退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「理不尽に晒されることの重要さあるいは敢えてする『説教』」について

2017-06-02 02:07:11 | Weblog
くもり。深夜に一時雷と雨。

阿川佐和子「叱られる力 聞く力2」を読む。

ある種の「理不尽」に晒されることによって
さんざん泣かされながらも対処法やユーモアが生まれること。

実は本書を借りようかどうかやや迷ったのだけれど
ちょいとめくってみたページに「なに、太ってんのよ」という言葉があり。

その時は敢えて詳細を追わないまま。
案の定しっかり笑える内容で「自分の勘」をいささかひけらかしたい気持ちに。

一冊目の「聞く力」よりパワーアップしている感じ。
確実に「伝える技術」がうまくなっているように思えた次第。

それとは別に。

若者たちの「打たれ弱さ」と親や上司たちの「腰の引け具合」には驚くのみ。
心ある者は相手が泣こうとも会社に来なくなろうとも平然と叱り続けよう。

それで「つぶれる」ようならばどこへ行っても「つぶれる」のだから。
その種の「愛情」はもっとごく当たり前に存在しなければならない。

本来「たくましく育つ素質のある者たち」を
いたずらに「ひよわ」にしている愚を年長者たちはもっと知っていいはず。

若者にも同様に。

ラインでしか会話できないだって?
「意見に対する否定」を「人格の否定」としてしか受け取れないのなら。

そうした「バカさ」にひきこもって一生暮らせばよろしい。
ひょっとして君は一生「成長しない」つもりなのか。

「今の自分」の判断などたかが知れているということ。
時間の経過がやがてその「事実」を教えてくれるだろう。

否応なく君も年を取る。
その時かつて君が「ああはなるまい」と思った「大人」にはなるな。

そういう実例は今の世の中に嫌になるほどある一方
そうでない実例もきちんと存在する。

かつて好きだったものが嫌いになったり
嫌いだったものが好きになることもいくらでもあることだし。

とにかく。

「世界の広さと多様さ」を「圧倒的に器の小さい自分」で測るのはやめた方がいい。
あとできれば「下品」や「卑怯」という言葉に敏感であってくれれば十分。
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