退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「退化」について

2015-07-06 02:28:44 | Weblog
くもり。だったはず。

煙草も買いに出ず一日中ひきこもり。

竹田という皇族関係の男が声の大きさで何事かを言う姿が不愉快。
「TVの演出」だとは知りつつそうした「演技」をして何がしたいのか。

「朝生」に出たりする時は案外おとなしいのに。
少なくとも「議論」において重要なのは「声の大きさ」ではないはず。

普通に話せば聞けるところもあると思うのだが。
そういうキャラを引き受ける「意味」がよくわからない。

仮にそれが「意味不明なことを言う左翼」に対する「まともな人」の役割だとしても
最低限「声の大きさ」でなく「論理の質」を大事にしていただきたいもの。

「非論理的な相手」に対してできるだけ「論理を尽くすこと」。
その後はむしろ笑うべきだろう。

マル激を観る。

「日本会議」とやらがいつのまにか一定の力を持つ勢力になり
安倍首相以下「お友だち」もその関係者が多いらしい。

ある種の「不安」に駆られる人々は「わかりやすい敵」を見つけ
「論理」に関係なく「敵」をやっつけることが最優先な模様。

端的には「お前のしょぼい不安を『世界』に持ち込むな」ということだったり。
とはいえそういう人々が少なくない「現実」は確かにあるようで。

意見の異なる人々と「普通の会話」をすること。
それがどうやら相当に難しいことになっているのか。

さて。

NHK「生命大躍進」を観る。

「大脳新皮質」が発達し「言葉」を使えるようになったのが「人類」の特徴だとして。
その「言葉」の習得を嫌う子どもたちが少なくない「事実」は「退化の印」なのか。

あるいは「論理の質」が問われなくなって久しい「現代」を
どのように解釈したらいいのかなど。

テクノロジーでそれがどうにかなるのならさっさとしてくれ。
ただしそれは「意志」を捨てることになるのも忘れずに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする