ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成28年度 年忘れ人物ギャラリー

2016-12-30 | つれづれなるままに

今年も最後の日になりました。
恒例の人物ギャラリーで締めくくりたいと思います。
まずはブログタイトル通り、ネイビーギャラリーから。 

酒巻和男海軍少尉

真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に乗り込んでハワイに突入した
10人の士官と下士官のうちの唯一の生存者でしたが、
その数奇な運命を世間の目に曝すことを望まず、ブラジルに移住して
ひっそりとその一生を終えた「捕虜第1号」酒巻和男海軍少尉。

説明のために自ら「捕虜第一号」を執筆したあとは沈黙を守り、
自らについて語ることも、媒体に露出することもしませんでしたが、
ジャングルから帰国してのちやはりブラジルに住んでいた小野田寛郎氏と
現地で対談をしていたことがわかりました。

その本をベースに氏の海軍への、あの戦争への、そして戦後日本への
考えや提言をこのシリーズではまとめてみました。

酒巻和男少尉の見た大東亜戦争

ハワード・ギルモア海軍中佐

対日戦で4回目の哨戒において、特務艦早埼と対決した潜水艦「グラウラー」艦長。
負傷した自分がハッチから退避している間に全員の命が危ないと判断し、
ハッチを占める命令を下して自らを犠牲に部下の命を救いました。

この時海軍から彼に出された感状です。

名誉勲章感状

アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1943年1月10日から2月7日までの
グラウラーの第4の哨戒におけるハワード・ウォルター・ギルモア中佐の
際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を追贈する。

絶え間ない敵の脅威と対潜哨戒の中をかいくぐり、
ギルモア中佐は果敢な攻撃によって日本貨物船を1隻撃沈し、
その火災によって他にも被害を与え、執拗な爆雷攻撃を回避した。

2月7日の暗闇の中、敵の砲艦はグロウラーへの体当たりを試みて接近してきた。
ギルモア中佐は衝突を避けるために左に舵を切り、
11ノットの速力で敵砲艦に突っ込んで外板を切り裂いた。

沈みゆく砲艦からの機関銃弾を浴びたギルモア中佐は、部下に対して冷静に
艦橋から去るよう命令し、自らは危険を顧みず艦橋に残った。
敵の一斉射撃に屈しながらも最大限の努力を行ったギルモア中佐は、
最後の瞬間に「潜航せよ!」と当直将校に対して最後の命令を下した。

グラウラーは甚大な被害を受けたが、戦死した中佐に闘志をかきたてられた、
よく訓練された乗組員によって母港に無事生還した。

今年の夏、コネチカットのグロトンで原子力潜水艦「ノーチラス」を
見学してきたのですが、「潜水艦のふるさと」でもある
グロトンの海軍潜水艦基地が直接運営しているものなので、
大変充実した潜水艦博物館が併設されています。

その展示の中にギルモア中佐の写真を見つけて盛り上がったのですが、
そんな知識を持ってここを訪ねる人は、アメリカ人にも
滅多にいないのではないかと内心自負しています。 

1943年に建造されたフルトン級潜水艦には「ハワード・W・ギルモア」と
名付けられましたが、魚の名前をつけるのが慣例の潜水艦にしては
これは異例のネーミングだとされています。

リチャード・E・バード・Jr.海軍少将

海軍軍人でありながら冒険家として有名だったバードJr.少将。
アメリカの「ハイジャンプ作戦」には謎が多く、これらについて調べるのは
まるで冒険ミステリー小説を読んでいる気分でした。

戦艦「フィリピン・シー」について調べていたら、これがハイジャンプ作戦に
加わっていたことを知り、芋づる式にバードJr.少将までたどり着きました。

でも、わざわざ取り上げる気になったのは男前の少将が若い時の
ボウタイ姿の写真を見つけてしまったからです(爆) 

 

さて、ここからは陸軍関係となります。

小野田寛郎陸軍少尉

酒巻和男氏との対談をまとめた3編のうちの「小野田さん編」。

小野田少尉の終戦

ただ一人ジャングルで終戦を知らずに過ごした「最後の軍人」
小野田さんは、日本帰国後、他の誰も経験したことがない
不思議な世界に身を置かねばなりませんでした。

世間の人間が小野田さんを見る目は、良くも悪しくも偏見に満ちており、
その半生は、世間が求める「小野田さん像」への抗議と
戦いの日々だったと言えばいいでしょうか。

このころの小野田さんは、実に開けっぴろげにルバング島での
ことを語っており、まだそれほど世論に対して
警戒していなかったのではないかと思わされます。 

遥かに祖国を語る

二人の対談から、二人が帰国したとき、日本は彼らをどう迎えたか、
そして戦後の自虐する世代を二人がどう見ていたかを書きました。

酒巻氏は本当に写真が少なく、参考にできるのが晩年のはこれだけでした。

 

北本正路陸軍少尉 

呉にある海軍墓地で善本野戦高射砲中隊の慰霊碑を見たことから、
日本軍が、ニューギニアの北岸で標高4000mの山越えをしていたことを知りました。

人呼んで「死のサラワケット越え」。

その牽引力として過酷な山越えを偵察を含めて何往復も行った
「マラソン部隊」の隊長は、オリンピックに出場したこともあるアスリートの
北本正路という陸軍軍人であったことを知り、シリーズ化したのが本編です。

栄光マラソン部隊〜北本工作隊かく駆けり

戦後は市井の人として慎ましい余生を送ったようですが、今ほどテレビが
思想的に偏っていない時期、

「私は誰でしょう」

という人気番組に出演したこともあったようです。

氏がおそらくその生涯に書いた一冊の自伝には、マラソン部隊の隊長として
選んだ現地人の部下、ラボとの魂の交流が生き生きと描かれています。

ハリー・カツジ・フクハラ陸軍大佐 

日系アメリカ人として「二つの祖国」を持ち、対日戦に参加した
軍人は数多くいました。

「二つの祖国」〜ハリー・フクハラとアキラ・イタミ

その通り「二つの祖国」のモデルになったハリー・フクハラ大佐。
やはり小説のモデルになったアキラ・イタミと共に、
日系二世たちの苦悩についてお話ししてみました。 

舩坂弘陸軍軍曹

インターネット界隈では「チート」と言われて有名な(笑)
超人舩坂弘軍曹のチートぶりを扱いました。

舩坂弘陸軍軍曹の戦い その超人伝説 

わたしとしてはその超人ぶりもさることながら、彼の生存の
大きな原因となった、アメリカ海兵隊伍長クレンショーの存在、
そして彼と船坂軍曹の友誼にいたく感銘を受けてこちらを漫画にしてみました。

ロシアン・スナイパー(ただし女子に限る)

スナイパーに男性と伍して太刀打ちできる女性をバンバン投入したソ連。
その中からは何人かの英雄が生まれました。

中でも有名なリュドミラ・パブリチェンコ、ローザ・シャニーナ、
クラウディア・カルディナ・エフレモブナ、アーリャ・ モロダグロワ。
この4人を取り上げました。

2000人投入された女性スナイパーのうち戦後生きていたのはその4分の1、
という数字もさることながら、生き残った女性たちもあのクリス・カイルのような
戦闘トラウマに生涯苦しめられたという話もあります。

キャサリン・スティンソン

ここからは女性パイロット列伝シリーズから。
彼女の顔をことさら漫画風に描いたのは、当時のキャサリンが
「ス嬢」という略称で日本におけるアイドルとなっていたからです。

「ス嬢はアイドル〜キャサリン・スティンソン」

飛行家としての彼女そのものより、日本における、特に女学生の
彼女への熱狂ぶりが気になりました。

それから、横須賀鎮守で、海軍が彼女に献呈した壺が
その後どうなったかがわたしとしては気になります(笑) 

エイミー・ジョンソンCBE

栄光に包まれた英国の高名な女性パイロットの墜落死。
彼女は暗号を間違えたため、祖国の軍隊によって撃墜されていた、
というのが最近明らかになったという話を書いてみました。

誰が彼女を撃ったのか〜エイミー・ジョンソン

エイミー・ジョンソンの存在はアメリカではとても有名らしく、
子供向けの飛行家シリーズ本などにはイアハートと並んで登場します。

わたしはこの話で、雪の降りしきる1月5日に、墜落した彼女を
助けるために、軍艦の甲板から単身海に飛び込んで死亡した
海軍軍人の「海の男」魂に何よりも感銘を受けました。

名前のあとに「CBE 」とついているのは、彼女が

 大英帝国勲章(Order of the British Empire)

のコマンダー位を授与されたからです。
この勲章を与えられた有名人には、ローワン・アトキンソン、
指揮者の尾高忠明、佐々淳行、スティング、蜷川幸雄がいます。

マリ-アントワネット・イルズ

フランスの飛行家ということで、結婚という形にとらわれない
フランス人気質というものを絡めながら、彼女の
不倫の恋などを語ってみました。

「恋に生き、空に生き」

このタイトルがトスカのアリアをもじっていることに
気付いて下さると嬉しいです。

来年も訪問記の合間にこういった人物を紹介していくつもりですので
よろしくお付き合いください。

それではみなさま、よいお年を。

 

 

 


平成28年度 年忘れ映画ギャラリー

2016-12-29 | 映画

イベントなどへの参加が増えたため、一時ほど頻繁でなくなりましたが、
時間が出来たときには楽しみ半分で映画紹介をしています。

今年もわずかながらそんなエントリのために書いた絵を紹介して
恒例の年忘れといきたいと思います。

まず、年明け早々にご紹介した「亡国のイージス」

この映画はハマりましたねー。
どうしてもっと早く見なかったんだろうと悔しくなるレベルでした。

去年の年忘れギャラリーでは、

「本来より戦争映画は思想的色付けを避けることはできない」

とした上で、

「WGPを植え付けられた戦後レジームのおかげで持たされた
今日の日本の
いびつな国家観が、一人の自衛官の反乱によって露呈される、
という内容が、
いよいよ映画という娯楽作品上で語られる時代になった」

とこの映画を位置付けてみました。

日本の戦争映画というのはこれはもう贖罪と反省と、
「やりたくないけど戦争をやった」ということになっている軍人の
葛藤物語に成り果てているので(例:聯合艦隊司令長官山本五十六以下略)、
このようなテーマを語れるのは、もはや仮想戦記という方法しかないのかもしれません。

亡国のイージス後編 

この映画の魅力は絶妙なるキャスティングだと言い切ってしまいます。
主人公とも言える先任海曹の仙谷が真田広之というのは
「男前すぎる」という声もありますが、(原作では”鬼がわらのような顔”)
映画的イメージでは、もうこの人しかいないんじゃないかって気がしました。 

個人的にはヨンファ一味に殺されてしまう「いそかぜ」艦長の
衣笠一佐を演じた橋爪淳とか、反乱部隊に加わるも
途中でビビって弱気になる水雷士(谷原章介)なんかがよかったです。 

単なるキャラクターの好みですが。

原作を読んでいないと理解できないのが

『ヨンファの妹ジョンヒと如月行の海中での格闘シーンで、
なぜジョンヒは行にキスしたか』

だと思います。

原作映画共にどちらも熟読熟視?し、深ーくその事情を理解したわたしは、
おせっかいにも当ブログ上においてこの理由を蕩々と説明してみました。 

というわけで冒頭の絵はこのシーンを選んだわけですが、
この構図は最初の案でボツにしたバージョンです。

ヨンファの妹であり拷問で喉を潰されて聾唖となっている兵士
ジョンヒを演じたのは、韓国のチェ・ミンソという女優ですが、
この人、気の毒なことに日本の自衛隊映画などに出たというので、
帰国してからずいぶん韓国人から非難されたそうです。

本人は映画のスタッフは皆とてもよくしてくれたし、中井貴一に
ディズニーランドに連れて行ってもらったりしてすごく楽しかった、
などとと言ってたんですが・・・。

 

この後半のエントリの中で、わたしが

海上警備行動の趣旨は先制攻撃を受けた後も艦艇が生残することを
前提に成り立っていますが、現代戦では最初の一撃が全てを決してしまう、
つまり、「専守防衛」では勝てないという絶対的真理があります。

「その至極当然の理屈を野蛮だ、好戦的だと蔑み、
省みないで済ます甘えが許されたのが日本という国家」


であり、宮津が海幕長に

「なぜ無抵抗のうらかぜを沈めた!」

と罵られた時に返した、

「撃たれる前に撃つ、それが戦争の勝敗を決し、
軍人は戦いに勝つために国家に雇われている。

それができない自衛隊に武器を扱う資格はなく、
それを認められない日本に国家を名乗る資格はない」


という言葉は、日本の防衛の現場が縛られている絶対の矛盾を突いています。

と書いています。
今更自分で言うのもなんですが、本当、その通りなんですよね。

 

太平洋戦争 謎の戦艦「陸奥」

タイトルでいきなり「太平洋戦争」って喧嘩売ってんのかおい、
と「大東亜戦争派」の人たちが言いそうです。

太平洋戦争という言い方は、戦後GHQの統制下で生まれてきたもので、
アメリカにしてみると

ドイツ・イタリアと戦った大西洋戦争
日本と戦った太平洋戦争

であり、対日戦は「パシフィックウォー」だからですね。
しかし、この言い方だと中国はもちろんインド洋の戦闘は含まれなくなり、
セイロン沖の海戦はどうなる、という矛盾が生じてきます。

我が日本の主張からいうと大東亜戦争ということになり、当ブログにおいても
日本対連合国の状況においてはこの名称を使い、アメリカ側から観た場合には
世界大戦という名称を採用しています。

日本政府が閣議でこの名称を決定したとき、その定義は

 昭和12年7月7日の中国大陸における戦闘以降の戦争

であり、その名称は

「大東亜新秩序を打ち立てる」(つまり五族協和、西洋支配の排除)
 
に由来していました。
そういった理念のために戦うことを目的とした戦争だったのだから、 
それがそのまま名称でいいじゃないか、とわたしなど思うんですけど、
案の定これが戦後のGHQの統制で

「軍国的・国粋主義的」

であるという理由による使用禁止の処置を受けてしまい、
代わりにアメリカ側からの視点による「太平洋戦争」が押し付けられ、
新聞などの媒体を通じていつのまにか浸透してきています。

こういう経緯があるため、わたしの周囲の防衛団体関係者の中には
放送で「太平洋戦争」と聞いただけで

「何が太平洋戦争だ!」

と青筋立てる人がいたりするわけです。

余談ですが、先月ある防衛団体の会議で、太平洋戦争という呼称、
あれはいかん、という話題がでたその直後の講演で、演者の海将補が

「太平洋戦争において・・・」

と講演中言った瞬間、会場の空気が一瞬凍りました(笑)
まあ、普通の自衛官はこういうことまで意識していないものです。
いかなる政治思想も持たず、というのを宣誓していますしね。 

 

さて、タイトルの一言で大幅に紙?幅を費やしてしまいましたが、
この映画の「太平洋戦争」も深い意味があってのことではなく、
さらに右左思想はおそらくまったく関係ありません。

なぜならこの映画で語られる史実というのは戦艦「陸奥」の爆破だけで、
あとはそのシチュエーションを利用しただけのスパイ映画もどきだからです。

このタイトル絵で採用した彼らのセリフ、どれひとつとっても、
心ある人には突っ込みどころ満載、というものであることからも
この映画のトンデモ度がお分かりいただけるかと思います。

特に宇津井健のセリフ、

「海軍は陸奥を国民の戦意高揚のために使っている」

って、現職の海軍軍人はこんなこと絶対言わないよね。

謎の戦艦陸奥 後半 

戦後のこういうB級スパイ映画には怪しい外人がつきもの。
というわけで、この映画にはドイツ人でありながら連合国の
スパイもやっちゃってるルードリッヒという駐在武官が登場します。

ウィリアム・ロスというアメリカ人と思しきこの俳優、
全くドイツ人に見えないし、一言もドイツ語を喋らないのですが、
アメリカ映画に出てくる日本人って、真田広之、渡辺謙、田村英里子以前は
大概中国系か韓国系に妙な日本語喋らせてたからまあお互い様か。
(例:ファイナル・ カウントダウン)

だから、むしろ下手にドイツ語なんて喋らせないほうが、
実際のドイツ人からは反発されないかもしれません。

ドイツ人がこの映画を観た、あるいは観る可能性はほぼゼロだと思いますが。 

 

桃太郎「海の神兵」シリーズ

 

 

伝説的な戦時の日本アニメ、「桃太郎 空の神兵」を取り上げました。
最初は全部キャプチャしたタイトルだったのですが、しばらく寝かせるうちに、

「これは登場人物を人間に描き直したら面白いかも」

と考えて、やってみました。
この桃太郎隊長は、降下部隊指揮官なので、実際の指揮官であった
堀内豊秋大佐の当時の年齢が41歳だったことを考えると若すぎますが。

海軍水兵たちの帰郷

アニメの背景に自分で描いた絵をはめ込んでみました。
本編ではこの部分、手前から猿、熊、犬、雉と並んでお辞儀しています。 

アイウエオの歌

猿野くんが南方の子供たちに子供を教えるために「アイウエオの歌」を歌うシーン。
手塚治虫の作品「ジャングル大帝」は、明らかにこの映画をベースにしており、
本人もこの映画へのオマージュとして同じ状況(動物に言葉を教える)で
「アイウエオマンボ」を主人公に歌わせています。

ということは、「ライオンキング」は元をたどればこの映画がネタってこと?

この猿野くんは「普通のちょっと猿っぽい男の子」で描いてみました。

搭乗員の小鳥 

小鳥を飼っている搭乗員が出撃し、戦死するというシークェンスは、今の映画なら
使い古されていてもはや「パターン」ですが、このころにはそんなものありません。
手塚治虫はこのシーンに涙し、製作者の平和への希求を読み取り、その感動は
そのまま「こんなアニメを作りたい」という願望につながっていくのです。

原作の通り、うさぎっぽい(ってどんなだ)優しい顔のキャラを創ってみました。 

降下降下降下!

いよいよメナド降下作戦が遂行されることになりました。
一式陸攻に乗り込む隊員たちですが、重量級の熊が、猿と犬の間に
肩身狭そうに座り込むシーンを描いてみました。

この機内シーンとこれに続く降下シーンはこの映画の白眉です。

突撃と残酷表現 

アニメのキャラが敵にズブズブとナイフを突き刺す、というのが、
この映画が戦時の戦意高揚映画であるということに改めて気付かされます。

残されたこれだけでも十分過激なのに、海軍の検閲では残酷する部分が
カットされたというショックな事実を受けて、この項では
当時のアメリカにおけるポパイ、ディズニー、バックスバニーなどのアニメが
嫌日、侮日表現にまみれた作品を作っていたことを紹介しました。

どのアニメも、戦後の日本人はテレビで観ていた人気番組だったんですよね・・。

本シリーズでは最終章に

イエスかノーか!

というタイトルで、桃太郎というキャラが負わされた降伏調印のときの
山下奉文大将のイメージについて書いてみました。

「桃太郎 海の神兵」、わたしにとっても大変意味深い映画でした。

 

来年もこういった映画をご紹介していきたいと思います。

 

 

 


その後の「愚直タレ」〜呉地方総監部訪問記

2016-12-27 | 自衛隊

前回、呉新総監のモットー「愚直たれ」を具現化した、その名も
「愚直タレ」について書いたところ、なかなかの反響がありました。

というわけでわたくし、そんな皆様のためにも、再び呉総監に会うからには、
愚直タレの誕生秘話とか、その後の顛末などを聞きたい、いや、
聞かねばならぬと意気込んで呉地方総監部庁舎に足を踏み入れたのでございます。


ところが、こちらが意気込むまでもなく、庁舎の玄関に一歩入った途端、
そこには💥(どーん!)と、
このような大々的な
「愚直たれポスター」が飾られていました。

呉地方総監を訪ねる全ての生きとし生けるものが、
これを見ながらなお
「愚直たれ」について総監に何もツッコまない
質問しないというのは、むしろ
失礼にあたるのではないか?
と思われるくらい、それは存在感を放っていたのです。


ということで、聞きましたよー。愚直タレ誕生の経緯。

「愚直たれ」

海将がこの座右の銘を提げて呉に着任したのは7月1日のことです。
その言葉はそのまま総監の呉地方隊における指導方針ともなったわけですが、
それを周知徹底させるためのイベントとして
「愚直たれ」という名のタレを実際に製作し、
ポスターとともにコンテストを行うことになりました。

海将の名誉のために?言っておきますが、これはご本人が言い出したのではなく
あくまでも自然発生的に、地方総監部のどこからか生まれてきた話だそうです。

コンテストは「タレ部門」「ラベル部門」で「愚直大賞」を競うというもので、
呉警備区所属の隊員に応募を募ったところ、たれ部門には28作品、
ポスター部門には18作品もの応募があったということです。

冒頭写真はポスター部門の「愚直大賞」作品ですが、

燃えるような愚直さを

炎で直接的に表現した

センスとインパクトが

評価されたということです。
あまりにも直接的すぎて、総監が炎でメラメラと燃え盛っとります。

特にタレ部門は、愚直コンテスト執行部の予想を超えた応募数であったため、
外部からも広く審査してくれる人を集め(全部食べるわけにいかないので)
手分けして味見をし、大賞を決定しました。

さて、その後、ローカルテレビがこのネタを扱ったところ、
TBSがこれを全国にほのぼのニュースとして(たぶん)放映したため、
「横須賀の知るところとなった」そうです。
(具体的にどこのどなたあたりのことだったのかまでは追求しませんでした)

その後海将にもあれは何なんだ、とお問い合わせがあったそうですが、
さすがは海軍伝統のユーモアを継承すると自負する海上自衛隊だけあって、
それ以上のことは何もなく、むしろ良き哉で済ませられたようで
実に喜ばしい限りです。


自衛艦内や基地内を歩くと、司令官の指導方針というのが標語として
隊員食堂などに貼り出されているのを見ます。

「精強」「強さ」「即応」などというお決まりの文言に、「米軍と仲良く」
などというのもあって、学校時代を思い出さずにいられないのですが、
自衛隊の偉い人も毎年こういう標語を考え出すのは大変だろうなと思います。

が、「愚直たれ」。
これはインパクトありますよ。

一貫して池海将はこの言葉を使い続け、今や「愚直たれ」が海将か、
海将が「愚直たれ」かというくらいのトレードマークとなった上、
この度のコンテストで、もはや新総監の指導方針を知らぬ隊員は
呉警備区にはないというくらいの周知度となったわけです。



さて、表敬訪問における会談はあっという間に終わり、
応接室を出たところで総監とは挨拶してお別れしました。

この後TOは呉駅、わたしは知人と待ち合わせしている
入船山の国立病院(元海軍病院)スターバックスまで
車で送り届けていただくだけになったのですが、広報の三佐が
最後に、元御真影室だった応接室を見せてくださったのです。

かつてこのドアから入室を許されていたのは天皇陛下だけでした。
(おそらく皇族の方々も可だったと思いますが、聞きそびれました)
たとえ鎮守府長官であっても、ここをくぐることは許されなかったのです。

それでは平民はこの部屋にどうやって入ったかというと、
かつてはこのドアを中心に、両脇に平民用ドアがあったのだそうです。

天皇陛下専用と平民用を分けるだけなら、ドアももう一つ作るだけでいいのに、
とも思いますが、おそらく陛下専用ドアは

「平民用の右であっても左であってもいけない」

ということでこうなったのでしょう。 


現在では両脇のドアがなくなったのはもちろん、内装は全て新しくなり、
当時からのものは何も残されていません。

(ドア左側のじゅうたんに大きな黒いシミが・・・・)

そして、ドアの左には旧海軍時代の鎮守府長官、右には自衛隊の
呉地方総監の名前が金のプレートに刻まれて掲げられています。

呉鎮守府は全部で32名の長官を戴いたことになります。
中牟田倉之助、伊地知季珍、鈴木貫太郎、野村吉三郎・・・。

旧軍の司令官の名前と、自衛隊のそれをまるで同じものであるかのように
こうやって並べるなど、明らかに海自でしか行われないやり方でしょう。


ここで、三佐がちょっとしたトリビアを教えてくれました。

第14代長官の鈴木貫太郎が離任した日は大正13年1月27日です。
そして、第15代竹下勇の着任日を見てください。(黒くて見えないけど)

同日の1月27日となっています。

当時は呉鎮守府長官はその職を天皇陛下によって信任されたため、
新旧の長官が離任と着任を同日に行わなければならなかったのです。

つまり、まず旧長官が離任し、その後新長官が着任する。
これを天皇陛下ご来臨の元で相次いで行うことになっていました。

長官が同時に二人いるという瞬間は実際にはないのですが、
日付の上では一日重なっているように見えるというわけです。

現代の人事ではこのようなことは決して行われません。

これでいうと、第42代総監の池田海将は、平成28年6月30日が終わるまで
その任にあり、第43代の池海将は、7月1日午前0時になった瞬間に
総監に着任した、ということになります。

トリビアというのは「くだらないこと、瑣末なこと、雑学的な知識」
という意味がありますが、このトリビアは、海軍と海自の事なら
どんな瑣末なことも知りたいわたしに取ってはお宝情報でした。 

ドアの上には東郷元帥の揮毫した額が掲げられていました。
天皇陛下専用のドアの上に死後自分の額が飾られることになると知ったら、
おそらく東郷元帥は真っ青になって恐懼したことでしょう。

「柔 能 制 剛」

柔よく剛を制す、これって柔道家の嘉納治五郎先生の言葉だったのでは。

日露戦争で、誰も勝つと思っていなかった小国の日本が、
「剛」の国ロシアを制すことができたのも、「柔」の精神
のおかげ、というところでこの揮毫となったのかもしれません。

応接室内部。
実に重厚感のある内装、調度です。
真紅の絨毯は鎮守府時代からの伝統でしょうか。
 

 

タンスの上に置かれた片目のダルマが、鮮やかな唯一の色彩を放っています。
ダルマには「呉地方隊」と書かれており、何か目標を達成した暁には
両目が入れられるのだろうと思いますが、その目標がなんなのかは、
タンスの中身に気を取られていて聞きそびれました。

応接室を出た廊下にあった油絵。

この菊の御紋をつけた戦艦は・・・・!

解説によると、この絵は第20代呉地方総監であった内富男海将が、
呉海軍工廠で建造された戦艦「大和」を主体とした作品を
依頼して描かれたもので、
昭和19年10月24日、ミンドロの南を
シブヤンに向かって進む
聯合艦隊がレーダーで敵機を捕捉し、
総員戦闘配置が完了した各艦が
まさに発砲せんとする瞬間だそうです。

写真を失敗して解説が写らなかったのですが、これもおそらく
同じ画家による作品であろうと思われます。

左は護衛艦「ゆきかぜ」、そして後ろに続くのは「はるかぜ」。

「はるかぜ」型護衛艦の2番艦と1番艦で、この光景はおそらく
依頼した内海将が観艦式で実際に目の当たりにしたことでしょう。

調べてみると、内海将の呉地方総監任期中の1985年、この二隻の
戦後初の国産であった護衛艦姉妹はほぼ同時に退役しています。

今となってはその経緯を知る由もありませんが、内海将が引退に当たって
彼女らの在りし日の勇姿を絵に残してもらったのではないでしょうか。


さて、いよいよ呉地方総監部庁舎を去る時がやってきました。
わたしは「愚直たれ」ポスターの前に今一度立ち、写真に収め、
これで皆さんにご報告ができると心から満足してここを後にしたのです。

というわけで、噂の「愚直たれ」については、わたしが色々申さずとも、
このポスターにある文言を読んでいただければ、
その全貌がお分かりいただけるかと思います。

下手したら、新総監を戴いた呉地方総監部の「今」も解るかもしれません。


脳天を突き抜ける旨さと辛さ!

激辛

(総)愚直たれ

この辛さを「あ」などるな!


名称:愚直たれ(激辛)

原材料名:精強・即応・愚直(純度100%)

内容量:90(くれ)ml

賞味期限:総監在任期間中

保存方法:暑くても寒くても常温

製造者:呉地方総監 海将 池太郎

製造国:安芸国


(使用上の注意)

・何にかけてもあいますが、辛いものが苦手な方は
ご使用をご遠慮ください

・迷ったら、まずかけてみましょう

・お子様の手の届かないところで保管してください

・急に熱くなることがござますが、品質異常ではありません

・異常を感じた場合は、速やかに呉地方総監部まで返送ください


お客様とのお約束

・旨さの追求を「あ」きらめない

・お客様の味覚を「あ」などらない

・お客様を「あ」ざむかない


「あ」は諦める、侮る、欺くというネガティブワードの
「あ」たまであるというのが何やらツッコミどころですが、
それはともかく、この愚直たれ、呉地元の業者が大乗り気で
実際にすでに製品化していると総監がおっしゃっていたので、
もしどこかでこのタレを見つけた方は、ぜひ購入して、
なんでしたらご報告していただけると助かります。


というわけで、しばらく語ってきた呉地方総監部訪問シリーズ、
これを持ちまして終了です。

訪問に際してお世話になりました呉地方総監部広報の方々、
そうりゅう型潜水艦乗員の皆さん、そして呉地方総監、
全ての皆様方に熱く、じゃなくて厚く御礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。 

 




 

 


「オペレーション・モモタロウ」〜呉地方総監部訪問記

2016-12-26 | 自衛隊

この秋、ふとしたミスでパソコンの上に紅茶をほぼ一杯分ぶちまけ、
その結果いくつかの文字キーが反応しなくなってしまい、
仕方なくそれにキーボードを接続して使っていたのですが、
あまりにも持ち歩きが不便なのでクリスマスプレゼントとして
Mac Pro(タッチバー・タッチI.D.付き)を買ってもらいました。

前のもかなり古くなってたからちょうど替え時だったってことで。

 

設定のほとんどは息子がやってくれ、今までWindowsでやっていた
お絵かき機能もダウンロードしてペンタブの不具合まで解決。

これだけでもこいつを産んでおいてよかったと思いました。

イブの夜銀座のAppleで購入して、それから設定に入り、
それがようやく済んだ後も、サファリのgooブログ画面のフォントを
変えようとして挫折したり、(なんで明朝体なんだろう)
映画「この世界の片隅で」を観に行ったりしていて、全くPCに向かえず、
ようやく今「呉地方総監部シリーズ」の続きを製作する次第です。

前回はタクシーで前まで乗り付け、庁舎まで歩いて行ったので、
正面玄関前に少人数ながらお迎えのと列ができていて感動したものですが、
今回は車を直接玄関前に乗り付けです。

南雲忠一や鈴木貫太郎ら歴代の呉鎮守府長官、そして畏れ多くも
天皇陛下皇族の方々が全く同じ場所に同じように車で到着したのだと思うと、 
表敬訪問という形でここにご招待いただいたことに改めて感謝しました。

玄関からまっすぐ階段を上がっていくと、その正面に
木立を通して港を臨む景色を映す優雅な飾り窓が一つあります。
窓を生かして他の装飾の全くない静謐な空間には、ただ
贈り物らしい蘭の花だけが飾られていました。 

正面玄関を上がって窓を背にして上下階を撮った写真です。
本当は一般の人が滅多に入ってくることのできない庁舎内を
もっと細部まで写真に収めたかったのですが、呉地方総監副官が
応接室に我々を案内するために階段を上がっていくのを
お待たせするのもはばかられ、2枚撮るのが精一杯でした。

庁舎の内装はこの写真を見てもお分かりのように、改装が行われてから
まだそう年月が経っておらず、ほぼ新築のようにも見えます。

もしかしたら、この状態こそが歴代呉長官の見た鎮守府庁舎に
近いのかもしれない、などと思いながら、階段を登っていきます。

時計は2時何秒か前を指しています。
総監が来られるまでの数秒の間にここぞと写真を撮りまくるわたし。
前回の表敬の時には部屋にはすでに幕僚長、そして先任伍長、
広報の方などがずらりと並んでいて、あまつさえ会談内容を
メモされていたのにはビビリまくりましたが、今回はどうやら
総監お一人で余人を交えず行われる模様。

どのような陣容で会談を行うかは総監によって違うのでしょうか。

皆さんにお見せしようと棚の上まで熱心に撮ります。

左から

潜水艦「じんりゅう」。
侍が居合の太刀を今抜こうとしているかっこいいマークです。 

参考画像

その右、ミャンマー海軍からの贈呈盾、その右二つは
やはり何処かの国の海軍のものですが、写真が遠すぎてわかりません。 

これらは皆トルコ海軍関係。
エルトゥールル号の遭難から123年記念の盾(中央)や、
遭難した船の姿をあしらった絵皿です。

エリトゥールル号事件は1890年のことですから、2013年の行事ですね。

厚木米海軍基地に行ったばかりだったわたしには確かめなくてもわかる
一番右の富士山と鳥居をあしらったマークの盾。

真ん中は護衛艦「あきづき」DD−115が呉に「初入港」した記念です。
「あきづき」は佐世保が定繋港です。

護衛艦が初入港記念に盾を地方総監部に送るというのは 
旧海軍時代からの慣わしなのでしょうか。 
一番右は「いずも」初入港の際の記念盾です。

もしかしたらこれも艦名の看板のように出雲神社の御廃材で
作られているものかもしれませんね。

 

昭和16年11月13日の0900から1500まで、岩国航空隊において行われた
聯合艦隊最後の作戦打ち合わせのメンバー写真。
写真の上からは

「新高山登れ」

という文字と誰かの(名前に佑の字のつく人)署名があります。

呉地方長官の応接室になぜこの写真が(解説まで)あるのかは謎です。
ただ言えることは、空自はもちろんのこと、陸自であっても、
旧軍の写真を駐屯地の応接室に飾ることはまずないということです。

地方総監部が鎮守府時代からの建築物をそのまま使っていることも、
海自なら当たり前のことに思いがちですが、こうしてみると
改めて海自が最も旧軍の体質を受け継いでいるとの認識を新たにします。

戦後、自衛隊となって大きく変えられたことはあっても、基本的に
「海の上を基準としたものの考え方」というものは、
合理性から生まれた慣習からしてそう変わるものではないのでしょう。


さて、わたしたちが二人っきりをいいことに写真を撮りまくっていると、
2000にきっかりに、呉地方総監、池太郎海将が入室してこられました。

応接室の向かいに総監室があるのですが、これはどうやら
鎮守府時代から長官室となっていた部屋のようです。
地方総監部のナンバーツーというべき役職を幕僚長といいますが、
この幕僚長の部屋もその並びにあるらしいことがわかりました。

会談に与えられた時間は15分。
15分で一体何が話せるのか、という気もしますが、
表敬訪問というのは従来そういうものなのでしょう。

短い時間なので、できるだけ意味のあることを聞かねば、
と前もって色々と質問を考えてきていたのですが、
こちらが一言水を向けると、総監就任以来取り組んできた任務と
そこに至るまでの過程について熱く語ってくださる総監のおかげで、
わたしたちはほとんど相槌を打つだけでしたし、会談時間を
ほぼ15分経過して副官の一尉が時間です、といいに来るまで
そのお話は続けられました。

内容は、大別すると三つ。
まず、昨日当ブログでも取り上げた岡山県強化問題、
「オペレーション・モモタロウ」(いま勝手に命名)、
そして、ほぼ中心となった話題は中国、四国地方の災害対策です。

関東地方の直下型地震とともに、いつきてもおかしくない、
と言われているのが南海トラフ巨大地震ですが、もし現実に起こった場合
組織はどう動くか、ということを、全国の全ての陸海空自衛隊は
あらゆる想定を行なっているものだと私たちは思っています。


呉地方総監部はもし南海トラフ地震が起こった場合の
推定震源域をほぼ半分担当していることになります。 

この話で大変印象深かったのは、総監は就任後、航空機から
地震後の最悪の被害状況を想定しつつ地形を偵察し、
改めて危機管理についての対策をやり直す必要がある、
と考えたと仰ったことでした。

推定震源域の上空を飛ぶことによって、何が見えてくるかというと、
それは震災とそのあとに起こりうる津波の被害によっては
確実に自治体の指揮系統すら機能しなくなると予想される地域の存在です。

日本人のほとんどはは大地震は必ず起こる、と覚悟しながらも
なんとなく心の中で自分だけは大丈夫だろうという、認知バイアスの一種、
「正常性バイアス」をかけることで安心しながら生きています。

が、いざそうなった時にいち早く救助に駆けつける自衛隊が
バイアスのかかった被害想定をしていては、どうしようもありません。
総監は起こった災害に即応態勢を取っていくという従来の
自衛隊の姿勢から、実測に基づいた予想を元に、
さらに深化させていくというお考えに至ったようです。

「それでは、もし明日大地震が起こっても、大丈夫とは・・・・」

「・・・・・とは言えないと思いますね。今のままでは」

きっぱりと言い切る総監でした。
現状に満足せず常に100パーセントを求めて組織を動かし、
時には現場からの不興を買ってでもそれを達成しようとする
指揮官は、災害の下には全く無力でしかない国民の一人から見て、
頼もしいの一言に尽きます。(下線部は一般論です。念のため)

あとは、カレーグランプリの話にもなりました。

「護衛艦の調理員がレシピを担当の店に渡し、店側はそれを作って
自衛隊側がそれをチェックしてよければ認定証を出すんです。

その通りに作らないといけないというのはホテルの厨房なら兎も角、
小さなお店では結構大変なことなんですよ」

ということで、カレーグランプリについては大変好評ながらも
少し見直しが検討されているのだとか。


というわけで、呉地方総監見学シリーズ、あと一回続きます。




NORADのサンタ追跡サイト

2016-12-25 | つれづれなるままに

メリークリスマス!

パソコンの切り替えで今PCに向かうことができないので、
2年前のクリスマス時期にアップしたエントリをもう一度あげます。



以前、NORAD(北アメリカ航空防衛宇宙司令部)について書いたとき
「まるでSFに出てきそうな名前」などと言ったのですが、
そのとき突っ込んでくれた雷蔵さんが

このNORADがやっている「サンタ追跡サイト」を教えてくれました。

NORADはアメリカとカナダ政府が大統領と首相をそれぞれ
最高指揮官として共同で運営している組織で、その使命は
おそらく地球防衛軍と全く同じ、

北米上空の航空や宇宙に関して観測または危険の早期発見

ということになっております。



ウィキに載っていたNORAD地下司令部入り口。
一体何と戦っているのか、という要塞ですが、つまりは
設立されたのが冷戦まっただ中で、当時は米ソ共に
この地域を核爆弾を積んだ戦略爆撃機をウロウロさせていたため、
「核爆弾の監視」というのが国防において重要事項だったんですね。
(過去ログ『成層圏の要塞』でお読みください)

というわけでおそらくこのドアを閉めることによって
地下要塞のここは完璧に核の影響から逃れることができるのですが、
最近の世界情勢はその頃と随分事情が違ってきているため、
ここは昔ほどの「最前線」ではなくなっているはずです。

で、その冷戦構造まっただ中の出来事です。

アメリカにはどこのショッピングモールでもお目にかかる
シアーズというデパートが、クリスマスシーズンに子供に向けて

「サンタクロース・ホットライン」

を設置しました。
おそらくプレゼントは何がいい、というようなことを子供が
サンタクロースにお願いしているつもりで、実は
シアーズに商品を注文させるという意図があったと思うのですが、
そのホットラインのお知らせ広告に、シアーズは間違って

CONAD(NORADの前身)の司令長官へのホットライン


の番号を載せてしまったのです。

♪リーンリーンリーン

シャウプ大佐「ヘロー」

子供「ヘロー!あなたはサンタクロース?」

大佐「いや、違いますけど」

子供「ホットラインにかけたんだけど、なぜサンタがでないの?」

大佐「ホットライン?」

子供「シアーズのサンタクロースホットライン だよう!
   サンタクロース出してよう!」

大佐「え・・・・いや、サンタと言われましても・・・・。
   ここは航空宇宙司令部で・・・」

子供「サンタクロースはどこ?」

大佐「えーとね、サンタは・・・
  ・・・わかった、今から部下にレーダーで確認させるよ」


大佐が咄嗟に子供を傷つけまいとついた嘘。
それから60年も続いている「NORADのサンタ追跡任務」
が生まれた瞬間でした。

子供「今サンタクロースはどこに居るの?」

大佐「レーダーで調べた結果、サンタは北極から南に向かったそうだ」

子供「レーダーにサンタのソリが写ったの!?」

大佐「そうだよ。

君がいい子にしていれば、24日の深夜から25日の朝にかけて、
君の住む街に到着して、プレゼントを渡す予定にちがいない」

子供「それはいいんだけど」

大佐「はい」

子供「ここに電話したらサンタがプレゼントのお願いを聞いてくれるってママが」

大佐「サンタには部下が無線で君のリクエストを届けるよ」

子供「ほんと?サンダーバード5号のプラモが欲しいんだけど」

大佐「わかった。・・・でもそれ、一応パパとママにも言っといてね」

子供「パパとママには秘密だ!」

大佐「えっ・・・・・(絶句)」

 


もしかしたらこんな感じで大佐はその場を切り抜け、それから以降、
次々にかかる間違い電話にCORAD司令部は、サンタの現在地を
刻々と伝えていったのでした。

その3年後の1958年、カナダと米国の両政府は北米航空宇宙防衛司令部、
通称 NORADとして知られる北米防空組織を創設しました。
そしてそれがサンタ追跡という伝統も引き継いだというわけです。




クリスマス・イブの日、すべては「北部警告システム」と呼ばれる
NORADのレーダーシステムで始まります。
これはカナダ北部からアラスカ 全域 47カ所を結ぶ、強力なレーダーシステム。

NORADは毎年必ずクリスマスの時期が近づいてくると、
サンタ・クロースが北極を出発する様子をレーダーで確認します。
サンタが飛び立ったのをレーダーがとらえた瞬間、
普段北米に向けて発射されるミサイルがないかを知らせる
空中警告のために使う人工衛星と同じ衛星を使って追跡を始めます。


イージス艦も、もちろんこの追跡に協力しますよ。

ところでNORADがサンタのソリを見つけるのに目標とするのは
トナカイのルドルフの「赤い鼻」なのです。

人工衛星は、ロケットやミサイルが打ち上げられるときに発する
熱を察知するための赤外線センサーを搭載していますが、
ルドルフの鼻はミサイルの発射に似た赤外線反応を示します。
 
つまり、ミサイル発射の発見と、ルドルフのいるサンタのソリを
見つけるのは同じ機構を利用しているということになります。 




そして、戦闘機をカナダのユーコンからメキシコシティまで飛ばして、
アメリカ領内にいるサンタのソリを追跡するのです。

「カナダ側のNORAD戦闘機パイロットは、CF-18機を操縦しながら
ニューファンドランドを飛び立ち、北米を訪れる サンタを歓迎します。
そして、カナダのさまざまな場所で、CF-18機のパイロットたちが
サンタをエスコートしていきます。

アメリカでは、アメリカ側のNORAD戦闘機パイロットたちが
F-15、F-16およびF-22を操縦しながら、
サンタとトナカイたちとのスリル満点の飛行を楽しみます。

それらのトナカイとは:ダッシャー、ダンサー、プランサー、ヴィクセン、
コメット、キューピッド、ドナー、ブリッツェン、そしてルドルフです。
サンタはジェット戦闘機よりも早く飛びますが(サンタは実際、
我々が彼をエスコート出来るようにスピードを落としてくれるのです)
これらすべてのシステムによって、NORADはさまざまな場所を訪れる
サンタの映像を継続的にとらえることができるのです。」

(サンタトラッキングサイトより)



この日の任務のために一堂に会した米加軍人たち。
皆真剣にサンタの追跡に関する情報を分析しています。



このスタッフにはやはりいろどり?も必要ということで、
重責を負わされたに違いない女性軍曹。




これらの情報を提供しているのは民間のボランティアたち。
問い合わせに対し、メールや電話の応対を請け負います。

この日、カナダ人および米国人の現役軍人と国防総省の民間人職員
1,250 人以上が世界中から寄せられる何千件もの電話やメールに
ボランティアとして対応しています。
このプログラムを支える企業(もちろんGoogleもね)からの寄付に加えて、
NORADにはプログラムの管理を担当するプロジェクト責任者が2名います。

 

インターネットが普及してからは、ノーラッドのサイトでは
クリスマスイブのサンタ捕物の様子が動画で中継されます。
24日の昼4時ジャストから、ノーラッドがサンタトラッキングを始めています。
ちょっと皆さんも覗いてごらんになりませんか?

NORAD  Santa Tracker





 


地下坑道と大階段〜呉地方総監部訪問

2016-12-24 | 自衛隊

さて、いよいよ呉地方総監表敬となりました。
後から前日副官にもらったスケジュール表はタイトルが

「広報時程」

となっています。
広報はこの行程を通じて広報担当がエスコートするからですが、
時程とはまた不思議な言葉を使うものです。
「日程」に対する「時程」なんでしょうが、自衛隊には
こうした「自衛隊用語」というものが沢山あるものなんですね。

潜水艦の見学は1300(1345)となっており、これも自衛隊の表記で
13:00〜13:45分のこと。
表敬は1400とあり、わたしたちが呉地方総監部の建物に到着し、
さらに応接室に通された時にはきっちり海軍5分前の13時55分でした。

自衛隊おそるべし。

ところで、せっかくですので今日は呉地方総監部の
歴史的な建物、第一庁舎についてご案内しておきましょう。

 

明治19年、海軍条例が制定され、全国の5つの海軍区に
「鎮守府」が設けられることになりました。

鎮守府とは、艦船と兵を常備し、海軍区を防備する中心機関をいいます。

この写真はその年の11月に起工し、明治22年7月開庁した初代庁舎。
「第二海軍鎮守府」とされ、安芸国安芸郡呉港に置かれました。

煉瓦造りの小さいながら壮麗な建築ですが、16年後の1905年(明治38年)、
芸予地震による震災で庁舎は半壊してしまいます。

2年後、初代庁舎の横に二代目となる鎮守府庁舎が竣工しました。
冒頭の現代の写真と比べていただければ、ほぼ同じですね。
この二代目が現在に続く「呉鎮守府庁舎」でもあります。

その後、ご存知のように昭和20年7月の米軍による大空襲で、
鎮守府庁舎も爆撃を受け、火災が起きて正面玄関上のドームが焼失しました。


 

注意していただきたいのが、写真左側に見える「第2庁舎」。
これは実は地震で半壊した初代庁舎を修理して使っていたらしいのです。
どう見ても初代は2階建てでこちらは平家ですが、
これは震災後修復の際被害の酷かった
2階部分を撤去したからです。 

 

さらに不鮮明ながら、焼け焦げが作ったらしいレンガの黒い汚れが見え、
ドーム部分だけがなくなっているのが確認できます。
正面二階部分は御真影室だったはずですが、この写真で見ると
4本のエンタシスからなる装飾の手すりが失われたままです。

 

米軍の爆撃隊は、終戦後の占領を視野に入れて、海軍兵学校、
横須賀鎮守府庁舎、呉の長官庁舎は決して爆弾を落とさなかった、
といいますが、明らかにこのドームを目標に爆撃を行っています。

現に、終戦後11月に海軍官制が廃止になり、呉鎮守府が閉庁した後は、
やはりここをイギリス連邦軍が接収して使用しているのですが。

もしかしたら、爆撃機のパイロットが、

「後で使うから爆撃するなだあ?そんなもん全壊させなければいいんだろ?
俺はあのドームだけ狙ってピンポイントで爆撃してやるぜHAHAHA」 

「お、賭けるか?」

とばかりにゲーム感覚でやったんじゃないか、などとついつい考えてしまいますね。 
さらにはあまり考えたくはありませんが、その下に御真影室であることを
戦前の情報から聞き及んでいて、ただ戦意喪失のためにそこを狙ったとか・・。

爆撃当時御真影はどこかに避難させていたとは思いますけどね。 



ところで、このときいただいた鎮守府庁舎についてのパンフレットによると、

イギリス連邦軍は、占領が終了した後、昭和31年(1956)まで駐留し、
撤退の1ヶ月後に日本政府に変換された庁舎に呉地方総監部が移転した

とあります。

ところがWikipediaでは「1954年移転」とあります。
なぜこんな違いが生じたのでしょうか。 

組織の開庁が1954年であるのは確かであり、この写真が撮られたのも幸町、
つまり呉鎮守府庁舎のあったところです。


ところで余談ですが、進駐軍が「イギリス軍」ではなく「イギリス連邦軍」なのは、
その定義が

イギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、
イギリス領インド軍から成るイギリス連邦の占領軍

だからです。
イギリス連邦占領軍は、終戦から約半年後の1946年2月に進駐を開始し、
GHQの下で、中国地方および四国地方の占領任務を行っていました。
入船山の鎮守府長官庁舎に司令部を置き、ここを拠点として
地方の武装解除並びに治安維持などの占領統治を行いました。

(この件を調べていて、最初は中国・四国地方を占領統治するのが
中華民国軍の予定だったー組織力がなく中止ーことを知りました。 
公用語英語計画といい、ソ連と分割といい、敗戦後の日本が
これらの危機を乗り越えた奇跡と先人の努力に感謝するばかりです)

このイギリス連邦占領軍も、朝鮮戦争で駐留を延ばしましたが、
結局1952年にはイギリス連邦諸国と日本国との平和条約が締結され、
占領任務は終了し、占領に関わる部隊人員は全て撤退しているので、
つまり、この件は

呉地方総監部のパンフレットの内容が間違っていることになります。

 

 

1981(昭和56)年には初代呉鎮守府の建物が取り壊されました。
おそらくこのカラー写真はその直前のものであろうと思われます。 

そして1999(平成11)年12月。
呉地方総監部庁舎は改修工事を終了し、その際爆撃で失われた
ドームが復元され、今日に至ります。

さて、続いて、前回と今回の呉訪問の際地方総監部庁舎の
敷地内で撮った写真を中心にご紹介していきたいと思います。

確か正面からみて左側にも得体のしれない池があった記憶がありますが、
庁舎の右側にもこのような池がありました。

昔は防火用だった”ため池”なのでしょうか。
そういえば、旧海軍兵学校の敷地内(賜さん館のまわり)にも、
大きなため池がありましたっけ。

未だにそのまま池としてありますが、夏はボーフラがわかないのかと
妙な心配をしてしまいます。

これは、庁舎の左側を回り込んで坂を下っていったところです。
明らかに戦争中作られた防空壕の入り口らしき痕跡が・・。

おそらくこれらは上空から見たとき樹々に遮られて
見えない山の斜面を掘って作ったのでしょう。

この斜面にはこんな入り口がいくつかあり、中は
坑道が張り巡らされていたらしいことがわかっています。 

窓枠をサッシに替えていますがかなり古い建物です。
いろいろ外したり作り直したりしている部分が確認されます。
これも戦前の建築かもしれません。

ところで二階の窓に架けられたはしごの役目は・・?

こちらの赤煉瓦の建物群はどれも明らかに昔からのもの。
爆撃はやはり全く受けなかったようです。

おそらく全て防衛省の所有であり、現在も使用されているようです。

入り口部分をアップにしてみました。
看板の表示が正しければ、被服倉庫として使われています。

こちらは災害派遣用具庫となっています。


建物のそこここをアップにして壁面を見ると、所々にヒビがあり、
耐震性の問題もありそうなので、事務所とかではなく
いずれも用具庫や倉庫として使用しているようです。

建物二階、「運◯」という文字を消した跡が。
建物左側にも「航◯(こちらも読めない)」とあります。

庁舎のちょうど裏側から見ていることになるでしょうか。
ドームの位置を確認していただくとわかりやすいと思います。

この階段は「大階段」と呼ばれています。
今は通行禁止柵が設置されていて使われている様子がないのですが、
庁舎からいわば「表玄関」である港に降りていく道となり、
鎮守府創設当初、明治天皇が港に向かうときのために作られたのだとか。

天皇陛下の御ためなラバこそlこんなに一段一段が細かく、幅が広いのでしょう。

実際は、天皇陛下並びに皇族の方々は、このとき
わたしが歩いて降りた
坂道を車で移動されたということですが、
結構急な坂なので馬車はかなり大変だっただろうなと思いました。

大階段を降りきったところが「表玄関」である港であり、
わたしが参加した殉職隊員の慰霊式はこの前の広場で行われたのですが、
そのとき儀仗隊が
この階段の右にあるトーチカのような建物の入り口から出てきました。

ここは戦時中、防空壕を兼ねた司令部となっていたそうです。
儀仗隊は儀仗が済むと隊列をなしてまたそこに戻っていきました。

この斜面を利用した坑道は、戦中は地下工場にもつながっていたと言われ、
そこに入っていくための入り口はまだそこここに残されているものの、
耐震性や安全性の観点から、今では全て埋められているそうです。

儀仗隊が入っていったところは単に待機所であったのか、
それともどこかとつながっているのかはわかりませんでした。

今はやはり倉庫として使われているということです。

 

ところで、前回の呉訪問のとき、大和ミュージアムで見つけたポスター。
大東亜戦争中の呉を舞台にしたアニメ映画だそうです。


ローグワンはもう観たので(息子にせがまれて初日に)、
これを年末にぜひ観にいきたいと思います。

『この世界の片隅に』本予告

 

続く。

 


 

 

 


自衛隊広報の力〜呉地方総監部訪問記

2016-12-23 | 自衛隊

潜水艦シリーズの最後に「続く」と書いたので、
そうりゅう型潜水艦についてまだ書くのかと思われたかもしれませんが、
そのあと訪問した呉地方総監部での地方総監表敬訪問が終わるまでは
今回の呉訪問記は終わらないという意味です。

が、今日は少し寄り道します。 

潜水艦隊員たちの敬礼に送られて、わたしたちは桟橋をあとにしました。
呉地方総監部訪問の全行程を案内してくれたのは広報の三佐、
運転してくれていたのがやはり広報の二曹でした。

その間この三佐からは初めて伺うことも多く、勉強させていただき、
さらには恐縮してしまうくらいのお心遣いをいただきました。
というわけで、今日は自衛隊のイメージを広報するこのお仕事について書きます。

まず、冒頭写真は、この秋に参加した三井造船での「ちよだ」進水式のもの。
来賓のわたしたちは写真撮影をご遠慮ください、と言い渡されたものの、
周りが皆携帯で撮りまくっていても別に制止されていないので、
まるでスパイにでもなったつもりでドキドキしながら1枚だけ撮った、
とここでもご報告した、あの日に撮られたものです。

「後で写真をお送りしますから」

と写真係も務めていた随伴の広報の方に言われていたのですが、
進水式が終わっても一向にメールは送られてくる様子がありません。
たかがメールを添付するのに一体どれだけ時間がかかるのだろうと思っていたら、
ある日、TOの職場に、市ヶ谷から小包が送られてきました。

この立派なアルバムに、そのとき広報の方が撮ってくれた写真が収められていました。
電球色に写ってしまいましたが、本当はネイビーブルーの布張りの装丁です。

公式に撮られた潜水艦救難艦「ちよだ」が進水していくシーン、
そして、進水の瞬間、「こっちみてくださーい」と言われて撮った写真(右下)、
そして、沖に出てタグボートに押されている「ちよだ」をバックに一枚。

何人分のアルバムを装丁したのかはわかりませんが、この丁寧な仕事。
自衛隊広報の気配りとお心遣いに心から驚き感謝した次第です。

一つ一つの仕事は小さなものかもしれませんが、こういうのが積み重なって
自衛隊に対するイメージが形成されていくのだと思いました。

 

ところで、広報の仕事でもっとも表に出るのが、創作物への協力でしょう。

先日、黎明期の自衛隊映画、「激闘の地平線」を取り上げた時、

防衛庁と協力した映画会社の最初の衝突のあと、メディア協力に関する法整備がなされ、
その後今日に至るという話を取り上げたところですが、自衛隊広報はここ最近だけでも
「俺たちの大和」「永遠の0」「空飛ぶ広報室」「ガールズパンツァー」
そして最新は「シン・ゴジラ」などで創作物に協力してきました。

自衛隊の広報の目的が何かと言うと、一にも二にも自衛隊への理解を深め
入隊希望者の増加を図ることです。
これは自衛隊に限らず普通の会社でも
広報の役割の一端であります。

今回わたしたちをエスコートしてくれたのが広報担当であったというのも、
この訪問が一般人への自衛隊の理解を深めてもらうための広報活動である、
という位置付けの上に計画されたことだったからに他なりません。

 

さてところで、潜水艦の話は終わりですが、この広報活動と絡めて
皆さんに潜水艦の一般公開情報をお話ししておきましょうかね。

「広報活動の一環として潜水艦の中を見せる」

というのがいかに効果的であるかは、今回の当ブログにおける
「そうりゅう型潜水艦シリーズ」に
対する関心の深さにも表れていたと思うのですが、
それも潜水艦が一般には秘密の塊であり「鉄のカーテン」に隠された存在
であるからです。
隠されているからこそ見てみたい、それは人の持つ自然な欲求なのです。 

そこで!

自衛隊広報に成り代わり、不肖このわたくしめがここで宣伝してしまうのですが、
近々、岡山で潜水艦の中を見学できる計画があります。


岡山というのは呉と阪神基地隊の谷間のようなところにあって、
海上自衛隊のプレゼンスがイマイチ強くないというお土地柄です。
ここだけの話、左翼思想の盛んであった歴史があり、(古くは岡山大事件とか)
自衛隊リクルートに関しては、なかなか大変な場所でもあるらしいのですが、
今回、岡山強化策として?呉地方総監部が打ち出した広報イベントというのは、
わたしが見学した、このそうりゅう型潜水艦を岡山に持ってきて、
招待された一般の方に向けて内部を公開するというものです。

しかも、この企画、大変画期的。
岸壁ではなく沖のポンツーンに潜水艦を繋留して、そこまで見学者を
ボートで連れて行くという今までにない企画なのです。

わたしごときがなぜそんなことを知っているのかというと、
ただその話を企画の段階で聞いたからですが、あまりそこは追求しないでください。

さて、それではその参加者をどうやって集めるかです。

「一般公募しますと、いわゆる”マニア”が詰めかけてしまいますので、
やはり優先順序としては地本が厳選した、自衛隊入隊を考えている青少年になります」

あーわかる。
わかりますよー。

前述の映画などへの協力も、自衛隊側としては自衛隊に対する理解を深めること、
というのがもちろん期待するところなのですが、自衛隊イベントで必ず見る
ハイスペックカメラ持参の熱心すぎる「マニア」たちは、はっきり言って
自衛隊入隊とは関係なさそうな人の方が多いんですよね。

 

ところで話は変わるようですが、自衛隊の映画やゲームに対する協力が、
一般の自衛隊に対する関心を呼ぶことは十分認めながらも、
それはあくまで関心であって理解ではない!と言い張る人たちがいます。

 

たとえば、ハフィントンポストの記事、

自衛隊の広報が軟派傾向に 「永遠の0」や「ガルパン」に協力

では、

大衆文化でソフトにくるむ宣伝手法には、軍隊という自衛隊本来の姿が
正確に伝わらない、と冷ややかな反応も少なくない。 

などと、業界ではおなじみ反日左傾記者がこれらに疑問を呈しています。
ちなみにこの下線部分は

=〜とわたしは冷ややかにこれを見ている

という意味ですからね。念のため。
この記事では、わざわざ記者はアメリカの一学者の意見を取り上げて、 

「あいまいでかわいいイメージは、若い世代の共感を得やすい」が、
それが国防の強化という理解につながるかというと「ノー」だ。
「評価が高まっているのはあくまで震災の影響。
米国と違い日本には、自衛隊を戦うための組織と肯定的に受け止めるような考え方はない。

と無情にも言い切っております。

そういえば、最近たまたま元中の人からいただいたメールに、

「自衛隊を支持する方の割合が98%を超えるというアンケート結果があるものの、
それは決して国を守るということがいかなることを意味するのかまで
理解した結果ではありません。」

防衛=人殺し=悪、という幼稚でステレオタイプな思考が、
わが国では大手を振ってまかり通るのです。」

という文がありました。
書き手の立場の彼我は違うものの、この意見とハフポストの記事は、
奇しくも同じ日本の自衛隊に対する意見の一端を言い表しています。 


それは現実として認めるものの、この考え方がなぜか

「自衛隊のサブカルを取り込んだ広報活動は無駄」

という結論にウルトラCでなってしまうあたりがわたしは気に入りません(笑) 
ハフィントンポストというのが実は、

「外人様がこういってるぞ!という書き方で日本を非難する名前を変えた朝日新聞」

であることを踏まえながら、このあたりにこまめに突っ込んでおきましょう。



この計画について伺った席で、同席の地元財界の大物氏がこんな風に言いました。

「若い時、特に子供が持つ感受性を大事にして欲しいですね」

この方は中学生の時に地元の港にアメリカ海軍の駆逐艦が入港し、

「ギブミーチョコレートをしに行った」(笑)

というのは多分嘘で、学校の先生が英語の勉強になるから行ってみなさい、
と生徒たちに勧めたので公開された軍艦に乗ったのだそうです。

「アメリカなんか、とそれまで思っていたのに、その日1日の経験で
すっかりアメリカが好きになってしまいましたね」

なんでも、駆逐艦の乗員は皆陽気でフレンドリーで、実際にお菓子もくれ、
こんな友好的な人たちを嫌う理由などないと思ったとか。

つまり自衛隊への理解を深めるためには、年寄りやマニアはほっといて、
(とはおっしゃってませんが)できるだけ若い層の直感に訴えかけることが大事、
というのが、この方の自衛隊広報に対するアドバイスでした。

自衛隊広報が力を入れているのがまさにこういうことです。
サブカルに参入するのも、装備の萌え化に快く協力するのも、
それが年若い人々が支持する文化であり、ターゲットは彼らだからです。

 

ハフィントンポストに寄稿したロイターの記者は、改憲反対の立場から
自衛隊の存在を否定するためにこの記事を書いているにすぎません。 

「いかにイメージをよくしても軍隊は軍隊、理解など得られない」

と人の言葉を借りて力強く言い切っていますが、これが彼の言いたいことの全てです。

 

ところで繰り返すようですが、自衛隊の広報の目的は一般の理解を深め、
自衛隊に対するこの記者の持っているような頑なな意見を世間から払拭し、
青少年の入隊につなげることであって、この記者が言うように、

自衛隊が戦争ができる軍隊であることを理解させるためではないのです。

もそも、彼らの言うところの「戦争ができるようにする」というのは、
(かなりこの一言にも突っ込みどころはありますが今はさておき)
政治に関与しないことを旨とする自衛隊が決めることではありません。

記者は自衛隊の広報戦略をその存在否定の立場から無駄と決めつけますが、
その目的とするところの認識においてまず大いにピントがずれているのです。

わたしがこのハフポスト記事をことわざで表すならそれは

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」

というところでしょうか。(ちょっと違う?)


それにこの記事のタイトルもかなり変です。

「自衛隊の広報が軟派傾向に」

意味もはっきりした定義もなく、決めつけてレッテル貼りをする手法は、
古色蒼然たる左翼のやり方で相変わらずブレてないなあと思ってしまうわけですが、 
そもそも自衛隊の広報が「硬派」だったことが一度でもあったのかと(略)

記者はこの言葉を非難の意味合いで選択しているようですが、
官公庁のポスターが普通に萌え絵を採用し、自治体のゆるキャラは
経済活性化の担い手を務め、次期オリンピックのプレゼンテーションでは
首相がゲームの主人公に扮する国で、今更軟派硬派とは何を言うやら。でございます。
 

ところで、自衛官の自衛隊入隊の動機として案外多いのが
(当ブログ読者のご子息にもおられますが)「自衛官に憧れて」です。

二次的キャラでのイメージもさることながら、青少年の憧れを誘う
実際の自衛官のかっこよさをアピールすることも広報の大きな仕事です。

そういう意味で多大な貢献をしているのが自衛隊音楽隊であることは
一度でも音楽まつりを実際にみたことがある方なら賛同していただけるでしょう。


そこで!

呉地方総監部では、岡山での大々的な呉音楽隊のコンサート
(もちろん岡山出身の三宅由香莉三曹の参加予定あり)を
来年中には実施することを予定しております。

岡山近郊の方、ぜひその時には脚をお運びください!

 

いったいあんたは何の立場で宣伝しているのだと言われそうですが、
その会議の時に現場にいた関係上、この呉音楽隊コンサートについても

我が事のように成功を祈念する次第です。

とりあえずは、本ブログが自衛隊広報のささやかなる一助となればいいなと思いつつ。
 

 続く。

 

 

 


そうりゅう型潜水艦潜入記 コメントとリプライ

2016-12-22 | 自衛隊

またもや3泊4日で地方に行っておりまして、潜水艦エントリに対する
皆様の熱いコメントにお答えしないままになってしまいました。
そこで、コメント欄ではなくここでお返事をさせていただくことにします。

そうりゅう型潜水艦潜入

出世 (ハーロック三世)
2016-12-20 23:08:00
>出世をあきらめた3佐をなめるな

思わずエアフォースでフライトエンジニアをしていた叔父を思い出し、吹きました。

彼は1945年、終戦の年に家を飛び出し、18歳だと年齢を偽って米空軍へ入隊。
しかしながら、一本気の喧嘩っ早い性格。
Sergeantになってから士官に反抗し、抗命罪で降格を食らうこと3度。

43歳で退役時にはMaster Sergeantでした。
叔母曰く、
「おとなしくしていれば士官になれたし、退職金も恩給も違ったのに・・・」
だそうです。

本人は至って平気なもので、
「あのど素人士官(機長)が、キャリア20年の俺のいうことを聞かなかったから怒鳴りつけてやった。
そしたら降格だってよ。」だったとか。

怖いもの無しのベテラン曹長をなめるなよ、だそうです。

エリス中尉

立志伝中の人物みたいな叔父様ですね。

敗戦の年に昨日までの敵国の軍隊に入ってしまうと言うことからして
只者ではないと目を丸くしてしまいました。

叔母さまという方はたしかアメリカ人ではなかったですか?
だとしたらお二人は現地で知り合って結婚されたんですね。

ロック岩崎という名前は初めて知りました。空自の戦闘機乗りだった人で、
現役時代はF-104で当時新鋭機だった米空軍のF-15を
「撃墜」したことがあるほどの腕の持ち主、
退官後エアショーのパイロットとして名をはせるも愛機で墜落死したと・・・。

ロック岩崎 

生まれてきた時代が時代なら、「撃墜王」などといわれたのでしょうね。

墜落死は果たしてご本人にとって「本望」というものだったでしょうか。


X舵とスターリングエンジン


AIPと舵 (お節介船屋)

2016-12-19 09:56:10
AIPには大きく分けてスターリングエンジンと燃料電池があります。
スターリングエンジンはスェーデンのサーブ社の傘下コッカムス社が開発しました。
(川崎重工業ライセンス生産)
簡単言えば外燃機関(ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンは
ピストンの中で燃焼させエネルギーを得る内燃機関)、
ピストンの外をケロシンと酸素で温めてヘリウムの膨張気化させ、
海水で冷やして収縮で発電機を回転、発電させます。

海自はこれを輸入し、「あさしお」を切断ジャンボジングして搭載、実験し、
「りゅう」クラスから採用搭載(川重製造)しました。
本当は防衛庁の時代に燃料電池に着目して技術研究本部で研究されましたが、
少ない予算(人、物、金が不足)と学界(大学)から協力を得られず開発出来なかった経緯があります。
この燃料電池は、陽極に酸化剤、陰極に燃料で電気を発電させる装置で
何種類かの方法があるようです。電気屋でないので良く分かりません。
ドイツが開発し、自国の潜水艦、輸出用潜水艦(214型等)に搭載されています。
燃料電池搭載潜水艦は数的にはスターリングエンジンより多いと思います。(ドイツは輸出熱心)
中国は盗んだのか、スターリングエンジン搭載艦があるような情報があります。
船価の絡みでAIPを搭載していない通常動力潜水艦の方が多いです。
通常動力潜水艦は電池が主動力でディーゼル発電機を装備、AIPはサブ発電機という位置づけと思います。

海自も「りゅう」11番艦からAIPを搭載しないで、電池をリチウムイオン電池とします。
旧潜艦隊司令官が「世界の艦船」に投稿されていますので、
秘密でない事でしょうが、運用の煩雑さ、船価、容積大きさ等デメリットもあり、
リチウムイオン電池の良さ(容量、充電能力、寿命等)が勝っており、その方向となったと思います。
ただリチウムイオン電池は高価で船価を押し上げてはいます。

舵については過去コメントさせて頂いた、テレモーターの後継が
電気式舵制御装置となって故障も少なくなったと言いました。
この電気式がシンクロ電機で、舵輪を回せば、磁石が動きその角度で
電気信号が舵取機の油圧制御機構に伝えられ、油圧で舵を動かします。
「あきしお」を見学された方は分かると思いますが、
右の操舵員が潜舵と縦舵、左の操舵員が横舵を制御しています。

乗員の減少もあり、またコンピューターの発達、信頼性の向上から、
操舵員は一人、舵はジョイステックで、潜舵、後舵を制御しているようです。
特に後舵は4枚が別々に作動するので、旋回も小さくなったと思います。
以上発表資料が基ですので防衛秘密事項ではないと考えます。
 エリス中尉

なるほど。
他の資料を読んでわかったことや、このようなお話を伺うと、
確かに理屈ではよく理解できるのですが、
残念なことに
わたしは実際に潜水艦の舵がどう動くのか見たことがないうえ、
全く想像もつかず、従ってこの件に関してはイマイチ理解していない気がします。

舵の根本のところで角度が変わるんでしょうか。
こればっかりはYouTubeにも上がってないだろうし・・・

内こく非貫通潜望鏡 (お節介船屋)
2016-12-19 14:32:28
文献、雑誌の資料及び船屋の常識から下記のように思います。(多くは「世界の艦船」の資料)

潜水艦の耐圧強度は船殻の鋼材質と真円度ですがどうしても貫通物があり穴が必要です。

究極的な耐圧は深海潜水艇のように球を連結すれば数千mまで深さまで潜れます。

潜水艦はたかだか数百m
(各国とも秘密にしてますがカタログデータを記載した輸出用潜水艦があります。)
で容積も必要であり、涙滴型、マッコウクジラ型、葉巻型となっています。

ハッチ、潜望鏡の穴、発射管開口部、海水取り入れ口、吐出口、空気取り入れ口、
排気管、電線貫通等の穴を耐圧こくに開ければ補強が必要です。
これ等が少なくなれば強度上の問題も少なくなります。

内こく非貫通潜望鏡はその意味からもベターですが、
また高倍率、モニターの使用、瞬時に色々な方向が取れ、
後からも詳細に分析出来る等現在ベストな装置です。
アメリカの原子力潜水艦等は2本ともこの潜望鏡が装備されています。
残念ながら日本でもニコンの光学式潜望鏡が無くなる時代がくるのでは?

エリス中尉

色々と御指南ありがとうございます。
中での説明でスターリングエンジンの仕組みについてはほぼ分かったのですが、
何で冷やし(海水)何で熱を加えるか (ケロシンと酸素)
については
質問するのを忘れ、疑問が残ったままでした。

潜望鏡は昔はないと話にならなかったので普通に二つはついていましたが、
深々度での耐性を考えるとないに越したことはないのですね。

ノスタルジーなどその合理性の前には
およびでないってことで(笑)
今後は潜水艦のシンボルである
潜望鏡を覗き込むスタイルも、
昔のものになっていくのかもしれません。 
ひょえぇぇぇ… (佳太郎)
2016-12-19 22:42:22
エリス中尉潜水艦にも乗ったんですか…
すごい…
X船舵って目立ちますよね。そして光学式の潜望鏡も無くなってしまうのですか…
そして今は急速潜航ってないんですね。
今まで今急速潜航の時はどうするのかな?とか考えてましたがもうないのですね…

エリス中尉

はい、そうなんですよ。

科学技術が進んでAIPが可能になった今、スノーケルのために危険な海で
ハラハラしながら浮かんでいる必要もなくなったってことなんです。
以前漫画にした板倉光馬艦長の「敵機に帽を触れ」みたいな逸話もなくなりますね。 
 
雨女じゃなくて (鉄火お嬢)

2016-12-20 00:52:58
つまりレインコート姿を見たい!と言うエリス中尉の念が雨を呼び寄せるのか。
しかも!私ならあの潜水艦の梯子を登り降りすることが分かっていたら、
まず足さばき優先で短いコートとパンツスタイル、
靴も底が滑らない柔らかいので行くと思われ。
だのにエリス中尉 、このお召し物は、レインコートの幹部と記念撮影のヴィジュアル優先したでしょ(笑)
そりゃ私も観艦式の時は何着て行こうかとかなり力入りましたけどー。

潜水艦、私も今ごろですが、今月アタマにあった阪神基地の行事で
初めて潜水艦の甲板に足を踏み入れて、海江田艦長のイメージに浸っておりました。
そうりゅう型になったら
「急速浮上! 」ドーン!「艦長、やまとです!」「分かっておる!」
なんてのも無いのねー、などと感慨が~ww

山崎豊子さんの遺作『約束の海』主人公は潜水艦乗りでしたが、
つくづく2部3部を書かずに山崎さんが亡くなられたのが悔しいです。
エリス中尉

最初に呉で雨に降られた時に「レインコート♪ レインコート♪」と

はしゃぎすぎたのがこの結果ではないか?と反省しております。

今日のトビラ写真は先日あげたのとズームの違う写真ですが、
(なんとカメラを渡したら勝手にズームして二枚目を撮ってくれた)
このとき写真を撮ることは全く予期していなかったんですよ。
イベントに行くとよく自衛官に「お撮りしましょう」と言っていただくのですが、
当方自分の写真など全く興味がないため、結構ですと断るのが普通です。
しかしこのときは艦長の写真を撮った後、広報の三佐が
一緒にいかがですかと言ってくださったのでお言葉に甘えることにしました。

この日は見学だけでなくこの後呉総監への表敬訪問がありましたし、
この前日にも会議のようなちゃんとしたお席があったので、下には
とにかくブレザージャケットを着る必要があったのです。
そうなると運動靴というわけにもいかず、乗馬スタイルみたいになりました。
これに短いコートを着ると、本当に乗馬の休憩中みたいになってしまうので、
苦肉の選択というか消去法でこれになった次第です。

おっしゃる通り裾が広がっているので、ハッチから下に降りた途端、
異常なくらい気の利く乗員の付き添いの方がタオルを持ってきてくれました。
ありがとうございます、と受け取ったものの、自分ではどこも濡れたという
自覚がなかったので、おそらくコートは自然乾燥したと思われます。

>そうりゅう型になったら(略)などと感慨が~ww 
皆さんにもお返事しましたが、そうりゅう型からは今までの潜水艦から
一歩前に進んで古い潜水艦にまつわる一般人の「思い入れ」が消えていきそうです。

「約束の海」、本当にわたしも残念です。
おそらく、モデルの酒巻和男少尉の出撃とその生還、捕虜生活についても
あの精査された調査をもとに書いてくれたであろうと思いますね。
前にも書きましたが、当時の潜水艦乗りの間でも

「誰がこんなことまで話したんだ」

という話になって犯人探しされたというくらいでしたし・・。 
 

海自サブマリナーの矜持
怖くて頼もしくて痺れる(笑) (鉄火お嬢)
2016-12-20 08:59:02
「潜水艦乗りに取ってはフネは2種類しかない、沈めるフネと沈められるフネだ」
なんて言葉を思い出しますね。
呉で潜水艦の部隊の方と話した時に国籍不明潜水艦をオラオラと苛めて
ズタボロにしてリリースした以前の事件の話になり

「見つかるようなヘマしないだけで、あちらから来るばっかりじゃなくて、
こっちからもたまにお出掛けして、他所んちのお庭で遊んで帰ってくるんでしょ?」

と聞いたら、黙って返事しないんですよ。
しかし彼のニンマリと細まった目と得意気に上向いた鼻が雄弁でした(笑)で、
別の機会に別の潜水艦乗りの幹部さんにその話をしたら

「そこは“なわけないでしょ”と表情変えずに言うところ。
つい目が笑うとか、そいつはダメな奴(笑)」

あ、あの、結局よそんち徘徊説はじたいの否定は無いと……私、こんときゾクゾクしました(笑)
 
エリス中尉
そんな話を聞いてしまうと今後潜水艦乗員というだけで見る目が変わってきそう。
彼らはたとえ親族であっても決して行き先を言わないそうですが、
妻になる人は、夫の仕事に興味がありすぎてはダメ、(間違っても
鉄火お嬢さんのようにカマかけるような人はダメでしょう)
それから、夫がたとえ連絡なしでずっと帰ってこなくても、詮索したり、
疑ったりするような人ではダメかもしれません。

夫の方も、守秘義務をいいことに・・というケースもあるんだろうな(棒)
後部魚雷発射管 (お節介船屋)
2016-12-20 10:11:50
エリス中尉が納得されていますので要らぬお節介ですが、
現代の潜水艦になぜ後部魚雷発射管がないのか?

まず魚雷の性能です。
武器は詳しくないのでWikiから
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E9%9B%B7
現在の魚雷は音を探知してその目標に向かったり、
発射艦から細いワイヤーや光ケーブルで誘導しますので、どの方向でも推進します。
極端な話、発射管はどこにあっても良いとなります。
Wikiにあるように
ロシアが原子力潜水艦対応で200Ktのスピードの直進魚雷を持っているそうです。
一般に魚雷は直径533mmですがこの魚雷は650mmだそうです。
これはその方向に向かなければならないでしょう。

2点目 船屋の見解ですが(また「世界の艦船」等の受け売りです)船形からです。
海自も「おおしお」「あさしお」クラスまで2軸推進で
細く長い船型で水上航洋性能を重視していました。(後部発射管あり)

「うずしお」クラスになり、水中運動性能が重視されるようになりました。
水中でどんな形が運動性能が良いのか、
水の流れが良く渦等を発生しないのか等検討されます。
涙滴型が良いのは分かっていましたが、
艦内容積も考えて、最適設計をされます。(長くなってます)
模型を作製し、水槽で走らせ、抵抗値、水の流れ、渦の発生がないか等検討し、修正されます。
推進器も後端に1基とされました。
脱線ですがプロペラは回転数、翼の形、枚数、直径、材質等検討事項は多く、
最適設計しても、実際は加工技術、仕上げによって、性能が出ない事もあります。
特に回転によって水流の乱れ、水の剝離によってキャビテイションが発生しますと音が出るだけでなく、プロペラ自体に穴が開いて使い物にならなくなります。

艦尾が絞った所にプロペラがあり、推進効率も水の流れも良い事となります。
高速の原子力潜水艦はプロペラ部がトンネル形状となっており、その部分がどうなっているのか?です。

艦尾が絞って、尚且つモーター、舵取機等があり、船型からも後部発射管は装備できません。

古い潜水艦は除いて
涙滴型、マッコウクジラ型、葉巻型で1軸推進は各国共通で
水中運動性能重視となっていますが、
行動海域や各国の状況から大きさ、形、行動日数、乗員数等違っています。

ただ建造出来る国は10数か国、持っている国は40数か国、
約400隻が現在ありますが大きな艦、敵地潜入目的の小さな艦、
古い2次大戦時のもの、最新の原子力潜水艦等混在しています。
秘匿性があり、大変有効な軍艦ですが
稼働しているのか、象徴として持っているだけなのかとに疑問の国、潜水艦もあります。
エリス中尉

>稼働しているのか象徴として持っているのかわからない国、潜水艦

あー、わかるような気がします。あの国かもしれませんね。

後部発射管が現代の潜水艦になぜ付いていないかについては、

おそらく当たり前すぎて質問された方も戸惑ったのでしょう。
現代の魚雷が目標を追尾するものであるというのは1たす1は2くらい当たり前のことですから。
でも、アメリカの大戦中の潜水艦を見てきた目には不思議だったんだい!
官から民へ (筆不精三等兵)
2016-12-20 12:48:13
全く関係ないかも知れませんが、三菱電機から去年から発売されているエアコンに、
円筒形のシロッコファンからペラファンに変更した機種が登場しています。
ペラファンの方が風量が多く省エネにもなるのですが、
機体が大きくなること、風切り音が大きく振動するような風が
不快感を与えること等の理由からシロッコファンが採用されていました。
しかし、近年の扇風機の羽を見ていただければ解って頂けると思いますが、
プロペラファンの形状も最近になって大きく変わり、音や風の振動が激減しています。
勝手な想像ですが、エアコンを製造している家電メーカーの中でも
プロペラファン式を採用しているのは三菱電機だけということから、
このペラ形状には船舶のスクリュー、特に潜水艦の物の製造により
蓄積されたノウハウが民間への普及しだしたからだと思っています。
エリス中尉

面白い視点ですね。
自然界の風と違って扇風機の風に当たり続けることができないのは、
ファンで作った風が渦を巻いている人工的なものだからだそうです。
三菱は潜水艦のプロペラ研究のノウハウにおいて
最も重要となる
静謐性を突き詰めてきたからこそ、
流体を変えて不快感を軽減する
ファンを作り出すこともできたのかもしれませんね。

一体感 (ハーロック三世)
2016-12-21 02:12:10
>潜水艦の乗員にはイジメが少ない

これはやはり「一家」的な空気が強いからだと聞いたことがあります。

通常の海上艦艇の場合、士官と兵が言葉を交わすことすらないそうですが、
潜水艦の場合、否応でも艦長と顔を合わせ言葉を交わさざるを得ない環境にあることに起因しているとか。

これは航空会社のCAにも当てはまるようで、常に基本はグループ単位で乗務しています。
月のうち20日ほどは乗務にでているので、家族とよりも過ごす時間が長いのです。

まぁ、そこで男性CA(わずかながら存在する)と女性CAが仲良くなることも多く、
どちらかまたは双方に家庭があると、またややこしくなるわけです。

因みに運航乗務員とCAはフライト毎に組み合わせが違うので、
いつも同じ顔ぶれではありません。

このグループ単位というのも良し悪しで、チーフパーサーを長として
一体感ができていれば、機内業務もスムーズに良いサービスが提供できますが、
内部で不協和音があると・・・・

だいたい仕事ぶりを見ていれば「一家」として機能しているかどうかがわかります。
お客様にとっては当然、一家として一致団結した仕事をしてもらう方が良いのですが、
全てがそうだと断言できないのが悩ましいです。

エリス中尉

そうそう!それなんですよね。
我が意を得たりといいますか、わたくし昔そういうことを
「どんがめ下克上」というエントリで考察してみたことがあります。
昔はさらに一蓮托生で何かあれば一緒に死んでいく仲間という意識があり、
それこそいじめなんてしている場合ではなかった、と結んでみました。

航空会社のCAって大変そうな仕事ですね。
女性ばかりの集団がチームとして上手く機能するのはスポーツだけ、
とわたしはいいきってもいいくらいです。 

そこでふと疑問に感じたのですが、この場合の「チーム」には
パイロットは全く関与しないということなんでしょうか。
つまり、全く両者は別組織で関わりがないものなんでしょうか。 

いえ、チーフパーサーを巡って、という話があるなら、
当然ながら
パイロットを巡って、というトラブルもありそうだと思ったもので。
 
 


続く。
 
 
 

金曜日はカレー曜日〜そうりゅう型潜水艦見学

2016-12-21 | 自衛隊

そうりゅう型潜水艦見学、案の定前回では終わらなかったので、
今日が最終回となります。

追加ですが、前回、「89式は深々度魚雷だから深海に鎮座して発射できる」
と書いたところ、詳しい方から

水中で音は屈折するので、海面にいる護衛艦がソーナーを発振しても、
潜水艦がLD(層深、レイヤーディプス)下に潜れば探知しにくくなります。

海面からの音が届きにくくなるということは、潜水艦からすると、
海面にいる水上艦の音も届きにくくなるので、隠れると同時に、
自分もblindになってしまいます。

そのため、潜航中の潜水艦は実はあまり深くは潜らず、ほとんどLD付近にいます。
深々度で魚雷を発射しようと思っても、海面にいる敵艦は見つかりません。

という潜水艦戦のイロハについてレクチャーしていただきました。

そして、層深の屈折率などを変える最も大きなファクターは海水温度なので、
世界の潜水艦隊のルーチンワークとはすなわち

「ひたすら水温を測定してそのデータを蓄積すること」

なんだそうです。

 

さて、発射管室までやって来たわたしたち、ここから引き返すことになりました。

もう一度区画配置をみてください。
発射管室の下には居住区があります。

乗員のほとんどがそこで寝起きしているのだそうです。
ただし、港に停泊しているときにはここで寝泊まりはしません。 

「プライバシーというか、いろいろとお見せにくいものもあるので」

というわけでそこは見学をパス。

先頭にいって発射管室で折り返し、さっきの階下を進んでいき、
またもや分厚い扉を通ってお次は機械室。

図を見ていただくとわかるのですが、機械室や科員食堂には
外から直接出入りすることはできません。
一旦発射管室かAIP室にいって、二つある扉のもう一つをくぐると
そこが自動的に一階下につながっているという不思議な仕組みです。

だから、わたしたちはいつ降りたのか自覚がないままに
発令所と士官室の真下に立っていたのでした。

 

機械室というのは、文字通り操舵を執り行う席があったり、
ベントを開いたり閉じたりするものがあったり、今どんな状態か
わかるモニターがあったりします。

当然ですが、見学者を迎え入れるにあたってはすべてのモニターの
電源はシャットオフされ、何もわからないようになっていますし、
ソナー室というのはカーテンがかけられて覗くこともできません。

見学が始まる前、注意事項としていわれたのが

「狭くてその辺にレバーやスイッチがいたるところにありますが、
絶対に触ったり操作したりしないでください」

そんなこといわれなくてもしませんが。

「中には、そのスイッチ一つで潜水艦が沈んでしまうというものもあります。
万が一体が当たったとかでスイッチを触ってしまったら」

「触ってしまったら・・・?」

すぐに!こちらにそのことをいってください」

すぐならまだなんとかなるってことでしょうか。
でもハッチを開けたままいきなり沈んだら、たとえ岸壁でも
下の区画にいる人はまずアウトよね。 


 さて、そんな危険な可能性のある機械室を通り抜けると、
途端に
空気が変わった気がしました。
科員食堂にやってきたのです。

艦艇というのは一般にどこもそうですが、特に潜水艦というのは
食事が他のフネに比べてより大切なイベントとなります。
狭い潜水艦の生活ではストレスが溜まりやすく、なにより
食べることが大きな楽しみになるので、当然ですがキッチンには
腕利きの調理人が配属されてくるのです。

そういえば、ニューロンドンの潜水艦博物館を見学した時、
その健闘を評価されて勲章を授与されたキッチンシェフがいた、
という話が紹介されていましたが、たとえ勲章は出ないとしても、
自衛隊の潜水艦の食事は自他共に認める調理員たちの努力に支えられています。

たとえば艦長が胚芽米をリクエストしたりパン派だったりすると、
艦長絶対の潜水艦ではそういうリクエストにも極力応えるのだとか。


ちょうどわたしたちが食堂にさしかかったとき、テーブルには3〜4人がいて、
食後の休憩時間だったのか、まったりとした雰囲気でした。

「潜水艦では食事は1日4回6時間ごとに出されます」

午前6時の朝食、正午の昼食、午後6時の「中間食」、
そして午前0時の夕食です。 
勤務が3交代制で6時間勤務したら12時間の休みをとり、
残りの6時間は寝ているというものなので、この4回のうち
3回の食事をとることになります。

「4回全部食べてしまう人もいますが、そういう人は太ってしまいます」

そらそーだ。

「やっぱり運動不足になりがちなので、筋トレとか、休みの時には
陸を走ったりして体調管理を行います」

ハッチの上り下りだけで運動は十分、と考えるのはわたしだけですか。

 

キッチンに当潜水艦オリジナルカレーを考案したシェフがいました。
このオリジナルカレーは、呉で実施中のカレースタンプラリーでは

白桃の甘さを隠し味にした、コクの中にもスパイシーな後味の
飽きのこないカレーです。
揚げたジャガイモの香ばしさも絶品です。

という紹介文とともに、ビューポートくれにある
「海軍さんの麦酒館」で紹介されています。 
白桃、というのが白い龍である当潜水艦的にはこだわりのポイントでしょうか。 

今、海自カレーラリーのガイドブックを見ていたら、
たとえば潜水艦「けんりゅう」カレー(ソードドラゴンカレー)
が食べられるのは、その名も「りゅう」というお店。

そして、「うんりゅう」カレーは呉市役所食堂で提供しています。

日頃カレーを提供していないに違いないお店も幾つか参加しています。

丼&串揚げ「たまや」の呉教育隊ナスとひき肉カレー

お好み焼き「多幸膳」の呉基地業務隊牛すじカレー

焼肉「叙寿苑」しもきたカレー

郷原カントリークラブの潜水艦「みちしお」カレー

などなど。
特記したいのは、中通りにある

瀬戸内屋台 「五十六」

ちうお店(笑)
ここは護衛艦「さざなみ」のオリジナルカレーを提供しているのですが、
なにがなんでもカレーにせっかくの店名をつけたかったらしく、

「五十六さざなみカレー」

と無理やりな名前になっています。

 

さて、そうりゅう型潜水艦の艦内にもどります。 

「やっぱり金曜日はカレー曜日なんですか」

TOがわたしにとっては当たり前すぎて聞くことも思いつかなかったことを聞きます。

「金曜日のお昼ご飯がカレーです。
朝からいい匂いがしてきてたまらないんですよ〜!」

「飽きないんですね」

「ぜんっぜん飽きませんね!楽しみで仕方ありません」

 満面の笑みでそう語る隊員さんの口調に、今更ながら
カレーとは海上自衛隊の食の象徴なのだと思い知った次第です。

 

このとき、キッチンの窓から、もう一人の調理員がものすごい速さで
大量にキャベツの千切りをしているのにわたしは思わず目を見張りました。

「は、早い・・・・」

プロの調理人なら当たり前ですが、おそらく、同じ潜水艦の
調理員でも、こんな技を身につけているのは海自だけだと確信しました。
アメリカの調理人は昔から野菜も全て機械で処理していたみたいですし。 


食堂からエンジンルームに移る前に、艦内組織図が貼ってありました。
乗員総数は70名です。
それを見ながらまたもや、 

「このたった70名で、2000人の部隊と戦ってったことがあります」

模擬戦で優秀な結果をあげた時のことを、解説の方はこのようにおっしゃいました。
もしかしたら機密に抵触するかもしれないので、ここでは詳しく書きませんが。

ついでに、潜水艦の最大の敵はP3Cで、「実に憎たらしい相手」なんだそうです。
いわば天敵ってやつですね。 
この後散々対P3C戦のことについてもお聞きしましたが、 

あ・・・・でもこの後呉地方総監とお会いになるんですよね。
(呉地方総監はP3Cのパイロット) ぜひここでのことはご内密に(笑)」

 

さて、この後後部のスターリングエンジンを見学したのですが、
これら AIPシステムについてはすでにお話ししたので見学記はこれにて終了です。

付け加えれば、後からこのそうりゅう型潜水艦は、AIP室を設けるため
その分他のスペースを削っているのでその分居住区が狭いと聞きました。 


艦内に入ってすぐ、わたしたちは

「狭いので歩いていて機材に引っかからないように」

コートを預かってもらっていましたが、 ハッチを登る前に、
ちゃんとハンガーにかけていてくれたらしいそれらを受け取り、
同じラッタルから潜水艦を退去しました。

そして預けていたカメラを受け取り、車に乗って、来た時と同じように
雨の中きっちりと並んで敬礼をする彼らに挨拶をしながら
潜水艦桟橋を後にしたのでした。


潜水艦乗員の皆様、当日はお世話になりました。とても楽しかったです。

この場をお借りしてお礼を申し上げます。

 

続く。 

 


海自サブマリナーの矜持〜そうりゅう型潜水艦見学

2016-12-20 | 自衛隊

そうりゅう型潜水艦見学、これで最終回にこぎつけたいと思います。

ところで蒸し返すようですが、非大気依存推進型のエンジンについては
やはり現実にはいろいろと欠点もあって、そのため同じそうりゅう型でも
システムは変えていくつもりをしているようですね。

平成29年度予算といいますから、あと5年以内には(←適当)、
新型の潜水艦が出てくるんじゃないでしょうか。

とりあえずわたしが聞いたのは従来の鉛電池をリチウム電池に変え、
より一層静謐性が得られるようになるということでしたが、
スターリングエンジンについては、前回もちらっと書いたように

●低速しか出ない(つまり戦闘時に使えない)

●メインのディーゼルエンジンに対して補助動力程度

●1回使い切ると、基地に戻って機能を復活させなくてはいけない

おまけにヘリウムが漏れないように機密性なんたらで高いとあっては、
もう少し効率的なものに変えようとしても当然かもしれません。

 

さらに平成21年度からは新型snorkel発電システムの開発が始まっており、 

次世代潜水艦の運用性、隠密性及び残存性の向上のため小型・高出力化
及び静粛化を図った新型スノーケル発電 システムを開発する。

と防衛省の事業評価書にもあるのですが、これらも全て

既存のスノーケル発電システムは、2020年代以降の情勢に
対処するための短時間での所要の充電に対応できない。

ということらしいです。
2020年以降、世界の海洋情勢がどうなっていくかが読めていないと
こういう結論には至らないわけですが、この場合の「情勢」の何たるかを
ぜひ知りたいものです。

さて、わたしたちの見学路は、この図で言うと

士官室→発令所→発射管室
器区画→科員食堂→AIP室

あとは士官室から元のハッチを登って退出、というものでした。 
発令所と発射管室の間には、艦長の部屋があったと記憶します。

潜水艦の艦長の部屋は、昔からどんな小さな艦でも独居でした。
士官室にも「艦長しか座ってはいけない椅子」がありました。 

一般的に護衛艦などは、艦長の席と別に艦隊司令が乗り込んできた時の椅子があり、
食堂などでも上座はそういう際階級が上の艦隊司令が使うことになっていますが、
潜水艦の中では、食堂の「艦長席」(一人だけの椅子があった)は不動で、
どんな偉い人、たとえそれが総理大臣が乗ってきたのだとしても、
艦長は自分の決められた席から動かなくていいことになっています。

それくらい潜水艦における艦長の権限というのは大きいのだ、
と、説明してくれた隊員は心なしか誇らしげに言いました。

基本潜水艦というのは一匹狼で艦隊行動をしないので、
その分艦長の責任とその権限が絶対化していくというわけです。

これは以前当ブログで述べた

「一蓮托生の運命を持つ潜水艦の中では上と下の身分差は少ない」

というのと矛盾しているようで、そうでもないように思います。
潜水艦乗りになるための適性というのは、明文化していなくとも
それが狭い空間で仲間とやっていけるだけの協調性とか、
突き詰めれば人間性みたいなところにあるのは間違いありません。
そういう物理的にも実質的にも密な人間関係の中では、
逆に形骸的な階級による身分差は薄くなっていくのではないでしょうか。

しかし艦長はその中では勿論のこと、外からも不可侵となる権限を持つことで、
初めてこの「艦を一家とする家族」たる科員集団を率いていくことができるのです。



潜水艦勤務は、昔から「いじめが起きにくい配置」と言われています。
わたしも一度「潜水艦ではリンチなどしている場合ではなかった」
と書いたことがありますが、実際に潜水艦勤務を体験した自衛官によると、

●狭いので人目を盗んでいじめを行う場所が物理的にない

●人数が少なく、そのためすべての配置を皆が経験することになり、
その理解が乗員の間に連帯感を生む

●分隊とは別に航海直のために科員を当直士官を長にした3つのグループに分けていて、
このグループごとに結束が生まれていく

●狭い艦内をしょっちゅう当直士官、哨戒長付きが見回るので異常は発見されやすい

 

全員が厳しい適正をくぐり抜けて集まってきているという理由もあるでしょう。
しかもこの時聞いた話によると、たとえ身体的条件は合致しても、
研修期間中にどうしても肌に合わず、やめていく人は必ずいるそうです。

 

さて、発令所から発射管室に移る時にはハッチのような扉をくぐります。
アメリカでの展示艦見学でも、何度も潜水艦の区画を隔てる扉をくぐったのですが、
大きさはほとんどそれらと同じようなものでした。
ただ、区画を隔てる扉の厚さは桁違いに分厚いと感じました。
またぐ幅(つまり扉の厚さ)は、ざっと3倍はあった気がします。

昔の潜水艦も扉を閉めればある程度の水密性は得られたでしょうが、
今のなら完璧に海水の流入は防げるのではないかと思いました。

 

そして前部の発射管室に到達。
ここでふと気付いたのは、今の潜水艦には「後部発射管」がないことです。

「後ろに向かって魚雷を撃つという状況はないってことですか」

「・・ないってことなんでしょうねー」

こんな変な質問をされたのはおそらく初めてらしく、何と答えていいのか
説明の方はしばし悩んでおられるようでした。
そもそも敵を探してウロウロするのが仕事の潜水艦が、目標にお尻を
向ける状況になるわけがないということでしょうね。

じゃ後ろにいきなり敵潜水艦が現れたら・・・?

などとわたしなどどうしても映画的展開を思い描いてしまうのですが、
そもそもそんな近くに近寄らせるまで全く他の艦艇の存在に気づかない、
というのはソナーで全てを把握する現代の潜水艦戦にはありえないのです。
 

X舵の利点が「小回りがきく」というところでふと気付いたことがあったので
これも心に湧き出るまま質問してみました。

「ということは潜水艦は小さい方がいいってことですよね?
大きくする理由ってあまりない気がするんですが」

「それはその通りですね。
大きくなればなるほど相手に見つかりやすくなりますし」

 ちなみに現在計画中のアメリカの原潜コロンビア級はオハイオ級より30cm大きい
170.99mです。(そうりゅう型は84m)

アメリカはなぜこんなに大きな潜水艦を作り続けるのか。
まさか、急増している女性サブマリナーの居住区確保のため、という理由ではありますまい。

その理由はオハイオ級の与えられている役目にもありそうです。
潜水艦の任務は基本哨戒ですが、オハイオ級の使命というのは

「海中に潜み、アメリカ合衆国に対して核ミサイルが発射された場合、
または発射される恐れがある場合に相手国に核ミサイルを発射すること」

というもので、当然ミサイルもトマホークとトライデントを
20基以上搭載することになります。

しかも、出港後、待機する海域まで航行した後はひたすら海中に身を潜め、
いつでも核ミサイルの発射が出来るように待機していなければなりません。

この待機期間が70日から90日(つまりその間隊員はずっと海面下にいることになる)
となれば、艦体が大きいのはこの間の潜行ストレスに耐えるためとしか考えられません。

オハイオ級のような潜水艦を「戦略ミサイル原潜」といいますが、
これらがどの海域を待機海域にしているかは軍事機密となっていて、
任務に当たる艦ですら、詳細は艦長を含めた数人しか知らないそうです。

しかし、現在では搭載するミサイルの射程がICBM並に長いことから、
危険を冒して敵国沿岸に行くようなことはなく、アメリカ本土に比較的近い
太平洋や大西洋、北極海などで待機しているらしいので、つまり、
艦体の大きさというのは全くデメリットとならないということになります。

 

さて、前部発射管室には、従来のものとほとんど変わらない形状の
魚雷発射管が
見えるところに4つ、ちょっと隠れた下部に2つありました。

この「4」プラス「2」の設置構造も面白いくらい昔の潜水艦と同じです。

ただ、決定的に違うのは、昔の潜水艦は発射管躯体のほとんどが艦内にありましたが、
そうりゅう型のは室内に見える部分はごくわずかであることです。
昔と違って外殻と内側の間にそのほとんどが収まっているということなんですね。

発射管室には魚雷とハープーンが並べられていました。
魚雷はその名も

「89式長魚雷」

深々度で発射できる魚雷です。
そうりゅう型は噂ではかなりの深度まで潜行できるそうですから、
(オハイオ級などよりずっと)

深海底に鎮座してそこからこの魚雷を撃つこともできるということなのです。

これは・・・・・かなり怖いよね。敵国にとっては。 


訓練で使ったあとは、魚雷は回収して何度でも使うそうです。
標的艦を沈める訓練のときには、もちろん実弾を使ってするわけですが、

「護衛艦が当てただけでは標的は沈まないので、最後に潜水艦が沈めに行くんです」

心なしかこういうのもちょっと得意そう。


この日随行してくれた潜水艦クルーが語る様子からは、潜水艦勤務の特殊性、
そして任務の重大性、世界でもトップクラスの潜水艦隊の一員であることに対する

誇りが端々から滲み出ていました。

「アメリカ海軍との模擬戦で、駆逐艦を沈めたこともあります」

さらりというその口調に、思わず背中がゾクゾクした「ネイ恋」なわたしです。

 

続く。

 

 

 


X舵とスターリングエンジン〜そうりゅう型潜水艦見学記

2016-12-18 | 自衛隊

潜水艦見学で、艦長と挨拶をした後一緒に写真を撮ってもらいました。
わたしが艦長に傘を差し掛けていますが、これはもちろん撮影の時だけです。

この艦長がいつから務めているのかwikiを調べてみたところ、
艦長は艤装艦長から現在まで9年間勤務していることになっていました。
9年前ということはこの艦長がまだ確実に20代の頃のことなので、
おそらくwikiの書き換えがまだ行われていないということのようです。

さらに調べると、 wikiで艦長とされる人物はすでに一佐になって幕僚に名を連ねておりました。
 もしかしたらこちらの艦長は、着任されたばかりなのでしょうか。


この後、艦長はいなくなり(どうやら挨拶のためだけに登場したらしい)
説明は当艦の広報担当らしき方、もう一人、

そして写真を撮っていた方、海曹などが同行して艦内に入り、
案外広い(というか妙に落ち着く)士官食堂でレクチャーを終了しました。
 

「以上で説明を終わりますが、何か質問はありますか」

そのときいつもは黙って聞いているだけのTOがなぜか、

「舵がXと+ではどう違うのかもう一度お聞きしてもいいですか」

 

見学したそうりゅう型の潜水艦は、舵が「X」型をしているので
繋留されているときにも遠くから見分けることができます。

X型舵の一番大きなメリットは何と言っても機動性の問題でしょう。
Webを検索すると、必ず、

十字型の舵は、縦が針路を変える、横が姿勢を制御する
(これがスタビライザー?)
と役割分担が決まっているが、
X型なら4枚の舵のそれぞれが両方の機能を併せ持っている。

十字型の艦ではどこか一本が破損したら、艦の回頭や姿勢制御が
不可能となるが、X型は
一部に破損や故障があっても操縦が可能である。

ということが真っ先に書かれています。
そういわれても「はえ〜」としか言いようがないのですが、
これは

「2枚のうち1枚が壊れて残りが1枚になったら役に立たないが、
4つのうち1つが壊れるのなら、残りが3枚もあるのでなんとかなる」

という理屈でよろしいんでしょうかね。 
それと、多分ですが、舵を動かすシリンダーが十字型は二本、
X舵は各一枚に一本ずつ計4本付いているからではと思われます。

 

しかしそれよりこのとき潜水艦内で受けた説明によると、
X舵の方が十字より旋回半径が小さくなることの方が重要な利点なんだそうです。
小回りがきくってことですね。
どうしてXだと回転半径が小さくなるのか、いまいちよくわかりませんが、
X舵の舵力はこのような数式で表されます。

 舵力(舵が効く力)=(1/√2)×4/2≒1.4 
           一舵あたり 

余計わかりませんね。(開き直り)

とにかく(笑)、水中で旋回した場合、「おやしお」型に比べ、
X舵の「そうりゅう」型は30%も旋回半径を小さくすることができ、
深度変換といいまして、浮上するときにも急激に深度を変えられます。
深度変換のとき海底に対して潜水艦の描く浮上の角度は15%も
しお型より広がり、つまり素早く浮上できるってことですね。 

もちろん破損が及ぼす影響が小さいということと、鎮座したとき
舵本体が損傷を受けにくいということもあります。
それから、たとえば岸壁に繋留したとき、十字型だと水平舵が
防舷物に先端を当ててしまうという可能性もありますが、
X舵だとこの可能性も激減します。

そして、これは全く「コロンブスの卵」だったのですが、
十字型舵だと、たとえば鎮座したときを考えると、

潜水艦の直径以上の大きさの舵は絶対に付けられない

のに対し、X型は

海底と干渉しないので潜水艦の直径より舵を大きくすることができる

ってことが大きな理由だったことがわかりました。
 

誰が思いついたのかは知らないけど、いいことづくめのX舵。
どうしてもっと早く取り入れられなかったのかな?

「細かいコントロールが難しいんです。(1枚ずつ動かすからかな)
ですから、コンピュータでの操作が取り入れられるようになってから以降ですね」



そうそう、コンピュータといえば、最初に見学したのが潜望鏡でした。
潜水艦映画でおなじみの、艦長が帽子の庇を後ろに向け、
両手でレバーを握りながら潜望鏡を覗き込み、

「船団発見!」

などと低くつぶやいたりするシーン。
あれもデジタル技術の発達で様変わりしていたことがわかりました。 

「これが潜望鏡の取り込んだ画像です」

大きなモニターに見覚えのある赤れんがが鮮明に写っています。
今ではデジタルカメラで撮影した画像をディスプレイに再現するので、

「全員で画像を見ることができるんです」

今までのは常に一人ずつで、代わりばんこに覗き込んでいましたが、
そのシーンも無くなるということです。 

「どうぞこれを動かしてみてください」

UFOキャッチャーで操作するようなレバーを動かすと画面が移動し、
レバーについているボタンを操作するとズームされます。
かなり鮮明にズームされ、対象物が何か特定するのも容易でしょう。
こういうのを「非貫通式潜望鏡」というのだそうです。

潜望鏡がまっすぐ(貫通している)である必要がなくなったってことです。
 

れでは従来のように覗き込むタイプの潜望鏡はもう使われないのでしょうか。

「そんなことはありません。これがそうです」

言われてみれば、おなじみの潜望鏡も横にちゃんとあります。

「そうりゅう」型は、当初光学式が2本取り付けられることになっていましたが、
一本を非貫通式に変更され、同型艦は全てそのようになっています。
(英タレスUK社製非貫通式潜望鏡CMO10を三菱電機でライセンス生産)

もちろん非貫通式潜望鏡がとても高価だからと言う理由はありましょうが、
万が一デジタル画面がなんらかの故障で見えなくなったときのために
アナログ式手段を残しておくというのは船の基本でもあります。

海図、チャートコーナーにも自動の航跡装置がありましたが、
やはり万が一の場合に備えて天測装置もどこかにあったりするんでしょうか。 

それに、潜水艦乗りにとってあの潜望鏡を除く動作がなくなってしまうなんて、
そんな味気ないことには今後も断じてならないに違いありません。

(と書いてから、今後潜水艦の潜望鏡は全て非貫通型に変わっていく、
ということが書かれているのを見てしまいました) 

 

ところで、いただいたパンフレットにはこんなことが書かれています。 

「本艦は、海上自衛隊初のAIP(Air- Independent Propulusion:
非大気依存推進)機関を搭載するそうりゅう型の3番艦として」

この非大気依存推進という言葉、実はわたし、全然初めてではありません。
バトルシップコーブに展示していた大戦中のディーゼルエンジン型潜水艦
「ライオン・フィッシュ」について調べたばかりだったので、
潜水艦が動力を得るのに大量の酸素を必要とするということを始め、
中を潜航しながらいかにエンジンを動かすかについては頭に入っていたのです。

snorkel、スノーケルって低地ドイツ語の鼻を意味する
「シュノルヒェル」が語源らしいです。
余談ですが、低地ドイツ語といえば、ジャズのスタンダードナンバーで

「Bei Mir Bist Du schön」(素敵なあなた)

というのがそうでしたですね。
普通のドイツ語とどう違うのかまでわかりませんでしたが。


それはともかく、潜水艦のスノーケルというのは潜水艦に
空気を取り入れ換気を行うための器官です。

潜水艦はスノーケルで吸気できなければ中で呼吸ができないのですが、
実際のところ人間が生存のために必要とする酸素など、
エンジンを稼働させるために必要な酸素に比べると微々たるものなんだそうです。

スノーケルによって取り込んだ空気でディーゼルエンジンは発電機を動かし、
モーターを動かして推進力を得ることができるようになるのです。

これが従来の潜水艦の推進の仕組みです。

しかし、ディーゼルエンジンだけでは潜航していられる時間に限りがあります。
潜水艦映画におけるこの「にらみ合い」は、爆弾投下と深度による艦体の軋み、
そして刻一刻と少なくなっていく酸素という生命の危機と直面しながらのもので、
他のジャンルにはない文字通りの息苦しさが画面に否が応でも緊張感を与えるものです。


そこで潜水艦業界では昔から、「非大気依存」、つまり空気に依存しなくても
動かせるエンジンが研究されてきました。

Air- Independent Propulusion System

は直訳すると「空気から独立して推進するシステム」となり、本艦が採用した
「スターリングエンジン」はこのAIP
を可能としたエンジンです。

今回の見学では、このスターリングエンジンもばっちり見せていただきました。
艦内図でもおわかりのように、エンジンは艦尾の方のエンジンルームにあります。

噂のスターリングエンジン、一つ一つは意外なくらい小さな機械が、
ガラス窓から覗くことのできるケース?のようなものに入れられていました。

スターリングエンジンてそれではなんですか、って話ですが、
この時に聞いた説明を一言で言うと、

「部分を温めたり冷やしたりして気体の体積を変化させて動かすエンジン」

だと思います。

写真に撮ってお見せできなかったのが残念ですが、説明を受けた
士官食堂のテーブルの上には、スターリングエンジンの
模型がちゃんと置いてありました。

このグラフィックは、それがどうやって動くかの説明です。
熱い部分と冷たい部分の温度が大きいほど、仕事率は大きくなります。

潜水艦の場合、この気体にはヘリウムを使うそうですが、ヘリウムは
減りうむ、じゃなくて機械の僅かの隙間からも漏れて文字通り減ってしまうので、
この仕組みは密閉性を極限まで高める必要があり、エンジンそのものの単価が
そのため大変高額についてしまうということでした。

日本の潜水艦がもし高すぎて売れないとしたら、このエンジンのせいかも(適当)


ところで、ディーゼルとスターリングエンジンをどちらも搭載しているのはなぜかというと、
スターリングエンジンだけでは出力が弱く、せいぜい4〜5ノットしか出ないので
メインエンジンにはならず、高速航行のときにはディーゼル、と使い分けをするためです。

「このシステムを取り入れて、どれくらい浮上せずにすむようになったんですか」

とわたしはここで思い切って根本的なことを聞いてみました。
すると、説明してくれていた方は、

「あまり大きな声では言えませんが・・・・」

その言葉を聞いた途端、

「あ、これは公表不可だから忘れよう。速やかに忘れねば」

と心の中で思った瞬間、本当に

忘れてしまいましたorz

今マジで思い出そうとしても全くこの後の数字が浮かんで来ません。
自分の記憶力に言い知れぬ不安を感じてしまった瞬間でした。

でも、どうせここに書けないんだから別にいいか。

 

続く。 




 

 


そうりゅう型潜水艦潜入〜呉地方総監部見学記

2016-12-17 | 自衛隊

前回自衛隊記念日の式典に参加したとき、少し時間があったので
この潜水艦桟橋にやってきて外から潜水艦群を眺めました。

そのとき車両がくると、経営の隊員がどこからともなく現れて門を開け、
通過後はすぐさま鍵を閉め、さすがに秘密のかたまり潜水艦基地だと思ったものですが、

今日はそこにノーチェックで車に乗ったまま入っていくわけです。

通過しながら写真を!と一瞬思ったのですが、当日は雨が強かったのと、
やはり潜水艦基地の出入りなので自粛しました。

反対側の桟橋では「しお」型潜水艦が充電中。
写真で見るよりも実際に上がる煙(水煙?)は派手です。

「どれくらいの時間やっているんですか」

と聞くと、長いときで20時間くらいという返事でした。
それってほぼ一日中やってるってことだよね?
 

さて、本日見学する潜水艦が繋留してあるSバースに向かう車窓からは
折しも激しくなった雨にもかかわらず、潜水艦の前に立って
わたしたちをお迎えしてくれている数人の姿が見えてきました。

当潜水艦艦長、そして本日ご案内くださる隊員の方々です。

挨拶もそこそこに、まず艦長の写真を撮らせてもらうわたし(笑)
濡れながらバースに立っている人たちを見たときには、内心

「こんな日に雨が降ったのもぜんぶわたしのせいですすみません」

と恐縮していたのですが、ファインダー越しにこの自衛官ポーズをとる
艦長の姿を見た瞬間、「雨でよかった」(その心はレインコート萌え)
と心から思ったことをここに白状致します。

 

基本勤務中の自衛官はマスクなしで上げている当ブログですが、
本件に関しては潜水艦艦長といういかにもスパイに狙われそうな
職種の方ゆえ、あえて顔を消しました。

この艦長が繁華街で因縁つけられたり、街を歩いていたらものすごい美女が
道端でうずくまっていて、

「どうしました」

「はい、持病の癪で差し込みを起こしまして」

「それはいけない。 肩をお貸ししましょう」

以下略という展開になっては大変ですからね。


自衛隊では一般に潜水艦艦長は二佐が務めることが決まっていますが、
後で伺ったところ、当艦艦長は「日本一若い潜水艦艦長」なんだそうです。

自衛隊の階級と年齢の関係についてわたしはあまり知らないのですが、
40くらいで三佐というのが普通かなと思っていたので、この艦長が 
30代後半で二佐と聞いてさすがに驚きました。 

「撮っていい」といわれたので、バースから甲板に渡るためのラッタルから一枚。
艦首にツノのような突起物がありますが、これが逆探ソナー(魚雷警報装置)で、
艦首アレイ、側面アレイ、曳航アレイとともにソナーシステムを構成します。

そういえば内部の機関部は皆見せてもらったのですが、
ソナー室はカーテンで覆われ、厳重に秘匿されておりました。

海面近くの艦体を見ていただくと、苔がついているのがわかりますね。
今回初めて現役の潜水艦の艦体を間近で見て知ったことは、
昔の潜水艦のように「甲板」がない分、艦上は人が立っても滑り落ちないような
硬化ゴムのような素材になっていることです。

人が歩く部分とその他では、この写真を見ただけでも素材が別のようです。
特に上部には滑り止め加工がしてあるのだろうと思うのですが、
そうではない部分も金属ほどつるつるしていないので苔や藻が付きやすいのでしょう。

そして付いてしまった藻は掃除しにくそうです。

この部分を「フィン・スタビライザー」だとこの日まで思っていましたが、
現行の潜水艦に「フィン・スタビライザー」なるものは存在しないそうです。

「スタビライジング」する仕組みは外付けのものではなくなってきたってことですね。
これは単に「潜舵」だそうです。 

観艦式のとき、ここに三人が立ってラッパを吹いていたのを見ましたっけ。

潜水艦勤務は身体条件が厳しいとよく言われますが、中で聞いたところ、
なりにくさと言う点では航空の次くらい、だそうです。
耳抜きが出来ない人は鼓膜が破れてしまうのでもちろんダメです。 

意外だったのは、潜水艦乗りは船酔いに弱い人が案外いるということ。
なぜなら潜水艦は一旦沈んでしまったらたとえ海面が大嵐でも
航行にはまったく影響がなく、動揺もほぼゼロというのが普通なので、
いつまでたっても海面の動揺には慣れないのだそうです。

さて、写真を何枚か撮ってから中に潜入(文字通り)することになりました。

 

当然ですが、内部は撮影禁止のため、カメラを入る前に預けます。
携帯も隠し撮りの可能性があるので入り口で回収。

カメラを預けた隊員さんは、雨が降っているので濡れてはいけないから、
と制服のお腹の部分にそれを隠して持っていってくれました。 

一瞬、信長の草履を温めた秀吉の話を思い出してしまいました(笑)



カメラは、ハッチの横にたっている警衛小屋の中で預かってもらったのですが、

どうもその隊員さんが、取り出す時に動画モードにしたらしく、
小屋の内部の様子が一瞬ですが動画に撮られていました(写真)

さて、ここからはひたすら記憶を頼りに書いていきます。

 

この夏もアメリカで幾つかの展示艦となった潜水艦を見ましたが、
その全てが展示用に階段が取り付けられていました。
それらは全て展示用に改装されたものであり、本来潜水艦に乗るとは
こういうことだったのか、とすぐに思い知りました。

潜水艦のハッチを降りていくのは結構大変です。

まず、入ってすぐ二重構造になっていて、ラッタルがまっすぐ続いておらず、
足をかけるところが
足探り?しないとわかりません。

「先におりますから上で見ていてください」

ここには足を乗せても構いませんからゆっくりと、などという説明を
頷きながら神妙に聞き、その後、

「いきまーす!」

と宣言して降りていきます。
いやーこれ、簡単じゃないよ?
構造上のことは詳しくは言えないけど、ただのラッタルじゃないし。
潜水艦の人って毎日これを登ったり降りたりして、それだけでも大変そう・・。

下からは先に降りた隊員さんの声が聞こえてきます。

「何かあっても下で支えますから!」

って、落ちたら下で抱きとめてくれるんかしら。
それとも身を呈して下敷きになってくれるとか。

いずれにしても現場の方にこんな言われると妙に安心してしまうものです。

一仕事終えたような達成感とともにラッタルを降り切ると、
降りたところには応接室(本当は士官食堂)の大きなテーブルがあって、
そこにパンフレットとコーヒーが、すでに二人分用意されていました。

気がつけば艦内のあちこちには、一般公開用の説明のボードなどが
設置されていて、もうお迎えの体勢万全な感じ。
コーヒーも淹れたてで熱々です。

白い龍が潜水艦を両側から守っているデザインををあしらった
かっこよさ満点のマーク(りゅう型って、それだけでかっこいいよね)
が描かれた
パンフレットには、当潜水艦の諸元経歴とともに命名の由来が

「白龍は古来から四龍の一つであり、方角を司る霊獣である
白虎に対応し、西方の守護神とされてます (下線ママ)

とあります。
いかにも(比較的)西方の守りである呉地方隊の潜水艦に相応しい名前ではないですか。

しかし僭越ながら下線部の四龍は間違いで、正しくは四神・四獣(ししん・しじゅう)
のことであろうと思われます。
四獣とは中国の神話で天の四方を守る「神獣」のことで、

 東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武 

を指します。

・・・で今気づいたのですが、この情報微妙に間違ってません?
西方は白い「虎」で、それに対し東のは「青龍」。
 

????

このいただいたパンフによると、わたしたちが進入してきたのは
士官室の上、セイルの後ろからということになります。 
テーブルに着くと、真横のモニターに説明用の画像が現れました。

海上自衛隊の組織図が最初に出てきましたがそこはあっさりと通過し(笑)

「潜水艦がどうやって沈むかご存知ですか」

まず仕組みからレクチャーが始まります。
この絵だとまるでマホービンみたいな仕組みに見えますが、
メインバラストタンクは前後にあるのが普通です。

ここに海水を取り込んで沈む、排出して浮かぶ。
昔からこの仕組みは変わっていません。

潜水艦映画でおなじみ、「ベント開け!」

ベント開く→海水が入る→潜水

ということで、必ず敵機が空中から襲ってきた時の台詞ですね。 
ついでに、映画でこれもおなじみ(かっこいいんだよね)、

「急速潜行!」

というのは、今の潜水艦ではなくなってしまった指令だそうです。
なぜかというと・・・ずっと浮いている必要がないからじゃないかな(適当)

ところで、今回探していて、大変わかりやすく潜水艦の仕組みが
動画で見ることのできる川崎重工の神ホームページを見つけました。

潜水艦の原理

潜水艦も妙にかわいいですが、動画にモブ出演している魚がちょっと萌えます。

 

というわけで続く。 

 

 


わたし+呉+自衛隊=雨〜地方総監部訪問記

2016-12-16 | お出かけ

前回からそう間も分かたず、またもや今回、
正式な訪問の機会を得て呉に行ってまいりました。

まず、飛行機で岡山入りしてそこで所用を済ませ、呉まで移動。
当然岡山から広島まで新幹線に乗るのが妥当なのですが、
ここで岡山在住の方に

「明るいうちだと、三原から呉線で行けば海を見ながら行けますよ」

とわりと無責任に言われてその気になったのが運の尽き。
後から呉在住の知人にこの話をしたら、

「えっ、三原から各停で来たんですか」

と絶句されてしまいました。
他所者の悲しさで、そもそもわたしは広島と岡山の距離を
せいぜい車で30分くらいのような感覚を持っており、
三原からなら呉線とやらで車窓を楽しんでいるうちにすぐ着くだろう、
と甘く見てしかも各駅停車に乗り込んでしまったのでした。 

四国から瀬戸大橋を渡って京都まで行くのにせいぜい2〜3時間だと思い込み、
車を借りたあの初夏の1日を思い出しますですね。 

 

まず電車の扉が自動ではなく「自分で開ける」方式なのに驚きます。
さらに入った後は自分で戸を閉めないといけないのにも驚き、 
(後から来た人がわたしの代わりに閉めてくれたので気がついた)
駅に着くたびに通過待ちのため長時間停車するのに驚き、
さらには1時間くらい行ったところでスマホの地図を見たら
まだ呉まで半分も来ていなかったのには驚きました。

オススメしてくれた人が言っていたような「海」も、
急激に曇ってきた上、呉に近づく頃にはすっかり陽が落ちて見えず、
一体何のためにこんな線に乗ったのかわけわからんことに。

2時半くらいに岡山を出て、呉到着は6時半。
おまけに長時間座っている電車のシート下部から噴き出してくる暖房が熱い。
暑いではなく「熱い」です。
この路線の利用者はよく文句も言わずに乗っているものです。

おかげで到着した時には外に出る気力も体力も残っていませんでした。 

次の朝、起きてカーテンを開けたわたしは絶句しました。
またもや雨です。
昨日あんなにお天気が良かったのに、雨。

今までなんども「わたしが中国地方に自衛隊行事でくると雨になる」
ということをネタにしてきましたが、今回はさすがに
前日の快晴からそんなことを考えもせずやってきて、次の日。

やっぱり雨。

ざっと思いつくだけでも呉教育隊見学、「さみだれ」見学、
ふゆづきの引き渡し式、いせの慰霊式、
ちよだの進水式、前回の自衛隊員慰霊式。

ここまで念が入っていると何かあるのではないかと思わざるを得ません。

 

さて、わたしが呉に行くことを報告したとき、知人からメールで

「せっかくだから高田帽子店に行ってみてはどうか」

とご提案をいただきました。 
山本五十六の帽子を作ったことでも有名で、現在でも
海上自衛隊の特約店として、こだわり派の自衛官に帽子を作っているところです。

調べてみると泊まっている呉阪急ホテルからは歩いて10分のところにあります。
グーグル先生のありがたい情報によると休業日となっていましたが、
どちらにしてもわたしは帽子を買うわけではないので、関係ありません。

呉地方総監部からのお迎えの車が来るまでの間の時間を利用して
散歩がてら行ってみることにしました。

呉というのは昔からのお店が多く、駅前といっても
一筋入ればこんなのんびりした街並みになります。

最初に来た時にはまだ駅前にはデパートが営業していたのですが、
その後閉店してしまっていまだにビルは放置されており、
そのため随分雰囲気が寂れた感じになってしまって久しい呉。

後に話をした呉地方総監も、呉は昔からの個人商店が多く、
新たに増えていくことがないようだとおっしゃってましたっけ。

ちなみに冒頭の写真は、「大和ミュージアム」の展示の模型ですが、
これは当時呉の市民オーケストラだった

呉ロンバルディア管弦楽団

昭和9年から昭和16年(つまり開戦)まで活動していました。
この幕に書かれている「中山楽器店」ですが、まだ営業をしているそうです。

ストリートビューによるとこんな感じ。
ここも定休日だったようです。
いまはヤマハの特約店みたいです。

 

 

しかし昔、ここに呉海軍工廠があり、そこで多くの人々が働いていた頃、
広島市よりも人口が多く「日本八大都市」の一つであったといわれています。
戦艦がここで作られていたのですから当然だったかもしれません。 

知人のメールによると、

”当時の科学技術の粋を集めた戦艦大和を生み出した呉海軍工廠は、
今の航空宇宙産業とも言える、最先端工業都市でした。
それを支える海軍士官、技術者及びその家族は当然
文化的教養も高い人々であったと思われます。”

呉の人々はその点昔から(現在も)町にプライドを持っているといいますね。
ちなみに現在の呉市長とは何度もお会いしていますが、
広島県の他地域の長とは違って、中道保守の考えを持つ政治家です。 



さて、そんな街に流れる川を渡る橋、「かえで橋」を渡ってすぐ、
看板が見えてきました。

ちゃんと海上自衛隊の御用達であることを示す、
自衛隊旗のマークの看板には、

「防衛共済組合 呉支部特約店」

もう防衛庁から省に昇格して10年(来年の1月9日が10年目)
なのですから、文字を書き換えてもいいような気がするのですが・・・。

そんなことには全くこだわりがないっていうか。

定休日であることは前もって知っていたので驚きませんでしたが、
ありがたいことにシャッターが半開きになってい
ました。

こだわり派自衛官はここで注文し、官品ではなく
2〜3週間で出来上がる手作りの正帽を着用しているのだそうです。

帽子置きに置かれた海自の制帽は実に個体差がある、と
前回の玉野造船所での宴会で考察したものですが、こういうお店があって
なおかつ選択が自由だからと言う理由だったんですね。


自衛隊の制帽はもちろん購入にあたって自衛官であるという身分証明が必要です。

しかし、一般人のあなたにも問題なく買えるのが旧海軍の軍帽。
そして、直径12センチくらいの可愛いミニチュア帽子なら、
自衛隊仕様であっても買うことができます。

「あきづき」「日本国練習艦隊」と書かれた水兵さん用の制帽であれば3950円、
金の細工が多くなるほど少しずつ高くなっていって、
スクランブルエッグ(自衛隊では’カレー’ですね)がつくと5千円台、
将官用のになると一挙に7千円台に跳ね上がります。

もしお店が営業していたら、わたしはついふらふらと、このうち何か
(自分が’中尉’なので幹部用とか)を買って、出入りの外猫に無理やりかぶせて
写真を撮ろうとして引っかかれるところまで一挙に想像できました。

お店が開いていなくてよかったと思います。

ここは軍帽・制帽だけでなく普通の帽子もあるので、今度立ち寄った時には
何かいいのがないか、みてみることにしましょう。

電気がついていたのでもしかしたら人が出てきてくれないかと
しばらく前に立っていたのですが、人気はないままでした。

あの山本五十六も帽子を買うためにここに立ったのだなあ・・
としばし感慨にふけります。
当時の店内には木製の棚や柱時計などがあったのでしょうか。

寝坊して朝ごはんを食べ損なったので、ホテルに帰って
早めに昼ごはんをいただくことにしました。

呉では海自カレーのラリーを行っており、こうやって各艦艇の
オリジナルカレーをお店を回って食べ、スタンプを集めれば
景品がもらえるというイベントを行っています。 

たとえばこの呉阪急ホテルは護衛艦「うみぎり」認定店。
「うみぎり」の調理長がホテルのシェフにレシピを直伝し、
その通りに作ってあるという「認定書」を授与して認定店となります。

「うみぎりカレー」は季節の野菜(素揚げしたカボチャなど)をトッピングしてあるのが
特徴で、さらにすごいことは、野菜で作ったスープをベースにしていること。
ジャガイモは一緒に煮込まず、別に蒸したものを添えるのだそうです。

つまり大変手間がかかるということなのですが、ここは一流ホテルなので
この通りのレシピでカレーを作ることは大した負担ではありません。

しかし、これも呉総監から聞いた話ですが、やはり小さい店ではこれを
ちゃんとレシピ通り作って常備しておくというのが大変なこともあり、
今まで連綿と行われてきた(っていつからしているのか知りませんが)
カレーグランプリも、見直しが検討されているのだとか。

「うみぎり」カレーはロビーのカフェやルームサービスでも食べられますが、
わたしは夕飯を和食で、ランチはビュッフェと知らずにレストランに入ってしまい、
ついに今回食べ損ないました。

スタンプラリーでシールを30枚集めたらもらえる海自マーク入りの
コーヒーカップ、というのに目が釘付けになってしまいましたが、
呉在住でもないのにそれは物理的に無理というやつです。

ホテルではバイキングの際お酒を飲む方に千福フェアを行っていました。
特別メニューとして「千福酒なべ」を(どんなんだろう)出しているほか、
1500円で飲み放題などの企画です。

千福と海軍の関係については一度ならずここで書いたことがありますが、
本当に呉は海軍の町だなあとこういうのを見ても実感します。

最初にここに来た時、ケーキ職人がマジパンで作った大和がありましたが、
それだと技術的に細かい部分が作れないということで、
あらためて発泡スチロールで精巧なものを作り直したようです。

記憶にあるのとは格段に再現度の違う「大和」がそこにはありました。
がんばったね呉阪急ホテル調理部の皆さん。

 

さて、昼ごはんをゆっくり食べ終わり、身支度してロビーで待っていると
まず本日一緒に呉地方総監部見学をするTOが到着。
二人で話していると、予定の時間より早く、今日エスコートしてくださる
広報の自衛官が黒のレインコートを着て颯爽とやってこられました。

そうそう、これなんですよね。
わたしが来ると雨が降るというジンクスは、もしかしたらわたしの
自衛官の黒いレインコートを見たいという深層心理のなせるわざでは?
とこのとき一瞬考えてしまいました。


最初はわたしたちが時間になったら呉地方総監部に出向く、
ということになっていたのですが、少し前に電話で
ホテルまで自衛隊がお迎えの車を差し向ける、ということを
副官の一尉が連絡してこられたのです。

ホテルまで黒塗りの自衛隊の車が来てくれるなんてVIP待遇?
わーいわーい。 (とはしゃぐ小物)

まず、潜水艦基地にいって見学というスケジュール。
車で潜水艦桟橋門に向かう途中に、呉音楽隊が練習している
桜松館のある一角があります。
前回の呉地方総監表敬訪問のときにはここの見学をさせていただいたので、
桜松館をこの目で見ることができました。
桜松館は自衛隊から呉市に譲渡され、昔下士官クラブだったこの建物は
老朽化のため取り壊されるということが決まっています。

そして呉音楽隊はいま新築中のこちらの建物に移ることが決まっています。
車の窓ガラスの水滴にピントが合ってしまったので、
目を細めて写真をみてください(笑)

 


前日に副官からわたされた予定表には、
5分刻みできっちりと行程、そしてこちらの名前と肩書きまで書かれています。

呉地方総監への表敬訪問だけでしたらそんなに厳しくはないのですが、
何しろ今日は潜水艦の中を見学するというミッションがあるため、
予定表の名前のところにも「立ち入り申請済み」の記載あり。

ちなみにわたくしの肩書きは「地球防衛協会日本支部(仮名)顧問」 
となっております。

やはり自衛隊に潜入するには個人名だけではダメで、
なんらかのもっともらしい肩書きがないと向こうも正式に呼びにくいのです。
実質何もしていないわたしもそれなりの肩書きを持っているからこそ、
自衛隊側から初めてちゃんとした人間として扱ってもらえるというわけです。

さあ、それではこの有名無実な肩書きを引っさげて(笑)
呉地方総監部に乗り込んでいきます。

おっと、最初は潜水艦見学からね。

 

続く。 


映画「激闘の地平線」〜自衛官(かれ)が殺意を抱いた理由(わけ)

2016-12-14 | 映画

映画「激闘の地平線」後半です。
父親の自殺によって天涯孤独になった土岐徹男は、
陸自朝霞駐屯地のトラックの車列に遭遇し、その瞬間
自衛官になることを決意しました。

そして次のシーンではすでに彼は自衛官となっており、
施設科でクレーンの運転をしているのでした。

いつの間に曹候補生試験に受かったのか?
というかこの頃は採用基準が今と違ったのかな。

提供:KOMATSU(嘘)

あまりの早展開にわたしはここで爆笑してしまったのですが、
そこには目を瞑るとしても、どうにも変なことがあります。


こういう男が自衛隊に入るきっかけになったのが、
「隊員を輸送している自衛隊トラックの列を見て・・・」
というのが、まずあまり納得できるものではありません。

もちろんあの美人自衛官の桂木二曹がいるから、という
本来の理由はあっても、少し動機としては弱い。

ビート族といってバイクのスピードに酔っていた若い者が
自衛隊入隊を決心するからには、たとえばM24軽戦車とか、
F86戦闘機とかくらいのインパクトがないと無理じゃないかな。

そんな彼が施設隊で文句も言わず、嬉々として重機を操る様子は、
それまでの彼の描写からはどうもリアリティに欠けます。



実はこの脚本には、前回にもお話しした、

「防衛庁の広報活動に関する訓令」

が影を落として?いるのです。
自衛隊に協力させて、その素材を自衛隊否定の意図に使い、
防衛庁を激怒させた松竹の「予科練物語 雲流るる果てに」。
これをきっかけに法整備がなされ、その後初めて自衛隊協力の元に
制作されたのが本作品であったことは前回述べました。

このとき防衛庁としては、映画が自衛隊を批判的に扱ったことよりも、
防衛庁が映画会社に自衛隊シーンををカットさせたことを
野党が国会で糾弾した、ということの方がトラウマとなったようなのです。

それもあって自衛隊の協力は消極的なものにならざるを得ませんでした。
この映画に武器装備が全く出てこないのもそのためです。



というわけで主人公は地味に施設隊に入隊するという設定となりました。
施設隊なら戦車も飛行機も出さずに済むからです。

というわけで、ここでは幾つもの重機が紹介されます。
これ操縦するの大型特殊免許いるはずですよね?



ところがこいつ、昔の仲間と手を切っておらん。
朝霞駐屯地の門の前で待ち構える仲間に車を止めて挨拶。



車列が渋滞してしまい、怒って旗を振り口々に怒鳴る自衛官の皆さん。
(多分本物の自衛官)


 

入隊した徹男には士長の戸塚が接近してきます。
彼はこっそり自分の情婦に飲み屋を経営させている怪しい人物。

「がめつく稼ぐんだよ。自衛隊なんて適当にやればいい」



さて、念願叶って土岐はついに基地内で桂木二曹と再会しました。
早速しつこく迫って頬をひっぱたかれますが、全く凝りません。 

そんなおり、医薬品の輸送の運転手として
医務官の桂木二曹の横に座るチャンスを得た土岐、

「だけどおれ、あんたが、あんたが好きなんだよ〜ぅ!」

「危ない!前を見て運転なさい!」(激怒)




目的地は富士学校。
朝霞から富士市までこんな調子で運転して来たのか(笑)



そこでは徹男たちが青木ヶ原樹海で会った部隊が訓練中でした。
ちなみに「レンジャー部隊」とこの映画では言っていますが、
実際にそういう名前の部隊は存在せず、「レンジャー課程」です。
正式な名称は

「陸上自衛隊富士学校共通教育部レンジャー課程」

となります。
米軍のレンジャー訓練を参考にして誕生したレンジャー課程は、昭和33年に
正式課程になったばかりで、この頃(35年)はまだ創世期というべき時期でした。



土岐と桂木二曹が見ている前で、教官の清原三尉は
お手本に水平渡りを披露します。

その気迫にビビる土岐にむかって、ロープから降りてきた清原がいきなり

「悠子はおれと婚約してるんだ」

と言い放ちます。

「えッ!嘘だ!」




実際これ嘘だったんですけどね。(爆) 

しつこい土岐を追っ払うため、桂木二曹、義理の兄である清原に
婚約者の振りをするように頼んだってことなのですが・・。

普通に婚約者がいる、って最初に断ればいいと思うがどうか。



またしてもやけになって自衛隊をやめると公言する徹男に、
戸塚士長が犯罪の片棒を担がせようと近づいてきます。 

「医務室の麻薬を盗んで売りさばくんだ」

徹男の不良仲間が売り捌くルートを知っているといいだし、
皆で徹男を口々にけしかけ、これですっかり全員が共犯です。

ちなみに徹男が服を着ていないのは、皆が自衛隊なんかやめちまえ、

と寄って集って制服を剥ぎ取ったからです。



医務室から麻薬をが盗まれたら桂木はクビになるだろう、
と聞いた途端、ギラギラ目を血走らせる土岐。

ただ、彼は最後まで「やる」とは言いません。



そしてさっそくナイフで一人医務室にいた桂木二曹を脅す戸塚士長。
薬品室で麻薬の金庫を開けさせ、麻薬を手に入れたまではいいのですが、
案の定、変な気を起こしているうちに、

彼女を救うために乱入してきた土岐にやられてしまいます。

「土岐は共犯だ!」

と捕獲されながら叫ぶ戸塚。
しかし桂木二曹は、

「土岐三曹はわたしを助けてくれたのです」

と彼を庇います。(実際見た目はそうですから)



今度こそ自衛隊をやめる決心をした土岐の前に
またもや現れるマリ子(徹男がフった女)とその男。
土岐は男と殴り合いをして気を失います。



目を覚ましたらあら不思議、そこは自衛隊の医務室。
大きな花束を持ってにこやかに微笑む桂木二曹と清原三尉。
施設隊の上官がなぜこないかはナゾです。

「戸塚士長は懲戒免職となりました」

いやそこは逮捕案件だろう。



次のシーンでは土岐は全快し、あたかも辞める辞める詐欺の宮崎駿のように(笑)
自衛隊を辞めるのをまたしてもやめ、いつの間にか試験にも通って、
8週間のレンジャー課程を志願するために清原の部屋にいるのでした。



「なぜレンジャーを志願した」

「あんたにできることなら俺にもできる!
あんたには負けない!」

ってそれが志願理由かい。



そこでこれでもかと行われるレンジャー訓練。
ビルの間にロープを渡して水平渡り。



ビルの屋上から壁面を垂直降下。
もちろん本職の方々のエキストラ出演です。



近接戦闘訓練も。

ところで私事ですが、わたくし、最近息子の付き合いで

クラヴマガというイスラエル軍採用の護身術を始めました。
とりあえずクビを絞められたときのかわし方とか、
ナイフを首に当てられたら、といった想定に対し、防御から
反撃に転じ相手の急所を蹴ったりする方法を習っています。
これでいつ暴漢に襲われても大丈夫です。


それはともかく、ここで持っている銃も自衛隊から借りられなかったので、
小道具を使っているため大変軽そうです(笑)



ロープ上で手を離させてみたり。



また、難癖をつけては土岐に厳しい言葉を浴びせます。

「君にその資格はない!やめ給え」

キレた土岐、殴りかかってケンカを売るもあえなく敗退。
っていうか普通はこれ上官反逆で免職事案ですから。



そんなこんなで恨みをこじらせていく土岐。
野外訓練中、清原を殺すことすら考えるようになります。

「清原の奴殺してやる。そして俺も死ねばいいんだ」



お次は谷渡りで滑車から水に飛び込む訓練。
滑走前と手を離すとき「レンジャー!」と叫ぶのがお約束。



そんな中、隊員の皆さんは蛇を捕まえてきてニコニコと

「おお、美味しそうだなあ!」「うん、うまいぞお!」

と皮を裂いて和気あいあい。
この映画でレンジャー訓練中蛇を食べる習慣は有名になりました。(嘘)



清原に復讐するだけがいまや生存目的となった土岐三曹、
想定の行程に背いて、単独行動を起こします。
仮想敵部隊隊長となっている清原三尉を
この際こっそりナイフで刺してしまおうという計画。

おいおいおいおいおい(笑)



しかし基礎体力ができていないので立ちくらみを起こす土岐。

実はこのあとの展開として、

ヤギを追いかけていた子供が吊橋で引っかかって落ちそうになる、
という事件が発生し、清原を押しのけて土岐が救出」

「山火事が起きてヘリコプターから勝手に降下した土岐が、
熱のためにヘリが離脱してしまったので、子供とヤギをどちらも背負い
断崖をロープで降りて救出するというランボーのような展開」

の2案も企画されたそうですが、どちらもご予算の関係でボツになりました。
なぜどちらもヤギにこだわっているのかはわかりませんが。

ちなみにこの撮影は富士学校から20キロ北にある三つ峠で行われ、
富士学校からも応援が出されましたが、気流が悪く、
迫力を出すためにヘリを使おうとしていた監督の希望は却下されました。

タダだと思って何でもかんでもやらせようとするなよな(怒)




ガケ下に清原部隊を発見し、単独でハーケンを打ち込みザイルを使い
降りようとするも、あまりの高さに目のくらむ土岐。



実際、三つ峠での撮影は過酷を極めました。

重い機材を山頂まで運び上げたのもさることながら、

霧と雨が続き、山小屋は9月というのに大変な寒さに。
2日で終わる撮影予定が1週間に延び、その間スタッフは
着の身着のままで顔も洗えず歯磨きもできなかったそうです。



絶壁では監督もキャメラマンもザイルをつけて、見張りが
落石に警戒をしながら撮影が行われ、土岐徹男役の松原緑郎は、

「その高さに足がすくんで動けなくなった、こんなことは初めてだった」

と語ったとか。

 

つまりこの表情は演技なし。迫真ですね!



しかも土岐、途中で足場が崩れ宙づりになってしまいます。



馬鹿者が崖にぶら下っている、と報告を受ける清原三尉。



朦朧とロープにしがみつく土岐の脳裏に繰り返し鳴り響く幻覚と幻聴。

清原の顔「俺は命が惜しい。お前のようなくだらん男じゃないからだ」

悠子の顔「立派な隊員になるのです!」



清原、素手で崖を登って土岐に近づいていき、

「土岐、手を顔の前に持っていけ!」

え、両手でロープにしがみついているんですが、それは・・
土岐は理解したらしく、懸垂の要領で体を持ち上げます。

よく意味わかったな。

それをいうなら「顔を手の高さに持ち上げろ」ではないのか、
と細かいところにこだわってみる。 

というか、この状況(ロープ一本にずっとぶら下がっている状態)で
よくそれだけの筋力と体力が残されているものです。

「右足を蹴れ!左を蹴れ!岩を蹴れ!」

なぜか目を閉じながらも素直にいうことを聞く土岐。

「手を離せー!」

えええええ?
手を離したら落ちますが。



教官の言う通り、素直に手を離して崖を転がり落ちた土岐、
なぜ助かったかわかりませんがとにかく死にませんでした。



清原の腕の中で目を覚ました土岐、

「わたしをお許しください。教官、わたしは・・」

清原を殺そうとしたことを告白しようとしますが、

「いうな。何も言わんでいい」

えー、何を言おうとしていたか本当に分かってるの?



というわけで、崖の途中でがっしりと抱き合う男二人。
めでたしめでたし、のついでに、本作ではラストシーンとして
実は桂木悠子は清原の妻の妹で、清原が悠子の婚約者というのは
嘘だったことをネタばらししてハッピーエンドとなります。

普通そんな嘘つかれてたと分かった時点でアウトだけどな。



悠子さ〜ん!」

本人はいきなり爽やか青年風に振舞っておりますが、このとき
偶然にも湖のほとりを
かつての仲間(窃盗と強姦教唆の犯罪準備集団)
が通りかかり、二人を冷やかしていきます。

いい加減にこいつらと手を切らないと、君今後自衛官として信用されないよ?



ちなみにこの制服は自衛隊からの貸与を受けたものですが、
まだ迷彩服は正式採用されていなかったため(導入は昭和48年)
レンジャー訓練の隊員たちが着用していたのは
新東宝衣装部が製作した
不思議な迷彩服です。



冒頭画像でネタとして扱いましたが、このラストシーン、
土岐が悠子と見つめ合い、
その後抱き合ったりキスしたり、
といった普通の映画的展開にならなかった理由は?


彼らが自衛官の正式な制服を着ていたため、そのようなことはまずい、
と判断(というより防衛庁に配慮)した結果だとわたしは思いますが、
皆様はどう思われますか。


・・え?どうでもいい? 



終わり。

 


映画「激闘の地平線」〜不良(おれ)が自衛隊に入った理由(わけ)

2016-12-13 | 映画

ディアゴスティーニの「戦争映画」のシリーズになぜか入っていた
唯一の自衛隊ものです。
なぜ戦争映画にカテゴライズされているのか、観る前も観てからも
さっぱり理解できませんでしたが、おかげでこんな黎明期の
自衛隊映画があることを知ることができました。

1960年作品、監督小森白、新東宝作品。

というと、イメージ的にあのスパイフィクション戦争映画、
ここでも散々コケにした(そうだったのか?)天知茂主演の

「謎の戦艦陸奥」

を思い出してしまうのですが、案の定この映画は、その小森監督が
「謎の戦艦」に続き同じ年に制作したものでした。
という段階でわたしの中ではキワモノ路線決定してしまったわけですが、
当時には珍しい自衛隊、しかもレンジャー部隊が舞台ということで、
怖いもの見たさとネタ欲しさで()観てみました。

ちなみに「レンジャー部隊」は俗称で、正式には「レンジャー課程」です。
映画解説には「レインジャー過程」と書かれてますがorz


さて、映画に入る前に、この映画が公開されたころの自衛隊というのが
世間からどう扱われていたかということを考えてみましょう。
それは一言で言うと「継子扱いの白眼視」といったものでした。

日本が憲法によって「戦争を放棄する」=「軍隊を持たない」
となったとき、戦争に物心両面での嫌悪を拗らせていた日本国民は
おそらく手放しで喜んだことであろうと想像します。

当時の国民にとっては

「日本が武力さえ放棄すれば二度と戦争になることはない」

という今なら少し頭がおめでたいとしか言えないこんな理屈も
まるで恒久平和へのありがたい金科玉条と思われたのでしょう。

当時は中国の侵略も北朝鮮のミサイルもまだなかったしね。

さらには、実質日本が何の武力も持たぬ間に、韓国によって竹島は、
漁民殺戮の上不法占拠されてしまったわけですが、当時の日本国民には
そんなことは見えていなかったか、取るに足らないことだったのです。
たぶん戦争にならなければなんでもよかったんじゃないかな。


さて、そんな「軍隊アレルギー」の日本が朝鮮戦争をきっかけに
アメリカに持たされることになった警察予備隊。

まだアメリカの占領下にあった昭和26年(1951年)、なんと
東映が「この旗に誓う」という警察予備隊のPR映画を制作しています。

発売されていないのでどんな映画か見ることもできませんが、
音楽を「ゴジラ」の伊福部昭が手がけているというあたりに
力の入れようが垣間見えます。

「ゴジラ」と言えば最新作「シン・ゴジラ」でも自衛隊の全面協力が
映画に大きく関わっていたように、「ゴジラ」に続く、一連の怪獣ものの
社会的ヒットは「戦争の出来ない軍隊」自衛隊が、敵国ではなく
人類の敵を駆逐するという「口実」を得て、堂々と映画で
戦闘をしてみせることができるようになった画期的な出来事だったのです。

警察予備隊としてアメリカに保持することを要請(強制)された瞬間から、
国民に支持されず、その存在を巡って世論の槍玉に挙げられていた自衛隊。
旧軍人が公職追放を解かれて入隊することはあっても、
一般人の入隊に関しては世間が白眼視する職場ゆえ、長らく自衛隊は

「そこしか行くところがないはぐれものや落ちこぼれの吹き溜まり」

という屈辱的なレッテルに甘んじなければいけない時期があったのです。

そういえば前防大校長の五百旗頭という学者が、講演で
防大の制服で電車に乗ったら唾をかけられた時代もあった、
などとわざわざ言っておりましたですね。
防大の歴史上、全部で何件起こった事件かは知りませんが。


とにかく、この映画が制作された昭和35年当時、
防衛庁としても映画をなんとかイメージアップを図り、
自衛隊への入隊に少しでもつなげたいという思いから
協力をしたのに違いないと窺える作りの映画です。

自衛隊が商業映画に協力したのは1960年以降のことです。


この年松竹の「予科練物語 紺碧の空遠く」で初めて防衛庁が協力し、

自衛隊が映画に登場するということがあったのですが、
その挿入の意図が「自衛隊(軍隊)を否定する」ものであったため、
防衛庁が怒って削除を要請し、それを表現の自由への介入だとして
衆議院で野党が追及する、
という事態になりました。
そこで、防衛庁は法整備して、

「防衛庁の広報活動に関する訓令」防衛庁訓令36号

そして、

「部外製作映画に対する防衛庁の協力実施の基準について」

という通知などを出したのです。
つまり、煮え湯を飲まされた格好の防衛庁としては、
民間、ことに左翼主義者の巣窟のようになっていた映画界に対しては
ディフェンシブにならざるを得なくなったのです。防衛だけに。


とにかく法体制が整って初めての自衛隊協力映画だったと言う意味では
本作は「エポックメイキング」というべき一編だったわけですね。

それだけに本作の自衛隊の描写には大変慎重な様子が窺い取れます。
制作側が「気を遣う」のと反比例して、自衛隊側の協力は
消極的なものになった(のでやりにくかった)という話も残っておりますが、
これは映画側の自業自得だったとはいえませんでしょうか。

現在の防衛省の異常なくらいの「世間への配慮」というのも、
遡ればこんな頃から苦渋を舐めてきた太古のDNAのなせるわざだったのか、
とわたしは今更ながらに合点がいった次第です。


さて、それでは映画についてお話ししていきましょう。
実はこのストーリー、冒頭の漫画で説明したまんまです。
簡単に言えばこれ以上でもこれ以下でもありません。
といってしまえばここで終わってしまうわけですが(笑)

タイトルの下の英語の直訳は画面の賑わいのために入れただけで、
別に本作にこの英語題が付いているわけではありません。
それにしてもこの、

「激闘の地平線」

っていう題なんですがね。
もし漫画で説明したようなストーリーであれば全然内容と合ってなくない?
とおそらく皆様は思われるでしょう。
わたしも思いました。

そこで、もしわたしならこの映画のタイトルをこうするだろう、
というのを本日のサブタイトルにしてみた次第です。

「不良(おれ)が自衛隊に入った理由(わけ)」
 



それでは適当に始めましょう。

バイクで暴走する柄の悪い若者たちの映像がタイトルです。
もうこれからして嫌な予感が避けられませんね。

主人公の徹男(松原緑郎)は当時の不良「ビート族」のボス。
ビート族とは1948年前後に

「NYのアンダーグラウンド社会で生きる非遵法者の若者たち」

を総称する語として生まれた「ビート・ジェネレーション」
「ビートニク」からきており、その思想活動をいいますが、
日本では単に暴走行為、酒とジャズに溺れて奔放な性を享受する、
無軌道な不良の総称でした。
バイクに乗ることから「カミナリ族」という言い方もありました。

(昔モダンジャズが”不良の聴くもの”だったのはこの辺からきている)




主人公土岐徹男。
彼がボスなのは、大企業の社長の息子で金回りがいいからです。



ある日仲間とバイクでタイマン張ってかっ飛ばしていて事故発生。
たまたま通りかかった陸自の車両から降りてきたのは
陸自の看護師(当時は看護婦?)桂木悠子二曹。(三ツ矢歌子)



「あーこれもう死んでますわ」

彼女の着ている婦人自衛官の制服は、昭和45年に改正となる前の、
バスガイド風帽子付きで、お宝映像です。



仲間の死にショックを受けるついでに、徹男、桂木二二曹に一目惚れ。

嫌なことなんか酒で忘れちまえ!とまたしても騒ぐ徹男たち。
その晩、徹男は仲間のズベ公リーダーマリ子(一人称は”あたい”)
とそうなろうとするのですがどうしてもそうなれません。(婉曲表現)

「なんだいあンた、あの女自衛官が忘れられないんだね!」

確かにこの女子を三ツ矢歌子と比べたらいろいろときついかもしれん。
(女子力的な意味で)



てやんでえ、とうちに帰るとそこでは父の後妻(若杉嘉津子)が、
父の秘書(大原譲二)とお楽しみ中。

こんな家庭ではそりゃグレますわ。



自室でやおらカンバスに向かう徹男。
そこには瞼の母の肖像画。
いきなり筆をとって彼が母の肖像に書き足したのは
なんと、「婦人自衛官の帽子」であったというのは笑いどころ?



ついでに徹男は一目惚れした桂木二曹の似顔絵を記憶スケッチして、
いきなり朝霞駐屯地に訪ねて行きます。
なんなのこの無駄な行動力と才能の無駄遣い。

「たくさんいますので、これだけでは・・・」

それに彼女の制服や帽子の細部、階級章まで覚えているのに、
一目惚れした女性の名札だけ見てなかったんですかね。



ちょうど都合よくそこに医療部隊の車に乗った桂木二曹が。
仲間と一緒にはしゃぎまくってさらに嫌われる徹男。



ちくしょー!と走り回っていたら警察のご厄介に。
どうでもいいけど、映画の半分くらいが徹男とその仲間の
放埓ぶりばかりで、肝心の自衛隊シーンが少ないのです。

はっきりいってスピード違反で捕まるシーンなんてどうでもよくね?



徹男の父唯一の登場シーン。
富士五湖を望む別宅にこちらも愛人と同居。
「パパー」と愛人が社長を呼べば、ドラ息子も一緒になって

「パパ、いいネタがあるんだ。買ってくれ」

何かと思えば、後妻と秘書の情事をネタに父親をライトに恐喝。
このパパが超貧相なおっさんで、肋骨がはだけた浴衣から丸見えです。



このあとビート様御一行、徹男の提案で青木ヶ原樹海に入り込み
「人穴」探しを始めます。
わたしはこの人穴を知らなくて、いったい何を言っているのかと思ったら、

富士山の噴火でできた溶岩洞穴で、富士山の中心から西に約12kmの位置にあり、
主洞は高さ1.5m、幅3m、奥行き約90m。
人穴と呼ばれる由来は、溶岩が作った洞穴の壁に
肋骨や乳房のような岩の突起があるためである。
最奥からさらに細い穴が伸びており、江ノ島に通じるとの伝説もあり。
wiki 

ということでした。
この映画のおかげでひとつ物知りになりました。 



すると鬱蒼とした樹々の間からいきなりこんな人が出現。

「ぎょええええ!」



陸自のレンジャー課程訓練が富士山麓で行われていたのです。



道に迷って空腹だった彼らに自衛隊飯をご馳走する教官の清原三尉。
(沼田曜一。『謎の戦艦』では平野艦長、前述の『予科練物語』にも出演)


規定に従って食事代はもらうぞ。一食35円」

自衛艦の中の食事は現在たしか200いくらかだったような。
しかもこのあと彼らは宿舎に泊めてもらうという好待遇です。



盛り場に帰ってきて意気揚々と冒険の自慢をしあう不良ども。

「だけどよ、自衛隊の隊員も悪くなかったな」

「食えなくなったら自衛隊でも入るかあ!」

「お前には似合いだよ!」

「わはははは」

いやー、この失礼なこと。
しかしある意味これが当時の自衛隊に対する世間一般の見解の
一端であったということなのでしょう。

そこに徹男がフったマリ子が地元のチンピラとつるんでやってきます。

「紹介するわ。あたしのフ・レ・ン・ド」

「お前たちだな?マリにちょっかい出してやがる”ネス齧り”は」

お約束の乱闘となった時に踏み込んでくる刑事。
なぜか交通違反で捕まえて尋問した警官と同一人物です(笑)

理由も言わずに徹男だけを警察の霊安室の前に連れてきて、
驚く徹男に、


「どうした、怖いのか」



いや、怖いだろ普通。
説明も何もなしでいきなり棺に入った父の屍体と対面したらさ。

土岐の父は会社の経営不振を苦にして自殺したのでした。





馬鹿野郎と繰り返しながら描きかけの父の肖像画に
その死を報じる新聞をちぎっては投げちぎっては投げする徹男。

実はお父さんのこと好きだったんですね。



荒れる徹男。
ほくそ笑む二人の部屋に踏み込み証券やら通帳、権利書を取り上げて・・・、



債権者(そろばん持った人もあり)にそれをぶちまけ、ついでに

「俺の体買わねえか?役に立たねえってのか?」



もはや世の中の誰からも必要とされなくなった徹男。
自暴自棄になってバイクで暴走を繰り返します。



そのとき徹男の前にたまたま現れる自衛隊の一団。
威圧されながらその車列を見送った彼は、彼らの後をバイクで追い、



朝霞駐屯地の正門までやってきて何事かを決意するのです。
何事かって、まあご想像の通り自衛隊入隊ですが。

なぜか「駐とん地」となっていますが、これは本物。
今の朝霞の正門前とは思えませんね。

原案では桂木二曹と再会した徹男が、

「ここはあなたのようなひとがくるところじゃありません。
あなたに規律のある生活なんかできないでしょう?」

といわれ、

「できるかできねえか、俺アあんたと勝負する」

と啖呵を切って入隊することになっていましたが、映画では
とりあえず一人で生きていかざるを得なくなった徹男が、
自分の居場所を求めて自衛隊に入った、ということになりました。

本当の理由は彼女に近づくためなんですけどね。



そして次のシーンではもう徹男は自衛官になっております。

んなわけあるかーい!


続く(笑)