。
最近どうしてこう鹿肉が多いのだろう。

しかし、ここの鹿が全ての中で最高峰でした。
それはMKも同じ意見。



食後は麻布台ヒルズの中を探索してみます。
ニコライ・バーグマンの専門店があったり、ルルレモン、
(アメリカ西海岸発祥のおしゃれなスポーツウェアブランド)
コンランショップ、リナーリなど、ショップもクラス高め。



一階には大きなスターバックスがあるのも当然ですが、
なんとここには嵐山でお世話になった%アラビカが!



順番を待つ列のためのロープスタンドにも%マーク。
%=コーヒーの実、というのはもうお話ししましたっけ。



1月2日ということもあってすごい賑わいでした。
オーダーしてからポケベルが鳴るまで20分はかかったかもしれません。



カフェからは外のスペースに出ることができます。
聳え立っているのはおそらく住居棟。
地上64階高さ330メートル、現在日本一高いビルとされています。
(2位あべのハルカス、3位横浜ランドマークタワー)

万が一災害が起きた際には、3,600人ほどなら帰宅困難者を受け入れ、
また防災拠点としての役割を担う設備も備わっているのだとか。



そしてその日の夜、MKの「焼き鳥が食べたい」というリクエストで
麻布台ヒルズから東京タワーの近くのホテルに移動したときです。

「JALと海自の飛行機が羽田で衝突したって!」

TOが小さく叫んだのでわたしはすぐにiPadをチェックしました。

なぜ海自の飛行機が羽田にいるのか、とまずそれが違和感でしたが、
秒後にそれがTOの海保との勘違いであることがわかりました。

海保機は能登に緊急物資の輸送に行くところでした。
つまり、地震がなければ起こるはずがなかった事故だったのです。

またもや知る悲惨なニュースに暗澹たる気持ちになってからは、ずっと
海保機の乗員の無事を祈り、安否を案じていたのですが・・・・。

■ 1月3日

次々と明らかになる情報に誰もが心を痛めていたに違いないのですが、
東京はいつも通りの、いや、いつもより観光客の多い、
華やかな賑わいを見せていることがわたしには不思議な気がしました。



MKが4日に帰国するので、われわれはこの日も街に出かけました。
日本橋三越前のCOREDO室町です。

COREDO日本橋の語源?は、きっとお江戸日本橋に違いない、
とわたしは信じてやまないのですが、この日来たのは室町。



道に面した有名な和菓子店では、カウンターで和菓子職人が
4つのサンプルから選んだ好みの和菓子を目の前で作ってくれ、
抹茶と一緒にいただくことができるというサービスをやっていました。



餡のかたまりを指でちょいちょいと触り、茶巾に包んで形を作り、
小さなザルのようなものであっというまに花芯が出来上がり。
計ってませんが、おそらくできるのに1〜2分しかかかっていない気がします。

MKはここでお店が出している「星の子カービイ」の最中、
というのを大学の友達のお土産のために買って帰りました。

■ 1月4日



そして次の日、MKを成田まで送りました。
飛行機追跡アプリを寝る前に確認したら、それは太平洋のど真ん中にいて、
朝起きたら無事にサンフランシスコに着陸していました。

そして、MKからは到着時に機上から撮った大学の空撮写真が。
上の丸は大学のシンボルタワー、下は彼の住むアパートです。


運命とは不思議なもので、今日自分が生きてここにあるのも、
多くの偶然の中からたまたま無事な方を選んできた結果にすぎません。
それがいつも、そしていつまでも同じである保証はどこにもない、
ということを、この年明けにあらためて思い知らされたような気がします。

衒うようでこんなことを言いたくはありませんが、だからこそ
今日一日に感謝して、誠実に生きるべきなんだと。




年末富山のきときと旅

2024-01-05 | お出かけ

みなさま、遅ればせながら明けましておめでとうございます。

年末の京都旅行のログで、unknownさんから、
「能登半島でなくてよかったですね」というコメントをいただきましたが、
実は、その直後に能登半島の根元富山にいました。

TOがお付き合いのある方の企業が高岡市にあって、
以前も会社訪問したときの報告を当ブログでさせていただいたものですが、
今回はMKが帰国してくることもあって、その企業が一般向けに出している
鋳造体験を一緒にしてみようと思い立ち、訪ねることにしたのです。

そのことをブログに上げようとしていたら、能登半島に地震が起こり、
ニアミスに驚いて現地の知人に安否を問うたところ、
皆無事であると聞いてほっとしたところです。
 

出発の前日はクリスマスイブでした。

雰囲気を味わいに、みなとみらいに新しくできたレジデンシャルビルにある
オランダ人シェフの店(名前に”ヤン”がついてる)にいってみました。

コロナに斃れたTOも復活して病以来初めての家族でのお出かけです。



みなとみらいの遊園地とスイカのホテルを眼下に臨みます。
最近は東京横浜にこのような高層住居ビルが乱立している感があります。



ヒラマサのタルタルを赤玉ねぎのグラニテ(シャーベット)、
ズッキーニとコリアンダーでシャレオツに仕上げてあります。



メインは鹿肉でした。
京都に続いての鹿肉です。
出口にヤコブ・ヤン某というオランダ人シェフがいたので、
わたしが先に、次にMKが挨拶したら、MKにだけ、

「おおー英語うまいですねー」(英語で)

と。
ふん、どうせわたしゃ日本人英語ですよーだ。


さて、次の日は羽田から富山きときと空港に向けて飛び立ちました。
羽田から日本海側に飛ぶので、スカイツリーがよく見えます。
「きときと」とは富山の言葉で魚などを新鮮だというときに使う言葉です。

人に対して使う時には気力が充実した人、と言う意味だそうですが、

「あんた、きときとやね」

と言われたら、よそ者は自分って生魚臭いのか?とか思いそう。



なんとなく下界を眺めていたら、一箇所から煙が上がっていました。
後で調べたら、10時すぎに練馬区富士見台で民家が火事になってました。


「クリスマスに火事・・・気の毒に」

と呟いたのですが、この後のお正月にそれどころではない災害が起きるとは、
このときのわたしたちには知る由もありません。


連なる山波の向こうに富士山を確認。



ものの1時間できときと空港に到着です。
2日前に大雪だったそうで、雪が積もっています。

現地に行くための服装を決める時、Siriさんに富山が雪か聞いたところ、
きっぱりと「雪は降りません」と言うので普通の靴で行きましたが、
地面にこれだけ残っているのなら、それをまず教えて欲しかったんだが。

やっぱりこの辺りがAIの限界かのう。

■ 高岡オフィスパークに到着



空港からレンタカーで30分ほど走ったところにある、
高岡銅器の老舗メーカーに到着。

駐車場の仕切り線がすでにオリジナル製品のカタチをしています。

大正年間創業後、仏具メーカーでしたが、
2000年代に可塑式のテーブルウェアなどに乗り出し、
そのユニークなデザインと発想が世界的に有名になり、
今ではへバーデン結節患者が関節を固定する医療機器、
近々本格的なジュエリーデザインにも乗り出すという勢い。

地域の元気な企業として長らく注目され成長してきました。



前回から今回までの間の会社の発展を表すように、
建物内にお洒落なカフェが出現していました。
商品の展示コーナーと隣接して窓際に並んだテーブルで、
ランチやデザートをいただくことができます。

当社の器で地元食材を楽しみ、販売にもつながると言うわけ。
美味しくてしかも安い。
このボリュームたっぷりの牛焼肉丼セットがなんと1,800円!



デザートもとってもお洒落で映えどころではありません。



「能サクッ(会社名)!アップルパイ」

と名付けられた大人気のデザートは、発酵バターのパイカゴの中に
中にさつまいもペーストを仕込んだリンゴがかくれているというもの。



このカゴも当社製品をイメージしたもの。
これが1,500円なんて信じられません。
(会長が『1,800円にすべき』とおっしゃっていたけど、それでも安い)
パイもただの飾りというにはあまりにも美味しい。

スウィーツのデザインは、新社長の娘さん(子供)がしているそうです。
普通にすごい。

■ 体験制作と工場見学

さて、食事が済んだら、この旅の目的である制作体験です。



これも以前はなかった「ラボ」。
同時に何組もがグループで体験制作をすることができるスペースです。

手前にあるぐい呑み、小皿のどれかを選んで製作します。

この日は女性ばかり六人のグループと一緒になりました。
ラボの反対側では中国人らしい旅行客の三人組がいて、
インストラクターは英語で対応していました。


わたしとMKはぐい呑み、TOは小皿。
土に型を埋め込んで、インストラクターの言う通り、
こねたり型から取り出したりしているうちに、型ができるので、
そこに錫を流し込むとすぐに固まります。

商品として売るためにはこれらに見えるような模様は
研磨して取り去らねばなりませんが、体験ではそのまま持って帰ります。

最後は器の底に好きな文字を刻印してできあがり。



土に埋め込む型とはこのようなものです。
錫が土と型の間に入って中空の形ができます。

今は使っていない型を美術館のように展示していますが、
このような説明も前きた時にはありませんでした。



この後は、新社長自らのご案内による工場見学。
地震を知った時、真っ先にこの型展示が崩れなかったのかを思いましたが、
いくつかものが落ちた程度で何か壊れたと言うような被害はなかったそうです。



しゃがんでいる方は、さっきわたしたちが体験したのと同じ工程を
専門の場所でしておられます。
土を固めるとき、わたしたちは道具で押さえましたが、
本職の方は上に乗って体重で踏み固めていました。



職人の仕事にもいろんなレベルがあって、
この研磨によって模様をつけたり滑らかにする作業は
ベテランにならないと手がけることができないのだとか。

前にある掃除機の大きなノズルは粉塵を吸い込むものです。

工場内は夏でもクーラーをつけることができませんが、その理由は
クーラーによる風が粉を撒き散らすからだそうです。
夏の職場はきっと超過酷でしょう。



仕上がった製品が梱包前に置かれる場所。
ミッキーマウスの形のお皿が見えますが、もちろん
ディズニーと契約をしています。
他にはドラえもんとのコラボ商品もあったと思います。


一般の人には見せないのですが、と特別に見せてもらった倉庫には
過去依頼されて納めたもの(お寺の飾りなどが多い)が、
会社の資料&目録として展示されていました。



前回来た時にはあったかな?
2階から作業場が俯瞰できる見学通路。
通路だけでなく作業場そのものも明るく綺麗に改装されています。


わたしたちはショップでこの猫3匹(有名なデザイナー作らしい)の
箸置き(1匹ずつ切り離して使う)と、


ペンダントを購入させていただきました。
右上のチャームは宿泊した民家にあったギフトです。

■ 宿泊体験



この会社は富山県下の「木彫りの町」として有名な伊波にある
Bed and Craftという宿泊施設とタイアップしており、
地元の古民家を買い上げて一棟単位の宿泊所として売っています。

まず、本社から車で30分ほど行ったところにある伊波に到着。
この素敵な古民家は、この地域に5軒ある宿泊所の「フロント」です。



かつての姿を残しながら居心地の良い今風空間に改装してあります。
そして至る所に見られる「木彫の街」のアーティスト作品。
廊下の突き当たりにも作品である木彫の額が見えています。



家具もアンティークを中心に、懐かしさを感じる空間に。
ここでお茶とお菓子をいただきながらチェックインをし、
宿泊する家の場所とキーの暗証番号を教えてもらいます。



われわれが泊まった家は、元料亭だったそうです。
軒にかけられた「金中」というのが料亭時代の屋号。
今は部屋の名前となっています。


床はもともと畳だったのを張り替えてありましたが、
敷居や柱はオリジナルをそのまま使っています。
この手の古民家は北国では冷凍庫のように寒いのが相場ですが、
ここは全館ダイキンのエアコンが空調を行い、
さらに石油ストーブでガンガン温めることができるようになっています。

お風呂も全自動で水回りは大変快適でした。


かつてのお座敷を洋室に作り替えました風の居間。
違いのわかる男がタバコの煙をふかしそうなイメージの部屋ですが、
いまどきなのでもちろん全館禁煙です。



雪見障子、(壊れていて半分しか上がらない)雪の積もった坪庭。
立派な観音開きの扉の向こうにはかつて仏壇でもあったような・・・。



大画面テレビだけがはいっていました。
扉を開けると隙間風が猛烈に入ってきました。
やっぱり基本的に日本家屋寒いです。



キッチンは無印良品(風)の製品多し。

ウェルカムドリンクとしてシャンパンが一本用意されていましたが、
旅先では誰も飲まないので持って帰っていただきました。

フロントとの連絡は、ルームサービス含め、皆iPadから行います。
さすが今時の宿泊所です。



朝起きてコーヒーを淹れてみました。
長期滞在できるように食器も什器も揃っています。


浮き彫りの目隠し模様が入ったガラスは年代を感じさせます。
キッチンの窓は道路に面していて、ここからも冷気が入ってきますが、
それもそのはず、窓の鍵が昔あったような「ねじ式」なんだ。

うわー懐かしい・・・。
こう言うの見なくなって何年くらいになるだろう。



地元のアーティストとコラボしているというのが売り。
この家ではまず、階段の踊り場に鹿の彫りものあり。



階段を上から見ると踊り場に鹿がいて・・・、



見上げると吹き抜けにこれもアート作品、
木彫りのシャンデリアがあって、これがここのメイン作品らしいです。



玄関に並んだ小さな額も全て木彫作品。



寝室は2階に2室。
わたしはこの部屋を一人で占領しました。



こちらの部屋はほとんど昔のまま。
和室に床の間、引き戸の外の廊下にある謎のテーブルと椅子。

■ 地元の会席料理



その夜は会長と社長のお招きで地元の創作料理屋さんへ。
なんとこの日、お店は貸切になっていました。

ここのお料理も会社とコラボして器をふんだんに使っています。

「しふく」というこの料亭の料理は、
一棟貸切のプランに含まれているそうです。

地元の店や企業と連携して都会や海外から人を呼び、
地域の活性化を図っている様子がうかがえます。



お好きな方にはたまらない。
コウバコガニまるまる1匹。
だがしかし、MKはもちろんわたしはカニ苦手・・・。

会長の、この味噌がもうたまらんのですとか、
小さい時にはおやつがわりに食べていたと言う話をへーほーと聞きながら
実はモテアマしていたことを懺悔と共に告白します。



それからこの巻貝。

爪楊枝を引っ張ってみたらずるずる〜〜〜と中から出てきて
それを見たわたしは内心ひええええと怯えてしまいました。
お好きな人すみません。

我が家全員、前世で何があったのか、甲殻類貝類が苦手なんです。
帆立貝の刺身は好物なんですがね。

これはMKはもちろん、TOすら食べなかったそうです。

でも、とにかく「とれとれきときと」の海の幸、
特にお刺身は大変美味しゅうございました。



次の朝コーヒーを飲んでいると、楚々とした若いお嬢さんが
頭に布を被った出立ちで朝食を届けてくれました。

温かいおにぎりと半熟卵のサラダ、スープ。

■ 木彫りの町



玄関のアート作品の間に古い集合写真あり。
説明がないからわかりませんが、職人風の人が多いことから、
昔この辺で仕事をしていた木彫職人の記念写真ではないかと思いました。



チェックアウトしてから、前の日から目をつけていた
「ただものでない」感じの珈琲店に行ってみました。

ここも古民家改造店舗で、反対側にはやはり宿泊所があります。



宿泊室への入り口が同じところに。



隣の家の壁は触るわけにいかないのでそのまま残されています。
崩れそうな土壁。
こういうの、地震が直撃していたら危なかったのでは・・・。



なんと、ゲイシャをプアオーバーで淹れてくれる店でした。
いやもう地方の文化程度はすごいことになっています。

しかも、プアオーバーで淹れたコーヒーは、
冷めていくと味が変遷していくこともよくわかっているバリスタで、
カップとビーカーに分けて運んできてくれるとは。

感激です。



店舗の2階が喫茶室になっていました。
柿の実のオレンジが雪景色の中でほっこりと温かい。



パン屋さんの壁。これも木彫りです。



木彫りの町井波を少し車で走ってみました。
人の姿少なめ。



地元のお酒一種類だけを扱っている酒屋さん。
看板はもちろん木彫りです。



越後屋という木彫りの店。



ネズミさんが木彫りで看板を製作中。
尻尾を命綱にしての作業です。



新聞屋さんの看板猫も木彫りです。



木彫りの町の中心にある瑞泉寺は、山門が見事な木彫でできています。
木彫りのお手本のような建物で、よく職人が勉強に見にくるのだとか。
この山門は有形文化財に指定されています。



さすがは木彫りの町、自動販売機も木彫りのカバー付き。



というところで、空港に行く前に富山駅近くでご飯を食べました。



駅のお酒屋さんでジンを味見しているMK。
ジン好きの彼は、オールドトム系ジンを今回東京で買って持って帰りました。
(といわれても何のことかわたしにはわからないのだが)

この後地震が起こった時、ニュース映像で
富山駅のこのモールの映像が流れたような気がします。

わたしたちが能登の地震のニュースにびっくりしたのは
これから6日後のことでした。