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バーキン片手に靖國神社

徴兵制〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-04-29 | 歴史

ハインツ歴史センター「ベトナム戦争展」の次のコーナーは、
ずばり「徴兵」です。

まずこの「ベトナム世代」とされた図をご覧ください。

「徴兵対象である2700万人のアメリカ人男性のうち、
40パーセントが軍隊に従事し、250万人がベトナムで参戦した」

これをアメリカ人男性全体で表したのが下のグラフ?となります。

60%  入隊しなかった

30%  ベトナム以外で従軍

10%  ベトナムで従軍

徴兵制というと日本の赤紙ではありませんが、否が応でも引っ張られ、
対象のほとんどが激戦地に送られたというイメージがありますが、
これははっきりいって「意外な数字」だと思われませんか。

全人口ではなく、兵役対象者のうちベトナムに行ったのは10%なのです。

それでは、過半数を超える「入隊しなかった人々」というのは
いったいどういう手を使ったのか。
その言い方がまずければ、どういう抜け道があったのか。(余計まずいか)

合法的に徴兵を逃れた人はどのようにおこなったのか。

本日お話しするのはそんなことです。

ベトナム戦争が起こってから、18歳以上の男性は、選択的任務に登録する必要がありました。
彼らは26歳まで徴兵の資格を維持していました。

それぞれの人体一個は、徴兵対象の人員の1パーセントを表します。

■ 徴兵

アメリカ人は徴兵にさまざまな反応をした
社会的地位、人種的背景、代替行動の試み

ジョンソン大統領のベトナムへのより多くの軍隊の派遣命令は、
アメリカ人の18歳から26歳までの全ての男性に影響を及ぼしました。

兵役への登録は義務となっていました。

しかし、団塊の世代(ベビーブーマー世代)の該当者は、ベトナムはもちろん、
世界中の米軍基地での任務に必要とされるよりも多くなりました。

そのため選抜徴兵法(Selective Service)により、
多くの場合、教育を受けている者には延期を認め、
必要な人数だけを選び出すということをしていました。

このポリシーはなぜか「チャネリング」と呼ばれていました。

チャネリングというと

「高次の霊的存在・神・死者などの超越的・常識を超えた存在、
通常の精神(自己)に由来しない源泉との交信・情報伝達」Wiki

ということになりますが、何かの皮肉だったんでしょうか。

組織としては国の人的資源をできるだけ有効活用し、これが
社会に与える悪影響を極力最小限に抑えることを目指しましたが、
ただし、公平性の点から見ると全く忖度されなかったというのが現実でした。

大統領はアメリカ人に向けて、自分は予備役は召集しないと指摘しました。

徴兵のみに兵員確保を依存するという彼の決定は、つまり、
「政治的コスト」を極力削減すること=国民の反発をおさえる
を目的としていました。

徴兵対象者は通常予備役の男性よりも若く、所帯を持っていないからです。

しかし、ジョンソン大統領が言わなかったことがあります。

Gen William C Westmoreland.jpg

ベトナム派遣軍司令官、ウィリアム・ウェストモーランド将軍
(William Westmoreland)

この人が、より多くの人員を要求していたということです。
軍人としては当然かもしれませんが、彼らは戦争に勝つためには
もっと多くの兵員が必要だと主張していました。

ちなみにこのウェストモーランドですが、戦後のインタビューで、

「ガンガン爆撃をすればベトナム戦争に勝てた」

「アジア人は子供みたいでどんなに些細なことでも口うるさく問題にする」

などと言い放ってしまうような人で、さらにCBSの報道ドキュメンタリーにおいて、
彼自身が

「戦争中の敵兵力、特に解放戦線の非正規民兵の推定数を大幅に過小評価していた」

などという元CIA職員や部下の武官らの証言をもとに批判されることになると、
これに対しCBSを名誉毀損で訴えたりして、なかなか軍人としては
熱いというか、まっすぐというか、まあそういう人だったようです。

そしてこれが徴兵カード。

アンソニー・ベレスという1941年12月20日生まれ、ニューヨークは
ブロンクス出身の茶髪茶色い目の眼鏡をかけた男性のものです。

この展示場では、リンドン・ジョンソンを中心に語った前回にも取り上げた、

「なぜアメリカの若者がそんな遠い地で死なねばならないのか?」

つまり、なぜベトナム戦争を行うのか、ということについて
ジョンソン自身がテレビで語った映像がエンドレスで放映されていました。

「1965年7月28日、ジョンソン大統領はテレビ出演し国民に向かって
『なぜベトナムなのか』を語りました。

彼は共産主義と戦っている南ベトナムを保護できるかどうかはアメリカ次第だ、
として『現場から駆逐されること』は、現在、そして将来のアメリカの
安全と信頼を危うくするだろう、と述べました。

そしてまた、徴兵を『劇的にエスカレートさせる』と発表しました」

 

 RESISTERS 抵抗者たち

ジョンソン大統領の「なぜベトナムで死ななければならないか」には
あまりに説得力がなかったため、多くの若者がこれに反発しました。

 

一部の徴兵対象の男たちはベトナムでの兵役を拒否するために法律を無視しました。
徴兵カードを焼却するというのは最初の象徴的な抗議でしたが、これに対し、
議会が1965年に徴兵カードの焼却を違法=犯罪にしてからは、
より一層その動きは激化しました。

最初にこの「法律を破った」のは、アイオワ大学工学部の学生だったステファン・スミスでした。

徴兵カードに火をつけてみた

このあと、スミスは保安官にピストルで殴打され、さらに耳に銃を向けて
お前を殺す!と言われたそうです。

徴兵カードの焼却や破損は各地で増加していたため、米国議会は
これに対し、最高5年の懲役と最高10,000ドルの罰金を科しました。

最初にこれに「違反」したのはデビッド・ミラーという青年で、彼は
このため22か月間連邦刑務所で過ごすことになりました。

スミスはドラフトカードを取り出して火をつける前に、

「わたしの人生の5年間は、この法律が間違っていると言うには長すぎるとは思わない」

といい、その場には拍手する人もいれば、やじる人もいました。
2日後、彼はアパートにいたところをFBIに踏み込まれ連行されました。

この事件がアイオワという中西部の州で起きたことは、この戦争をめぐって
国がどれほど深く分裂していたかを示していたかを表しています。

スミスのこの行為に数千人が続きました。

何人かは国を脱出するという深刻な一歩を踏み出しました。
逃亡先にはしばしばカナダが選ばれました。

少数は戦争に抗議するために意図的にそれを行ったとみられます。
結局戦争期間を通じて3000年以上が収監されることになりました。

 CONSCIENTIOUS OBJECTORS 良心的兵役拒否者

良心的兵役拒否者

昔当ブログでは「ハクソー・リッジ」という映画でも取り上げられた
「良心的兵役拒否」について触れたことがあります。

教理上戦争を否定するいくつかの宗教の教徒は、兵役を拒否する代わりに
兵役の代替業務である市民公共サービス (CPS) に従事することになっていました。

期間は2年間と決して短くはありません。

それでも拒否ができるというのは憲法で定められた宗教の自由が
兵役の義務に優先したということになるのでしょうか。

良心的兵役拒否者の多くは、「ハクソー・リッジ」の主人公のように
武器を取らないメディック(衛生兵)を務めました。

その他の人々は、

「仕事が低賃金であること」

「自宅から通勤できる距離ではないこと」

「社会に有益な仕事である」

という条件下でアメリカに残ることを許可されました。

 

 THE DEFERRED 延期対象

「いい成績、然らずんば死」

「殺せ それが経済を良くする」

という紙を背中に貼った学生たち。

「セレクティブサービス」(徴兵庁?)は必要以上に多くの男性を集めることができます。
朝鮮戦争でも行われたように、国の4,000もある地方創案委員会は、免除と延期を認めました。

政府は国の人口を管理するという観点から延期制度が受けられる大学への入学を奨励し、
いわゆる「重要な職業」で働くことを奨励しました。

何百万人もが、延期、あるいは身体的、精神的障害を理由とした免除、
州兵などの「安全な軍への入隊」によってベトナム行きを避けようとしました。

こういった待遇は社会的に「上級」とされる人の関係者ほど簡単に受けられました。

 DRAFTEES 徴兵対象者

徴兵された男性のうち三分の一は、主に陸軍に配備されました。
その多くは貧しいブルーカラーの家庭の出身でした。

徴兵されるとベトナムに送られ、そしてそこで戦闘の結果死ぬ割合が高かったのです。

1965年、アフリカ系アメリカ人の戦闘による死亡率が高いということに対し、
抗議が起こり、これに対して軍は不平等を是正するべく動きました。

 VOLUNTEERS 志願者たち

軍隊に奉仕した人員のほぼ3分の2が志願者でした。
自国に奉仕する方法として、進んで入隊した人もいます。

それ以外の人々は徴兵を受けてこれを動機とし、進んで入隊しました。

志願者に対しては軍の優先支部への入隊が配慮され、上位の階級が与えられ、
さらに高度な訓練を受けることができるなど、優遇されることになっていました。

志願すると期間的には任務は長くなるのですが、ベトナム以外に派遣される可能性が高く、
結果として戦闘を経験する可能性は低くなったということです。

また、女性は徴兵対象ではありませんでしたが、
1万1千人近くが志願しました。

 

最後に書いておきますと、現在のアメリカでは、徴兵制は可能性として
いつでも復活させることができますが、軍隊における兵器の機械高度化や、
民間軍事会社へのアウトソーシング化により、州兵を含む志願兵でまかなえることから、
現在のところ徴兵制を採用する可能性はないということになっています。

 

さて、次回は本日述べたような経過を経て軍に入隊した10%の人々の内面や、
そこで起こった様々な出来事を紹介していきます。

 

続く。

 


輸送艦「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」と落書きプロジェクト〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-04-27 | 歴史

写真とパネルの展示で状況を説明してきたハインツ歴史センターの
特別展「ベトナム戦争」ですが、ここで初めてオブジェクト展示が現れました。

海兵隊と陸軍の戦闘が主体のイメージであるベトナム戦争展で
最初にどーんとでてきたのが軍艦の兵員用バンク(ベッド)でした。

英語では「Berthing Unit」と表記されています。

兵士たちに与えられた救命ジャケットなども。

■ 輸送艦「ウォーカー」

アメリカ軍の軍人はこの、

USNS「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」

のような第二次世界大戦時代の「トゥループ船」でベトナムに輸送されました。

USNSとはUnited States Naval Shipのことで、米海軍海上輸送司令部に所属する
高速戦闘支援艦、病院船、事前集積船などの補助艦艇に付けられる接頭辞です。

これらの艦船は現役ではあるが「就役」という扱いではなく、軍人ではなく
海軍に雇われた民間人によって運用されているのが大きな特徴です。

これから「ナーバル」がなくなるとUSS (United States Shipとなり、
こちらが海軍軍艦であるというのがなんか不思議な感じですね。

まずこの「ウォーカー」についてさらっと解説しておきます。

USNS「ジェネラル・ネルソンM.ウォーカー」は44年2月、
「アドミラル・H・T・メイヨー」という名で海軍輸送艦として就航し、
1946年に陸軍輸送隊の一部になりました。
改名されたのもこの時です。

1965年8月に海軍に再取得され、海軍船籍簿に復帰した「ジェネラル・ネルソンM.ウォーカー」は
ベトナム戦争に運用するため再活性化されました。

さて、そのベトナムへの軍人の輸送ですが、西海岸の港から出航し、
南ベトナムのダナン、またはクイニョンまで、3週間の船旅が行われます。

「ウォーカー」には3,500名の海兵隊員とG.I.がひしめき、そのほとんどが
慣れない艦上生活で船酔いに苦しみました。
ウォーカーの乗員となった彼らは愛情を込めて?

「ボートピープル」「ウォーカー・ベイビー」

などと呼ばれたそうです。
ボートピープルのどこに愛があるのかという気もしますが。

 

この「ベーシングユニット」(停泊ユニット)は「ウォーカー」艦内の装備です。
キャンバス地はこの船でベトナムに運ばれた若い男性たちの落書きだらけです。

「ベトナム・スージー」は「ハローG.I.」とささやき、
その横には「ベトナムにようこそ」

この落書きをした男性のほとんどはまだベトナムを経験していなかったはずですが・・・。

しかし、ベトナム・スージー嬢に髭を描いた奴は誰だ!

カンバスに書かれた落書きはこの艦が輸送に使われていた間、
このバンクの「主」となった何人かの所有者が記念として残したものです。
落書きをちょっと拾い読みしてみましょう。

6/ 8/ 67 ベトナム フィラデルフィア ペンシルバニア

「THE GOOD TOWN」

この「良い街」はもちろん出身地であるフィラデルフィアのことでしょう。

ちなみに、「フィラデルフィア」をカタカナのまま読んでもアメリカ人には通じません。
「古豆腐屋」と「どう」にアクセントをつけて発音するのが一番近いかなと思います(´・ω・`)

「上陸日 1967年10月28日

我々は『約束の地』にやってきた」

「約束の地」とは、ヘブライ語聖書に記されているところの
「神がイスラエルの民に与えると約束した土地」のことですが、
もちろんこれは自嘲というか皮肉でそう言っているだけと思われます。

「ここに寝ている奴は〇〇で眠る!
彼の魂に安息あれ!」

次のバンクの主に予言めいたものを残し、ちょっとした
「嫌がらせ」をしているというのも・・・・。

「このバンクは『死のベッド』です。
ここで眠る奴はベトナムで死ぬだろう。
気を付けろ
お前に残された時間は短い、とても短い!!」

また、一人が

「RFK(ロバート・ケネディのこと)を大統領に」

と書くと、別の人が

「RFKはLBJ(ジョンソン)のベトナム政策を受け継がないだろう」

ロバート・ケネディはジョンソン政権での司法長官でしたが、
ベトナム戦争に対しては段階的拡大の停止を主張していました。

兄が自らの政権下で進めた南ベトナムへの「軍事顧問団」(という名の派兵)の
大幅増員でしたが、ロバートはJFKが暗殺前には停止を意図していたと知っていたのです。

このバンクの主二人(かどうかは確かではありませんが)は、そのことをもって
RFKにわらをもすがる期待をかけていたのかもしれません。

できれば、自分がベトナムで死ぬ前になんとか潮目が変わってくれないかと・・・。

真ん中の得体の知れない物体はどうも横顔のようです。

第9機関部隊?

R・T・ディフェルディナンド上等兵(P.F.C.)

ダウニングタウン ペンシルバニア

そして

「ザ・ファビュラス・フューリーズ」(素晴らしき復讐の女神)

シャロン・プランク

というのはおそらくガールフレンドか意中の人の名前でしょう。

67年10月29日 ベトナム

ロイ・アダム シュイルキル・ヘブン ペンシルバニア

小さく「ブレンダ、愛してる!」「Twice!」

とあります。

「ベトナムに送られる兵士たちは、彼らの心の小さな断片、
彼らの魂の小さな断片を残したかったのだと思う」

と、自身が「ウォーカー」に乗ってベトナムにわたったとき
20歳だったベテラン、ジェリー・バーカー氏はこのように説明しました。

「ジェネラル・ネルソンM.ウォーカー」は、タコマ、サンフランシスコ、
サンディエゴなどの西海岸の港から兵士と海兵隊をベトナムに輸送しました。

5,000マイル以上の航海は18日から23日続きました。

入隊した男性は、ほとんどが10代後半で、船の低層の
混雑した停泊区画にある帆布の二段ベッドで寝起きをし、
そして・・・・落書きをしました。

彼らが落書きをしたのは主に往路でしたが、時には復路のものもあります。

当然ですが、士官寝室は上部のメインデッキにある小さくて快適な部屋で、
彼らの区画には落書きはほとんど残っていませんでした。

長い航海は船酔い、不安、退屈を引き起こしましたが、一部のものは
その中でもリラックスしてユーモアを共有する方法を見つけました。

救命艇の訓練、勉強会、教会の礼拝、映画、音楽、読書、そして仲間との会話。
それらは彼らの果てしなく終わりがないかに思える長い航海中、どんなに役立ったことでしょう。

トランプ、ロザリオ。

そしてヒッチコックのスリラー小説など。
「神経質でない物語」でいいのかな。

これは19歳だったゲイリー・ペトロンが「ウォーカー」に持ち込んだギターです。

そしてダッフルバッグ。
彼はいつもギターを手にしていたそうです。

彼は帰還後ベトナムのことについて一切語りませんでした。
しかし、歳をとって亡くなる少し前の2012年、彼は一人、
故郷のアルバニー(NY)で行われていた
「ウォーカー展」を訪問しました。

そして彼は最後のその1週間、訪問者にベトナムでの思い出を語り続けました。

「ウォーカー」がベトナムに近づくほど、特に空気の循環がほとんどない
低層の区画では、艦内は猛烈な暑さになりました。

喫水線の上の部隊区画の開いた舷窓は、それらの停泊エリアに新鮮な空気を提供しました。

壁にわざわざ書くことかしら、という気がしますが。

「わたしを含め、おそらく80%が地図でベトナムがどこにあるか
指差すこともできなかっただろう」

艦内は混雑し、 朝食、昼食、夕食ごとに長い列ができました。
キャンディー、タバコ、その他の身の回り品を購入できる店に到達するために、
果てしもなく長い列がいつもできていました。

「ウォーカー」は補給のためよく沖縄に立ち寄りましたが、出航までの数日間、
短期間の上陸と「自由」が与えられ、兵士たちは休暇を楽しみました。

 

アメリカがベトナムへの船での兵員輸送をストップしたのは1968年のことです。
そのかわり、輸送には飛行機が使われることになります。

このバンクは、1997年に立ち上がった

「ベトナム・グラフィティ・プロジェクト」(ベトナム落書きプロジェクト)

が廃止前の輸送艦からこれらを取得し、資料として残しています

 

■ ベトナム・グラフィティ・プロジェクト

バージニア州に本拠を置く非営利組織である「ベトナムグラフィティプロジェクト」。
バージニア州の有志によって「ジェネラル・
ネルソンM.ウォーカー」内の
歴史的なベトナム戦争の遺物を保存するため
に1997年に設立されました。 。


草の根ボランティアプロジェクトとして、落書きで刻まれたバンクベッドの
キャンバスなどを集め、全国の博物館に配布することを支援するためです。

受け取ったのは、スミソニアン博物館(ここに展示してあるもの)のほか
米国議会図書館、
兵役博物館、州および地方の歴史協会などです。


2005年、「ウォーカー」はテキサス州ブラウンズビルで廃艦処分になったため、
プロジェクトのボランティアは何百もの落書きでマークされた帆布を回収しました。


そして、その後、実際に「ウォーカー」などに乗ってベトナムに行った兵士や海兵隊員を探し、
インタビューをし、証言を集めています。

特務士官、ジム・リーダーは、「ウォーカー」がサンフランシスコを出港した
1967年10月10日、家族に艦上から別れを告げるというとき、
自分がどこにいるか見つけやすいようにと、フライトジャケットを手にしました。

レスキューの時、視認性をあげるために裏地にはオレンジがあしらわれています。

出航が始まった時、ここぞとジャケットを裏返し、それを振ろうとして
後ろからどっと笑い声が上がったので振り向いたジムが見たものは・・・

仲間のパイロット全員がジャケットを裏返して振っている光景でした。

 

 

続く。


トンキン湾から反戦運動へ〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-04-25 | 歴史

ハインツ歴史センター特別展「ベトナム戦争」について
何回か語ってきましたが、この戦争展(つまりスミソニアン)が
ベトナム戦争をアメリカ発、アメリカ製のアメリカの戦争であったと位置づけているのが
この段階ではっきりとわかる内容になっていました。

さらにはこのコーナーで、武力戦争を仕掛けるために陰謀
(つまりトンキン湾事件)が行われたということも明言しています。


さて、そのベトナム戦争から手を引こうとしたケネディ大統領が暗殺され、
後を引き継いだのはケネディ政権の副大統領だったリンドン・ジョンソンでした。

前回最後で言ったように、ジョンソンは、保守派の共和党候補に対し、
いかにも民主党候補らしく「和平」を売りにして選挙戦を戦い、圧勝しました。

 

 

昨今アメリカのドラマなどを見ていると、戦争を引き起こすのは共和党である、
という決めつけのもとに、ひどい時には「共和党の豚」などという言葉を使って、
自称リベラルの登場人物が共和党支持者を罵るというシーンが出てきます。

なかには「グッドファイト」のように、トランプに投票した人物を異常扱いするなど、
どこからか指示されたのが露骨にわかってしまうものもあったりするわけですが、
これらは常に民主党側に立つエンターテイメント業界の意図的な印象操作です。

歴史を顧みても、第二次世界大戦以降戦争しなかった民主党大統領はカーターだけなのに、
メディアが無理筋な印象操作を続けるわけがわたしには全くわかりかねます。

ベトナム戦争から撤退しようとして暗殺されたという噂もあるケネディですが、
彼とて、戦争の経過が芳しくないのでそういう方向転換を模索したに過ぎません。

そもそもベトナムへの具体的な介入を決定し「グリーンベレーを送った」のはケネディです。


さて、今日は
そのケネディの後任となったリンドン・ジョンソン大統領(LBJ)について、
ハインツ歴史センターの展示を中心にお話ししていきます。

■ トンキン湾事件 1964年8月「すべての必要な手順を実行するには・・・」

1964年8月2日、USS「マドックス」はトンキン湾において
北ベトナム軍の哨戒艇から魚雷を発射されたと報告しました。

写真は国防長官のロバートS.マクナマラで、国防総省での深夜の記者会見で
トンキン湾での北ベトナム哨戒艇による攻撃を説明しています。

 マクナマラは、このとき、攻撃を「挑発的で意図的なもの」と呼びました。

USS「マドックス」

国民には知られていませんでしたが、「アレン・サムナー」型駆逐艦「マドックス」は、
南ベトナム軍と共同のコマンド部隊による北ベトナム襲撃任務と
並行して、盗聴任務をおこなっていました。

二日後、「マドックス」とUSS「ターナー・ジョイ」はさらなる攻撃を報告しました。

「マドックス」艦長は、大雑把なレーダーとソナーの読み取りだったとして
注意するようにと付け加えましたが、ジョンソン大統領と彼の最高顧問は
これを受けて即座に行動を起こしました。

彼らは議会に対し、二回の「意図的で挑発的な」攻撃があったと述べたのです。
(写真はその説明を行うマクナマラ長官)

ジョンソン大統領は、北ベトナムの海軍施設に対する空爆、北爆を命じました。
そしてまた、トンキン湾決議の可決を議会に諮りました。
それは彼に東南アジアにおける

「軍隊の使用を含む全ての必要な措置を講ずるための権限」

を与えることになりました。

法案は下院では全会一致(416対0)で可決されましたが、上院ではこれを
「歴史的過ち」(Historic mistake)と呼んだオレゴン州の
ウェイン・モース、アラスカ州のアーネスト・グリューニングの二人の上院議員だけが、
正式な戦争宣言を承認しませんでした。(88対2)

Wayne Morse.jpgモース

ちなみにこのモースも共和党議員です。

 

■「ベトナムの状況は悪化している・・・」

ビエンホアやブンタウのような場所でのベトコンの勝利を宣伝するため、
ハノイはこの地図を作成しました。

1965年2月、ベトコンがプレイクにあるアメリカ空軍基地を攻撃した時、
ジョンソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官であるマクジョージ・バンディ
ベトナムにおり、大統領に次のように書きました。

「ベトナムの状態は悪化しています。
アメリカは新たな行動をとらないと、敗北は避けられないでしょう。
時間は稼げますが、それも好転には至らないと思われます」

その軍事報告は「悲惨」でした。
ベトコンは日中南ベトナムの田園地帯の50%を、夜は75%の部分を閉鎖していました。

ジョンソン大統領と顧問たちはベトコンとハノイへの圧力を強めることを決議しました。
彼らはアメリカへの信頼が危機に瀕していることに気づき始めました。

そして、また、和平への道を模索する国際的な試みが中立主義へと傾き、
南ベトナムにおける戦争遂行の決意が弱体化していくことを恐れたのです。


■ 「ベトコンの攻撃はエスカレートしていった」
 64年10月〜65年2月

このB-57爆撃機は1964年10月、ベトコンの迫撃砲によって撃墜されたものです。
ビエンホアのアメリカ軍航空基地へのこの攻撃よって、アメリカ人5名、
そして2名の南ベトナム人が死亡し、多くの人々が負傷しました。

1964年までに、2万3千人ものアメリカ陸軍軍事顧問がベトナムに行きました。

この「軍事顧問」(ミリタリーアドバイザー)について説明しておくと、
外国に派遣され、
派遣先の軍隊の組織編成や訓練などに協力する軍事専門家のことで、
現役の軍人や元軍人がそれにあたります。(のちに戦闘員となる)

どうして赤字のような言い方をするのかというと、ベトナム戦争において
当初アメリカは実戦部隊を派遣せず、

アメリカ陸軍特殊部隊群(グリーンベレー)で編成した「軍事顧問団」

を送るという形で、南ベトナム政府を支援していたからです。
(これを決定したのがケネディ大統領だったわけですね)

彼らARVN軍とアメリカの「軍事顧問」たちは決して来ない夜間攻撃を想定していました。

1964年12月下旬のビンジアでの戦いは、ベトナム戦争で最大となったベトコンの攻撃となり、
双方の戦闘による死者は数百人に上り、その中には5名の「軍事顧問」も含まれていました。

トラビス航空基地に到着した棺桶。

これらは1965年2月のプレイク米空軍基地に対して行われた
ベトコンの攻撃で戦死した「軍事顧問」たちのものです。

このとき、死者以外にも126名が負傷し、航空機が10機破壊されました。

 

■「我々は力を抑制する・・・が、結局それを使うだろう」

1965年3月2日、プレイク基地攻撃の報復をきっかけに、ジョンソン大統領は
本格的な北爆に踏み切ることになります。

ローリングサンダー作戦と名付けられたこの一連の作戦で、
アメリカ軍機は南ベトナムとラオスに向かい、爆弾とナパーム弾を投下し、
枯葉剤を降り注ぎました。

写真は、この作戦で海軍のスカイレイダー爆撃機
空母「レンジャー」のカタパルトから出発するところです。

ウィリアム・ウェストモアランド将軍(LBJが選んだベトナム軍事支援司令官)は、
海兵隊の二個大隊を投入することで米軍の力を強化しようとしました。

3月8日、海兵隊はダナンに上陸します。
大統領とその側近たちは上陸侵攻こそが「アメリカの戦争」であると思っていました。

それでは次になにをすべきか。

彼らは南ベトナムをより「効果的な」パートナーにすべく激しく議論しました。
彼らは東南アジアにおける「倒れるドミノ」問題だけでなく、
そこで実際に戦争を行うリスクについて憂慮したのです。

そして最終的に彼らは国家と自分たちの行政の信頼性が危機に瀕していると認めました。
アメリカの関与をエスカレートさせなければ、そのどちらも失う
と考えたのです。

■ 反戦運動

何故我々はベトナムの人々を
燃やし
拷問し
殺しているのでしょうか?

フリーエレクションを防ぐために

抗議

この反民主主義戦争に対し

手紙を書こう

リンドン・B・ジョンソン大統領
ワシントンDCホワイトハウス宛

真実について知る

手紙を書こう

学生民主主義同盟
11フィフスアベニュー、ニューヨーク、NY10003

1960年代の後半になると、テレビ報道やニュース映画フィルムにより、
多くの国民が戦闘の場面をその日のうちに視聴することになり、
「戦争当事国」のアメリカ合衆国では、次第に反戦運動が高揚していきました。

学生民主主義同盟の学生は、1965年、このポスターの制作を公演しました。
ポスター文中の「無料の選挙」とは、反共産主義者だったゴ・ジン・ジエム
同じ意図を持つアメリカのバックアップを受け、
ジュネーブ協定にに基づく南北統一総選挙を拒否したことをさします。

学生たちは、

「アメリカのベトナム政策は非民主的かつ不道徳的である」

として、これが反戦運動の盛り上がりに拍車をかけていきます。

1965年4月にワシントンDCで行われた学生デモにこのポスターが見えます。

ところでポスターの女の子の肩から背中にかけてをもう一度ご覧ください。
彼女にこのケロイドを負わせたのは、武器化されたゼリー状の燃料である
ナパーム弾であり、人々はこの酷い現実に耳目を吸い寄せられました。

戦争に反対した多くの人々にとって、この残虐な武器の使用は
第二次世界大戦とホロコースト以来立ち向かうべき絶対悪の象徴でした。

抗議の行進は、戦争に反対する情報を集め、国民にそれに同意するように促しました。
この行進は、1965年にテキサス大学のオースティンキャンパスで行われたものです。

学生民主化同盟(SDS)は全国のキャンパスで戦争についての議論と
討論を行う教員主催のティーチイングを支援しました。

これは1965年のミシガン大学での様子です。

SDSは参加型民主主義を促進し、社会主義を中心に
組織化するために設立されました。

■「 LBJは戦争にコミットした」

「何故若いアメリカ人たちが・・・しばしばそのような
遠く離れた場所で死ななければならないのでしょうか?」

President Lyndon Johnson Vietnam War, Jul 28 1965

1965年7月28日、ジョンソン大統領はテレビに出演し、国民に
「何故ベトナムなのか」というスピーチの中で、
南ベトナムを保護し、アジアの共産主義と戦うのは
米国の取るべき政策であると強調しました。

彼はこの日、海兵隊の他に陸軍もベトナムに送ると発表し、また
徴兵制を劇的に強化することを発表しています。

「わたしは本日、ベトナム航空機部隊と他の特定の部隊に、
戦闘力を早急に7万5千人から12万5千人に引き上げることを命令しました。
追加の部隊は、必要と要求に応じて派遣されることになります。

これにより、月間の徴兵人数は1万7千人から月3万5千人に引き上げられ、
さらに自主入隊キャンペーンを強化して戦闘力を強化する必要があります。

先週の閣議の結果、予備隊を使うことは当面必須ではないということになりました。

のちにその必要ができた場合には、その問題を慎重に検討し、
採用の前に
十分な準備が整った時にのみ適切に通知を行います」

 

しかしジョンソン政権は、この後、戦場におけるアメリカ兵の士気の低下、国内外の反戦運動、
そしてテレビなどメディアによる戦争反対のキャンペーン報道に苦しむことになります。

 

 

続く。

 


メイド・イン・アメリカの戦争〜ハインツ歴史センター「ベトナム戦争展」

2021-04-23 | 歴史

開戦時の南北ベトナムについてさっくりと前回お話ししましたが、
今回は当時の国家指導者について取り上げていきます。

■ ホー・チ・ミン大統領 北ベトナム

”ホーは南ベトナムの反乱軍を支持した”

ホーチミン大統領は「ベトナム独立の父」でした。
ホーは共産主義が植民地主義に対抗していることを称賛し、
それがベトナムにとって最善の道であると位置付けたのです。

1954年にベトナムが分割された後、ホーと共産党指導者たちは
北ベトナムとして知られるベトナム民主共和国の発展に焦点を当てました。
ハノイが主島に制定されたのもこのときです。

一方、南ベトナムのゴ・ジン・ジエム政権では、ホーに共感した元ベトミンが標的となります。

数千人がジエム大統領によって投獄され、殺害された人は数知れませんでした。
南ベトナムではジエム政府に対する反乱が次々と起こり、彼らは北に助けを求めました。


1959年、ハノイの指導者たちは南ベトナムにおける革命を支援することに合意しました。
1960年、彼らはジエムに対抗する国家解放戦線(NLF)への反乱を組織します。

北ベトナムは指揮官、物資、そして兵士を南に送り込み、解放軍最前線は
一般的な支援と正規および非正規な軍隊の支援を受けることになります。

紛争は今や内戦、二つのベトナムの再統一をめぐる「骨肉の争い」となったのです。

アメリカでは南部の反乱軍を「ベトコン」、またはVC(ベトナム語で共産主義者の別称)
と呼び、北ベトナム軍をNVAと呼んでいました。

1959年、共産主義同士たちと会議を行うホー・チ・ミン。
若い人が多いですね。

TAY NGUYENの春

ハノイの美大生だったTrần Hữu Chấtが1962年に製作した漆の彫刻の再現バージョンです。
画面は抵抗のシンボルが書き込まれています。

ホーチミンと黄色い星の旗のイメージが高々と掲げられ、
フランスとの戦争の英雄であるベトミン兵士が中央高地の人々の間に立っています。

作者は、国家統一のための新たな闘争への支持を表そうとしています。

1967年、このアーティストは戦うために南ベトナムに行きました。
そして生き残り、86歳になってこのベトナム戦争展のために
学生時代に製作した「タイ・グエンの春」を再現しました。

オリジナルはハノイのベトナム国立美術館に展示されています。

 

■ ゴ・ジン・ジエム大統領 南ベトナム

”ジエムは管理を統合した”

Ngo Dinh Diem - Thumbnail - ARC 542189.png

ゴ・ジン・ジエム大統領は、大多数が仏教徒であるベトナムで経験なカトリック教徒でした。
彼はインドシナにおけるフランスの植民地支配に反対しており、
1954年にベトナムが分割された後、南部に反共産主義のベトナム共和国を設立しようとしました。

彼は選挙で選ばれた初代大統領ということになっていますが、
案の定というか、この選挙は不正の結果である可能性が高いとされています。

サイゴンはそしてその首都に制定されました。

ジエムは党の支配下にある近代国家の建設に熱心で、
多くの地方の人々を新しい集落に強制的に移していきました。

そしてまた多くの仏教徒や元ベトミン(ベトナム統一戦線)を含む、
彼に造反した人々を独裁政権下で取締ったため、
内戦と暴力的な抵抗が引き起こされることになりました。

ちなみにベトコンとは「ベトナムの共産主義者」のことですが、
この名付け親はジエムです。

別名ドラゴンレディ🐉

この頃仏教徒の弾圧に抵抗した僧侶が焼身自殺を行うという事件がありましたが、
そのときに弟ヌーのヨメのマダム・ヌーが、それを馬鹿にして

「僧侶のバーベキュー」

呼ばわりをしたため、これが世界中の顰蹙を買い、炎上してケネディに嫌われ、
応援していたアメリカですら風向きが悪くなるのはもう少し後のことになります。

初期、共産主義に対するジエムの立場は、アメリカの指導者から信頼されていました。

(というか、まあアメリカにとって都合がよかったってことなんでしょう)

1957年、アメリカを訪問するように招待されたジエムは、米議会で演説し、
ブロードウェイを「ティッカーテープ・パレード」で行進し、
熱狂的に迎えるニューヨーカーたちに手を振って見せました。(冒頭写真)

いかにもあるあるですが、当時のマスコミは、彼を政府の思惑通りに
「アジアの解放者」と持ち上げ、
彼の名前は西側諸国でも瞬く間に有名になっていきます。


ジエムの訪米後、南ベトナムへのアメリカの金と武器の流れは
一気に加速していくことになります。
アイゼンハワーはまた、ジエムの元ベトミン政策を遂行するのを助けるために
米軍顧問を派遣することになりました。

ちなみにこの顧問のうちの二人は、1959年、
「ベトナムにおけるアメリカの戦争」になりつつあった頃、
最初に戦争で亡くなった民間人となりました。

ベトナム語を自動翻訳にぶっ込んでみましたら、

「犯罪のパートナー!」

徴兵制」

「強制労働」

「殺害」

「処刑(真夜中の裁判)」

「食料と財産の没収」

「テロと破壊」

「彼らは犯罪の一部を共有しています」

「この盗賊どもの疫病から南ベトナムを救うために
あなたの政府と協力してください」

真ん中の三人には

「彼らに気を付けろ」「悪を引き起こす」

「ベトミン」「ハノイ」「北京」

まあ要するにベトミンと北に対するネガティブキャンペーンですね。

米国情報局は南ベトナム政府を支援するためにこのポスター始め、
その他の資料を作成して配布しました。

つまり中央に描かれた南部の共産主義者(ベトミン)、ホーチミン、
そして毛沢東が万が一支配権を握った場合に陥る事態を警告しているのです。

(毛沢東がすげーデブに描かれていて草)

ゴ・ディン・ディエムに対する革命の1周年を記念する切手

 

■ ケネディ大統領

”ケネディはグリーンベレーを送った”

ジョン・F・ケネディが1961年に大統領に就任したとき、
彼はベトナムをどうするかを選ばなければなりませんでした。

彼はゴ・ジン・ディエム大統領を引き続き支援するべきでしょうか?

JFKは、革命的なナショナリズムとの戦いには簡単に勝つことも、
地理的に遠くから共産主義と戦うことが簡単ではないことも知っていました。

しかし彼はまた、もし南ベトナムが共産主義の手に陥ったとしたら、
自身が大統領として厳しい批判に直面するだろうとも信じていました。

ケネディ大統領と国務長官ロバート・マクナマラは、米国の力と専門知識を盾に
アンティ(ポーカーの掛け金、分担金のこと)を上げる決定をしました。

ジエムの政権を維持するために彼らは大量の武器、そして
グリーンベレーを含む数千人の民間および軍事顧問を派遣しました。

そして、アメリカ人はベトナム共和国陸軍(ARVN)と、南ベトナムの
山岳民族モンタニヤールを訓練して、ベトコン(共産主義者)と戦ったのです。

1963年、ケネディ大統領が国防長官ロバート・マクナマラと
統合参謀本部の議長であるマックスウェル・テイラー将軍から
彼らの南ベトナム視察についての報告を受けているところ。

 

ベトコンはベトナムの実質的な領土を支配していました。

ベトナムの軍事援助司令部の下にあるアメリカの軍事顧問は
この統制を覆すためにディエム政権と力を合わせました。

 

”ケネディはジエム政権を潰した”

しかし、1963年にもなると、南ベトナムでの不安定な状態により、
主要なアメリカの当局者はディエムに反対の姿勢を取り始めます。

マダム・ヌーの『バーベキュー』発言をちょっとした?きっかけに、
ケネディ政権はジエムの弟、ヌーを更迭することを提言して拒否されたため、
それならばお前もいらん、とジエムを「切る」ことを決断しました。

そしてケネディ大統領以下アメリカ政府の黙認のもと、
同年11月2日、
南ベトナムの陸軍将校がクーデターを起こし、
ゴ・ジン・ディエムと彼の弟(マダム・ヌーの夫)を殺害しました。

しかし、そのわずか20日後、暗殺を黙認したケネディ本人が
凶弾に倒れ、暗殺されてしまうという悲劇が起きます。

南ベトナムにより介入し、手を引き始めたところで、
ケネディの路線は宙に浮いてしまうことになりました。


余談ですが、ケネディ暗殺を企画したのが軍産複合体であると噂される原因がここにあります。

前回、「戦争をしたい勢力が意図的にそれを起こしてきたのがアメリカ」
と書きましたが、ケネディとゴ・ジン・ジエムの関係が険悪になり、
さらにアメリカに呼んでパレードまでして持ち上げたジエムから手を引く、つまり
ベトナム介入そのものから手を引く決断をしたJFKを排除したかったのは、
普通に考えて「戦争を継続したい勢力」であったのは明らかだからです。


ただし、世間に出回っている「ケネディを暗殺したのは誰か」という推理を見ると、
諸説あり、どれももっともで、ベトナム戦争から撤退しようとしていたことだけが
彼が消された理由ではないようなので、これはあくまでも「理由の一つ」であり、
軍産複合体は決して「黒幕」本体ではないと考えられます。

 

さて、アメリカがその国土を分け、アメリカが介入したベトナム戦争。

アメリカ発、メイド・イン・アメリカの戦争であることはもう明らかですが、
ケネディ暗殺後、南ベトナムの不安な未来は、アメリカの新しいリーダーの手に移ることになります。


■ リンドン・ジョンソン大統領

ジョンソンは行動方針を計算した

ケネディ大統領死後、リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に就任しました。
JFKの顧問の助言を受けて、ベトナムでとるべき道を選択しなければならなくなった彼は、
戦い続けることを決心しました。(というか余儀なくされた?)

米国当局はサイゴンにすでに広範囲に広がっていた腐敗と、
騒乱の繰り返しを懸念していました。

さらに悪いことには、ベトナム共和国(ARVN)の軍隊はベトコンに対し劣勢でした。

統合参謀本部議長は、ジョンソン大統領に対し、

「勝利するには大胆な行動とより大きなリスクを取らざるを得ない」

と助言したのです。

大胆な行動と大きなリスク。
これは何を意味するか、皆さんはもうご存知ですね。

ジョンソン大統領は北ベトナムに対する秘密の軍事行動を命じました。

これは1964年8月のトンキン湾での海軍対立につながり、
LBJは議会に報復措置を講じる許可を求めました。

そして彼はラオスでの秘密報復作戦を許可しました。
そこではCIAとモン族がラオス人とベトコンとが戦いを続けていました。

ところで1964年当時、ジョンソンにはベトナム以外にも問題を抱えていました。
一つは貧困と人種差別を減らすための法案の制定、もう一つは彼自身の選挙です。

彼は超保守であった共和党のバリー・ゴールドウォーターに対する
「和平派候補」の立場で選挙運動を行なっていました。

国民はこれに足し、ジョンソンがJFKの路線を引き継いで、
ベトナムへのアメリカの関与を拡大する可能性は低いと判断したため、
ジョンソンは選挙に勝つことができました。

しかし、彼は結果として戦争に介入を続け、選挙民の期待を裏切ることになったわけです。
これは、戦争をしないと言って大統領になっておきながら、
第二次世界大戦をやったルーズベルトにそっくり通じるものがありますね。

ルーズベルトがそのとき、

「わたしはやりたくなかったがこんなことが起きては仕方あるまい」

というアリバイ作りに大いに利用したのが真珠湾攻撃であり、
ジョンソンが言い訳のために仕組んだのがトンキン湾事件だったというわけです。

つまりアメリカの「リメンバー」って・・・そういうことなんですわ。

 

次回は、ジョンソン大統領が引き継いで以降のベトナム戦争についてです。


続く。

 

 


「ホー・チ・ミンの道」 〜ハインツ歴史センター特別展 「ベトナム戦争」

2021-04-21 | 歴史

ピッツバーグのハインツ歴史センターの特別展、
「ベトナム戦争」の展示をご紹介しています。

前回で、アメリカが世界の共産主義化を阻止するために
インドシナ戦争のスポンサーになり、朝鮮戦争に介入し、
さらにはアイゼンハワーが同じ理由でベトナムを分割し、
共産主義と対峙する姿勢を明らかにしたところまで説明しました。

今日は、ベトナム戦争時代の指導者についてです。

戦争が始まる 1954ー1965

今更ながらにこの年代を見て驚くのは、べトナム戦争は11年も続いていたということです。
最後の頃は「泥沼」などと言われていたようですが、どうしてこんなに長引いたのでしょうか。

なぜ米国はベトナムに軍事介入したのか

どのような出来事や決定が戦略爆撃機や兵員輸送船を送り込ませたのか

とあります。
兵員輸送船は「troopships」をこのように訳しました。
さらに、一番最初のコーナーにもかかわらず、このような一文が。

1965年までの戦争の現実

184,000人の参戦に対し米軍の死者は2,300名
そして164万ガロンの除草剤が散布された

米国国民の24%はベトナムへの軍隊の派遣は間違いだったと考えている

いきなり最初で結論を急いでしまっております。

■ ホーチミンの道

このような自転車は、北ベトナムから南ベトナムに続く
「ホーチミン・トレイル」を、食糧や軍需品を運ぶのに使われました。

若い北ベトナム人はこの自転車を押して、ラオスとカンボジアのジャングルや
危険な峠を何百マイルも横断しました。

歩兵もこの「ホーチミンの道」を行軍したといいます。

その旅はただただ悲惨なものであり、病気、飢餓、そして
米軍の爆撃という危険に満ちていました。

ホーチミントレイルの敷設は、ハノイの指導者たちが
南部での革命戦争を支援するということを決定した1959年に始まりました。

すでにフランスとの戦いのときには存在していたチュオンソン山脈を通る小道は
これ以降改善されていくことになり、未舗装の道路に陸軍のバラック、病院、
補給用の掩体壕、保管倉庫、そして指揮と制御のセンターなど、
複雑なシステムに進化していきました。

1962年までにトラックもこの道を運行することができるようになっていきます。

ホーチミントレイルを運行していたトラックの運転手だそうです。
若い女性がそういう任務に就いていたということなんですね。

ここに飾られている私物はジョージ・クニス(Kniss)という
空軍の写真隊のカメラマンだった人物のものです。

ブッシュハット

1964年、Kniss はベトナムでこの「非政府問題」の帽子をベトナムで購入しました。
エンブレムには「エイブルマーブル」偵察隊のマークがあります。

タイを拠点とする低空飛行で、彼はラオス、カンボジア、ベトナムの標的と、
その破壊を撮影することに成功しました。
Knissと彼の同僚はこれらのミッションで撮った映像を映画化しました。

ニコレックス F カメラ 1963

ベトナムに上陸した直後、クニスはサイゴンのダウンタウンにあるPXで
この35mmカメラを購入しました。
軍のカメラマンにカメラが割り振られることはなかったのですが、
個別に購入したものに対して支払われることになっていました。

ほとんどはジャーナリストが使用するより機敏な35ミリではなく、
重くて大きなフォーマットの4x5だったということです。

ジョージ・クニスは1963年10月、ベトナムに到着しました。
これは米軍の「アドバイザリー」活動の一環です。
空軍カメラマンとして、彼はベトナムを訪れたVIPを撮影したり、
偵察と爆撃に同行して撮影を行いました。

この写真はベトナムではなく、1965年カリフォルニアに帰国したときのもので、
彼が持っているのは政府が貸与したくだんの重たい35ミリのカメラです。

クニスの1963年から1964年までの1年間の日記です。

クニスの日記には、南ベトナムのディエム大統領を追放したクーデター、
ケネディ大統領の暗殺、トンキン湾事件など、任務中に起きた
歴史的な世界の出来事について記されています。

また、日記にはケネディ大統領とベトナム戦争の原因について、
また政府と軍事行動についての自身の意見が記録されています。

しかしそのわりに、開いているページはそのような重要なものではなく、
彼がピッツバーグ空港から出立した日の日記であり、しかもその内容は

エレンは空港に見送りに来てくれなかった。
理由はわからないが、彼女のボーイフレンドのジムのせいだと思う。
理解できないのは、僕が二度と戻らないかもしれないのに見送らず、
彼を優先して満足させるという彼女の価値観だ! 

とかいうものです。(謎)
エレンと彼の関係はわかりませんが、まあ要するにアキラメロンってことだ。

ここからの三枚の写真は、彼の撮ったものとなります。

南ベトナム空軍の若き司令官、グゥエン・カオ・キ(Nguyen Cao Ky)阮高奇
当時34歳です。

フランスで操縦訓練を受け、空軍将校として少将に昇進、
その後1965年のクーデターで副大統領に就任しました。

アメリカの支援を受けて北ベトナムや南ベトナム解放民族戦戦と戦いましたが、
政府との関係が悪くなり、サイゴン陥落前にアメリカに亡命しました。

ちなみに亡命に使ったのは揚陸指揮艦「ブルー・リッジ」だったそうです。

ポール・ホーキンス将軍、ヘンリー・キャボット・ロッジ大使、
ベトナム軍カーン将軍、マックスウェル・テイラー将軍
そして一番右がロバート・ストレンジ・マクナマラです。

マクナマラはケネディ政権、ジョンソン政権で国防長官を務めました。

■ ベトナム軍グッズ

南ベトナム共和国暫定革命政府の旗

1969年、北ベトナムと国家解放戦線(ベトコン)は、
ベトナム共和国グエン・ヴァン・チュー大統領に対抗して
南ベトナムに陰の政府を設立しました。

この政府は、北による南部の侵略を支援し、1976年に北が
ベトナム社会主義共和国を設立するまで、共産主義国のために
南部の公認政府として機能しました。

アメリカ軍のジョン・エルムとその戦友たちが、鹵獲した
南ベトナム共産主義の旗を提示しています。

おそらくここに展示されているのと同じものだと思われます。

Pith(ピス)ヘルメット

北ベトナム軍が製作したヘルメットは、フランス植民地時代のスタイルを踏襲しています。
金属製ではないので、熱帯気候から兵士を保護することはできましたが、
兵器に対してはほとんど効果がありませんでした。

ヘルメットの星のマークは北ベトナム軍の旗を表しています。

これらの展示物は、ソルジャーズアンドセーラーズメモリアルホールからの貸与だそうです。

Non la 葦の編み笠帽子

伝統的な円錐形の編み笠は、村人とベトコンの兵士がどちらも着用しました。

ベトコンサンダル タイヤをリサイクルして作ったもの

ベトコンは反乱キャンペーンのために彼らは再利用可能なあらゆるものを作りました。

中国共産党の短筒型手榴弾

北ベトナム軍の兵器の一つ。

北ベトナム軍兵士のチェストポーチ

チェストポーチなどというとなんだかおしゃれな感じですが、
つまり胸にかける物入れのことです。

このポケットには彼らがソ連から貸与されたAKー47の弾薬を収納していました。

北ベトナム軍は高度な訓練を受けたプロの兵士の集団でした。

北ベトナム軍着用の靴

上部は緑色の帆布、ゴム底でできています。
熱帯での戦争のため、このような仕様になりました。

■ 北ベトナムと南ベトナム

さて、それでは冒頭写真で説明されている北と南ベトナムについて、
これを翻訳しておきます。

 

北ベトナム

北ベトナム軍司令官であるヴォー・グエン・ジャップ将軍ホー・チ・ミンは、
第一次インドシナ戦争でフランスに対して使用された戦略を、
ベトナム戦争でアメリカに対して用いました。

そして、南部のベトコン同盟に対して、大変洗練された道路、トンネル、
水路を通じて、人員輸送などを供与し続けました。

何百万人ものゲリラと正規軍兵士を自由に動かせる状態で、
北ベトナムはゲリラ、反乱、そしてテロ主導の戦闘を実施しました。

アメリカ兵によって持ち帰られたこれらの「戦利品」は、
熱帯の地域のあらゆる面で戦われた内戦の特別な様相を示しています。

 

南ベトナム

このバナーはベトナム共和国軍特殊部隊のもので、
記されているベトナム語の意味は

「ベトナム共和国特殊部隊は死するまで戦う」

というものです。

 

ベトナム共和国陸軍(ARVN)は、アメリカ、オーストラリア、韓国、
そして「山岳派」のアドバイスを受けて戦争に参加し、それゆえ
同盟国から多大なる技術支援を受けることになりました。

アメリカは南部の戦争遂行を支援するために洗練された装備と軍需品、
そして金銭と人員をふんだんに送りました。

しかし、南ベトナム政府は腐敗しており、混乱と国民の信頼を失うことになります。

アメリカやその同盟国によって戦争に多くが投入されたにも関わらず、
彼らは流れを変えることができませんでした。

クロスボウ

ベトナム戦争中、米軍特殊部隊と一緒に戦った中央高地の先住民、
「モンタニヤール」はこの狩猟用の伝統的な武器をベトコンに対し使用しました。

1966年1月18日発行 サイゴンポスト紙

サイゴンの主要な英字新聞の一つであるサイゴンポスト紙。
この日の見出しでは、サイゴンのトゥドゥック予備役軍学校および、
市内が標的になったベトコンからの攻撃を報じています。

この2年後の1968年は、北ベトナムと南ベトナム解放戦線が
南ベトナムに大攻勢をかける「テト攻勢」が行われます。

これによってベトナム戦争は流れが変わることになるのですが、
これはその2年前のテト休戦中であることに注意してください。

ちなみに「テト攻勢」の「テト」とは、ベトナム語で「節」のことで、
この場合は旧正月を意味するのだそうです。

テト攻勢はごぞんじのように、この一連の報道で路上の死刑がテレビで放映され、
リアルタイムの戦争の様子が世界中に衝撃を与え、戦争に疑問を唱える声が一気に高まり、

それを受けて反戦運動が激化して、以後、アメリカが脱ベトナム政策の
「名誉ある撤退」という方便を模索するようになったきっかけとされます。

 

続く。

 

 


「ドミノ理論」ベトナム戦争への道〜ハインツ歴史博物館@ピッツバーグ

2021-04-19 | 歴史

さて、それではピッツバーグのハインツ歴史センターの特別展示、
「ベトナム戦争」についてじっくりとご紹介していきます。

このエントランスからも、展示がスミソニアン協会の協力と
資料がベースになっていることがわかります。

■ 第二次世界大戦後のベトナムとアジア

ベトナム戦争:1945−1975

1945年、第二次世界大戦でもは壊滅的な傷痕を世界の人々に残して終結しました。
それから我々はどう歩んでいったのでしょうか。

という言葉から展示は始まります。

何度見直してもベトナム戦争が1945年から始まっていることになっており、
これは如何なる意味かと思いますが、続けます。

戦争中に日本が占領したベトナムでは、100万人以上が飢饉で亡くなりました。

うーん・・・軽く書いていますが、これだとまるで日本のせいで飢饉が起こったようですね。

ベトナムは1887年以来フランスの植民地となっていましたが、
ベトナム国内の民族派は1900年になると日本に留学生を送り、
日本の力を借りて独立をしようという運動を起こします。

アメリカ兵の姿が見えることから、独立後でしょうか。
地面に座っている行商の女たちが傘の下から珍しそうに見ているのがわかります。

独立したベトナムは、冷戦による世界の分断に巻き込まれることになります。

マッカーサーとトルーマンの後ろの地図をご覧ください。
赤で示されているのが当時の共産主義&社会主義国です。

「赤」が文字通り共産主義と社会主義の色であることは、
1800年代半ばに

「不当な資本主義システムの中で苦労している労働者の血」

を表すものとして定着しました。

日本が去った後、ベトナムに進駐したのは中国とイギリスでした。
続いてフランスが進駐し傀儡政権を樹立、再びベトナムの植民地化を試みます。

その少し前のアジアの状況が記されています。

1950年6月25日

北朝鮮が南朝鮮に侵攻
トルーマン大統領はフランスを支援するためにベトナム、ラオス、
カンボジアに軍隊を増援

1950年6月30日

トルーマン大統領、大統領令において陸軍を南朝鮮を
議会による宣戦布告の承認を得ずに実行

C-47輸送機はフランスのため軍事物資を輸送
トルーマン大統領、徴兵制の継続を承認する法案に署名

朝鮮戦争への介入の準備ですね。
第二次世界大戦が終わってほっとしていた国民も、
このニュースには失望し、さぞ反発したのではないかと思われます。

■ インドシナ戦争

アメリカの軍事援助

フランスは1946年から54年にかけて、ベトナム、ラオス、カンボジアでの
植民地支配を維持するために戦争を行いました。

アメリカはこれを支持しました。

トルーマンとアイゼンハワー大統領は、
インドシナでの共産主義者の乗っ取りを防ぐためには
植民地支配の維持が必要であると考えていました。

フランスがホーチミンの下で共産党主導の独立運動を打ち負かすのを助けるために、
アメリカはこの戦争のスポンサーとなり、費用の大部分を支払っています。

その割合はほとんど80%となっていますが、これって
本体というか中の軍はアメリカだったんじゃね?ってくらいですね。

その具体的なアイテムは、

大砲など 5,045

車両 30,887

銃 361,522

戦車 1,880

軍艦 2

航空機 454

に及びます。

結局、フランスはベトミンとして知られるホーの戦闘機に敗れました。

Vo Nguyen Giap2.jpg

軍指揮官であり「赤いナポレオン」と異名を取ったヴォー・グエン・ザップ将軍です。
優れた軍事戦術家であったザップは機動性を重視した戦略を好み、
その動きは神出鬼没と呼ばれ、その指揮ぶりは敵からも味方からも
畏敬の念を持って語られるほどだったといいます。

この戦争の最後の戦いは1954年のディエン・ビエン・フーで行われ、
フランスは敗北を認め、スイスのジュネーブで行われた国際会議で
ベトナムから撤退することを余儀なくされました。

 

■ ハリー・トルーマン大統領と朝鮮戦争

「アジア共産主義をターゲットにしたトルーマン」

核爆弾がもしニューヨークに落とされたらどうなるでしょうか?

1950年、コリアーズマガジンは、この絵画を添えた記事で
その恐ろしい結果を想像して見せました。

「紫とピンクがかった茶色の大きな波が街中に渦巻き、
それは数百フィートの高さで、怒れる海のように急上昇する。

家々が粉塵と化しブラウンストーンだけになった廃墟。

その波の向こうには禍々しい火が真紅に輝いている」

コリアーズはアメリカの原子爆弾が日本にもたらした壊滅と
その後の荒廃をアメリカ人に思い起こさせたのです。

超大国間の冷戦が引き起こす核戦争への恐れは世界中の人々にもたらされました。

この記事は、アメリカが対峙している冷戦の敵から齎されるものとして
その脅威に対する予防策を喚起する目的をもっていました。

第二次世界大戦後、自然発生的に始まった冷戦は、つまり
アメリカの民主資本主義対ソビエト連邦の共産主義の対立です。
対立の果てに得るものは、世界への影響力、つまり覇権でした。

ソビエト連邦が1949年に原子爆弾の試験に成功したあと、
緊張が急激に高まります。

そしてその同じ年、中国の共産主義者たちは内戦に打ち勝っていました。

驚いたことに、当時のアメリカにおける多くの当局者は、
アジアにおける共産主義の拡大を阻止するために、

「アメリカはより軍事的に行動しなければならない」

と結論づけたのでした。

余談のようですが、2020年に行われたアメリカ大統領選の混乱において
今まで断片的だったアメリカの政治の流れというか、
それをコントロールする大きな勢力の欲望みたいなものが
世界の人々に可視化できるようになってきたと思いませんか?

それでいうと、なぜアメリカが絶え間なく戦争に介入してきたか、
どんなお花畑の住人にもうっすらわかってくることがあります。

つまり、アメリカは戦争を望む勢力が政治に働きかけ、
それを実現させ続ける国であるということです。

この時アメリカの軍事行動を決定したのがその勢力であり、
その後のアメリカが関与した戦争の影にも
常にその推進力が働いていたというのがこの「結論」に現れています。

さて、この「結論」をを受けてトルーマン大統領はどうしたでしょうか。

トルーマン大統領はベトナム戦争のためにフランスに武器と金銭の寄付を行いました。
フランスは、ベトナム、ラオス、カンボジア(仏印インドシナ)を
再植民地化するために、共産党主導の独立運動と戦っていたのです。

この「反共産主義」こそが、アメリカを朝鮮戦争に導いた理由でした。

共産主義だった北朝鮮が1950年に韓国に侵攻を行ったとき、アメリカは
共産主義勢力と戦うために国連が承認した連合を組織し、主導しました。

その後の血生臭い戦争は3年後行き詰まりに終わりました。


朝鮮戦争で最も激戦となった長津湖(Chosin Resavoir)の戦いにおける海兵隊

このモニターは「WHY KOREA?」というドキュメンタリーを放映していました。

1950年度のアカデミー賞を受賞したこの作品は、20世紀フォックスが
米国政府と共同で、アメリカがなぜそのような遠い地域の紛争に介入しなければならないか、
その理由を世論に訴えるために製作したものです。

トルーマン大統領とその政府は、全米の映画館・劇場の所有者に
この映画を上映するようにと強く促しました。

アメリカの映画界が政治と深く結びついていることを、こんにち
世界中の誰もが知っていますが、決してそれは政府によって強権的に命令され
背面服従で従っていたというような構図ではないとわたしは思います。

映画界もまた戦争というビジネスによって恩恵を受け続けた企業だったということです。

しかしながら、「真珠湾」のような「リメンバー案件」を持たない朝鮮戦争に対しては、
さすがのアメリカ国民も否定派が多かったというのは事実です。

やっと終わったと思ったのにまた戦争か、しかも反共を旗印に?それ俺らに関係ある?
とうんざりする気分が蔓延しており、
この映画もそれを払拭するために作られました。

ちなみにこのとき、オハイオ州の映画業界団体は、

「聴衆全員がトルーマンの朝鮮政策を支持しているわけではない」

として、この上映を拒否しました。

■ アイゼンハワー大統領

ベトナムの分割を提案したアイゼンハワー

ベトミンはフランスに勝利しましたが、1954年のジュネーブ協定において、
一時的にベトナムは二つに分割され、統一を望んだ
ホーチミンはこれに反発しました。

しかし、アイゼンハワー大統領のベトナム共産主義支配に対する拒否感は、
米国の直接介入に対する「やる気」をビンビンに感じさせたので、
ソ連と中国は慌ててホーの支持にまわり、北緯十七度線で
国境を一時的に仕切る決定を受け入れるように彼に勧告しました。

そのうえで国を再統一するための選挙を1956年に設定したのですが、
南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領とアメリカの指導者たちは、
どうせホーが勝つと信じていたため、選挙を行いませんでした。

アメリカの批評家たちは、選挙を免除することそのものに疑問を呈しましたが、
アイゼンハワーは、それに対し、

「もし共産主義者たちが選挙結果を『盗む』ようなことがあったら、
アメリカの国益が危機に瀕するから選挙はしない」

と言い放ちました。

そうして、事実上の国境がベトナム北部と南部を分離し、
ホーチミンは北部の共産党政府を、
そしてゴディンジエムは
南部の反共産主義政府を率いるという体制ができたのです。

つまりベトナムを二つに分けたのはジュネーブ協定であり、
ソ連と中国であり、アメリカだったというわけです。

ドミノ理論

「最初のドミノを倒すと最後のドミノまで崩壊は一直線である

当時最も影響力のあったアイゼンハワーは、1954年、この支配的な比喩を使用して、
ダレス国務長官とともにベトナムとその隣国の問題へのアメリカの関与を主張しました。

この「ドミノ理論」とはつまりこういうことです。

「ある一国が共産主義化すれば、ドミノ倒しのように
隣接する国々も次々に共産主義化する」


この映画と地図のドミノは、1964年のCBSニュースに登場したものです。

ニュースが放映された1964年までに、アイゼンハワーの次のジョンソン大統領は
アメリカ軍のこの地域への関与をさらに拡大していました。

自由への道? North to South

ジュネーブ協定後10カ月で、ほぼ100万人の北部ベトナム人が南に移動しました。
その期間中だけ、北ベトナムと南ベトナムの間で自由な移動が許可されていたのです。

大量の移民を生んだひとつの要因として、北ベトナムで起こっていた
過酷な土地再分配の問題があったといわれています。

加えて、盛んに行われた米国発の反共産主義のプロパガンダと、移民の移動のために
アメリカ政府が無料で提供した交通機関もその動きに一役買っていました。

 

 

続く。

 


♪Take me out to the vaccination〜いまさら帰国報告

2021-04-18 | 歴史

スミソニアン博物館の「空母の戦争」シリーズが終わるまで待っていたら、
帰国報告が2ヶ月遅くなってしまいましたが、息抜きを兼ねて
アメリカ滞在と帰国のことを思いつくままにお話ししようと思います。

ピッツバーグに到着したのは、クリスマス直前でした。
コロナ下なので、クリスマスイブでさえ、バスが行先掲示のウィンドウに

「Stay Home」(家にいてください)

と表示して走り回るという異様な状態でしたが、それでも
街中や家々のクリスマスデコレーションは平常通りでした。

公園にあるもみの木にご覧の通り、勝手に飾りをつける人も・・・。

■ τβπ(タウ・ベータ・パイ)

ところで、今回のわたしの渡米目的はMKが学校指定のドームを退出し、
ここからは自分で選んだ住み家に引っ越しをしなければならないので、
退出日から入居日までの彼の身柄と荷物をホテルに預かり、
引越しとセッティングも手伝うというものでした。

彼の新しいアパートの部屋はここでも紹介しましたが、
驚くのがAmazon専用ロッカーが敷地内にあること。

ここに注文した時のURコードをピッとかざすと、瞬時に
たくさんあるロッカーのうち一つのドアが開き、中には
届いたAmazonの荷物が入っているというわけです。

アメリカにはこのようなAmazonロッカーが街角にあって、
指定すれば好きなロッカーに届けてくれるのです。

アメリカの配達人は不在でも持ち帰り・再配達をせず、留守なら
家のポーチやアパートのロビーにそのまま置いていったりするので、
盗難を避けたい人のために開発されたシステムです。


ところでいきなり親馬鹿自慢ですが、ちょっと嬉しかったので書いてしまうと、
MKが「τβπ、タウ・ベータ・パイ」(”食べたパイ”と覚える)に入会しました。

各大学にあるグリーククラブとは違い、こちらは向こうからのお誘いがないと入れません。
日本人であるわたしはもちろん知らなかったのですが、Wikiによると、

タウ・ベータ・パイ協会(通称:タウ・ベータ・パイ、ΤΒΠ、TBP)は、
米国で最も古い工学系名誉協会であり、大学では2番目に古い名誉協会です。
米国の大学で学ぶ工学系の学生のうち、学業成績が優秀で、
個人的にも職業的にも誠実であることを示した学生を表彰しています。
具体的には、「工学系の学生として優れた学問と模範的な人格を持ち、
または工学分野の卒業生として
功績を残して母校に名誉を与えた者を
適切な方法で表彰し、
工学系大学のリベラルな文化の精神を育成すること」
を目的として設立されました。

だそうで、ある日skypeでMKが

「τβπからインビテーションきたんだけど、入ったほうがいい?」

と聞いてきて初めて名前を聞いた次第です。

成績と社会貢献などの実績の審査を経て入会が決まるのですが、
1ヶ月経っても案の定何も言ってこないので、

「ところでτβπどうなったの」

と聞くと、

「入会したよ」

「オース(oath)とかした?」

「した」

「えー!やっぱりミリタリーみたいに手をあげたりするの?」

「オンラインで言われたことに”はい”とかいうだけ」

「なんだつまんない」

ちなみにτβπのメンバーには19人のノーベル賞受賞者のほか、

バズ・オルドリン(月面を歩いた2人目の宇宙飛行士
チャールズ・バックマン(コンピュータ科学者、データベース技術の先駆者
ジェフ・ベゾス(Amazon.com創業者
マイケル・ブルームバーグ(ブルームバーグL.P.の創業者、ニューヨーク市長
スティーブン・G・ボーウェン(宇宙飛行士
フォン・ブラウン(ロケット科学者)Wernher von Braun
フランク・キャプラ(映画監督
レオン・コルデロ(エクアドル元大統領
シーモア・クレイ(スーパーコンピュータの先駆者
フランシス・デスーザ(イルミナ社CEO
ドン・エイゼル(宇宙飛行士
トーマス・フランシス・ファレル(米国陸軍少将
C. ゴードン・フラートン(宇宙飛行士
フレッド・ハイズ(宇宙飛行士
リー・アイアコッカ(クライスラー元CEO
ケリー・ジョンソン(エンジニア)、米国のシステムエンジニア、航空分野の革新者
ドナルド・クヌース(コンピュータ科学者
バーナード・J・レヒナー(テレビ技術者、LCD発明者
カーティス・ルメイ(米国空軍大将
バージニア・シンク(化学エンジニア、クライスラー社初の女性自動車技術者

アポロ1号、スペースシャトル・チャレンジャー号、
スペースシャトル・コロンビア号で亡くなった7人の宇宙飛行士

ロジャー・B・チャフィー(アポロ1号
ガス・グリソム(アポロ1号
エド・ホワイト(アポロ1号
エリソン・オニヅカ(チャレンジャー号
ジュディス・レズニック(チャレンジャー号

がいるそうです。
ちょっと意外だったのは、外国人留学生でももらえるんだということ。

■ 雪の降る街

わたしが現地に到着してその冬初めてのスノウストームがありましたが、
その後はその雪が溶ける頃また大雪が降り、次の雪までにそれが溶けるという状態でした。

気温はだいたいマイナス8度から2度くらいをうろうろする感じです。
よくしたもので、寒さに全く耐性がないと思われた関西生まれのわたしも、
2月という通年を通して最も寒い時期を経験すると、最後の頃には
体が寒さにわりと慣れてきていました。

アメリカは全般的に建物の機密性が高いのか、部屋の中で
Tシャツで過ごせるくらい暖かい、というのもあります。

冬の日本で半袖で歩いているアメリカ人(なぜかそれは白人男性)を見て
驚いた経験のある人は多いと思いますが、たとえばこんなところと比べると、
日本の冬は「ちょっと涼しい程度」くらいにしか感じなくなるんだろうなと思います。

雪が降ってもほぼ毎日散歩をしました。
雪が降っている時はむしろ溶けかけより足元が安全です。

川沿いの遊歩道は何日かおきに除雪車がやってきて仕事をします。
そしてどんな天気の日にも走っている人が必ずいるのがアメリカ。

それどころか、この雪空にカヌーを漕いでいる老人がいるという・・。
装備を見るにどこかに用事で行くのではなく、エクササイズのようでした。

しかしこの人、万が一カヌーがひっくり返ったら、いろんな意味で終わると思われます。

一度だけ、ホテルの前を流れるオハイオ川が凍ったことがあります。
ここを根城にしているグースのカップルが、いつも通り着水しようとして、
氷の上をつーーーーーっと滑ってしまい、呆然としています。

雪が降り続いたあと、食べ物を探すのが大変な鳥たちにこんなプレゼントをした人がいました。

雪が溶けた後、川に住んでいるビーバーがなぜか土手の道に出てきていました。
かなり近づいて写真を撮ったのに、このビーバー氏、全く逃げません。

ビーバーは警戒心が強く、人が近づくと襲ってくることもあるそうですが、
この個体は何かの原因で弱っていたのかもしれません。

いつも歩きに行くシェンリー公園ですが・・・・。

謎の写真が。

アメリカ式雪うさぎ。

この公園も、雪が降ってすぐの場合はむしろ夏より歩きやすくなります。
夏場は滑り止めで撒いてある砂利で滑ったりするのですが、新雪だと
その上からフカフカの絨毯を敷いた状態になるからです。

ただし、その後晴天が続き、雪が溶け出して固まると、とくにゴム底の靴は
滑って全く歩けなくなります。

2度ほどそれで危険を感じて山に入るのを諦めました。

池は完全に凍ってしまいました。
歩いてみた勇者がいたらしく、足跡があります。

もっともここはせいぜい膝くらいの深さなので、もし割れてもあまり問題ないと思いますが。

■ グルメ

MKと一緒だとニュースは意見の食い違いから揉める原因となるので(笑)
料理番組ばかりやっているチャンネルしか観ません。

一番面白かったのは、「チョッパーズ」というシリーズで、
毎回各界の代表が専門家からなる審判団に素材を与えられ、
その場でコース料理を作って勝ち抜いていくという料理対決でした。

そしてわたし的にベストだったこの回は、

「アメリカ4軍対決」

すなわち、陸・海・海兵隊・沿岸警備隊出身シェフの対決です。
そのうちこの番組についてもご紹介することがあるかもしれません。

ピッツバーグでわたしが一番美味しいと思った(他で食べたことないですが)
バーガーのお店、「バーガトリー」は、テイクアウトやウーバーイーツで
結構繁盛しているようですが、イートインも開始しました。

店内のロゴがやたら凝っているバーガトリーですが、

”Thou shall not covet thy Neighbor’s shake. ”
(汝の隣人のシェイクを欲してはならぬ)

これは聖書の「出エジプト記」の、

Thou shalt not covet thy neighbour's house,
thou shalt not covet thy neighbour's wife, nor his manservant,
nor his maidservant, nor his ox, nor his ass,
nor any thing that is thy neighbour’s.

汝、隣人の家をむさぼってはならぬ
隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、また
すべて隣人のものをむさぼってはならぬ

アメリカ人ならほとんどがすぐにパロディだとわかるのね。

聖書の出典のパロディをやるだけあって、トレードマークに
天使の輪があしらわれ、バーガーのスティックが悪魔のフォーク。

ちなみに、ここにくるとつい頼んでしまうのが「Wagyu Burger」です。
ここのはどうだか知りませんが、アメリカのレストランでは、
必ずしも日本産でなくても「和牛」と呼んでいいようで、一度
「どこどこ(アメリカの都市)産のワギュウ」という説明を見たことがあります。

ピッツバーグを去る直前、最後にちょっと豪華ディナーを取ろうと、
この辺では割と有名らしいケーブルカーの終点の横にあるレストランに行きました。

その日は到着の日と同じくらいの激しいスノーストームが襲来し(涙)
高台に続く山道(もちろん初めて走る)を死ぬほど怖い思いをしてたどり着きました。

今度は吹雪でない日にぜひ来てみたいものです。

白身魚の(何だったか忘れた)ムニエルでございます。

料理はいわゆる創作アメリカン的な?
正直ちょっと味が濃すぎて半分も食べないうちに飽きてしまいました。
ちなみにアメリカのレストランで出てくる料理はアメリカ人にとっても量が多く、
ほとんどの人がお店にパッケージをもらって持ち帰ります。

これをレフトオーバーというのですが、レフトオーバーは
次の日アレンジされて(あるいはそのまま)昼ごはんになったりします。

アメリカでも大正義の大衆料理の王様、チャイニーズですが、
これは飛び込みで入ってみた台湾料理の麻婆豆腐。

アメリカの日本料理はほとんどが中韓人の偽ジャパですが、
そのほかのエスニックはたいていその国の人が作っているのであまり外れません。

■ 野球場でワクチン注射大会

ある晩、夜にはほとんど車も通らないホテルの前の道に、長時間
ライトをつけて止まっている車があったので注意してみていたら、
いきなり中から男女二人が出てきてロケを始めました。
街角に立ってニュースを解説するアナウンサーと、それを撮影するカメラマンです。

何があるんだろうと思って調べてみると、これでした。

ホテルの隣にあるPNCパークで、週末を利用してコロナワクチン接種を行う、
ということを、夜間その球場の前に立ってお知らせしているのです。

AHNというのはアレゲニー郡ヘルスネットワークのことで、対象は
前もって予約した70歳以上の人ということでした。

んで次の日、コロナで夏の間全く利用されなかった球場の駐車場が、
関係者とワクチン摂取するお年寄りを連れてくる車でこの通り。

この週末、車で混雑する球場前という光景を初めて目撃しました。

球場だとテントを設営すれば密室での混雑を避けつつ人を集められます。
ニュースによると、この日はピッツバーグだけでなく、ボストンの
レッドソックスのホームグラウンドであるフェンウェイ球場などでも
同じようにワクチン摂取会場として球場が場所を提供していたそうです。

「わたしを野球に連れてって」

という歌がありますが、野球場も疫病流行以降無観客試合ばかりで、
久しぶりに連れていかれるのがボールゲームでなくワクチン接種でした、
なんてことになるのを一体誰が予想したでしょうか。

さて、とかなんとか言っている間に帰国が迫ってきました。
このとき初めて知ったのですが、アメリカでは搭乗時間までの48時間以内に
PCR検査を受けてその結果をカウンターに見せなければ乗せてもらえません。

で、どうするか調べてみたら、なんとウォルグリーンとかCVSとか、
どこにでもある大型ファーマシーのHPで予約して、その時間にドライブスルーで
専用窓口に行けば、向こうが注文を聞いてくれるので・・じゃなくて、
窓の向こうにいる人が、ポストの中に検査キットを入れてくれるので、
それを運転席に座ったまま取り出し、向こうから

「検査棒の入っている容器の端っこを折ってください」

「中の棒をどこにも触れずに取り出してください」

「ではそれを鼻に突っ込んでぐりぐりーっと回してください」

「30秒ぐらいですね」

「それではそれをもう一度中に戻して蓋を閉めて袋に入れて」

「できたらポストに入れてください」

と言われるがままにやって、あとはメールに結果が来るのを待つのみ。

二日後、ネガティブの結果が出ました。
PCR検査システムの会社は「イージス」という名前です。

「エスニシティ」でなぜわざわざ「ヒスパニックではない」としなければならないのか、
ちょっとわけわかりませんでしたが・・・。

あと驚いたのは、検査代が無料だったことです。
有料にすると、お金のない人が受けに来ないせいかな。

■ 帰国

帰国は最初に予約した便が欠航になり、色々あって予定は1ヶ月伸びました。
それなのに、シカゴからのANAはご覧の有り様。
このキャビンにはわたしと画面に写っている男性ふたりだけでした。

オヘア空港に着いて飛行機を降りたとき、あまりに寒いので驚いて
すぐにスマホを見たら、マイナス12度でした。
シカゴ恐るべし。

シカゴが実は五大湖のすぐ近くだと実感した瞬間。
地図を見たらほとんどミシガン湖畔の街なんですね。

よせばいいのにステーキなど頼んでしまい、猛烈に後悔しました。
理由は、おそらく画像を見てみなさんが予想したとおりの味だったから。

少しうとうとしてふと目を覚まし、窓を開けてみたらあまりのすごい光景に息を飲みました。

ちょうどFAが通りかかって、

「アラスカ上空です。ちょうどいいときにご覧になれましたね。
どうぞ眺めをお楽しみください」

と声をかけてくれました。

帰国して2週間の自宅待機期間、なんと居住地の保健所から
何日かおきに生存確認?メールがきて、それに1日経っても返事しないと、
なぜ返事ができないのか?みたいな詰問調のメールがくるという、
日本のお役所仕事の律儀さに舌を巻くような体験がありました。

「自宅待機継続中です。体調異常ありません」

こんなメールを毎日何十人となく点検する係の人も大変です。

 

 

 


ジョン・ハインツ上院議員記念歴史センター@ピッツバーグ

2021-04-16 | 博物館・資料館・テーマパーク

何度かお話ししている通り、ピッツバーグはあのハインツの発祥地です。
フットボールのスティーラーズのホームグラウンド、ハインツフィールド、
最初にここで起業したときのハインツ工場跡が周りにもあるわけですが、
このハインツヒストリーセンターは、会社のハインツではなく、
飛行機事故で若くして亡くなった共和党の上院議員、

ヘンリー・ジョン・ハインツ三世(1977−1991)

に因んだ名前となっています。

COVID-19の騒ぎの前、見学したときの写真をもとに、しばらくの間
この展示についてお話ししていこうと思います。

ハインツ歴史博物館に足を向けたのは、2019年の夏のある日のことでした。
ストリップ地区という?な名前の地域にありますが、そこにいくのに
ダウンタウンを通り抜けていくことになりました。

ピッツバーグには大きなユダヤ系のコミュニティがあるため、
ベーグルにハズレがあまりないと言う印象があります。

「アインシュタイン・ブラザーズ・ベーグルス」

というなかなかにキャッチーな店名のこのお店、
美味しいかどうかはわかりませんが、ロゴが可愛いので写真を撮りました。

ヒストリーセンターに到着。

ハインツの旧工場と同じく、総煉瓦造りの建物は築100年くらいだそうです。
ちなみにハインツ工場跡は、Heinz Loftという名前のアパートになっていて、
内部はちょっと住んでみたくなるほどおしゃれに改装されています。

ジョン・ハインツ上院議員ヒストリーセンターという総合名称のもと、
ここハインツ歴史センターの他、ペンシルベニアスポーツ博物館、
(わたしが前回行き損なった)フォートピット博物館、メドウクロフトロックにある
シェルターと歴史村、図書館などが包括されています。

さて、わたしがなぜここにきたかと言うと、通りすがりにこの看板を発見したからです。

「ベトナム戦争」。

第一次・第二次世界大戦の資料を展示する戦争博物館は、
アメリカで航空博物館を中心にいくつもみてきましたが、
ベトナム戦争だけに特化した展示が行われているのは初めて見ました。

お土産物ショップのガラスにはこんなディスプレイも。
ヘリコプターのシルエットが見えますが、ベトナム戦争といえばヘリコプターですよね。

しかし今日は建物エントランスに展示されている
車などをご紹介することにします。

広いエントランススペースには休憩用のテーブルや椅子があって、
何時間でも時間を潰すことができます。

奥に「ピッツバーグ」と行き先の書かれた車両が見えますが、
これはどうもかつてピッツバーグ市内を走っていた電車のようです。

これですね。
車体番号は現物が1724で写真が1711です。

世界中のほとんど全ての路面電車と同じく、1902年に始まった
ピッツバーグの路電は、車の量が増えるとともに廃止されていき、
1964年には全廃止となりました。

前で写真を撮っている人がいますが、おそらくこの人が生まれた頃には
路面電車はもう走っていなかったのではないでしょうか。

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コネストーガ(Conestoga)ワゴン

1784年、ジョージ・フレックとその家族はこのワゴンで
アレゲニー山脈を越えてペンシルバニア州西部にやってきました。

当時、ほとんどの家族は牛車に所有物を乗せ、歩いて移動を行いました。
コネストーガ幌馬車は、大量の貨物を輸送することができたので
一般的に使用されており、当時のトラクタートレーラーのようなものです。

「ペンシルバニア・ターンパイクのコネストーガ幌馬車」

ターンパイクという言葉は新しいものではなく、18世紀後半に出現した
道路の管理をするために通行料を取る有料道路のことを言います。

民間企業が管理を行なっていたことから運用が混乱を招き
廃止になっていましたが、第2次世界大戦後、高速自動車道に
「有料道路」という意味でこの言葉が復活したものです。

これは一眼見ればわかる、ハインツで使われていた輸送車ですね。

「テーブルのための良いもの」(Good things for the table)

というのが当時のコピーです。

1919年 ニューヨーク消防署の消防車

American LaFrance Fire Engine Company(ALF)は、消防車、救急車などの
緊急出動車に焦点を当てたアメリカの自動車メーカーです。

フランス系の「ラフランス」一族によって設立され、2014年まで創業していました。

創業は1832年、アメリカンラフランス消防車会社は米国で最も古い消防車メーカーの1つで、
1907年には最初の電動消防車を扱っています。

フォード デラックスセダン 1936年

ペンシルバニア州で製作されたステンレス鋼ボディの光り輝く仕上げ。
これはステンレス鋼本来の素材である証です。

製造されてから」85年が経過し、走行距離は20万マイル以上ですが、
ごらんのようにボディはまだ新品のように輝いているのが驚異的です。

この車は地元企業のアレゲニースチールとフォード社によって設計されたもので、
ステンレス鋼の実用的な使用法とともに宣伝にもなっています。

デトロイトで組み立てられたあと、車はNY、フィラデルフィア、クリーブランド、
シカゴ、デトロイトなどの地区に派遣されて、そこでデモ運転を通して
ステンレス鋼の価値とその能力についてアピールを行いました。

ステンレス鋼への関心と興味が高まるだけでなく、この金属の耐久性、
摩耗、そして腐食に対する耐性を宣伝するのがその目的です。

ステンレス鋼ボディはそうでないものに比べ明らかに長持ちします。

車は1947年まで広告塔としての役割を務め、その後引退しました。

左がこの1936年フォード、真ん中が1967年リンカーンコンチネンタル
そして右が1960年サンダーバードです。

これは2〜30年新しい車(当時にして)と比べてもこの艶は遜色なし、
ということをアピールするために一緒に写されたものだと思われます。

バンタム偵察車 BRC 40 アメリカンバンタム自動車会社製 1941

実はペンシルバニア西部は「ジープ発祥の地」なんだそうです。
アメリカが第二次世界大戦に参加する19カ月前の1940年、アメリカ陸軍は
オートバイの代わりとなる偵察車の入札を要求しました。

需品科は全米の135の自動車メーカーに入札セットを送信しましたが、
ほとんどの企業はこの厳しい期限と厳格な仕様を満たすことは不可能であるとして辞退。

しかし、そんな中ペンシルバニア州バトラーのアメリカン・バンタム・カンパニー
オハイオ州のウィリス・オーバーランド社だけがこの入札に応じ、前者が受注を受けました。

わずか49日の期限内にアメリカン・バンタム社はプロトタイプを素早く手作業で製作し、
第二次世界大戦の勝利に寄与するための有益な車両を納品することに成功しました。

しかし、陸軍は、この会社には迫りくる戦争のために大量のジープを製造できない、
と判断したため、製造の契約はフォードと競争相手のウィリス・オーバーランドに行き、
バンタム社にはジープトレーラーを作るための「慰めの契約」が申し訳程度に与えられました。

いいのかこれ。

とはいえ、第二次世界大戦の間、SUVに続いてウィリス・オーバーランドによって
生産された民間用ジープと、今日わたしたちの高速道路を混雑させている(笑)
四輪駆動車は、ここペンシルバニア州西部で生産されたバンタムジープが元になっています。

第二次世界大戦の間、バンタムジープのプロトタイプを元に、
60万台のジープが大量生産されました。

1948年、ウィリス・オーバーランドは、現在のSUVSの前身である、
四輪駆動の63馬力のジープステーションワゴンを発表しました。

20口径 ロッドマン砲 1864年

1861年から1865年の間に、ピッツバーグのフォートピット鋳造所は、
2000基以上の大砲と、数千発の砲丸と爆弾を製造しました。

しかし、鋳造所が製造したものの中で、トーマス・J・ロッドマン少佐
20インチ砲の規模に匹敵するものはありませんでした。

砲身だけでも役117,000ポンド(約53トン)の重さがあり、
200ポンド(90kg 強)のマンモス火薬を装填すると、
1,080ポンド(490kg)の鉄球を4マイル(6.5km)飛ばすことができました。

Thomas J. Rodman トーマス・ジェファーソン・ロッドマン

1850年代、ロッドマン少佐はアレゲニーアーセナル(武器庫)の司令を務めていましたが、
このとき、コアから組み上げた水を使用して金型内で冷却することにより、
中空鋳造の「コロンビヤード」(大型大砲)の新しいプロセスを開拓しました。

この革新は、南北戦争以前に頻繁に発生した致命的なこれらの大型砲の自爆を防ぎました。

10インチ、15インチの口径による多数のロッドマン砲が製造されましたが、
このような巨大な20インチ砲は1864年2月まで鋳造されませんでした。

80トンの溶鉄と4ピースの鋳型が必要で、冷却に1週間かかったと言います。

政府がこのためにかけた費用は約3万3,000ドルで、
ニューヨークを見下ろすフォートハミルトンに設置されました。

ロッドマン砲は沿岸防衛のための兵器として設計されました。
リンカーン政権は、一発で船を沈めることができるスーパー砲を望んでいたのです。

ロッドマン砲はロードしてから照準を合わせるのに10分近くかかりましたが、
一度ヒットすればその破壊力は比類のない強烈な効果を生みました。

重量はそれぞれ約7,000ポンド(3トン)の2本のスチールレールにかかっています。

この写真は、1876年、「100年記念博」という展覧会で展示されたロッドマン砲であり、
ここで見ることができるものと同一になります。

右側に座っているのはフォートピット協会の責任者だったジョセフ・ケイという人です。

エントランスロビーの一角にはおしゃれな雰囲気の売店があります。

「世界一いい人」ミスターロジャース・ネイバーフッドコーナーもあり。

これは併設のお土産ショップのミスターロジャースコーナー。

しかし、今までロジャースのグッズを持っているorつけている
ピッツバーガーにお目にかかったことはありません。

いくら好きでもグッズでアピールするような対象ではないってことでおk?

ちなみに、ミスターロジャースの映画を当ブログでも紹介したことがありますが、
昨今トム・ハンクスの良からぬ噂を聞き及び、よりによって”こういう”人物が
”ああいう人”を演じるのはブラックジョークだなと思ってしまったのはここだけの話。

噂ですけどね?

わたしがもし買うならこっちかな。
ニコラ・テスラグッズ。

でも、もしあなたがYinz(=ピッツバーグの”おまえら”の意)なら、
間違いなくパイレーツスティーラーズのグッズだよね。

さて、というわけでようやく本丸の展示に進んでいくわけですが、この部分の壁に
大きくウェスティングハウスのマークが掲げられていました。

ハインツヒストリーミュージアムのコレクションにはウェスティングハウス関係
(彼もまたピッツバーグに縁の深い人物だったので)のものがあります。

このことを調べていたら、ウェスティングハウスのタイムカプセルなるものが
設置されたという記事を見つけました。

The Westinghouse Time Capsle

宛先は5000年後、カプセルの中に科学、宗教、哲学、工学、芸術に関する
マイクロフィルムテキストのリールのほか、歯ブラシ、電気かみそり、
お金、野球など、40以上の一般的な使用品などが入っているそうです。

 

さて、それでは次回からベトナム戦争についての展示をご紹介していくことにします。
どうぞお付き合いください。

 

続く。

 


「日本への道」〜スミソニアン航空宇宙博物館「空母の戦争」最終回

2021-04-14 | 歴史

スミソニアン航空宇宙博物館の「空母の戦争」シリーズ、
ようやく最終回となります。
アメリカが日本本土に攻撃を行うに至ったことを、
このコーナーのタイトルでは

「日本への道」

としているわけですが、この侵攻においてもアメリカ軍の推進力となったのは
やはり空母であったことはまちがいありません。

というわけで、この地図は1945年の連合軍の作戦図となります。
南太平洋からカロリン諸島を飛び石のように進行してきて
アメリカと連合軍のステージはいよいよ日本本土に迫ってきました。

マッカーサーの南太平洋部隊はフィリピンに上陸し(左下)
マケインのタスクフォース38は台湾経由で南シナ海へ、
そしてミッチャーのタスクフォース58はサイパンを取った後、
硫黄島を経て沖縄、東京への爆撃、そして最終的に
赤い爆発マーク💥で表される広島と長崎への原爆投下となったわけです。

ここにはこのように記されています。

1944年の最後の数ヶ月間、高速空母がフィリピンの侵攻を支援し続けている間、
日本の神風特攻隊の攻撃が激化し、5隻の米軍空母が被害を受けました。

1945年に沖縄の侵攻が始まり、ハルゼー提督は第三艦隊を南シナ海にみちびき、
そこでインドシナの湾岸線を攻撃しました。

次第に米空母艦載機による東京への本土爆撃は当たり前になっていきましたが、
その反面台風神風特攻隊が米軍の艦船や人命を奪うことになります。

日本の聯合艦隊の「残骸」は呉港で攻撃を受け、全壊し、
偉大な戦艦「大和」も斃れました。

そして1945年8月6日、広島は原子爆弾投下により壊滅的な打撃を受けました。

英語媒体では特攻隊のことをすべてカミカゼと称しますが、
「特別攻撃隊」という言葉が翻訳されていないので、
特攻隊=カミカゼアタック、が正式な訳語となります。

実際にはカミカゼは正しくは「シンプウ」であり、さらに全体名称ではなく、
特別攻撃隊の部隊名のひとつにすぎない、ということを知っているアメリカ人は
ほとんどいないのではないかと思いますが、とりあえず説明を見てみましょう。

■ カミカゼ ”DIVINE WIND”

この頃になると日本軍は空中戦において優位で数が十分な時と違い、
アメリカ艦隊に対する従来の空襲は成功する可能性はほとんどないと結論づけました。

唯一の望みは、経験の浅いパイロットを敵艦の甲板に激突させることで
航空機に直接誘導ミサイルの役目を果たさせるということでした。

レイテ沖海戦から終戦までの間に、約2500機の日本軍航空機が
連合国の軍艦に対する「自殺任務」に派遣し、そのうち「ヒット」したのは
アメリカ側では474件と記録されています。

連合国艦隊に対するこの神風特攻隊の攻撃は、
太平洋における戦争の最終的な結果を変えることは決してありませんでしたが、
アメリカの艦船の全てのクラスで大きな損害と命の損失があり、
それが与えた影響は「異常」なものとなりました。

大西瀧治郎帝国海軍中将

第一航空艦隊長官であった大西提督は、神風特攻隊のコンセプトについての
創案とその展開に寄与した人物としてクレジットされています。

それまでそのような戦術が歴史上大規模に試みられたことはありませんでしたが、
そこには確かに戦略上の利点があることが大西提督によって明らかにされたのです。

自殺ダイブは航空機の経験の浅いパイロットにも実行が可能な上、
墜落を制止するのが実質非常に困難であり、それを阻止するには
到達前に航空機を破壊するしか方法はないという点で画期的でした。


いろんな特攻についての英語での記述を見てきましたが、
これほど特攻の効果について端的かつ率直に述べているのは初めて見た気がします。

感情的な判断はともかく、人道上の是非などを取っ払ってそのものをみた場合、
確かに特攻というのは戦略的利点が少なくない戦法であることは確かです。

だからこそ追い詰められた日本がその道を選択したということなのですが、
ここでは実際の作戦としての採用までの苦渋の経緯と、戦後大西が
特攻隊員の死の責任を取って自決したことなどは一切触れられていませんので、
まるで特攻が効率第一で選択されたかのような印象を受けます。

”DEATH FOR FAMILY AND COUNTRY”(祖国と愛するもののための死)

これらの若いパイロットたちの多くは、大学在学中あるいは卒業したばかりであり、
高貴ではあるが絶望的な目的のため自らの命を犠牲にして
「片道任務」(ワンウェイ・ミッション)を行おうとしています。

日本の軍事指導者たちは、彼らの感動的な犠牲が国民の士気を高め、
一方で敵に不安と恐怖を与えることを期待していました。

”Near Miss" ニアミス

陸軍兵士と海兵隊員が沖縄の洞窟と掩蔽壕を通り抜けながら戦っている間、
海上沖合の艦隊乗員たちは負けじと同じように激しい砲火を行い、
戦いに身を投じていました。

そして侵攻艦隊に対する激しい空中からの攻撃は1945年4月から毎日行われました。

戦艦「ミシシッピ」が迫りくる特攻機からかろうじて被害を逃れた瞬間です。

しかし「ミシシッピ」はこの後6月5日にやはり同じ方向からの攻撃により、
右舷の船殻に激突して上部「ブリスターコンパートメント」に中程度の損傷をうけた、
とあり、1月にも特攻機による中程度のダメージを記録しています。

カミカゼの痕”Aftermath of Kamikaze”

この惨憺たる光景は、1945年5月4日、琉球で特攻機が突入した後の
護衛空母「サンガモン」のハンガーデッキの様子です。

「サンガモン」(USS Sangamon, CVE-26)は、イリノイ州の
サンガモン郡のサンガモン川に因んだ名前で、もともとは
民間のオイル会社の所有だったのを海軍が買い取って給油艦にしていました。

  •  

太平洋ではクェゼリンとエニウェトクの戦いに参加し、ニューギニアで展開。
サマール沖海戦で初めての特攻の洗礼を受けます。

そして5月4日、慶良間諸島で航行していた「サンガモン」は
特攻機部隊の攻撃を受け、これに対して陸上戦闘機が9機を撃墜しましたが、
残る1機は19時ごろに「サンガモン」の左舷艦尾部めがけて突入してきました。

これをかろうじてかわしたのち、一機(陸軍飛行第105戦隊三式戦「飛燕」
もしくは海軍第17大義隊の零戦)が雲の中から突入し、操舵室中央部に命中。

爆弾は艦内部で爆発し、わずか15分の間に、艦のあちこちから
制御不能なほどの火災を起こし、この結果、
死者11名、行方不明者25名、21名の重傷者を出しました。

必死の消火活動が終わったのは突入から約4時間後のことです。
生き残った乗員たちは互いの幸運と健闘を称えあって、
皆でアイスクリームを食べました。🍦

そして乗員の一人はアイスクリームを舐めながら(たぶん)

「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は俺より立派だ。
俺には、あんなことはやれなかっただろう」

と呟いたといわれています。

「サンガモン」は最終的には1960年8月に大阪で廃棄処分となりました。

■ 本土攻撃”Attack On The Japanese Homeland”

1945年7月1日、ハルゼー提督はマケイン提督のタスクフォース38と共に
レイテ湾を出発し、日本本土を1ヶ月にわたって襲撃しました。

その目的は、残存している日本の空軍力、海軍力、そして商船を破壊し、
通信と工場に壊滅的な打撃を与えることでした。

Japan Naval Base at Kure Harbor, Honshu in Ruins

帝国海軍聯合艦隊の残存している艦艇を殲滅するために
空母を使って空襲が行われました。

戦艦「榛名」は一番最初に攻撃によって着底したと報告されます。

1945年6月22日、「榛名」は6月22日B-29の直撃弾を受け、
江田島の小用海岸で防空砲台として係留されていましたが、
7月27、28日の呉軍港空襲により、マケイン中将率いる
第38任務部隊により20発以上の命中弾を受けて大破浸水、着底しました。

”Fightin Hannah" ファイティン・ハンナ

このコピーはUSS「ハンコック」のニュースレターで、メジャーな軍艦で
定期発行されていた典型的なタイプの刊行物です。

1944年4月15日に「ハンコック」が最初のオペレーションを開始してから
1945年8月15日、つまり戦争が終わった日まで刊行されました。

「ハンコック」の愛称は女性名の「Hannah」だったんですね。

写真の説明は、

「1945年1月12日に私たち自身の500ポンド爆弾が誤って爆発した後の
飛行甲板の様子です」

続いて

「1月23日1600、我々は悲しいことに、爆発と火事で命を落とした
7名の士官と43名の下士官兵を海に葬りました。
1月23日、ウルシーに入港後すぐに迅速な修理が始まりました」

右側は

「6回の攻撃が我々の甲板を通り過ぎ、それら全ては日本の空軍に
空中での大混乱を起こさせました。
17機のジーク、4機のヴァル、16機のオスカー、6機のトージョー、
2機のベティ、2機のディナ、5機のトニー、19機の正体不明の敵機が
全て空中で破壊されました」

などと書いてあります。

 

[昭和20年] No.TS-256

■ ”Hiroshima" 広島・日本

1945年8月6日、アメリカ陸軍航空隊の3機のB-29爆撃機が広島上空に接近しました。
午前8時15分、ポール・チベッツ少佐操縦の先導機である「エノラ・ゲイ」は
原子爆弾を投下し、およそ7〜8万人の人々が爆発と火事で即座に亡くなりました。

8月9日、テニアン島から飛来したB-29が、長崎に2発目の原子爆弾を投下、
これによって3万5千人の人々が殺害されることになります。

8月15日の朝、ニミッツ提督は降伏のメッセージを受け取りました。
戦争は終わったのです。

この「降伏」にはsurrenderではなくcapitilatedが使われています。

■ ”WAR OVER" 終戦

「戦争は終わった!」

と赤字で大きく書かれたニュースは、先ほどの「ハンコック」発行の
「ファイティング・ハンナ」特別版です。

日本が降伏し、戦争が終わると同時に、この艦内紙の役割も終わりました。
1945年8月15日が「ファイナル・エディション」(最終回)となっています。

そして「ミズーリ」艦上でニミッツ提督がサインしている写真が
このコーナーの最後にありました。

調印式についてはテーマの「空母の戦争」とは関係がないので省略しますが、
今回ハルゼーについて調べていて、このとき、重光葵元外相調印を行うのに
手間取っているのを(片足が義足なので当然ですが)
見苦しい引き延ばしと思い、

「サインしろ、この野郎!!サインしろ!」

と罵り、また、調印式の最中は

「日本全権の顔のど真ん中を泥靴でけとばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」

と言っていたというのを知り、すっかりこのおっさんが嫌いになりました。

さて、スミソニアンの「空母の戦争」の最後に、
「エセックス」に帰還したものの、敵の銃撃で死亡していた銃撃手を
愛機の「アベンジャー」ごと海に葬っている高画質映像をあげて終わりにします。

着艦後、航空機から遺体をおろさずに死亡確認をして指紋を取り、
皆で甲板から機体を海に落とす一連のシーンです。

LOYCE DEEN TRIBUTE—TBF Avenger Gunner, Killed In Action, Burial At Sea, USS Essex (CV-9)—NOV 5, 1944

 

スミソニアン博物館「空母の戦争」シリーズ終わり

 


1945年4月の新聞が報じる「阿波丸」事件〜スミソニアン航空博物館

2021-04-11 | 歴史

スニソニアン博物艦が空母の実物大展示とともに公開している
「空母の戦争」コーナーは、ついに最終章に入りました。

「日本への道」

というのがその最後のタイトルとなります。
真珠湾攻撃という空母の攻撃に始まり、日本本土への空母の攻撃に終わった
第二次世界大戦の太平洋での戦いですが、そのコーナーに
日本本土への攻撃がいよいよ始まったことを報じる新聞が展示されていました。

 

■ 1945年4月のアメリカ新聞が報じたこと

 

「ザ・ベイカーズフィールド・カリフォルニアン」という
あまり聞いたことのない新聞が展示されています。
まず大見出しは、

「東京大混乱 1500機の海軍機による爆撃後の炎」

これはどうも3月10日の東京大空襲の成功を報じているようですね。
どうやってそれを知ったのかは字が不鮮明でわかりませんが、
この攻撃の時東京では演奏会がおこなわれていて、それが中止された、
という小見出しが下の方に見えます。

映画「怒りの海」をここで紹介した時に、なんとなく非常時下の日本では
歌舞音曲の類が厳しく制限されていたような印象を持っていたので、
戦時下であっても当時の日本では演奏会は普通に行われていたし、
新響などの交響楽団も活動していたことを知ってちょっと驚いた、
ということについて書いたばかりですが、この見出しの「演奏会」が
文字通りの演奏会だったのだとしたら、その情報を裏付けることになります。

 

そしてその右下の2番目に大きな見出しは

「巨大なる我が米国艦隊 日本と戦う:ルソンのジャップを閉じ込める」

バターン、コレヒドールでマニラが陥落した後、日本軍はルソンに展開し
そこで米軍と死闘を繰り広げますが、食料の補給が途絶え、散逸した兵力は
追い詰められ、20万人がここで死んでいくということになります。

この見出しの「巨大米国艦隊」とは、キンケイド提督率いる第7艦隊を意味します。

そして対日本関連の見出しとして、

「ジャップのプリズンシップが沈んで1800名の同盟国人が死亡」

とあります。
プリズンシップというのは存在せず、要は貨物船で捕虜を輸送していたところ、
実はこれをアメリカ軍が攻撃して沈めてしまって、みんな死んでしまったよ、
というニュースですが、これは、時期的に「阿波丸事件」のことであります。

■ 阿波丸事件


阿波丸事件については昔(ブログを始めてまもない頃だったかな)
北京原人の頭蓋骨を載せていて、これが沈没によって失われたという
「噂」にからめて書いたことがあります。

 

ちょうどこの新聞が発行される前の1945年4月1日、シンガポールから日本に
2000名の乗船者を乗せて航行していた貨物船「阿波丸」が、米海軍の潜水艦、

潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393)

の雷撃により撃沈されました。

「阿波丸」には安導権(Safe-Conduct)という病院船に準じる保護が約束され、
米軍も「阿波丸」の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令していました。

しかし、潜水艦「クイーンフィッシュ」は台湾海峡で航行中の「阿波丸」に
潜望鏡における目視を行わずに攻撃を開始し、1分後には撃沈させてしまったのです。

これによって、「クィーンフィッシュ」が救助した、たった一人の捕虜を除く
乗員2000以上の人々が死亡しました。

新聞の記事には1800名のAlliesが死亡、とありますが、
それが全部捕虜だったのではありませんし、そもそも「阿波丸」は
新聞がいうような「プリズンシップ」などではなかったのですから、
ずいぶんいい加減な情報をもとに報じられていたのだなと思います。

見出しの論調を見ても、なんとなくですが、日本への非難調であることから、
記事では
安導権を無視した自軍の攻撃であることにはふれてもいないんじゃないでしょうか。

 

それでは「クィーンフィッシュ」はなぜ緑十字をつけた「阿波丸」を攻撃したのでしょうか。
後から軍法会議などで当事者の聞き取りを行ったところ、主な理由は

●命令書を艦長が確認しておらず、
「阿波丸」の位置情報の連絡も間に合わなかった

●情報そのものの文章があやふやだった

しかし、この理由意外に不思議なことがあります。

艦長はレーダーで発見した艦影をろくに視認もせず、
軍艦だと誤認したため、攻撃したと証言しているのです。

うーん・・・そんなことって、ある?

Charles Elliott Loughlin USNA.JPG

と訝しむ前に、ここに至った経緯を辿ってみましょう。

まずは「クィーンフィッシュ」艦長、

チャールズ・ラフリン(Charles Elliott Loughlin)

のこの時点に至るまでの戦歴から洗っていこうではありませんか。

まず、「クィーンフィッシュ」第1回目の哨戒です。

このときウルフパック(群狼作戦、潜水艦のチーム攻撃)で撃沈した
楽洋丸」ですが、これにも実は同盟国捕虜が乗船していました。

しかし、このときラフリンはこのうち18名を救助したことが評価され、
最初の海軍十字章を受章しているのです。

つまり、

敵船に自国の捕虜が乗っていて、これを知らず撃沈して殺害せしめても
戦時下では、このこと自体なんらの咎められることはなかった

ということがお分かりいただけると思います。

第2の哨戒では陸軍の特殊揚陸艦「あきつ丸」を撃沈しました。
この戦果に対して「大金星」を射止めたとして、ラフりんはまたしても受賞されました。

問題は、第3の哨戒で行なった船団攻撃です。

結論から言うと、ラフりんはこのときの攻撃に艦長になって初めて大失敗しました。

どう失敗したかは知りませんが、ウルフパックの僚艦、「バーブ」艦長
ユージーン・フラッキー少佐(ラッキー・フラッキーとあだ名のあった人)に、

「信じられんほど下手な魚雷発射w」

とディスられ、本人は日誌に「ちくしょおー!」と書くほどこれを悔やみました。

そして本人はもちろん、乗員一同もこの屈辱に対し、

次の哨戒でなんとか傷ついた評判を回復してやるぜ!

と心に誓った、その「次の哨戒」で遭遇したのが、「阿波丸」だったのです。

 

直前に、潜水部隊司令官ロックウッド中将は、「阿波丸」の安導権情報と航路、
緑十字を艦体に塗装していることなどを発信しましたが、
一度目の電文をラフりんも乗員も、つまり誰も目にしませんでした。

しかも、続いて2回目に届いた電文を見たラフりんは、なぜか

「生まれてから、こんなアホな電文は見たことがない!」

と言い放ちこれをガン無視。

書式が稚拙だったので意味がわからなかった、といいたかったようですが、
電文がアホでも内容がわからなければなんとかわかるようになんとかしろよ、と。

 

そして案の定、ラフりんは濃霧の中で発見された「阿波丸」を、駆逐艦だと思い込み、
いやっほーい!とばかり攻撃して、瞬時に沈めてしまった。というわけです。

「阿波丸」は濃霧の中すぐに沈んでしまったので、相手がどんな船だったか
確認する間もなかったのですが、沈没後海面を漂流しているところを救助した
たった一人の生存者「阿波丸」の調理師(他のものは救助を拒んで沈んでいった)
下田勘太郎の証言で、自分たちが撃沈したのが民間貨物船、しかも撃沈禁止が出ていた
「阿波丸」であることがわかったとき、ラフりんは

「そ、そんな馬鹿なッッッ・・・!」(脚色しています)

と叫んだと伝えられます。

これがもし本当だとしたら、民間船だと知っていながら攻撃したというわけではなく、
功を逸るあまり、焦って確認せずやっちまったということになります。

のちの裁判で明らかになったところによると、「クィーンフィッシュ」の攻撃は
小型艦船に対するものではなく、明らかに大型のものに対する方法であったことからも、
ラフリンが勘違いしていたことに間違いはない、ということになっています。

軍法会議で彼は有罪の宣告を受けました。

量刑についてはニミッツ長官が寛大にすることを求めたのですが、なぜか
アーネスト・キング海軍長官はニミッツが介入してきたことで
逆にペナルティを重くしました。

キングは日本嫌いで有名だったので(戦前横須賀で財布をスられたかららしい)
甘い判断を下しそうですが、実は部下のニミッツともなんかあったのかもしれません。

結果、ラフりんは戒告処分を受け、艦長職から外されました。

しかしその後、閑職を経て戦後にまた潜水艦に復帰し、第6潜水隊群司令として
ポラリスミサイル搭載潜水艦の指揮を執った実績に対して、レジオンオブメリット勲章を、
そしてワシントンD.C.海軍区の司令官として二度目の同勲章を受章しています。

 

退役後、ラフリンは妻とともに日本に旅行のために来日しています。
1979年ごろといいますから、高度成長期の真っ只中にある日本で
彼はその復興ぶりに目を見張りました。

そのとき受けた「阿波丸事件」に関するNHKの取材で、ラフりんたら、

もう一度やり直しができたとしても、
運命のあの4月1日と同じ状況、同じ事情ならば、
また、まったく同じように行動するであろう

と発言しています。

というか、これ不思議じゃないですか。

駆逐艦だと誤認していたことを知ったときは

「そんなバカな」

とか言っていたわけですし、その結果、裁判有罪で結構な目にあったわけだから

「今度同じことがあったら、攻撃する前に艦影を視認して駆逐艦であることを確かめます」

というのが筋ってもんですよね?

軍人が自分の戦闘行動に対しこのようにいうのを、わたしたちは
原爆投下を行なったパイロット始め、何人も知っているわけですが、
明らかなミスに対しても全く悔いることがない、と言い切ったのは、
もしかしたら本当は

それが実はミスではなかったからでは?

 

それを裏付ける(かもしれない)情報として、

「阿波丸」が陸軍の要請によって軍需物資を積んでいることをアメリカ軍は知っていた

そして、潜水艦隊司令ロックウッド少将は、このためニミッツ指令に

「阿波丸」の攻撃を許可する申請をしていた

という話があるのです。

ニミッツは意図的かどうか、それに返答をしなかったということですが、

ロックウッドはこれを暗黙の了解だと判断し、実は撃沈命令を密かに出していた

というのが考えられるもう一つのストーリーです。

もしこの仮説が正しければ、歴戦の艦長であるラフリンがろくに視認もせず攻撃させた理由にも、
(ちなみに大型艦船モードで攻撃を行なったのは勘違いだったとあとで言い訳するため)
納得がいくと思いませんか。

 

疑いだせば、ラフリン、戒告処分後は身を隠すようにロックウッドの配下に入り、
世間から身を隠して戦後になると復帰も出世もそれなりに順調です。

もしこれを陰謀説につなげるならば、
ロックウッドとラフリンの間で
話ができていた、
というのも一つの可能性だと思います。

 

日本政府は、撃沈直後から「阿波丸事件」に対し戦時国際法違反として抗議し、
アメリカ政府は案外あっさりこれを受け入れ、責任を認めた上で、戦後、日本政府が
アメリカに代わって個人保証を遺族と日本郵船に対して行うことになりました。


2000人以上の人命が失われた「阿波丸事件」の慰霊碑は増上寺にありますが、
ラフリン艦長が来日の時、この慰霊碑を訪れたと言う記録は見つかりませんでした。

なお、文中ときどきラフリンが「ラフりん」となっていますが、
これは決して打ち間違いではありませんので念のため。

 

続く。

 

 

 

 


「ビッグE」 =空母「エンタープライズ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-09 | 軍艦

空母のハンガーデッキを再現したスミソニアン博物館の展示には、
空母の戦争の歴史、つまり第二次世界大戦の日米海戦史について
スミソニアンの視点で紹介したコーナーがあり、それを紹介してきたわけですが、
真珠湾攻撃に始まって日本艦隊が空母を失うことになったレイテ沖海戦まできました。

こうなると、あとは真珠湾の時とは逆転してしまった日米の戦力バランスの上に、
アメリカ軍がふんだんに空母を投入し日本に飛び石作戦で根拠地を近づけてくる番です。

その「日本への道」という展示の前に、こんなコーナーがありました。

■  空母「エンタープライズ」

「第二次世界大戦でもっとも殊勲賞を獲得した艦」

として、「エンタープライズ」が特にクローズアップされています。

エンタープライズは1934年7月16日ニューポート・ニューズ造船所で起工され、
1936年、海軍長官スワンソン夫人によって命名、進水、1938年就役しました。

起工にあたっては日本側に建造する旨通告が行われています。

 
1941年6月、開戦前のエンタープライズ。飛行甲板が板張りの木甲板。

■ 真珠湾攻撃

「第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の歴史において最も象徴的な艦といえる」

ジェームズ・V・フォレスタル海軍長官 1945年

フォレスタルというと、わたしはすぐにあの大火災を起こした空母を思い出しますが、
民主党の政治家であったフォレスタルが海軍出身であったことから、
1949年の神経衰弱による自殺後、その名前がUSS Forrestal, CVA-59につけられました。

まず説明を翻訳しておきます。

「エンタープライズ」に最初の戦闘命令が下されたのは、
1941年12月7日の真珠湾攻撃の10日前のことでした。

そしてその4年後となる1945年の10月27日の海軍記念日、
彼女はニューヨーク港で何百万人もの人々にカーテンコールをしました。

その12年間の艦暦において、「エンタープライズ」は太平洋における
たった一つを除く全ての「空母の戦争」を戦い、その結果
20にものぼるバトルスターを獲得し、彼女のパイロットたちは
12異なる敵空母部隊と戦闘を行い、そしてそのうち2隻を撃沈し、1隻を撃破しました。

そして彼女自身も敵の行動によって酷い被害を何度も受けましたが、
しかしそのたびにいつも次の戦いのために戻ってきました。

「エンタープライズ」の記録には、第二次世界大戦中の
他のいかなるアメリカ海軍の艦船にも匹敵するものではありません。

そして写真の横には歴代艦長の氏名と、航空部隊指揮官の名前が記されています。
その中には、ミッドウェイ海戦の時の指揮官

C.ウェイド・マクラスキー少佐

1943〜44年には

エドワード『ブッチ』オヘア少佐

の名前を認めることができます。

ここには「エンタープライズ」が真珠湾からの出航の際に受けた
バトル・オーダー・ナンバーワンの文書原本が展示されています。
ハルゼー中将の名前で発令されたこの命令は8項からなっており、

1、エンタープライズは現在戦争状態に入っている

2、昼夜問わず、いつでも即座に行動できるよう準備しておく必要あり

3、敵対的行動をする潜水艦に遭遇する可能性あり

4、哨戒している間、全ての士官と下士官兵は特別警戒すること
全ての配置によってその重要性は完全に認識されなければならない

5、だれか一人が割り当ての任務を迅速に遂行できなければ、
特にそれが見張り、あるいは動力を操作するものであったら、
それは人命を大量に失い、最悪の場合船を失うことにつながる

6、艦長は総員が非常時の発生の際同等の責任を負うことをを掌握する

7、我々海軍の伝統の一つは、試練の場に置かれた時、総員が冷静に戦うことである

8、安定した精神と強靭な心が今こそ必要である

とあります。
注意していただきたいのは、この発令がハルゼーからなされた日付が
1941年11月28日、真珠湾攻撃の10日前であったことです。 

真珠湾攻撃が全くの奇襲で、アメリカがこのことを夢にも知らなかった、なんてことは
やっぱり米側の事後プロパガンダに過ぎなかったんじゃないか、と思わされますね。

(今ふと、9/11の前日にコンドリーザ・ライスから
『明日の飛行機には乗るな』と忠告されて
出張の移動をとりやめた
サンフランシスコ市長の話を思い出してしまいましたが、
ただ思い出しただけですすみません)

 

さて、この只如ならぬ訓示を受けて「エンタープライズ」では即応体制が取られたのですが、
証言によると、さすがに乗組員の意識は平時とあまり変わらなかったということです。


12月2日に「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊の飛行隊を輸送し終わり、
12月6日夜に真珠湾に戻る予定でしたが、天候不良のため7日の昼に延び、
そのために真珠湾での攻撃を免れることになりました。

もし彼女の帰港がスケジュール通りであったとしたら、定係された埠頭は
攻撃されて損害を受けていたことでしょう。

「エンタープライズ」の定係埠頭には、なぜか標的艦「ユタ」が代わりにいて、
これを撃沈した日本軍は「エンタープライズ型航空母艦」だったと発表しました。

■ 航空部隊司令官マックス・レスリー

マックス・レスリーはミッドウェイ海戦のとき「ヨークタウン」の航空攻撃指揮官で、
「エンタープライズ」航空隊とともに日本の空母撃沈に功績のあった人です。

その後「エンタープライズ」航空隊の司令官に就任しました。

LCDR Max Leslie USN April 1942.jpgレスリー

この感状は、「エンタープライズ」の航空指揮官として、
ソロモン海戦、サンタクルーズ諸島沖海戦を戦ったことに対し
その功績を称えたものとなります。

■ エンタープライズに突入した特攻機

その艦暦において、「エンタープライズ」は何度も損傷を受けています。
もっとも劇的でかつ深刻だったのは沖縄における特攻機の突入でしょう。

 

「エンタープライズ」が特攻を受ける瞬間は映像にも残されています。

Kamikaze Attacks against USS Enterprise CV-6 11 April 1945

5月14日、「エンタープライズ」に鹿屋基地から飛び立った零戦が特攻を行いました。
隠れていた雲から突撃してきた富安俊助中尉機は集中砲火を巧みに回避し、
背面飛行に転じた態勢から、前部エレベーターの後部に突入を成功させました。

これに対し「エンタープライズ」はダメコンを行いながらも対空戦闘を継続、
旗艦として任務部隊の配置を守り続けてその練度を称賛されました。

特攻機パイロットの富安中尉の遺体は損壊したエレベーターホールの下で発見されました。
遺体はアメリカ兵と同じように丁重に水葬され、「エンタープライズ」乗員が
取得していた遺品は、つい最近身元が判明して家族のもとに戻ったということです。

 

■ プラン・オブ・ザ・デイ 1942年8月24日

「プラン・オブ・ザ・デイ」Plan of the dayというのは、軍艦の日報のことで、
これは乗員にも情報として回されます。

ここにある「エンタープライズ」発行のPODが興味深いのは
1942年8月24日が東ソロモンでの戦いの日だったことです。

このとき、「エンタープライズ」は三発の直撃爆弾を受け乗員を79名失っています。

左側には時系列で起きた出来事が記してあり、その後に

「2発の爆弾がD-203-1LMとD-3031L、そしてもう1発D-303-Lに落ち、
およそ450のバンクとどこそことどこそこが破壊された」

などと書いてあります。
日報なので、「1600 ハッチ1の早い深夜食」「1615士官早い夕食」
などという事項も淡々と記してあるのがリアルです。

日報の日付が29日となっているのは、当日は記載どころではなく、
5日後に初めてこういった事務仕事に戻れたことを表しています。

ダメージ報告は以下の通り。

1942年8月24日、「エンタープライズ」と「サラトガ 」 が日本軍戦闘艦と接触。
アメリカの空母艦載機は、敵から攻撃を受けながら同時に攻撃を行い、

空母、駆逐艦、輸送船が沈没せしめ、90機の敵機が破壊す。
小型空母と軽巡洋艦が損傷し、日本軍は退却。

被害を受けた米軍艦船が「エンタープライズ」のみ。

8月24日午後5時12分頃「エンタープライズ」が30機の日本の急降下爆撃機から
5分間の激しい攻撃を受け、その間に3回の直接爆撃と4回のニアミスを受ける。

最初の爆弾は攻撃開始から約2分後に着弾、飛行甲板の3番エレベーターを貫通し、
2番目と3番目の甲板の間の42フィート下で爆発した。
30分後、2番目の爆弾が同じエレベーターの近くのフレーム179で飛行甲板に衝突し、
8フィート下で爆発。
その1分後、3番目の爆弾が2番エレベーター近くのフライトデッキで爆発した。

5時17分、艦体から約12フィート離れた水中で爆弾が爆発し、
艦体と飛行甲板を含むいくつかの甲板が恒久的に変形した。

興味深いのは、ここに記されているのは「艦体の被害状況」だけで、
人的被害は多数が死傷したにもかかわらずどこにも言及されていないことです。

コーナーの片隅には「エンタープライズ」の活動に関するフィルムや写真が
放映されているモニターがあります。

「ビッグE」のあまりに長きにわたる活躍は、そのまま第二次大戦の海軍の歴史であり、
海戦史であると言っても過言ではない、というようなことが書いてあります。

そして「エンタープライズ」の歴史を語るには欠かせない艦載機コーナー。
グラマン TBFー1Cアベンジャー雷撃機の模型とその編隊飛行写真です。

アベンジャーは1942年6月4日のミッドウェイ海戦で初めて戦闘に参加しました。
6機のアベンジャーのうち5機が、日本の艦隊に挑み破壊されました。
この残念なデビューにもかかわらず、アベンジャーは第二次世界大戦の残りの期間、
アメリカ海軍の標準的な雷撃機として活躍しました。

いくつかの特別の目的のためのバージョンが建造され、1954年まで
幅広い役割と任務で非常に有効に機能したと言ってもいいでしょう。

アベンジャーズはゼネラルモーターズ社の東部航空機部門によって
TBMと指定されて製造されました。
生産数は7500機を超え、後年その多くはイギリスの艦載機として使用されました。

この3人はアベンジャーのパイロット、ウィリアム・I・マーティン少佐
通信手のジェリー・ウィリアムズ(左)砲手のウェスリー・ハーグローブです。

マーティンは、第二次世界大戦中、USS「ホーネット」USS「エンタープライズ」
パイロットとしてから爆撃機と戦闘機の戦隊を指揮しました。

最終的には大西洋艦隊の最高司令官および大西洋司令部の参謀長となり
提督として引退後は、グラマン社のコンサルタントを務めています。

二人の若いアベンジャー乗員は、この写真を撮ってほどなく戦死しました。

 

 

続く。

 

 

 

 


”Too Close For Comfort " レイテ沖海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館プレゼンツ「空母の戦争」特集、最終回です。
このコーナーによると、太平洋において空母を使った戦闘が行われたのは10、
しかし、そのうち「どちらもの陣営に空母を置いて戦われたもの」となると、

珊瑚海海戦(1942年5月8日)

ミッドウェイ海戦(1942年6月〜7日)

南太平洋海戦(1942年10月26日)

第二次ソロモン海戦(1942年8月23〜24日)

マリアナ沖海戦 (1944年6月19〜20日)

レイテ沖海戦(1944年10月20〜25日)

ということになります。
スミソニアンの「空母の戦争」コーナーでは、あくまでも
「どちらかが空母を使った」という縛りで紹介がされています。

■ レイテ湾の戦い

「日本艦隊の終焉」とサブタイトルが付けられています。
この端的なタイトルがレイテ沖海戦の全てを表しています。

前回のクェゼリンからトラック島までの飛び石作戦のあと、
日米両軍の間にマリアナ沖海戦が起こり、この結果、日本海軍は
空母三隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)、艦載機多数と搭乗員を失う敗北に終わりました。

アメリカ軍のフィリピン奪回を日本が少ない兵力で阻止せんとしたのが、
この6日間の戦闘で、その中には4回の海戦が含まれます。

その四つの海戦とは、図の位置で行われ、時系列で並べると、

1、シブヤン海海戦(24日10時27分開始)

2、サマール沖海戦(25日6時57分開始)

3、エンガノ岬沖海戦(25日8時15分開始)

4、スリガオ海峡海戦(25日22時36分開始)

となります。

豊田副武

■ 日本の計画

10月17日の午前8時20分ごろ、アメリカ陸軍のレンジャー部隊が
レイテ湾の河口にある島々に上陸を始めました。

日本軍は三つの海軍兵力のコンビネーションでこれを迎え撃つことになりました。

北艦隊(旗艦空母)〜ハルゼー提督率いる高速空母機動隊を侵攻目的地から引き離す

中央艦隊(戦艦・巡洋艦)〜サンベルナディノ海峡を出て侵攻軍を撃破

南艦隊(戦艦・巡洋艦)〜スリガオ海峡を抜け海岸線より侵攻する敵を撃つ

計画の成功に不可欠なのは聯合艦隊の重機関銃と陸上航空機の投入でした。

ここで日本の豊田副武中将の紹介があります。
ADM. SOEMII TOYODAとなっているのはご愛嬌ってことで。

「聯合艦隊1Sの最高司令官である豊田副武は、アメリカの艦隊が
崩壊しつつある大日本帝国の外側に最初に上陸し、
レイテ湾に侵攻せんとする1944年の5月に就任しました。

豊田はのちにこのように回想しています。

もし万事うまくいけば予想外に良い結果を得るかもしれないが、
最悪の場合、聯合艦隊そのものを失うという可能性はあった。
フィリピンの損失を犠牲にしてまで艦隊を救う意味はない』」

負けた指揮官が色々言われるのはこれはどうしようもないとしても、
この人、「大和特攻」を決めた時もこんなこと言ってましたですね。

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。
しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

成功率50%以下の作戦に投入する「大和」とその乗員の生命について
なにか思うところはなかったのか、と聞いてみたい気がしますが・・・。

 

■ レイテ上陸作戦

ウィリアム・F・ハルゼーJr. 提督 
ADM. William F. Halsey Jr.

上の海戦図をご覧いただけばわかりますが、ハルゼー艦隊は
小沢艦隊の陽動作戦にはまって担当海域を離れてしまいました。

護衛空母部隊が栗田健男中将が指揮する第一遊撃部隊との戦闘で
ハルゼー艦隊に救援を求めることになり、ニミッツがこのとき打った有名な電文は

”TURKEY TROTS TO WATER GG FROM CINCPAC ACTION COM THIRD FLEET INFO COMINCH CTF SEVENTY-SEVEN X WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS”

「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR
RR THE WORLD WONDERS」

(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。
全世界は知らんと欲す)

最後の「全世界はそれを知らんと欲す」は、
電文の意味をわかりにくくするために
付けた意味のない一文だったのですが、
それがアメリカ人なら誰でも知っている
テニスンの詩の一節で、
しかも前文と違和感なく意味がつながってしまったため、

ハルゼーはこれを皮肉をいわれたと思い込んで激怒しました。

ハルゼーは救援を無視し、名前の通りの
「Bull's Run(猛牛の突進)」
小澤艦隊を追撃し、
4隻の日本の空母を撃沈しました。

ハルゼーが罠にはまっておびき寄せられたこと自体は彼の失態であった、
とする歴史家もいますが、アメリカ軍にとって日本の空母壊滅の目的を達し、
結果的に海戦の勝利ということになり、文字通りの「勝てば官軍」として、
ハルゼーはゴールドスター勲章を授与されています。

陸軍部隊のタクロバン上陸

1944年10月20日、
グラマン・アベンジャーが舟艇で上陸する陸軍の掩護をしています。
これらの航空機は、トーマス・C・キンケイド副提督が指揮する
 18隻の護衛空母のグループを含第7艦隊侵攻艦隊の護衛空母から発艦したものです。

■ マッカーサーの戦争

海軍がクェゼリンにはじまってマーシャル諸島をトラックまで
飛び石のように侵攻していたとき、マッカーサーは南西太平洋軍として
連合軍の協力のもと、ニューギニアを制しておりました。

マッカーサーが誇大に勝利を発表して自分の成果にしたため、
同盟国であるオーストラリア軍の働きはほぼなかったことにされるなど、
色々後世には言われているようですね。

マッカーサーの太平洋戦争

 

"People of the philippines!  I have returuned."

スミソニアンではこの写真にこの言葉を添えていました。
1944年10月20日、ダグラス・マッカーサーはレイテに上陸し、
フィリピン人に向けてこの一文で始まる麗々しい文章を記念に残しました。

フィリピンの民よ!私は戻ってきました。

全能の神の恵みによって、私たちの軍隊は再びフィリピンの土の、
つまり我々の血の上に奉献された土壌の上に立っています。

私たちは、あなたの日常生活から敵の支配の痕跡をすべて消し、
破壊できない力の基盤の上に人々の自由を回復するという任務を成し遂げました。

私の側には、偉大な愛国者マニュエル・ケソンの後継者である
セルヒオ・オスメナ大統領とその内閣のメンバーがいます。
あなた方の政府はフィリピンの土壌にしっかりと再建されました。

(中略)

バターンとコレヒドールを忘れない、不屈の精神です。
我々の戦線が前進し、戦いの場にあなた方を連れていくので、
そのときは立ち上がって攻撃してください!
あなたの息子と娘の将来の世代のために、戦うのだ!
祖国の神聖な死者の名において、戦うのだ!
心を強く保ちすべての腕を鋼で固めましょう。
神の導きが道を示しています。

義にかなった勝利の聖杯に神の名を讃えよ!

 

■ エンガノ沖海戦

「比島決戦」というタイトルの当時のニュース映画が見つかりました。
フィリピンでの海戦であり、空母が登場するからには、
これがエンガノ沖の小澤艦隊か?というタイトルは正しいものです。

搭乗員が出撃前に水杯を上げているシーンが映っています。
彼らは司令から

「母艦には帰ってくるな」

と言われていたといいます。

帰ろうにも、エンガノ沖海戦で投入され旗艦「瑞鶴」はじめ
「 瑞鳳」「 千歳」「 千代田」4隻の空母は、
ブル・ハルゼーの怒りに任せた執念の攻撃により全部撃沈されるわけですが。

「千歳」 艦長岸良大佐以下468名戦死

「瑞鶴」 艦長貝塚少将以下843名戦死

「千代田」 艦長城大佐以下全員戦死

攻撃を受ける「千代田」

「瑞鳳」だけは駆逐艦「桑」に艦長以下847名が救助されました。
このフィルムは、「瑞鳳」に乗り込んでいた竹内広一カメラマンが撮影したもので、
乗員が救出されたため、レイテ沖海戦の貴重な映像を持ち帰ることに成功したのでした。

攻撃を受ける「瑞鳳」

フィルム冒頭には竹内氏始め報道班員の名前が6名記載されています。
実は小澤艦隊の各艦には、彼らが特派員として乗り込んでいたわけですが、
あの有名な「瑞鶴」総員退艦前に行われた国旗降納の万歳シーン、↓

これを撮ったのは軍人ではなく、報道班員だったことがはっきりしました。
この人はこの後駆逐艦に移乗し、無事に帰国できたということになります。
「瑞鶴」から「初月」に移乗した人たちは、「初月」が撃沈されて死亡しています。


全員戦死したという「千代田」に乗っていた報道班員も殉職したのでしょうか。

「瑞鳳」に乗っていたカメラマンの撮影した映画を見ていただくと、
敵の航空機を撃沈したこと、着水した航空機の乗員を救助しに行くシーンなどがありますが、
その後の(肝心の)経緯については全くないので、これを見た人は
まさかこのあとカメラマンの乗った空母が沈没したなど夢にも思わないでしょう。

ましてや、冒頭の人々のうち何人かは確実に亡くなっていることも。

 

さて、ハルゼーは実のところオトリ作戦に引っかかったわけですが、
彼にとっては幸運なことに、囮作戦に成功したと判断した小沢長官の

「敵機動部隊を誘致」

という電報は何故か栗田艦隊には届かなかったため、栗田長官は
米機動部隊の在り処を判断する術なく、レイテ湾突入を目前にして
あの「運命の反転」を選択してしまうことになります。

そして日本軍は最後の空母のみならず、組織的なレイテ湾突入の機会を永久に失います。


冒頭に挙げた絵画ですが、ウォー・アーティスト、Tom W. Freeman作の

TOO CLOSE FOR COMFORT

というタイトルの水彩画です。

同名のジャズのスタンダードソングの歌詞だと、この意味は

「あなたとの距離が近すぎて怖い(ドキドキ)」

なのですが、この場合の『あなた』とは艦首に菊をつけた戦艦であり、
ドキドキというよりスレスレでヒヤヒヤ、となります。

1944年レイテ湾の戦いにおいて、米軍のドナルド・D・エンゲン中尉
空母「瑞鶴」に急降下爆撃を命中させました。
この絵に描かれたのは、エンゲン中尉が、その爆撃の後に行われた対空砲を躱すために
帝国海軍の戦艦「日向」の艦首の下方を飛んでいる瞬間です。

この成功によりエンゲンは戦後海軍で中将にまで昇進しました。
どうしてさほど有名でない?海軍中尉の攻撃の絵がここにあるのかというと、
彼は海軍を退役後、1996年にスミソニアンのディレクターになったからです。

その3年後、おそらく現職のまま、彼は操縦していたグライダーが墜落して
75歳の生涯を閉じてしまいました。

 

さて、というわけで、全ての空母(といっても艦載機は4隻全部足しても
『エンタープライズ』の艦載機の数にも満たなかったといいますが)
を失い、その前に載せるべき飛行機も失い、日本はこのあと
最悪の道を選択するしかないところまで追い込まれていきます。

 

続く。

 

 

 


「1000ヤードの凝視」クェゼリンからパラオまで 〜スミソニアン航空宇宙博物館「空母の戦争」

2021-04-05 | 歴史

スミソニアン博物館の「空母戦の歴史」は、いよいよ
日本が決定的に立ち直れなくなるフィリピンでの海戦までやってきました。

まずは、レイテ沖海戦に先立ち、機動部隊が配置されました。

 

■第58機動部隊

ちょっとわかりにくいのですが、米海軍の58機動部隊とは、
高速機動部隊(Fast Carrier Task Force)が第5艦隊に配属された時の名称で、
これが第3艦隊に配属されると38機動部隊という名前になります。
58TFと38TFは同一部隊であることをご了承ください。

 

さて、1943年12月と翌1月、ギルバート諸島から出撃した部隊が
マーシャル諸島の日本軍に爆撃を行なっている間、高速機動隊は休暇を取り、
その間に新たな指揮官が再配置されることになりました。

飛行士としてパイオニアであったマーク・ミッチャー海軍少将は、
海軍の高速空母機動部隊の指揮官に任命されます。

ミッチャーは空母12隻と艦載機700機あまり、そして戦艦、護衛艦合わせて
数十隻の軍艦をTF58に配備しました。

そして次の6ヶ月間、TF58は中央太平洋においてマーシャル諸島の侵攻支援、
トラック島の日本軍の拠点を襲撃し、パラオとマリアナ諸島に施設を設置しました。

1944年までに史上最大の空母先頭となったフィリピン海戦の舞台が整ったのです。

TF58がいかにこの期間太平洋の隅々まで侵攻し尽くしたかということを
一眼でわかるように表した行動図です。
現地のマップに、わかりやすいように日本語を振っておきました。

ここに記したどの島の名前も、太平洋の戦争について知識をお持ちなら
誰でも聞いたことのある名前ばかりでしょう。

TF58の空母だけ名前を挙げておくと、

第1機動部隊 エンタープライズ ヨークタウン ベローウッド

第2機動部隊 エセックス イントレピッド キャボット

第3機動部隊 バンカーヒル モンタレー カウペンス

第4機動部隊 サラトガ プリンストン ラングレー

 

戦艦:「ドレッドノート」の新しい役割

第二次世界大戦中、太平洋の戦艦対戦艦という伝統的な海戦はほとんど行われませんでした。
その代わりに、戦艦はTF58に統合されて、その必要に応じ、
夜間の水上行動中に起こる敵の空襲に対する防御という形の支援を提供しました。

より速度の遅い戦前の戦艦の多くは、太平洋において、海兵隊と陸軍が行う
水陸両用作戦という「本質的ではあるが魅力的とはいえない任務」で使用されました。

ドレッドノート(dreadnought, dreadnaught)とは「怖れ知らずの」という意味で、
同名のイギリス海軍の戦艦の登場以来、「超弩級戦艦」の階級名となった言葉です。

大艦巨砲主義の時代は終わりを告げ、時代は航空戦に移っていき、
「戦艦」はその役割を時代に合わせて変えていった、ということをいっています。

 

第58機動部隊は陸地攻撃に戦艦の艦砲射撃を使ったりしていますし、
この説明によると、水陸両用作戦は戦艦の「本質」だそうですから、
決して役立たずと言っているわけではありませんが、要するにこの時代、
空母による航空戦を制するものが勝利を制していた、ということなのです。

それならこの時代に大枚叩いてあの弩級戦艦を作っていた日本って何だったの、
ということになりますが・・・・それについては何もいえねえ(笑)


ところでこの写真の戦艦は、

USS 「ニュージャージー」 New Jersey

で、第二次世界大戦中アメリカ海軍に存在した戦艦のうち最も大きく、
最も速かった「アイオワ」級の4隻のうちの1隻です。

最大時速61キロを誇る「ニュージャージー」は157門の砲と各種銃を備え、
対空防御にも万全を期していました。
加えて水上と陸地攻撃のための9門の16インチ主砲を装備していました。

「ニュージャージー」の「War Log」としてアルバムの1ページが貼ってありました。
まずこれが、主砲を「レッツゴー」させているところです。

おそらく艦橋から見た発砲の様子。

20ミリ機銃に配置される乗員と、40ミリの装填風景。

偵察用の水上機が発進したところです。

顎に手を当ててイメージフォト風ポーズをとるのは

マーク「ピート」ミッチャー海軍中将
Vice ADM. Marc A.’Pete' Mitsher USN

彼が第58機動部隊の指揮官に任命されたのは1944年1月のことです。
彼はアメリカ海軍航空に自らが得た四半世紀の経験を全てを注ぎ込みました。

ミッチャーは海軍の最も中心的な空母パイロットの一人であり、
パイオニアとして空母運用のドクトリンとその方法論について開発、
研究、そして整備を行い、実際にはドーリットル隊が行なった東京空襲
そしてミッドウェイ海戦では「ホーネット」を指揮したという、
いわば「空母の育ての親」の一人であったことは間違いありません。

ところで今名前をタイプしていてふと思ったのですが、この名前は
「ミッチャー」というより「ミットシャー」「ミッシャー」
の方が発音としては正しいように思えます。
ドイツ系移民なので、彼の先祖がドイツでは「ミッシャー」だったのは間違いありません。

当ブログではミッチャーについて、

「戦う愚か者」

というタイトルでその海軍人生をまとめたことがあります。
ねっからの「空母野郎」で、決して名声を望まず、戦後も空母航空の存続に尽くしました。

侵略へのプレリュード:クェゼリン

全部で150機以上の日本軍機が破壊されたとされる、第58機動部隊の
三日間にわたる攻撃ののち、1944年2月1日、米海軍の軍艦は
クェゼリン侵攻を支援するために敵の軍事施設を爆撃しようとしていました。

アメリカ軍の作戦名は「フリントロック(火打石)作戦」です。

防衛態勢が整っていなかった日本軍は短期間の戦闘で全滅し、   
委任統治領とはいえ、アメリカにとっては最初の日本領土の占領となりました。

余談ですが、このクェゼリン島には朝香宮家出身の皇族軍人、
侯爵 音羽正彦大尉が勤務しており、この戦闘で30歳で戦死しています。

Tadahiko ou.jpg

当初音羽大尉は大鳥島(マーカス)にいたのですが、「危険だから」と
わざわざ高松宮親王がクェゼリンに転勤させていました。

これは、アメリカ軍がクェゼリンを急襲することを
誰ひとり予測していなかったということでもあります。

それだけに米軍の攻撃は文字通り火打石のような不意打ちとなったのでした。

ここでもう一度最初の地図を見てください。
クェゼリンはTF58進撃の「プレリュード」であったことがよくわかりますね。

そしてこの図でいくと、次はエニウェトクということになります。

東と西の間から上陸:エニウェトク

クェゼリン侵攻を成功させ、米軍は次にエニウェトクの確保を狙いました。
その理由は、ここは日本の本土まで563Km近くにあるからです。

エニウェトクの原住民であるミクロネシア人は彼らの独特の長いカヌーで
島の西から東に向かいました。
それはすぐに東から西へ侵攻する米軍の重要なステージングポイントになるでしょう。

Eniwetok landing 04.jpg

エニウェトクに上陸する米軍兵士。
水は綺麗だし暖かそうだし、ノルマンディよりはなんだか見た目悲壮感がないですが、
当事者たちにとってそんなことは全く関係ありません。

上陸したのは海兵隊兵士6,000名弱、陸軍兵士約4500名、
これを迎え撃つ日本側の兵力は総3,560名というものでした。

飛び石のようにエニウェトクに侵攻した理由は、ここが
日本軍が日本本土からマーシャル諸島へ航空兵力を送り込む中継点であったからで、
目的は飛行場および泊地を確保してトラック島とマリアナを落とすことでした。

アメリカ軍における作戦名は「キャッチポール作戦」といいます。

「サラトガ」「プリンストン」を含む第4機動部隊の水上艦が
沖から、まず艦砲射撃を行い、海兵連隊約3,500名上陸。

戦車を先頭に進撃した米軍に対し、日本の守備隊は猛烈に抵抗を続け、
最終的な占領まで三日もかかってしまいました。

日本軍は全滅しましたが、アメリカ軍も死者行方不明者195名、
負傷者521名と、無事だった数の方が少ないという結果になりました。

この戦闘が米兵にもたらしたストレスは過酷なものでした。

写真はエニウェトクでの2日にわたる絶え間ない戦闘を経て
戦闘ストレスを発症した19歳の海兵隊員セオドア・ジェームズ・ミラー1等兵です。

彼の虚ろな眼差しは、

Thousand-yard stare(1000ヤードの凝視)

と名付けられるものです。
クリックしていただくと、それらの検索画像が見られます。

1000ヤードの凝視(2000ヤードの凝視とも)は、
周囲の恐怖から感情的に切り離された戦闘員の見せる、空白の、
焦点の合っていない虚な眼差しを説明するために使用されるフレーズです。

このフレーズは、「ライフ」誌が第二次世界大戦時代、
特派員のトム・リーによって描かれた、この

「海兵隊員はそれを2,000ヤードの凝視と呼んだ」

という作品を発表した後に一般に普及しました。
この絵は、激戦で悪名高かったペリリュー島の無名の海兵隊員を描いています。

作者のリーはこの絵についてこう語っています。

彼は31ヶ月前にアメリカを離れた
彼は最初の戦闘で負傷した
彼は熱帯病にかかっている
彼は夜に半分眠り、一日中穴からジャップを追い出して殺す
彼の部隊の3分の2は戦死または負傷した
彼は今朝攻撃に戻るだろう
人間はどれだけこのようなことに耐えることができるだろうか?

写真のミラー上等兵は、撮影から一か月後の3月24日、エニウェトクに続いて
米軍の掃討作戦が行われたマーシャル諸島のエボン環礁で戦死しました。

太平洋のジブラルタル:トラック環礁

1944年2月17日の夜明け。
トラック環礁は商船と数隻の軍艦で混雑し、その滑走路には
36機の航空機が駐機しており、それは
1941年12月7日の真珠湾を彷彿とさせるものでした。

TF58の爆撃機による二日にわたる継続的な爆撃と、
空母艦隊の艦砲射撃の後、トラック島はもはや聯合艦隊にとって
使用可能な基地ではありませんでした。

アメリカ軍はトラック攻撃のことを「真珠湾の逆再現」と呼んでいる、
ということをふと思い出しました。

 
2月16日、米軍の攻撃が始まります。
 

空母から飛び立った艦載機ドーントレスの攻撃。
 
 
炎上しているのは「香取」です。

米軍攻撃隊5隻の大型空母から発進した戦闘機72機を主力とし、
完全な奇襲に成功しました。

アメリカ海軍は

「太平洋艦隊は1941年12月7日の日本艦隊による訪問に対し、
トラック島で答礼の訪問を行い、借りを一部返した

と発表しました。

「ファイティング・レディ」

TF58がトラック襲撃から退却した時、不意に空母は日本軍の雷撃機による攻撃を受けました。
この写真は、「ジル」が対空砲火の中を飛びながら胴体に牽引した魚雷を
「ファイティング・レディ」として知られる空母「ヨークタウン」に放ち、
わずかの距離で狙いを外した瞬間です。

カロリン島攻撃

マーク・ミッチャー指揮のTF 58は、3月22日にギルバート諸島の
マジュロに基地を置き、カロリンの西端にあるパラオ諸島に向けて進路を定めました。

残念ながら「価値のある」艦船はパラオからすでに撤退していました。

残っていた商船と157機の航空機は破壊され、カロリン諸島の
ウォレアイ環礁とヤップ島は攻撃されることになります。

 

続く。

 

 


ソロモン海海戦と南太平洋海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館 「空母の戦争」

2021-04-03 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回はガダルカナルの戦いにおける航空隊に焦点を当て、一項を割きましたが、
今日はスミソニアンの展示「空母の戦争」のテーマに立ち返りたいと思います。

 

さて、8月7日に米海兵隊部隊がツラギに侵攻し、ルンガ飛行場を奪ったあと、
これを奪還せんと艦隊をすぐさま派遣した日本軍と米軍の間に激しい戦いが始まりました。
ソロモン海海戦です。

■ソロモン海海戦
 
 
第一次ソロモン海戦は夜戦となり、戦略的には圧倒的な日本海軍の勝利でしたが、
ここスミソニアンのテーマはあくまでも「空母の戦争」でありますので、
空母が運用されなかったこの夜戦については、勝敗にすら言及されておりません。

スミソニアン航空博物館いうところの「空母の戦争」が行われるのは
第二次ソロモン海戦からということになります。
 
というわけで写真は8月24日、第二次ソロモン海戦における
USS「エンタープライズ」の戦闘準備の様子です。
 
 
日本軍は、3隻の空母を含む聯合艦隊のサポートによって、ガダルカナル島に
1500人から軍勢を送り込み、兵力を強化する作戦を立てました。

それに対し、フレッチャー提督「サラトガ」「エンタープライズ」
そして「ワスプ」を率いて立ちはだかりました。
 
日本海軍の戦略は、軽空母「龍驤」を主力艦隊の前方に送り、
ヘンダーソン基地を迂回攻撃してフレッチャー提督を戦争に誘い込むことでした。

その目的は、残る重量級の戦力を全て投じてアメリカ空母を潰すこと。
 

「エンタープライズ」と「サラトガ」はガダルカナル島の東に向かって急行し、
敵機動部隊の位置についての連絡を待っていました。
一方「ワスプ」は南方で燃料の補給をしていました。
 
「エンタープライズ」偵察機は午後に敵空母を発見して攻撃を試みましたが
ほとんどこれに成功せず、「サラトガ」のアヴェンジャーとドーントレス隊は
「龍驤」に激しい攻撃を続けました。
 
日本軍の狙い通り、「龍驤」はいわば囮としての目的を果たしていたのです。

その頃、すでに日本空母打撃群の航空機は東に向かっていました。
空母「エンタープライズ」と「サラトガ」をターゲットとして。
 
 
 
 
ビッグ「E」撃たる
 
敵の爆撃に対し、十分な予防策を取っていたにもかかわらず、
「エンタープライズ」はその日の午後遅くに行われた激しい日本軍の航空攻撃で、
三発も爆弾を見舞われることになりました。
 
午後4時47分、日本軍の攻撃は終わりました。
 
「エンタープライズ」の乗組員は、攻撃と同時に消火活動と修復を行い、
そして、驚くことに1時間後、彼女は航行可能になっていました。
 
この写真は、「エンタープライズ」の飛行甲板で爆弾が炸裂する瞬間で、
撮影した乗員のロバート・E・リードはこれを最後に命を落としたという説もあります。
 
8月26日朝、B-17とヘンダーソンの爆撃隊によって日本の輸送艦と駆逐艦が沈没し、
ガダルカナル島への日本軍の上陸は阻止されました。
 
 
上からきている赤い矢印は右が「瑞鶴」「翔鶴」ら空母機動部隊、
左が「龍驤」で、沈没位置が示されています。

対して下の太いラインが「エンタープライズ」「サラトガ」含む米艦隊で、
細い矢印は「ワスプ」のコースを表しています。
 
なお、赤のガダルカナルへの攻撃マークは、日本機動部隊航空隊が地上攻撃をしたということです。
そして、アメリカ側の青い線は、そのガダルカナルから発進した航空部隊で、
「龍驤」を攻撃しました。

日本はこの海戦で空母「龍驤」を失いました。
赤い星印の場所で損傷した「エンタープライズ」は沈まず、真珠湾に戻りました。
 
 
 
ワスプ沈没
 
8月の最終日、「サラトガ」は日本の潜水艦の魚雷によって深刻な被害を受け、
修理のために真珠湾に戻りました。
 
ちょうど2週間後、ガダルカナルへの援軍の輸送を護衛していた「ワスプ」は、
潜水艦から3本の魚雷を見舞われ、炎上します。
 
弾薬、爆弾、燃料が誘爆し続け、艦長はついに総員退艦を命じました。
そして5隻の駆逐艦の魚雷によって沈没処分になりました。
 
これによって乗員193名、航空機40機が失われました。
 
この時点で、「ホーネット」は南太平洋で唯一残された運用可能な空母となりました。

 
■ 南太平洋海戦(サンタクルーズ海戦)1942年10月26日
 
 
日米両軍の機動部隊はサンタ・クルーズ諸島沖で戦い、この時日本軍は
空母「翔鶴」「瑞鳳」が大破・中破という損害を受けたものの、
米空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」を中破させ、
戦術的勝利を収めています。

しかし、日本の攻撃の主目的である飛行場奪回には失敗しました。


そして第三次ソロモン海戦によって連合軍は勝利し、日本軍は
ガダルカナル島への兵力増援を断念せざるをえなくなります。
 
第三次ソロモン海戦についての説明はこれだけです。

というのも、この海戦では空母はアメリカ側に「エンタープライズ」がいたのみで、

日本軍の航空機は空母を介して戦っていないので、
こちらも当展示の説明対象ではないからです。
 
 
 

しかしせっかく第三次ソロモン海戦が出たので、「空母の戦い」とは関係ありませんが、
最後に、いつ見てもすごいと思わずにはいられない、第三次ソロモン海戦における

一式陸攻の「変態飛行」

の写真をあげておきます。

29機の一式陸攻は二手に分かれて8〜16mの超低空を航行し、攻撃を仕掛けました。
 
彼らは戦闘機の迎撃と防空巡洋艦の対空砲火により撃退されましたが、
1機の一式陸攻が「サンフランシスコ」に体当たりし、火災を発生させています。
 
この頃には辛うじて日本には
操縦技術の高い搭乗員が残っていた
という一つの証拠といえるでしょう。


そして一連の激戦でその多くが失われたその後、日本軍は
航空戦での絶対的優位を二度と獲得できなくなっていきます。
 
 
続く。
 

 

 

 


ガダルカナルの戦い 帝国海軍vs.カクタス航空隊〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-01 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

スミソニアンン博物館の空母展示の中の「空母の戦争」シリーズから
真珠湾攻撃、そしてミッドウェイ海戦についてご紹介しました。

今日は本題から少し寄り道することをご了承ください。

ここで、わたしはこのテーマについて紹介するこんな説明があったことに
初めて気がつきましたので、今更という感じですが、あげておきます。

「太平洋における空母の戦争」

米国海軍が最初に航空機を導入してから30年後、そして
最初の空母「ラングレー」がアメリカに登場してからわずか19年後
海軍航空隊は戦争という最大の試練に直面することになります。

多くの点で、アメリカ海軍は海上で戦争を戦う準備ができていませんでした。
海軍は歴史上初めて、

対抗する海面の敵を互いに目撃することのない、
空中を舞台とした戦争

の形を経験することになります。

アメリカ海軍航空隊が成熟したのは第二次世界大戦という舞台でした。

その過程で装備、ドクトリン、運用戦術が改善されていくにつれ、
空母は太平洋における支配的な位置を占め、かつ戦略・戦術の中心として浮上しました。

 

この展示では第二次世界大戦でアメリカ合衆国と大日本帝国が戦った
全部で6の空母対空母の戦いと、米軍と連合軍が行った
重要な役割と任務に焦点を当てています。

ドゥイット・クリントン・ラムゼイ海軍中将
 Dewitt Clinton Ramsey

ラムゼイ提督は45番目に登録された海軍搭乗員であり、
長い卓越したキャリアを積んだパイオニア、優秀な司令官、
そして素晴らしい「アドミニストレーター」でした。

第二次世界大戦の間、彼はソロモン海戦における
USS「サラトガ」での勇敢な指揮を讃えられて海軍十字章を受けました。

ラムゼイ提督は1949年太平洋艦隊司令官に昇進しています。

なぜここでラムゼイ提督が紹介されているかというと、このスミソニアンの
空母展示はドゥイットC・ラムゼイ基金の寄付によって創設されたからです。
創設者はラムゼイ提督の未亡人でした。

アドミニストレーターというのはこの辺を意味するのかと思いましたが、
正確な意味はわからないままです。

■ ガダルカナル島の戦い

さて、というところでそういう「6つの空母の戦い」のうち、次のテーマは
「ガダルカナル島の戦い」です。

しかし実は、このガダルカナル島の戦いは、本コーナーのテーマであるところの
「空母の戦争」を含むソロモン海海戦に言及するためのマクラのような位置づけなので、
スミソニアンではさすがに「ガダルカナル」=飢島、と言われるような
兵站の決定的な失敗によって日本軍が陥った
その後の敗北に至る悲惨な状態までは触れられていません。

あくまでも「空母」が関わってくる部分にのみフォーカスしていますので、
ガダルカナル島の戦いそのものを網羅しているわけではないことを
最初にお断りした上で、始めていきたいと思います。


それではまず、スミソニアンのガ島の戦いについての「概要」から。

1942年8月から1943年2月までの6か月間、アメリカとその同盟国は、
ガダルカナル島を所有するために、日本軍に対して激しい空海陸作戦を戦いました。

連合国による太平洋戦争の最初の大規模な攻撃行動は、日本が依然として
太平洋で重要な海軍の優位性を維持していたため、不利な状況からのスタートとなります。

1942年8月7日、フランク・ジャック・フレッチャー副提督の下、
航空機支援をともなう機動部隊51(TF 61)の支援を受けた軍艦が
ツラギ島とガダルカナル島に日本軍への水陸両用攻撃を行いました。

海兵隊の上陸によってツラギは混乱の日を迎え、ガダルカナル島の主な目的である
未完成の飛行場がすぐに占領されることになりました。

残念ながら、これらの米軍の初期の成功は、敵の爆撃、血まみれのジャングルの戦い、
空中戦、ガダルカナル島で行われる悲惨な戦いへの前奏曲でした。

急襲作戦のための準備

AAVandegrift.jpg

1942年、海兵隊准将、アレクサンダー・ヴァンデクリフト率いる
第一海兵師団がガダルカナルに上陸しました。

これは大戦において日本に対する初めての大規模な地上からの反撃でした。

そしてこれを取り返すために、日本海軍は艦隊を派遣し、
第一次および第二次ソロモン海戦が行われることになったのです。

 

ここまでがスミソニアンによる状況説明です。
ここでは、直接空母とは関係ないものの、一応航空博物館として
スルーできない、ガナルカナル島を守備した著名な航空隊、カクタス航空隊
(英語ではカクタス・エアフォースというのが正式な名称)の言及がありました。

 

というわけで、当ブログでは、スミソニアンでは触れていない部分ですが、
8月7日以降、遠いラバウルからガナルカナルまで飛んで、
彼らと死闘を繰り広げた日本の海軍航空隊についても整理しておこうと思います。

■ カクタス航空隊vs.帝国海軍航空隊

カクタス航空部隊(Cactus Air Force)とは、1942年8月から1942年12月までの4ヶ月間、
ガダルカナル島に割り当てられた連合軍の航空部隊で、
「カクタス」=サボテンは、連合国のガダルカナル島を表すコードネーム です。

 
1942年7月ごろ日本軍によって建設中だったガダルカナル島のルンガ岬の飛行場は
8月7日上陸した海兵隊によって占拠され、ミッドウェイ海戦で戦死したパイロットの名前をとって
「ヘンダーソン飛行場」と名づけられました。

8月7日の航空写真
 
ただし、このヘンダーソン飛行場のある場所はひどい湿地で水捌けが悪く、
とても飛行場に向いたコンディションでなかったため、パイロットは
着陸に大変苦労したそうです。

飛行機にソリをつけて着陸するのがいいとまで言われたとか。
 

ガダルカナル島の生活

当然ながら住居としても最悪の気候条件で、海兵隊は泥だらけのテントに住み、
日米両軍共にマラリア、赤痢、デング熱などの熱帯病に苦しめられた上、

飛行場は正午頃ほぼ毎日、一式陸攻が爆弾を落としにきて、昼間は砲兵、
夜間は軍艦の艦砲射撃という日本軍の攻撃に見舞われました。

カクタス航空隊御一行

カクタス航空隊が対峙したのは日本海軍の航空パイロットです。



ジョー・フォス少佐、カクタス航空隊8機のF4Fの隊長で、
アメリカでは「エース・オブ・エース」とされています。
 
 
彼のグループは案の定「フォスのフライングサーカス」と呼ばれていました。

ところで昔、カクタス航空隊について、日本の戦記小説の登場人物が、

「サーカス出身のパイロットが向こうにはいるらしい」
 
と言うのを読んだことがあるのを、今ふと思い出しました。

カールもフォスもショーパイロットの経験は全くありませんので、
おそらくこれは、「フライングサーカス」という言葉を
勘違いしたものではないかと思われます。
 
日本にも「源田サーカス」とかあったのに、どうして間違えるかな。
 
多分カクタス航空隊の人

そして彼らと戦った、帝国海軍の台南航空隊のメンバーです。
 

この写真には日本のナンバーワンエースと認定されている西沢広義(後列左)
そして坂井三郎(中段左から2番目)、他2名のエースが写っています。
 
台南航空隊は、最高得点の日本の戦闘機エースを何人か含む零戦隊でした。
(アメリカ側の記述による)

8月21日から9月11日までの間に、日本軍はガダルカナル島を合計10回襲撃しています。
この間日本軍の31機の航空機が撃墜され、7機が損害を受けました。
対してCAF海兵隊戦闘機飛行隊の損失は航空機27機、搭乗員9名となります。

上の写真には笹井醇一少佐が写っていないことから、この写真は、
ツラギに米軍が上陸後、同航空隊がガダルカナルまで飛んで
カクタス航空隊と空戦を行う中、笹井少佐がカール少佐に撃墜されたとされる
8月26日以降に撮られたものであることがわかります。

なお、冒頭の写真はVF-17のアンディ・ジャガー少尉が、ラバウルからの帰投後、
日本機を撃墜したことを地上員に報告しているところだそうです。

ワイルドですね。

VF-17は、F4Uのコルセアを運用した最初の部隊で、
「ジョリーロジャース」のマークで有名です。
海軍は当時コルセアを空母サービスに適さないとみなしていたので、
空母ではなくソロモン諸島の陸上飛行隊として活動しました。

2回の任務ツアーで、VF-17は152回の勝利を収め、11名のエースを生み出しました。
その後、ヘルキャットに乗り換えてからは空母「ホーネット」乗組になっています。



 

 

続く。