退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『恋愛』が自分のもたらす『妄想』であることと『圧倒的なデタラメ』が現実を動かすことあるいは年月の経過にまかせるしかないこと」について

2021-04-18 02:47:36 | Weblog
終日降る雨。緑が目に映える。

「失われた時を求めて9 ソドムとゴモラⅡ」読了。

相変わらずの貴族とそこに集う人々のあれこれ。
今回はシャルリュス男爵の「手練手管」が印象に残る。

何事かが「失われる」と思った瞬間に浮かび上がる「嫉妬」の姿も。
繰り返すがやはり「恋愛は病気」だということで。

「徹底的な愚かさ」を潜り抜けないと「真っ当」にはなれないのか。
いやおそらくそれでも「ダメなはず」で。

マル激を観る。

今回は「トリチウムを含む汚染水の危険性」について。
薄めて放出しても「総量」は変わらないことと同時に。

詳細は控えるが「遺伝子を壊す働き」をもたらす模様。
われわれとその他の生きものに決定的な「被害」をもたらすものであることを覚えておこう。

そもそも「貯えていればいいもの」をなぜ放出するのか。
仮に放出したとしても「総量は同じ」なので被害は同じことに。

「石油タンク」という「前例」のあるものにするという「オルタナティブ」はあるのに。
その当然が出来ていないのだから何とも。

「風評被害」以前に実際に被害をもたらしたのは国と東電。
後者が「加害者」であるにも関わらず「データ」を作っている事実を知ろう。

ここまで「デタラメ」が「通用」する現実たるや。
「立場」の如何を問わず本気で「怒り」を発しないとどうにも。

「よくわかっていないこと」に対しては「最悪の結果」を予想する当然が忘れ去られ。
久方ぶりに「許せん」と思った次第。

番組内で神保哲生も言っていたがマスコミはこの「事実」を知らせないと。
せめてもの「救い」は放出の実行が2年後であること。

さまざまな「インチキの果ての結果」を未来の世代の「負担」にすることなく。
その「倫理」を実行できるかどうかがカギ。

深夜「わたしたちはガイジンじゃない」の再放送を観る。

イッセー尾形の見事な演技が「在日ブラジル人たち」に共感される姿よ。
わが国が彼ら彼女らを「使い捨て」にした現実を覚えておきたいもの。

ここでも再び「許せん」という気持ちが湧き上がり。
その一方で彼ら彼女らを支援する人々もいて。

古典小説も含めていずれも「人であること」が問われている。
AIに「倫理」を指導されなければならないわれわれの存在とは如何に。

あらゆる場所で「劣化」が進行中であることは確か。
怖ろしいのはそれがさらに酷くなることが「確実」であることだったり。

ならば敢えて「劣化の速度」を早めてという「加速主義」が登場するのもわかる一方。
「歴史」を踏まえた上で「今の自分」のみを最優先させない「態度」が望まれるのだが。

この種のことが「現実」になるためには「相当の年月」が必要かも。
更に「どうしようもない」それにお付き合いするしかなさそう。
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