退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「自分の思いにすぎないこと」について

2012-06-10 03:42:38 | Weblog
くもり。傘を持って出て仕事場に置いてくる。

清水幾太郎「流言蜚語」読了。

関東大震災の経験者としての「描写」が沁みる。
同じ道を歩く避難者の声に誘われ思わず「ウォーッ」と叫ぶあたりが何とも言い難く。

死んだと思われた妹と弟の安否を確かめるため
そこらじゅうにある死体を確認したという「事実」もあり。

上空で紙のように見えたトタン板が降ってきて
逃げ惑うよりない姿も心に刻まれるよう。

その著者は後年「東京の脆弱さ」を訴えるのだけれど
政治家はいっさい耳を貸そうとしないのが印象的。

「震災のリアル」を知っているからこそできる「呼びかけ」を
誰も「本気」で受け取らないという「悲劇」よ。

「同じこと」がまた繰り返されるのだとすると
「人は経験から学ぶことができるのだろうか」と真剣に思わざるをえない。

今回は「天罰」という言葉だったりしたけれど
当時は「天譴(てんけん)」という言葉が飛び交った模様。

あらためて「自然の猛威」に何事かを意味づけてしまうわれわれの「愚かさ」は
ある程度の「賢さ」を持っていると思われる作家たちの反応ぶりからも「避けられないもの」だと確信する。

具体的に必要な「処置」というものがあるとして
人はついつい「自分の思い」という「狭い世界」に囚われ「完結」しやすいものらしい。

そのあたりを重々承知した上で
できればあれこれの言動をしたいものではある。

がしかし。

どうやらそれが「無理筋」だと自覚すると
何やら暗澹とした気持ちになるのはまだまだ「子ども」なのかも。

苦笑いしながら明日を迎えることにする。
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