退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「大きなイコール」が欠けていることについて

2011-10-24 02:16:57 | Weblog
くもりのち晴れ。天気雨も。

ここ数日身内の結婚式がらみでドタバタ。
親戚から「今度はお前の番だ」と言われる。

いつも通り「ご縁があれば」と答えておく。
今後も「風まかせ」ですますつもり。

明日からようやく「通常モード」に。
地味に暮らして行ければそれでいいの。

マル激のNコメを観る。

世界では「格差」に関するデモが起きているのに
わが国ではなぜ起きないのかと。

いわゆる「社会」への関心を持てないほど
各個人がそれぞれ「大変」だという見立て。

「わたし」が「われわれ」になりにくいのだと言う。
今回の未曾有の原発事故を経験してもそうなのか。

「他人」に優しくあるためには
「自分」に余裕がなければならない。

その「余裕」も持てない「暮らし」の正体は何なのだろう。
おそらくは「金銭の問題」ではないと思われるのだけれど。

「十分な承認=安心感」を持たない子どもたちは
いたずらに「言葉の裏側」を探る「作法」を身に付けて。

とりあえず確保する「仲間」は「自分と同じ境遇」だったり。
それぞれの「島宇宙」の数だけが増える結果になり。

「現実の辛さ」が「世界の単純化」を呼び
ほぼ無益な「祭り」を可能なものにしているのだとしたら。

他人の「揚げ足を取る」という形で「自分」を確認する「貧しさ」は避けたいもの。
とはいえその「貧困」はあちらこちらに見えている。

「同じ時代を生きられること」の「奇跡」に
人はもっと敏感にならなければならないだろう。
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