退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「科学と宗教」について

2015-05-23 02:23:27 | Weblog
快晴。おだやか。

昨日は飲んでいるうちに何となく寝てしまう。
ついついすすんだということで。

リチャード・ドーキンス「悪魔に仕える牧師」を読む。

面白いかと言われるといささか微妙。
おそらく「無神論」がどう評価されるかという「環境」の違いが大きそう。

ただ「インチキなもの」がはびこっているのを見ると頭に来る気持ちはわかる。
「宗教に関して話すのはタブー」だというのも同様に。

とはいえ「マシな宗教」でもないと
人々がおかしくなりそうな予感もなくはない。

どうでもいい「自己主張」や「ルール無用の輩」は各地に見られ
情報技術の進歩によってそれらが実に簡単に「つながれる」ようになってしまった現在。

そもそも「論理」を重んじるのかどうかすらあやしい中で
それでも「論理」を説く意味はあるのかとか。

「論理」を無視するならせめて「マシな宗教」でもあればというのが正直な感想。
もっともその一方で「あらゆる宗教は邪教だ」という考えもあり。

ひとつだけ大事なことがあるとすれば
「論理」を突き詰めもしないで「論理の不確かさ」を言うのは間違っているということ。

大した「人生経験」もない人間が
言葉だけでそれっぽいことを語ってもむしろその意味が死ぬのと似ている。

その対象が「論理」でないとしても
何事かについてある程度「徹底したもの」が背後にないと。

「人を見て法を説け」という言葉とは逆に「法が人を選ぶ」ということがある。
たとえ言葉そのものは寸分違わないものであったとしても。

その人がどのようなものを評価するのかあるいはどのような手法を取るのか。
「見る目」さえあればそれでほぼ「すべて」がわかるはず。

少なくとも「科学」は簡単に捨て去っていい手段ではないだろう。
「盲信」しないための「クッション」であることは確か。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「耳につく曲」について | トップ | 「どん底であること」について »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事