退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「コミュニケーションの不可能性の『正しさ』と日常」について

2017-04-22 02:03:45 | Weblog
くもりのち晴れ。おだやか。

ポール・ド・マン「読むことのアレゴリー」を半分読む。

せわしなく一度読んだだけでは歯が立たなさそう。
ときどきうっすらと何事かを感じ取れる程度。

いちおう明日読了予定だけれどいかにも心許ない。
まあこれもひとつの「経験」ということで。

今度読む時にはもう少しマシな読解がしたいもの。
自らの「力不足」を認めるよりなく。

わかりやすい例を少しだけ。
たとえば「What's the difference?=何が違うのか」の解釈について。

「反語=何も違わないだろう」とも取れるし「純粋な疑問」とも取れる。
いずれを取ろうともう一方の解釈は残り「本当の意味」は「宙吊り」に。

この種の考え方は全く「正しい」と思われるけれど日常で出会うと実に腹立たしいのみ。
なぜならそれぞれが「自分の前提が優先されること」を当然だと思っているから。

ここで問題。

以下の文中の英語を読みなさい。
「A君の体重は60キロでB君の1.5倍です。B君の体重は何キロでしょう」

ある者は「ABB」と読みある者は「AキロBBキロ」と答え。
またある者は「数字も英語のうちだとすると答えは変わる」と言い。

自分が経験した過去の例を挙げておく。

「ワンスモアってどういう意味?」「もう一回」
「ワンスモアってどういう意味?」「もう一回」。

後者を仮に「笑い話」だとしても前者についてはどうか。
それぞれの「前提」をそれぞれが「当然」だとするとほぼ「会話」は不可能になるはずで。

ある時期以降こうした「現実」が目立つようになってきたのは確か。
というより「原理的」には「ずっとそうであったこと」が普通の会話で起きるようになり。

「脳内ひきこもり」が至極普通になって「人々」は自らが「神」になったつもり。
「私が認めないものは存在しない」という言明は今や堂々と流通している。

「ポストトゥルース」とやらはどうやらこういうことだったのか。
もっともわれわれの「性質」にはそもそも「自分がイヤなこと」は認めたくないところもあり。

さて。

物理的に「身近」にいる人々とあなたは「まともな会話」が出来ているのだろうか。
それに対して「何が問題なの?」と答えるのかもしれないけれど。
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