退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「どうしようもないこと」について

2014-07-10 01:59:00 | Weblog
くもりときどき雨。傘なしですむ。

本切れで久方ぶりに古本屋へ。

目ぼしいものがなく斎藤孝「『できる人』はどこがちがうのか」を購入。
最近「有吉反省会」で見かけたりする著者の昔のお手並みを拝見する。

「親が子どもに伝えるべきもの」は「上達の普遍的論理」で
その中身は「まねる(盗む)力」「段取り力」「コメント力(要約力・質問力を含む)」の三つだと。

あとはスポーツ・小説・ビジネスなどからの「例証」で「徒然草」の解説もあったり。
「暗黙知」を「言葉」にする重要性も。

いちおうはうなずける内容ではあるけれど
すでに「言葉」を捨てた人々が数多くいることを思えばほぼ「無力」。

それでも言葉を使うしかないことが同様に「事実」ではあるとして
それをどう組み立てればいいのかはよくわからない。

たとえばこのところ話題になっている脱法ドラッグを吸引した上での車の事故は
何とも自己中心的で貧しいけれど「ほぼ自殺」のようにも思える。

たとえその「視野狭窄ぶり」を否定しようとも
彼らは同じことをするのだろう。

ならば「感情のカタルシス」を別の面から与えるしかなさそうで
そのためにはこちらの好まないものに敢えて踏み込んで組織しなければならなくなる。

そこまでの「マキャベリスト」になれるかと言われると
即座に「無理」と言うよりない。

やはり自分なりに「いいもの」を伝えることしかなさそう。
たとえそれが全く伝わらないとしても。

いまさらそれしかないことに気付くとは情けないが
気付かないよりは少しマシだということにしておく。

「言葉の伝達不可能性」を「予想もしない伝わり方をする可能性」だと見立てるとしよう。
ただしそれがうれしいかと聞かれると相当に微妙なのも間違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする