退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「楽しいお知らせとそうでもない知らせ」について

2016-01-07 02:19:20 | Weblog
晴れだったかくもりだったか。おだやか。

「記憶」に関する本を読んだのだけれど今ひとつ。

詳しい「報告」はあるがそこに「センス・オブ・ワンダー」が感じられず。
残念な結果に終わる。

昨晩はいつものyoutube巡り。

char、奥田民生、山崎まさよしの「三人の侍」をあれこれ観て聴いているうち
ついつい朝方になる。

charと奥田民生の声はどちらかと言えば「メタリック」。
山崎まさよしは「くもりガラス」ならぬ「くぐもりガラス」といった趣き。

ハーモニーも心地よく選曲もおシャレ。
山崎まさよしのタンバリンテクニックにふむふむ。

すでに知っている向きには余計なお世話。
知らない向きには是非ということでよろしく。

TVのニュースでは北朝鮮が「水爆実験」とやらをしたと大騒ぎ。
それが「唯一の外交手段」なのだからそうするのだろうと思うのみ。

ただし今回は「味方」がいないので
「国際的孤立」がいたずらにエスカレートする危険はあるかも。

イランとサウジその他周辺国の「国交断絶」もあり。
今年は正月から何かと騒がしい雰囲気。

シーア派とスンニ派の小競り合いは
むしろイスラム教への新たな「偏見」を生みそうで。

これが原油価格値上げのための「小芝居」だったらいいのに。
中東の人々はずる賢いですなと笑ってすませそうだから。
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「すでにある監視体制と緊張感」について

2016-01-06 03:00:52 | Weblog
くもり。昨日より少しだけ冷える。

ジュリアン・アサンジ「サイファーパンク」を読む。

著者はご存じ「ウィキリークス」の編集長。
「サイファーパンク」とは「サイファー(暗号)+パンク」の合成語。

世界中を監視することで都合のいいものを利用しようとする国家と
そのことを危惧する著者およびその仲間たちは敵対関係にある模様。

ネットへの接触のデータ集めや盗聴によって
あらゆるものが至極簡単に監視できるテクノロジーがすでにあるということ。

それに対しては国家あるいは権力の解読できない
「暗号」という技術を各地にもたらすべきだと。

「ビッグデータ」などというものに魅力を感じる前に
それらの情報は常に「都合よく利用されるもの」であることは知っておきたいもの。

「テロリズム・マネーロンダリング・麻薬戦争・児童ポルノ」が
「情報黙示録の四騎士」としてネットの「検閲」を正当化するというのにふむふむ。

「特定秘密保護法」などという意味不明な法律を持つ国においては
その危険性はほぼ認識されていないと言っていいのだろう。

何がどのような理由で機密になったかもわからず
その「公開」まで60年もかかるというのだからいやはや。

防衛あるいは外交で機密扱いされる事項があることに異存はないとして
これじゃまるで「失敗の隠蔽」を確実にするためのものだとしか思えない。

もっともわが国は「記録を公開することの重要性」に関する意識がそもそも希薄。
「明治」という国家体制も「資料の湮滅」によって行われた部分があり。

「歴史を消すこと」が可能だというのは実に怖ろしい。
「他者の判断に委ねること」をしないと人は簡単に堕落する。

それは権力を持つ者だけでなく誰にでも当てはまるはずで。
その種の「緊張感」が人を「まとも」にするのだと言っておく。

好ましい他人と比べて恥ずかしいことをしないように。
その点で「あなたに褒められたくて」と言った高倉健は圧倒的に「正しい」。
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「過去の政治とドラマあるいはパニック映画」について

2016-01-05 03:11:52 | Weblog
晴れ。あたたか。

筒井清忠「昭和戦前期の政党政治」を読む。

副題は「二大政党制はなぜ挫折したのか」。
「疑獄事件の頻発と無節度」「国会の混乱 買収・議事妨害・乱闘」

「地域の政党化・分極化と中立化・統合化欲求の昂進」
「『劇場型政治』とマスメディア・世論の政党政治観」が原因だと。

北一輝の思い付いた「統帥権干犯」を代表に
結局はそれぞれの「天皇の政治利用」もかなり影響している模様。

少なくとも「政治」というものに「過剰な期待」をする前に
自分たちが情報を知りまともな判断を下せるかどうかが重要なよう。

深夜ドラマ「ブラックリスト」を観る。

主題歌も有名な「エンドレス・ラブ」(’81)に出ていたジェームズ・スペイダーが
すっかり髪の毛の量が減って登場。

基本設定は「羊たちの沈黙」(’91)でそこに「謎解き」を加えた印象。
「悪が悪を裁く」ところに捜査官として優秀な妻が夫を疑うという「問題」が絡み。

どうやらシーズン3がすでに終了し4の製作も決定しているとのこと。
わが国でもこの手のドラマが「普通」になっていただきたいもの。

引き続き「ポセイドン・アドベンチャー」(’72)の後半を久方ぶりに観る。

「陽の当たる場所」(’51)でモンゴメリー・クリフトに殺されたシェリー・ウィンタースが
ちょいと粋なところを見せる太ったおばちゃんとして現れるところから。

「サヨナラ」(’57)でマーロン・ブランド、ナンシー梅木と共演したレッド・バトンズは
「五つの銅貨」(’59)での「ジャズ物語」が本領。

もちろんジーン・ハックマンのアクの強い牧師や
元売春婦を妻にしている刑事アーネスト・ボーグナインも。

「裸の銃を持つ男」(’88)で「復活」したレスリー・ニールセンが「船長」だったり。
子役上がりのロディー・マクドールも忘れずに。

「タワーリング・インフェルノ」はこの2年後の作品。
こうした「70年代パニック映画」を知っておくのも悪くないはず。
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「日米の違いと始まる仕事」について

2016-01-04 01:59:37 | Weblog
晴れ。今日もひきこもり。

ハリウッド版「リング」(’02)を観る。

ところどころに「ヒッチコック趣味」があるのは監督のせい。
「サブリミナル効果」のような映像にはいささか興ざめ。

「テスタメント」(’83)のジェーン・アレクサンダーが素敵。
もっとも「クレイマー、クレイマー」(’79)の方がわかりやすいのだろう。

ナオミ・ワッツはデヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」(’01)の翌年。
彼女がニコール・キッドマンと同級生だというのはお馴染み。

日本版と比べると「謎解き」に重点が置かれている内容。
「存在が周囲に迷惑をかける」という「貞子」の在り様は「悪魔の子」という解釈。

なるほどアメリカ流だとそっちがわかりやすいのねという感じ。
「念写」についても淡泊な描写で。

「死に顔」の特殊メイクはあのリック・ベイカー。
去年映画業界から引退したらしい。

さて。

「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」(’83)がTVで始まったので
それを飲みながら観つつ寝る予定。

今にして思えば帝国の兵隊のコスチュームは
第二次大戦のドイツ風。

77年の一作目は楽しめたがその次の「帝国の逆襲」(’80)には肩透かしを食らった記憶がある。
当時はいかにも「シリーズのつなぎ」だと思ったことも。

「ジェダイの帰還」(’83)については「ジャバ・ザ・ハット」を代表に
「さまざまなキャラクター」を優先したイメージであまり興味が持てずじまい。

それにしてもおよそ40年の歳月を通して
いまだに「イベント」として成立するのだから大したもの。

唐突だが「ジャバ・ザ・ハット」はマツコ・デラックスより鈴々舎馬風の方が似ている。
どうでもいい事ではあるけれど一応。

明日からいつものように仕事。
「変わらないペース」のはずなのでどうにでもなる。
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「資質と楽しく生きる術に『投資』すること」について

2016-01-03 01:30:15 | Weblog
晴れ。おだやか。

忘れ物を取りに下の妹と娘が来る。

コメダでコーヒーを飲んだ以外はテレビの前で廃人に。
「さんまのまんま」でのたけしとのやりとりに笑う。

やはりここでも「天然には勝てない」という話が出る。
もっともそれは「技術を持つ者」の見方ではあるけれど。

「形があってこそ崩せる」というスタイルに対して
端から「崩れている」のが強いのだという当然。

マル激を観る。

「ゲリラ戦」をするしかないという見立てにふむふむ。
まずは身近なところで「豊かさ」を確保せよと。

「社会」に何事かを期待するのではなく
「自分たち」こそが「社会」であれというのはわかりやすい。

「高齢者=団塊の世代」のダメな部分に対する若者の忌避感が強いらしい。
数が多いのであちこちで見かけやすいという事情もありつつ。

少なくとも「いいもの」に触れていられる環境を維持しないと
「殺伐とした世間」をやりすごせない模様。

とにかく「仕事」に拘束されてゆとりがないのはダメ。
その種の生活スタイルにも徐々に変化はありそうだけれど。

とりあえずいつまでも「昭和幻想」を求めるのは止めたほうがいい。
「貨幣量の豊かさ」を基準としないように。

確実に言えることはいかに「自分への投資」をするかということ。
それはいたずらに「資格」を取ることではなく。

「楽しく生きられる術」を身に付けることだろう。
「世界」はどこまでも複雑で広いのだから。
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「例年通りであること」について

2016-01-02 02:31:43 | Weblog
晴れ。ひきこもり。

大晦日はクインビー。

ちょいと早目にでかけて店までしばし歩く。
人気が少ない街をいささか早足で。

久方ぶりの知り合いが来店。
ジンのニューボトルを入れて朝まで大いに飲む。

マスターのお子と奥方も途中までいて。
あとは知り合いの夫婦とかつての常連さんと別のソウルバーのマスター夫婦のみ。

今回一番はしゃいだのは自分だったか。
お店は9日土曜が本当のラスト。

こう書くのも最後になるが
心ある者は足を運んでいただきたい。

元日。

さすがに目覚めるのがいつもより遅く。

夕べの酒が残る中妹夫婦たちがやってくる。
子どもたちにお年玉をあげて夕方までぐだぐだ過ごす。

ビール数本とワインを飲むうちに寝てしまい
目覚めてからもほぼ廃人。

みんなが帰ってからいつものように二階へ。
Eテレの討論番組をボーッと眺める。

ようやく酒が抜けたので今から補充。
「アイアンマン」など観つつ眠くなったら寝る予定。

今年は3日まで休み。
もっとも「仕事ぶり」には変わりがなさそう。

この「呑気さ」もいつまで続くことやら。
とりあえず「寿命」は続く。
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