退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「どう生きようが死のうが『自由』であることあるいは『グロテスクな愛情』」について

2020-02-06 02:37:34 | Weblog
快晴。夜風が冷たい。

田代志門「死にゆく過程を生きる 終末期がん患者の経験の社会学」を読む。

かつては「正しい死」が医療関係者によって「誘導」されたこと。
家族と医療者の狭間で死にゆく当人の希望が無視されたことなど。

どう生きようがどう死のうが自分の好きに。
この「当然」が忘れ去られて。

「がん」という病気は「死」まで案外時間がある。
そこをどう生きるのかを大切にしないと。

「延命治療」がすべてではなく。
出来れば「楽しく生きて死にたい」ものではある。

園子温「冷たい熱帯魚」(’10)を観る。

でんでんの迫力ある狂気が素敵。
「やさしさと恐怖」を使い分けるパターンで相手を支配して。

監督は「おっぱい星人」だったのか。
神楽坂恵と黒沢あすかの二人がふんだんに。

主人公の吹越満の「変貌ぶり」がポイント。
「しあわせな家庭」を望みながら最後まで娘に「説教」など。

「クソジジイ、やっと死んだか」といった内容の台詞を吐く娘にふむふむ。
彼女は父親のせいで一方的に「不快な環境」で暮らすことに。

「血まみれ」のシーンの色彩感覚がなかなか。
「一方的でしかない愛情のグロテスクぶり」がここに。

おそらくは各地で起きているはずで。
「透明にされること」の意味をよく覚えておきたい。
コメント
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