ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

令和2年度 年忘れイラストギャラリー その3

2020-12-31 | 映画

恒例となった年忘れイラストギャラリーも最終日です。
これが終わると自動的に令和3年へと年が変わります。

それでは映画「Uボート」の続きからまいりましょう。

”J'attendrai "(待ちましょう)

銀行マン出身の軽薄で皮肉屋の「次席士官」を描きました。
士官始め一人一人の乗員に語るべきキャラクターが与えられ、
その言動に感情移入せずにはいられないのもこの映画のいいところです。

そして、艦長が一人の艦長室で調音係にリクエストし、シャンソンの
”J'attendarai(待ちましょう)”を聴くシーンは、わたしの選ぶ

音楽を伴った戦争映画の最も感動的なシーンのひとつ

であることをここに熱く断言したいと思います。

”La Paroma"〜押し寄せる波のように

四日目はUボートの攻撃によって燃え盛るイギリス商船をバックに
機関長を描きました。

シャバに戻ると嘘のように端正な好青年である機関長には、
美しい金髪の妻がいますが、この航海中に彼女が流産したことが
機関長の心を打ちのめしていました。

後半、敵に撃沈されたUボートの命運を握ったのは
彼の知識と問題対処能力、冷静さと諦めない心であったと言っていいでしょう。

艦を生還させる大きな力になった乗員は、機関長の他に
前半敵攻撃でパニクって艦長に銃を持ち出された機関室の「幽霊ヨハン」もいます。

”It's a long way to Tipperari"〜ティペラーリソング再び

原作では「乗員の嫌われ者」であるとされるヒトラーユーゲント上がりの先任。
この若さで先任にまでなっていることは、かれの出世の速さであり、
そのことについては同じ士官同士からも疎まれているというふうに描かれていました。

しかし、原作では映画と同じく語り手である同乗者のヴェルナー少尉が
そんな先任の人に見せない部分を垣間見て彼に共感を持つ、となっているように、
わたしもまた映画の鑑賞者として先任に大変好感を持ったことを告白します。

育ちの良さがある意味仇となって一種の頑迷固陋に陥り、その結果、
自分をその中に閉じ込めてしまい人々に誤解される不器用な人物。
どんな創作物でも主人公より脇役に入れ込んでしまう傾向のわたしには
こんなキャラクターに感情移入するという傾向がどうやらあるようです。

 

今年紹介した「眼下の敵」は、乗員が皆で駆逐艦に聞こえるように
「デッサウアー」を歌うという、

「ドイツ軍が歌って元気になるシリーズ」

の先駆けであったわけですが、この映画におけるそれが
出航してすぐに艦長がこの堅物の先任士官にレコードをかけさせて
皆で歌う「ティペラーリソング」なのです。

2度目の「ティペラーリソング」は、撃沈されて海底で動かなくなった艦を、
乗員たちの必死の努力と、おそらく偶然の力で浮上させ、故郷に帰る航行中、
喜びに沸く乗員たちによって歌われることになります。

そして、艦長もまた艦長室で一人、愛聴歌であるあの「待ちましょう」を聴くのでした。

帰港 ”大公アルブレヒト行進曲”

この映画の「衝撃のラスト3分間」ですが、映画の煽り文句だけではなく
計ってみたらほんとうに3分間なのです。
3分で全てが変わってしまうのです。

航空攻撃というものが瞬間に終わる以上、これは当然のことですが、
Uボートの乗員たちにとってこれはあまりにも非情な運命の3分でした。

タイトルに入れた「大公アルブレヒト行進曲」は、Uボートが入港し
いわゆる凱旋行事のために埠頭にいた軍楽隊によって演奏された曲です。

この曲が終わらぬうちに、上空に敵機が現れ攻撃が始まるわけですが、
演奏していた軍楽隊のメンバーは楽器を持ったまま避難していました。

内容にももちろん力を入れましたが、本作の場合
各登場人物を描くのはとても楽しい作業でした。

♡ おすすめ どなたも一生に一度は是非見るべき映画

 

「怒りの海」〜華府軍縮会議

アップ前からこれはコメント欄がお節介船屋さんの解説で埋め尽くされるであろうと
うすうす(というよりはっきりと)予想していた海軍造船を主題にした映画です。

予想通り、アップされたと同時期に「蕨」が発見されたというニュースなど
多岐にわたって投稿いただき大いに勉強させていただきました。

他の皆様にもこの時代に「海軍いかづち部隊ーアメリカようそろ」なんて映画が撮影されていた、
などというトンデモ情報もお寄せいただいたり(笑)

あらためましてお節介船屋さん、他の投稿者の皆様がたにもお礼を申し上げる次第です。

 

さて、戦争映画数あれど、海軍の造船技術士官、しかも実在の人物を主人公にした作品は
これをおいて他にわたしは知りません。

もっと世間に膾炙してもいいと思うのですが、海軍省後援による
いわゆる「国策映画」にあたるため、戦後の日本ではほぼ無視されていた、
という事情が本作を無名にしているのだと思われました。

初日冒頭挿絵は、わたしには珍しく人物の象徴的なセリフも名前も書きませんでした。
このわけは今自分で考えても思い出せません。

まず真ん中が本編主人公である平賀譲海軍造船士官。
演じているのは大河内伝次郎で、このころ三十代という設定です。

右上と左下は同じく造船官で、右上は造船士官である谷(月田一郎)、
左下はこれもお節介船屋さんに教えていただいた「文官技師」の山岸。

山岸は「平賀と口角泡飛ばして大衝突をすることがあった」という
文官技師、土本宇之助をモデルにしていたのかもしれません。

なお、月田一郎は「燃ゆる大空」で戦死する行本生徒を演じていた人で、
山岸役の(おそらく)真木順という俳優は、「ハワイ・マレー沖海戦」で
乗員たちに敵艦のシルエットクイズをする田代兵曹長役です。

左上はご存知若き日の志村喬、そして右下は平賀家令嬢のみつ子さんです。

そういえば、「戦場に流れる歌」の主人公の恋人も美津子さんだったなあ。
上官に嫌がらせの罰則として、

「みつこさん、みつこさん、タタタタン、タタタタン」

と歌いながらドラムを叩かされていたシーンが印象的だったので覚えているのですが。

「土佐」沈没

映画を通じて象徴的に現れるのが、このタイトル画で平賀が持っている
「土佐」廃艦記念に艦政本部に配られた土佐の文鎮です。

軍縮会議を受けて進水後廃止された「土佐」が
廃止の式典の直後に爆雷で沈められるという設定はあまりに映画的ですが、
この「土佐」の文鎮が造船官にとっての無念と臥薪嘗胆の象徴となって
折にふれ現れるのです。

映画では、設計に没頭すると周りのことが全く見えなくなり、
一人で明後日の方向に歩いて行ったり、タバコの灰をカップに落としたり、
という平賀伝説が随所に盛り込まれます。

艦政本部会議での葛藤

コメント欄でお節介船屋さんが紹介してくださる平賀嬢の伝記、
「軍艦総長・平賀譲」によると、平賀先生はこの「夕張」設計に関して
ずいぶん逆風があり、それが実現したのは平賀の兄平賀徳太郎と、
安保清種の後押しによるものだったということらしいですね。

そして平賀がいかに周りと衝突したかも書かれている模様。

本作三日目に紹介したのは、艦政本部会議において、平賀が
志村喬演じる機関制作部門の責任者、高木少将と激しくぶつかるシーンです。

平賀は5000トン級の巡洋艦と同等の能力を如何にして3000トン級以下の船に持たせるか、
ということを考えているのですが、高木は機関を軽くするのは無理だ、
と主張し、二人の意見は平行線のまま終わりました。

 

「夕張」誕生

仕事になると周りが見えなくなる平賀を家族も心配し、
娘のみつ子は父を強引に新響のコンサートに連れ出します。

そして設計に悩む平賀はそこにヒントを見出すという展開ですが、
わたしにとっては、この映画に若き日の指揮者山田一雄の指揮する姿が
克明に残されていたことは大変な驚きでありました。

映画が制作されたのは戦争中ですが、これを契機に調べてみたところ、
戦中少なくとも新交響楽団は演奏活動を普通に行っていました。

終戦後、演奏を再開したのはなんと九月からだったということもわかりました。

平賀はこの演奏会を抜け出して天啓のように閃いた新造艦のアイデアを
形にするため訪れた図書館で、高木少将と顔を合わせ和解します。

このあと艦政本部の部下に嬉々としてそのアイデアを披露するシーンで、
わたしがどうしても聞き取れなかった「か〇〇〇〇」という言葉が、
「軽目孔」だということもお節介船屋さんに教えていただきました。

斃れてのち止む

時系列に沿って大河内伝次郎演じる平賀譲の絵を描いてきましたが、
32歳から死の直前である64歳まで、本当にそれなりに見えてくるから
役者というのはすごいものだと思わずにいられません。


最終部分では、ロンドン軍縮条約で敗北したことから自決した
草刈英雄少佐をモデルにした士官(右)は、平賀の知り合いだったという設定です。

左の少将は、死地に赴く前に平賀に挨拶に来るのですが、
かれは「死に逝くすべての海の武人」の象徴として描かれているように思います。

ところで、この映画は海軍省後援によって昭和19年5月に制作されました。
この頃この映画を制作することによって海軍は国民に何を訴えたかったのか、
何を宣伝したかったのかということについてあらためて考えさせられます。

♡ おすすめ 大河内伝次郎の平賀譲はたとえ艦これファンでなくとも一見の価値あり

 

デア・ハウプトマン「小さな独裁者」

ドイツ関係の調べ物をしていてたまたま引っかかってきた映画情報です。
拾った制服に身を包み、空軍大尉に成り済ました煙突掃除出身の兵隊が
すっかりその気になって身の毛も弥立つような戦争犯罪を繰り返す。

事実は小説よりも奇なりを時で行ったヴィリー・ヘロルトの実話を
映画に絡めるかたちで紹介してみました。

モデルにした実話がぶっ飛びすぎていて、映画そのものの評価しようがないというか、
本当にあったことを淡々と描写するだけで事足りてしまうという特殊例です。

それにしても19歳の小僧のなりすましをどうして誰も見抜けなかったのか、
ということは誰しも考えるところだと思うのですが、それもこれも
つまりはこれも「制服マジック」の一種というやつだったってことなんでしょうか。

♡ おすすめ 事実は映画より奇なりの再現を楽しみたい方に

 

「航空戦術の父」第一次世界大戦のエース オスヴァルト・ベルケ

映画以外で描いた唯一の絵は、第一次世界大戦時のエースであり、
航空機戦闘術の祖といわれるオスヴァルト・ベルケの肖像です。

ベルケという名前は航空戦術という分野に造詣のある人しか知らないのでは、
というくらい少なくとも我が国では有名ではないのですが、
初期の軍事航空シーンにおいて、パイロットという立場から戦術を体系化し、
さらに「ベルケ・ディクタ」という形で可視化した功績は偉大です。

彼は空戦時に味方との衝突によって亡くなったのですが、その葬儀には
かつての敵国のライバルや、捕虜となっていた英国人パイロットからも
その死を悼む弔辞が寄せられ、王立飛行隊の飛行機が葬儀会場に
花輪を投下して行ったというほど、敵味方を超えて尊敬されていた人物でした。

リヒトホーフェンのときもそうだったように、敵のパイロットが好敵手の死を悼み、
それを正式な弔いの言葉にするというこのころの美しい慣習は、
時代が進み戦闘が相手の顔の見えないものになっていった第二次世界大戦には
ごく一部の出来事を除いて、公式にはほぼ完全に消滅していきました。

 

ところで自分でもなぜ映画以外の挿絵をこのとき描こうと思ったのかわからないのですが、
おそらくこの頃絵画ソフトをCorelからiPadのプロクリエイトに変えたので
色々とツールを試してみたいお年頃だったからではないかと思われます。

Corelの方がツールが充実していたり画像加工のバリエーションも多く、
なんといっても長年使って慣れていたため、乗り換えには躊躇いがありましたが、
使い始めてしまうと、「画面に直接描ける」(Corelはパッドに描いたものが画面に現れる)
ことと、手軽にiPadだけあればコードをつながずにどこでも作業できるため、
すっかりこちらに馴染んでしまいました。

今年は驚天動地の流行病発生のため、外に出る機会がなくなってしまい、
結果的にステイホームで映画を紹介することが多くなったわけですが、
それもまたこのブログの使命(というものがあると仮定して)のひとつと考え、
有名無名を問わず、読者の皆様の興味を引きそうな隠れた作品を掘り起こし、
これからもここでご紹介していければいいなと考えています。

それではみなさま、良いお年をお迎えくださいますよう。

 

 


令和2年度 年忘れイラストギャラリー〜その2

2020-12-30 | 歴史

令和2年度年忘れイラストギャラリー二日目です。

「ミッドウェイ」〜AFとは何処なるや

実在の人物が登場する映画の挿絵を描くと、往々にして
全く本物と似ていない俳優の顔を描くことになります。

たとえばこの「ミッドウェイ」だと、フレッチャー提督などは
本物よりも体重が20キロくらい重そうな感じの人になってしまっております。

皮膚病で参加できなかったブル・ハルゼーを演じているのが
「眼下の敵」で駆逐艦艦長を演じたロバート・ミッチャムというのも
イケメンすぎとかいう問題以前に「ブルっぽい」雰囲気が出せていません。

演技でそれに寄せることができる俳優がいるのは確かですが、
まあなんというか、似顔絵にすると辛いところではあります。


今回映画「ミッドウェイ」を取り上げたことでありがたいことに
ミッドウェイ海戦についてかなり理解を深めることができました。

映画という媒体について考察する時、たかがツッコミを入れるためでも
多面的に情報を集めるという作業を繰り返すことを求められるので、
結果的に誰かの書いた本を一読するよりは知識が蓄積されやすいということも、
長年のブログ作成によって経験則としてわかってきたことです。

ミッドウェイ海戦の指揮官二人は偶然どちらも左手の指を欠損していた、とか、
日米双方の部隊指揮官がどちらも比較的かっこ悪い病気(乾癬vs盲腸)で参加できず、
というようなちょっとした小ネタも収集できましたしね。

ちなみにニミッツは薬指、山本五十六は人差し指と中指でした。
ニミッツは事故の時アナポリスの卒業リングを嵌めていたため、
第二関節以下が残って海軍除隊を免れたといわれています。

 

デスティネーション・ポイントラック

今気付いたのですが(アップするときもしてからも気づかなかった)
この絵の中の名前にミススペルがありますね・・・とほほ。

 

アメリカ海軍も大概ですが、こちらはそれに輪をかけて誰一人似ていません。
なんとなればそれは、映画撮影時にアメリカの映画界で活動していた
日系俳優をキャスティングし、英語を喋らせるという手法を取ったからです。

ですから日本から山本五十六役で出演した三船敏郎のセリフも英語で、
さらに「三船専門」の声優がアテレコするというものでした。

しかし、わたしはこのキャスティングに非常に好感を持っています。
日系であることに加え、実際に軍人であった人も何人かいるうえ、
とくにジョージ・シゲタなどは日本人提督を演じる意気込みは
真剣かつ真摯なものだったというエピソードも伝わっているからです。

見た目だけが東洋人の中韓人俳優では、彼らのような雰囲気は出せなかったでしょう。

「勇敢な搭乗員が15名・・・・」

ちょうどこの「ミッドウェイ」についてのエントリを作成し終わった頃、
九月に公開された2019年度版の「ミッドウェイ」試写会のお誘いをいただき、
ありがたく参加させていただきました。


ミッドウェイ試写会その1

その2(配役について)

その3(思いっきり突っ込んでる)

その4(巻雲艦上の処刑について)

 

この最新作で最もある意味深刻だと感じたのは、中国資本で作られたことによる影響、
つまりわかりやすい一定の方向付け(もっとはっきりいえば洗脳めいたもの)
が本作において非常にあからさまであったことです。

それは、同じミッドウェイ海戦を描きながら、日本海軍の軍人を武士のような雰囲気で描き、
デバステーター雷撃隊が全滅したことに南雲長官が涙する、
というようなエピソードを創作している旧作に対し、最新作の方は、
日本の駆逐艦で行われた搭乗員の処刑や日本軍の中国本土攻撃で犠牲になる中国人民を描き、
ドーリトル攻撃のシーンでは「アメリカの味方の中国人」を強調し、
極め付けは真珠湾攻撃において登場人物の親友は無残な姿で殺され、ミッドウェイ海戦が
その敵討ちであるというストーリーづけをするなど、アメリカ側の英雄的な戦いを称揚しながら
戦闘相手の日本の「理のなさ」を告発せんばかりの演出にことごとく現れていました。

これは、エメリッヒ監督の演出や単純に映画としての評価とは
切り離して考えるべきなのでしょうが、残念ながら現在のアメリカでは
わたしが度々ここでお伝えしているように、映画などのエンターテイメントに
外国資本が入り込んだ結果、大衆をある方向に誘導・洗脳しようとしている、
という動きが目に見えて加速しているのを現地にいても感じるのです。

アメリカの保守層の中ではもっとはっきりと、その存在とは中国共産党であり、
アメリカ社会に長年時間をかけて入り込んで内側から文化と歴史を変えようとしている、
という危機感が急速に共有されつつあります。

今回の大統領選をきっかけに吹き出してきた選挙介入疑惑や、中国人スパイの摘発、
一向に疑惑を疑惑として報じず言論統制をするメディアのあからさまな動きは、
それが単なる陰謀論に止まらないことを如実にあらわしています。

 

教育と娯楽で子供のうちからの価値観を変え、自国の歴史に否定的にさせる。

こういった活動は具現化されて加速し、ビーエルエムだのアンチハだののポリコレ集団が
ついには南北戦争の軍人たちの銅像を北南関係なく打ち壊したり、さらには
軍人の名前のついた建物や通り、地域の名前を変えさせようとしているに至りました。

ハリウッドについては何年か前からこの傾向が目に余る状況であるため、
共和党の保守派議員には中国資本が介入することをを法律で禁止するための
法案をだそうという動きもあるということも前にニュースをあげてお伝えしましたね。

今にして思えば、中国当局が資本投入の引き換えに検閲をすることを許している、
ということに対してこれを禁止する法案をだしたのは、今回の大統領選で
すっかり有名になったテキサス州の共和党議員テッド・クルーズでした。

さて、改めて言われずとも、中国資本が絡んで無茶苦茶にされたと思われる作品を、
わたしたちはなんとなくいくつか思い起こすことができるわけです。
そして彼らの目的のひとつと思われるものに「日米離反」への巧妙な工作があります。

近年アメリカに来るたび、その動きを史跡や博物館などで感じることはありましたが、
映画ではこの「ミッドウェイ」で初めて確認することになったというわけです。

マット・ガース大佐の出撃と戦死

本作には、日系アメリカ人の女性と愛し合い、それ故に苦しむ搭乗員と
その父親であるチャールトンヘストン演じるガース大佐が主人公として登場します。

こういうサイドストーリーも、ただ日本側に対し敵感情をアメリカ人に植え付ける、
ということを意思を持って行う現在のハリウッドならまず採用されなかったでしょう。


新旧二作の「ミッドウェイ」を奇しくも間をおかず検証する機会を得て、
わたしは現在のアメリカ(この問題は日本にも決して無関係ではない)で叫ばれる
外国勢力の企む価値観の危機が、決して「映画の中だけの話」でないことを確認しました。

それはあたかもたまたま顕微鏡を覗いたときに原因不明とされていた体調不良の根本原因となる
新種の病原菌を見つけた研究者のような気分です。
(ちなみにその病原菌の存在と体調不良の因果関係については従前から疑いを持っていたと)

♡ おすすめ 「ミッドウェイ」最新作を観た方にぜひ


青島要塞爆破命令「現在三浦半島横断中 時速1キロ」

 

 

まったく、近年の映画をみて神経をささくれ立たせられることを思えば、
この頃のシンプルで邪気のない「痛快な」戦争映画における
ちょっとした自虐風表現などかわいいものだと思ってしまいます。

本作は「戦争活劇」というジャンルが日本映画にまだ存在していたころ、
そのジャンルのスターである佐藤、夏木のレギュラーメンバーに
当時人気絶頂だった加山雄三を迎えて制作されたという豪華版ですが、
戦争ものでも珍しい第一次世界大戦を扱っているのが大きな見どころです。

スミソニアン博物館の第一次世界大戦の航空について取り上げている時だったので、
日本軍の青島攻略戦についても理解が深まりました。

第一次世界大戦における飛行隊を主軸に描くという映画の脚本上、
登場する飛行機は複葉の水上機ということになります。

「モーリス・ファルマン式」などという日本海軍初期の採用機、
模型展で見た「ルンブラー・エトリッヒ・タウべ」などというドイツ軍機も登場します。

 

「存在と無」

奇しくも(笑)ここに登場するのが美貌の中国人女スパイ。
ついでに青島の村人たちは結局お金欲しさに日本軍の情報を
通報しているという人民総スパイであった、と描かれます。

戦争活劇というだけあって、目にも婀娜な(死語かしら)スパイを
銃殺すると見せかけて命を救ったら、いつのまにか彼女が
こちらに寝返って助けてくれたり、空中戦で戦った敵機のドイツ人パイロットが
戦闘でペアを失い、項垂れる様子に粛然と敬礼を送るなどといった脚本、
題名にした「存在と無」のギャグ?など、全方向にサービス満点の娯楽映画として
その徹底ぶりは評価されるべき作品です。

 

ビスマルク砲台弾薬庫を爆破せよ

しかし女スパイの白蘭が助けてもらったことを恩に
敵から寝返ったかどうかについての説明や、夏木陽介がどうやって生き残ったか、
至る所で辻褄を合わせることを放棄しているのですが、勢いで乗り切ってしまっています。

そしてなんといっても青島戦に勝利したのは、このしょぼい水上機の爆破のおかげだった、
というのが戦争活劇の面目躍如といった感じです。

♡ 文字通り活劇ものを見て楽しみたい方に

 

Uボート〜"Muß i denn"(別れ)

満を侍してアップした「Uボート」。
戦争映画の枠を超えて名作とされているドイツ映画です。

ログの挿絵には登場人物を一人ずつ取り上げ、タイトルには
その部分に挿入された曲の題名を充てました。

オリジナルのサウンドトラックも名曲とされていますが、本作は
当時のヒット曲などを登場人物の状況や心情に合わせて
実に巧みに挿入させており、優れた効果となっていたからです。

「ムシデン」=別れの歌は、Uボートが出撃するシーンで軍楽隊により演奏されました。

リスト作曲 交響詩 ”レ・プレリュード”

Uボートの出航を見送りに来た別のUボート艦長、
トムセン大尉を二日目に取り上げました。

本文には書き漏らしましたが、広い大西洋で主人公のUボートが
このトムセンのUボートと偶然鉢合わせするシーンがあります。
艦長はつまり司令部の采配の拙さだと激怒するのですが、その後
トムセン艦長の艦は敵に撃沈されたと原作にはあるそうです。

リストの前奏曲はドイツからのニュース放送のテーマとなっていましたが、
そもそも上層部というものに不信感しかない乗員たちにとっては、
彼らの無能を喧伝する「前奏曲」にしか思えなかったでしょう(誰うま)

というところでまだ「Uボート」は終わってませんが明日に続きます。

 


令和2年度 年忘れイラストギャラリー その1

2020-12-29 | 映画

令和2年度、2020年もあとわずかとなりました。

去年の終わりにこの恒例ギャラリーをアップしたとき、まさか一年で
世界がこんな風になってしまうなどとは夢にも思っていませんでした。

昨日の続きで平穏な世界が続くなど、全くの幻想であったということ、
そして「映画のような世界」は映画の中だけにあるのではないことを思い知ったのです。

もしかしたら、日本人の中でも実際に先の戦争を体験した人々は
この世の平和や平穏というものがしょせんうたかたであり、
この状態がいつまでも続くものではないということを身を以て知っていたかもしれません。
しかしそれらの人々が世を去っていくのとほぼ時を同じくするかのように、
平和と繁栄を安逸に貪ってきたこの国にもいまや不穏が忍び寄っています。

今の世界の状況を、単なる歴史の偶然ではなく、巨大な陰謀の結果だと考える人々は、
「日本はすでに戦いに飲み込まれているのだ」ということでしょう。

しかし、そう思わない人ですら、誰一人、今の状況が「平和」であるとは
口が裂けても言えないような状況が現実に、そして着実に広がってきています。

わたしがこれまで毎年取り上げてきた戦争映画に描かれていることだけが
もしかしたら「戦争」ではないのかもしれないということを考えながら、
今年も「年忘れギャラリー」をお送りします。

戦場にながれる歌 「國ノ鎮メ」

わたしの知る限り陸軍軍楽隊について描いた唯一の映画です。
日本の軍楽隊の成り立ちについても知ることができました。

当時のトップ俳優を投入しお金をかけた芸術祭参加作品です。

各日のタイトルには劇中演奏された陸軍軍楽隊の曲を挙げましたが、
その多くが現在の自衛隊音楽隊にも受け継がれています。

「北支の愛国行進曲」

本作は団伊玖磨の手記による氏本人の体験について
エピソードに挿入されています。
ともに、陸軍外山学校の同級生に、芥川也寸志がいたことを知りました。

本作の監督はともすれば軍楽隊を描きながら当時映画界で主流だった
日本贖罪論に固まった考えの人だったらしく、この「中国大陸編」は
日本悪玉&自虐風味加えて贖罪と反省に満ち満ちています。

「命ヲ捨テテ」

中国大陸で戦死した仲間のために礼式曲「命ヲ捨テテ」が演奏されます。
この曲も現在の自衛隊で礼式曲として主に追悼式で演奏されます。

音楽隊は極寒の中国大陸からいきなりフィリピンに移動になるという
アクロバットな場面転換が行われます(笑)

「ロングサインと星条旗よ永遠なれ」

本作のクライマックスは、捕虜になった軍楽隊メンバーが、アメリカ軍楽隊の演奏する
「星条旗を永遠なれ」に惹かれるようにして楽器を手に取り演奏を始めると、
米軍楽隊(座間キャンプ所属部隊特別出演)がそれに和し、日米合同による
「オールドロングサイン」の大合奏が始まるという感動的なものです。

♡ おすすめ 自衛隊音楽隊関係者にぜひ

 

眼下の敵 「Manned and ready!」

駆逐艦対潜水艦映画の名作である「眼下の敵」に挑戦しました。

KILLER-SUB versus SUB KILLER」

姿を見ずに戦ううち、いつの間にか互いのタフさに驚嘆し、
好敵手として認め合うに至る二人の海軍の男、というのが
この戦争映画のテーマとなっている硬派な映画です。

銃後の女性が一切出てこないあたりもわたし的には高評価でした。

”I Think You Will. "

クルト・ユルゲンスと言う名前を、わたしはずっと歌手だと認識していました。
「別れの朝」という曲を歌っていた人だとなんとなく思っていたのです。
でも、今回それは「ウド・ユルゲンス」の間違いだったことを知りました。

本作は「ドイツ軍が歌って元気になるシリーズ」のひとつで、ここで歌われるのは
「デッサウアー」(それが我らの生き方)という曲でした。

映画の結末はモニターによる投票で、沈没したUボートの乗員を駆逐艦が救出する、
というハッピーエンドになりましたが、もう一つの案は

マレル艦長は海に転落した(か飛び込んだ)フォン・シュトルベルクを
救出するために自分も海に飛び込み、二人の指揮官はどちらも死ぬ(-人-)

だったと知って、当時のモニターの良識に感謝した次第です。

♡ おすすめ スポーツ観戦後のような爽快さを味わいたい方に

 

映画「1941」はスピルバーグの”黒歴史”か

スピルバーグの快作、「1941」を頑張って取り上げました。
最初に観たときにはとてもここで取り上げる気にならず、
すっかりあきらめていたのですが、まあなんとなくなりゆきです。

展開は無茶苦茶で荒唐無稽ですが、取り上げられている出来事は
全て史実をベースにしているという、ある意味恐ろしい映画。

ところどころに自分の作品のパロディや、この作品をもとに
「インディージョーンズ」のシーンを作ってしまっているので、
わたしは「スピルバーグのネタ帳」と位置づけしてみました。

映画に詳しければ詳しいほど楽しめるという凝った映画です。

その2

本作で描かれている実在のイベントは「ズートスーツ騒乱」「ロスアンジェルスの戦い」など。
これも歴史に詳しければ詳しいほど面白くかんじるかもしれません。

ただ、劇中描かれた恋の鞘当てのドタバタはどうにもいただけないと思いました。

その3

出演したジョン・べルーシには徹底的に嫌われていたらしい作品ですが、
わたしの感想は畏れ多くもスタンリー・キューブリックのいうところの

「Great, but not funny」(素晴らしいが、つまらない)

と同じであるといっておきます。 

♡ おすすめ ロスアンゼルス在住の郷土史愛好家の方、
あるいはつまらんギャグにたいし寛容または耐性のある方に

 

スパイと貞操 前半

新東宝のいわゆるエログロの延長上にある「憲兵三部作」のひとつです。
ちなみに当ブログではこの三部作を全て紹介済みです(笑)

「憲兵とバラバラ死美人」で優しい憲兵を演じ、「憲兵と幽霊」で憲兵に貶められ
幽霊になって出てくる役を演じた沼田曜一が、こんどは拷問潜入捜査なんでもありの
「オーソドックスな」憲兵を演じています。

わたしがこういう映画を好きなのは、当時の街の様相がニュース映像などより
はるかに高画質で残されていて見ることができるからです。

この映画では富士屋ホテルなども登場します。

スパイと貞操 後半

海軍の最高機密である大和砲塔部の設計図を盗みだす組織の元締めが、
日本語ペラペラの謎の中国人であった、というシーケンスは、
おそらく今ならポリコレ的にタブーすぎてとても採用できないでしょう。

しかし、「王機関」なる怪しい組織、という設定が映画として「ありがち」というか、
自然に思えるのは、そういう”イメージ”が当時世間一般に流布していたからというのも現実です。


♡ おすすめ 戦後昭和の空気を感じたい人、東宝の怪しげな空気が好きな人に

 

「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス・マルセイユ物語

第二次世界大戦博物館シリーズで、バトル・オブ・ブリテン関連の
展示をご紹介しているとき、ドイツの国民的英雄となったエースパイロット、

ハンス=ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイ
Hans-Joachim "Jochen" Walter Rudolf Siegfried Marseille(1919−1942)

の名前を知り、さらにこの人のことを調べてみると、
その伝記映画までが戦後になって制作されていたことを知り、取り上げました。

実在の人物で、しかも当時のドイツでは国民的英雄だったので
残された映像や資料は多く、映画と実際を比較しながら進めることができました。

映画の作り方としては、ロマンスを軸に据え、さらに当時のドイツにも蔓延していた
戦争嫌悪の雰囲気を色濃く反映させているというかんじです。

映画そのものとしては、一般受けを狙い、撃墜王の影の部分を描くことを放棄して
品行方正な青年のように作り上げてしまったことから、評価が低くなったと思われました。

中編

後編

 

実在のルフトバッフェのエースで映画にまでなっているのはいろいろ調べたのですが彼だけです。
素行が悪く反抗的で権威に臆しない技量抜群の美青年パイロット、という素材が
のちの創作者の意欲をかき立てたにちがいありません。

そして彼が若くして戦死したという悲劇もまた。

当ブログでは、後世の伝記作家がナチス空軍という組織に属した彼の
「アリバイ」を探して後付けの解釈で彼をナチス嫌いに仕立てようとしているのに対し、
彼は政治的に無定見でただそこで己の理想を追求する自由な魂の持ち主だった、
と独断と偏見において仮定してみました。


♡ おすすめ マルセイユのファンでない人に

 

というわけで明日に続きます。

 


”THIS IS IT--------------" 戦争の終わった日〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-27 | 歴史

ピッツバーグにある「兵士と水兵のための記念博物館」の展示より、
太平洋戦線における関連のものをご紹介しています。

■天使の棺とレディラック

いかにも素人っぽいピンナップガール風ペイントは、
「レディ・ラック」とあだ名されたUSS「サンゲイ」(SangayAE10)
のマスコットで、原画は二等水兵のメル・ツィマーマン君が描いたものです。

「サンゲイ」という艦名を目にするのはこれが初めてですが、
AEすなわち「給兵艦」(munitions carrier)つまり補助艦なので、
その名前が知られていなくても当然かと思われます。

補助艦艇、特に補給艦は撃沈した時の効果が大きく、しかも
掩護がついていなければ反撃されないので狙われやすく危険で、
しかも防御が脆弱なので一旦敵の砲火が当たると、
粉々に吹き飛ばされる危険性がつきものだったことから、
乗員たちは自嘲的に「天使の棺」とあだ名をつけていました。

ピンナップガール風の天使(のつもり)の後ろには
Angel's Coffin、とありますので、乗員たちはせめて彼女に
守護天使になってもらおうとしたのでしょう。

ここにある「レディ・ラック」は、「サンゲイ」が退役し除籍されてから
ジャック・クリフォードという元乗員が上から描き直したものです。

艦の一部とかではなく、どこかに飾ってあった絵のようですね。

描き直すことに決まってからか描き直してからか、
クリフォード氏はオリジナルを描いたツィマーマン氏をずっと
探し続けていたのですが長年果たせず、おそらくインターネットのおかげで
ようやく巡り会うことができたのは、65年後のことでした。

プロならいざ知らず、見るからに素人の絵を上から描き直したからって
そこまで気に病むこともなかったのでは、と側からは思いますが、
(そしてそんなに気にするなら描き直ししなければ良かったのではとも)
まあ、本人的にはなんとしても一言いいたかったんでしょう。

2010年、クリフォード氏はこの絵をSSMMに寄贈しました。

ところで、絵の上にわざわざ舫をあしらっているわけですが、写真を見ていて、
これは女性の胸部分を隠すためにわざわざ垂らしてあることに気がつきました。

学校の児童なども頻繁に見学にくることからちょっとこれはね、
という話になるも、上から何か貼ったりすれば製作者を「冒涜」するとになる。
(しかも制作した二人はヴェテランです)
そこで苦肉の策として、雰囲気を出すためのディスプレーを装い、
さりげなく部分を見えないようにしたというところでしょう。

 

■ 戦艦「オクラホマ」の時計

まず、8時6分を指して止まっているこの時計は、
かつてUSS「オクラホマ」のギャレー(ダイニングルーム)にかかっていたものです。

1941年12月7日、日本軍が行った真珠湾攻撃によって、パールハーバーに停泊していた
戦艦「オクラホマ」は三発の魚雷を受け、横転する形で沈没しました。

横転した甲板の主砲のマウントの向こうに、3人の水兵の姿が見えます。
たまたま横転の時に甲板にいて、奇跡的に命存えた幸運な男たちです。

艦体の横転とほぼ同時に、20名の士官と395名の下士官兵が死亡しましたが、
そのほとんどがデッキより下の階にいた人々でした。

警報がもう少し早く伝わっていれば、そのうち半分くらいは
甲板に出ることによって助かっていたかもしれません。

甲板にいた80名ほどの乗員は航空機が接近してきた時、
対空砲への配置のためスクランブルをかけましたが、
発射ロックが甲板の下にあったため使用することができませんでした。

甲板階にいて助かった乗員たちは、となりの「メリーランド」に
係留索を伝って移動し、対空戦闘に参加したということです。

攻撃が終わってから甲板より下にいた人々の救出が始まり、
このときの港湾関係者の英雄的な救助作業によって
32名が生還することができました。

USS Oklahoma | Oklahoma Historical Society

艦体にヒットした魚雷は九発、そのいずれもが
ほとんど同じ区域に突き刺さることによって、艦体は大きく傾き、
その結果瞬時にして横転することになったのです。


さっそく引き揚げ作業が始まり、その間艦内から
なんらかの価値がありそうなものが取り外され持ち出されたわけですが、
そのうちの一つがこの時計でした。

そしてそれらの引き揚げ品がどうなったかというと、最終的に
業者に買い取られ、この時計はペンシルバニア州アルトゥーナの
軍放出店に行きついたというわけです。

仮にもパールハーバーで日本軍に沈められた戦艦の装備品なのに、
この雑な扱いってどうなの、とわたしなど思ったりするわけですが、
時計の出自がわからなくなるようなことにはならず、その後
朝鮮戦争から帰還してきたドン・ヘラーという人に贈られ、
彼はこれを保持していましたが、2012年に当博物館に寄付しました。

Galley CS OKLA

と手書きが見えるこれも「オクラホマ」艦内から引き揚げられたものです。
残念ながら詳しい説明の写真を撮るのを忘れてしまったのですが、
「オクラホマ」のギャレーにあったものに違いありません。

CSというのC〇〇〇〇ment Shipというオクラホマのあだ名だと思われます。

「オクラホマ」で亡くなった何人かは、後の駆逐艦に名前を残しました。

ジョン・C・イングランド少尉

  →USS イングランド(DE-635)USS イングランド(DLG-22)

チャールズ・M・スターン少尉

  →USS スターン(DE-187)

 

ジョン・アーノルド・オースティン少尉

  →USS オースティン 

イングランド少尉も、オースティン少尉も、他の乗員の救助に力を尽くし、
その結果自分が命を失うという英雄的な最後を遂げています。

「オクラホマ」の人々の最後などを具に調べてみると、
その悲惨さに、そりゃアメリカ人がリメンバーパールハーバーと
憎しみを滾らせたところで仕方あるまいと思わず首を垂れてしまうわけですが、
その恨み忘れまじと作られた世論を煽るためのプロパガンダポスター、

「12月7日を忘れるな!」

の上に、電報と水兵さんの写真が貼ってあります。

この人の名前はアンドリュー・マーツェ(Marze)。
USS「ペンシルバニア」に乗っていたガンナーズメイト(掌砲兵曹)でした。

12月7日の真珠湾攻撃のとき、「ペンシルベニア」は乾ドックに入渠中でした。
しかし真珠湾の艦艇や施設に襲い掛かる日本海軍の九九式艦爆や九七式艦攻に対して
対空砲火を撃っています。

入渠中だったため雷撃は受けませんでしたが、激しい機銃掃射に見舞われ、
爆弾が9番砲塔に命中し、また搭載してあった魚雷発射管が爆発で吹き飛び、
結局幹部を含む15名の戦死者と14名の行方不明者、38名の負傷者を出しています。

真珠湾攻撃のニュースを受けた時、マーツェ水兵の家族は
愛するアンディが無事かどうかを知るのに必死でした。

ここにある二枚の電報のうち最初のものは、
マルツェの運命の不透明さがその質問に色濃く現れています。

「Where is Andy? Honolulu? Pittsburgh?」

家族はアンディがホノルルにまだいるのか、ピッツバーグにまだ乗っているのか、と
とにかくそれだけを送信したのでした。
12日後、当時彼と一緒に海軍基地内の住宅に住んでいた妻のドリスが
こんな身も蓋もない短い返事を寄越しました。

”Andy Killed Andrea and I returning soon."
(アンディがアンドレアを殺したのでわたしはすぐに帰ります)

わけわからん。
アンドレアって誰?
アンディが無事であることだけはわかりますが。

 

■日本が降伏勧告を受け入れた日

さて、冒頭に挙げたこの黄色いペーパーですが、
真ん中の文章をご覧ください。

”THIS IS IT----------------”

これは1945年8月11日1520、USS「サラトガ」が受け取った電報です。

大西洋艦隊駆逐艦

というテンプレートの用紙に、

合衆国は、連合国の最高司令官が日本を統治するという条件で、
日本の降伏の申し出を受け入れることに同意した。

これは天皇の権威を通して数分前に秒単位まで正式に発表されたものであり、
バーンズ(ジェームズ・バーンズ国務長官)は4ヶ国の連合国、
米国、ロシア、大英帝国、中国を代表してこの申し出を行ったものである。

バーンズ氏は天皇が連合国総司令官の支配下に置かれて初めて
4連合国は幸福を受け入れるだろうと述べた。

そしてそのあと「ジスイズイット・・・」がくるわけです。

これは今風に言うと、

「ktkr」
「キター♪───O(≧∇≦)O────♪」

と言う感じでしょうか。

公式にソースが発表されて数分後にはこの電報が世界中を駆け巡りました。
打電の最後に()をして、

(現時点でジャップの故郷から25マイル離れたところ航行中)

とありますが、これは伝言を受け取った艦隊のヘッドがそこにいたと言うことでしょうか。

 

 

続く。

 

 

 


ピッツバーグの「メリークリスマス」

2020-12-25 | アメリカ

ピッツバーグに着いて何日か経ったので現地報告します。

まず出発の日の成田空港の様子ですが、ご覧の通り。
前回もそうでしたが、今回も最初の予約便が飛ばなくなり、出発便を変更させられました。
ある程度の人を乗せないと飛ばせないのでそういう調整をするようです。

免税店はコーチだけがなぜか営業していました。

ラウンジに行くと従業員と客がほぼ同数でした。

パイロット席の窓ガラスの掃除は手作業で行います。

今回もカードのポイントで航空券を取りました。
なんとこの区画でわたしが唯一の客でした。
後で聞いたところ、乗客総数37名だったそうです。

どうも航空会社は運行乗客最低数を30人以上と決めているようですね。
前もそれくらいだったし。

キャビンアテンダントはわたし一人につきパーサーと若い人が着いてくれるという状態。
一人ということで話しかけてこられたのですが、

「アメリカにお帰りですか」

なるほど、こんな時期に渡航するなんて、住んでいる人しかないってことね。

機内で着替えるためのラウンジウェアは持ち帰り可です。
前回Mサイズをもらったので今回は家人へのお土産にするためLにしました。

機内アメニティのケースは今回もグローブトロッター。

搭乗して間もなく機内食が開始されたのですが、わたしはうっかり、
めずらしく仕事がなかったので見送りに来たTOと、時間をつぶすため
搭乗前に寿司屋で巻物をつまんでしまい、全く食欲なし。

にもかかわわらず、これでもかと出てくる先付け。

もはや暴力的とも思えるボリュームの主膳(涙)
せっかくの美味しい和食にほとんど手がつけられず、CAさんに

「何かお味に問題でも」

と聞かれてしまい、平身低頭で謝るという体たらくでした。
もちろんデザート(わたしの好きなモンブランがあったというのに)もパス。

教訓:飛行機に乗る前に食事をしてはならない

 

前回と同じく、隣の席にベッドをメイクしてくれました。
メラトニン10ミリを服用し、怖いくらい熟睡することができました。

シカゴのオヘア空港でトランジットだったのですが、4時間もあったというのに
乗り継ぎの便のステイタスがエコノミーだったのでラウンジなし。

待ち時間に空港の自動販売機で1ヶ月使える携帯のSIMカードを買い、入れ替えたり、
歩き回ってアップルワッチの歩数を稼いだりして時間を潰しました。

ちなみにオヘア空港の人出は夕方になるにつれ増えてきてコロナ前のようでした。


ピッツバーグ空港到着。
考えたらアメリカでクリスマスを迎えるのは住んでいた時以来です。

右はピッツバーグと韻を踏んだシックスバーグで「バーガー6個分離れて」
左はケーブルカーの「インクライン」を、

「我々は6フィート人との距離を取るようにお願いする傾向にある

とひっかけるご当地主義の注意書き。

インクラインとはこれのこと。

夜の9時にたどりつき、飲まず食わずのまま寝て、
朝起きて外を見たら、こんなんなってましたー。

この冬初めての「スノウストーム」襲来です。

外を歩いている人は・・・一人いたみたいですね。足跡が。

こんな日に運転するのは蛮勇というしかないというくらいの雪でしたが、
食べるものが何もないので死んだ気で買い出しに出かけました。
車線が見えなくなるほどの吹き降りとあってさすがの地元っ子もノロノロ運転。

雪国の人なら経験がおありだと思いますが、ブレーキを踏むとタイヤが何センチか滑るのです。
何度か冷や汗をかきながらどっと疲れて帰ってきました。

明けて次の日。

雪でも頑張るはたらくくるま。

すこし歩いてみようと外に出ました。

防寒はできても足元が悪すぎて(運動靴なので滑る)ワンブロック歩いて諦めました。

その翌日はオハイオ川ぞいを歩いてみることに。

ピッツバーグ名物の橋も雪の中でなかなか絵になります。

この日の気温はちょうど0度くらいだったでしょうか。
記憶にある北海道の寒さと同じくらいでした。

ふと上を見上げると太ったリスがお食事中。
ミシガン湖周辺に生息するというアメリカ赤リスだと思われます。

君たちは冬眠しないのか。

枝の上で素早く動けないのにわたしがカメラで狙うのでビビりまくってます。

雪が降るとそこここに現れるスノウマン。

いつも川沿いにいるグースのみなさんが雪上にたむろしていました。
なにか食べるものがあるんだろうか。

(悲報)夏にあったブラックライブズマターのペイントは当局によって黒塗りされました。
悔しいので黒ペンキの上にまた描いてやるう!消せるなら消してみろ!BLMをなめんなよ!てか?

ちなみに公共の建物に落書きするのがアンティハとかビーエルエムのデフォルトらしいです。
表立って声を上げると抹殺されかねないので、皆彼らに対して黙ってますが、迷惑は迷惑だよね。

雪の衣をまとったホームラン王(名前忘れた)

帽子もかぶってます。

今回の渡米の第一目的がこれ。MKの退寮にともなう引越しの手伝いです。
寮を退出する期限前日まで試験で1日で引越ししなければいけないという
非常に厳しいスケジュールの上、業者はコロナのせいで手配が絶望的だったので、
仕方なくわたしが飛行機で乗り込んで荷物ごとMKをホテルに収納するという作戦です。

来学期には別のアパートに移らなくてはいけないので、年明けの引越しも手伝います。

いよいよムービングの朝、あと2時間というところで電話したらまだ寝ていて、
コンピュータ周りの梱包に全く手をつけていないことがわかり、呆れました。

今学期の成績もまあ満足いくものだったということで、(試験の成績はすぐにわかる)
安心して解放感からゲームしていたみたいです。

ところでMKの受けている授業でオンライン試験中に(丸一日のリミットで答えを出す科目)、
「オッケーグーグル」を悪用したチーティング(カンニング)がバレた何人かがいたそうです。
寛容な先生らしく、自己申告した人は恩赦するが、黙っていたら落第ということですが、

「いい学校なのにそんなことする人いるんだね」

というと

「そういう学校だからやる人がでるんだよ」

この日は到着して1週間目。
雪が溶けたのでまた川沿いを歩きに行きました。
この建物は実はカジノなんですが、

営業停止しているので中はご覧の通り。
奥の方に電気がついていますが、誰もいないラウンジで若い男性が一人、
テレビを見ていたのでびっくりしました。

不気味だったのは、誰もいないテラスでロック調のBGMがガンガン鳴っていたことです。

カーネギーサイエンスセンターも無期限休館となっているようです。
潜水艦「レクゥイン」の中を見学できるのはいつのことでしょうか(涙)

着いたころ、少なくともFOXではスウォルウェル下院議員の中国人女スパイとの
「不適切な関係」で盛り上がっていました。

家の前でジョギングから帰ってきたところを突撃されてしまうスウォルウェル。
それはいいんですが、議員というのに入っていく家があまりにしょぼいので驚きました。

お金のない人が政治家にになるとこういう事態を招きやすいってことですよ。

厄介なのは、たとえ権力とお金を手に入れたとしても、今度は
普通のことでは満足できなくなって、世界征服とか企んでしまうんですよ。
実に人間の欲とは罪深いものです(一般論ですよ?)

サービス画像:ネイビーシールズ出身、共和党の隻眼の下院議員ダン・クランショー。

着いて最初の週末、夏の間毎日歩いたシェンリー公園に行ってみました。

山の中の道はすっかり雪で閉ざされていて歩くことができなくなっていました。

仕方がないので車道に沿って歩いていくことに。

スキーしてる人がいる!

学びの塔を臨む広場は格好のソリ遊び場に早変わり。

ピッツバーグは豪雪地帯ではないので、冬の間雪が降っても
これだけ積もることはシーズンに何度かというかんじだそうです。

たまたま週末と降雪が重なったので、この賑わいとなったようです。

日曜日、買い物に出かけたらいつものフリーウェイが渋滞していました。
その原因がこれ。
クリスマス前だというのに・・・というかドライバーは生きているのかレベル。

フロントの状況から見ると、前のセダン車に思いっきり追突したみたいですね。
前を全く見てなかったのか?

この日、モールの駐車場で前に止まっていた車。
アメリカには軍の他大学にもMOM、DAD、GRANDPA、GRANDMAとつけて
身内の所属を世間に自慢するグッズがあります。

噴水広場には巨大な電飾ツリーが出現していました。

今年初め渡米した時、

「アメリカではポリコレのせいでメリークリスマスと言えなくなっている」

というのは本当ではない、ということを言ったのですが、
今回まさにクリスマスシーズンにあって、テレビでもお店のレジでも
皆普通に「メリークリスマス」と言っているのをを確認しました。

もちろん話している相手によっては

「ハッピーハヌカー」「ハッピーホリデイ」

などと言い換えることはありますが、テレビのアンカーもゲストも
どんな深刻な(特に今アメリカでは大変な問題が起きているので)
話題の後にも、最後にはメリークリスマスでしめています。

なぜだかものすごく安心してしまいました。

ちなみにさっき知ったところによると、なんでもポリコレのせいで
メリークリスマスが自粛されていたのはオバマ政権の間だけで、
ここ何年かはまた言えるようになってきたということらしいです。

 

 

 


パパの戦地土産 Dad's War Souvenir〜戦死と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-23 | 歴史

ピッツバーグのソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム、
第二次世界大戦の「パシフィック・シアター」展示です。

前回、特攻機が4機、同時に突入したという情報について書いたところの
駆逐艦「コールドウェル」の模型の周りに展示されている
寄贈品、遺品を見ていきます。

 

■ 妻子の写真をしのばせた軍帽

士官用の軍帽はパールハーバーの「T.H」=テリトリーオブハワイ、
海軍駐留地内にある売店で購入されたものです。

当時はマジックインキというような名前を書くものがないので、
内側のポケットの中に持ち主がわかる紙を入れて置くポケットがありました。
この士官は、そこに妻と1歳くらいの子供の写真を入れていたようです。

右側にある黒くペイントされた航空機模型は、
機種を見分ける訓練のために作られたもので、
あえて色をつけずにシルエットで判断できるようにしています。

■60年後に発見されたドーリトル隊の航空機破片

「TOKYO RAIDERS」

というと、ドーリットル空襲に参加したということなんでしょうか。
「Wiskey Pete」というのを検索すると、ネバダのカジノしかでてこないんですが、
「Doolottle」を付け加えると、やはりドーリットル隊の3番機であることがわかりました。

この9月に公開された中国資本による映画「ミッドウェイ」で、
ドーリットル空襲のあと中国に逃れ、現地の中国人に助けられたシーンは、
この3番機「ウィスキーピート」の乗員のエピソードを下にしています。

グレイ機長

3機目の機長ロバート・M・グレイ中尉は、雨の夜で海岸線を把握できず
着陸は不可能として乗組員に午後10時頃ベイルアウトするよう命じました。

機長はその後燃料がなくなったので浙江省の水昌郡近くの丘の中腹に着陸。

AEジョーンズ

ジョーンズは、地元の農民によって発見され、翌朝衢州に案内されます。

マンチ

副操縦士のジェイコブ・E・マンチ中尉も丘の中腹に着陸し、
暗闇の中パラシュートにくるまって眠り、翌朝、村に降りました。

オズク

ナビゲーター兼銃撃手のチャールズ・J・オズク中尉は、パラシュートを木にひっかけ、

20歳のエンジニア兼銃撃手レオナルド・ファクター は、崖から落ち死亡しました。

この記念の盾みたいなのが何かというと、どうやら
右上に貼り付けられた金属片がドーリットル空襲から60年近く経って、
(つまり2002年ごろ?)「ウィスキーピート」不時着地から見つかったとか
そういうことなのかと思われます。

そして当時の5人のクルーに対し贈呈されたようですが、
このうち2000年ごろまだ生きていたのはオズク大尉(最終)だけでした。

■「レキシントン」爆撃機銃撃手の遺品

「レキシントン」乗組の航空隊銃撃手だったフランク・ケイカ(Caka)二等兵曹の
着用していたセーラー服が展示されています。
彼の所属した第19航空群第50部隊は、8隻の敵艦を撃沈し、14機の航空機を撃墜しました。

しかし、1944年10月25日、敵艦隊爆撃にルソンから出撃した彼の飛行機は、
空母に再び着艦することはありませんでした。

この同じ日、我が海軍の関行男大佐が初めて組織され、
命令された特攻を行っているわけですが、両者の戦闘行動とその結果に
なんらかの接点ないしは因果関係があったかどうかはわかりません。

ケイカ二等兵曹の戦死後、遺品が家族のもとに戻されました。
母親と一緒に写した写真、そしてところどころイラストが書き込まれた
携帯手帳です。

手帳の左側には彼が覚書として記した「戦果」が記されています。
右下の星四つは「ジャップフリート」として、

「星はUSS『バターン』の時に獲得した」

と説明があります。
そして、

USS「バターン」

USS「パナイ」

USS「スチーマー・ベイ」

USS「レキシントン」

と彼なりに「出世」してきたと思しき経歴が書き込まれています。

「スチーマー・ベイ」というのは聞いたことがない名前だなと思ったのですが、
「カサブランカ」型護衛空母であり、硫黄島、沖縄戦、そして
マジックカーペット作戦にも参加していたことがわかりました。

彼が「レキシントン」に転勤してきたのは9月10日のことであり、
この手帳のページに新たな名前を加えて書き込んでから1ヶ月ほどで
彼は戦死したということになります。

■陸軍技術士官の制服

そしてこちらは陸軍の軍服と鉄帽ですね。

ジョセフ・デライドティが1942年に632D戦車大隊に加わったのは
彼が23歳になったときでした。

ニューギニアにおいては第32歩兵師団「レッドアロー」とともに
最初に日本軍と交戦し、654日間の戦闘ののちこれを壊滅させました。



まず、左肩の階級章の下に『T』の文字があることから、
彼が技術士官であったことがわかります。
また、ユニフォームの左袖には3年半の勤務に対し
7本の「サービスストライプ」(勤務章)が付いています。

また、左胸の「リボンバー」には五つのキャンペーンスターが見られます。

■戦時ポスター

リメンバーパールハーバーの別バージョン、
「アベンジ・ディッセンバー・セブン」ポスター。

「さあ今ご一緒に」

というのは硫黄島の海兵隊旗立てシーンです。
1945年2月23日、海兵隊のマイケル・ストランクは、
6人の一人となって摺鉢山に星条旗を立てました。

ストランクは少年時代にチェコスロバキアからやってきた移民で、
父親はペンシルバニアのジョンズタウンにあった炭鉱で働いていました。

AP通信の写真家ローゼンタールの撮ったこの写真で、
ストランクは左から3番目にいて、ほとんど人の影になって見えません。

しかし、この象徴的な写真は20世紀における最も有名な
歴史の一シーンとなったのです。

ちなみにストランク軍曹はこのわずか1週間後、
味方の砲撃によって命を落としました。

■硫黄島からの勲章

マーティン・マイヤーズ海兵隊伍長は太平洋戦線において2度負傷しました。
この電報は、サイパン島からマイヤーズの両親に、彼が狙撃手に撃たれて負傷した、
ということを伝えています。
パープルハート勲章は2度目の硫黄島における負傷によって授与されたものです。

 

■アメリカ兵の『戦地からの記念品』

さて、それでは次に、摺鉢山の写真の後ろにある日本刀に注目してください。

ここには「戦地から故郷への贈り物」としてこう書かれています。

「トロフィーという言葉の歴史的な原点は、もともと
自分が倒した敵から何かを奪い取ること、というのはあまり知られていません。
しかし、古くからの言い伝えなどにはその手の話が散見されます。

多くの文化は、戦死たちが彼の敵から出会った記念に何かを奪い取ることによって
その強さをも獲得すると信じる傾向にあります。

太平洋の戦いにおいてもその傾向に全く例外はありませんでした。
ほとんどのアメリカ人がそもそもアメリカ大陸から出るのが初めてで、
初めて知るエキゾチックな文化の露出に心奪われると同時に
激しい戦闘を体験し、心的外傷を受けることになったのです。

戦争の記憶を保存することであれ、軍事占領であれ、あるいは単に
功利主義的な物を家に送ることであれ、いずれにしても
アメリカ人はさまざまな種類のお土産を集めました」

それで思い出したことがあります。
アメリカ兵が戦利品を集めるために、戦地で日本兵の死体から
めぼしいものを漁るということを知っていた日本側が、
死体に爆発物を仕込んでおいて見事に引っ掛かり犠牲者が出た、
ということがあったため、アメリカ軍上層部は下士官兵たちに

「死体のお土産漁り禁止」

という命令を出さなければならないことがあったとか。
このお土産好きが昂じて、またその根底にあった人種差別から
一部のアメリカ人は死体の首を加工して骸骨にし、
それを本土に記念品として送ったりしました。

皆さんも、もらった日本兵の骸骨を前に
お礼の手紙を書いている女性の写真を見たことがあるかもしれません。

なんとその件については、wikiにもまとめられているくらいです。

米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断

 

さて、それでいうと、アメリカ兵にとって太平洋戦線における
最も「価値の高い」お土産は、「サムライ・スウォード」つまり日本刀でした。

サムライの象徴である刀は侍出身である日本軍の士官は
その家に代々伝わる(Heirloom)百年前の刀を軍刀にしていることが多く、
アメリカ人たちの羨望の的でしたが、その刀をたった一つでも
鹵獲するのは簡単なことではありませんでした。

この刀を持ち帰ったのはシルバースターを受けた陸軍大尉ですが、
それくらいの階級でないとこういう「スペシャルな」お土産は
手に入れることはできなかったということでもあります。

この刀は2003年、SSMMに本人によって寄贈されました。

画面左の銃剣は、硫黄島の戦いに参加した海兵隊のレイモンド・アルコーンが
持って帰ってきたものです。

彼は、この銃剣を持って前進してきた敵兵と対面の格闘になり、
負傷したもののなんとか相手を打ち負かすことができました。

というわけで、彼はその銃剣を記念に持って帰り、
2歳の息子へのお土産にしたということです。

「お父さんはこれを持って襲ってきたジャップと戦って殺したんだぞ!」

「ダディソークール!」

みたいな会話があったんでしょうかね(棒)

 

そういえば、戦争から帰ってきた市民が社会に戻って経験する出来事を描いた
ウィリアム・ワイラー監督作品、

我等の人生の最良の年(The Best Years of Our Lives)

では、銀行マンだった主人公の一人が、高校生の息子に
意気揚々と「ジャップスォード」を帰宅するなりお土産に渡したところ、
微妙な顔つきであまりよろこばないどころか、

「日本人は家族との結びつきを大切にする人たちだって聞いたよ」

と暗に仕事人間だった父を非難してくるというエピソードがあったのを思い出しました。

 

故郷で寄せ書きされた日章旗や旭日旗を土産として持ち帰ったアメリカ兵が
歳をとって持て余し、それらを近場の博物館に寄付した例を、わたしはこれまで
アメリカの各地で見てきました。

軍刀ほどではないにせよ、寄せ書きの旗も記念品としては
大変人気があったようですが、ここにあるルロイ・オプファーマン二等兵のお土産は
ちょっとそれとは違うようです。

素人の手作り国旗らしく、比率もおかしいし、日の丸の色はにじんでいますが、
旗にはオプファーマン本人の手書きで

「ガダルカナル島で日本人捕虜が僕にくれた」

と書いてあるではないですか。

そのほかにも、日本兵の足袋靴、貝殻で作ったネックレス、
この左には「レターオープナー」などがあり、それらは
皆オプファーマン君が収集した「戦地土産」なのですが、
ちょっとここで面白いことがわかりました。

貝殻のネックレスの後ろにあるのは、彼が土産を送る際、
品名を申告するために制作した書類です。

品名「軍人による個人的戦利品」

名前、アメリカの郵送先住所に続き、

「ジャップシガレット」「ジャップハット」「ジャップシューズ」
「貝の首飾り」

日本兵の骸骨なんかもこうやって書類にして送ったんでしょうか。

それとも、お土産フィーバーが加熱しすぎたので、
こうやって自制心というか歯止めをかける意味の書類申告だったのでしょうか。

 

とにかく彼は、ガダルカナルの捕虜収容所でMPをしており、帰国にあたって、
日本人捕虜に何かお土産になるようなものをくれないかと
ねだったようです。

写真で彼が嬉しそうに持っている寄せ書きの日の丸は、撮られたときは
真新しい感じですが、博物館にあるものは色がすっかりにじんでしまっています。
これは、染めたものとかではなく、現地(つまり収容所)で何か赤い
インクのようなものを使って手作りしたからだと思われます。

しかもペンで書かれた寄せ書きには

「於 ソロモン群島ガダルカナル島」

以上を総合すると、捕虜の田鍋さんという人は、わざわざ彼の求めに応じて
寄せ書き風日の丸を即席に作ってあげたのではないかと思われるのです。

しかも、敵の兵士にわたす日の丸というのに、

「武運長久」

という文字までおそらく万年筆で書き込んで・・・。

田鍋さんとオプファーマンくんの間には、捕虜と看守の域を超えた
何らかの微笑ましい交流があったんじゃないかと思うのはわたしだけかな。


 

 

続く。

 

 


「コールドウェル」に同時突入した4機の特攻機〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-21 | 軍艦

ピッツバーグのソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム、
第二次世界大戦の「パシフィック・シアター」展示です。

今日はこのなかから、一隻の駆逐艦を取り上げたいと思います。

ここには艦体を縦割りにした珍しい模型が展示されています。

USS「コールドウェル」Caldwell DD 605

USS Caldwell (DD-605) off San Francisco in June 1942

1700年後半、第一次バーバリー戦争に参加した海軍軍人、

ジェームズ・R・コールドウェル(1778〜1804)

の名前を命名された「ベンソン」級駆逐艦です。

この縦割り模型を製作したのは、フランク・メルビン・クラッツリー大尉
(Frank Melvin Cratsliey)という人で、階級から言って
艦長ではなかったかという気もするのですが、説明はありません。
第二次世界大戦が終結し、「コールドウェル」が予備役に入ってから作られたそうです。

これが、模型キットなどに一切頼らない手作り感あふれるものなんですね。
実際に操艦していた人ですから、艦内を知り尽くしています。

区画ごとにそこがなんだったかラベルをはってあるのですが、それも

C.P.O. Messroom A-202-L

Crew's Quarters A-203-L

というように、「艦内住所」を示す記号付き。
これは「中の人」ならではの仕事です。

これが中央部分。
ジェネレータや、ポンプの種類までラベルを貼って区別しています。

細部を見ると溶接が甘く歪みがあったり区画の区切りが倒れかかっていたりしますが、
それにしてもこれだけの力作を残した大尉の意欲はどこから来たのでしょうか。

前方に士官下士官の居住区があり、兵員のクォーターが
後ろのほうにあるという作りは、今年初めにご紹介したUSS「スレーター」と同じです。

ところで、「コールドウェル」の艦歴を見ると、彼女の一生には
就役直後から日本との戦いが大きく関わっていたことがわかります。

 

まず、当時サンフランシスコにもあったベスレヘムスチールで誕生後、
すぐにアリューシャン列島の奪回をねらうアメリカ軍のアッツ島支援を行いました。

1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる
攻略部隊、第51任務部隊に含まれたのは、

戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」
護衛空母「ナッソー」
重巡洋艦「サンフランシスコ」「ルイビル」「ウィチタ」
軽巡洋艦3隻
駆逐艦19隻

この駆逐艦群に「コールドウェル」は加わっていたというわけです。

その後、タラワ島、ウェーク島での戦闘にも加わり、
マキン、クェゼリン、マジュロ、そしてパラオなど一連の攻撃、
トラック諸島、ウルシーでも船団護衛などを行いました。

これだけの出撃を頻繁に行っていれば、当然時期的に
日本軍の特別攻撃に遭遇することにもなるわけですが・・・・。

「コールドウェル」が特攻の洗礼を受けたのは1944年12月12日の0803でした。
場所はレイテとセブ島中間海域、そこで

「4機の日本機が同時に四方から襲いかかってきた」

のでした。

突入した機体の片翼が艦橋に激突し、残りの機体はフォクスルを破壊。
機体から外れたランディングギアはラジオルームに直接突き刺さり、
その時内部にいた全員が死亡するという惨事を引き起こしました。

それだけでなく2基の砲座、メインデッキの全てのコンパートメントは壊滅、
5基のMK15魚雷は誘発を回避するために即座に投棄されました。
他の部分は飛行機が激突した時に生じた火災でダメージを受けています。

このとき、特攻機が抱いていた爆弾2発もこの激突によって爆破し、
その結果、33名が死亡、40人が負傷すると言う大損害を受けました。

このとき亡くなった33名には、当時の艦長も含まれていたということです。

しかし、当博物館にある模型を作ったメルヴィン・クラッツリー大尉ら
乗員の必死の救助活動が功を奏して、「コールドウェル」は沈没を免れました。

そしてまずフィリピンのタクロバンに辿り着き、その後サンディエゴに回航され、
わずか60日の修理期間ののち行動に参加するまでになったのは驚くべきことでしょう。

「特攻機に破壊された」

という修理理由が、海軍の修復担当造船屋の負けじ魂に火をつけたのかもしれません。

上の写真の損害は、航空機の直接の激突によるものではなく、
搭載していた爆弾が誘発して引き起こしたものです。

このとき「コールドウェル」に激突した特攻機のうち、搭乗員の遺体が身に付けていた
94式拳銃(シリアルナンバー43465)は、今ここSSMMの展示室で見ることができます。

突入後の処理期間、この銃は艦長が戦死して代わりに指揮をとることになった
クラッツリー大尉が鹵獲して所持していました。

のちに、この銃は大尉のダメージコントロールの努力に対する「賞品」として
正式にクラッツリー大尉に授与されましたが、大尉は自作の模型とともに
このパイロットの遺品もどう博物館に寄贈したのです。

Type 94 Pistol.jpg

ところで、この九四式拳銃は、陸軍が開発採用した型式です。

当初、帝国陸軍の将校准士官が装備する護身用拳銃は、軍服や軍刀と同じく
自費調達の「軍装品」私物扱いだったため、各自が任意に調達していましたが、
色々不便が生じたため、南部式自動拳銃を開発した南部麒次郎が、
機構が簡単でメンテナンスしやすい同型拳銃を昭和9年、皇紀2594年、
12月12日に九四式拳銃として準制式採用したものです。

以降、九四式拳銃は将校准士官のみならず、機甲部隊の機甲兵、
そして航空部隊の空中勤務者、つまりパイロットの基本装備となりました。

 

ということからも、「コールドウェル」に特攻した航空機は
陸軍のものであることがはっきりしたわけです。

日本人のわたしとしては、このとき、一つの駆逐艦に対し
四方から同時に突入していったという特攻機について明らかにするべきだと思い、
「特別攻撃隊全史」付属の特攻隊名簿から、昭和19年12月12日に
フィリピン方面で出撃した特攻隊を検索してみました。

すると、まず、

八紘石腸隊の井樋太郎少尉
(佐賀、陸軍士官学校57期)

が、バイバイ沖で特攻戦死していることがわかりました。
石腸隊というのは千葉県にあった下志津陸軍飛行学校銚子分教場で訓練を受けた
18名からなる特別攻撃隊で、二人を除き全員が陸士卒です。

17名が日を前後して12月5日から1月8日の間に特攻散華しているのですが、
不思議なことに、この井樋少尉だけが、12月12日、単独で出撃しているのです。

あまり知られていないことですが、陸軍では特攻隊のことを

「と号部隊」

としていました。
「と」はもちろん特攻隊のとです。
「とごうぶたい」と言っても「は?特攻部隊?」と聞き返されそうですが。

そしてと号部隊結成時、第4航空軍司令官富永恭次中将
「八紘隊」をはじめとする特攻隊の命名を行いました。

富永は史学に造詣が深く、部隊名は歴史などの故事から引用、
たとえばこの「石腸隊」は「鉄心隊」とセットで、
中国北宋の政治家蘇軾のことば、

「鉄心石腸」(容易には動かせない堅固な意志を表す)

から命名されたものです。

部隊マークとして「日章」を尾翼に描いた飛行第44戦隊所属の九九式軍偵察機(キ51)

特攻機種略語は「九九襲」とあるので、

キ51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機

で特攻したことになります。

石腸隊が訓練を行ってた下志津陸軍飛行場で、
九九襲撃機と記念写真を撮る女子挺身隊。
整備かあるいは組み立て作業に動員されたのかもしれません。

井樋少尉の戦死場所となっているバイバイ沖、というのはアメリカ側の記録の

「レイテ島とセブ島の間」

という攻撃された場所とも一致しますので、4機のうちの一機が
井樋機であったことは間違いないかと思われます。

そして名簿をさらに繰っていくと、次に12月12日に特攻戦死したとあるのは

八紘隊、作道善三郎少尉
(特別操縦見習士官出身、富山出身)

であり、作道少尉もこの日単独で出撃しています。
作道少尉の八紘隊は一式戦闘機(隼)の部隊でした。

飛行第二五戦隊第二中隊のエース、大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II、1943年夏撮影)。 部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号の下桁を垂直尾翼に描いている

キ43 一式戦闘機「隼」

作道少尉の戦死場所も12日の「バイバイ沖」となっていることから、
井樋少尉、作道少尉が第一、第二の特攻を「コールドウェル」に加えた、
という可能性は大変高いと考えられます。

それから、

丹心隊の岡二男少尉(幹候9期、東京出身)

もまた、同日バイバイ沖で特攻戦死したと記録にあります。
これで三機が特定できたことになりますが、ここでもう一度
現地にある説明を読んでみると、「コールドウェル」に特攻してきたのは
4機であったとしながら、別の説明には

「トータルで5機に襲撃された」

とあります。

それを裏付けるような記録が見つかりました。
19年の12月12日に出撃した特攻機はあと2機あったのです。

戦死場所は「バイバイ沖」ではなく、いずれもレイテ島西北洋上とありますが、
西北洋上もセブとレイテの間であり、バイバイ沖であることにに違いはありません。
その二人の戦死者とは、

小泉隊 小泉康夫少尉(陸士57期、新潟出身)
    久住国男准尉(経歴なし、新潟出身)

小泉隊、と言うのはどういう経緯かわかりませんが、組織的に
特攻隊として編成されていなかった搭乗員が二人、
隊長の名前をとりあえず?つけて出撃した、というように解釈できます。

岡少尉、小泉隊の二人が乗っていたのも一式戦闘機でした。

さて、ここで「コールドウェル」に一気に襲いかかった陸軍の特攻機ですが、
調べたところ、驚くことに皆別々の基地から出撃しているのです。

石腸隊の井樋少尉が出撃したのはバコロド、
八紘隊の作道少尉はマニラ、
岡少尉はカロカン、
そして小泉隊の二人はクラーク基地。

彼らは全く別々の基地から飛び立ち、合同作戦を行ったということになりますが、
これは計画された作戦だったのでしょうか。
というか、果たしてそんな作戦が実際に可能なのでしょうか。

各基地から1機、2機ずつ出撃していることから、可能性としては
偵察機が駆逐艦を発見し、
急遽各基地から特攻機が飛び立った、
ということも考えられますが、この
ストーリーは成り立つのでしょうか。

当時の特攻出撃の事情に詳しい人ならこの可能性を論じることもできるかもしれませんが、
それにしてもたかが?駆逐艦1隻相手に各基地がこぞって特攻を出すでしょうか。


考えれば考えるほど、この「四方からの同時攻撃」は
その経緯と目的を含めて謎が多すぎるように思えるのですが、
もし、この5機(のうち4機)が上空で初めて遭遇し、
阿吽の呼吸で意気投合し、

「四方から4機が同時に突入する」

という、22〜3歳の血気盛んな青年から見ると
「痛快な」攻撃を行うことで四議一決したということなら・・?

というかわたしはその可能性が一番高いような気がしています。

サンディエゴで修復後、「コールドウェル」はボルネオ島タラカンへの侵攻支援と
護送船団の護衛をおこない、その後ブルネイ湾沖の掃海作戦で触雷をしています。

修理中に終戦になったため、沖縄上陸への輸送任務を支援した後、
ちょっとだけ東京湾に寄って(乗員に日本を見せるため?)
そのあと帰国し、予備役に入りました。

 

続く。

 


「ドーランを塗った兵士たち」 戦場のエンターテイナー〜兵士と水兵のため博物館@ピッツバーグ

2020-12-19 | アメリカ

今アメリカです。

今FOXニュースで、中国人の女スパイにハニトラで引っかかっていた
民主党のスウォルウェル下院議員について、彼が沈黙していることで
ペロシは無関係なのかとかマッカーシーがインタビューを受けています。

「これは国家安全に関わる出来事なんです。
このことについて共和党もも民主党もないでしょう」

この恥ずかしい下院議員、大統領選の民主党代表に立候補してたんですね。
天安門事件の後凍結されていたODAを解除してC共に援助を決めたのはこの人。

ちなみにFOXでは息子の強制捜査と中国との関係について、
All In The Family(家族の全て)とタイトルされたニュースで

”get Joe involved”

であったことを普通に報じています。

CNNは例の盗聴事件で「いろいろと」バレてしまいましたが、アメリカはまだ
「こちら側」を報じるメディアがあるだけ日本よりマシな気がします。



 

さて、先日ご紹介したビリー・ジョエルの「アレンタウン」の歌詞に、

「俺たちの親父らは第二次世界大戦で戦い
休暇にはジャージー海岸ですごし
USO(ユーエスオー)で出会い、ダンスを申し込んでチークを踊り
そして俺たちはアレンタウンに住んでいる」

というフレーズがあったでしょう。
United Service Organization

通称USOは、1941年に当時のルーズベルト大統領の依頼により、
軍人の士気向上を目的にした慰安、娯楽を提供する場として発足しました。
当時戦争の勃発によって急激に拡大されていった軍隊を統制するためにも必要な
エンターテイメントを供給するためのNPO団体で、もちろん国防総省の支援を受けています。

USO主催のダンスパーティ、この日は「ネイビーデイ」の模様。

そういやあの怪作「1945」では、USOのダンスパーティ会場で
陸軍と海軍がマジで喧嘩してましたが、やはりこういうパーティは
ネタではなく「混ぜるな危険」だったんじゃないでしょうか。

また、同作品では、ダンスパーティに出席する女性に対し、

「どんな嫌な男でもそんなフリを見せないこと」
「とにかく兵隊さんたちを慰めるのです」

と言いくるめるやり手婆さんのような「マナー教師」がいましたね。

サクラとして参加していた女性もいた一方、「制服フェチ」もいた、
とあの映画で描かれていましたが、ビリージョエルの歌詞のように
USOのおかげで成婚に至ったカップルももちろん多かったのだと思います。

 

キャンプにエンターテイメントを提供するのもUSOの大事な任務でした。
ハリウッドの大物スターから無名のボードビリアンに至るまで、
キャンプを回ってショーを行ったエンターテイナーは七千人を超えます。

正確な数字を挙げると、1941年の発足から1947年(キャンプ引き揚げまで)まで
USOが提供したパフォーマンスは42万8千521回

その最盛期は1945年で、この年、最多で1日700回のショーが開催されています。
ただしこれは拡大されていた戦線の場所を問わずということなので、
世界中米軍のキャンプにUSOは最低700人のエンターテイナーと
その関係者を派遣していたということになり、また、このとき、
700回のショーを観覧した聴衆は概算で1万5千名いたといわれます。

そして、戦争が終わるまでに、1500万人がボランティアとしてUSOに協力しました。

 このブースでは、そんなUSO主催で兵士たちの慰問を行った
エンターテイナーたちを紹介しています。

まず、ブースに展示されている最も目を引く白いレースのドレスをご覧ください。

写真の女性が着用しているドレスの実物ですね。
この女性は

ジーン’エリザベス”・ティグナネッリ 
Jean 'Elizabeth’Tignanelli

という歌手で、ピッツバーグにあるナイトクラブで
女性ばかり集めたジャズバンド、

ジョイ・カイラー・バンド(Joy Cayler Band)

が演奏していた時、リードシンガーを募集していた同楽団に19歳で採用された人です。
彼女は歌手としてだけでなくギタリストとしても評価され、
名前を「ティグナネッリ」から短く「トラネル」Tranell、と変えました。

ジョイ・カイラーというのはピアノに座った白いスーツの女性で、
彼女自身はトランペット奏者。
 
彼女がデンバーで女性ばかりジャズミュージシャンを集め、
ビッグバンドを結成したのは若干16歳のときだったといいますが、
この女性バンドは特にUSOの慰問演奏には大変人気がありました。

女性がジャズをするということに関してはアメリカでもかなり偏見をもたれ、
ジョージ・サイモンというジャズ評論家などは、
 
「神だけが木を作ることができるように、
男性だけが良いジャズを演奏することができる」
 
と言い切っていたそうですが、カイラーのバンドは実力がありながら
やはり「見かけ」を重視せざるを得ない事情のため、
オーディションではそこそこルックスのいい者しか採用できませんでした。
 
 
カイラー自身「まるでストリッパーのような格好をさせられた」と自嘲しています。
まあ
男性を慰安することが第一義なので、仕方がなかったかもですね。
 
ちなみに彼女らはアメリカ本土をほとんど縦断しながら
各地で演奏活動をしてきましたが、戦後は日本にも来て6ヶ月滞在していたそうです。

兵士慰問のために女性ばかりで結成されたビッグバンドは、実は当時結構たくさんありました。
 
Frances Carroll & Her Coquettes Featuring Drummer Viola Smith

これもその一つですが、ガールズビッグバンドがどんな演奏をしていたかよくわかります。
その格好で飛んだり跳ねたりするか?っていう(笑)


1943年公開の

「ジョーという名の男」
 
というMGM映画のポスターです。
スペンサー・トレイシーといえば、あの
 
「東京上空三十秒前」
 
でドーリットルを演じていたのを思い出しますが、これはその前年度作品で、
B-25搭乗員である主人公が、女性輸送飛行隊のパイロットであるヒロインをめぐって
P-38ライトニングのパイロットと三角関係になる話。

色々盛りだくさんな感じですが、こういう映画も、つまりは
キャンプの将兵にUSO主催の映画上映会を通じてみせることを
目的に制作された「士気高揚映画」でした。
 
 
特にヨーロッパにいる連合国軍のキャンプを慰問し、G.I.たちに絶大に人気のあった姉妹トリオ、
「アンドリュース・シスターズ」
特に「素敵なあなた」"Bei Mir Bistu Shein"(イディッシュ語。
ドイツ語でBei mir bist du schönという表記もあり)「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」

などはジャズ好きなら知らない人はいないほどヒットしました。
 
彼女ら自身はミネアポリスの出身ですが、父親はギリシャ人、母はノルウェー出身です。

これは「星は天国の窓」というタイトルの楽譜かあるいはレコードジャケットでしょうか。
 
Stars Are The Windows Of Heaven (1950) - The Andrews Sisters
 

ピッツバーグ大学の学生だったカーティス・グリーンバーグは、1943年、
USOのショーに出演したあのジーン・ケリーからこれを贈呈されました。

グリーンバーグは当時陸軍に徴兵されたいわゆる「学徒兵」でしたが、
ダンサーとしてなかなか才能があったらしく、USOのショーに出演していました。
詳しい経緯は説明がないのですが、おそらくジーン・ケリーのUSOのショーで
彼はバックダンサーとして踊り、兵隊であることを知ったケリーが
この若い兵隊にヴァイオリンをプレゼントしたのではないかと思われます。
 
 
 
ピッツバーグ出身のトランペット奏者、
 
レオナルド・ブレア・ロイド(Lepmard Blair Loyd)
 
の愛用していた楽器が展示されています。
彼はイングランドのボドニー航空基地に展開していた
第352爆撃グループの第8空軍部隊に所属していました。
 
「娑婆」ではミュージシャンだった彼は戦地に楽器を持っていき、
USO主催の慰問ツァーにはメンバーを内部で選抜して参加していたそうです。

彼の写真の横に書かれているタイトルは、
 
「ダブル・デューティ・・・戦線の前方と後方で」
 
とありますから、どうも本物?の搭乗員だったようです。
 

 

アメリカでは、兵士の慰問のために戦線に赴くことも辞さなかった
エンターテイナーたちをして、

soldiers in grease paint

と呼びました。
「グリースペイント」とは、舞台化粧に使うドーランのことで、
文字通り「ドーランを塗った兵士たち」の意味です。

そして実際、そのうちの何名かは戦地から帰ることはありませんでした。
戦う男たちの傍らで戦死したり、あるいは移動中の飛行機が墜落し
亡くなった人もいます。

Glen miller.jpg

作曲家でクラリネット奏者、ビッグバンド、グレン・ミラー楽団の指揮者
グレン・ミラー少佐もその一人でした。

グレン・ミラーは第二次世界大戦が始まるとほとんど同時に
USOからの派遣で慰問活動を開始し、米陸軍航空隊に入隊しました。

そして精力的に慰問演奏を続けていた1944年12月15日、慰問演奏のため
イギリスからフランスへ移動するために乗った専用機(UC-64)が
イギリス海峡上で消息を絶ち、死亡認定されました。

ドイツへの爆撃から帰還する途中のイギリス空軍の爆撃機が、
上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落したとする説の他、
イギリス軍機の誤射で撃墜されたとする説などがありましたが、
現在では機体の不具合による墜落であるという説が有力です。

いずれにせよ、ミラーの飛行機も遺体も今日まで見つかっていない以上、
事故原因は推測の域を出ていません。

 

記録では第二次世界大戦中に「戦死」した「ドーランの兵士」は
ミラーを含め26名とも37名ともいわれています。

飛行機の墜落で死亡したロシア系アメリカ歌手、
タマラ・ドレイシンなどもその一人でした。

Tamara Drasin.jpg

そして、我が日本にも戦場で死亡した「ドーランの兵士」がいたことを
最後にお話ししておきます。

満州事変が始まったあと、満州駐屯軍に慰問演芸団が派遣されました。

「エンタツ・アチャコ」もこの時派遣された芸人です。

1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると朝日新聞が企画して
吉本の慰問団「わらわし隊」(荒鷲隊のもじり)が派遣されるようになりました。

桂金吾・花園愛子

昭和16年に派遣された慰問団が、移動中に中国軍の襲撃を受け、その際、
桂金吾と夫婦コンビを組んでいた花園愛子が、撃たれた将校を抱き起こそうとして、
自らの大腿部に2発の弾を受け、出血多量で4時間後に息を引き取ったのです。

花園愛子は唯一の「国のために命を捧げたドーランの兵士」として靖國神社に合祀されています。

 

続く。

 


”世界最長の船”重巡洋艦「ピッツバーグ」〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-17 | 軍艦

しばらくエントリーをアップできなくて申し訳ありません。
この間、また家庭の事情によりピッツバーグに来ることになり、
飛行機で移動している間全くPCにさわることができませんでした。

着くなり今年最初の「スノウストーム」の中、現地の人ですら
事故を起こしまくりの大雪にもかかわらず、車を運転して食料品などを買い込んで、
帰ってきてから久しぶりの食事を作ってやっとお腹に入れたばかりです。

 

そしてここからこの博物館の情報を最初に発信するのも何かの縁に違いありません。

さて、そのピッツバーグ兵士と水兵のための記念博物館の展示は
いつの間にか第二次世界大戦関係のものに移りました。

開館当初からの装飾であるラーメン鉢の縁の中華模様、
あるいは少しだけギリシャ風の連続模様は、ところどころ改装のため
切れていますが、
1862年結成され南北戦争に参加した、

「第159ペンシルバニア志願大隊」「第14騎兵連隊」

の在籍者の名前を余すことなく記した銘板と、そして
ステンドグラスの周りを飾っている部分は今も健在です。

両隊は有名なところではバンカーヒルの戦いにも参加した部隊で、
任務中2人の将校と97人の下士官兵が戦死、また
296人の入隊した男性が病気で死亡し
合計395名が戦死となっています。

生存者がまだ生きていた頃は銘板の前に展示を置くことなど
しなかったのだと思われるのですが、今ではこの通り。

ジープは1953年製4分の1トン(こんな表示をするんですね)

ウィリーズM38A1海兵隊モデル四駆多目的トラック

で、朝鮮戦争の間朝鮮半島の地形を考慮した足廻りを備えていました。
この車そのものは、一旦民間人の所有になっていたのが寄贈されたものです。

アメリカだとこんなのが走っていても全く違和感なさそうですが。

雰囲気を出すために、Canteen、食堂の方向の下に、

マニラ、東京、沖縄、チュニジア、サンフランシスコ、
ノルマンディ、ニューヨーク、ロンドン、モスクワ、
そしてローマの方向と距離が書き込まれた道標があります。

朝鮮戦争時代という設定なのになぜ半島の地名が一つもないのか。
それは誰もかの地の都市名を知らなかったせいではないでしょうか(棒)

ステンドグラスの意匠は教会のものとはずいぶん趣が違います。
しかもこれステンドグラスじゃなくてシール貼ってないか?

続いてのブースを見てわたしはちょっと胸がときめきました。
南北戦争から始まって陸軍関係の展示ばかりが続いたところに、
初めて船の模型とセーラー服が登場したのです。

これはアメリカ沿岸警備隊の初期の制服です。

沿岸警備隊のルーツは、170年前の合衆国税関監視局にまで遡ります。
1812年の米英戦争から今日の重要な国土安全保障の最前線まで、
アメリカの紛争において切れ目ない多様な任務を遂行してきました。

ラテン語の
「Semper Paratis」=「Always Ready」(常に備えあり)
モットーとして常に任務にあたってきた沿岸警備隊は、
21世紀においてもその任務を海洋安全、海洋警備、海上交通、
国際警備、そして海洋資源の保護としています。

水兵の足元に置かれた模型は、沿岸警備隊のカッターです。
わたしは以前コネチカット州にある沿岸警備隊の士官学校で
併設されている博物館を見学したことがあり、そのときに
沿岸警備隊について調べて初めて知ったのですが、沿岸警備隊は
出発点が、

合衆国税関監視局=United States Revenue Cutter Service

つまりカッターに税収をかけて歳入を維持するシステムから生まれたため、
今でも沿岸警備隊の船は大きさに関係なく、「カッター」と称するのです。

この模型は

LST-280

というカッターで、1943年に認可されました。
第二次世界大戦中はランドタンカーとして、
あるいは重量のある装備などを戦地に輸送する役目を行いました。

また、模型の後ろに時鐘と国旗っぽいリボンがあります。
この時鐘はカッターLST-73 で使われていたもの。

LST-73は、ここピッツバーグからオハイオ川を数マイル下ったところにある
Dravo Corporationによって建設され、144年9月2日に進水を行いました。

この造船会社は1998年に買収されて消失しました。

太平洋戦線に投入され、なんと、

1945年3月から4月にかけての沖縄群島の急襲と占領

に参加し、任務中の実績に対し二つのバトルスターを獲得しています。
(沖縄群島のことをOkinawa Guntamと間違えている)

沿岸警備隊の女性隊員のことをSPARと称します。
正確には「米国沿岸警備隊婦人予備隊員」なのですが、
なぜSPARかというとモットーのラテン語「Senper Paratis」を省略したものなのです。

そして沿岸警備隊の女性の歴史は実は沿岸警備隊結成前から始まっていました。

以前も当ブログでお話ししたことがある、女性灯台守、

「アメリカで最も勇気のある女性」

アイダ・ルイス(1842−1911)
沿岸警備隊が組織される前に灯台守りとして多くの人々を救出し、
栄誉メダルを授与されています。

ロードアイランド州ニューポートに生まれた彼女は、16歳の時
ライムロック灯台の灯台守だった父が発作のために倒れた後、仕事を継ぎ、
1858年、近隣の家族4人の船が転覆した時に彼らを救出しました。

彼女はこの英雄的な救助劇のその後も、ライムロックで灯台守を一生の仕事として、
その生涯には少なくとも18人の市民を救ったとも言われ、その最後の救助は、
彼女が63歳の時であったとされます。

これがアイダにも授与されたコーストガードに対するシルバーメダルですが、
授与された人の名前を見てびっくり、

Robert Kennedy

あのRFKか?と思ったら、ミドルネームがC。
調べたのですがテロリストのロバート・コブ・ケネディと、
ロイヤルネイビーの士官、ウィリアム・ロバート・ケネディしかでてきませんでした。

たまたまそういう名前の人が人命救助で表彰されたようです。

2つの視認可能な物体間の距離を測定するために用いられる道具、
セクスタント、六分儀。

六分儀の使い方が分かりやすいのでこちらも2度目ですが貼っておきます。

さて、コーストガードがでてきたので期待していたら、そこに
巨大な軍艦の模型が登場。

重巡洋艦USS「ピッツバーグ」CA-72です。

第二次世界大戦時のアメリカ海軍の軍艦の命名規則は、戦艦が州名、
巡洋艦は都市名となっており、建造された造船所のある都市などが選ばれました。

ちなみに正規空母は南北戦争の戦場(レキシントン、バンカーヒル、ヨークタウン)、
駆逐艦は戦死した士官将官、下士官兵の名前、そして潜水艦は魚の名前です。

「ピッツバーグ」は「ボルチモア」級重巡洋艦の5番艦で、建造は、
わたしが何年か前見学に行った重巡洋艦「セーラム」を展示してある
フォアリバー造船所を買収したベスレヘム鐵工所が行いました。

造船所の場所もまったくピッツバーグと関係ないはずなのに、
なぜその名前になったかというと、同社がこの頃、列車製造のジャンルに手を伸ばし、
ペンシルバニア州の会社を買収して事業を展開していたからです。

「ピッツバーグ」の進水式を行ったのがマサチューセッツであったにもかかわらず、
式を主宰(つまりシャンパン瓶を割る儀式を)したのは、当時のピッツバーグ市長の妻だった、
というのも、ベスレヘム社が当時ピッツバーグ市といろいろ結びついていたという
政治的な裏事情が見える気がします。

ベスレヘム鐵工所はその後アメリカ工業生産の落日を象徴するかのように
1950年代をピークに凋落していくことになり、2001年には破産申し立てを行いましたが、
前にも触れたビリー・ジョエルの
「アレンタウン」という曲は、
まさにその経緯を歌っていたのでした。

(ということをわたしは今初めて知ったことを告白しておきます)

Billy Joel - Allentown (Official Video)

ちなみにその歌詞ですが。

僕らはここ アレンタウンに住んでいる
工場はみんな閉鎖されていってる
ベスレヘム郊外じゃ暇をもてあまして求人票に記入をし
みんな列を作っている
 
親父達は第二次世界大戦にいった
週末はジャージー海岸で過ごしUSOで母親達と知り合い
スローダンスを踊って結ばれ、だから僕らはいまアレンタウンに住んでいる

しかし不安が次第に伝わってきた
ここにいることがだんだん大変になってきた
そう、僕らはアレンタウンに住んで
ペンシルバニアじゃ決して見つからないものをいまだに待っている
もし一生懸命働いて品行方正にしていれば手に入ると先生が約束したものを

壁にかかっている卒業証書は僕たちを何も助けてくれない
学校は何が本当か教えてくれなかった

鉄、コークス、クロム鋼・・
僕らはここアレンタウンで待っている
でも地面から全ての石炭は掘り出された
そして労働組合はどこかに逃げてしまった

自分で翻訳してみてこんな内容だったとは、と改めて驚きました。

「ピッツバーグ」の就役は1944年10月10日。

カリブ海での慣熟訓練のあと、最初に投入された任務は硫黄島攻撃でした。
「ピッツバーグ」は硫黄島における激しい日本軍の抵抗に対抗する
海兵隊への直接支援を開始、その最後の攻撃は
1945年2月25日と3月1日の南西諸島に対してのものでした。

3月18日、「ピッツバーグ」は九州の飛行場と軍事施設を砲撃しますが、
翌19日、日本軍は夜明けに空襲を行い、逆に空母「フランクリン」に火災を起こさせました。
「ピッツバーグ」は時速30ノットで救助に駆けつけ、海上にいた
三十四名の「フランクリン」乗員を救出したのち、軽巡洋艦の「サンタフェ」と共同で
絶賛炎上中の「フランクリン」を牽引するためのラインに乗せるという
『卓越した操船技術』を発揮しています。

ファイル:127 mm twin turret burning aboard USS Franklin (CV-13) on 19 March 1945.jpg炎上するフランクリンファイル:USS Franklin (CV-13) burning, 19 March 1945, seen from USS Santa Fe (CL-60).jpgサンタフェからみたフランクリン

このあと「ピッツバーグ」が「フランクリンを牽引する苦痛に満ちた仕事を行い」ました。

牽引中

この作業中、「ピッツバーグ」艦長のギングリッチ大尉は48時間の間
操舵室にずっと詰めていたということです。(もちろん寝てません)

その後「ピッツバーグ」は沖縄侵攻に参加、
撃墜された味方パイロット救出のために水上機を派出するなどしています。

そして、6月4日に例の台風と遭遇。

時速130キロの風と高さ30mの波によって、まず右舷にあった偵察機が
カタパルトから持ち上げられ、風によって第二艦橋に打ち付けられ、
第二艦橋は座屈しました。

第二艦橋というとこれですか。
偵察機のカタパルトと第二艦橋はずいぶん離れている気がするのですが。

さらに、艦首が上に向かって押し上げられたようになり、
前部はなんと脱落してしまったのでした。

幸いこの台風で人が被害に遭うことはありませんでした。

「ピッツバーグ」は自分が落とした艦首の一部にぶつからないように避けながら
操舵を行いました。

エンジンの操作によって浮力を保ちながら、7時間格闘しているうちに、
嵐はなんとか収まり、「ピッツバーグ」はグアムに向かいました。

艦首がない

艦首部分(『マッキーズポート』(ピッツバーグ郊外の街)と呼ばれていた)は、
タグボートが拾いに行き、グアムに運ばれました。

「ピッツバーグ」は仮の艦首をつけて海軍工廠に向かい修理をしていましたが
修理中に終戦になったため、修理終了後も予備役を経て退役しました。

この後は模型のアップを掲載しておきます。
煙突は二本、わずかに後傾しています。

武装は9× 8インチ(203 mm)/ 55口径銃、
12× 5インチ(127 mm)/ 38口径砲、
48×ボフォース40mm砲、
22×エリコン20mm大砲です。

最後にちょっと心温まる逸話を。
修理の際、艦首と艦尾が数千マイル離れることになったため、彼女には

"Longest Ship in the World"

というニックネームがつけられたそうです。

 

 

続く。

 


「カートゥーン・ゴー・トゥー・ウォー」戦争と漫画〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-13 | アメリカ

ピッツバーグにある「兵士と水兵のための記念博物館」ですが、
ここでヴェテランの寄贈品とか、戦跡からの収集品とは趣の違う、
いわゆる「企画展」のようなコーナーが現れました。

Cartoons Go To War

「漫画、戦争に行く」みたいな感じでしょうか。
「スミス都へいくMr. Smith Goes to Washington」と同じノリのタイトルです。

このブログでも何度も触れているように、アメリカが戦争に突入した時、
民間の企業も戦争協力を惜しみませんでした。

今でいう「ヘイト」を堂々とキャラクターに行わせていたディズニーを筆頭に、
それは現在見るとしばしば「ドン引き」させられるほど徹底したものです。

が、あくまでもそれは現在の価値観で判断するからそう見えるだけで、
当時はそれが正しいとされていた時代だったからにすぎません。

スヌーピーというキャラクターが日本で流行し出したとき、
よもやまさかこの犬が犬小屋の上で寝っ転がりながら
(三角屋根の上でどうやって寝ているのかわたしなど子供心に謎でしたが)
つねに脳内バーチャルウォーの世界を彷徨っている危ないやつだとは
ほとんど誰もが知らなかったのではないでしょうか。

キャラの使用許可を取った日本の代理店もこの件はひた隠しにしたかったに違いありません。

この「ピーナッツ」の一コマ漫画でも、ノルマンディ上陸作戦に参加しているつもりの
この犬の脳内風景が左側に描かれております。

「今日はDデイだ!
世界でも最も有名なG.I.がオマハビーチをサーフィンして猛攻する!」

Chargingを「猛攻」と訳してみました。
チャージというのは、

”a mass attack of troops without concern for casualties”
(犠牲を顧みず行われる軍隊の集団襲撃)

のことであり、しばしばアメリカでは「バンザイアタック」のことを
代わりに「バンザイ・チャージ」と言ったりします。

G.I.は一般にアメリカ兵を指す俗称で、第二次世界大戦中に生まれた言葉です。
「Garrison Issue」つまり自衛隊でいうところの「官品」のような意味合い、
あるいは「General Issue」(一般支給品)Goverment Issue(官品そのもの)
と、語源とされる言葉は様々ですが、そのことから兵たちは自らを
G.I.と半ば自重的に称するようになったということです。

右コマは、この犬を見たマーシーが、飼い主のチャーリー・ブラウンに、

「ちょっとチャールズ、あんたんとこの犬がうちの庭のぬかるみに
突っ込んで行っては戻ってるんだけど・・」

「チャーリー」を「チャールズ」と本名で呼ぶあたり、マーシーは
チャーリーブラウンとそんなに親しくないのかなと思ったりしましたが、
問題はそこじゃないか。

ところで、そのスヌーピーの生みの親、シュルツの本名は

Charles Monroe Schulz 1922−2000

だったりするわけです。
チャーリーブラウンは彼の分身だったのか・・。
現地の説明です。

第二次世界大戦のヴェテランであるシュルツは、過去から兵士の物語を探求する
愛らしいキャラクター、スヌーピーを生みました。

「レッドバロン」と空中で「ドッグファイト」を繰り広げたり、
彼の兄弟である「スパイク」(シュルツの飼っていた犬の名前)を塹壕に訪問したり、
この漫画のようにオマハビーチを猛攻するスヌーピーの姿は、
わたしたちを全てのアメリカ兵の体験を想起させる旅に連れて行ってくれます。

シュルツの一連のコミックストリップが引き起こすのはユーモアですが、
折々に彼はその漫画を通じて戦争の犠牲に想いを馳せさせるという手法を取りました。

三角屋根に座ってレッドバロンとドッグファイトを繰り広げるのは
もはやこの犬の日常でもあります。

「Curse you」は直訳すると「呪ってやる」ですが、
そんなおどろおどろしい意味はなく、単に

「くたばりやがれ!」「くそくらえ!」

というような意味です。
シュルツが「ピーナッツ」を児童のための絵本として描いていないことは
この言葉の選択にも現れていますね。

かれがこうやって大戦ネタを作品に入れてくるのは、彼がヴェテランで
しかも第二次世界大戦でヨーロッパに派兵されていたからであるのは明確ですが、
本人は幸い実戦を経験することはありませんでした。

彼が実際にDデイを経験していたり、人を撃つなどの経験をしていたら
果たしてその作品にこのような表現はあったでしょうか。

 Dr.Seuss 1904-1991

ドクター・スースの名前で日本でも多くの本が翻訳されています。
英語圏で幼稚園に子供を行かせたことのある親であれば
この人の作品を知らずにいることはまず考えられません。

肩書きにも「児童文学作家」というタイトルが見えており、
もともとは子供たちが面白く英語を学べるような絵付きの本を出版し、
それが大成功したことで有名になり、児童文学賞、そして
ピューリッツァー賞まで取ってしまったわけですが、実はこのおっさん、
第二次世界大戦中にはニューヨークの最もリベラルな新聞、
PM紙の挿絵漫画家であったため、なかなか香ばしい作品を残しています。

「ロシア科学の謎」

と題されたこの絵は、熊を改造したグロテスクな乗り物に乗って
ドイツに侵攻する・・・これはスターリンなんでしょうなあ。

第二次世界大戦中のアメリカの漫画にしばしば出てくる
「出っ歯でメガネの日本人」はいったい誰なのか、ということを
わたしはたびたびこの場で怒りまじりに告発しているわけですが、
その出元はもしかしたらドクター・スースだったかもしれません。

ドクター・スースのキャラクターが、

「紳士のための戦闘行為のルール」

という本を手にしていますが、物陰からヒトラーとその出っ歯の日本人が
「パールハーバー」「マニラ」と札のついたレンガを投げてきて
どうもそれで怪我をしてしまったらしく。
(そういえばこの鳥はアンクル・サムの帽子をかぶっている)

「この古い本を金属メリケン(ナックル)に取り換える時がきたな」

と呟いているというものです。
それではアメリカはそもそもネイティブ・アメリカンの件に始まり
常に紳士的だったのか、と言いたくなりますが、まあそれはいいでしょう。

ここに登場する出っ歯メガネの日本人はその後の「日本人像」の典型となりました。
彼は日系アメリカ人に対しても

「第五列(スパイ)としてTNT爆弾を隠し持ち、西海岸で
日本からの指令を街テロを実行する連中」

として執拗に印象操作を行い、日系人弾圧の音頭を取りました。
彼が描いているつもりとおぼしきその東條英機は、日系アメリカ人に対し

「諸君は日本の武士の如くアメリカという国に忠誠を尽くすべきである」

という声明を出したことなど知るつもりもなかったでしょう。

「ジャップがアメリカ軍の船を沈める」

というニュースを新聞で読んでいるアメリカン波平に、壁のトナカイがいきなり、

「ボス、わたしなんかを壁に掛けるより、
もっとアメリカ防衛国債とスタンプを買った方がいいですぜ」

意味はわかりますが、何が面白いのか全くわかりません。
「壁のトナカイ」と「 hook」という言葉に何か意味があるのかもしれませんが。

「どうしてもというならどうぞご乗車ください!
しかし、もしあなたが軍を助けたければ家にいてください!」

なんとクリスマスのステイホーム依頼です。
これもよくわかりませんが、クリスマス休暇で帰ってくる兵士たちに
交通手段を譲ってあげてください、ってことかしら。

にしては皆プレゼントを持ってトラック25とやらに飛び込んでいるしなあ・・・。

左下はご存知ドクター・スースの「帽子をかぶった猫」。

日本で自分の作品を出版し、売り出すことになった時、
この急進的人種差別主義者はどの面下げてこれを許可したんでしょうか。

右のお髭のおじさんは、

トーマス・ナスト Thomas Nast 1840−1902

シュルツもドクタースースもそうですが、この人もドイツ系アメリカ人です。
ナストは南北戦争時代の政治漫画家でした。
この人をして「アメリカ漫画の父」と呼ぶ向きもあるようです。

サンタクロース、アンクルサム、コロンビアなどもその原型は
この人が創造したものという噂も・・。

しかし政治風刺が彼の本領でした。

「アイルランド人の日常」

というこの絵では、酔っぱらったアイルランド人が
火薬の樽に跨って自分で樽に火をつけています。

「ビートル・ベイリー」(Beetle Bailey)

はおそらく最もよく知られたアメリカ陸軍の兵士です。

漫画は学生の彼が徴兵される前から始まっています。

「あーあ、友達はみんな徴兵されてしまったよ」

「徴兵委員会は僕を何か大きなもののために取っておくのに違いない」

「・・・でなきゃ僕を欲しくないってことだな」

アンクルサムの「アメリカは君を必要としている!」の看板の前で
なぜか首を振りながら歩くビートル。

どうもビートル・ベイリー、徴兵されることを歓迎していなかった模様。
1950年から描かれたといいますから、彼の徴兵された友人は
朝鮮戦争に行っているということになります。

上のはどういう状況か、崖から落ちて木につかまっている上官に、
ビートルが、

「もしもう二度と殴ったりしないと約束するならロープを投げます」

「それから私にKP?を入れないこと」

「怒鳴らないこと、それからトイレ掃除させないこと、それから」

上官(飛び降りた方が助かる可能性あるかしら・・)

この調子で落ちるまで待ってるんじゃないかとも思えますね。

ビートルが兵士として優秀ではないどころか、かなり問題児であることがわかります。

 

Recruta zero 03.png


「ビートル・ベイリー」の作者はモート・ウォーカー(Mort Walker)

ウォーカーは敵を皮肉ったり憎しみを煽ったりというのではなく、
ひたすらちょっと情けない志願兵のビートルを通じて
軍隊の中を彼のタッチで描き続けました。

ウォーカー自身は徴兵される前に学生の身分から志願して入隊し、
上等兵としてキャンプ・スワンピーで任務をしています。

軍隊用のガーメントケースにドナルド。
個人で描いたのかと思ったら部隊全部がこの仕様だったそうです。

 

飛行機のノーズアートに漫画のキャラクターは使われました。
ミッキーマウスが「ローン」とかいた三つのなにかを前に、

「枢軸は僕たちが差し押さえるまでの仮の時間に生きているのさ、ハハッ」

とかわけのわからんことを言っているノーズペイントです。
それはいいんですけど、Borrowedのスペルが間違ってるよ?

これもノーズペイント。
いつもトウィーティーという黄色いカナリヤを食べようとして馬鹿にされ
酷い目に遭う猫のシルベスタですが、ここではミサイルに跨っています。

「オープン・フォー・ビジネス」とありますから、おそらくこれは
爆撃機のボムベイの上に描かれたものではないでしょうか。

こちらはジョージ・ベイカー作、「サッド・サック」(悲しい袋)

サッドサック(Sad sackとは第二次世界大戦中の軍隊スラングで、
「社交性のない兵士」のことなんだそうな。
いまでいうと「隠キャ兵士」ってところでしょうかね。

SadSackCBcover.jpg

ちょっと見てみましたが、この隠キャ、だいたい戦地で酷い目にあっています。

作者は真珠湾攻撃の少し前に徴兵入隊していますが、
自分で売り込んで信号隊の訓練映画のアニメ制作班に回されました。

その後レクリエーションのために制作した漫画コンテストで優勝し、
陸軍ウィークリーからも仕事がもらえたそうで、よかったですね。

「サッドサックス」は、基本陸軍新兵の不幸をテーマにしており、
セリフが一切ありません。

こんな漫画ですが、あのマーシャル将軍は兵士の士気を高めるとして称賛したそうです。
本当に読んだのかおっさん。

でたあああああ!

戦争プロバガンダアニメといえば、これはもうディズニーですね!
実際、ディズニーほど大戦中軍プロパガンダに協力的だったアーティストはいませんでした。

映画の作成はもちろん、積極的に部隊章にキャラクターを使用させ、
信じられないくらい寛容に、ノーズアートのためにデザインしていました。

ディズニーという会社がアメリカ政府といかにべったりかは、俗に

ミッキーマウス保護法

と呼ばれる法律が存在するくらい現在もアメリカにとって特別であり続けている
ということからもお分かりいただけると思いますが、それもこれも
このころディズニーが徹底して戦時体制下、プロバガンダの指揮をとったという
この歴史的な経緯から生まれ育まれてきたということだったんですね。

えらい若い頃のウォルト・ディズニー。
人種差別主義者だったことで有名なウォルトですが、
自分の死後、ディズニーランドがよりによって大っ嫌いだった日本にできるとは
夢にも思っていなかったでしょう。ざまあみろです。

おっと、ドナルドは徴兵されたようですよ。
ウィングマークをつけていますがアヒルって飛べたのか(棒)

1948年生まれのギャリー・トルドー(Garretson Beekman Trudeau)
は代表作のドゥーンズベリー(Doonsebury)でイラク派兵を扱いました。

The Doonesbury Trump retrospective proves that Garry Trudeau had Drumpf's  number all along | Boing Boing

こちら今非常にセンシティブな状態ですが、トランプ(の髪の毛)ネタ。

 

繰り返しますが、戦争に漫画をからめ、その愛すべきキャラクターを
戦争に参加させるという行為の是非については、決して平時の感覚で
判断できるとは考えない方がいいでしょう。

これについては「ピーナッツ」のチャールズ・シュルツがこう述べています。

 

彼らは我々の人生の一部分なのだ。
我々は彼らにテレビや新聞の娯楽欄を通じて各自の家庭に浸透させる。

しばしば彼らの周りに存在する現実社会は彼らをして戦争へと向かわせる。
そして我々の漫画のキャラクターたちは戦闘に参加するのである。

漫画を戦争へと駆り出す理由はいくつかある。
その動機はおそらく政治的な表明であり、追悼としてのアクトであり、
教育を目的としており、国難に見舞われていることそのものを
笑い飛ばしてしまおうとする意思であったりする。

人々はしばしば恐れを感じるものに対してそれを笑うことができる。

漫画は彼らが戦っている敵を笑ったり、あるいは不確かな未来を
笑うことを手助けするものでもある。

仮に彼らが映画のスクリーンの上や漫画本を眺めるたった10分間であっても
戦争を忘れることができないとすれば、せめて現実より少しましに思えればよいのだ。

つまり、そうやってドナルド・ダックやバックス・バニーに
ヒトラーやヒロヒトを画面上で打ち負かしてもらうのだ。

 

バックスバニーがヒトラーを倒す

ディズニーのプロパガンダ映画、「43年の精神」

 

しかしなあ、ディズニー、あの「ムーラン」がどうして人道上の理由から
一部の人々にボイコットされたのか、ちょっと考えてみた方がいいと思うぞ?

カートゥーンが大統領や政府を批判するのはいい。
子供に他民族への憎しみを植え付けるのもそれがカートゥーンの使命というならそれでもいい。

しかし、意思を持って自国を乗っ取りにきている相手に札束で引っ叩かれて
阿り、自国の良心を売るのは本来あなた方の理想とするところなの?

 

続く。


「バトル・ベイビー」第99歩兵師団 バルジの戦い〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-12 | 歴史

ピッツバーグにある兵士と水兵の記念博物館展示のご紹介です。

■アメリカ陸軍第99歩兵師団

次に現れたケースは、

第99アメリカ陸軍歩兵師団(99th Infantry Division)

の制服や身の回り品などの展示です。
ハンガーにかけられた各種制服の右肩にあるインシグニア(部隊章)は
ブルーチェッカーズ。

US 99th Infantry Division.svg

我が航空自衛隊の入間基地には赤のチェッカーを部隊章とする
点検飛行隊「フライトチェッカー」が存在しますが、
こちらのチェッカーはチェックはチェックでも「王手」を意味します。

99 RSC DUI.jpg

しかしなんというか、歩兵部隊にしては軽やかなイメージですよね。

カーキの制服を着たマネキンの後ろにあるのは、どうも
この第99歩兵師団内のラジオ放送のお知らせである模様。

音楽をかけたり軽いおしゃべりをしたりという娯楽目的で
木曜の夜にだけ放送していたらしいことがわかるのですが、
さて、これはどこの駐屯地で放送されていたものなのでしょうか。

それは今回調べてなんとなくわかることになります。

ブルーチェッカーのみなさんのお荷物拝見、というわけで、
実際に使用されていたトランクに当時の所持品が並べられています。

タバコ(キャメル)は防湿防止のため専用ケースに入っています。
タオル、剃刀、靴墨にブラシ。
どこの国も靴をきれいにしておくことには熱心だったんですね。

小冊子はユダヤ教の聖典に、戦争省発行のファーストエイドの方法。
左側にはシラミ用?殺虫剤(青い缶)THINSというのはクラッカーでしょうか。

その下は下着の類なのですが、第99歩兵はヨーロッパ戦線に派出されたので、
ウールでできた防寒用の下着が半分くらいを占めています。

 

■ ストックラス少佐とヨーロッパ戦線のパイロット

 

次のケースにはパイロットの所持品が収められています。

ウィングマークのついたこの制服は、

ジョン・M・スタックラス(Stuckrath)大尉

の遺品です。
陸軍航空隊の戦闘機パイロットとして、イギリスにおいて
最も危険かつそれゆえ崇敬されていた任務を行ったスタックラスは
若干22歳でこの階級に昇進しました。

P-38ライトニング、続いてP-51マスタングの戦闘機乗りとして、
スタックラスはイギリスから海峡を超えてフランスとドイツに飛び、
そこで1944年7月までにドイツ軍機を二機撃墜、多数を撃破し
そのたび無事に海峡を戻ってくることができました。

ラバウルからガダルカナル島まで戦闘機で飛んで戦闘を行い、
撃墜されなければまたラバウルまで戻っていた太平洋戦線における
あの台南航空隊のことを思い出しますが、イギリスから海峡を超えて
戦闘機で往復する(しかも向こうで戦闘してくる)のは危険以前に
大変な集中力と体力を要するものだと推察されます。

彼が若くしてフライングクロス勲章を授与され、22歳で大尉になったのは
それに対する功労賞であったのは明確です。

まずどうしてここに彼の軍服があるかというと、彼が
ピッツバーグ出身であったからです。

これはP-51マスタングのコクピットに座るスタックラス大尉ですが、
コクピットの下に二つのクロス(鉤十字ではなく鉄十字を描いている)
をマーキングして二機ドイツ機を撃墜したことを表す彼の愛機は

「ピッツバーグ・キッド」

とおそらく彼自身のことであろうと思われる名前がついています。
自分自身でも22歳はキッドと呼ばれてもいいいう自覚だったんでしょうね。

スタックラス大尉のパイロット「ログ」ブック、
(勤務表みたいなものだと思います)、帽子があります。

自転車に乗った三人組は大尉とは関係ない人たちのようですが、
飛行場では自転車が交通の足だったとして紹介されています。

こちらもストックラス大尉グッズです。
ヘッドフォンに航空メガネ、航空手袋は肘までの長さ。

スタックラス中尉が大尉に昇進した時に
ヘッドクオーターから送られてきた通知も残されています。
1944年7月22日の日付で、

Let Lt to Capt

JHON M. STUCKRATH, 07521 51

「中尉から大尉への承認を命ずる」

がこんな簡単な文言で、しかもA4の普通用紙一枚に書かれているとは・・・。
しかしストックラス本人にとってはこれはやはり感激だったらしく、
このA4の昇任通知は彼の遺品として遺されていました。

というのは、スタックラス大尉は戦後も空軍に留まり
飛行を続けていましたが、1950年に機体の事故で殉職しているのです。

死亡した時はまだ28歳の若さでした。

■ バルジの戦い

さて、お次のケースなのですが、いきなりクリスマスツリーがデター、
と思ったらこれはヨーロッパ戦線で地雷処理を行っていた
アメリカ軍歩兵のお仕事ぶりを再現したものでした。

いやー、寒そうですね。

ちょうど兵士の足元に(窓枠で隠れてしまっていますが)
地雷の実物(対戦車地雷らしい)がおいてあります。

機雷処理といえば、わたしなどこんなスェーデン映画を思い出します。

「Under Sandre」(砂の下)というオリジナルを「ヒトラーの忘れ物」という
捻りも含みもないタイトルにしてしまう配給会社のセンスのなさにはがっくりですが、
それはともかく、ナチスが埋めていった地雷なんだからお前らが命かけて除去しろ、
と置き去りにされていたドイツ兵(といっても少年ばかり)が投入され、
その結果バンバン死んでいったという実話を映画化した作品です。

戦争の引き起こす憎しみの連鎖は人間の残忍性に免罪符を与えるものになる、
というやりきれない真実が描かれていて妙に心に残る映画でした。

さて、このブースの上には連合国軍とドイツ軍の間に繰り広げられた大規模戦闘、
「バルジの戦い」Battle of the Bulgeについてこう書かれています。

「1944年12月16日、ドイツ陸軍は20万の兵力を以てアルデンヌに攻勢をかけた。
アルデンヌは山岳地で峡谷を擁した地形で攻勢をかけてくるのはありえない、
考えられていたため、連合国軍はここを『ブレイクイン』つまり保養所にしていた」

そう、先ほどの第99歩兵連隊がラジオ放送などを行っていたのは
この保養所だったのではないかとわたしは思うわけです。

実はヒトラーの号令で装甲部隊にアルデンヌを突破させるべく
ドイツ陸軍は戦線の裏側で虎視淡々と準備をしていたわけですが、
地形が地形なので誰しもすっかり安心し、連合国側ではここを

「幽霊戦線」

などと呼んでいたというのです。

もっとも、連合国軍の中にも慎重な人はいて、たとえば
情報将校だったベンジャミン’モンク’ディクソン少佐などは、

「ドイツ軍が西に向かって反撃を開始する準備をしている可能性がある」

ということを警告するレポートを提出したりしていたのです。
ちゃんとエビデンスがあっての報告でしたが、ところがどっこい、
この報告は

「クリスマスシーズンが近づいていたため」

上司によって無視、というか揉み消されました。
ちなみにその無視した中にはオマール・ブラッドレーという人もいました。


12月14日、ディクソンは再び、

「ドイツ軍はアルデンヌで攻撃を開始する」

と確信を持って警告を行い、ドイツ軍が使用できないように
付近の
線路を爆撃することを要求したのですが、空軍戦闘軍団の
カール・スパーツもまた彼の要求を拒否したのでした。

そして、気の毒にディクソン少佐は、

「少佐、貴官は疲れてるんだよ・・・ちょっと静養してきなさい。
パリできれいな女性を眺めながらカフェオレを飲むとかして」

「しかしこんなことをしているうちにもドイツ軍は!」

「まーまーいいからいいから。
おい、ディクソン少佐をさっさとお連れしろ」

「やめろおお!」

「ディクソン少佐、よいクリスマスを!」(^^)/~~~(^^)/~~~

という具合に追っ払われてしまったのです。しらんけど。

 

ここでバルジの戦闘について遡って説明しておきます。

ノルマンディ上陸作戦後イケイケで進撃していた連合国軍ですが、
マーケット作戦に失敗したあとは以降戦線が膠着していました。

そこで第三帝国総統アドルフ・ヒトラーは

「アルデンヌを装甲部隊に突破させ連合国軍の退路を遮断し、
補給地でもあるアントウェルペンを占領する」

という大作戦をぶち上げたのです。
誰もここから攻めてくるとは思わないアルデンヌの森を突破すれば
連合国を押し返すことも可能であろうと。

これはヒトラーにとって「ダンケルクの戦い再び」であり、
彼とドイツ第三帝国にとっての「最後の賭け」でした。

Bundesarchiv Bild 146-1971-033-01, Alfred Jodl.jpgヨードル少将

しかし、立案を命名されたアルフレート・ヨードルは、

「攻勢に必要な兵力を集めることができない」

として代わりに局地的攻勢計画を提案しました。

自分を軍事の天才であると自認するヒトラーはこの代案を拒否、
さらに軍人のシビアな目で見てこの作戦は絶望的、と判断した
西方総軍司令官ルントシュテット、ヴァルター・モーデル少将の進言と代案を悉く退け、
大規模作戦計画「ラインの守り作戦」を強行することにしました。

侵攻作戦でなく防衛作戦であると思わせるために歌の題名を取って名付けられた
「ラインの守り作戦」には、VI号、V号戦車を1036輌投入することになりましたが、
肝心の兵力、燃料、そして砲弾も全く集めることができませんでした。


アメリカ軍もアメリカ軍で、なまじドイツの状況分析がある程度正確なため、
そんな状態のドイツ軍がよもや戦線を突破してくるとは全く考えなかったのです。

 

しかも、本項最初にご紹介した第99歩兵師団は、
それまで小競り合い程度の戦闘経験しかなく、

「バトル・ベイビー」👶

という可愛らしくもなさけないあだ名がついていたうえ、

Middleton.Troy.ThreeStars.jpgミドルトン少将

トロイ・ミドルトン少将指揮する第8軍団の第8軍団の第106歩兵師団、
第9機甲師団にいたっては戦闘経験全くなし、師団長も実戦経験なしという状態。

こうして両軍の状況を俯瞰してみると、どっちが勝っても、というか
どっちも勝てない要素だらけの先の見えない戦闘だったことがわかりますね。

そして12月16日がやってきました。
ドイツ軍は予定より2週間遅れたというものの、霧に乗じて攻撃を開始し、
全勢力を一度にアルデンヌにぶちこんできました。

侵攻するドイツ軍

この一斉砲撃に指揮官の判断ミスがかさなり、第106師団は
退却が遅れ、包囲された後降伏を余儀なくされ、さらには
最終的に一万二千名もの兵を失うという大損害を被りました。

投降するアメリカ軍兵士

しかしここで善戦したのが「バトルベイビー」第99師団でした。
アルデンヌ攻勢が終了したのち、その強固な防御ついて
第5軍団司令官からこのような賛辞を贈られ表彰されています。

「第5軍団部門を突破してムーズ川に侵攻しようとする敵の計画を​を阻止した
諸君らの働きに、わたしはこころからの感謝と賞賛を表明する」

 

しかしながら、最初にアルデンヌにドイツ軍が一斉砲撃してきたという
第一報を受け取りながら、ブラッドレーは当初このことを重視しなかったといいます。

ミドルトンに対しても、

「金輪際ドイツはアルデンヌを抜けてこない」

と断言していたこともあって、ドイツ軍の砲撃によって
我が軍に相当な被害が出たことを知らされると、激怒して

「あのクソ野郎どもはこんな余力をどこに隠していやがったんだ」

と口汚く怒鳴ったそうですが、つまりは自分の予想の裏をかかれ、
恥かいて怒り倍増という感じだったんでしょう。

部下が優秀でよかったですね(棒)

■ 偽アメリカ人部隊事件の余波

そのブラッドレー将軍ですが、以前わたしは当ブログ上で、

「イリノイ州の州都を聞かれた捕虜の将官が"スプリングフィールド"と
正しく答えたのに、質問する人が勘違いしていて大変なことになった」

といううろ覚えの話を書いてしまったことがあります。

正しくはその将官はこのブラッドレー将軍のことで、状況はというと、
将官は捕虜になったのではなく、バルジ戦線において、米軍内部に
完璧な英語を話すドイツ人で構成する
偽米軍部隊が潜入していたのが発覚し、
それを受け各所で
憲兵の尋問が厳しく行われるようになった中起こった出来事でした。

偽アメリカ兵はドイツ軍の制服を下に着ており、ほとんどがスパイとみなされ
(厳密には違うのですが)射殺されましたが、彼らは鹵獲したジープや
M-10に似せて改造したパンターまで用意して偽装していたということです。

アメリカ軍内に瞬く間にその噂は広がり、自衛のための検問が
あちこちで行われることになったのですが、
どんな下々の庶民でも知っていることでないといけないので、
特に兵への質問内容は勢い映画娯楽やカートゥーン関係ばかりとなりました。
怖い顔をした憲兵が

「ミッキーマウスのガールフレンドの名前は?」

とか、

「ポパイの好きな缶詰の中身は?」

なんていう質問を真面目にしている様子はちょっとイングロリアスバスターズです。
ブラッドレーはそういう状況の中、憲兵にシカゴの州都を聞かれ、

「スプリングフィールド」

と答えたのに、憲兵がシカゴだと勘違いしていたため(案外この間違い多いらしい)

「ちょっと・・・こちらへ」

と連れて行かれ、短期とはいえ勾留を受ける羽目になったというわけです。
っていうか、質問する方もシカゴの州都と自軍の司令官の顔くらい覚えておけよって話ですが。

 

■包囲

この間、ドイツ軍は「シュテッサー作戦」と称する空挺降下作戦を投入しましたが、
輸送機のパイロットが経験不足で、空挺団が効果地点に到着できず、
失敗して捕虜になっています。

ドイツの奇襲が功を奏し、二日目にしてアメリカ第28歩兵師団が
壊滅寸前であることを知ったパットンは、直ちにアメリカ陸軍第101空挺師団、
第82空挺師団をベルギーのバストーニュに急行させました。

ここでいろいろあり(詳細は省略)バストーニュ防衛を行うアメリカ軍は
ついにドイツ軍に包囲されてしまいます。

その時ドイツ第XLVII 装甲軍団司令官リュトヴィッツの降伏勧告をもたらした
ドイツ軍の伝令に対し、第101空挺師団師団長代理、アンソニー・マコーリフ准将

「NUTS !」

と答えたといういかにもアメリカ人大好きそうななエピソードが残されています。

アメリカ人はよく「あほか」みたいなニュアンスでナッツを使うのですが、
日本の媒体ではこれを「たわけ!」と訳していることが多いようです。


意味がわからない風だったドイツの伝令に対し、第327グライダー連隊長

「地獄へ落ちろという意味ですよ^^」

と説明したそうですが、その後、クレイトン・エイブラムス中佐率いる
第3軍の救援部隊が到着し、クリスマスの翌日に第326工兵隊を救出、
27日には第101空挺師団との接触にも成功し、一緒になってドイツ軍を撃破しました。

エイブラムスの名前は戦車、M1エイブラムスに残されています。

M1A2 tanks at Combined Resolve II (14069815848).jpgサービス画像

このころのドイツ軍は、軍の内部で燃料を取り合ったり、
空軍を投入するも、レーダーを避けようとして低空飛行していたら
味方が連合軍だと勘違いして皆高射砲でやられてしまったり、
無線封鎖を解除したので連合軍に位置を特定されて反撃されたり、
とにかくお先真っ暗のぐだぐだでしたが、全体で見ると
損失はそうたいしたことがない、といってもいい状態に止まっていました。

そこでドイツ軍上層部は被害をとどめるべく作戦停止と撤退を進言しましたが、
負けず嫌いのヒトラーがそれを許さず、徹底抗戦を続けさせたため、
結局バストーニュの包囲は破られ、ドイツ軍は大損害を受けることになります。

1月23日にバルジの戦いは停戦となりましたが、ドイツ軍はこの戦いで
当初の目的であった主導権奪還に失敗し、
戦力を致命的に消耗し、
ドイツが戦争に勝利する可能性は完全に潰えることになったのでした。

 

ところで「バルジ作戦」は映画にもなっているようですが、マコーリフ准将の
「ナッツ!」のシーンはあったんだろうか、と思ってデータを見ると、
そもそもマコーリフ准将らしきキャストがありませんでした。

 

続く。

 


WASPパイロット テレサ・ジェイムズ〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-10 | 博物館・資料館・テーマパーク

ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館の展示を
時代に沿ってご紹介しています。

画面右手にあるガラスケースが創設当初からある展示ブースなのですが、
それから100年が経ち、展示するものが少しずつ増えてきて、
博物館ではかつて通路だったところにこのようなガラスケースを増設することにしました。

前にも書いたように、ここは省エネのために人感知式センサーで
人が通るたびに展示ブースにライトが当たるという仕組みです。

しかしながら、こういう通路のガラスケースには必要ないということなのか、
照明の類を全く設置していないため、大急ぎで写真を撮って歩いていると
光度不足で失敗してしまっているのでした。

たとえばこの第一次世界大戦関連の展示も、アップにしても
解説がボケてしまっていて読めなかったりします。

というわけで説明は飛ばしますが、画面の下のカラフルなマーブル模様、
これなんなんでしょうか。

第一次世界大戦、カラフルな迷彩、とくればそれは飛行機の塗装です。
いままでここで紹介してきた複葉機には、フォッカーのように
色鮮やかな迷彩柄が施されているものがいくつかありました。

この菱形のカモフラージュを、

Lozenge camouflage、トローチカモフラージュ

といいます。

当時の飛行機はプリントした布を機体に張り付けていたので、
出荷時のこれがデフォルト仕様だったということになります。

カモフラージュというと「視認性を低くする」というのが今の常識ですが、
当時はとにかく敵味方を空中で識別しやすい塗装が好まれたのです。

そして、パイロットのアイデンティティを表す手段でもありました。
あのマンフレート・リヒトホーヘン男爵も愛機を真っ赤に塗装して
「レッドバロン」と呼ばれましたが、家紋を機体に描いたり
オリジナルの模様を描いて、パイロットが誰か一眼でわかるようにしていたのです。

これは当時の空戦がまだ「やあやあ我こそは」と名乗りを挙げて戦う
騎士道的な戦いの様相を呈していたからということができますし、
もっと実用的な理由として同士討ちを防ぐ目的もありました。

ちなみにリヒトホーヘンの弟の(もちろん男爵です)ロタールも
またエースでしたが、彼の愛機は鮮やかな黄色でした。

現在はIFF(Identification Friend or Foe, 敵味方識別装置)の発達によって、
派手な色彩の国籍マークラウンデルや部隊章、士気高揚のため黙認されていた
非正規の塗装などは実戦部隊では使われることはありません。

岩国の海兵隊のパイロットに基地を案内してもらった時、
機体に塗装されたマークがあまりにも薄く地味なので、
当時そういうことを覚えたてのわたしはここぞとばかりに

「これが低視認性(ロウ・ビジビリティ)ペイントというやつなのね」

と聞いたところ、悲しそうに

「ペンキのお金がね・・・ないんだよ海兵隊には」

と返されたのはいい思い出です。
いいやつだったなあ。今どこでどうしてるのかしらブラッド。

このケースには

Origins of Our Collection

と書かれています。
これによると、

今日の訪問者は不思議に思われるかもしれませんが、
SSMMホールは、創設に関わった建築家も創設者も、
建築家ジェームズ・ホーンボスルが、アレゲニー郡の兵士の英雄にふさわしい
等身大の彫像を展示すために作ったこの場所が
アレゲニーの市民に開かれたものになるとは考えていませんでした。

しかし、オープンと同時に各地から展示品の寄贈ラッシュが始まりました。
1911年(開館した年)の5月の記録によると、最初の73件の寄贈後
現在に至るまでの間その点数は何千点にも及びます。

とあります。
できた当初、ここは南北戦争の「メモリアル」、慰霊施設という位置付けだったため、
戦争が終わるたびにヴェテランからこれほど多くの寄贈が送られてきて
立派な軍事博物館になるとは誰も予想していなかった、というのです。

ちなみに、中華ラーメン鉢の飾りのようなデコレーションが施された
エレベーターホールの上部に掛けられたこの絵が、
当博物館の「寄贈展示品第一号」なのだそうです。

ウィンチェスターの戦いにおけるペンシルバニア第14騎兵隊の突撃
Charge of the 14th Pa, Cavalry,Winchester, va. Sept 19 1864 

残された記録によると、この絵は開館したその日からここにあるそうです。

それではこの「私たちのオリジナルコレクション」とされた
展示ケースからいくつかをご紹介します。

プロシア軍の竜騎兵(ドラグーン)士官の「ピッケルハウベ」(ツノ付き帽子)
1890

第一次世界大戦前の軍用ヘルメットですが、第二次世界大戦中
アメリカ陸軍第78歩兵隊のメンバーが現地で手に入れ、
持ち帰ってSSMMに寄付したというものです。

ヘルメットの上部の毛は「ホースヘアー」(尻尾?)ということですが、
これはヨーロッパから持って帰るのも結構大変だったのでは・・・・。

このケースにある陸軍の軍服などは、ハロルド・ヒルトンという人が
ここに寄贈したものが多いのですが、ヒルトンさん、どうも戦後
占領政策で日本に駐留していたらしく、記念品として
日本のお札を持ち帰って寄付しています。

50円札、10円札、50銭も当時はお札だったんですね。
終戦直前は日本は金属不足でしたから当然かもしれません。

ブルーのカードは入浴&ディナー配給パスで、ヒルトン氏が
帰国した船の中で使用したものです。

カードの下部分に数字とパンチ穴が数字31まで空けられており、
彼の船内生活が31日に及んだことを表しています。

太平洋戦に詳しい人ならおそらくどなたもご存知、
あのガナルカナル島の戦いが行われた、

ヘンダーソン飛行場(Henderson Field)

のサインです。
元シービーズ(設営隊)勤務の少尉が持ち帰り寄付しました。
ヘンダーソン飛行場はもともとソロモン諸島のホニアラに日本軍が
3ヶ月の突貫工事で作り上げた

ルンガ飛行場

でしたが、8月、米軍の海兵師団が上陸、戦闘を繰り広げ、
その結果飛行場も米軍が占領することになりました。

ルンガ飛行場をヘンダーソンとしてその整備を行ったのが
アメリカ軍第一設営隊、シービーズでした。

サインを持ち帰ったマドゥーという少尉は民間技術者で、
ガダルカナルをアメリカが日本から奪取した翌年、
飛行場にコントロールタワーと司令塔を新設する工事のため
派遣されていったのだということです。
(マドゥー少尉は前列左端ではないかとなんの根拠もなく思うわたし)

彼は島を去るときに椰子の木にかかっていたこの看板を持ち帰ったそうですが、
おそらくそのときには終戦となっていたのかもしれません。

ヘンダーソン飛行場は現在軍民兼用の国際空港、
ホニアラ国際空港となっています。

「SSに寄贈されたものは厳密には軍事関係だけではありません」

として、このケネディ大統領の首は、地元アーティストの

Ivo Zini(イボジニ?)

という人が制作し、家族が寄贈したものです。
このイボさんについて調べてみると、こんな写真が出てきてしまったんですが・・

zini

イボジニさんがイボ死にしてる〜!

しかし、この人の情報はどこを探しても英語では出てこず、
イタリア語のみ、イタリア語の個人のwikiもありません。

イタリア語の自動翻訳でいくつかの情報を解釈したところによると、
イボさん、ある日映画を見に行って極右過激派のテロに遭ったことがわかりました。

しかしなぜイボさんがテロで殺されなくてはならなかったのか、
そこのところは全くわかりませんでした。<(_ _)>

 

このケネディの頭部は手作業で彩色されており、髪の毛に至っては
一本一本手で植毛し、目玉にはガラスが入っているという力作です。

博物館の説明では「地元のアーティスト」となっているのですが、
これは間違いで、イボさんは活動をイタリアで行っていたはず。

しかも言葉の端々からケネディの頭をここに飾ることに対しては

「なんかわからんけど寄贈されたので仕方なく」

みたいな困惑した空気が感じられるのですが、経緯を想像するに、
イタリアの遺族関係者が彼の死後遺品を整理したとき、

「ケネディの頭部・・・うーん・・・
これはやっぱりアメリカ大統領だからアメリカに寄贈すっか」

「んだんだそうすべえ」

ということでここに来たとしか考えられません。

 

さて、今日最後にご紹介するブースは、「航空関係」です。

ここにもあった。ノルデン照準器です。

このブログで海外の軍事博物館の展示品を紹介してきた歴史上、
わたしがこのノルデン照準器の写真をアップするのは、これで
少なくとも4回以上ではないかと思われるくらい、どんな場所にもあります。

ご存知のようにノルデン照準器はカール・ノルデンとセオドア・バースが
1930年に開発した爆撃用の細密照準器ですが、その後の当ブログ調べによると
最高機密扱いだったわりには実戦であまり役に立たなかったという噂もあり、
戦後どの博物館にも現存しているのは、あまり使えないので
思ったほど重用されなかったせいかという気がします。

というか、アメリカ軍が細密攻撃を行う必要があったのは
一時期だけで、特に東京ではルメイの起用で無差別爆撃に切り替えられましたから、
照準器などお呼びでない?これまた失礼(略)というものになり下がっていたとも考えられます。

当初は敵の手に渡るなら破壊するようにとまでパイロットは厳命されていたそうですが、
結局こんな理由で使わなくなったのでこれだけあちこちに現物が残る結果になったのかと。

次に展示されているボマージャケットの背中のペイントをご覧ください。

BUST'R'(バスター)

は、ノルマンジー上陸作戦に参加していたB-17重爆撃部隊第95部隊
第336飛行隊の爆撃手のケネス・エバンスの息子に因んでつけられた名前です。

このボマージャケットはピッツバーグ出身のパイロットだった
チャールズ・レイディ・スノーデン三世大尉が着用していたものです。

彼の操縦する機体は1944年の6月、ロシア上空の任務で攻撃を受けました。
負傷者を脱出させることが不可能と判断したスノーデン大尉は、
B-17をイギリス領土まで飛ばしてそこで墜落させることを選択し、
その結果クルーを誰一人として失うことなく生還させることに成功しています。

この任務で勲章を受け、帰国したスノーデン大尉でしたが、
終戦のわずか1ヶ月前、夜間訓練の事故で命を落としました。

Clipping from The Pittsburgh Press - Newspapers.com

検索すると彼が死亡した時の新聞記事が出てきました。
ちなみに彼の住所として書かれているアスピンウォールは、ピッツバーグでも
比較的裕福な層が住む高級住宅街とされています。

このケースで真っ先に目を引くのは長身の女性パイロットのマネキン。
繋ぎのフライトスーツにキャンバスのバッグ、編み上げのブーツに
フライトキャップという装いです。

スーツの下にはちゃんと陸軍規定のシャツにネクタイ着用。

これは、

WAFS(Womens Auxiller Flying Squadron)女性補助航空部隊

WASP(Womens Airforce Service pilots)女性空軍任務パイロット

のパイロットであった、

テレサ・ジェームズ(Theresa James)

が着用していたフライトスーツです。
ここでも何度か言及してきたように、第二次世界大戦中、アメリカ陸軍は
航空機の輸送やテストなどを行う女性パイロット部隊を保持していました。

それがWAFSであり、のちのWASPです。

ワフスがワスプに変わったわけというのは、おそらく参加者を広く募る観点から
より当事者性の強い(かっこいい)名称にする必要があったからではないか、
とわたしは勝手に思っているのですが思っているだけですすみません。

彼女ら女性パイロットは戦争という特殊な事情のために集められたので
短い訓練期間で戦闘を含まない航空任務に投入されました。

ピッツバーグ出身のテレサ・ジェームスは、アメリカで最初に
軍航空パイロットになったうちの一人です。
彼女が入隊したのは1942年の10月、1944年の12月にWASPが
解散すると同時に除隊しました。

WASPの解散がこの時期になったというのは、おそらくアメリカ側には
勝利が見えてきて女性の手を借りずとももう大丈夫、と判断したからでしょう

 

最後に彼女のバイオグラフィをご紹介しておきます。
彼女が単独飛行を行うようになったのは1933年、19歳のときです。

女性としてだけでなく当時先駆的なパイロットだったテレサ・ジェイムズは、
ピッツバーグに生まれ、そこで育ちました。
実家は花屋さんでしたが、どういうきっかけか空に興味を持つようになった彼女は
若い女の子の身で飛行訓練を受けて兄を驚かせました。
そして、最初の女性飛行教官となり、商用輸送免許を取得しました。


当時のパイロットの「常道」として、彼女は飛行機に乗るお金を稼ぐため、
ペンシルベニア、オハイオ、ニューヨーク周辺の航空ショーに出演し、
スタント飛行を行っていました。

彼女の専門は、

2マイルの航行距離の間にに26回スピンし、地上300mで機首をあげる

だったそうです。

彼女は1941年に彼女の生徒だったジョージ・ "ディンク"・マーティンと結婚しました。
ディンクはその後陸軍航空隊で飛行教官、爆撃機のパイロットになっています。

ある日彼女は陸軍のハップ・アーノルド将軍から、国内輸送任務に携わる
女性パイロット部隊への参加を打診する電報を受け取り、
1942年10月6日にWAFSに宣誓し入隊しました。

すでに操縦のベテランであったせいか、彼女は最初から大きな任務を任され、
アメリカの東西両海岸を繋いで軍用機を飛ばした最初のWAFSパイロットとなります。

 

しかし、航空がきっかけで結ばれた彼女と夫を引き裂いたのは飛行機でした。

1944年初頭のこと、夫のディンクの飛行隊が海外に派遣されますが、
搭乗機
B-17は1944年6月22日に撃墜されたという知らせを受けました。

しかし彼女は夫が捕虜になって生存している可能性に一縷の望みをかけながら
WASP解散後、実家の花屋で働いていました。

戦後、彼女は夫の行方を知るためにフランスまで行っています。

1984年、彼女はパリ郊外のジョアン・ヴィル・ルポンで、ついに

ディンクの墜落の目撃者とコンタクトを取ることに成功しましたが、
彼が撃墜された40年後になって初めて夫に何が起こったのかを知ったのでした。


1939年に彼女は「99人の女性パイロットの会」に加わり、
また、「P-47サンダーボルトパイロット協会」
フロリダの女性パイロット協会「グラスホッパーズ」そして
「シルバーウィングス」協会の終身会員でもあり、さらには
 1980年に「パンチョ・バーンズ」航空賞を受賞しました。
(パンチョ・バーンズについてはこのブログでも取り上げ済みです)

 

彼女のWAFSのユニフォームはワシントンDCのスミソニアン博物館の
国立航空宇宙博物館に寄贈され、フライトスーツはここSSMMで見ることができます。

この先駆的な、他に類を見ない女性飛行士は、人生の最後まで空を飛び続けました。
そして2008年7月27日、94歳で最後の飛行を行ったあと、フロリダで静かに亡くなりました。

彼女の遺灰はピッツバーグに持ち帰られました。
彼女が働いていた実家のフラワーショップはまだ親族によって経営されているそうです。

 

続く。

 

 

 


レマゲン鉄橋の石とティンマーマン中尉〜ピッツバーグ 兵士と水兵の記念博物館

2020-12-08 | 歴史

ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」を見学し、
写真を撮ったのはコロナ肺炎の流行る前の年の夏のことです。

こういう博物館で撮影するときにはとにかく時間との勝負なので、
展示の内容をじっくり読み込んだりせず、瞬時に重要度を判断して
フォーカスするものを取捨選択しつつ、シャッターを切っていくわけですが、
あまりに展示場の照明が暗いと、画像の説明文が読めないという事故が
(最近ではまれですが)起こります。

1910年に開館したこのソルジャーズ&セイラーズメモリアル・ミュージアムでますも
とにかく施設自体が古いこともあり、とにかく暗くてこれがありました。

展示方法は昔から全く変わっておらず、テーマごとにガラスケースに収められていて、
見学者が決められた方向(ケース右側)から歩いていくと照明が点くのですが、
それが何の工夫もない天井からの蛍光灯だったりして苦労しました。

ということを念頭にこの画像を見ていただきたいのですが、
ガラスケースの使用が開館以来変わっておらず、正面から撮ると
ドアの桟が映り込んで展示を隠してしまうわけです。

後から写真を見たとき、欠落している部分が多いので
次にピッツバーグ行くことがあったら必ずもう一度行って
撮り直そうと思っていたのですが、今回のコロナの影響で
当博物館は

「オープンしているが必ず予約してガイドと一緒に歩くこと」

という面倒くさいことになっており、とにかく自分のペースで
撮影して回りたいわたしにはちょっと無理っぽいことがわかりました。

・・・というわけで、細部の情報収集不可能な展示、
たとえばこのDデイコーナーなども説明をスキップします。

まあ、ノルマンジー上陸作戦に参加した地元の軍人たちの制服と写真、
そのときに使った星条旗というだけなので説明も要りませんよね?

アメリカ陸軍第78歩兵師団コーナーです。

第一次世界大戦に参加するために1917年に創設され、
現在もアクティブであるという知る人ぞ知る名門ですが、
一つの陸軍師団だけに焦点を当てた展示というのも
数ある軍事博物館ではあまり見なかったような気がします。

師団徽章である赤にイナズマの意匠には
何やら深いストーリーがありそうです。

ポーズを取るイケメン兵士が着用している上着は、
第二次世界大戦中アメリカ陸軍で「アイクジャケット」と呼ばれていました。

アイクとはもちろんあのドワイト・アイゼンハワーのことで、
将軍アイクが写真を撮るときに着用していたジャケットは
イギリス軍のバトルドレスユニフォームを参考に、丈は短く、
そして胴を思いっきり絞ったデザインでした。

左肩には第78師団の渾名「ライトニング」を図案化した徽章が、
ラペルのピンにより、彼が第311歩兵の所属であることがわかります。

また、左肩に組紐の飾緒があしらわれていますが、これは

fourragère 」(フォーラジェール・フォーラゲール;仏)

というのが一般名詞で、軍事ユニットを区別するものです。
フランス軍が発祥で、オランダ、ベルギー、ポルトガル、そして
ルクセンブルグなどの他の国々に採用されていました。

他国の軍隊にも授与されることがあり、この兵士のフォーラゲールは
ベルギーで戦闘に参加した部隊にのみ与えられたものです。

色によってその持つ意味が違い、赤は

Fourragère aux couleurs de la Légion d'honneur
(レジオンドヌール・名誉軍団)

となります。

制服の左胸には授与したメダルを表すリボンがありますが、
第78師団第311歩兵部隊がいかにメダルコレクターであったかは、
このジョン・ルール4等特技兵(T/4)一人が受けたメダルを見ればわかろうというものです。

シルバースター、ブロンズスター、オークリーフ部隊章、パープルハート、
英国ノルマンジー勲章、アメリカンキャンペーン、フランス解放勲章、
ベルギー第二次世界大戦勲章、勝利メダル・・・。

まるで軍人が受賞できる栄誉メダルの見本のようです。

第二次世界大戦におけるアメリカ軍のスタンダードだった
スプリングフィールド社製のM1ガーランド銃。

日本国自衛隊ではつい最近まで特別儀仗のスタンダードだったのですが、
2019年から儀仗用に作られた「儀仗銃」に変更されていたそうです。

うーん、ということは去年の音楽まつりはすでに変更になっていたわけですね。
今にして思えば写真を整理していた時、銃の色が明るいなと思ったんですが、
まさか銃そのものが変わっていたとは気づきませんでした。

こちらはドイツ軍使用のワルサーP-38ピストルです。
先日取り上げた映画「Uボート」で、錯乱した機関室のヨハンに対して
艦長が持ち出したのがこれでしたよね。

ワルサーという言葉はおそらく子供の頃から聞いて知っていましたが、
そのスペルが開発者のCarl Wartherからとられていて、
ドイツ語だとそもそもTHの擦過音発音ではなく、Wも「ワ」ではなく、

「ヴァルター」

と読まなければならないことに気が付いたのは最近のことです。
ルパン三世でもおなじみ「ワルサー(ぴーさんじゅうはち)」という読み方は
英語読みに忠実であったということになります。

Colt Model of 1911 U.S. Army b.png

戸棚に一部が隠れてしまっていますが、
M1911コルト銃もありました。

コルト社のM1911は軍用に開発されたモデルで、アメリカ軍に
第一次世界大戦からベトナム戦争までの間使用されました。

上の銃架に載っているのが

M1919ブローニング中型機関銃

左にあるのがブローニングの弾薬ケースです。
この空冷式タイプは第二世界大戦からベトナム戦争までの期間使用されました。

2〜4人の歩兵のチームが携行するという目的のために作られました。

画面下にある錆びた銃剣は、アメリカ軍のM1ガーランドです。
ドイツのケステルニッヒで戦闘の30年後、地元住民がガーデニングをしていて(笑)
発見したもので、ダン・ロウ軍曹という持ち主もわかっているそうです。

なぜ持ち主までわかったかというと、落としたロウ軍曹本人が、
1990年「思い出の戦場ツァー」をしていてこの銃と再会したからだそうな。

彼の部隊は1945年現地で展開していましたが、彼のいた「キツネ穴」の近くで
迫撃砲が爆発した際彼は銃をとり落とし、それっきり見つかりませんでした。

サビた銃剣を見た途端、かれは45年前のできごとをありありと思い出し、
この銃が自分のものであると確信しました。

その後の経緯については書かれていませんが、おそらく現地の博物館が
本人に返還することになり、その後博物館に寄贈されたのでしょう。

 

 

「レマゲン橋頭」

というタイトルのこの絵は、第78師団第310歩兵部隊が
ライン川に唯一残されていたルーデンドルフという鉄橋橋で
ドイツ軍と戦いを繰り広げた様子を描いています。

「レマゲン鉄橋」というハリウッド映画にもなったこの戦いでは、
橋を確保しそこに橋が頭堡を築こうとするアメリカ軍と、あの手この手で
爆破を試みるドイツ軍の激しい攻防戦が繰り広げられました。

橋の上のアメリカ軍

ここには、注意して見なくてはわからない小さな石が展示されています。

最初にレマゲン橋を渡った第75師団第310歩兵部隊の兵士
(アレクサンダー・ドラビク軍曹という名前が残っている)が
拾った現地の石ということです。

ルーデンドルフ鉄橋を占拠したことは、メディアによって

「レマゲンの奇跡」(Miracle of Remagen)

と呼ばれ、アイクジャケットのアイゼンハワー将軍は

「レマゲン鉄橋の重さと同じ金の価値にも相当する」
(worth its weight in gold)

と彼らの功績を称えました。
それくらいこの時のドイツ軍の攻撃は熾烈だったということですが、
逆に総力を上げてフロッグマンまで投入したのに攻略できなかったドイツでは、
ヒトラーの一声で爆破作戦を指揮した五人の将校が軍法会議にかけられ、
四人は即座に(その日のうちですかね)に処刑されてしましました。

将校のうち一人は捕虜になっていたため欠席裁判での死刑判決でしたが、
判決をアメリカ軍から聞かされた本人は、内心、助かった、と
ひそかに胸を撫で下ろしたかもしれません。

このドイツ軍将校がどうなったかその行方を知りたいのはわたしだけかな。

ついでに余談ですが、隅田川にかかる永代橋、いまでも1923年に架橋されて
変わらない姿を見せるあれは、ルードルフ橋つまりレマゲン鉄橋をモデルにしたそうですよ。

Eitaibashi2.JPG

ルーデンドルフ鉄道橋:レマゲン鉄橋 | cynthia-dr-murazumiのブログ

なるほどアーチが似ている。

永代橋の建造は間組が行い、橋脚の部分だけ神戸の川崎造船所が請け負っています。
当時は水の上と水の中の工事は分業しなければならなかったようですね。

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ちなみにこれが映画「レマゲン鉄橋」Bridge of Remagenです。
アメリカの制作なのですが、wikiの説明がなぜかドイツ軍目線(笑)

ドイツ軍のブロック将軍は、担当地区に残る橋を全て爆破するように命じられたが、
川の向こうには7万5000人の兵が残されており、この友軍が撤退できるよう
レマゲン鉄橋をぎりぎりまで残し、連合軍が間近に迫ってから破壊しようとする。

将軍は腹心の部下、クリューガー少佐を橋防衛部隊の指揮官に任命し、
連合軍が橋の目前まで迫るまで爆破しないように指示する。

クリューガー少佐が橋に赴くと、書類上では1600名の兵員が実際はほとんどおらず、
爆破のための爆薬すら無い逼迫した状況であった。
少佐は、爆破の準備や橋の防衛陣地の構築とともに増援部隊の派遣を要請するが、
いくら要請しても生返事ばかりで一向に援軍が来る気配はない。

そうしているうちに米軍のバーンズ少佐指揮の機甲歩兵大隊に所属する
先遣隊が橋の間近まで迫り、橋をめぐる攻防戦が始まる。

ブロック将軍も処刑されておしまいになったんでしょうか。
それとももしや捕虜になって助かった?のはこの人?

それからこの映画で「ハートマン少尉」という(軍曹じゃないよ)
登場人物のモデルになったアメリカ軍人がいます。

Karl H. Timmermann.jpg

カール・ハインリヒ・ティンマーマン(Karl Heinrich Timmermann)1922-1951

という、名前からドイツ系アメリカ人のこの人物は、ルードルフ橋攻略後
ライン川を最初に渡ったアメリカ軍将校となりました。

アメリカ軍侵攻時、鉄道トンネルの中には300人ほどのドイツ兵とともに
アメリカ軍の砲爆撃を逃れ避難してきた民間人が閉じ込められていました。

トンネル内に残ったドイツ軍は最後の一兵まで戦えとの命令を受けており、
将兵の多くはそれを受け入れていましたが、民間人は降伏しようとし、
(ドイツ軍人はそれを許した模様)英語を話せるカール・ブッシュという人物が

「Stop Firing!」

と映画で覚えていた言葉を叫んでトンネルを出ると、尋問してきたのが
このティンマーマン少尉だったのです。

ブッシュを通訳としてトンネル内のドイツ軍将兵たちと交渉が行われた結果、
200名ほどのドイツ兵と100名ほどの市民が投降することになりました。

降伏のために最初にトンネルを出て射殺された民間人一人がこのときの死亡者となりました。

トンネルからの撤退交渉が成功したあとのことです。
ブッシュは自分に応対していたアメリカ人将校が完璧なドイツ語の発音で

「よくやった」

と言ったのに驚きました。

ティンマーマンの父はドイツ系アメリカ人、母親は
アメリカ軍人として第一次世界大戦後の占領任務に携わっていた父が
現地で見つけたいわゆる戦争花嫁のドイツ人でした。

ヨーロッパでの戦争の拡大に伴い米国内の反独感情が高まると、
「ティンマーマン」というドイツ系の姓を嘲笑されるようになりますが、
彼を筆頭にティンマーマン家の3人兄弟は、祖国に忠誠を示し
名誉を挽回するべく、
全員がアメリカ軍に入隊したのでした。

日系人部隊に入隊した日系アメリカ人もそうでしたが、軍隊に入ることが
当時のドイツ系にとって最も手っ取り早い愛国の「方法」だったのです。

ティンマーマンはその後朝鮮戦争にも中尉として参戦しましたが、
そのころから体調の不調を感じ、わずか29歳で精巣腫瘍のため命を落としました。

新聞はこの「ラインの英雄」の死を、

「戦争という癌は彼の命を奪う事に2度も失敗した」
(the cancer called war had failed to take his life in two tries.)

と報じました。

彼は自分の軍人生を奪ったガンを憎みながら亡くなりました。
死ぬ前に妻に言い遺したことばは、

「葬儀の前に階級章とボタン、勲章を磨き、
胸にすべての勲章を正しく飾ってくれ」

であったということです。

続く。

 

 


「最初の三人」と「最後の生き残りの乾杯」 第一次世界大戦〜 兵士と水兵のための記念博物館

2020-12-06 | 歴史

しばらくお休みしていましたが、再びピッツバーグにある
兵士と水兵の記念博物館の展示をご紹介しています。

もう一度時間を戻して?第一次世界大戦関係の展示です。

第一次世界大戦中の陸軍航空隊パイロットが使用した航空ジャケットです。
人類史上初めて空中戦が行われることになったこの戦争ですが、
アメリカ航空隊は一足先に航空戦を体験していた英仏軍から
当時の吹き曝しのオープンコクピットでは皮が一番いいという結論を得ました。

その後の基本となるパイロット用のゴーグルと毛皮を裏に貼った帽子も
このころに開発されその後受け継がれていったものです。

これが当時ヨーロッパに展開していた航空部隊のパイロットとその乗機です。
機体に備え付けられているのはコネチカットのハートフォード社製、

ヴィッカーズ 航空機関銃

で、1分間に最大600発まで発射可能、俗に

「バルーン・バスター」

偵察用の気球を簡単に撃ち落とすことからこう呼ばれていました。
写真で銃の横に見える長い棒と歯車状のものは、弾丸がプロペラに
当たらないように、発射とプロペラの回転を同期させる仕組みです。

「エアクラフト・アーモラー」、航空弾薬係の制服です。

空戦用の航空機搭載マシンガンの準備をするのが任務で、
制服の襟には火を噴いている爆弾を表す飾りボタンがあしらわれています。

こちらは第一次世界大戦当時の歩兵銃です。
どんな戦争も同時に武器の製造技術が大幅に革新しますが、
第一次世界大戦時

は歩兵にとっての新しい武器とされたライフルが
フランスの戦場で初めて導入されました。

上から

1903年製 スプリングフィールド・ライフル

1917年製 マガジンライフル

ロス(Ross)ライフル Mark II

スプリングフィールド銃の使用期間は長く、製造は1937年まででしたが
第二次世界大戦の太平洋戦線でも使われていたそうです。

第一次世界大戦当時のアメリカ陸軍歩兵。
彼らは塹壕戦に備えて必ずトレンチナイフを持っていました。

この度の戦争で進化したテクノロジーの一つは、たとえば、
正確に照準を合わせるためのこのような仕組みでしょう。

「Aiming circle」(照準サークル)

という1918年製作のこのガジェットは、
方位角による角度の測定、および地形学的作業に使用されました。

上が陸軍の軍靴、そして右下アフリカ民族工芸品のようなものは、
当時のカモフラージュ塗装を施したヘルメットです。

いったいどんなところで戦えばこんな模様になるんでしょうか。

タンクの前に立ってポーズをしている長身の男性は
戦車部隊のエドガー・トーマス・トゥレーさんです。

撮影場所はフランス、当時アメリカ陸軍は2種類の戦車、
Mark V(重戦車)、そして
フランスのルノー製FT17軽戦車を使用していました。

FT 17.jpg

トゥレーさんと写っているのはルノーの軽戦車のようです。

陸軍航空隊のパイロット用制服です。

US WWI Pilot's Uniform, assembled from Original Parts | Witherell's Auction  House

制服の右袖にあるのがウィングマーク袖章です。

United States WW1 sterling PILOT AVIATOR WINGS antique SHIRT SIZE –  Treasure Adoption Agency

軍航空部隊が生まれると同時に世界でウィングマークも生まれました。
このことは「第一次世界大戦のレガシー」でお話ししましたね。

第一次世界大戦でヨーロッパに派遣されたアメリカ陸軍兵士の制服あれこれ。
右上に海軍少尉の制服がありますが、海軍の制服は基本的に世界中が
同じ感じのデザインで移行していたように思えます。

イギリスも日本もこの頃は詰襟前立てでした。

砲兵、歩兵の制服です。

制服の下にそれぞれの持ち主の写真が置かれていました。
2番は「ブルーリッジ」と渾名された第80歩兵連隊のジョセフ・レック上等兵のもの、
という具合です。




一番右のヘルメットはフランスに出征したアフリカ系アメリカ人部隊、
第93分隊のものです。
彼らを率いていたのは白人の将校でしたが、当時にしてすでに
黒人将校が率いる第351砲兵隊というのも存在していました。

1番のパープルハート付き将校用制服は、
このラルフ・ハーテンバック(多分ドイツ系)中尉のものです。
ハーテンバック中尉は第一次世界大戦が起こったとき、
ペンシルバニア州立大学の学生で、予備士官として訓練を受け参戦しました。

戦争が終わり、帰還してきたハーテンバックは、
ビーバー郡にあった自分の農場を母校ペンシルバニア州立大に寄付しました。

今でもそれは「ビーバーキャンパス」として残されています。

Lend The Way They Fight (Lot of 3) 41

後ろにあるのは当時有名だった「公債を買いましょう」ポスターです。

アメリカの兵士が手榴弾をドイツ軍の塹壕に投げ込んでいるところで、
塹壕のドイツ兵が驚きと恐怖に目を大きく見開いています。

1918年のリバティローンの宣伝のために制作されたもので、
このローンは4.5%の利息で30億ドルの債券を販売することになりました。

次の展示ケースも第一次世界大戦です。

冒頭画像にその一部をあげた中央のポスターは、説明に

Death "Over There" Memorialization at Home

とありました。
「そこ」とはフランスのベローウッドの戦いのことです。

ここで最初に三人のアメリカ人が戦死したのです。

彼らのことは

「ザ・ファースト・スリー」(最初の三人)

として報道でも大きくその存在が取り上げられました。

NH 359 Painting of Battle of Belleau Wood.

ベローウッドの戦いは、第一次世界大戦のドイツの「春の大攻勢」中に、
フランスのマルヌ川の近くで発生した戦闘で、フランスおよびイギリス軍とともに、
米国海兵隊の第2、第3師団が参加し、戦死者1,811 名、負傷者7,966名という犠牲を出しました。

Four Questions for Steven Clay, President of the 16th Infantry Regiment  Association - World War I Centennial

その中で最初に戦死したのが

左・トーマス・フランシス・エンライト上等兵

中・ジェームズ・ベテル・グレシャム伍長

右・メール・ヘイ上等兵

でした。
彼らは
「ドイツに殺された最初の三人のアメリカ軍人」として喧伝されました。

3名の遺体は現地に葬られ、その後墓碑が建てられましたが、
戦後1921年になって彼らの遺骨は帰国を果たしています。

左写真のエンライト上等兵はピッツバーグ出身だったので、
当ソルジャーズ&セイラーズメモリアルのホールに運ばれ、
ステージに安置されてで一連の儀礼が行われました。

そして国旗をかけられた棺はオナーガードの見守る中、
地元出身の第一次世界大戦のヴェテランたちの肩に担がれて
SSMMの正面通路を退出してのち墓地に葬られました。

 

これは第一次世界大戦で戦死したデイビッド・バートン・フォンター曹長
国から与えられた「証明書」ですが、この図柄で
無名の兵士の肩に剣を乗せている女性はレディ・コロンビアです。

コロンビア映画の冒頭に出てくることでよく知られているこの女性は、
「アンクル・サム」の女性版、つまり「アメリカの象徴」です。

米国政府が発行したこの「負傷証明書」は、寓意的な人物「コロンビア」が
頭の上に名誉の巻物を持ちながら象徴的に剣で跪く兵士に祝福を与えており、
画像の上部には

「コロンビアは彼女の息子に新しい『人道の騎士』の栄誉を与える」

という言葉が刻まれています。

第一次世界大戦の戦闘で負傷、または戦死したアメリカ人兵士のために
発行された各プリントには、手書きで受信者の名前が記されていました。

こちらはフランス政府から第一次世界大戦で戦死した
アメリカ軍兵士の家族に向けて発行された「証明書」です。

フランス語と英語で、

「彼らは祖国の正義のために戦って死に、その棺は埋葬された」

と記されています。

フランスで戦死した海兵隊伍長デビッド・バートン・フォスターの写真です。

額縁の右側に釘付けされた金属製のバンドは、遺体の身元を証明するための印で、
ヨーロッパから送り返される棺に打ち付けられていたものです。

この「遺体身元証明バンド」は、彼の遺体が故郷に帰宅したときに
棺から回収されて遺族が遺影に取り付けたものと考えられます。

 

ケース右下にひっそりと置かれたこの木箱には、今も未開封のシャンパンが入っています。
ピッツバーグのブルームフィールド駐在の第275師団出身のヴェテランたちが
おそらくここで行われたリユニオンの時に、

「我々のなかで最後に残った者がこれを飲み干す」
(トースト・トゥ・ザ・ラスト・メンバー)

と決めて、木のボトルケースにそう記したのですが、残念なことに
「最後のメンバー」はシャンパンを開けることなく世を去ってしまい、
未開封のシャンパンだけが今もここに残されています。

どうしてこの約束が果たされたなかったかについてはわかっていません。

最後に生き残った人に自分がそうであるという自覚がなかったのか。
あるいは、
日々の生活の中で彼はこのシャンパンのことを忘れたっきり、
ある日突然、この世を去ってしまったのでしょうか。

 

続く。


映画「危険な道」〜アメリカ海軍対大和艦隊の海戦

2020-12-04 | 映画

映画「危険な道」、おそらく最終回です。

ジョン・ウェイン演じるリクウェル・トリー司令が旗艦である巡洋艦に乗り込みます。
真珠湾の時にトリーが艦長として乗っていたのも同じ艦で、
USS「セントポール」が独艦二役を務めました。

この理由は、撮影当時第二次世界大戦時のビンテージ巡洋艦は
これくらいしか使えるのがなかったからです。

撮影の終わり頃、「セントポール」の副長が艦長に昇任し、ウェインは
映画で使用した大佐のバッジを進呈するというエピソードがあったそうです。



USS「ボストン」も参加しましたが、後部にミサイルを積んでいたため、
後ろが映らないように前方だけの出演となりました。

このとき、

「戦艦の方が巡洋艦よりいいだろうに、ニミッツは君の懐かしの艦を寄越したのか」

と情報参謀のパウエルは言い、それに対してポールが

「船乗りでないあなたには、艦とセイラーの’関係’はわからないでしょう」

と制作側になり代わり撮影に巡洋艦しか使えなかった言い訳をしています。

この時彼は「ラブアフェア」という言葉を使っているのですが、
映画を観ている者は、この男がロックの息子の婚約者、アナリー・ドーンに
腹立ち紛れにしたことを想起して「げっ」となるわけです(笑)

ちょうどそのとき、パウエルはポールの顔に傷を見つけて指摘します。

「それはパープルハート(名誉勲章)でも狙ったのか?」

それはまさにアナリーの抵抗でできた傷だったわけですが、彼は平然と

「ちょっと自分でやっちまってね(friendly wound)]

それにしてもダグラスほどの大物が、どうしてこんな役を引き受けたかですが、
一説にはこの頃「スパルタカス」と「ロンリー・アー・ザ・グレイブ」、
「カッコーの巣の上で」(舞台)など、いずれも評判が悪かったため、
意に染まない役でも大作ということで引き受けざるを得なかったと言われています。

「Bosn's mate, man the side」(甲板員整列)

そして、サイドパイプ吹鳴の中、准将らが乗艦します。

バーク(アーレイ?)航海長が大佐に昇任して艦長としてお出迎え。

民間人のキャンフィルが日本軍基地の斥候から帰ってきました。

日本軍はレブバナなる島でがっちり防備を固めており、飛行機200機、
人員5000人が集結している、といいます。

この映画は実際にはなかった戦艦大和との対決を海戦のメインにしているので
その関係上架空の島名を使用していますが、レブバナ=ガダルカナルと考えられます。

前半で海軍基地があると指摘されたタイタン岬はラバウルに相当します。

そこでキャンフィルは

「酒盛りに接近して会話を盗み聞きした」

と嘘くさいことをいうのですが、その内容は、そのタイタン岬基地沖に
軍艦が集結しているというものでした。

至急偵察機を送りたいところですが、長距離偵察機は

「皆マッカーサーに送られて我々には何も残っていない」
(さすが海軍、どさくさ紛れに陸軍批判)

普通の飛行機ではレブバナまで飛ばしても帰ってくることができません。

さて、こちら1ヶ月の休暇中のはずのサンフランシスコのマコーネル少佐宅。

どちらも同じ部屋からの眺めのはずでですが、隣の窓に行くと、
なぜか角度が変わり、ブリッジにいきなり霧がかかって、
見えるはずのないアルカトラズが見えています。

実際なら二人の家とされるロンバードとハイドの角の家からは、
こんな間近に
フォートメイソンを見下ろすことはできません。

マコーネルはトレジャーアイランドの本部にいって、
出動命令を受けたと妻のベブに告げます。

「まだ休暇の半分も終わっていないのに」

泣きながら妻は夫にいうのでした。

「それじゃ赤ちゃんを置いて行って」

こちらガバブドゥの看護師宿舎では大事件が起こっていました。
雨の中夜遅くに帰ってきたマギーは、アナリー・ドーン少尉の遺書を見つけたのです。

彼女は薬を飲んで自殺を図り、見つかったときには手遅れでした。

マギーからの電話を受けたロックから

「マギーの同僚の看護師が自殺を図った」

と聞き、心当たりに呆然とするその原因の張本人。

「彼女は息子と婚約してたんだ」

ええ、だからこそ余計ムカついてついやっちまったんですよね。

大変まずいことに、遺書にはちゃんと男の名前も書かれていた模様。
おまけに、事後彼女は妊娠したかもしれない、と男に言ったのに信じなかった、
だから死ぬと・・。

うーん、かつて登場人物がこんなクズだった戦争映画があっただろうか。


「ジェアには俺が話す💢」

ロックはすぐに作戦発動なので二度と会えないかもしれない、とマギーに告げ、
この二人の唯一の(そして一瞬の)ごくあっさりしたラブシーンが行われます。

次の朝、思い詰めた風のエディントンが一人で飛行基地に現れました。

「PBJ(B25ミッチェル、哨戒爆撃機)を用意しろ」

先日お話しした航空の父ミッチェル准将の名前を称え、アメリカ機で
「唯一人名のつけられた」B25の通称は「PBJ」です。

「大佐、飛行目的は?」

ペーパーホルダーを持った地乗員が聞いてくると、

「ジョイライド(気晴らしの飛行)だ」

まさか自分のせいで女が自殺してしまったので、自暴自棄にになり、
セルフペナルティを兼ねて
片道特攻偵察してくるなんて言えないよね。


ところでカーク・ダグラスはPBJの右席に座っていますね。
普通一人で飛行機に乗るとき、必ず操縦は左席で行います。

このあとPBJは本当にタキシングでエプロンを移動していくのですが、
おそらく左(正パイロット席)には本物の操縦士が乗っていて、
カメラに映らないように姿勢を低くしながら機を操っていたのだと思われます。

さて、こちらは辛い知らせをを持って息子のPTボート基地にやってきた父

父准将の顔を見るなりにっこりと微笑むジェレマイアでした(涙)

このジェアを演じた若い俳優、ブランドン・デ・ワイルドは子役出身で、
あの「シェーン」で子役を演じたというキャリアを持ちます。

「シェーン・カムバック!」

というセリフは日本人のわたしたちでも知っているというくらいで、
この時彼はすでにその名声の上にキャリアを築きつつありました。

しかしこの映画の7年後、手術した妻を見舞うため病院に向かう途中で、
運転していたキャンピングカーをガードレールにぶつけ、その後
車が駐車してあったトラックに激突し、(シートベルトをしていなかった)
わずか30歳で(ウェインより早く)死亡しています。

父の口から婚約者の死を告げられ、呆然とするジェア。

ロックは肝心なその理由を聞かれてもはぐらかして答えず、
彼女が遺した婚約指輪を息子に渡して、

「こんな時になんだが・・・なんと言っていいかわからないが・・」

すると息子、

「私もなんて言っていいかはわかりませんが、おっしゃりたいことはわかります」


そして二人は握手をし、永遠に別れたのでした。

 

ロック・トリー准将は怒っていました。

息子の婚約者を無理やり力づくで意のままにし、自殺に追い込んだ男。
信頼してきた部下ですが、上官として、父として、一人の人間として
ポール・エディントンに強い怒りを感じるのは当然です。

「エディントンを探せ!💢」

しかし、ポールはすでにそのとき片道飛行の空の上でした。

ロックの信頼を何もかも失うことになった今では、
彼に残された道はこれしかなかったのです。

まあ自業自得なんですけどね。

旗艦「ジョン・ポール」から勝手に飛んだポール機に無線が入りますが、
自暴自棄に飛行機を飛ばしていることもあり、無線になかなか答えようとしません。

しつこく無線で応答を求められたので渋々通信状況の悪い中やりとりを始めてすぐ、
なんと、ポールは偶然
タイタン岬沖に日本艦隊を認めました。

「全部で17隻、駆逐艦12隻、巡洋艦4隻。
重巡か軽巡かは不明・・・零戦がきた!」

トリー准将が通信を代わり、

「雲の中に隠れろ。PBJでは零戦に勝てない」

すると声の主に気づいたポールは、一瞬にして顔を硬らせ(ダグラス流石の演技力)

「そうしたいが今まで見たことのない『大きなやつ』が気になる。
まるで浮かぶ島だ・・・全長は4ブロック、12門、18インチ砲だ」

「少し前にジャップが作ったという巨艦はなんて言った?
・・・・ヤマト?

「大和だ」

真珠湾の映画だと思ったら大和ですってよ奥さん。

志村ー後ろ後ろー!

・・・・ポール・エディントン大佐戦死。

そしてPBJ空中爆発。

本人覚悟してはいたんでしょうけど、なんというか虚しい最後です。

大和艦隊の目的は、レブバナに一大拠点を作ること。
それが成功すればアメリカ軍の劣勢は明らかです。

ロックは自分の艦隊が上陸班を援護した後、
沖に出て大和艦隊を阻止することを決断しました。

「ところでエディントン大佐の任務はどう記録します」

「正式任務としておけ」

「叙勲の推薦はどうします?」

「ポールはメダルなど欲しがらない。推薦はしない」

彼がやらかしちまって出撃したという「動機」が手に取るようにわかるだけにね。

そして艦隊はついに出撃しました。

進行目標はレブバナです。

夜間、大和を含む艦隊が海図にもない浅瀬を通るなんて、
という士官たちに
トリー准将はこんなことを言います。

「日本海軍には不可能を可能にするという悪い癖があるんだ」
(The  Japanese Navy has a bad habit of doing the impossible.)

そして、機雷敷設と同時に魚雷艇(PTボート)を送る指令を降しました。

「ロック・・・海戦ってどんなのだ」

不気味な「一触即発」を控え、予備将校のパウエルはつい
内心の不安を吐露し始めました。

「多分他と一緒さ。多少うるさいだけだ」

「怖くて骨がカタカタ鳴ってる・・リノのカジノのサイコロみたいに。
俺などハリウッドに戻って戦争映画の脚本を書いているべきだ」

「怖くない戦争なんてないし誰だってこんなところにいたくないさ」

「准将でもか」

「そうだよ」

こちら機雷原に差し掛かった日本艦隊を攻撃するために待機中の
ジェアのPTボート部隊です。

そして駆逐艦が次々と触雷するのを確かめ、出動。

IJNはPTボート部隊に反撃を始めました。
あの、気のせいか大和が機雷艇を主砲で砲撃しているような・・・・・。

んなわけあるかーい!

艇長をやられたPTボートの指揮を受け継ぎ、果敢に魚雷を撃って
攻撃を試みるジェアですが、艦体に「四六」と漢数字で書かれた(笑)
不思議な帝国海軍の駆逐艦に体当たりされ、戦死を遂げました。

魚雷艇部隊は駆逐艦2隻を機雷で、1隻を(ジェアが)魚雷で

「最上」級巡洋艦を撃沈

翌日届けられた死傷者リストを見て、ロックは打ちひしがれます。

日本海軍の艦船は全てが模型で撮影されました。

すこしでもリアリティを出すため中で操縦できるほどの大きさのものが
制作されたということですが、カーク・ダグラスはこの模型のおかげで
映画がすっかりダメになったと酷評したということです。

いや、あなたの演じたエディントン大佐のせいという話もあるよ?

しかしこの映画、なぜよりによって大和なんか出してきたかね。
ダグラスの酷評も最もだと思います。

大和、火災を起こしてるし・・・。
しかし、旗艦には悲痛な声が響きます。

「大和阻止できず!」

「全艦全速退避!」

トリー司令はプロットルームに呼ばれ、そこから指揮をとります。
爆風でガラスがガシャンガシャン破れまくり。

「ブリッジ、指揮官戦死!」

あらー、バーク艦長死んじゃったのか。
ということはこの人はアーレイじゃなかったのね。

もはや崩壊寸前のブリッジにいるロックとマック。



炎の中倒れこんだロック准将をマックが助け起こし、

「総員退艦せよ!」

この場合彼が最先任となったってことなんだろうな。

そして戦いは終わりました。

模型同士の海戦の行方もよくわからないまま場面は代わり、
(大和はいつの間にかアメリカ軍艦を7隻撃沈したらしい)
海の上の病院船(これも模型)が映し出されます。

個室で目覚めたロック、第一声が

「ナース」「ナース」

部屋にいた若い看護師は外に飛び出し、マギーを呼びました。

「聞こえる?ロック」

「マギー・・・」

マギーは目覚めたロックに、3週間眠り続けていたこと、
そして病院船は明日真珠湾に着くことを話しました。

「もう大丈夫・・でもあなたは左足をなくしたの」

そして、士官はマコーネル少佐以外全員戦死したことを告げました。
ハリウッドで脚本を書いていたいと言ったパウエルも死んでしまったのです。

翌日、船は真珠湾に着岸し、マックが見舞いに来ました。

「駆逐艦(tin-can)が我々を拾い上げるまで乗員が付き添ってくれました」

「グレゴリーの落下傘部隊は全滅か?」

そういえばそんなこともあったわね。

「いえ、島の北端で敵を包囲しました。
大和は向きを変えて退却して行きましたよ」

「なぜ?我々は負けたんじゃなかったのか」

そのとき役名CINCPACKII、実はニミッツ(ヘンリー・フォンダ)が
ノックも何もなしで入ってきました。

マギー中尉の敬礼は掌を面に向けていますが、
これは陸軍かオーストラリア軍の敬礼じゃなかったかな。

「君を殺すのは大変だな、准将」(直訳)

「どうも無事にコマンドショットを地獄に落としたようです」(直訳)

「生き残ったことで彼らを裏切ったと感じているのかね」

「まあそんなところです。7隻も艦を失ったんだ。
見事に軍法会議ものでしょうな」

まだ薬が効いてるのか」

「少し」

「訂正してやろう、准将。
パラ水路での戦いは圧倒的な勝利だった。
スカイフック作戦は続行中、敵は敗退している」

そしてダメ押しに、

「軍法会議ではなく国に帰って義足をつけてこい。
そして東京に一緒に戦いにいくから、そのときには
機動部隊のデッキで指揮を執るんだ」

いや、義足で艦隊勤務はちょっと無理なのでは提督。
っていうかこれだけやったんだからもう引退させて休ませてやれよ。
相談役になってUbereatsの配達させられてる島耕作じゃないんだからさ。

 

「よく休め。それが今の仕事だ」

そう提督に言われて眠りに着く前に

「マギー」

ロックが名前を呼ぶと、

「ここにいるわ」

その顔を見て安心したように微笑み、眠りに落ちていく恋人を、
彼女は一人の女性となって見守るのでした。

 

終わり