ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

T-34B メンター「師と仰ぐ訓練機」〜フライングレザーネック航空博物館

2021-11-30 | 航空機

サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館の航空展示、
朝鮮戦争でMiG−15と戦った、あるいは戦うために作られた戦闘機と、
そのMiG−15をご紹介してきました。

時代の流れに則するとなると、次はポスト朝鮮戦争と
冷戦時代ベトナム戦争までの期間になります。

■ ビーチクラフトT-34B メンターMentor



暑い夏のサンディエゴ、カンカン照りの展示場。
しかも平日にこんなところを見て歩く酔狂な人間はわたしだけだろうと思ったら、
ひとりの男性がヤードを歩いているのに遭遇しました。

こんなところに一人で来て、それもちゃんと一つ一つ説明を読みながら
くまなく飛行機を見て歩いている人ってなんなんだろう。
単なる趣味なのか、元関係者か、それとも・・・。

ときっと向こうもわたしを見てそう思っていたに違いありません。


あとは、わたしとその男性ほど長時間ではなく、
一瞬写真を撮るためのようでしたが、
ごらんのようなヒスパニック系の家族がいました。

遠目には赤ん坊はもちろんのこと、この年かさの方の男の子が
飛行機を見て喜んでいるようには見えなかったのですが、
まあ、親というのは、子供の興味を惹きそうなものならなんでも、
とりあえず見せておいてやらねば気が済まない生き物ですのでね。

そんな彼らがバックに撮っているのはその名もメンター
アメリカのドラマを見ていると、「師匠」「指導者」、あるいは
お手本にしている人という意味でメンターという言葉がよく出てきます。

このメンターは練習機で、パイロットにとっての
「良き指導者」という意味がこめられています。


T-34は、ビーチ・エアクラフトウォルター・ビーチが考案しました。
練習機として国防予算の対象となっていなかった時代、
ビーチクラフトは「ボナンザ」という民間タイプをすでに運行していました。

当時、米軍は陸海空全軍でノースアメリカンT-6/SNJテキサン
練習機にしていましたが、安くて使いやすかったテキサンに代わる
経済的な代替機として候補のひとつに上がったのが
ビーチクラフト・モデル45だったのです。

【軍用練習機として】

ボナンザを参考にしたとはいえ、軍用バージョンは民間用と大きく違います。
ループ、ダイブ、ストールといった軍の訓練に必要なストレスに耐えるよう、
本機は特別に構造設計され、そのための空力特性が考慮されました。

テキサンの代替として候補になった後二つの機種は、

テムコ・エアクラフト テムコ・プリーブ(Temco)Plebe

ノースアメリカン/ライアン・エアロノーティカル/タスコ
ライアン・ナヴィオン(Ryan Navion)


USS「レイテ」上のナヴィオン 1950年)

ナヴィオンは制式採用にはなりませんでしたが、
それなりに軍に納入する実績を挙げました。

ちなみに、戦争が終わったとき、ナヴィオンの会社は
戦地に行ったパイロットが帰国して、平和な飛行を楽しむために
小型飛行機を買ってくれるからうちの製品も売れるに違いない、
ととらぬ狸の皮算用をしていた節がありますが、
戦後の民間航空ブームは、メーカーが想定していたほどには起こりませんでした。



とはいえナヴィオンは1948年の初飛行に始まり、現在もアクティブです。
2020年になっても生産が続いており、素材や性能をアップデートしながら
新しい機種を生産し続けているのです。

そしてそれは誰にでも簡単に操縦できることで民間に広く流通しているのだとか。

しかし、もう一つの候補機、テムコのプリーブはメンターに負けた時点で
民間での販売も軌道に乗ることはありませんでした。

ここでふと思ったのですが、「プリーブ」の意味って、
兵学校の1年生(最下級生)じゃないですか。
パイロットが最初に乗る練習機だから、と、この名前になったのでしょうね。

しかし正直、練習機を「ひよっこ」ではなく「良き指導者」に見立てた
「メンター」の方が、ネーミングとしてはナイスセンスという気がします。

純粋に機能や使いやすさが選考の決め手になったのだとは思いますが、
もしどちらか迷ったら、名前がキャッチーなこともも選ぶ要素になってきますよね。
(ここ伏線ね)

ちなみにNavionという名前もおそらくナヴィゲーターから来ていて、
「導く者」というイメージだと思われます。
これもどちらかといえば指導者目線です。

【海軍のメンター】

資料によると、ナヴィオンはそれなりに軍に導入されましたが、
テキサンの後継として正式に訓練機に制定されたのはメンターでした。

ところで、当時アメリカ合衆国国防総省には(今はどうだか知りませんが)、
別の軍(今回は陸海空全軍)同士で同じ航空機を使用する場合、
研究開発費の分担を義務付ける規則がありました。

同じ機体なんだから、開発は予算を分け合って仲良くやってね、というわけです。

しかしながら、
スカンクワークスの生みの親、ケリー・ジョンソンいうところの、

「忌まわしく、自分たちが何を望んでいるのかすらわからず、
技術者が心臓を壊す前に、彼らを壁に追いつめる」ところの海軍

は、メンターは欲しいが、研究開発費はもっと欲しいと思っていました。
もっとというのは、つまり「独り占めしたい」ということでよろしいか。

(ジョンソン曰く)自分たちが何を望んでいるか分からなくても、
とりあえず欲しいものははっきりしていたようですね。

そこで海軍が取った解決策の1つは、航空機に十分な変更を加えることでした。
こうすると、海軍の開発した新型機として「分類」されます。

そこで海軍、

キャスター付きのノーズホイール
ノーズホイール操舵の代わりにデファレンシャルブレーキ採用
調整可能なラダーペダル(パイロットの身長差に対応)
垂直方向にしか調整できないシート
主翼の上反角(翼の基準面と水平面のなす角)を1度増やした
昇降力を高めるためのスプリングシステム

ラダー基部の小さなフィレットを削除
バッテリーシステムを変更
(そのためバッテリーコンパートメントのドアが膨らんでいる)

など、思いつく限りのありとあらゆる変更を加え、おそらくは
新型機として予算を獲得するのに成功したのだと思われます。

しかしまあ、海軍の気持ちはわからんでもありません。
そもそも海軍は空軍とは同じ飛行機でも運用の仕方が全く違います。

空軍はできあがったものをそのまま運用できますが、
当時の海軍は(いまでもか)そういうわけにはいかないので、
海軍仕様に変更を加えなくてはならないのに、
他軍と予算を分担、ではそりゃ面白くないでしょう。

その結果、ビーチエアクラフトは、空軍用にT-34A
少し遅れて海軍用にT-34Bを配給しました。

陸軍はというと、海軍が使用したターボ式T-34Cのお古を
少数、訓練機として受領しています。

陸軍は練習機にはあまり拘ってなかったようです。

【海軍仕様T-34Cの運用】

T-34Bは、1954年に423機が生産され、1958年に完成しました。

全国の司令部飛行隊にも配属され、海兵隊や海軍の元パイロットの
年次飛行(熟練した技術を維持するための訓練)にも使用されました。

T-34Bは、1970年代半ばまでは海軍航空訓練司令部の初期初等練習機として、
1990年代初頭までは海軍徴兵司令部の航空機として運用されていましたが、
最後の1機が退役したあとは、海軍航空基地や海兵隊航空基地の
フライトクラブの備品として、米海軍の管理下で運用されているようです。


1975年以降、海軍の学生飛行士のための新しい主要な飛行訓練機として
タービンエンジンを搭載したT-34Cターボメンターが導入されて、
従来のノース・アメリカンT-28トロージャンに置き換えられていきました。

1980年代半ばには、フロリダ州ペンサコーラで
海軍飛行士の基礎訓練機としても使用されるようになりました。


その後T-34Cは、米海軍、米海兵隊、米沿岸警備隊の学生海軍飛行士や、
米海軍の支援の下で訓練を行う様々なNATO/同盟/連合軍
学生パイロットの主要な訓練機として普及しました。

この同盟軍の中には、我が日本国自衛隊も含まれていることは
おそらく皆さんもよくご存じですね。

陸自のメンターT-34

畑とビニールハウスの田園光景に恐ろしいくらい全く違和感なく馴染んでいます。

空自のメンター

入間基地かな?

日本では最初に1保安庁(現防衛省)が初等練習機を50機導入し、
富士重工業(旧中島飛行機)がライセンス生産を行いました。
陸上自衛隊用に連絡機を、海上自衛隊向けにKM-2が製造されています。

KM-2

Kは「改造=KAIZOU」のKMは「メンター」のM
自衛隊での愛称は「こまどり」だった模様。

絶対冗談で「こまどりじゃなくてひなどり」
とか言われてたんだろうなあ。


この他にも、メリーランド州の海軍航空試験センターや、
バージニア州オセアナ、カリフォルニア州ルモア、そして
ここカリフォルニア州ミラマーのFRS、
ネバダ州ファロンのNSAWC(海軍攻撃航空戦センター)で、
F/A-18艦隊代替飛行隊やストライク・ファイター兵器・戦術学校の
空中偵察機として使用されているT-34Cがあります。

デビューして16年後、T-34Bは、より強力でコスト効率の高い
プラット・アンド・ホイットニー社製ターボプロップエンジン(PT6A-25)
を搭載したT-34Cに置き換えられました。


【FLAMのメンター】

展示されている機体は、22機目のT-34Bです。
1955年8月10日に海軍に受け入れられ、
おもに海軍飛行士の訓練機として名、前通りのメンターな生涯を送りました。

1976年以降はいくつかの基地の飛行クラブで余生を送り、生涯を終えています。

この「飛行クラブ」の実態がいまいち分からないのですが、
例えば海軍の飛行クラブの説明は、

「海軍フライングクラブは、現役の船員やその他の認定された利用者に、
操縦、ナビゲーション、航空機のメカニック、その他、
関連する航空科学を含む航空技術のスキルアップの機会を提供しています。
現在、5つのネイビー・フライング・クラブが米国内の各基地に設置されています」

ということです。
退役後の再就職のために資格を取る施設とかそういうのかしら。

 
【メンターの後継機】

1990年代初頭、アメリカ空軍とアメリカ海軍は
統合基本航空機訓練システム計画(JPATS計画)
を発表しました。
これは何かというと、訓練機を統一して合理化計画を図ったということです。

わたしは、わずか40年で、海軍と空軍が予算を取り合っていがみ合っていた
(文句言ったのは海軍だけだったという噂もありますが)恩讐を超え、
訓練機を統一する英断に至ったことに感動しました。

仲良きことは美しき哉。

そもそも練習機を統合することで、コストを削減でき、
部品や整備、操縦の互換性を高め、コストを大幅に削減でき、
航空機製造メーカーにとっても無駄がなく、いいことづくめです。

この結果、

レイセオン・ビーチ PC-9 Mk.II T-6 テキサンII

が採用され、現在運用されています。

AT-6C Texan II
メキシコ空軍もテキサンIIを運用中

この名前、往年を知る元パイロットには胸キュンに違いありません。
たかが訓練機、されど訓練機。
訓練機のネーミングって、大事なんです。
パイロットの最初の「指導者」になる飛行機ですからね。

ただ、このテキサンII、タンデム(縦列)複座配置で
教官のフォローが難しく、性能も高すぎて初心者には難しいので、
米軍、初等練習機としては、より小型のT-53Aなどと併用しているそうです。

ここでさっきの伏線を回収しますが、この訓練機選定の際、
もう少し初等訓練機にふさわしい、扱いやすいのがあったのに、軍の偉い人たちは
「テキサン」というだけでついつい選んでしまった
ってことはなかったのでしょうか。

だとしたら、やっぱり名前って販売戦略上においても大事ってことですね。


続く。



パンサーとクーガー MiG-15との戦いを経て〜フライングレザーネック航空博物館

2021-11-28 | 航空機

フライングレザーネック航空博物館の航空機展示より、
今日は、朝鮮戦争でMiG−15と戦ったパンサーと、
そのパンサーの教訓を生かして設計されたのに、
結局あまり脚光があたることのなかった、
「不遇戦闘機」クーガー(の写真偵察バージョン)をご紹介します。

■グラマン F9F-2 パンサーPanther


パンサーは、海軍初の空母艦載用ジェット戦闘機として成功した機体の一つです。

バンシーは朝鮮戦争で重要な役割を果たしましたが、
それでも実績においてパンサーには及びませんでした。

海軍と海兵隊で最も広く使用されたジェット戦闘機で、
朝鮮戦争では78,000回以上の出撃を行いました。

グラマンという会社は傾向として新技術に慎重な姿勢であったため、
航空機メーカーの中でいちばん最後にジェット機製作に突入しましたが、
後発なりの調査が生きたというところかもしれません。

F9Fのエンジンには、イギリスのロールス・ロイス社製の
遠心流動式ターボジェットエンジン「ニーン」が採用されました。
これは奇しくも同時代の敵、MiG−15(クリモフVK-1ターボジェット搭載)
が積んでいる動力と同じものでした。

このため両機の胴体後部の形状は大変似ているといいますが、


ご参考までに。
ニューヨークのエンパイアステート航空博物館に行った時撮った
MiG−15の後ろ姿です。
この角度からだと、そんなに似てるかな?って感じですが。


しかし、グラマン社は、新しいエンジンを導入すると、
機体の開発プロセスが複雑になるのでこれを嫌がりましたし、さらに
米国議会は、生産機用に外国製エンジンを輸入してはならないと定めていたため、
海軍はプラット・アンド・ホイットニー社に、
米国内でニーンエンジンを生産するライセンスを取得させました。


1950年12月7日に朝鮮半島に到着したVMF-311は、
海兵隊のジェット戦闘機の中で最初に戦闘に使用された陸上機であり、
地上の海兵隊や兵士のために近接航空支援を行いました。

1952年6月下旬には、スイホー・ダムの攻撃に参加しました。
(『ダムバスターズ』ですねわかります)


この時代の伝説的なパイロットには、前回ご紹介した
後の宇宙飛行士ジョン・グレン上院議員のほかに、
野球選手のテッド・ウィリアムズなどがいます。

【テッド・ウィリアムズ】


海軍予備軍に入隊したテッド・ウィリアムズは、1944年
海軍飛行士としてアメリカ海兵隊の少尉に任命され、
民間人パイロット養成コースを受けたあと、
予備軍に籍を置いたままボストン・レッドソックスでプレーしていましたが、
朝鮮戦争が始まると召集されました。

ウィリアムズにはパイロットとしての才能があったようで、
訓練では大卒の士官候補生が1時間かかる複雑な問題を15分でマスターし、
空中射撃では標的を文字通りズタズタにするほどの腕前だったといいます。

戦闘機パイロットの能力を競い合うテストでは、
反射神経、協調性、視覚反応時間、すべての歴代記録を更新し、
その操縦技術は、さながら芸術のごとし。

同期のパイロット曰く、

「飛行機と6つのキイ(機関銃)を交響楽団のように演奏することができた」

ちょっとよく意味が分からないのですが、おそらく彼は
交響楽団の指揮者のように、と言いたかったのではないかと思われます。

WW2でF4Uコルセアに乗っていた彼は、朝鮮戦争が始まると
海兵隊大尉として現役に呼び戻されました。

戦場に出なくてすむように、野球選手として従軍野球チームのメンバーに入り、
(広報の意味があるので猶予された)そこで快適に戦争をやり過ごす、
という道もあったのですが、彼は再び自分の意思で航空任務に就きました。

といっても、決して喜び勇んで出征したわけではなく、
むしろ招集されたことに怒りを表明していたという話もあります。

ウィリアムズは1952年からF9Fパンサージェット戦闘機の資格を取り、
海兵隊航空機グループ33(MAG-33)のVMF-311に配属されました。

1953年、ジョン・グレンのウィングマンとして飛行していたウィリアムズは、
機体に対空砲火を受け、胴体着陸をして辛くも生還し、
負傷をしたのでそれをきっかけに退役して球界に復帰しました。


ジョン・娘、アニー・グレン

ちなみにジョン・グレンはウィングマンとしてのウィリアムズを
自分が知っている中で最高のパイロットの一人だった、と評しましたが、
グレンの妻のアニーは彼を、
これまでに会った中で最も不敬な男
と言ったそうです。

何をやったウィリアムズ。


2002年ボストン・レッドソックスのホームグラウンド、
フェンウェイ球場で行なわれた
「テッド・ウィリアムズ・トリビュートデー」の写真。
球場には彼のパイロット時代のコクピットの写真が飾られています。

朝鮮戦争で兵役に行っていなければ、野球選手としての記録を
もっとのばすこともできたと思われますし、先ほども書いたように
招集されたことにも怒りすら表明していた、
というウィリアムズですが、そこは彼の、

「かくすれば斯くなるものと知りながら やむに止まれぬヤンキー魂」

のなせるわざだったのかもしれません。しらんけど。

他にパンサージェットに乗った野球選手としては、
ヤンキースの二塁手だったジェリー・コールマンがいます。

ジェリー・コールマン ブロンズ像(ぺトコパーク ロスアンジェルス)

【FLAMのパンサー】

1949年、VMF-115は海兵隊で初めてグラマンF9F-2パンサージェット機を装備し、1952年2月には韓国の浦項に派遣され、戦闘活動を行いました。

9,250回の出撃で合計15,350時間の飛行時間を記録し、19機の航空機を喪失。
1日に6人のパイロットが機体とともに失われ、
合計14人のパイロットが戦死したこともあります。



VMF-115「シルバーイーグル」飛行隊の編隊飛行

展示されているF9F-2パンサーは、1950年アメリカ海軍に納入後、
空母「ボクサー」USS Boxer, CV/CVA/CVS-21の艦載機部隊に配属され、
朝鮮半島の空で活躍しました。

この機体は、フライング・レザーネック航空博物館の設立にも貢献した、
西海兵隊航空隊司令官のウィリアム・ブルーマー准将
大尉時代搭乗したVMF-311の機体塗装が施されています。


■ グラマン F9F-8P ( RF-9J) クーガ Cougar



【パンサーの派生型】

グラマンF9F/F-8クーガーは、アメリカ海軍と海兵隊のために開発された
空母艦上専用の戦闘機です。

MiG-15がまだ世に出る前から、アメリカは
ソ連が後退翼機を開発したという情報を耳にしていました。
しかし、前にも書きましたが、海軍は後退翼の導入に消極的でした。

この理由はいくつかありますが、まず海軍の主眼だったのが
迎撃機による高速・高高度爆撃機からの戦闘群の防衛と、
あらゆる天候下での中距離空母艦載機の護衛だったからで、
1、空対空戦闘には関心を持っていなかったこと、
2、空母という狭い場所での発着艦を行うためには、
どうしても制御の点で直線翼の方が理にかなっていたからです。


しかし、直翼を持つF9Fパンサーは、いざ実戦に投入されると、
MiG-15や空軍のF-86など、後退翼を持つ戦闘機に比べると
性能的にイマイチということが顕になりました。

F9FパンサーがMiG-15を撃墜したことももちろんありましたが、
基本的に旋回翼を備えたMiG-15の高速機動性には及ばなかったというわけです。

そこで海軍としては、代々頑丈で扱いやすいことで定評があった
ワイルドキャットに始まるグラマンの猫戦闘機である
パンサーに後退翼さえつければなんとかなるはず、と考えたのでした。

グラマンは海軍の要求に応えるために、

1、フラップを大きくする
2、自動の高揚力装置(スラット)をつける
3、主翼の上面にブレーキ(スポイラー)をつける


ことで推力とそのコントロールを可能にしました。

急降下において音速を破ることもこれで可能になったのです。
ちなみに、パンサーとクーガーの設計図を並べて比較しておきます。






つまりクーガーはMiG-15との戦いの経験を経て生まれたのです。

戦争というものが良くも悪くも、科学技術の”実験場”であり発展のきっかけである、
ということをよく表している例ですね。

「クーガー」という異なる正式名称がつけられたものの、
海軍はこれを「パンサーのアップデート版」つまり同じ機種とみなしていました。




【運用】

関係各位の努力の結果、クーガーは、パンサーよりも高い機動性を備え、
操縦しやすい戦闘機として評価されました。

しかし残念なことに、クーガーは朝鮮戦争で使用されるには遅すぎました。

結局MiG-15と交戦する「実験」はなされないまま戦争が終わり、
クルセーダーやスカイホークのようなより速くて新しい戦闘機が出てくると、
一線を知らぬまま自動的に陳腐化の運命を辿ったのです。


というわけで、クーガーはベトナム戦争ではほぼ出番なし。
唯一戦闘に参加したクーガーは、TF-9J練習機で、
空爆の高速前方航空管制と空挺指揮を行なった1機に止まります。

先代のフォトパンサーを受け継ぐ形で
写真偵察機に改造されたクーガーもいましたが、4年ほど運用したのち
1958年から超音速のF8U-1Pフォトクルセイダーに置き換えられ、
最後のF9F-8Pは1961年初めに退役しました。

【飛行特性】

F9FクーガーとノースアメリカンFJ-3フューリーの両方に搭乗した
パイロット、コーキー・メイヤー(Corky Meyer)は、後者に比べて
クーガーは急降下速度限界が高く(マッハ1.2対マッハ1)、
操縦限界も7.5g(対6g)と高く、耐久性も高いと述べています。

もっともフューリーもエンジントラブルが多く、
そう評判のいい機体というわけではなかったのですが、
クーガーはそれより配備期間も短く短命でした。

直接の原因としては、F9Fクーガーはなまじ多用途でなんでもできたため、
専門の戦闘機に比べて選択を避けられがちだったことがあります。
器用貧乏とでもいうのか、なんでもできることがアダになったんですね。

つまり、クーガーは戦闘機として致命的な欠点があったというよりも、
ただひたすらタイミングの問題で、A4D-1スカイホークなどの
新型ジェット機に取って代られる過渡期に全盛期を迎えてしまったのです。

戦闘機にもデビューのタイミングが悪く、日の目を見ない不運があるとすれば、
それはまさにクーガーそのものの運命でした。


というわけで、実際の配備についても書いておくと、最初のF9F-6は、
1952年末に艦隊飛行隊VF-32に配属されました。
実際に配備された最初のF9Fクーガー飛行隊はVF-24で、
1953年8月にUSS「ヨークタウン」に配属されたものの、
朝鮮半島での空戦に参加するには遅すぎたというわけです。


F9F-8は1958年から59年にかけて第一線から退き、
F11FタイガーやF8Uクルセイダーにその座を明け渡した後は
1960年代半ばまで海軍予備軍が使用していました。

【大陸横断速度記録】

しかし、クーガーの能力を示すこんな記録もあります。
アメリカ海軍は1954年、F9Fクーガーで大陸横断記録を樹立しているのです。

艦隊戦闘機隊の3人のパイロットが23,924kmの飛行を4時間以内に終え、
F・ブレイディ中佐が3時間45分30秒の最速タイムを記録しました。

この距離を4時間以内で飛行したのは航空史上初めてのことです。
3機のF9F-6はカンザス州上空で、
ノースアメリカンAJサベージから空中給油を行いました。


【ブルーエンジェルス】

アメリカ海軍の飛行デモンストレーションチームであるブルーエンジェルズは、
1953年、使用機をF9F-5パンサーからクーガーに入れ替えていますが、
これは4年しか続きませんでした。(理由はわかりません)

海軍はその後クーガーを決して航空ショーに使用することなく、
艦載機としてのみ使用することになりました。

ブルーエンジェルスは結局グラマンF11F-1タイガーを選択し、
2人乗りのF9F-8Tが1機、報道関係者やVIP用になっていたということです。


【アルゼンチン海軍】

F9Fクーガーを使用した唯一の外国空軍は、アルゼンチン海軍航空隊で、
1971年まで現役で運用していたようです。
その結果クーガーはアルゼンチンで初めて音速を破ったジェット機になりました。

1機は今もアルゼンチンの海軍航空博物館に展示されていますが、
もう1機はアメリカの個人に売却され、
その後、事故で失われてしまったということです。


【FLAMのクーガー】

FLAMに展示されているF9F-8Pクーガー(案内にはパンサーと書かれている)は、
1950年代に生産された110機の写真偵察機のうちの1機でです。

砲や関連機器を廃止し、写真機器や自動操縦装置を搭載るなど、
3つのカメラステーション用のスペースを確保するため、
一般的なクーガーより機首が長くなっています。

ほとんどの標準的な海軍の写真偵察機は、
最大7台のカメラを設置した三つのベイを持っていました。

自動カメラ制御システム、画像モーション補正システム
自動速度と高度情報用の移動グリッドを備えた
ビューファインダースキャナも内蔵されています。

これらのシステムを使用すると、昼夜を問わずフォトクーガーは
偵察やマッピングを行うことができました。

低高度、中高度、高高度つまり全ての高度における写真偵察が可です。

1960年に寿命を迎え、偵察機は当館でも展示されている
クルセイダーF8U-1P(RF-8)に置き換えられました。

当機は、1956に海兵隊に納入されたそうですが、
我々日本人にはちょっと興味深いことに、その後
海兵隊複合偵察飛行隊3(VMCJ-3)に配備されたため、
その耐用年数が切れるまでMARS岩国で過ごしていたそうです。

1959年、飛行時間1,196時間が経過した後、
NASアラメダの海軍兵器局に保管され、翌年退役しました。

続く。




朝鮮戦争の戦闘機バンシーとスカイナイト〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-26 | 航空機

さて、前回朝鮮戦争時に彗星のように現れた
ソ連の戦闘機、MiG-15についてお話しするとともに、
そのMiGと対戦した海兵隊航空隊のエースをご紹介しました。

紹介した3人のエースはともに第二次世界大戦のベテランで、
(一人はエースではないけれどプロペラ機でMiGを撃墜する、
という大金星を挙げたパイロットだったわけですが)、
前者2名はいずれもF35セイバーで撃墜記録を立てました。

今日ご紹介するのは、「前セイバー」というべき、
「いうてはなんだがMiGに苦戦した戦闘機」のご紹介です。

■マクドネル F2H2 バンシー Banshee

以前、「バンシー」を単に妖精の意味であるとだけ書いたことがありますが、
妖精と言ってもその辺をふわふわしている可愛いものではなく、
どちらかというと「もののけ」というか「妖怪」だったことがわかりました。

バンシー(Banshee)はアイルランドおよびスコットランドに伝わる
伝説上の生き物で、その叫び声が聞こえた家では
近いうちに死者が出るとされています。
その叫びは凄まじく、目はこれから死ぬ者のために泣くので
燃えるような赤色をしているとか・・・。



第二次世界大戦中、イギリス国民は、ロンドン空襲を知らせるサイレンを
「バンシーの叫び」と呼んでいました。

ここにあるバンシーの機体は真っ黒に塗装されていますが、
「敵の死を知らせるために叫ぶ」魔女のイメージそのものです。

【バンシーの歴史】

マクドネルF2Hバンシーは、1948年から1961年まで
アメリカ海軍と海兵隊で使用された単座の空母型ジェット戦闘機です。
朝鮮戦争ではアメリカ軍の主要な戦闘機の一つでした。

高高度で高性能を発揮したため、当初はアメリカ空軍が
長距離爆撃機隊の護衛機として運用していました。

しかし、戦争が進むにつれ、海軍と海兵隊の戦闘機の任務は、
近接航空支援や北朝鮮軍の補給線の破壊など、
主に地上攻撃が中心となっていきます。

バンシーはFHファントムの発展型ですが、
ファントムが生産される前から計画されていました。


FH-1

こうしてみると、派生型であることがよくわかりますね。

マクドネル社の技術者たちは当初、ファントムを改良して
多くの部品を共有するという予定をしていたのですが、
武装も燃料タンクもより大きなものである必要があるのに気づきます。
そこでバンシーはファントムより機体を大型にしました。

ところで、バンシーがMiG−15に劣っていた点はなんだったしょうか。

バンシーのような朝鮮戦争当時の海軍のジェット機は、
後のジェット機とは対照的に主翼がまっすぐでした。



ジェット機をより高速に飛ばすためには、翼を広げればいいのですが、
そうすると空母への着艦が困難になってしまいます。

海軍は当初翼端を折る形のジェット機の使用に抵抗を持っていたため、
機体を大型にしたのに翼を大きくすることができないバンシーは
どうしてもMiG-15などの先進的な戦闘機に対して不利だったというわけです。

【偵察機としての活躍】

しかし、バンシーは決して”役立たず”だったわけではありません。

戦争が始まってすぐ英米空軍が航空優勢となったこともあって、
海軍の戦闘機がいるところまで滅多にMiGは来なかったからです。

ガチンコでMiGと交戦すればおそらく勝てなかったと思われますが、
前線にはすでにF35セイバーが投入されて戦闘空中哨戒を担っていたので、
バンシーはその高速性能を生かして偵察機として活躍しました。
特に高空を飛ぶと地上から視認されにくい形をしていたこともあります。

1949年から1952年にかけて、海兵隊では2つの飛行隊がF2H-2を飛行させ、
J-1バンシーは最高の写真偵察機という称号を得ました。

バンシーの偵察隊は「抵抗線」から中国国境の鴨緑江まで飛び、
撮影した写真の総数は、極東空軍のどの偵察部隊よりも多かったと言われます。


バンシーは通常はF-86戦闘機に護衛されて飛んでいましたが、
Mig-15と交戦することがなかったわけではありません。

しかし、朝鮮戦争期間の撃墜及び戦闘喪失記録はなく、
わずかに対空砲で3機が撃墜されただけとされます。

VMJ-1の有名な下士官パイロットの一人、MSGT. エド・チェスナット
こんなことを言っていたそうです。

「もちろんさ、F2HはMigに勝つことができるよ。
リベットがいくつか飛んでいくのを気にせず急降下しさえすればね!」

これは・・・(勝てるとは言ってない)


朝鮮戦争後、第二次世界大戦のエースであるあのマリオン・カール中佐
VMJ-1のバンシー隊の司令官に就任しました。
そして、中国上空での写真撮影任務において功績を挙げ、
飛行隊と自らの名声を高めました。


偉くなってからのマリオン・カール(最終少将)

【バンシー時代の終焉】

バンシーの後継はF9Fパンサーと同じくF9Fクーガーであるとされています。
時期的にはどっこいどっこいですが。

第二次世界大戦時にF-4Uコルセアを使用したVMF-114とVMF-533は
1953年にF2H-4バンシーでジェット時代に突入しました。

両飛行隊はMCASチェリーポイント海兵隊基地を拠点とし、
1957年にF9Fクーガーに移行するまでいくつかの空母に搭載されました。

しかし、VMF-214は1953年にF9Fパンサーを
新しいF2H-4バンシーと交換しています。

その後の15ヶ月間、部隊通称「ブラックシープ黒い羊」は、
計器飛行、爆撃、ロケット弾、機銃掃射、空対空砲術、空母着陸訓練、
空母の資格取得、高・低空での特殊武器投下など、
海兵隊航空のあらゆる側面をカバーし、
海兵隊で初めて特殊武器投下の資格を取得した飛行隊となりました。

そして1957年2月、「黒い羊」FJ-4フューリーに移行しました。

ところでこの
「特殊武器スペシャルウェポンのデリバリーとドロップ」の資格
これはなんなのでしょうか。
バンシーは小さすぎる気がするのですが・・やっぱり核ですか?


展示されているバンシーは、1951年にアメリカ海軍に納入されました。
1954年2月には、第1空母グループとともに
USS「ミッドウェイ」(CVA-41)に搭載されて
世界一周クルーズに出撃ししています。

1959年には、エンジンの研究開発のため、カンザスシティの
ウェスチングハウス・アビエーション・ガスタービン部門に貸与されました。



1961年に1,704時間の飛行時間で引退したこの機体は、
VMF-122の「キャンディ・ストライパーズ」のマーキングが施されています。


■ ダグラスエアクラフト F3D スカイナイト Skyknight


真っ黒な艶消しの機体、赤で書かれた機体番号。

さきほど、だいたい同世代の朝鮮戦争参加機、バンシーを取り上げましたが、
「奇声をあげるとその家の誰かが死ぬ」という、
一体なんのために生きているかわからない妖怪バンシーの
「目が赤い」という特徴を表しているのは、
バンシーよりこちらではないかと思いました。

ただし、黒い機体はスカイナイトの標準仕様ではありません。


これが標準仕様スカイナイト。

ダグラス・スカイナイトの風貌は決してグラマラスとは言えず、
どちらかというとありきたりのデザインで、性能も平凡でした。

この飛行中の写真を見ても、あまり魅力のあるシェイプとは言い難いですね。

しかし、このスカイナイトの設計者の名前を聞けば、
この平凡さにも、なんらかの意味があるのではないか、と
おそらく誰しも思うに違いありません。

その名はエド・ハイネマン

今更いうまでもなく同時代の航空設計のトップであり、
第二次世界大戦中のダグラス・ドーントレスや、A-4スカイホークを生み、
1953年にはF4Dスカイレイでコリアートロフィーを受賞した鬼才です。

ハイネマンがスカイナイトの設計思想に込めたのは、
「スポーツカーではなくセダン」。

そしてそれは当時の海軍が必要していたものであり、
ハイネマンはまさに彼らが望んでいたものを形にし提供したのでした。



驚くべきことに、スカイナイトは20年もの間、
より速く、より軽快な同時代の戦闘機を簡単に凌駕し続けました。

スカイナイトはアメリカ海軍・海兵隊初の全天候型ジェット戦闘機です。
海軍は1945年にはジェットエンジンを搭載した
空母ベースの夜間戦闘機の研究を開始していました。

1946年には企画となり、そして1948年には試作機が飛び、
1950年には運用が開始されて20年間主力であり続けました。

「Willy the Whale (鯨のウィリー)」

これがスカイナイトのニックネームです。
鯨のウィリーとは、ディズニーのキャラクターで、
ミッキーマウスなどが登場するテレビ番組に
オペラ歌手という設定で出てくる脇役なんだそうです。


ディズニーなので一応目隠ししておいた

これですが・・・パイロットなら膝を打って納得するような
類似点がきっとあるのに違いありません。

【朝鮮戦争でのF3D スカイナイト】

1950年に朝鮮戦争が始まるとさっそく投入されたスカイナイトは、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊VMF(N)-513のパイロットや、
レーダーオペレーターなどの有能な乗り手によって、その価値を証明しました。

複座式のF3Dは、朝鮮戦争に参加した全天候型ジェット戦闘機としては
海軍の他の単座式戦闘機より多い空中戦勝利数を記録しています。

最初の空対空勝利は1952年11月2日の夜。
ウィリアム・T・ストラットンJr.少佐とレーダーオペレーターの
ハンス・C・ホグリンド曹長が操縦するF3D-2が、
Yakovlev社のYak-15と思われる機体を撃墜し、
ジェット機による初の夜間レーダー迎撃に成功しています。

最初にMiG-15に勝利したのはその6日後の11月8日、
O.R.デイビス大尉D.F. フェスラー軍曹のスカイナイトです。


デイビス大尉

当初12機投入されたスカイナイトは1953年には倍に増え、
夜間爆撃任務のB-29スーパーフォートレスの護衛が可能になりました。

B-29の護衛任務で交戦した敵機を相手に
スカイナイトは順調に勝利数を伸ばしていきます。

MiG-15のような後退翼も、高い亜音速性能も持ちませんでしたが、
強力な火器管制システムがあったため、夜間の戦闘は
地上のレーダーに誘導を頼るしかなかったほとんどのMiGより有利でした。

【ポスト朝鮮戦争】

朝鮮戦争が終わると、ダグラス・エアクラフト社は
海軍や海兵隊と協力して、多くのスカイナイトを多機能に改造していきます。

スカイナイトは機体三箇所に独立したレーダーを備えていました。
機首に設置されたサーチレーダー追跡レーダー
そして後部胴体に設置された尾翼警告レーダーです。

スカイナイトの胴体が「鯨のウィリー」呼ばわりされるほど広くて
深かった(つまりデブっぽい)のは、初期に搭載された
真空管レーダーが大きかったからであり、複座の乗員の座席位置も
エンジンの位置(胴体下部の外側)もそれで決まったようなものです。

索敵レーダーは1950年代初頭としては驚くほど効果的で、
爆撃機サイズの目標を20マイル(32キロ)先から、
戦闘機サイズなら15マイル(24キロ)先の存在を捉えることができました。

追跡レーダーは3600kmの距離でロックオンし、
スカイナイトを発射位置まで誘導することができます。
尾翼警告レーダーは、約6キロ後ろに迫った攻撃機を検知することができ、
乗組員に十分な反応時間を与えることができました。

スカイナイトの脱出システムは非常にユニークなものでした。
ハイネマンはパワー不足の機体を軽量化するため、
射出座席を廃止して座席の後ろから滑り出すシステムを作りました。

朝鮮戦争でのスカイナイトの戦績は8勝0敗であり、
護衛した空軍のB-29は1機も失われませんでした。

喪失機は2機ですが、原因はいずれも不明とされます。

【ベトナム戦争】

スカイナイトは朝鮮戦争で活躍した戦闘機の中で唯一、
ベトナム戦争でも飛行しました。

広い機内に電子機器を搭載するための十分なスペースが確保されていたため、
改造された6機のEF-10Bが電子戦に投入されたのです。

電子戦機(EW)スカイナイトSA-2地対空ミサイル(SAM)
追跡・誘導システムを妨害するための貴重な電子対策(ECM)武器でした。

電子戦でスカイナイトが歴史に名を刻んだ瞬間があります。

1965年4月29日、EF-10Bは米空軍の攻撃任務を支援するために
海兵隊初の空中レーダー妨害任務を遂行し、成功しました。


ベトナムでは多くの米軍機がソ連の高高度ミサイルSA-2によって失われており、
これらのレーダーシステムへの電子攻撃は
「フォグバウンド」(濃霧で立ち往生すること)ミッションと言われていました。

EF-10Bスカイナイトが最初に喪失したのもこのミサイルの攻撃です。

その後4機のEF-10Bが事故などで失われたのをきっかけに、
次第にその任務は、EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」
徐々に引き継がれていき、
米海兵隊は1970年5月に最後のEF-10Bを退役させました。


【ベトナム後】

しかし、海軍は引き続きF-10スカイナイトを
APQ-72レーダーを開発するためのテストベッドとして使用していました。

F-4ファントムの機首を追加したり、スカイホークの機首をくっつけたり、
レドームを改造したりしていたようです。


【FLAMのF3D-2スカイナイト】

ダグラス・エアクラフトのエル・セグンド工場で製造された
36機目のF3D-2で、1952年3月に海軍に引き渡され、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊542(VMF(N)-542)に2年間所属し、
パイロットやレーダーオペレーターの訓練に使用されていました。

その後米海軍の航空機乗組員の夜間訓練隊、北米防空司令部(NORAD)、
海軍戦闘情報センター士官学校の訓練機などを転々と。

カリフォルニア州チャイナレイクの研究開発試験評価ユニットでは
A-4Eの機首がボルトで取り付けられていたそうです。

その後レイセオン社とアメリカ陸軍に貸与されて
パトリオットミサイルのテストのサポート機が最後の職場となりました。



ところでスカイナイトの傍には、爆弾を利用した
このような構造物がひっそりとたたずんでいました。

この役割は「展示に登らないように」という注意札の置き場所。
それだけのためにわざわざ砲弾をぶつ切りに・・・。


続く。


MiG-15 vs.フライング・レザーネックス(海兵隊航空隊)〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-24 | 航空機

フライング・レザーネック海兵隊航空博物館の戸外展示、
第二次世界大戦期を終わって、今日は戦後から
朝鮮戦争のころの航空機をご紹介します。

■ ミコヤン・グレヴィッチ MiG-15ファゴット(Fagot)

まず冒頭写真のMiGからです。
これまでわたしが訪れた航空博物館のほぼほとんど全部に
このMiGが展示されているのには驚かされます。

その理由は、ソ連がこの機体を大量生産し、それが
アメリカに流れてきて、個人所有することができたからです。
一般人が趣味でMiGに乗ることができたんですね。

ここにあるMiG-15にはファゴット(Fagot)という
NATOによるコードネームが付けられています。
ファゴットというとフランス語のバスーン、楽器のことだと思いますが、
どの辺がファゴットなのかいまいちわかりかねます。

【MiG-15ファゴットの歴史】

MiG-15は、後退翼(Swept-wing)を持ち、超音速を実現した
世界初のジェット戦闘機のひとつです。

先日来、「第二次世界大戦の戦闘機エース」シリーズで、
その頃のソ連の航空技術が英米独に水を空けられており、そのせいで
対ソ連機戦は他国の戦闘機パイロットにとって「貯金箱」と化していたことを
あらためて如実に知ることとなったわけですが、
この屈辱的な事実に「激怒」したのがかのヨシフ・スターリンでした。

スターリンは怒りに任せて開発を推し進めるよう大号令をかけました。
まずはドイツのメッサーシュミット262を鹵獲してそれを徹底的に研究。
Me-262は世界で初めて戦闘機として成功したジェット機です。

その甲斐あって、ソ連は宿敵アメリカより先に
後退翼のジェット機の実用化に成功します。
(スターリンにはとにかくアメリカより先、というのが大事だった模様)
そうして衝撃の世界デビューをしたのが、MiG-15戦闘機でした。

1947年に初飛行したMiG-15は、緊張する超大国間の冷戦下、
高空を飛ぶ敵爆撃機を迎撃するのが主目的でした。

初期の機体にはエンジンが搭載されていませんでしたが、
わたしに言わせると当時労働党のお花畑政権だったイギリスが、
25基のロールスロイス・ニーン・ターボジェットエンジンを提供しました。

Rolls-Royce Nene

【ライバル・F35セイバー】

MiG-15は1950年から3年に亘った朝鮮戦争に投入されました。
朝鮮半島上空ではF9FパンサーF80シューティングスターなど、
連合軍機よりも明らかに勝る性能を発揮しました。

しかし、この状況に甘んじているアメリカではありません。
たちまち対抗してノースアメリカンのF-86セイバーを投入します。

F-86-F-35-NA(1955年)

頑丈に作られたセイバーは、訓練されたパイロットに操作されることで
MiG-15に勝るとも劣らない性能を発揮することができました。

MiGの搭載銃はセイバーより強力で、速度も機敏性も勝っていましたが、
セイバーは安定性と上昇性能においてMiGより優れていました。

さらに、セイバーのパイロットの能力は明らかに中国や北朝鮮よりも上でした。

ソ連は、ここで自国のパイロットがあまりにも戦闘に関与しすぎると、
米ソが正面からぶつかり合うことになり、これがひいては
第三次世界大戦の勃発につながるのではないかと恐れていたといいます。

MiG-15は失速しやすく、マッハ1以上の速度ではコントロールが難しいため、
経験の浅いパイロットには容赦がなかったのですが、
熟練したパイロットはこれを克服し能力を引き出すことができました。

朝鮮戦争でMiG-15に搭乗したのは北朝鮮、中国、ソ連のパイロットでした。
この機体の特徴は、なんと言っても軽量であることでした。
乗り手を選ぶとはいえ操縦性に極めて優れていました。

MiG-15は共産圏諸国では12,000機以上が生産され、
その他の国ではさらに6,000機までがライセンス生産されました。
派生型は44カ国以上で使用され、その多くが現在も使用されています。
どんな航空博物館にもこの機体があるのはそういう理由です。

【MiG-15の機体性能と欠点】



MiG-15の最初の目的は、冷戦下においてB-29のような
アメリカの大型爆撃機を迎撃することでした。

それを確かめるため、ソ連は鹵獲したアメリカのB-29や、
ソ連のB-29のコピー機であるツポレフTu-4との模擬空戦を行っています。

大型爆撃機を確実に破壊するために、MiG-15は23ミリ×2基(80発)、
37ミリ×1基(40発)の自動砲を搭載し、確かに迎撃戦では
絶大な威力を発揮したのですが、発射速度が限られていたため、
空対空戦で小型で機動性の高いジェット戦闘機に命中させるのは困難でした。

そして弾道の点でいうと、23ミリと37ミリでは軌跡が大きく異なります。
朝鮮戦争でMiG-15と対戦した国連軍のパイロットは、23ミリの砲弾が
自分の上を通過し、37ミリが下を通過するという体験をしています。

砲はシンプルなパックに収められ、整備や再装填のためには
機首下部からウインチで取り出せるようになっており、
あらかじめ用意されたパックを素早く交換することができました。

超音速で急降下するのに十分なパワーを持っていたのですが
"オールフライング "テール(尾翼)がないため、
マッハ1に近づくと操縦性(パイロットの関与できる)は大きく損なわれた、
とここの説明にはあります。

「All Flying Tale」とは、水平尾翼全体を動かす事によって
エレベーターとしての機能を持つ舵のことです。
スタビレーター(安定の意)ともいいますが、

これはスタビレーターじゃないのかしら

まあとにかくそういうことだったので、パイロットは、
操舵が効かなくなるマッハ0.92を超えずに操縦していました。
ってことは音速突破してなかったってことですわね。

もう一つ厄介なことは、MiG-15は失速するとスピンする傾向があり、
いったんそうなるとパイロットはリカバーできなくなる傾向がありました。

後のMiG(19以降)からはオールフライングテールが装備されていますが、

とりあえず改良を施したのMiG-15bis(セカンド)は、
RD-45/Neneの改良型であるクリモフVK-1エンジンを搭載し、
細かい改良やアップグレードを加えて1950年初頭に早くも就役しました。

目に見える違いとしては、エアインテーク・セパレーターに
ヘッドライトが設置されていたことと、
大型の一枚板の長方形のスピードブレーキが採用されていたことです。


ところで、ここに展示されているのも実はMiG-15bisです。
よくよく見ると、これにもスピードブレーキが付いていました。



本機は朝鮮戦争の戦闘で損傷したのち中国で修理され、
J-1と改称されて中国空軍が運用していたようですが、
1988年に北京の中国航空博物館から譲り受け、
1992年までロスアンジェルスのチノ空港に保管されていました。

■ 海兵隊パイロットvs. MiG-15

当海兵隊航空博物館には、やはり海兵隊パイロットと
MiG−15の対戦についての記述がありますので紹介しておきます。

【ジョン・ボルト大尉 Capt. John Flanklin Bolt】
”2WAR ACE"(二つの戦争のエース)


ジョン・ボルト海兵隊中佐(1921– 2004)は、
第二次世界大戦と朝鮮戦争、二つの戦争でエースの地位を獲得した
唯一の米海兵隊員であり、唯一の海兵隊のジェット戦闘機のエースです。



貧しい家庭に生まれ、経済的理由でフロリダ大学を中退した後、
米海軍に加わり、海兵隊のパイロットとして訓練を受けました。

彼は第二次世界大戦の太平洋戦線において、F4Uコルセアに乗り、
A6M零戦に対して6回の勝利を収めました。

コルセアを装備したVMF-214「ブラックシープ」では、彼は
海兵隊エース、パピー・ボイントン少佐の指揮の下飛行しています。

その後ボイントンが撃墜され日本軍の捕虜になってから、
飛行隊の指揮を彼に代わって務めています。


1943年、太平洋戦線にて

朝鮮戦争が始まると、空軍(USAF)との交換プログラムを通じて戦闘に参加し、
いわゆる「MiGの小径(alley)」と言われた北朝鮮国境で
F-86セイバーで中国軍のMiG-15と対戦、ここでも6勝を挙げました。

写真のF-86セイバージェットの側面に
「ダーリン・ドッティ」という言葉がペイントされていますが、
ドッティは彼が第二次世界大戦中結婚した愛妻、ドロシーの愛称です。

戦後、彼は中断していた法律の勉強を継続し、
40歳になってから息子と同じフロリダ大学に通い、博士号を取得、
残りの人生を弁護士として地域に貢献することで全うしました。

彼は、二つの戦争でエースとなった空軍以外の唯一のパイロットで、
同じタイトルを持つ7名のパイロットの最後の生き残りとして
2004年、83歳の生涯を閉じました。

【ジョン・H・グレン大佐 John Herschel Glenn Jr.】
”MiG MAD MARINE"


この写真を見て、「ライトスタッフ」でジョン・グレンを演じた
エド・ハリスって、なんて適役だったんだろうとため息をつきました。

「マーキュリーセブン」の一人、77歳でディスカバリー号に乗った男、
と宇宙飛行士としての人生があまりに有名ですが、
実はジョン・グレン、海軍を経て海兵隊航空隊に入り、
ボルトと同じくマーシャル諸島ではF4Uコルセア
日本軍に対して対地攻撃などを行なっておりました。

朝鮮戦争でボルトはセイバーの前にバンシーに乗っていたそうですが、
グレンが最初に乗っていたのはパンサーです。

これもボルトと同じく、空軍との人材交流プログラムで
F35セイバー戦闘機に乗って朝鮮戦争に参加し、
ここで彼は3機のMiG-15を撃墜しています。



このときについた彼の渾名は「MiG MAD MARINE」
日本語での言い換えは難しいですが、
「ミグ退治専門マリーン」「ミグバスターマリーン」みたいな?

彼はジェット機でエースになることを目指していましたが、
戦争が1953年7月25日、突如終了し、それは叶いませんでした。


【ジェス・フォルマー大尉 Jesse Gregory Folmar】
"プロペラ機でジェット機を撃墜した男”


ジェシー・グレゴリー・フォルマー(1920-2004)
は、太平洋での戦闘においても、朝鮮戦争でも、
空母USS Sicily (CVE-118)艦載部隊として)
F4Uコルセアの航空部隊に所属していました。

彼はプロペラ機パイロットとして初めて、
ジェット機MiG-15を撃墜した功績でシルバースターを授与されています。

1952年9月10日、この日USS「シシリー」でのブリーフィングでは、
この地域に出没するMiGについて話し合われましたが、
そもそもコルセアがMiG-15に勝てるとはだれも思っていないので、
MiGが攻撃してきたら正面から向きを変えて、
とにかく撃ちまくる、ということになりました。

その日、フォルマーと僚機のダニエルズ大尉は、8機のMiG-15に遭遇しました。
攻撃してきたMiGに対し、彼は計画通り隊長機に向かい、
正面からコルセアに搭載された4門の20ミリ砲を撃ちまくったところ、
なんとそれは命中して機体を破壊せしめたのです。


想像図

しかし、彼が勝利を味わったのも束の間でした。
彼のコルセアはMiGに撃墜され、彼はパラシュートで脱出して、
水上機に拾われ、命を助けられたのでした。

想像図その2

このときの撃墜の功績により、彼は殊勲飛行十字章を授与されました。


 続く。




第二次世界大戦の軍用航空機〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-22 | 航空機

サンディエゴのミラマー海兵隊行軍基地の
反対側に併設されているフライング・レザーネック航空博物館、
あっという間に室内展示の紹介を終わりました。
というわけで、むしろこの博物館のメインであるところの
航空機展示をご紹介していきます。

今日は第二次世界大戦時の装備を取り上げますが、
冒頭写真のワイルドキャットは、すでに
海兵隊エース、ジョー・フォスの項でご紹介しています。


ところで、この日撮った写真にこんなのがありました。
これから新しく整備した航空機を置く場所なんだな、と思ったら、



HPにこんな写真を見つけました。
ワイルドキャットが手前にいる・・・?

屋根の下にいるのは風防の形からアベンジャーじゃないかと思うのですが。
そこであらためてHPの所有機を見たところ、
わたしがこの日現地で遭遇した航空機は、FLMの所蔵の一部で、
結構な数のウォーバードが修復中であるか
あるいは倉庫入りしているのではないかというのがわかりました。


■ ダグラスSBD−1ドーントレス

たとえばこの
SBD-1ドーントレスもそうです。

このSBD-1は、1940年海兵隊に装備され、MCASミラマーにある
キャンプ・カーニーのVMSB-142に配備され、その後
イリノイ州の「五大湖海軍」にある空母適格訓練部隊(CQTU)
USS「ウルヴァリン」 Wolverineに着陸する訓練に使われていたものです。

1942年11月23日、この機体は訓練中に墜落し
ミシガン湖の底に沈んで
しまいました。

ちなみにこの訓練基地で
ミシガン湖の藻屑になったドーントレスは全部で38機だった
ということですが、これはそのうちの1機というわけです。

湖の底で52年間魚のすみかになっていましたが、1994年引き揚げられ、
いくつかの博物館を経て、MCASミラマーのFLAMに到着しました。
この時点ではすでに大規模な修復が行われていたようです。

そして、HPを見ると、写真に写っている修復ボランティア、
ボブ・クラムジー氏が、2012年からあらためて修復を手掛けています。

もちろん代替の部品はありませんから、一から手作り。
垂直安定板、後部銃座、ドアも設計図を見て作ったそうです。

クラムジー(こんな人がClumsy=不器用のはずはありません。 Cramsieです)
氏はもともとノースロップ・グラマンの耐空システムエンジニアだとか。

そして、「修復の完成までにあと3年から5年はかかるだろう」
とおっしゃっているようですが、はて。
肝心のFLAMそのものがパンデミックのため休館しており、
再開の目処は立っていない、と書かれたっきりなのです。

ドーントレスの修復は中断されているのではないかとか、
修復のための費用も滞っているのではないかと懸念されます。


■ノースアメリカン PBJ-IJ (B-25 J)
ミッチェル(MITCHELL)

見なかったといえば、この、唯一人名のついた軍用機、
ミッチェルも、わたしが観に行ったときにはヤードにその姿はありませんでした。

このB-25J-30-NCミッチェルは、1945年6月の終戦直前に調達され、
カリフォルニア州サクラメントの陸軍航空訓練学校で使われていました。

ミッチェルというくらいなので元々は陸軍機ですが、
戦後はおそらくミッチェル本人の意思を尊重してか、空軍に配備され、
その後はいろんなオーナーを転々とし、
エアタンカーや気象調査など様々な仕事に従事しました。

引退してから海兵隊が博物館展示のために引き取り、
それからここに貸し出されています。

これも今一体どこにあるのかすらHPには記載されていません。

ピッツバーグを流れる川に墜落し、底に沈んで2度と見つからなかった
B-25の話を思い出してしまった・・・。


■ジェネラル・モーターズ TBM-3E Avenger

復讐者という意味を持つ「アベンジャー」GM製とグラマン製があります
グラマン製はTBFゼネラルモーターズ製はTBMと呼称していました。

アメリカ海軍および海兵隊のために開発された魚雷爆撃機で、
1942年に就役し、直後のミッドウェー海戦でデビューを飾りました。

先に製造したのはグラマン社でしたが、同社は
F6Fヘルキャット戦闘機を生産することが決まったため、
アベンジャーの生産を徐々に縮小してくことになったという事情です。

その後、ゼネラルモーターズ社のイースタン・エアクラフト部門が
生産を引き継いだので、二社バージョンがあるというわけです。

ここに展示されているのは、後期のGM製TBMとなります。


プロペラには「ハミルトン・スタンダード」のマーク入り。

ハミルトン・スタンダードは(現在はCollins Aerospace の一部)、
世界最大の航空機プロペラメーカーでした。

「ジョー・フォスコーナー」でお話しした、フォスがパイロットに憧れる
そのきっかけとなったリンドバーグの大西洋横断機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に、同社のプロペラが使用されています。

1930年代初頭には可変ピッチプロペラ、
1950年代に開発されたジェットエンジンの燃料制御。
1968年には航空機の客室圧力を制御するための自動電子システム、
ジェットエンジンのフルオーソリティデジタル電子制御(FADEC )、
その技術は1969年のアポロ11号月面着陸に遺憾なく発揮されました。

現在は世界のほとんどの航空機メーカーに、
航空宇宙コンポーネントとシステムを提供し続けています。 



1944年半ばから始まったTBM-3は、パワープラントがパワーアップし、
ドロップタンクやロケット弾用の翼のハードポイントが設けられました。



アベンジャーは海兵隊の多くの飛行隊によって、
陸上はもちろんその多くが空母で運用されました。

海兵隊飛行隊で最初に戦闘に参加したアベンジャー部隊はVMSB-131で、
TBF-1を搭載してヘンダーソンフィールドに到着し、
日本軍に対して最後の大攻勢をかけるのに間に合いました。

マリーン・アベンジャーズは、1942年11月中旬のガダルカナルの海戦で
初めて大きな成果を上げることになります。
この時点でVMSB-131は、「エンタープライズ」を空母とする
VT-10(雷撃隊)とVT-8として活動していました。

11月13日、3つの飛行隊は日本の戦艦「比叡」への一連の攻撃に参加し、
発射された26本の魚雷のうち10本を命中させました。


比叡

このとき、第10雷撃隊のTBFアベンジャー雷撃機9機(隊長アル・コフィン大尉)は、左舷、右舷、艦尾に魚雷を計3本命させ戦艦を沈めたと主張しています。

また、翌日、VT-10とVMSB-131の航空機は、
重巡洋艦「衣笠」を沈めています。


衣笠

右舷に魚雷3本、左舷に魚雷1本が命中し、傾斜した衣笠に
SBD2機が急降下爆撃を行い、爆発炎上させます。
その後空母「エンタープライズ」のSBD16機が
とどめを刺した形になり、沈没しました。



しかし、通常海兵隊のアベンジャーが魚雷攻撃を行う例は少なく、
ほとんどが海兵隊を支援するための爆弾やロケット弾、
あるいは対潜哨戒のための爆雷ややロケット弾を使用しました。

VMSB-131がガダルカナルでデビューしてから1年後、
アベンジャー隊はブーゲンビルでの戦闘に参加し、
日本の強力な基地を無力化する働きをしました。

1944年7月、海兵隊アベンジャー部隊はマリアナ諸島での戦闘に参加し、
グアムとテニアンの航空支援、ついで194ペリリュー島への侵攻に参加。

1945年3月からはテニアンから出撃し硫黄島キャンペーンを行いました。

沖縄戦に参加したのは
USS「ブロック・アイランド」、USS「ギルバート・アイランド」、
USS「ヴェッラ・ガルフ」、USS 「ケープ・グロセスター」

4隻の空母搭載のアベンジャー部隊です。


海兵隊は朝鮮戦争でもアベンジャーを運用していました。

ここに展示してあるTBM-3E(BuNo.53726)は、
戦後の1946年6、NASサンディエゴで予備機となっていましたが、
最終的に海軍航空予備訓練部隊(NARTU)に配属されました。
1962年4月に除隊するまでいろんなところをぐるぐる回っていたようですが、
その後は民間が買い取ってエアタンカーになっていました。

その後は農薬の空中散布機を経て、1988年に海兵隊博物館に買い取られ、
1999年には現在のMCAS ミラマーに落ち着いたのです。

展示機は1945年7月に
護衛空母USS 「ケープ・グロセスター」Cape Gloucester (CVE-109)
に搭載され、沖縄戦に参加したVMBT-132のカラーで塗装されています。


■ノースアメリカン SNJ-5 テキサン Texan

昔の戦争映画には必ずと言っていいほど、
この不細工なコクピットの零戦が登場したものです。

日の丸をつけた敵さん、じゃなくてテキサンを見るたびに、
「いうほど似てるか・・・?」
と思わず心の中で突っ込んでしまうわけですが、
似ているにていない以前に、たくさん製造され、
しかも練習機で機体が操縦しやすかったというのも
零戦を演じさせられた理由だったかもしれません。

あ、それから値段が滅法安く、手に入れやすかったそうです。

1935年4月1日に就航したT-6テキサン(T-6 Texan)は、
単発の高等練習機で、各国のパイロットの訓練に使用されました。
そのため、「パイロットメーカー」という名前で呼ばれることもあります。

国や機種によって様々な呼称がありますが、アメリカ以外では
「ハーバード」という呼称が最も一般的です。
USAACとUSAAFのモデルは「SNJ」の名称で呼ばれており、
アメリカ海軍のパイロットはこの名称でこの飛行機を多用しています。

その代表的なものがSNJ-4、SNJ-5、SNJ-6です。

アメリカは1950年代末までに現役から引退させましたが、
それはどこへいったかというと、我が日本だったりします。
自衛隊では空自に167機、海自に48機と1955年から供与され、
T-6という名前で呼んでいました。

すでに時代はジェット機へと移行しつつあったのに、
テキサンなんかもらってどうするん?という気もしますが、お付き合いというか、
大人の事情があったのかもしれませんしなかったかもしれません。

そのせいなのかそのせいでないのか、さすが物持ちのいい日本国自衛隊も、
数年で練習機をT-1と交代させるということになっています。

そもそも、
T-33とT-34の間にどうして中間練習機としていきなりT-6が挟まるのか?
と考えた人もいたかもしれませんしいなかったかもしれません。


航空装備ではありませんが、こんなものもありました。
説明が全くないのですが、だいたい第二次世界大戦ごろのものだと
勝手に思い込んで載せておきます。


対空マウントをしたブローニング的な?



FLAMスタッフ渾身の手作り人形搭載。



こちらはデュアルです。


対空砲士の顔、アップにしちゃう。
まつ毛とか眉毛は一本ずつ懇切丁寧に描き込まれており、
手間暇だけは膨大にかかっているのはよくわかった。



サンディエゴの夏は日差しが強く、外の展示を見て歩くのは
なかなか大変で、こういう装備になるといきなり省エネモードになり、
できるだけ最小限のシャッターで済まそうとするわたしですが、
いくらなんでも砲身くらいちゃんと撮っておけばよかったと思いました。

その後いろいろあって、もう2度とここで展示を見られられなくなった今、
一層その思いは強くなりますが、もう仕方ありません。(投げやり)


続く。




マリーンズ・ワイフアワード〜フライングネック航空博物館

2021-11-20 | 博物館・資料館・テーマパーク


サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライング・レザーネック。
この名称はどこから来ているかというと、どうも
この映画ではないかという元ネタを見つけました。

Clip HD | Flying Leathernecks | Warner Archive

相変わらず日本軍の軍装がいい加減な気がしますが、
第二次大戦時のガダルカナルにおける海兵隊航空隊の活躍を
例によってジョン・ウェイン主演で描いた戦争ものです。

今ちょっと資料を見たところ、ウェインが演じたカービー少佐は
海兵隊エースで先日当ブログでもちょっとだけ紹介した、
ジョン・スミス少佐がモデルであることがわかりました。


この人ですね

DVDも手に入れたので、またそのうちご紹介するかもしれません。


■名誉賞を受賞された海兵隊パイロット(ただし三人)


さて、それでは今日は、FLAMの室内展示
残りを全部、順不同で紹介していきます。
前にも書きましたが、昔ここは軍用犬のコーナーを増設した時、
かなり元の展示を減らしているので、
室内展示はもう今日で最後になります。

しかし、こういうのは減らすわけにいきません。
海兵隊員の顕彰コーナー。

全部の写真を撮らなかったので写っている三人だけ紹介します。
左から;



ケネス・ウォルシュ中佐 Kenneth A. Walsh(1916-1998)

海兵隊初のヴォートF4Uコルセア飛行隊に所属、
ガダルカナルを戦場として日本軍を相手に航空戦を行い、
航空隊最初のエースになりました。

はて、海兵隊最初のエースってジョー・フォスじゃなかったっけ。
同じ博物館のフォスコーナーではそういうことになってるんですが。



勲章授与式でFDRと握手するウォルシュ。
左の海軍軍人はアーネスト・キング提督です。
こういうときは奥さんが必ず同席しますが、ウォルシュ夫人の帽子、
おそらくこのために新しく新調したんだろうなー、と
そんなことを考えてしまうわたし。



ジェームズ・スウェット大佐James Elms Swett(1920 - 2009)

VMF-221の師団飛行隊長であり、ガダルカナルのエース。
合計15.5機の敵機を撃墜し、2つの殊勲飛行十字章と5つの航空勲章を獲得。

前にも書きましたが、アメリカは名誉賞を取ったエースは
2度と激戦地に出さないという不文律を持っているので、
朝鮮戦争が始まった時、彼のコルセア飛行隊は現地に派遣されたのに、
彼だけが残され、すぐに現役引退をしています。



ヘンリー”ハマリン・ハンク”エルロッド
Henry Talmage "Hammerin' Hank" Elrod(1905 –  1941)

海兵隊入隊前はイエール大とジョージア大にいて学生パイロットでした。
ウェーキ島で駆逐艦「如月」を撃沈したパイロットとして有名です。

1941年12月8日、エルロッド大尉は、VMF-211の航空機12機を率いて
ウェーク島で戦闘を行いました。
このとき、戦闘機から小口径爆弾を駆逐艦「如月」の船尾に投下して
格納されていた爆雷を爆発させ、撃沈させました。



航空機の爆弾一発で駆逐艦が撃沈したのは世界初だそうです。
このときの「如月」は、

「魚雷(資料によっては爆雷)が誘爆、
艦橋と二番煙突の半分とマストを吹き飛ばし、しばらくすると
艦は二つ折れになって5時42分に爆沈した。
艦橋が吹き飛んだ『如月』はしばらく異様な姿で航行したあと、
姿が見えなくなったという」

という最期を遂げました。
米軍側の資料によるとこの時のアメリカ軍の死者は1名、
それがエルロッド大尉だったようです。


エルロッド大尉はその後ウェーク島に帰投しましたが、
重傷を負っており死亡。
一連の英雄的行動に対して名誉勲章が授与されました。

ところで以前、当ブログでは
「ウェーク島に戻ったワイルドキャットのカウル」
というタイトルで、スミソニアン博物館に展示するワイルドキャットに
ウェーク島に残されていたカウルを取りよせて装着しようとしたところ、
敵の攻撃の銃痕が生々しく残っていたので、
どうしてもそれを修復することができず、結果として
カウルを取り付けるのをあきらめた、という話をしたことがあります。



そのときウェーク島の記念館にあったカウルは、
エルロッド大尉のワイルドキャットのものだったことがわかっています。

エルロッド大尉の乗っていたワイルドキャット

このワイルドキャットのカウリング、ノーズリング、
テールフック、プロペラだけが残されてウェーク島にあったわけですが、
いつのまにかカウリングはここにあるものが世界唯一のものになりました。

スミソニアン博物館はいったんこれを展示機である
ワイルドキャットに装着して、銃痕のあるまま展示していました。
2008年の時点ではまだそのままだったようですが、
その後カウリングはウェーク島に戻されることになりました。

スミソニアンではカウルなしのノーズのワイルドキャットを展示しています。

■ベトナム戦争関連展示


近代的な雰囲気ですが、ベトナム戦争時代のカモフラージュ柄
(タイガーストライプ柄という)のフライトスーツとベストです。

このタイプのカモフラージュパターンをその後見ないのは、
これがベトナムの密なジャングルのためにデザインされた柄だからです。

「カモペディア」というHPによると、「タイガーストライプ」とは、
1960年代に東南アジア(特にベトナム共和国)で開発されたもので、
この名称は、迷彩服の細い筆で描かれたデザインが、
とらの模様に似ているからだとか。

アメリカ軍でこのデザインの生産は1967年に終了しましたが、
部隊は1970年までこのパターンを着用していたそうです。
展示されているタイプは、これも「カモペディア」によると、
「デンス(密)」タイプで、もう少し縞の間が広い
「スパーズ」(まばら)タイプもあったとか。


USMCは20年以上にわたりベトナム戦争期間を通して
地上、航空、補給、後方支援を提供しました。
ダナンの主要な空軍基地を保護する任務とともに規模を広げ、
トンキン湾事件の後には、小規模な鎮静部隊との対反乱作戦に投入するために
より多くの部隊を送り込んできました。

1966年までにベトナムには7万人近くの海兵隊員がいて、
ベトコンに対する大規模な集団作戦を遂行していました。

海兵隊は地上戦闘に加えて、南北ベトナムにおいて
ヘリコプター部隊と固定翼機での航空支援を提供しました。

1967年、サイゴンで陸軍の指導部を務めた海兵隊は、
大規模な部隊の捜索と破壊作戦に力を注ぎます。

海兵隊の任務は、国境の非武装地帯(DM2)に沿った
北ベトナム軍との戦い、そして
南部の村でベトコンに対して行われた対反乱作戦とに分けられます。


手榴弾と”トレンチ・アート”

はて、塹壕アートとはなんぞや。
それは、兵士が戦争中に作り出す文字通り「芸術作品」のことです。
砲弾を使ったビアジョッキとか、彫刻とか、
別の武器とかを手慰み的に作ってしまうこと、あるいはそのものですね。



ここにあるのは廃棄されたコーヒーとソーダ缶から作られた
花瓶とか手榴弾などです。
作品としてはまあ普通ですが、調べてみたら
中には立派なアートと呼べる作品もありました。


砲弾のシェルで作ったP-38。お見事


南ベトナム国旗

1948年から1975年まで、サイゴン陥落までの間国旗として使用されました。

1975年にベトナム共和国、南ベトナムが消滅し公式に旗は廃止されましたが、
北米やオーストラリアなど海外に移住したベトナム人の間では、
民族統合のシンボルとして、あるいは現政府に対する抗議の意味で
今でも使用されています。


アメリカのいくつかの州では、ベトナム系アメリカ人が
ロビー活動を行った結果、この旗を
民俗コミュニティのシンボルとして公式に認められました。



POW(Prisoner of War)

北ベトナム兵士とベトコンの反乱軍に捕らえられた
アメリカ軍捕虜が使用していた道具。
石鹸、歯磨き粉、IDタグ、箸と腕、カップ。


ベトナム戦争における武器

ベトコン(VC)の作戦行動のメソッドは、単純かつ効果的でした。
彼らの合言葉は

「敵が前進したら撤退、防御したら嫌がらせ、
敵が疲れたら攻撃、撤退したら追撃。」

スピード、安全性、奇襲性、相手の動きを見極めてから交戦すること。
適切な情報と準備なしに急いで行動するのではなく、
あえて機会を逃すこともありました。

任務のために組織化され、装備された(VC)は、
ゲリラ戦術で夜間に移動することを好み、秘密裏に行動しました。
不意打ち攻撃の待ち伏せのために、彼らは
10日間くらいは平気で潜んでいることができました。

彼らのやり方は、道路、小道、小川、その他の移動ルートに沿って
敵を罠にかけることでした。

■アフリカ系宇宙飛行士 チャールズ・ボールデン



海軍出身の宇宙飛行士、チャールズ・ボールデン(Charles Bolden)
の宇宙飛行士用スーツとヘルメットです。



海軍兵学校では学生隊長を務めるほど優秀で、
卒業後海兵隊少尉に任官。
(海兵隊士官は海軍兵学校卒だと知った瞬間)

ベトナム戦争に参加したあとは、海兵隊のリクルート
(自衛隊で言うと地本ですね)にいたそうです。

リクルーターとして話をしているボールデン

1981年に宇宙飛行士になり、スペースシャトル「コロンビア」、
「ディスカバリー」の操縦手などのミッションをこなした彼は、
2009年、アフリカ系で初めてNASA長官に指名されました。

■アイリーン・ファーガソン海兵隊ワイフアワード


Irene Ferguson Marine Wife Recognition Award

アイリーン・ファーガソン海兵隊員妻賞は、
米国海兵隊員の妻として、夫である海兵隊の軍人や家族、
地域社会を支える献身を称え、顕彰するのが目的です。
選考は年一回行われ、選ばれた妻には賞金と贈り物が与えられます。


過去、国家のために夫が軍務に就いている間、
その妻が受ける試練や苦難は、ほとんど認識されていませんでした。
しかし、この10年間で、軍人の家族にかかるストレスや負担は、
おそらくかつてないほど大きくなっていることが認識されるようになりました。

フライング・レザーネック歴史財団は、
そんな軍人の妻の奉仕と犠牲に対し、これを顕彰すべく、
米国海兵隊退役軍人グレン・ファーガソン少佐の妻、
アイリーン・ファーガソン氏を記念して、同賞を創設しました。
この賞の精神は、以下のグレン・ファーガソン少佐の言葉に集約されています。


アイリーン&グレン・ファーガソン夫妻

「妻の死をきっかけに、私たちが共に過ごした
約60年半の素晴らしい時間を振り返ることができました。
そうしているうちに、私が訪れたことのある博物館、
歩いたことのある公園、入ったことのある建物のどこにも、
一つとして、夫を支える従軍中の妻たちの献身と
犠牲の生活を称えるものがないことに気づきました。

彼女たちの夫は、忙しい任務が日常で、遠い国へと頻繁に旅立ち、
時には危険な状況に置かれます。
彼らの多くは勲章を授与され、同僚の軍人たちから称賛を受けます。
彼らの偉業は、新聞や雑誌で賞賛されます。

しかし、知られざるのは、残された妻たちです。

彼女たちは子供たちを育て、教育し、病気のときには世話をし、
パパがいない家庭でその不安を献身的に和らげる。

しかし、妻たちの試練、艱難辛苦、勝利を証明するメダルや記念碑はありません」

受賞者は推薦され、FL歴史財団が審査し決定します。

支援機関、友人、家族、隣人、職場関係者からの応募が可能ですが、
推薦者の夫、その指揮官、推薦者本人からの応募はできません。

さて、これで室内展示を全て紹介し終わりました。
ここから外に出て航空機展示などを見学するわけですが、
出口にレトロなポスターが貼ってありました。


「もし戦いたいなら!海兵隊に参加しよう」



「アア残念!
アタシ(妾)が男なら海軍に入っていたのに」

女性が軍隊に入ることが叶わなかった時代のポスターですね。
そして海軍に入る資格のある男たちに向けて、こうあります。

「男になれ そして来たれ
アメリカ合州国海軍へ」


続く。

ミラマー基地のMWDデモンストレーション(軍用犬と玩具の関係)〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-18 | 博物館・資料館・テーマパーク

「Combat Canines」



このコーナーの壁に大きく赤で描かれている文字。
前回説明したように、Caninesはイヌ科の動物であり、
そこから軍用犬、警察犬をK9と称します。

冒頭写真で海兵隊のハンドラーと一緒に走っている、
おそらくジャーマンシェパードの首にも黄色い「K-9」の札がありますね。

それでは、FL航空博物館の展示から。

「アメリカ軍の最前線で、軍用犬とそのハンドラーは、
第二次世界大戦以来、米海兵隊と共に
地球上でも最も危険な戦場で彼らを導く役目を果たしてきました。

かつて軍に使役された様々な動物が、技術の発達によって
そのほとんどが時代に合わなくなってしまった今でも、
軍用犬だけはいまだに一線で活躍する価値を見出されています。

IED(即席爆発装置: Improvised Explosive Device)
を検出する能力は、かつて軍事技術者によって発明された
どの機械や装置よりもはるかに優れています。

何より、犬は知的で順応性があり、忠実でタフです。

第二次世界大戦の頃、軍用犬の訓練は、2週間を一つの区切りとし、
農場経験のある海兵隊員の手によって行われました。
農場育ちなら、動物を手懐けるのは慣れているとされたのです。


近年では犬の訓練とハンドリングは、一頭あたりの訓練、しかも
に約3万ドルから4万ドルかかるといわれます。
犬にお座りや寝返りを教えるのは簡単ですが、
戦闘状況かで吠えずに静かにしていることを教えるのは全く違います」

■MWD(海兵隊軍用犬)用ガジェット


そしてこれは犬用ゴーグル。
フレームに書かれている
DOGGLES(ドッグルス)
という商品名に思わず膝を叩いてしまいました。


着用例。

「洗練されたテクノロジーと装備」
軍隊はしばしば洗練された技術を惜しげもなく
このような装備に注ぎ込み、現代の犬はそれ以上のものを「楽しんで」います。

軍用犬は、専用のベスト、GPS装置、ドッグル(もはや一般名詞らしい)
などの目を保護するための機器の他に、足を地面から保護するための
犬専用のブーツが支給されます。


犬専用ブーツ。(ゴルフのスティックカバーかと思った)

サングラスをした上の写真は、ダニエルSSgt(曹長)と、
彼の担当である🐕アウラ(Aura)さん。(多分雌)
アウラさんは2015年に引退し、ダニエル曹長に引き取られて
今は家族の一員となっているそうです。

引退した犬がハンドラーに引き取られるというのは
珍しいことではないような気がしますが、
この場合やはり「装備引き渡し」みたいな扱いなんでしょうか。

■ミラマー海兵隊航空基地でのデモンストレーション



ハンドラーの首から上を撮り損なった?と思ったら、
もともとこういう写真でした。
訓練デモ中のMWD(海兵隊使役犬)に焦点を合わせて撮っています。

1mくらいの障害を楽々飛び越えているMWDの名はワンドゥ(Wando)
ここMCAS(Marine Coops Air Station) Miramar kennel
つまりミラマー海兵隊航空基地犬舎で行われた
学童を招いての公開デモンストレーションでの一コマです。

デモの代表になるくらいですから、ワンドゥくん、優秀犬です。
前回、ウォーダーグで三冠を取ったとご紹介しましたね。



ミラマー海兵隊航空基地にあり、犬・ハンドラーともに
採用されただけで「エリート」コースと言われる
ミリタリー・ワーキング・ドッグプログラムことMWD訓練は、 
主に基地の警衛部隊の憲兵隊長(設置されている法執行機関の最高責任者)
を増強することに焦点を当てています。

犬とハンドラーのチームは2009年以降は展開(たぶん海外派遣)しておらず、
駐屯地において密に任務を負っており、
施設のゲートや基地全体での警備に時間を費やしています。

犬の嗅覚と視覚が訓練で向上することにより、
より徹底的な捜索が可能となりますし、
警備犬とハンドラーの姿は目を惹き、攻撃に対して
潜在的・心理的抑止力として機能する
というメリットがあります。

MWDに関わる仕事には、継続的なトレーニングが必要です。
任務についていない時でも、チームは常に犬舎の監督、
master SSgt Daniel、マスターサージャント=
ダニエル曹長
の監督下に置かれて一挙一動が訓練です。



これがダニエル曹長だ!
そして曹長が左手に持った赤い物体ですが・・・、



これですよね。
犬が訓練の時に咥えたり放って取ってこさせたりするもの、
要はおもちゃです。

鎖はMWDの標準装備らしく、ダニエル曹長と一緒に写っている
アウラさんの首にも同じものがかけられています。

このダニエル曹長は、犬舎のアジリティ・コースで行われた
学童対象のデモンストレーションで何か質問しているようです。



この大荷物を持った女性は、アッキバッティ上等兵。(イタリア系)
2018年当時新人で研修中でした。


ちなみにハンドラーの海兵隊上等兵の年収は現在で
2,103.90ドル(241万4128円)だそうです。
ついでに、曹長になるとは4,614.60ドル(529万6964円)
倍以上ですが、その階級差は5もあります。

彼らのトレーニング場所は、チームが直面するであろう事態を想定し、
犬舎の専用コースや施設内の多くの倉庫などが使われます。
究極の目標は、チームを戦術的・技術的により熟練させるだけでなく、
犬とハンドラーの間の絆を少しでも強くすることにあります。



デモンストレーションの日公開された攻撃訓練の一コマ。

訓練用の防御衣を噛まれているバス上等兵の顔がナイス
腕に噛み付いてぶら下がっているのは先ほどのワンドゥくんです。
ワンドゥと別の伍長がタッグを組んで、「悪役」である
バス上等兵を攻撃しているというわけです。


これも同じ日のデモンストレーションでの展示。
後ろにあるのは引退した戦闘機(展示してある)のようです。
F9F2パンサーかな?

ターゲット役はトリミーノ上等兵、
確実に腕を狙いにきているのは同じワンドゥ号。

新人(下っ端とも言う)は最初噛まれ役が多いんだろうな。

ワンドゥはベテランなので間違いはないかと思いますが、
これ、もし防御衣を着ていない脚を噛まれたらどうなるんだろう。


ちなみに、シリーズ最初の扉絵にしたこのチームは、
犬=コラード号、ハンドラー=スミス伍長で、
沖縄県の海兵隊基地キャンプ・ハンセンに所属しているんだそうです。

■なぜ玩具を展示するのか



犬のおもちゃといえば・・・、フリスビーですね。
標準仕様なのか、国旗がついた赤いフリスビー。
海兵隊装備納入業者もびっくりだ。

そして下のケースは、
「エリートK9」と文字が穿たれています。
穴が空いているのはこれが「匂い箱」だからで、
磁石式になっていて金属部分に装着して捜索の訓練に使います。


ところで、なぜ軍用犬のおもちゃが展示されているのでしょうか。

軍用犬として生まれた子犬にとって、最も重要な特徴の一つは
「プレイ・ドライブ」と呼ばれるものです。
このプレイドライブによって、ハンドラーは、
犬が優れたMWDとしてあるべき反応をするかを確認するのです。

ラックランドのAFBで訓練されている犬とハンドラーに
褒賞としておもちゃが与えられるというのは日常的な光景です。

犬は命令、および任務が与えられると、おもちゃのために働き、
任務が完了すると、よくやったという印に、報酬として玩具を受け取ります。

MWDのデモンストレーション中に犬のおもちゃを紹介すると、
そこにいる犬は耳をピンとたてて興奮するのを観客は目にするでしょう。
それは犬がハンドラーに出す
「任務を完了するためのやる気十分」の合図です。

犬が玩具を見つけるために行うプレイドライブは、
そのモチベーションを利用して本職の捜索活動を容易にするのです。

MWDの本職とは、麻薬あるいは爆発物の捜索であり、
(必ずそのどちらかであり、1匹がどちらの任務もすることはない)
彼らはその訓練を受けています。

そして、犬がそのどちらかを見つけたとき、
そのハンドラーは必ず安全を保証される必要があります。

犬は大変鋭敏な嗅覚を持っていることは有名ですが、
その
鼻には2億2500万個の嗅覚受容体が含まれており、
(人類の嗅覚受容体は500万個にすぎない)
この特性だけでも、彼らは理想的な軍事作戦参加者になります。

そして、彼らの
忠誠心と、人を喜ばせたいと言う願望
犬たちを基地や戦場で重要な存在とするのです。



バス上等兵がタッグを組む犬はパト(Pato)
パトは爆発物探査専門のMDWです。
爆発物に見立てた対象物を探し出すデモンストレーション中。



MWDがご褒美に与えられるおもちゃ。
硬化ゴム製らしい瓢箪のようなものは、てっぺんに
匂いが出る穴が空いているのにご注意ください。



これもご褒美として犬がもらうおもちゃの一種です。
穴が等間隔に開いているので笛みたいですが、
こちらも匂いを仕込んで捜索訓練に使います。
その犬の任務に合わせて、爆発物の匂い、ドラッグの匂いが使われます。

■犬はどこから来たの?


基地にいる犬のほとんどは、ベルジャンマリノア、
オランダ&ジャーマンシェパード、ベルジャンテルビュレン
のどれかです。

犬の75%はヨーロッパから輸入されていますが、
25%はテキサス州のラックランドにある
「ミリタリー・ワーキング・ドッグセンター」で飼育されています。

ラックランドでは、米国内及び海外からの犬とハンドラーが
パトロール、偵察、建物の創作、麻薬や爆発物の検出を行うため
共に訓練を受けています。

訓練方法は、それぞれの犬の特性や性格を考慮に入れます。
ハンドラーの仕事は簡単ではなく、犬を担当するということは、
ハンドラーが犬の入浴、餌やり、遊び、運動だけでなく、
記録を詳細に付けて最新の状態に保つことを意味します。

誕生から8週間まで、将来の犬は彼らの子育てセンターの
第341訓練飛行隊で飼育されます。
8週間に達すると、子犬はサンアントニオ・オースティン地域で
資格のある里親といっしょに家に帰ります。

7〜9ヶ月になるとMWDの候補として観察されます。
どんな子犬も使役犬になれるという保証はありませんが、強い意欲を示し、
様々な環境に適応し、仕事に対する報酬へのモチベーションを持つ子犬は、
資格ありとして事前トレーニングプログラムに移行します。



もしもーし、ベッドからこぼれ落ちてますよ〜。

タグづけされたベルジャンマリノアの子犬の、
年長さん、ドンジャ(上)はもうちびたちを見守ることもできます。

第341訓練隊は共同ユニットであり、
全てのサービスブランチがMWDを提供する機会を与えています。

さて、この子犬たちは将来そろってMWDになれるでしょうか。


続く。





「あなたの犬軍隊に預けませんか」軍用犬供出と今日のMWD~フライングレザーネック航空博物館

2021-11-16 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンディエゴのミラマー基地におけるMWD、
又の名をK-9、海兵隊使役犬の訓練について前回お話ししました。

ミラマー基地のケンネルで行われたデモンストレーションでは、
探査訓練とともに攻撃の訓練成果が発表されたわけですが、
少しこの「攻撃犬」(アタックドッグ)について書いておきます。

■ アタック・ドッグ

犬を訓練して標的を襲わせることは古代から行われていました。
古代ローマが犬を武器として使うようになったのは、
ベルセラの戦いで敵が投入した犬に苦しめられたことがきっかけでした。

その後彼らは犬を明確に武器として、獰猛に飼育し始めたのです。
ローマの博物学者・作家である長老プリニウスは、その訓練の結果、
犬たちは剣を突きつけられても全く怯まなかった、と記しています。
ローマの攻撃犬は、敵の陣形を崩させるために、
鋭利なスパイクで覆われた金属製の鎧を装着していました。


着用例

●アメリカで最初に攻撃犬を使用したのは、
ベンジャミン・フランクリンの提案でした。
フランクリンは、
「犬と一緒に寝るものはノミと一緒に目覚める」
と言う名言?を残しています。

実体験だったのね。

●独立戦争の英雄チャールズ・リー将軍は、
犬が好きすぎてどこに行くにも連れ歩き、
食事の席にも同席させ椅子に座らせたりして周囲に嫌がられていたそうです。



スクロールして最後にびっくり、リー将軍と犬

●アパルトヘイト下の南アフリカで、国防軍は
狼と犬のハイブリッドを実験的に攻撃犬とし、ゲリラと戦っていました。


■攻撃犬の訓練とその用途

攻撃犬は、敵とされるターゲットを追いかけ、噛みつき、
怪我をさせ、場合によっては殺すように訓練されます。
その際、犬には状況を判断し、それに応じて反応するスキルが求められます。

正式な訓練では、犬は訓練の効果を高めるために銃声や騒音、
その他障害にさらされることになります。

攻撃犬になるための訓練は犬の凶暴性を助長するとして非難されたりします。
現に、人を噛んだ犬の10%が攻撃犬の訓練を受けていたという報告もあり、
それは一種の「職業病」として動物愛護の観点から問題視されているのだとか。


現代の軍隊でも、主に見張りのために攻撃犬を使用しています。
犬は自分の持ち場を守り、侵入者を攻撃するように訓練されています。
また軍犬が捕虜に対する心理的拷問に使われ問題になったことがありました。

これな

軍用と警察でのK-9の使い方が少し違うとすれば、
警察犬は、人間が危険にさらされている状況を識別し、
それに応じて反応するように訓練されていることです。

警察の攻撃犬は一般的に、怪我をさせるというよりは
ターゲットを取り押さえることを目標に訓練されています。

軍隊レベルの訓練を受けた犬を一般人が手に入れることはできますが、
これらの犬は「エリート」であるので、価格は跳ね上がり、
中には数十万ドルもする元K-9もいるそうです。


■あなたの犬を軍隊に預けませんか?

この誘い文句で犬の供出要請がアメリカ政府から国民に対して出されたのは、
真珠湾攻撃が起こった直後の1942年のことでした。

アメリカ軍は、第一次世界大戦の時にすでに軍隊に
犬がその価値を証明したのを知りながら、自分たちが
その後何も具体的な行動をとらなかったことに気づいたのです。

ヨーロッパ戦線で、犬たちは歩哨任務に立ち、メッセージを運び、
塹壕にいるネズミを軍隊が到着する前に退治しました。

この政府要請を受けたアメリカ国民は、その後2年間で、
4万匹以上の犬をUSMCに送ることでそれに応えました。
(中にはあの『チップス』のように、行儀が悪くて持て余した犬を
処分かたがた軍送りする家庭が結構あった
ということです)

そして、犬のハンドラーとして1万人が従事しました。


1943年12月20日付でアールビンという人物に
USMCの司令官が送った手紙には、彼が犬を供出したことに対して
その奉仕を称賛する内容が書かれています。

翻訳しておきましょう。

親愛なるアールビン氏:

アメリカ海兵隊と日本との戦争のためにあなたから寄贈された
ドーベルマン・ピンシャー「レックス」が、英領ソロモン諸島の
ブーゲンビルにおいて最近行われた水陸両用作戦で
卓越した戦闘能力を発揮したことをお知らせします。

偵察犬「レックス」は、作戦7日目の夜、海兵隊駐屯地の近くに
日本兵がいることを警告しました。
夜明け、日本軍は我々の駐留していた場所を攻撃しましたが、
「レックス」が警告してくれた結果、海兵隊は攻撃に備え、
撃退することに成功したものです。

「レックス」の行動は、間違いなく

多くの海兵隊員の命を救うのに役立ちました。

敬具

T. ホルコム
USMC少将 アメリカ海兵隊司令



レックスとハンドラー(とレックスの餌入れ)

ただし、アメリカが犬を敵(つまり人間)に対する攻撃用として使役したのは、
第二次世界大戦まで、厳密に言うと沖縄戦まででした。

沖縄戦以降、アメリカは犬の主たる使用目的を、
偵察や探索に変えることになります。
その理由は、沖縄戦に投入された日本の軍用犬の末路だった、
と言う話があります。

■ 日本の軍用犬出征式


朝日新聞社のアーカイブスから、「軍犬の出征式」です。
幟に書かれた犬の名前を見ると、
いわゆる和名より洋式の名前がほとんどなのに気がつきます。

「ドリー」「ガルボ」「ベラ」「ダイア」
そしてこちら(日本側)にも「レックス」がいるではありませんか。
当時の日本ではどちらかというと犬の名前は西洋風が流行っていたようです。

アメリカからも日本からも、同じような名前の犬が出征し、
そして同じように戦火に斃れていったのでしょう。
何も知らずに歩いている犬たちの映像を見ているだけで胸が痛くなります。

日本で本格的に軍犬が使われるようになったのは第一次大戦以降で、
陸軍歩兵学校にシェパード、ドーベルマンなど大型犬の軍犬育成機関ができ、
それに伴い、軍用犬を供出する民間の組織も誕生しました。

陸軍の軍用犬は中国戦線で伝令や警備の任務に派遣されました。
このニュースに見られるような犬の出征壮行も行われるようになります。

満州国の成立以降は、関東軍、大日本帝国海軍も
警備犬として軍用犬の導入を開始しましたが、
太平洋戦線では連合軍側の軍用犬戦術が向上したことや、
兵站の関係で人間の食料すら確保が困難になってきたこともあり、
日本側の軍用犬の配備は急激に数を減らして行きました。

沖縄戦は日本軍にとっても軍用犬を「攻撃犬」として投入した最後の戦闘でした。
このとき沖縄に投入された軍用犬は勇敢に戦いましたが、
近代兵器の前にはあまりにも無力であり、そのほとんど全てが
ハンドラーとともに戦死することになりました。

アメリカ側の、沖縄戦についてのある資料によると、皮肉にもこの事実が
アメリカ軍を始めとする近代軍隊に軍犬を攻撃用として運用することを
廃止させるきっかけになった、と書かれています。


■ウォー・ダーグ(War DAWG)ウィークエンド

前回書きましたが、ミラマーでMDWプログラムを受けることのできるハンドラーは
海兵隊エリートであると同時にハンドラー界のエリートと目されています。

まず、プログラムを受ける全ての海兵隊員、そして警察官は、
彼らが派遣される基地で担当の犬とマッチングされます。

ミラマーで訓練を受けた犬は2009年に配備を完了し、
彼らはハンドラーと共に大統領就任式、共和党大会、民主党大会などの
全国的なイベントなどに駆り出され、警備チームの一翼を担うのです。

また、彼らはキャンプ・ペンデルトンで毎年開催される
「War DAWG」
と言う大会に出場します。

「ダーグ(ドッグと発音は同じ)」というのは、
「the men and women who team up with dogs in combat」
つまり軍用犬ハンドラーと同義ですが、このイベントは、
もともと三人の「Nam Dawg」
がペンデルトン基地のMWDケンネルで、過去のハンドラーと
K9たちに敬意を評してバーベキュー大会を始めた(アメリカらしい)
ことから始まっています。

まずこのダーグとはなんぞや、というと、
普通に「犬」のスラングで「ダーグ」と発音します。
そして、同時に「ブラザー」みたいなノリの「友達」という意味でもあります。

それから「ナム」はベトナムという意味なので、つまり
「ナム・ドーグ」=ベトナム退役軍人の元ハンドラーとなります。

ペンドルトンでは、毎年ベトナム退役軍人のグループが主導する
MWDとハンドラーを称える追悼イベントが開催され、
同時にK-9の技量を競う競技会(とバーベキュー大会)が行われるのです。

式典では、ベトナムで戦死した300名以上のハンドラーとMWD、
イラクとアフガニスタンで戦死した約30名の名前が読み上げられるならわしです。

「ウォー・ダーグ」で行われるコンテスト、
「Iron Dawg Competition」
は、軍部隊や法執行機関のK9チームのスキルを披露するもので、参加者は、
戦術/服従 薬物/爆発物探知 噛みつき/攻撃 耐久走
の4つの種目で競い合います。



「アイアン・ダーグ」競技参加中のフィッシュバウ伍長とMWDワンドゥ
これもしかしたらしんどいのは人だけなんじゃ・・・。



フィッシュバウ伍長(左)は、MWDワンドゥと出場し優勝。
なんと全部で三つのアワードを獲得しました。
盾を渡しているのはミラマー基地のダニエル軍曹です。

フィッシュバウ伍長の上腕二頭筋の太さとお揃いの刺青をご覧ください。
何をすれば女性の筋肉がこんなに発達するのかわかりませんが、
つまり一流のハンドラーというのは犬と一緒に走り回り、
筋肉を鍛え上げているということなのでしょう。

自衛隊のハンドラーを見る限り、こういうゴリマッチョな感じは受けないのですが、
この辺がアメリカ軍、海兵隊のハンドラーの文化なのかもしれません。

決して酸素マスクと耐Gスーツをつけないブルーエンジェルスのように、
アメリカ軍って時々「何と戦っているのか」という無謀なところ、ありますよね。


三つもの盾をもらって得意そうなワンドゥMWD
ミラマーの彼の犬舎前でポーズ。

■MWDの訓練用ギア


噛みつき訓練(bite-work)で使用する防御ギアのご紹介です。
こちらは革製の保護用ヘルメット。
空中を高速で激しくぶつかってくる犬にノックダウンされたときに
彼らの鋭い牙から身を守るためのガジェットです。


革製とワイヤ、2種類のマズル(口輪のようなマスク)
もちろん犬用です。

マズルは安全上の理由からハンドラーの判断で状況によって使用されます。
たとえばMWDの周りに一般の人がいっぱいいるとき。
中には犬が大好きで、つい撫でたくなってしまう人もいるわけです。

しかしほとんどのMWD、軍用犬は、その任務、
「探索すること」「噛むこと」にのみ忠実です。
通常はコマンドが与えられた時のみ噛みつきますが、
非常事態には命令がなくても攻撃を行います。

なぜなら、彼らはハンドラーに対して忠実、
かつその身を守ることを第一の使命と心得ているので、
そのほかの人々をハンドラーに対する脅威と見なし、
これを排除すべく、問答無用で攻撃してくるものなのです。
たとえ相手が小さな子供であっても。


ミラマー基地で使用されている犬舎のネームタグです。
エルトロ(牡牛の意)の犬舎は1999年に廃止されました。
フリッツくんもマーツォくんも、退役済みでしょう。

■MWD退役後の養子縁組制度

ところで、退役といえば、現役引退したMWDはどうなるのでしょうか。

2000年に引退した軍用犬と養子縁組を結ぶことができる
『ロビー法』
が可決され、これによって毎年、
テキサスのラックランド海兵隊航空基地からは
数百匹単位の犬が養子縁組されるようになりました。

年齢や健康上の理由で引退する犬もいれば、資格を取得できなかった、
または維持できなかったために退職する犬もいます。
軍用犬の任務には95%の精度が求められるのでしかたありません。
(軍人の退役年齢が早いのと同じ理由ですね)

犬の養子縁組が最初にオファーされるのは、その犬の元ハンドラーです。
ほとんどのハンドラーがそのオファーを受けますが、
もし不可能な場合は、次に法執行機関が検討され、
そのどちらもご縁がなかった場合は、民間に引き取り手を募集します。

軍用犬は訓練されているから扱いやすいというのは大きな間違いです。
訓練やその仕事の性質上、犬とはいえ

PTSDを含む健康や行動上の問題を抱えているのが普通です。

一般家庭に飼われている元K-9に、何かのはずみで「スイッチ」が入り、
通行人を噛んでしまって大ごとになった、
という例を、わたしも実際に見聞きしたことがあります。

これはその犬が「ダメ犬」だからではなく、前職のトラウマや残渣からくる
一種の「バグ」であり、そのことも可能性として十分起こりうることを
予想・理解しながら飼ってやる必要があるのです。

そのため、アメリカでは民間の申請者は、受入環境や
犬の取り扱いについての知識、経験を慎重に審査されます。

しかし、住宅事情一つとっても犬を飼いやすい環境にあるアメリカでは、
退役した犬の養子縁組を打診された場合、
ほぼ100%のハンドラーが犬を自身が引き取ることを申し出るそうです。

任務中犬との間に培われた固い絆が、一生を共にしようと思わせるのでしょう。
余生を、信頼できるハンドラーとのんびり過ごせる犬は、幸せです。


続く。


K-9とMWD 軍用犬の歴史〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

「海兵隊の軍用使役犬が戦闘に寄与する能力は、
人や機械では再現できるものではない。
そのパフォーマンスの費用対効果は
我々の所有するどんな装備よりもある意味優れている。

この信じられないほど貴重な資源にもっと投資しなければ、
我々の軍隊は立ち行かなくなるだろう」

これは、デビッド・H・ペトラエウス海兵隊将軍の言葉です。

フライング・レザーネック博物館は、かつての展示を
かなりボリュームダウンし、最小限に絞ったらしい、
と帝国海軍搭乗員コーナーの説明の日に述べましたが、
全体を見て思うに、それは新たに本日紹介する
海兵隊の軍用犬コーナーを拡張するためだと気づきました。



決して広くない室内展示スペースのほとんどが
軍用犬の紹介のためのパネルに割かれていたのです。

どういう事情で軍用犬をクローズアップすることになったのか、
今のところ説明がないのでわかりませんが、
今日はそのミリタリー・ワーキング・ドッグ、MWDを紹介します。

■軍用犬の歴史



軍用犬は、エジプト、ギリシャ、ペルシャ、サルマティア、アラン、
スラブ、ブリトン、ローマで使用されました。
記録に残る限り、戦闘で軍用犬を最初に使用したのは、
紀元前600年頃のキンメリアに対するリディアだったと言われています。

🐕紀元前7世紀半ば:エフェソがマグネシアと行った戦争では、
最初に犬を放ち、続いて槍、そして騎兵の突撃という順序で攻撃した。
犬と一緒に埋葬された騎兵の墓が遺されている。

🐕古代末期、フン族のアッティラは巨大なモロッサー犬
(ブルドッグやマスチーフ、パグなど)を使用した。

🐕紀元前525年:ペルシウムの戦いで、カンビュセス2世は
動物に対するエジプトの宗教的敬意を利用して、
最前線に犬や猫など動物を配備し、攻撃できないようにした。

🐕紀元前490年:マラトンの戦いで、犬が重装歩兵隊に配備され
ペルシャと戦った様子が、壁画に遺されている。

🐕紀元前231年:ローマ軍はサルデーニャの内陸部で
「イタリアからの犬」を使って洞窟から先住民を追い出した。

🐕ヨーロッパの王族の間では繁殖用の軍用犬を贈りあう風習があった。

🐕スペイン軍は、訓練したマスティフやその他大型犬を使い
ネイティブアメリカンに腹裂きの刑などを行って虐殺した。

🐕犬をメッセンジャーに使ったのは七年戦争の時のフリードリッヒ大王で、
ナポレオンもまた、戦争に犬を使用していたと言われる。

🐕フランスの海軍施設では1770年まで警備犬が使用されていた。

🐕1914〜1918年:第一次世界大戦で犬は主に通信用として使われ、
約100万匹が戦死したとされる。

スタビー軍曹
アメリカン・ピット・ブル・テリアのミックスである
スタビー軍曹(Sgt Stubby)は、

第一位世界大戦中最も有名な犬であり、勲章も数多く授与されている。

SGT STUBBY Official US Teaser Trailer 02 2018

アメリカでの軍事目的での犬の最初の公式使用は、セミノール戦争のときです。
南北戦争でアメリカン・ピット・ブル・テリアは、通信任務に使われ、
第一次世界大戦では兵隊募集のポスターにマスコットとして使用されました。


第一次大戦の頃のピットブルをアメリカに準えた謎のポスター。


左から、
スウェーデンブルドッグ、ジャーマンダックスフント、
アメリカンブルテリア、フレンチブルドッグ、ロシアンウルフハウンド。
最後はつまりボルゾイということですね。

ピットブルテリア君は、
「僕はニュートラル。でも、彼らなんか怖くないぞ!」
と言っています。
第一次世界大戦の時の最初の頃のアメリカの立場を表明しているんですかね。

🐕1941–1945:ソ連は犬に爆薬をつけてドイツの戦車に放った。

🐕1943年から1945年:アメリカ海兵隊は、市民から寄贈された犬を
太平洋における日本軍からの島嶼奪回に投入した。
この時期、ドーベルマンがUSMCの公式犬と決められた。

基本的にすべての品種の犬が「太平洋の軍犬」として投入された。
戦争から戻った549匹の犬のうち、民間の生活に戻れなかったのは4匹。
その他はハンドラーが家に連れて帰っている。


Chips the dog
ジャーマンシェパードのチップス
は、当時最も表彰を受けた軍犬です。
戦地でアイゼンハワー将軍の謁見を受けたこともありました。

しかし、もともと彼がなぜ軍隊入りしたかというと、
ゴミ収集人にかみついたので、飼い主が持て余していたところ、
ちょうど軍が犬を募集していたので送られてしまった
のだとか。

🐕1966〜1973年:ベトナム戦争には約5,000匹の軍犬が参加した。
約10,000人の軍人がハンドラーに割り当てられ、
K9ユニットは10,000人以上の人命を救ったと推定される。

 
一方、232匹の軍用犬と295名のハンドラーが戦死した。
約200匹のベトナム軍用犬が戦争を生き延び、
国外のアメリカ軍基地に配属されたと推定されている。
残りの犬は安楽死させられるか、現地に置き去りにされた。

🐕
2011年:ネイビーシールズがカイロという名前のベルギーシェパードを
オサマ・ビン・ラディンの殺害チームに参加させていた

このとき参加したネイビーシールズのメンバーは、
なぜか全員がその直後謎の死を遂げましたが、
カイロ犬がどうなったかまではわかっていないようです。

犬は都合の悪いことを喋ったりしないのでセーフ・・おっと。

■K-9

ハリソン・フォードの潜水艦映画にこんなのがありましたね。
・・・それは19や!というツッコミを待つまでもありません。

K-9。
英語に接しているとときどきこの言葉を耳にします。

K-9、それは「dog」と同義です。

特に法執行機関や軍用犬などの作業犬を指すことが多く、
特に軍は略称や記号による言い換えを好むのでよく使われます。

数詞(Numeronyms)とは、数字を基にした言葉で、
数字が特定の音を言い表しているものですが、
Canine=ケイナインは、たまたま数詞によりできており、
犬やキツネ、オオカミなどのイヌ科を指す言葉です。
「ケイナイン」を「K9」と表記する数詞はそのまま「犬」を表します。

たとえば忙しい動物病院やアニマルシェルターでは、
手術の手配や施設内の動物を把握するとき、
「犬」をK9と表記することがあります。
dogと一字しか違いませんが、そう書く方が「専門ぽい」からかな。


警察犬の場合は、パトカーの車内に犬がいることを知らせる表示や、
警察犬が着用するユニフォームなどに「K9」の文字が使われます。

K9ユニットは、日々の巡回から麻薬輸送の痕跡の発見まで、
あらゆる活動において日々活躍しています。
警察犬とハンドラーは、それぞれの仕事に適した特別な訓練を受けており、
優秀な警察犬は非常に貴重な存在として尊敬されます。

余談ですが、アメリカでは警察犬も軍用犬と同じく階級がつけられます。
昇進とかはなく、自動的にサージャント(巡査部長)になるのですが、
この理由は、万が一犬が任務上反撃者に殺傷された場合、
ただの犬では法的に物損事故にしか問えないので、
階級をあたえているのだとか。(MK情報なのでソースなし)

たとえばダックスという名前だと、K-9 Sgt. Daxという具合です。

ちなみに日本はアジアでは数少ない警察犬を採用している国ですが、
犬は基本的に「装備」扱いで階級は与えられません。

■逃走した警察犬「クレバ号」とその後

ところで超余談ですが、日本の警察犬「クレバ号」の話、ご存知ですか?

2020年(令和2年)10月24日に、行方不明者の捜索にあたっていた
兵庫県警察の警察犬・クレバ号が突然走り出し、その拍子に
鑑識課員の手から
リードが離れて逃走してしまった。

県警は鑑識課員ら約40人態勢でヘリを投入し連日捜索を続け、
3日目の午前に、逃げ出した場所から南西へ約100メートル離れた山頂付近で、
木に
リードが絡まって動けなくなっていたクレバ号を鑑識課員が見つけた。



その後クレバ号は、多くの市民の請願もあって再訓練後、現場復帰し、
復帰後4日目に行方不明の女性の捜索に出動して見事探し出し、
手柄を上げて表彰されたばかりか、今年の6月7日、
やはり行方不明の高齢男性を40分で見つけ出しました。

わたしはこういう話にめっぽう弱いもので、
山中で動けなくなっていたクレバ号の様子を想像したり、
その後の汚名返上の大活躍のニュースを見聞きしただけで
不覚にも目頭が熱くなってしまいます。



■ 海兵隊のMWD軍用犬


海兵隊ではK-9の名称は使わず、一般的にMWDと称しているようです。
(もちろんKー9も使われます)

アメリカ国内と世界の全てのUSMC基地には、
2010年に更新された最先端の犬舎と訓練施設をホストする
海兵隊ミラマー航空基地が編纂した軍用作業犬プログラムがあります。

なるほど、これで、ここに軍用犬のコーナーが
大々的におかれている訳がわかりました。

海兵隊のドッグ・ハンドラーの職業コードはMOS5812
とくにミラマー基地のハンドラーはその中でもエリートだそうです。

海兵隊のハンドラー職種募集のページは、こんな言葉から始まります。

「暑い砂漠の道を進む隊員の目の前で、爆発物を発見した自分のパートナー。
親友、忠実な仲間の姿に、あなたは誇りを感じます。

自分とパートナーが一体となって訓練を共にした結果、
無数の隊員の命を救い、その喜びを分かち合うことができるのです。

これが、海兵隊の軍用作業犬ハンドラー(MWD)通称MOS 5812の生活です。

このMOSは、模範的なリーダーシップを発揮し、
通常の海兵隊に課せられる以上の任務をこなし、厳しい選考を経て
軍用K9との共同作業に選ばれた海兵隊員にのみ与えられる称号です」


MOS 5812は、もともと5811(憲兵)だった海兵隊員が
副次的に応募して取得することのできる職種MOSです。

K9ハンドラーになるために最も模範的な海兵隊員だけが、
非常に競争の激しい選考プロセスを経て選ばれる職種で、
それゆえ彼らは海兵隊の「エリート」とされているわけです。

それでは次回は、FLAの展示をもとに、
海兵隊のK-9とハンドラーについてお話ししましょう。

続く。


映画「オキナワ 神風との対決」〜史上最低の戦争映画

2021-11-12 | 映画


「世紀の駄作」と人のいう戦争映画、「OKINAWA」2日目です。

オキナワと題名につけるのであれば、沖縄上陸もからめ、
陸戦の様子や、せめて艦砲射撃によって死んでいく
挺身隊の女生徒などの描写もあればまだ見られるのですが、
この映画における「沖縄」とは、どこにあるのか知らないけれど、
アメリカ海軍の一個艦隊で全体を隙間なく周りを包囲できる、
淡路島の半分くらいの大きさの島であり、
彼らがどこかわからないまま艦砲を打ち込んでいる(らしい)
観念上の島にすぎず、相変わらず映画は
艦上で総員配置と解除をくりかえして時間稼ぎしております。

先日「マーフィーの戦争」の項でご紹介した
「SAVE THE CAT」の法則に当てはめるまでもなく、
まったくこの映画には、人の興味を継続させる要素が見当たらないのです。

もしブログで扱うという使命?がなければ、
おそらく始まって10分で観るのをギブアップしていたに違いありません。

何度目かわからない総員配置の間にも、
無線からは前方の艦が特攻にやられたと連絡が続々とはいってきます。

「機関室が炎上中!」「こちらも複数命中した!」

映像はありません。通信だけです。

全速でそちらに向かうことになった駆逐艦「ブランディング」ですが、
それを全く知らされない(のもなんか変じゃね?)乗員たちは呑気です。

ヒスパニック系のクリスマスの思い出を語るのはデルガド。

「あのとき棒で叩いた人形の中から出てくるのはお菓子だったが、
今空に向かって棒を振り回して落ちてくるのは人間だ」

と無理やり今の状況にこじつけて眉を曇らせるのでした。

はて、ピニャータ(中にお菓子を入れたハリボテの人形などで、
木に吊るして目隠しをしたその日の主人公が叩いて壊し、
参加した子供たちが皆で中のものを分け合う)の儀式は
確か誕生日のイベントだったような気が。
クリスマスにそんなことする風習あったっけ。

その後特攻の被害を受けた艦のいる海域に到着し、
彼らが黒煙を吐きながら炎上している僚艦(実写による映像)
を目の当たりにしてショックを受けていると、
またしても総員配置が命ぜられます。

しかしまたすぐ解除。 
本当にこの繰り返しがしつこくて、
ここで映画を観るのをやめてしまう人は多いと思われます。

彼らが見たのは、カミカゼ攻撃を受けた無残な僚艦の姿でした。
艦首が全くなくなってしまった惨状に息を呑み目を背けます。

そしてついに彼らは特攻機に遭遇することになりました。

とは言え映像はどこかで見たことのある特攻機突入のシーンと、
登場人物たちのいる砲塔内の退屈なクロスカットが続きます。

そしてついに駆逐艦「ブランディング」は船倉に損傷を受けました。
被害を受けたのはなぜかビールだけでした。

ところでもう設定から無くなっているようだけど、
爆発した蒸気配管っていつの間に直ってたの?
みんなで噛んだガムで穴をふさいだのかしら。

特攻で欠落して欠けてしまった船を地図から外しながら、

「今の私を子供が見たら遊んでると思うだろう。
遊びは戦争の本質だがな。
あっちこっち撃ち合って互いの玩具を壊し合う」

という艦長。
相変わらず地図の上では少数の艦で南西諸島の周囲を
円形に取り囲んでおります。

戦争に関して悟ったような比喩をかます俺イケてる、と思ってるのでしょう。

次の戦闘でついにまともに特攻の激突を受けます。

本作品唯一の模型を使った戦闘シーンですが、
姑息にも艦橋の模型の後ろのスクリーンに実写の映像を映し、
それをキャメラで撮影するという、涙ぐましいほどせこい方法です。

そして、指揮官率先とばかり、単身現場に飛び込んでいく艦長を、
乗員は誰一人助けず息を飲んで見物しているのも妙な設定です。

この迎撃の前に手袋をとり落としてしまったエマーソンは、
素手で薬莢を移動させる任務をしたため、手に火傷の重傷を負いました。

医療品も炎上して血漿がないので、彼は送り返されることになり、
欠員の出た砲員の席には、下働きだった
フィリピン人のフェリックスが念願かなって入ることになりました。

駆逐艦というような小さな軍艦の場合、下働きなども
一応戦闘時の非常配置というのが決まっていると思うし、
兵員の補充に対してもある程度決まっているはずだから、
何の予備知識もない下働きを
いきなり砲塔に入れることはないような気がしますが。

その夜、すっかり乗員の士気が落ちていると感じた艦長は、
副長のフィリップスに「とっておきの」映画を見せるように命じました。

リールのタイトルを見てフィリップスはやれやれという顔をします。

「熱帯病の原因と対処」

ところが!
その中身はマリリン・モンロー主演の
「Ladies of the Chorus」(日本未公開)でした。
ちなみにこの作品は1948年の公開なので、この頃には存在しません。

フィリップスびっくり、総員大喜びで士気もあがりまくりです。

「熱帯病、最高だぜ!」

これが唯一この映画の映画らしいエピソードかもしれません。
しかし、残念ながら戦争映画に嫌というほどあるパターンです。


ちょうどその時、艦長のもとに無線によるニュースが届きました。
合衆国大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト死去。

艦長は悲痛な顔をしてつぶやきます。

「大統領は海軍の親友だった」

その次から始まる実写には日本人なら誰でもびっくりです。

なんと、「沖縄の米艦隊を今目指してくる特攻隊」と言う設定で、
義烈空挺隊出撃のニュースリールが延々と流れるではありませんか。

「全員喜び勇んで往きます」

という隊長奥山道郎大尉の挨拶もちゃんと収録された映像です。

ご存知のように義烈空挺隊は空挺決死作戦に散華した部隊であり、
彼らのいう航空特攻、「キャマカゼ」とも「カミカチ」とも
全く関係がありません。

間違いもいいところです。

しかもこの映像を見れば、彼らが搭乗しているのが
輸送機であり、戦闘機でも艦爆でもないことは誰にでもわかります。

要するに中身を全く調査せず適当にフィルムを使っているのでしょう。
色々と残念な映画ですが、これにはほとほと呆れ果ててしまいました。

一瞬本物の陸軍特攻の映像が挟まれますが、すぐに場面は
義烈空挺隊の出征シーンに替わります。

今ならインターネットで調べられるんですけどねえ。
ってそういう問題じゃないだろ!

その義烈空挺隊の特攻が迫る中、駆逐艦「ブランディング」は
特攻で出た負傷者を移送するために護衛艦の接岸を待っていました。

「ロードアイランドに帰れる」

とうっとり呟く両眼をやられた乗員。

しかしそのとき、彼らのいうところの「義烈空挺隊の特攻機」が、
真っ直ぐ護衛艦に突入しました。(もちろん実写)
そして彼らが乗るはずの護衛艦は目の前で轟沈してしまいます。

「あっやられた・・・!」

「沈んでいく!」

手をこまねいて目の前の護衛艦の沈没を見ているしかありません。


その後「ブランディング」は迫るカミカゼを撃墜しましたが、
(どこかの実写映像)、同時に機関を損傷しました。
エンジンを停止したところになんと敵潜水艦が現れたので、
艦長は爆雷の投下を命じました。

実に盛り沢山ですが、きっとこの潜水艦映像も
どこかの映画からパクってきていると思います。

爆雷を受けた潜水艦は何がどうなったのかわかりませんが浮上してきました。
そして直進する「ブランディング」と直角に衝突してしまいます。
はて、駆逐艦のエンジン、さっき停止させたんじゃなかったっけ。

このシーンに浮上したばかりの筈の潜水艦の甲板には
なぜかたった一人だけ、セーラー服を着た水兵が乗っていて、
衝突の前にあわてて海に飛びこんで笑わせてくれます。

(この日本兵役:H.W. Gim)

しかし衝突の衝撃で砲塔から顔を出していたロバーグは死んでしまいました。
ちなみにロバーグというのは砲塔勤務の長老的存在で、
賭けの好きなグリップなど、ロバーグの年齢がいくつか賭けていました。

ここは砲塔内ですが、衝突時、
ロバーグはよりによって外に顔を出していたようです。

ともあれ、これで彼らの任務は終わりです。
虚脱したかのように甲板で夕日を見つめながら吐息をつくのでした。

「祖国に帰れる・・・」

砲員をねぎらうためにやってきた艦長は、まずエマーソンに
(どこで二人の会話を聞いていたのか)こんなことを言います。

「君の予想(カミカゼは我々を飛越す)は外れたな」

それを受けてエマーソンは、

「彼らは我々をパスするべきでした。彼らの目標は間違いだった」

するとグリップが、

「そうだ、カミカゼは頭がおかしい」

この映画の制作者のレベルがよく表されているセリフです。
そして艦長は、それに対し、

「わたしはそう思わない。
彼らは子供で死を尊ぶように洗脳されている。

同じ教育を受ければ我々もああなっただろう」

特攻についてはいろんな扱い方があると思いますが、
「洗脳」の一言で片付けてしまっている映画は初めて見ました。


そして艦長はグリップに手を差し出します。
「よくやった」

そして兼ねてから互いに握力自慢を標榜していた二人は、
お互い握られた手の痛みに顔を歪め、それから笑いだすのでした。
いいシーンのつもりだと思われます。

そして、

「これにて沖縄戦は完全に終結する__エンド」(字幕)

いや、これで終わらなかったし。
ちょっとは沖縄戦について調べろよ!
海兵隊もびっくりだよ。

 

いやー、駄作だとは聞いていましたが、こんな駄作があったとは。
戦争映画のできというのは上を見てもある程度限界はありますが、
下はまるでマリアナ海溝並みでその底知れぬ深さにめまいがしそうです。

この映画をもし一言で言い表すとすれば、

「女性下着をつけていない時の
エド・ウッドの戦争映画」

だと思いました。


最近gooブログの編集形式が変わり、それでなんとなく
文字レイアウトを中央に変えたのですが、
前の画面で3万文字になんとか収めた記事がなぜか制限字数を超え、
2日に分けることを余儀なくされたので、最初に作成したこのタイトル画を
人数半分ずつにわけて2パターン追加で製作しました。

こんなつまらん映画のために手間暇かけて
3パターンも絵を製作してしまうわたしってなに?と改めて思いましたが、
せっかく描いたので、採用しなかったオリジナルを載せておきます。

終わり。

 


映画「オキナワ」神風との対決〜エド・ウッドの戦争映画?

2021-11-10 | 映画


戦争映画ばかりを集めた「戦場の目次録」というセットDVDを買い、
数ある作品の中からタイトルだけをみて選んでしまった今回の映画ですが、
まさか「マーフィーの戦争」を上回る駄作とは思いませんでした。

どれだけ駄作かというと、観終わった瞬間内容を忘れるくらいの駄作です。
記憶に残るのは義烈決死隊などの特攻の実写映像が使われていたことだけ。
映画史的にも全く評価が残っておらず、
wikiにも出演者くらいしか情報がないという・・・。

苦労して映画サイトを調べると、たった一人だけ、
感想を述べている人がいましたが、
これがあまりに痛烈に的をいているので翻訳しておきます。

これにはがっかりした。
何千人ものキャストで構成された感動的な大作になるはずだったが、
数十人のキャストで構成された

くだらない安っぽい小品になってしまったのだ。

沖縄への侵攻には何千何万という兵士が必要だったにもかかわらず、
映画製作者たちはこの費用を巧妙に避けようと考えたのだ。

そこで彼らは、沖縄侵攻のストック映像を大量に使い、
下手な俳優たち(少なくとも台詞の下手な俳優)にそれを演じさせ、
あたかも戦争が起こっているかのように装わせた。

彼らは本当に「何もしていない」!(NOTHING!)

来るシーン来るシーン、文字通り人々が戦争について話し、
何が起こっているかを説明するだけ。
彼らは本当にほとんど何もせず、

わたしはこれがエド・ウッドの戦争映画かと思ったほどだ。

全ての面で酷過ぎ。
観るだけ時間と労力の無駄である。


文中の「エド・ウッドの戦争映画」って何かしら、と思って調べたら、

自らが製作した映画がすべて興行的に失敗したたため、
アメリカで最低の映画監督」と呼ばれ、
常に赤貧にあえぎ、貧困のうちに没した。
死因はアルコール中毒。

最低最悪の出来の映画ばかり作り、評価も最悪だった
(というよりその全てが評価対象以前だった)
にもかかわらず、それでもなお映画制作に対する熱意や、
ほとばしる情熱を最後まで失わなかったため、

「ハリウッドの反天才」と呼ばれる。

真珠湾攻撃の後に海兵隊伍長としてタラワの戦いに参加。
日本兵の銃床で殴打され前歯2本を失い、

機関銃で足を数回負傷している。

女装癖があり、第二次世界大戦に従軍した際、
上陸作戦中にブラジャーとパンツを軍服の下に着込んでいた。
そして「殺されるよりも、負傷して軍医にばれることを恐れていた」wikiより

 

Oh・・・(戦慄)

しかし逆張り上等のティム・バートンとか
クェンティン・タランティーノなどは彼の作品を支持していますし、
今や一周回って一部にカルト的な人気があったりするそうで・・

ティム・バートンなど、好きすぎて「エド・ウッド」という
彼の伝記映画まで作っています。

ちなみに彼の代表作?は

「死霊の盆踊り」(原題Orgy of the Dead死者の乱痴気パーティ)

あ、これわたしでも知ってるぞ。有名ですよね。
観てないけど。

 

さて、それでは「エド・ウッド並み」と人の言う、
戦争映画の解説を始めましょう。(なんか怖いな)


1945年4月1日、第五艦隊は日本本土上陸作戦に向かいました。
その初めての目的地は沖縄でした。

噂通り?さっそく実写映像の連続です。

映画の舞台となるのは第5艦隊のピケットラインに配属され、
補給船と上陸部隊を支援する駆逐艦「ブランディング」
これがどうやら本作の「主人公」らしいです。

緊張した面持ちでその時が来るのを待つ駆逐艦の乗員たち。

この巨大なヘルメットを装着しているということは・・・

沖縄本土に向けて艦砲射撃が行われるのです。

また一頻りニュースリールの映像が続き・・

「どこに向けて撃ってるんだ」

「オキナワって島だ とにかく撃て」

水兵たちは目標を見ることができないので、自分がどこを撃っているのか
全くわからず各自の動作を淡々と行なっているわけです。

実際に沖縄上陸に際して米軍が行った艦砲射撃では、
そのせいで島の地形が変わったとも言われ、
生き残った沖縄の人々は、戦後、自分たちのことを
「カンポーヌクェーヌクサー(艦砲射撃の喰い残し)」
と表現したほどでした。

撃ち方やめになって、どこに撃つのかぐらい知りたいとか、
狭くて暗いところはゴメンだとか、暑さと湿度が暴力的だとか、
手袋をしていても手が熱いなど、皆で愚痴の言い合いが始まります。

本編の主人公たちは砲塔勤務の砲員たちのようですね。

上陸部隊の舟艇が岸に向かうと、援護射撃が再び始まりました。

噂通りここまでほぼ実写映像と繋ぎだけで構成されていますが、
浅瀬を歩いて上陸するアメリカ兵や火を噴く艦砲、
燃える民家の横を海兵隊が進軍する姿など、
実際の映像がふんだんに見られるのはそれはそれで貴重です。

同じ映像を何度も使い回ししなければなおいいのですが。

総員配置が解かれ、ヘロヘロになって砲塔から出てきた砲兵たち。
いきなり甲板に崩れるように転がって横になりました。

タバコよりビールが欲しいとうめく兵。
同僚にそれ艦長に頼めと言われると、

「”あいつ”がそんなことをしてくれるもんか」

そこにコーヒーを持ったフィリピン人の給仕、フェリックスがやってきます。

下働きの彼は大胆にも軍艦の砲員になる野望を抱いていますが、
その理由は、故郷ミンダナオが日本に侵略されたので
仇を取りたいからだ、とこんなところで言い出します。

しかし、フィリピンはもともとスペインの植民地で、
その後米比戦争で大量に民衆を虐殺された結果、
アメリカ合州国が植民地支配していたわけですし、
第二次世界大戦で亡くなったフィリピン人のうち、約4割は
アメリカの無差別爆撃で亡くなったという事実があります。

フェリックスがどういう経緯で軍艦に乗っているのか知りませんが、
日本だけを恨んでアメリカ側に立っていることそのものが
かなり史実をわかっていないということが言えると思います。

アメリカは戦勝国なのをいいことに、結構
自国に都合の悪いことを日本のせいにしたりしているのですが、
このフィリピンでの被害問題もその一つです。

ま、いずれにしてもこれは、アメリカ軍の無慈悲な沖縄攻撃を
正当化するために、ことさら日本を悪者にしているという場面です。

そのとき艦橋から士官のフィリップスが声をかけてきました。
特に意味はありませんが、ただ戦闘後の兵隊たちの働きを労うためです。

「勲章好きのヘイルなんかよりフィリップスが艦長ならよかったのに」

この水兵グリップは、硫黄島でフィリップス中尉と一緒だったのですが、
彼に比べ3日前に艦長になったヘイルは出来が悪い、
となんの根拠もなく決めてかかっています。

さて、士官室では艦長が本日の状況について反省会を行っていました。

艦砲の照準が2度も合わず目標を外した(目標って何だろう?)
ことが、ヘイル艦長のお気に召さないのです。

原因を聞かれて理由がわからないと砲術長が答えると

「なるほど、天皇がそれを聞いたらさぞ喜ぶだろうな」

なるほど、嫌味なタイプか。これじゃ嫌われるわ。

乗員に受けのいいフィリップス大尉は、八方美人なのか
場を取り持つ性格なのか、老朽化した艦まで擁護しています。

演じているリチャード・デニングは、主役級ではないものの、
生涯非常に多数の映画に出演して脇役を演じてきた俳優で、
本人も自分のキャリアについて、

「素晴らしいというものではないが、
そこそこ普通を長年続けてきたことに満足している」

と語ったそうです。
日本で言うと平田昭彦みたいなポジションかしら。

次の作戦についての艦長の説明が始まりました。
こんな風にレーダーを搭載した艦が沖縄を囲む、というのですが、
もしかしてこいつら、沖縄諸島全体を淡路島くらいの大きさと思ってないか?

そして艦長は、日本の「カミカゼ」について言及します。

「未熟で着陸方法すら学んでいない若者がやらされる。
死を恐れずむしろ死にたがる。日本最大の武器だ」

「キャマカゼ・・神聖な風という意味だ」

そのとき、艦内で大音響が。 
かけつけてみると、蒸気配管が爆発しました、との報告。

「最低の艦だな」

艦長は吐き捨てるのですが、これって艦長としてどうなの。

そして、明日の朝までに修理できなければ、作戦に加われず、
したがって沖縄を取り囲む例のラインに穴が開く、というのですが、
南西諸島が無人島も入れて113個あり、総面積1,418.59平方㌖って知ってる?


そして、唐突に昔車が壊れた時噛んでたガムで直した話などを始め、
「全員でガムを噛めば明日までになんとかなる」
と力強く言い切るのでした。

兵員のバンクでは女の話ばかりしているデルガドがギターを弾きながら
他の兵員たちと取るに足りない馬鹿話をしています。

このおっさんが主役というあたりでこの映画の低予算が読めてしまいます。

そのとき士官たちは陸軍の増援要求の無線をキャッチしました。
しかしまだ艦の故障は修理できていません。

にもかかわらず上陸部隊を特攻から守るため、
「ブランディング」が前哨に赴くことになりました。
乗員たちはそこで遭遇するであろう「カミカチ」についての噂を始めます。

曰く、「ガキが日本酒をガブガブ飲んで飛び立つ」
「彼らは自ら望んで命を捨てに来る」

しかしそれもすぐに飽きて、ヘイル艦長嫌いのグリップが
さかんに口癖の物真似を披露していると、本人登場。

慌てて曹長が「彼らはストレスが溜まっていて・・」と言い訳すると、
艦長は、

「別に怒っていない。
が、私を評価するにはまだ何も知らないんじゃないか」

と鷹揚なところを見せます。

 

そして幾度も訪れる総員配置シーン、これは映画独自の撮影ですが、

あとは全て実写フィルムです。

「カモメだった」

誤警報のたびに極度の緊張をしつつ総員配置して待つことが、
「戦闘より辛い」とついこぼしてしまう砲員たち。

バンクでイライラするグリップとインテリのエマーソンが口論しています。

エマーソンの言い分はこうです。
「いくら前哨に立っても、カミカゼは飛行機だから
俺たちは飛び越され、目標にアタックされるだろう」

それに対しグリップは、
「奴らは必ずこの艦に突っ込む。なんなら賭けるか?」

基本グリップはなんでも賭けにしてしまいます。
それにしてもなんて意味のない論争なのか。

その後もグリップがカリフォルニアでグレープフルーツを売っていたこと、
酒がどうしたこうしたという愚にもつかないヨタ話。

映画を見ている人には全く以てそれがどうしたという会話ですが、
しかるに登場人物はそういった話をいつまでもデレデレと垂れ流し続けます。


この手の話をくだらなく思うのは、わたしが日本人だからで、
もしかしてアメリカ人なら、何か琴線に触れるものがあるのだろうか、
と、冒頭の感想を見ていなければ、危うく思ったかもしれません。

そして、驚いたことに、何も起こらないまま
映画はこれで半分来てしまうのです。


ここまで観てわたしは確信しました。
「エド・ウッド並み」どころか、少なくとも、
「死霊の盆踊り」のほうが確実に面白いに違いないということを。



続く。



ジョー・フォスコーナー〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-07 | 飛行家列伝

サンディエゴの海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック」には
ご覧のような「ジョー・フォス」コーナーがあります。





ジョー・フォスはアメリカ海兵隊の戦闘機エースです。
スミソニアンの展示「第二次世界大戦の世界のエース」で
スミソニアンに選ばれたのは、グレゴリー・ボイントン一人でしたが、
この人の名前もその世界では大変有名です。


ジョセフ・ジェイコブ・"ジョー"・フォス
Joseph Jacob "Joe" Foss(1915〜2003)は、
第二次世界大戦中のアメリカ海兵隊を代表する戦闘機のエースの一人。
ガダルカナル・キャンペーンでの空戦での活躍が評価され、
1943年に名誉勲章を受章しました。

戦後は、空軍准将を経て、第20代サウスダコタ州知事、
全米ライフル協会会長、アメリカン・フットボール・リーグコミッショナーなどで
名声を得たほか、テレビ放送作家としても活躍したという、
実に多才な人物です。

ところで今回検索していて、世の中には英語による
「ミリタリーWiki」なるページがあることを知りました。
このページのありがたいことは、軍人であれば
そのサービスや勤務地、ランクについて、
途中経過も含めて記載してくれているところです。

たとえばジョー・フォスの場合、1940年から1946年まで
海兵隊におり、その後アメリカ空軍に移籍したのですが、
海兵隊では少佐まで、空軍では准将まで、とわかりやすく書いてあります。

そして軍サービスで得た「あだ名」についても。

彼のニックネームは
「スモーキー・ジョー」「オールド・ジョー」
「オールド・フース(Foos)」「エース・オブ・エーセズ」
など。
「エースの中のエース」といわれたフォスとはどんなパイロットでしょうか。
「ミリタリー・ウィキ」の力も借りながらお話しします。

■リンドバーグに憧れて

ニューヨークタイムズ紙の表紙を飾ったジョー・フォスの写真。

フォスは、サウスダコタ州の、農家の長男として生まれました。
実家は貧しく、電気も通っていない家だったそうです。

12歳のとき、地元の飛行場に、伝説の飛行家チャールズ・リンドバーグ
「スピリット・オブ・セントルイス号」のツァーで訪れました。

はて、この名前には何か聞き覚えが。
と思い、念のためスミソニアンで撮った写真を調べてみたところ、
ありました。

「スピリット・オブ・セントルイス」実物が。



同機はライアンNYPという型で、1927年、
リンドバーグが史上初の大陸間ノンストップ飛行を達成した機体です。

具体的にはニューヨークからパリまでの5810kmで、
この時の英雄的な飛行はその後、
「翼よ あれがパリの灯だ」という映画に自伝として描かれました。

この飛行によってリンドバーグは一躍ヒーローになり、
リンドバーグブーム、ひいては飛行機ブームが巻き起こりました。

フォスが見たツァーというのは、大陸間横断を成功させた後、
「スピリット」に乗って行った凱旋飛行で、
フォスの故郷であるサウスダコタを含む中南部の都市を巡りました。

それを見て空に憧れたフォスは、その4年後には、
父親と一緒に1人1ドル50セントを払って、空を飛びました。

これは、おそらく遊覧飛行という程度のものだったと思われます。


1933年、フォスが17歳になったとき、父親が事故死します。
暴風雨の中、畑から戻ってきて車から降りたところで電線を踏み、
感電死してしまったのでした。

彼は学校を中退して母親と一緒に農場で働かざるを得なくなります。
その頃、彼の住む地域で海兵隊の飛行チームのデモが行われました。
そしてオープンコックピットの複葉機による華麗な曲芸飛行に魅せられた彼は、
海兵隊の飛行士になることを決意したのでした。

まず彼はガソリンスタンドで働いて書籍代や大学の授業料を稼ぎ、
操縦の個人レッスンを受けることから始めました。

その後州立サウスダコタ大学(USD)に入学した彼は、
志を同じくする学生たちと一緒に、当局に交渉して
大学内に航空局の飛行コースを設けてもらい、
卒業までに100時間の飛行時間を稼ぐことができました。

スポーツに秀でており、大学時代はボクシング部、陸上競技チーム、
フットボールのチームで活躍していたそうです。

1940年には、パイロットの資格と経営学の学位を取得したフォスは、
海軍航空士官候補生プログラムに参加して海軍予備軍になるために、
ヒッチハイクでミネアポリスに向かいました。

■ 軍でのキャリア

海軍飛行士に指定されたフォスは少尉任官し、
まずUSS「コパヒー」( USS Copahee (CVE-12))に乗り組んだ後、
フロリダのペンサコーラ海軍航空基地教官として勤務しました。

学費を稼ぐために働いているうちにかれはすでに26歳になっており、
志望である戦闘機パイロットになるには年を取りすぎていたため、
代わりに海軍の写真学校に配属されたのです。

もちろん彼はこれに不満でした。

最初の任務を終えると、サンディエゴの海軍航空基地、
ノースアイランドにある海兵隊写真撮影隊(VMO-1)に転勤を命じられますが、
フォスはめげず、戦闘機課程への異動を繰り返し希望しました。

上もこれに根をあげたのか、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
訓練課程の履修を許されます。
ただし所属は写真撮影隊のままだったそうです。

そうして彼は1942年6月から1か月間で150時間以上の飛行時間を達成し、
最終的に海兵隊戦闘飛行隊121VMF-121に幹部として配属されたのでした。


同年フォスは高校時代の恋人ジューン・シャクスタと結婚しています。

■ガダルカナル



1942年8月20日、初めてガダルカナルの戦いで投入された戦闘機隊は、
VMF-223、通称ブルドッグスでした。
到着後、中隊はカクタス航空隊の一員となり、その後2ヶ月間、
ラバウルを拠点とする日本軍と制空権をめぐって戦いを繰り広げました。



FL航空博物館の室外航空展示には、ご覧のように
フォスの時代のワイルドキャットが展示されています。
他の航空機は野ざらしなのに、これだけ屋根がついており、
特別扱いを感じさせる展示となっています。

General Motors FM-2 Wildcat

このFM-2の意味は、F=ファイター(戦闘機)、
M=マニファクチャー(GMイースタン)、2=モデルバージョンです。

現地の説明を翻訳しておきます。

最初のF4Fワイルドキャットは、WW2前と初期に、
グラマンエアクラフトによって設計・製造されました。
この航空機は1941年から1942年の間に海兵隊と海軍が運用できる
唯一の効果的な戦闘機という位置づけでした。

太平洋戦行きの初期の主要な敵は帝国海軍の三菱A4M零式でした。
零戦はワイルドキャットを打ち負かすだけの力を持っていましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な機体構造は、
熟練したパイロットが飛行させた時有利になりました。

グラマンは新しい戦闘機F6Fヘルキャットを導入する準備を完了していましたが、
海軍は依然としてF4Fを必要としていました。

ヘルキャット生産の余地を作るために、GMは
ワイルドキャットF4Fの二つのバリエーションを生産しました。
GMのワイルドキャットは、多くの点でグラマンバージョンとは異なりました。

FM-2はより強力でかつ軽量なライトR-1820星型エンジンを搭載していました。
4基の50口径機関銃を搭載し、地上の標的、船、
または浮上している潜水艦に対して高速ロケット弾を搭載しました。

また、エンジンによって増加するトルクを打ち消すために、
標準のF4Fよりテールを高くしてあります。




展示中のワイルドキャットは、ガダルカナルキャンペーン中の
ジョー・フォスが所属した「ブラック53」塗装をされています。


VMF-223は1942年10月中旬までに、日本のエース・笹井醇一を含む
110機半の敵機を撃墜して島を後にしています。

ジョー・フォスの所属するVMF-121は、VMF-223を救援するため、
1942年10月「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されます。

「ウォッチタワー作戦」(望楼作戦)は、ニミッツ大将を総指揮官として
サンタクルーズ、ツラギ等周辺諸島の攻略を目指したものです。

護衛空母「コパヒー」から発進し、ガダルカナルに到着したフォスらは
ヘンダーソン飛行場でカクタス航空隊の一部となり、
ガダルカナルの戦いにおいて極めて重要な役割を果たしました。

スミス

カクタス航空隊のエースといえば、有名なのが
笹井を撃墜したマリオン・カールジョン・L・スミスでしたが、
 フォスも積極的な近接戦術と驚異的な砲術の技術で評判になりました。

ただし、フォスは10月13日初めての空戦で零戦を撃墜したものの、
自身のF4Fワイルドキャットも銃でエンジンを損傷、
3機の零戦に追尾されたフォスはアメリカ軍の滑走路に逃げ込んで
フラップなしのフルスピードのまま着陸し、
かろうじて椰子の木立を避けて生還を果たしています。

■ フォスのフライングサーカス

隊長であるフォスが
「ファーム・ボーイズ」と「シティ・スリッカーズ」
と名付けた二つのセクションからなる8機のワイルドキャットの小隊は、
すぐに「フォスのフライング・サーカス」と言われるようになります。

腕利きのパイロットと彼が率いる小隊を「〇〇サーカス」と称するのは
アメリカが発祥だと思いますが、日本でも
「源田サーカス」なんてのがありましたよね。

なにをどう勘違いしたのか、
「ラバウルにいるアメリカ軍の搭乗員にはサーカス出身
(芸人のことか?)などがいるらしい」

と登場人物に言わせていた「ラバウルもの」があって、
当時初心者だったわたしは、マリオン・カールを
サーカスのアクロバット出身と一瞬とはいえ勘違いしていたことがあります。

ジャングルの環境は過酷で、1942年12月、フォスはマラリアにかかりました。
治療のためにシドニーに送られたフォスは、
そこでオーストラリアのエース、クライヴ "キラー "コールドウェルと出会い、
新たにこの戦域に配属されたRAFのパイロットたちに作戦飛行の講義を行いました。
’Killer’コールドウェル


1943年1月1日、フォスはガダルカナルに帰還しましたが、
現地防衛戦は1942年11月の危機的状況から回復していたため、
彼は1ヶ月で帰国を果たしました。

ガダルカナルにおける一連の戦闘で、フォスは
第一次世界大戦ののエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜に並び、
アメリカで最初の「エース・オブ・エース」の栄誉に浴しました。

■戦闘復帰

1944年2月、フォスは太平洋戦域に戻り、
F4Uコルセアを装備するVMF-115を率いました。

フォスはこの2度目の遠征で、同じ海兵隊の戦闘機エースである
マリオン・カールと出会い、友人になったということです。

そして、彼にとって少年時代の憧れだったチャールズ・リンドバーグ
この時期、航空コンサルタントとして南太平洋を視察していたこともあり、
彼と一緒に飛行するという願ってもない機会に恵まれました。

左からカール少佐、リンドバーグ、フォス少佐

ここでフォスは8ヵ月間任務を行いましたが、
戦時中の撃墜記録をを伸ばす機会はありませんでした。

そしてまたしてもマラリアにかかったため、アメリカに帰国して、
サンタバーバラの海兵隊航空基地で作戦・訓練担当官となります。

■戦後の人生

1945年8月、フォスは、チャーターフライトサービスと飛行教習所
「ジョー・フォス・フライング・サービス」を経営し、
パッカードなどの車も販売する会社を立ち上げました。

【サウスダコタ州兵】
1946年、フォスはサウスダコタ州航空州兵の中佐に任命され、
第175戦闘迎撃飛行隊の指揮官となりました。
朝鮮戦争中、大佐だったフォスはアメリカ空軍に召集され、
最終的に准将の地位に就いています。

【政治家】
サウスダコタ州議会の共和党議員を2期務め、
1955年からは39歳で州最年少の知事に就任しました。
選挙運動は自分で軽飛行機を操縦して行ったそうです。

1958年、下院議員選挙に立候補しましたが、同じく戦時中のパイロットの英雄、
民主党のジョージ・マクガバンに敗れて落選し、政界を引退しました。

【フットボール・リーグコミッショナー】
知事を務めた後、フォスは1959年に新設された
アメリカン・フットボール・リーグの初代コミッショナーに就任しました。
就任中、フォスはリーグの拡大に貢献し、ABC、NBCと
有利に放映権を結ぶなどしています。

【テレビ司会者】
フォスは、生涯を通じて狩猟やアウトドアを愛しており、
ABCテレビの司会を務め、狩猟や釣りのために世界中を旅しました。

アウトドアTVシリーズ「The Outdoorsman: Joe Foss」では
司会とプロデューサーを務めています。
972年には、KLMオランダ航空の広報部長を6年間務めました。

【全米ライフル協会】
フォスは1988年から2期連続で全米ライフル協会の会長に選出されました。


ライフル協会会長の頃のフォス

■その他展示品


2013年の消印がついた、これは葉書でしょうか。
栄誉賞、海軍十字章、サウスダコタの州旗、
ライフの表紙、旭日旗に「26機撃墜」
なんなら彼の墓石まで印刷されています。

 
航空帽、海兵隊キャップ、サウスダコタ州兵キャップ。



パイロットログブックと1942年7月20日付のサイン。
戦闘機航空課程を終了したときのものです。

左側のフライングクロス授与の際のサイテーションは、
海軍長官だったジェームズ・フォレスタルのサインがあり、
このような文言が書かれています。

米国大統領は、喜びをもって、名誉勲章を授与します。

ジョセフ・J・フォス大尉
アメリカ海兵隊予備役
以下の表彰状に記載されている任務に対して

海兵隊戦闘飛行隊の執行官として、ソロモン諸島のガダルカナルにおいて
職務の範囲を超えた傑出した英雄的行為と勇気を示した。

1942年10月9日から11月19日までの間、ほぼ毎日
敵との戦闘に従事したフォス大尉は、
23機の日本軍機を個人撃墜し、他の航空機を撃破せしめた。
また、この期間中、彼は多くの護衛任務を成功させ、
偵察機、爆撃機、写真機、水上機を巧みにカバーした。
1943年1月15日には、さらに3機の敵機を撃墜し、
この戦争では他に類を見ない空中戦の記録を残したのである。

1月25日、敵軍の接近に対し、フォス大尉は
8機のF4F海兵隊機と4機の陸軍P-38を率いて行動を開始し、
圧倒的な数の差に臆することなく、迎撃と攻撃を行い、
日本の戦闘機4機を撃墜し、爆撃機に1発の爆弾も投下させることなく撃退した。

彼の卓越した飛行技術、感動的なリーダーシップ、不屈の闘志は、
ガダルカナルにおけるアメリカ軍の戦略的陣地の防衛において、
際立った要因となった。




ところで、先日当ブログで取り上げた
「スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース」で、
海兵隊のエースは28機撃墜のボイントンでした。

フォスはあと2機というところで国に帰されてしまったので、
海兵隊一位を奪われてしまったということになります。


FLに展示されているワイルドキャットには、彼の名前の下に
彼の撃墜数とされる26機を表す旭日旗のペイントが施されています。

しかしながら先日、わたしはネットの片隅でこんな話を読みました。

「戦後日本側の被撃墜記録と照合したところ、
彼の撃墜を主張する数より少なかった」

彼我の撃墜被撃墜の記録が合わなかったという例はいくつもありますが、
不思議と撃墜数は被撃墜側の記録(つまり正解)より多く、
実際より自己申告が少なかったという例は寡聞にして知りません。

ハルトマンのように本当に撃墜したかどうか見張りがついていればともかく、
(それも全てを見届けられないと思いますが)自己申告ではどうしても
人間は自分のいいように記憶を操作してしまうものなのでしょう。

おそらく「スミソニアンの選んだエース」にしても、
何人かは不確かな撃墜を「まいいか」と撃墜にカウントしたり、
もしかしたらちょっと水増ししていた人もいたのではないでしょうか。


その点、撃墜数を公式な記録とするのをやめた日本軍は、ある意味
パイロットをこの手の「要らん煩悩」から解き放ったと言えるのかもしれません。



続く。




帝国海軍搭乗員装備〜フライング・レザーネック海兵隊航空博物館

2021-11-05 | 海軍

サンディエゴにある海兵隊航空博物館、
「フライング・レザーネック・エアミュージアム」の室内展示は
他の軍事博物館に比べると量的に微々たるものです。
その分フィールドの航空機展示が充実しているわけですが、
その少ない室内展示の中に、帝国海軍搭乗員の飛行服と
装備などがあったのでちょっとびっくりしました。

ちなみにタイトル画像は適当なのがなかったので
無駄に動感のある加工をほどこしてみました。

元写真


ガラスケース一つが全部帝国海軍コーナーです。
これにはちょっと驚きました。

考えたら、これまでわたしは海軍搭乗員の飛行服を
こんな近くで、まじまじと見たことがなかった気がします。
ブログ開設当初、飛行服の搭乗員を何人も描きましたが、
 その頃は搭乗員の写真という写真が全部白黒なので、
本当はどんな色なのかわかっていなかったのでした。

ここでこうやってあらためて実物を見て思ったのは、
まず色が想像より「茶色」だったこと。
もっとカーキというかオリーブドラブを想像していましたし、
パラシュートのハーネスもこんなグリーンだったのも意外でした。



どういう経緯でここに来た展示品なのかはわかりませんが、
おそらく今までで見た中で最も丁寧な解説がされています。
せっかくですのでABC順による現地の説明を中心として紹介していきます。

■ 第二次世界大戦の海軍フライトスーツ


【航空帽と飛行眼鏡】Flight helmet/flight goggles

タイプ30とあるので、サンマル式、1930年制式の航空帽です。
内側に毛皮がないので夏用です。
ラバウルなどの航空隊員の写真では暑いところなのに
毛皮のついた航空帽を被っている人が結構いましたが、
上空はどちらにしても寒いので冬用で通していたのでしょう。

航空帽の下に防寒用の毛糸の目出し帽みたいなのをつけていますが、
素材が綿なので、陸軍の「第二種航空覆面」(夏用)と思われます。

ちなみに海軍ではヘルメットのことを航空帽と呼びましたが、
何がなんでも違う名称にするため、陸軍ではこれを
「航空頭巾」
と呼んでおりました。(前にも書いたかな)
ゴーグルはどちらも「航空眼鏡」と一緒でしたが、
それは後期には同じ種類のものを装備していたからです。

ゴーグルのレンズ周りのステッチは
「眼鏡縫い止め糸」と名称があり、ゴーグルのフレームには
空気穴があけられています。



【航空手袋】Flight gloves

手首から先はスウェード、その他は表皮を使用しています。
海軍の手袋は名前を書くためのキャンバス布が手首部分に貼ってありました。

この手袋は状態が良く、一度も使用されていないように見えます。


【航空衣袴/こうくういこ】Flight suits

フライトスーツ=「衣袴」は陸海軍共通名称です。
衣袴なんて言葉、現在ではまず使われませんけどね。

フライング・レザーネック航空博物館(以後FLAMとする)の解説によると、

「初期のフライトスーツは硬くてしっかりとした生地で作られていました。
素材はウールギャバジンを分厚く織ったもので、
ツナギかあるいはツーピースというスタイルを採用していました。
戦争後期になると、日本でウールが不足してきたので、
製造業者はフライトスーツに
綿シルクや綿サテンを使いました」

物資欠乏は実用的な素材から始まったので、シルクやサテンなど、
夏用の贅沢素材を投入するしかなかったということです。

それから、海軍搭乗員はよくダブルの襟からマフラーを覗かせていますが、
このフライトスーツは救命胴衣で見えないものの、
どうやらシングルカラーのように見えます。

海軍と陸軍のフライトスーツの大きな違いはダブルかシングルかだったのですが、
戦争も末期になるとダブル襟のスーツはウールの不足もあってできなくなり、
シングルカラーになりました。
海軍のダブル襟が大好きなわたしにはなんとも残念な変更です。

右袖に旭日旗が付けられていますが、正式には
ここに付けるのは日の丸だったように記憶します。

不時着した航空機の搭乗員が、アメリカ兵と思われて
民衆にリンチに遭い、殺害されたという事件以降、
本土防衛にあたる搭乗員は日の丸をつけるようになったと。

日本人とアメリカ人の違いくらいわからないか、と思いますが、
ヘルメットやゴーグル、あるいはマスクなどで
顔や髪が隠されていると、一種のパニック状態になった民衆は
敵兵だと思い込んでしまったのかもしれません。

ちなみに、パイロットのことも、海軍は「搭乗員」
陸軍は「操縦者」と称していました。
何がなんでもおなじにしたくなかったのね・・。


「九七式縛帯(ばくたい)」Flight Harness Type 97

落下傘のハーネスのことは陸海軍ともに縛帯と呼んでいました。
この97式というのが紀元二千六百年であった1940年の3年前、
1937年制式であるということまでは流石にアメリカ人にはわからないでしょう。
97とはMk.97のことだと思っていたかもしれません。

「97式ハーネスは、本体に取り付けられたDリングから
二つのバネ付きフックを外すだけで、パラシュートパックを
取り外すことができたため、現場に大変好まれたタイプでした」

とあります。

【救命胴衣】 Navy Float Vest

「フロートベストは高品質の綿でできており、
22本のチューブ状のシリンダーにはカポック繊維が充填されています。
カポック繊維はパンヤとも呼ばれる落葉樹の実から取れるもので、
浮力を持たせるために最初のライフジャケットにあしらわれました」

こういう書き方をしているところを見ると、
アメリカ軍の救命胴衣は別のものを使っていたのかしら、
と思って調べたら、あちらも救命胴衣は「カポック」ですね。

もともとはインドネシア語による木の名前なのですが、
この頃の名残で、今でも自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいます。

というわけで、海軍航空搭乗員も、陸軍航空操縦者も、
航空装備一式を身に付ける順序は、

1、航空衣袴(つなぎ)を白絹のマフラーと共に着用

2、その上に救命胴衣をつける
胴衣の背中部分から出ている布を股に潜らせ、紐を胴に巻いて前で結ぶ

3、縛帯をその上から装着する
両足から履いて上に引き上げ肩にかける

以上

うーん・・・これは・・・。
いったん装備してしまったらトイレに行けなくなること必至。
まあ、基本軍用機にはトイレなんてないですけどね。

■ 第二次世界大戦における日本軍の「ギア」



搭乗員服だけでなく、その他の装備も展示されています。


【フライトコンピュータ】Flight Computer Type 4 Model

写真にはあるのに、どこを見ても現物が写っておりません。
「このフライトコンピュータは大戦中のものとしては
最もよく使われていたもので、搭乗員のズボンの腿の部分に装備されていました」

とあります。

その後色々調べるうちに、たとえばこの海軍搭乗員コーナーも、昔は
これらのものとか、フル装備の搭乗員の写真があったみたいなんですが、
いつのことなのか、規模が縮小されて展示が減ったようなのです。



海外のサイトで扱っていた同じ海軍搭乗員用フライトコンピュータ。
飛行中にフライトやナビゲーションに必要な情報を入力するもので、
表面のダイヤルとスライドは裏面に沿って回転します。
対気速度アームは左右に回転し、ハンドルに沿って上下に動きます。


【二式落下傘】Parachute Type 2

二式、すなわち1942年、昭和17年式の落下傘です。
日本軍の落下傘は独占企業だった藤倉工業株式会社が製作していたので
陸海軍の大きな違いはなかったとされます。

「タイプ2のパラシュートは、手動で展開され、
開傘には2.5秒を要しました。
パラシュートパックのタグには、
『注意ーパラシュートは毎月一回たたみ直す必要があります』
と書かれています。
パラシュートの梱包履歴カードは、このラベルの下に保管されていました」



1ヶ月に一度は畳み直さないと、いざという時に
開かないという可能性が大いにあったのですね。

「空の新兵」という陸軍落下傘部隊のドキュメンタリーで、
傘を畳むところを教わるシーンがありましたが、
なにやら定規を使って超面倒そうな作業を、
「命に関わる」ということで超真剣にやっていました。



【九二式航空羅針儀二型】Compass, Type 92 Model 2

別のサイトで見た製造プレートには「横河電機製作所」とありました。
横河電機は現在では工業計器の分野で国内第一位、世界第6位の大企業です。

大正年間に創立され、戦前は計測器メーカーとしては国内最大手でした。
航空・航海計器に強く、大戦中、軍需によって急拡大した企業です。
戦後はコンピュータの分野に進出し、工業計器・プロセス制御機器メーカーの
巨大グループを形成しています。

この羅針儀は三菱AM6零式に搭載されていました。


日本海軍の航空機用に製作されたもので、直読磁気式。
大変立派な木製の収納箱に収められています。

コンパスレンズの5時の位置に、錆びて変形したつまみがありますが、
これは周りのガイドを0〜360度回転させるための調整ネジです。

パネルの下部にある2つのつまみを回してネジを外すと、
引き出し式のコンパスを照らすランプと、補正調整機構があります。



木箱は持ち運びのために堅牢な革ベルトが取り付けられています。
機体に取り付けた後の木箱は不要になったのでしょうか。



前面のスリットポケットにはコンパス補正カードを入れます。



零戦のコクピットに装備された羅針儀(赤部分)。
また、中島の九七式艦上攻撃機(魚雷爆撃機B5N2ケイト)にも使用されました。



【速度計三型】Airspeed Indicator Model 3

速度計のことですが、これも三菱A6M零式戦闘機装備のタイプです。
数字が二重になっていますが、針が一周したら、
つまり16以上は内側の数字を読むようになっているそうです。


【ティーセット】Tea Set

ammo、つまり弾薬を加工して作ったティーセットだそうです。
残念ながら現地に現物はありませんでした。


【徳利・箸】

現地の英語の説明はありませんでした。
誰が見ても酒瓶と箸であることはわかるからでしょう。

箸袋は皮の留め具がついており、手洗い可能、
しかも二箇所に二膳の箸が収納できるようになっています。
二食外で食べられるってことですね。

搭乗員は機上では箸も使わなかった(握り飯)でしょうし、
酒徳利はさらに持ち込むはずがないのですが、
これらがなぜここに展示してあるのかは謎です。


「航空時計」

これも説明なし。
よく搭乗員が首から下げているあの時計ですね。
ストラップになる白い紐がついています。
それにしても保存状態がいいですね。


秒針付きで、文字盤には蛍光塗料が使われています。

搭乗員が状況開始前、時計を合わせるシーンを映画で見たりしますね。
隊長が少し前からカウントを始め、ゼロで
「テー」と整合させるというあれです。

なんだかんだ言って、この航空時計の実物を間近で見るのは初めて。
しかもそれがアメリカのサンディエゴだったという(笑)


零戦の模型の向こうに見えているのって、
もしかしたら墜落した零戦の機体の一部なんじゃないんでしょうか。

現地にもHPにも説明がないので、ご紹介できなくて残念です。
しかも、この写真を撮ったときにはわたし自身にもわかっていなかったという。


続く。





ナバホ・コードトーカーズ〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-03 | 歴史

サンディエゴの海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック」。
わたしがここに見学に訪れたとき、相変わらず艦内は森閑として、
わたし以外の見学客は二組程度というところでした。

その中の中年女性の見学者が、この展示の前で立ち止まり、

「ナバホ・コードトーカーじゃないの」

と言ったのには、失礼ながら少し驚いたものです。
まあ、わざわざこんなマイナーな博物館に
お金を払って見学に来ているような人なら
知っていても全く不思議ではなかったのですが。

それに、ナバホ・コードトーカーは「ウィンド・トーカーズ」というタイトルで
映画にもなっていますから、それで知ったアメリカ人も多いかもしれません。

Windtalkers (6/10) Movie CLIP - Call in the Code (2002) HD

サイパンの戦地から送られたコードトーカーの言語を
日本軍の暗号解読班が全く聞き取れないまま、
USS「カリフォルニア」はその情報をもとに艦砲射撃を行うシーンです。

「フライング・レザーネック」に展示されているのは、
ナバホ族のコードトーカーのオフィシャル・ユニフォームでした。

いくら特殊な分野とはいえ、コードトーカーもアメリカ軍兵士なのに、
これほど民族色を前面に打ち出した制服を公式採用するのは、
海兵隊の少数民族に対する敬意の表れといえるかもしれません。

真っ赤なキャップ、真っ黄色の(現地の説明にはゴールドとあった)シャツ、
これにライトカラーのズボンを合わせて着用しました。
ライトカラーは「母なる大地」を意味する色です。

また、靴の色(アバローン=アワビの内側の色)は「聖なる山々」を表しました。


着用例ですが、このおじいさんたちが着ているのは、
それに似た既製品で、おそらく自分たちで探してきたのだと思われます。
二人のシャツの色がかなり違っていますね。
このゴールド色は彼らの主食となっていたとうもろこしの花粉を表します。



これに赤い帽子はちょっと派手じゃないか?と思いますが、
赤い色そのものが海兵隊を意味しているそうです。

そしてベルトは、ファッション用語でいうところの「コンチャベルト」で、
いわゆるインディアンジュエリーの装飾が施されています。



以前、アメリカ軍が暗号として
ネイティブ・アメリカンのナバホ族の言語を使い、その言葉を喋る
ナバホ族をコードトーカーとして採用していたという話をしたことがあります。

ここでもう一度コードトーカーなるものについて解説しておきます。
それは、暗号通信手段としてあまり知られていない言語を使用するために
戦時中に軍が採用した人のことです。

コードトーカーは今日、世界大戦中に採用されたネイティブアメリカンの
サービスメンバーのこととされています。

これらネイティブアメリカンの言語はアルファベットを使わず、
さらに発音も独特で、その言語がマザータングでない者には習得は
まず不可能であるということが暗号に使われた大きな決め手となりました。

米国海兵隊は約400〜500人ものネイティブアメリカンを採用し、
秘密の戦術メッセージを送信する仕事をしていました。
コードトーカーは、それぞれの部族の言語に基づいて開発されたコードを使用し、
軍の通信システムを介してメッセージを送受信しました。
第二次世界大戦の最前線における通信で、コードトーカーは
暗号化の速度をおおきく改善したと言われます。

■ ナバホ・コードトーカー

前回お話ししたときはナバホコードについてだけ取り上げましたが、
海兵隊の何百人ものコードトーカーの出自はひとつではありません。
その中で主流となったのは、
コマンチ族、ホピ族、メスクァキ族、ナバホ族
といった部族です。

【ナバホ】Navajo

ナバホ族のコードトーカー、サイパン、1944年6月

海兵隊にナバホ語を暗号として使用することを提案したのは、
ロサンゼルス市の土木技師であるフィリップ・ジョンストンという人物です。

ジョンストン

第一次世界大戦のベテランであるジョンストンは、
ナバホ族の宣教師の息子としてナバホ族居留地で育ちました。
彼はナバホ語を流暢に話した数少ない非ナバホ人の一人でした。
真珠湾攻撃が起こると、多くのナバホ族の男性が軍に協力を申し出ました。

ナバホ語の文法は大変複雑で、同族内の最も近い親戚でさえ
言葉を相互に理解することはできないそうです。
あまりに複雑なので方言も含めると第二次世界大戦の勃発時、
言語を理解できた非ナバホ族の数は30人未満だったというくらいです。

しかも当時、それはまだ文章として書かれたことのない言語であり、
ジョンストンはナバホ語が解読不可能なコードとして
軍事的な使用に耐えると考えたのです。

大東亜戦争開戦直後は、日本軍はアメリカ軍の暗号をたやすく解読していました。
「暗号学」はありませんでしたが、アメリカ国内で学問をしたり住んでいて
それなりに文化について理解をしていたこともその糸口となったのです。

アメリカ先住民族の言葉は日本人には全く馴染みがなく、
想像もつかないということは、解読されにくいということです。

しかしこれは画期的という前に実に皮肉な思いつきでした。 
人種隔離が公然と行われていた当時のアメリカでは、
政府や宗教団体が運営する寄宿学校でも、当たり前のように
先住民の同化政策に基づき、伝統的な部族の言語で話した学生を
規則違反で罰するようなことが行われていたからです。

1942年、ジョンストンは、ナバホ族の男性を伴って海兵隊指揮官と面会し、
当時の暗号機で30分かかる暗号の送信と解読を 
ナバホ族がわずか20秒でできることを示しました。

これで海兵隊はコードトーカーとしてナバホ族を採用することを決定します。
最初の29人はキャンプペンドルトンでナバホコードを作成しました。

彼らは英語のアルファベットの各文字に彼らの言語からの単語を使用し、
単純な換字式暗号を使用してエンコードおよびデコードします。
コードトーカーたちは、

ナバホ語には存在しない単語を存在する単語に置き換える
さらにそれをナバホ語に翻訳して暗号にする


という段階を踏んで、解読されにくい置換暗号を作りました。
たとえば、

BATTLESHIP(戦艦)→ WHALE(鯨)→ LO-TSO
AIRCRAFT CARRIER
(空母)→BIRD(鳥)TSIDI-MOFFA-YE-HI

MINESWEEPER
(掃海艦)→BEAVER(ビーバー)CHA

SUBMARINE
(潜水艦)→IRONFISH(鉄の魚)BESH-LO

DESTROYER
(駆逐艦)→SHARK(鮫)CA-LO

と言った具合です。
また、Cを表すのに、CATの猫を意味するMOSSI、
Aを表すのに「アリ」を意味するwo-la-cheeが使われるというように
アルファベットを言い換える方法も編み出されました。

ナバホ・コードトーカーは、その技術、速度、正確さに定評がありました。
硫黄島の戦いでは、戦闘最初の2日間、6人のナバホコードトーカーが
24時間体制で任務を行い、800を超えるメッセージを送受信しましたが、
エラーは一度たりとも発生しませんでした。

この時の信号隊司令は、後に、
「ナバホがいなかったら、海兵隊は硫黄島を占領することはなかっただろう」
と語っています。



■第一次世界大戦のコードトーカー

さて、コードトーカーの歴史は第一次世界大戦からすでに始まっています。
その頃のコードトーキングは、チェロキー族とチョクトー族が採用されました。


【チェロキー】
米国第30歩兵師団のチェロキー兵士に、第2次ソンムの戦いで
メッセージを送信する仕事が割り当てられています。

【チョクトー】
第一次世界大戦中、米陸軍第36歩兵師団の中隊長が、
チョクトー族の二人の兵士の会話を耳にしたのがきっかけです。
その後大隊には8人のチョクトーの男性がいることがわかり、
彼らにチョクトー語で暗号通信する任務が与えられました。


チョクトー・コードトーカー

1918年10月26日、彼らが投入されると戦闘の流れは24時間以内に変わり、
72時間以内に連合国は総攻撃を開始しました。

■第二次世界大戦アメリカのコードトーカー

第二次大戦では上記の部族以外にも、
ラコタ、モホーク、コマンチ、トリンギット、クリー、クロウ
のコードトーカーが太平洋、北アフリカ、ヨーロッパに配備されました。

【アシニボイン】Assinibboine
アシニボインはアメリカ北部からカナダ南部の先住民族です。
アシニボイン族のコードトーカーの1人、ギルバート・ホーン・シニア
その後裁判官および政治家になりました。

ホーンsr

【バスク】Basque
バスク地方という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。
フランスの地方ですが、ここに住む人々(全部ではない)と、
スペインのバスク県に住む人、そしてアメリカでは
バスクの祖先を持っているとする人々のことで、
国内に5万7千人ほどいるそうです。
アメリカのバスク人はヒスパニック系が大半です。

彼らは海兵隊によってサンフランシスコに集められ、
バスク語のコードトーカーとして訓練を行いました。

ただし、バスク族と遭遇する地域、ならびに
バスクイエズス会が布教をしている地域(広島県も相当する)
を避け、ハワイとオーストラリアで任務を行いました。

彼らが行った有名なミッションは、
1942年8月1日、サンディエゴからチェスター・ニミッツ提督宛に、
ソロモン諸島から日本軍を排除する「アップル作戦」について
バスク暗号を送信したことです。
暗号にはガダルカナルへの攻撃開始日である8月7日も記されていたとされます。

しかし、戦争が進むとバスク語を理解する人が多くなり、
(侵攻した地域が広がったという意味です)
コードトーカーの主流はナバホ族になりました。

【コマンチ】Comanche
ドイツ当局は、第一次世界大戦中のコードトーカーについて知っていました。

これについて驚くべきは、ヨーゼフ・ゲッベルスが
「ネイティブアメリカンはアーリア人の仲間である」
と宣言したことです。

ドイツは第二次世界大戦の勃発前、ネイティブアメリカンの言語を学ぶために
30人の人類学者のチームを米国に送ったのですが、
さすがのドイツ人学者も方言を含む部族言語のあまりの多さに、
その採取は難しすぎてうまくいかなかったようです。

にもかかわらず、アメリカ人の「ドイツコンプレックス」だったのか、
これらの試みが行われていたことを知った米軍は、
ヨーロッパでのコードトーカープログラムを控えめにしました。

ドイツ人ならそれでもなんとかしたのでは?という疑心暗鬼というか、
彼らを必要以上に買いかぶっていたのかもしれませんね。

それでもノルマンディ侵攻には14名のコマンチ兵士が参加しています。


ヨーロッパの第4歩兵師団信号隊のコマンチコードトーカー14名

彼らが編纂したコマンチコードでは、母国語にない言葉は
戦車=カメ 爆撃機=妊娠中の鳥 マシンガン=ミシン
アドルフ・ヒトラー=狂った白い男
と置換されました。

1944年6月6日に上陸部隊がユタビーチに着陸した直後、
コマンチ族はメッセージの送信を開始しました。
被害は負傷者のみで死者は出ませんでした。

1989年、コマンチのコードトーカーは仏政府から国家功労勲章のシュヴァリエを、
1999年、米国国防総省よりノウルトン賞が授与されています。

【クリー】Cree
クリーはカナダとアメリカの先住民族です。
第二次世界大戦でカナダ軍はクリーをコードトーカーに採用しました。
しかし、秘密の任務すぎてその実態は謎に包まれていました。
2016年に製作されたドキュメンタリー、Cree Code Talkersによって、
「最後のクリーコードトーカー」”チェッカー”トムキンスが紹介されました。


トムキンス

【メスクワキ】Meskwaki
第二次世界大戦中、米陸軍は8人のメスクワキ族の男性に
部族語であるフォックス語をコードとして使用するように訓練し、
彼らは北アフリカの戦地に割り当てられました。

【モホーク】Mohawk
モホークのコードトーカーは、モホーク語派生であるカニエンケハを使用して
暗号の送信にあたりました。
モホークの最後のコードトーカーであるリーヴァイ・オークスが亡くなったのは
2019年5月のことです。

リーヴァイ・オークス


【マスコギー/セミノール】Muscoge/Seminole
マスコギ族、セミノール族という少数民族からも
コードトーカーが採用されました。
セミノール族のコードトーカー、エドモンド・ハーホ(Harjo)も、
ヨーロッパ戦線で母国語の歌を歌っている同族の兵士と出会い、
話をしているところを見た上官が通信係に採用する、
という経緯でコードトーカーになった人物です。
彼は最後のセミノール・コードトーカーとして2014年3月31日、
96歳で亡くなりました。

こうしてみると、コードトーカーだったネイティブアメリカンの皆さん、
随分と皆長寿であったように思われますね。

【トリンギット】tringit
愛知県のリトルワールドにはなぜかトリンギットの家が復元されているそうです。
(それがどうした情報)

リトルワールドのトリンギット族住居

対日戦における暗号要員として、トリンギット族も採用されました。
わずか五人しかいなかったため、コードトーカーの機密解除と
ナバホコードトーカーの公開後も、彼らについては謎のままでしたが、
亡くなった5人のトリンギットコードトーカーの記憶は、
2019年3月にアラスカ州議会によって表彰されています。

■コードトーカーの実態と戦後

基本的にコードトーカーは、ペアで軍隊に割り当てられました。
戦闘中、1人が携帯ラジオを操作し、2人目が母国語でメッセージを
中継、および受信して英語に翻訳するという形です。

日本軍はまず将校、衛生兵、通信兵を標的にしましたから、
メッセージを送信しながら動き続けなければならないコードトーカーは
狙われやすく、大変危険な任務でした。

しかし、何百人ものコードトーカーが危険を冒して行った任務は
第二次世界大戦での連合国の勝利に不可欠なものでした、
D-Day侵攻中のユタビーチ、太平洋の硫黄島など、
いずれも彼らの働きがなかったら成功しなかったとされています。

また、ナバホ族の外見が日本人と似ているので、捕らえられた兵士
(彼はコードトーカーではなかった)が、
日系二世の「裏切り者」として酷い目に遭ったという話を前にもしましたが、
彼らが日本人と間違えられ、アメリカ兵に捕らえられるという事件が起こった後、
コードトーカーの何人かはボディーガードを割り当てられました。

つまり、アメリカ兵からの誤解による攻撃を防ぐためです。

「ウィンドトーカーズ」を見るまでもなく、ナバホコードは
戦争が終わるまで解読されることはなく、
ナバホコードはいまだにUnbreakable cordとされます。

ナバホ族のコードトーカーの存在は戦争中はもちろん、 1968年に
機密解除になってからも秘匿されていました。

コードトーカーを必要とする場面が(冷戦で)今後起こるかもしれず、
プログラムを温存したままにしておきたいと考えたからです。

1968年になってコードトーカープログラムが機密解除されたあとも、
コードトーカーが世間に認識されることはありませんでした。
初めて議会の金メダルがナバホ族や他のコードトーカーに与えられたのは
2001年になってからのことです。

■それ以外のコードトーカー

【ウェールズ】
第二次世界大戦中、イギリス空軍がウェールズ語を使用する計画を立てましたが、
実行されないまま終わりました。
1991年から始まったユーゴスラビア紛争で、
重要でないメッセージのために使用された例があるそうです。

【温州】
中国は1979年の中越戦争の間、温州語を話す人々を
コードトーカーとして使用しました。
温州地方の方言は発音が非常に難解として有名で、中国には
「天も恐れない、地も恐れない、ただ、温州人の話を聞くのが恐ろしい」
などという言い回しがあるくらいだそうです。

【ヌビア】Nubian
1973年のアラブ・イスラエル戦争では、エジプト軍がヌビア人を
コードトーカーとして採用しました。
ヌビアはエジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方です。

■ ナバホコードトーカー、サミュエル・ツォシー

さて、ここであらためて、フライングレザーネックに展示されている
ナバホ・コードトーカーの制服を見てみましょう。


左肩のパッチはコードトーカーが所属していた海兵隊の大隊で、
赤い『1』の中にガダルカナルと書かれています。
シルバーのバッジの右側は海兵隊の印、
左側は彼がライフルのエキスパートであることを表します。



制服にナバホ族のジュエリー をあしらうのが正式だったんですね。
このジュエリーは、「神の子」を表します。

そして右胸の名札に、制服の持ち主であった
サミュエル・ツォシー1世(Samuel Tsosie Sr.)
の名前が書かれています。


若い頃の片岡鶴太郎似

サミュエルはでアメリカ海兵隊に入隊しようとしたとき16歳で
19歳という募集年齢が達していなかったため、
親に内緒で母親のサインを偽造したという「つわもの」でした。

戦争中はガダルカナル、タラワ、ペリリュー、サイパン、
グアムそして沖縄と、太平洋のあらゆる主要な戦いで通信兵として勤務。
その間、激しい空戦や神風特攻隊を目撃し、
一度は近くで爆弾が破裂して気を失ったこともあったといいます。

戦後サミュエルはなお2年半海兵隊に所属しましたが、
その後名誉除隊しました。

彼は制服を寄贈した時、実際に当博物館を訪れたようですが、
2014年に89歳で亡くなりました。


近年のアメリカ政府がコードトーカーに対して与えた
認定証などについて列記しておきます。


1982年、レーガン大統領からコードトーカーに認定証が授与され、
1982年8月14日を「ナバホ・コードトーカーズ・デイ」とした



2000年、クリントン大統領が公法に署名し、
ナバホコードトーカーのオリジナルメンバー29名に議会金メダルを
コードトーカーとしての資格を持つ約300名に銀メダルを授与した


ここにはその時の銀メダルが展示されています。
メダルには、太平洋の戦地で任務を行う二人のコードトーカーが刻まれています。

2001年、ブッシュ大統領は4人のオリジナル・コードトーカーにメダルを授与

2011年、アリゾナ州が4月23日をホピ族のコードトーカーの認定日に制定

2007年テキサス州が18人のチョクトー・コードトーカーに、
テキサス勇気勲章が授与

2008年、ブッシュ大統領がコードトーカーズ認定法に署名
第一次世界大戦または第二次世界大戦中に米軍に従軍した
すべてのネイティブ・アメリカンのコードトーカーを対象とする



ナバホコードトーカーの配備は、朝鮮戦争中とその後、
ベトナム戦争の初期に終了するまで続きました。

ナバホコードは、解読されたことのない人類史上唯一の軍事コードです。

続く。



海兵隊航空の誕生〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-01 | 博物館・資料館・テーマパーク

疫病が流行る前、サンディエゴで軍事博物館巡りをしました。
その中の一つが、今回紹介する

Flying Leatherneck Aviation Museum
(フライング・レザーネック・アビエーション・ミュージアム)
です。

一人でサンディエゴ入りしたわたしは、毎日のように
車を駆ってサンディエゴ近辺にある博物艦を訪ね、
写真を撮りまくりましたが、基本的にどの博物館も、
特に平日はほとんど人影もなく、ボランティアが運営していて
おそらく資金は募金に頼っているのだろうという寂れ具合が目につきました。

今回久しぶりにHPを見ると、COVID-19の流行が打撃となったのか、
博物館は一時的に公開を中止しているということでした。

「近日中に、航空機と展示品を新しい場所に移す計画について、
エキサイティングな発表がある予定です。
それまでの間、Flying Leatherneck Historiclal Foundationは、
学校のプログラムや訪問、海兵隊員の配偶者の表彰、
従軍した人々の経験の記録などを通じて、
USMC航空の遺産を保存し、共有する活動を続けています」

とあるわけですが、
「エキサイティングな発表」がいつなのかとても心配です。
なぜなら、その直後、ごく最近のリリースによると、

2021年、米海兵隊はMCASミラマーの現在の場所にある
フライング・レザーネック航空博物館を永久に閉鎖すると発表しました
。 

とか。

ただし、同博物館の支援者たちは、同博物館の永久閉鎖と
遺物・航空機の散逸を防ぐため、新しい場所への移転に取り組んでいる、
とも書かれています。


Flying Leatherneck Aviation Museumは、
米国海兵隊(USMC)の航空を専門とする世界で唯一の博物館であり、
米国海兵隊のパイロットが操縦した歴史的な航空機のコレクションとしては、
世界最大かつ最も充実したものです。

この博物館では、米国海兵隊の航空の歴史と、
アメリカを守るために果たした役割を紹介するため、
1989年にカリフォルニア州オレンジ郡のMCASエルトロに設立されました。

1999年に基地再編によりエルトロが閉鎖されると、
ボブ・ブッチャー少将とフランク・ラング少将が率いる
サンディエゴの退役海兵隊員のグループが中心となって、
航空機と遺物をMCASミラマーに移転させました。
そして、2021年3月には、MCASミラマーからの移転が発表されたのです。

新しい場所での博物館の再開に向けた最終的な計画は未定でありますが、
従業員やボランティアによるビンテージ航空機の維持・修復は
今も続いてはいるようです。


いずれにしても、こんなことになる前に精力的に訪問し、
写真を撮っておいてよかったと今は思っています。



まずナビ通りに到着したと思ったら、そこは民間空港に続くエントランスでした。
「セスナ」の看板がまず目につきます。
セスナが経営している飛行士養成学校があるようですね。

自家用飛行機の販売とメンテナンス、それから預かりもやっています。
まるで自動車学校並みに気軽に操縦が学べそうです。
ただ、アメリカだと、ライセンスを取るだけで最低でも三百万かかりますし、
機体の値段はそれこそピンキリですが、維持費が馬鹿にならないようです。

まあ、車みたいに家に置いておくわけにもいきませんしね。



海兵隊空軍基地の周りに、民間空港があるというのも、
いかに土地がふんだんに余っているかということですね。

空港のエプロンには、その年の10月に行われた
歴史的軍用機などのラモーナ航空ショーのポスターが貼ってありました。
ラモーナはミラマーから少し内陸に入った街です。



フライング・レザーネック航空博物館は、カリフォルニア州サンディエゴの
ミラマー海兵隊航空基地の近くにある、アメリカ海兵隊の航空博物館です。

ミラマーという地名をわたしはいつのまにかよく知っている気がするのですが、
この訪問のとき、そこがミラマー基地の一角であるとはいえ、
あまりに広大でまったく空軍基地らしい気配がなかったので
不思議に思ったものです。

この博物館には、米国海兵隊の航空の歴史と遺産に関する展示品があります。
屋外展示では、31機の歴史的な航空機、軍用車両や装備品が展示されており、
屋内展示では、航空黎明期から現在に至るまでの写真、工芸品、
そしてアートワークが展示されています。

駐車場に車を停めると、金網の向こうはもう展示機です。


こういう博物館にありがちな佇まい。
航空機などの展示が外にある場合、大抵その他の展示は
ちょっと大きめの家くらいのスペースに並んでいるものです。

案の定、入っていくと、ボランティアらしい男性がひとりだけ、
カウンターにいて入場料をそこで払いました。

【レザーネックとは】


まず入ったところに有名な(たぶん)海兵隊航空隊募集ポスターがあります。


海兵隊航空隊の黎明期にパイロットを募集するために制作したもので、
「航空 アメリカ海兵隊と一緒に飛翔しよう」
という文字、そして当時の海兵隊員が(ボーイスカウトみたい)
ワシの背中に乗っている意匠となっています。

複葉機の尾翼にはフランス国旗のような三色ペイントがあります。
これは当時海兵隊が装備していたアメリカの初期の複葉機、
チャンス・ヴォート のVE-7「ブルーバード」だと思われます。


その模型も展示されています。
ヴォートVE-7は1917年に初飛行を行った後、陸軍では練習機、
海軍では最初の戦闘機として採用されました。


正式に海兵隊に航空部隊が組織されたのは1917年です。

フライング・レザーネック航空博物館は、アメリカ海兵隊の飛行士が操縦した
歴史的な航空機の世界最大のコレクションを有し、
屋内には第一次世界大戦から今日までのアート、写真、軍服、
その他歴史的資料などが展示されています。

博物館には27,000平方フィートの修復用格納庫があります。





「フライング・レザーネック」はつまり「飛ぶ海兵隊員」です。
それでは、なぜ海兵隊員をレザーネックというか、
当ブログでは何度も説明してきましたが、ここに書いてあるのを
そのまま翻訳しておきます。

「ご存知でしたか?
レザーネックは海兵隊のニックネームです。
1798年から1872年まで、海兵隊員は皮で作られたネックをもつ
ユニフォームを着用していました。
3.5インチの硬い革は「ストック」と名付けられ、二つの役割を持ちました。

1)首、急所となる静脈の保護
2)行進の際、海兵隊員の首を真っ直ぐ立て、顎を高く保持させる

戦闘でこのストックの使用は、海賊のカットラス(長刀)から首を保護しました。
ジェファーソン大統領任期中起こった第一次バーバリー戦争では、
このアメリカの新しい戦闘部隊が
身代金のために貿易船を拿捕するイスラムの海賊たちと交戦しました」



「海兵隊航空の祖 カニンガム」



さあ、それでは展示品を順番に見ていきましょう。
イギリス軍の形のヘルメットにラウンデルがペイントされていますね。
これは第一次世界大戦時の海兵隊の装備です。


この錨とラウンデル、ワシを組み合わせた意匠が
第一次世界大戦時に海兵隊が使用した徽章でした。


海兵隊はご存知の通り海軍の軍艦に乗り込み警備を行うのが本来の任務ですが、
航空隊の発祥には一人の海兵隊員の存在がありました。
アルフレッド・オーステル・カニンガム中佐(最終)
(Alfred Austell Cunningham1882-1939)です。


カニンガム中尉(当時)

ヘルメットの横の説明です。



海兵隊航空団の黎明期
1912年、アルフレッド・A・カニンガム中尉が最初に飛行した海兵隊員になり、
1940年までに、少数精鋭の海兵隊員が軍用航空団の進歩に寄与しました。

海兵隊は、特に水陸両用任務を支援することに焦点を置いています。
1912年、数名の勇気ある男性と、ほんの少しの原始的な航空機から
出発した海兵隊航空団は、第二次世界大戦の頃には
戦闘任務を行える軍隊に成長したのです。

カニンガム中尉は、少尉時代、ポケットマネーで
民間の飛行士につき25ドル払って飛行機を借り、
自己流で飛行機を飛ばそうとしたほど空に憧れていました。

その熱心さが海兵隊内部で認められ、特別にアナポリス海軍兵学校の
航空訓練課程に出向を命じられるまでになったのです。
そして彼が海軍の航空課程で初めて単独飛行を行ったのが1912年5月22日。

彼の乗った飛行機が地面離れたその日が、
海兵隊航空隊の「誕生日」とされているのです。

余談ですが、それほど熱心だった割には、彼は婚約者から
「(危ないから)飛行機をやめないと結婚してあげない」
と脅かされて?パイロットをあっさり辞めてしまっています。

この婚約者(とカニンガム中尉のあきらめの良さ)には
現代の感覚では色々と意見も出そうですが、
とにかく当時の航空機というのは不安定で危険が多く、
いつ事故が起こっても不思議ではなかったのです。
これから結婚しようとする人がこんな危ないものに乗っているなんて
とても承知できない、という婚約者の意見は無理もありませんでした。

カニンガムはその後海軍工廠などに勤務したものの、
結局パイオニアとして航空畑に呼び戻されました。
その後海兵隊航空部の司令官に任命され、
第一次世界大戦では海兵隊航空隊の指揮官として功績を挙げ、
飛行機に乗らずしてネイビークロスを受けました。

またカニンガムは駆逐艦DD-752にその名前を残しています。

【第一次世界大戦の海兵隊航空】

海兵隊の航空部門が初めて大きく発展したのは、
1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦したときです。
航空部隊が設立されてすぐさま戦争が始まったというわけですね。
 
航空部隊が最初に派遣されたのは1918年1月。
第1航空大隊が対Uボート戦のためにアゾレス諸島に派遣され、
その後第1海兵隊航空隊と正式に名称を与えられフランスに派遣されました。

ラルフ・タルボット少尉

この第一航空隊に所属していたときに、海兵隊飛行士として
史上初めて名誉勲章を受賞したのは、
ラルフ・タルボット(Ralph Talbot)少尉です。

これはつまり、海兵隊飛行士として最初に殉職した、という意味でもあります。

イエール大学在学中、同大学の砲兵訓練隊に参加していたタルボットは
航空に興味を持ち、飛行学校に入学しました。
その後二等水兵の階級で海軍に入隊し、
マサチューセッツ工科大学で行われた地上訓練、
(イエールといいMITといい、この頃は一流大で軍事訓練が行われていたんですね)
フロリダでの飛行訓練を経て海軍航空士となります。

当時海兵隊は飛行士の採用に苦慮していたため、いきなり
タルボットを海兵隊予備役の少尉として引き抜きました。

そして第一次世界大戦が始まります。
1918年、ベルギーへの空襲の際、タルボット少尉は
9機の敵偵察隊に襲われ、1機を撃墜。
その6日後、12機と交戦して1機撃墜。

この頃の戦闘機は銃撃手でもある「オブザーバー」を同乗していましたが、
彼のオブザーバーが撃たれたため、単独で戦闘を続け、
もう1機を撃墜した後、フォッカーD.VII戦闘機から逃れるためにダイブし、
ドイツ軍の塹壕を50フィートの高さで横切り、着陸して
オブザーバーを医療関係者に引き渡しました。

このわずか18日後の1918年10月25日、フランスの基地で
テスト中のDH-4が離陸時に墜落し、タルボット少尉は死亡しました。
享年21歳。



彼の名誉勲章はこの一連の戦闘と名誉ある死に対して与えられたものです。

彼が操縦していたエアコ(Airco)DH.4は、前年の1917年に配備され、
アメリカ軍では陸軍航空隊が採用した機体です。

1919年には、これらの部隊から第1師団/第1飛行隊が編成され、
現在もVMA-231として存在しています。


「第二次大戦後の海兵隊航空」

第一次世界大戦が終わると、海兵隊の航空部門は1,020人が割り当てられ、
各地に海兵隊航空基地が設立されました。

クアンティコ、パリス・アイランド、そしてここサンディエゴです。

パリス・アイランド、というとわたしには途端にピンとくる歌があります。
ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」です。

We met as soul mates on Parris Island
俺達はパリス・アイランドでソウルメイトとして出会った

We left as inmates from an asylum
訓練基地から同士としてアメリカを後にした


Billy Joel - Goodnight Saigon (Nationals Park July 26, 2014)

パリス・アイランドはノースカロライナ州にあり、
歌詞2行目の「アサイラム」は保護施設という意味ですが、
海兵隊ブートキャンプのことだと考えられます。
もう一つの海兵隊基地があるクアンティコは、ウェストバージニア州です。


その後海兵隊航空隊員は空と地上の戦術を駆使し、
地上の海兵隊員をサポートすることを第一の任務としました。

アルフレッド・カニンガムのような海兵隊の先駆的な飛行士たちは、
「どのような任務においても、航空の唯一の存在価値は、
地上の部隊の任務遂行を支援するのに役立つということである」

と指摘していました。

また、海兵隊といえば、急降下爆撃を発明したことでも有名です。
海兵隊が開発し始めたこの戦術は、他国空軍に先駆けて完成し、
海兵隊のパイロットの戦術的ドクトリンの一部となりました。




海兵隊が海軍の航空組織に正式に登場したのは、
1925年、海軍航空局長官ウィリアム・A・モフェット少将が、
3つの戦闘中隊を正式に認可する指令を出してからです。

20年代に入ると、海兵隊は空母に搭乗して訓練を行うようになりました。
このころ、太平洋艦隊の空母に2つの海兵隊偵察中隊が配属されたことが、
海兵隊航空の最大の進歩のひとつとなります。


そして、1933年、艦隊海兵隊が設立されました。
これにより海兵隊のドクトリンは、遠征任務よりも、戦争時に海軍基地を占領し、
水陸両用戦を支援することに重点が置かれるようになったのです。

その結果、1941年12月7日の真珠湾攻撃の日には、
海兵隊の航空部隊は13飛行中隊、230機で構成されていました。

【第二次世界大戦の海兵隊航空】

第二次大戦時の海兵隊航空士の装備です。
Pneumatic (空気入り)のライフベストには1945年3月の製造月日入り。
製造したのは「シームレス・ラバー・カンパニー」だそうです。

革製の航空帽には、イヤフォンとマイクが内蔵されており、
パネルと電源のプラグが見えます。

皮の手袋とレイバンのティアドロップ型サングラスは今でも使えそう。
メタルのケースに収められたゴーグルレンズがプラスティック製で、
レンズにカーブがつけられているのでおそらくかなり後期のものでしょう。

ラッキーストライクは戦争中、正式にCレーションに入れられて、
軍隊に配られていました。
戦場における兵士の士気を高めるのにタバコは不可欠だったのです。


第二次世界大戦中、海兵隊の航空部門は急速かつ広範囲に拡大し、
 ピーク時には5つの航空団、31の航空機群、145の飛行中隊を擁しました。

海兵隊航空の決定的なポイントとなったのはガダルカナル作戦です。
海兵隊の任務は水陸両用作戦における遠征用飛行場の迅速な獲得ですが、
太平洋で海兵隊航空は当初、艦隊海兵隊を支援するという
最初の任務を達成することができませんでした。

戦争が始まってから2年間、航空隊はそのほとんどの時間を、
敵による攻撃から艦隊や陸上施設を守ることに費やしていたのです。


タラワの戦いの後、海兵隊航空隊の中には
海軍機による地上部隊への航空支援に不満を持つものがでました。

「直接航空支援の原理を徹底的に学んだ海兵隊の飛行士が仕事をすべきだ」

こういった意見が出てからは、海兵隊航空隊による
海兵隊地上部隊への初めての本格的な近接航空支援が行われ、ブ
ーゲンビル作戦とフィリピン奪還作戦では、
地上で戦う海兵隊と航空支援を調整する航空連絡隊が設立され、
沖縄戦では、上陸部隊航空支援管制ユニットという形で
航空指揮統制が確立されたのです。



戦地で連絡を取る携帯電話(一応そう言いますね)は、
ちょっとやそっとでは破れなさそうなキャンバスのバッグ入り。
受話器が金正恩のヘアスタイルと同じです。


バックパックとヘルメットを備えた「シェルターパック」。

このセットに含まれる「シェルター・ハーフリンクル」は、
一時的にシェルターになり、避難の際偽装できるように設計されたテントです。

二枚のキャンバスとスミラー素材がスナップ、ストラップ、
ボタンによって取り付けられていて、大きな面を形成し、
隠れるのにちょうどいい大きさとなっています。

この装備は、ナバホ族の暗号スペシャリスト、
「ナバホコードトーカー」だった兵士が所有し、使用していました。



続く。