![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/ee/11b2f37991d74738a59326eda9554dda.jpg)
kuća(クーチャ・ボスニア語)
靄がかった夕刻の薄明に縁取られた家々の黒い影。対照的に、夕闇にくっきりと浮かび上がる生活の灯りのひとつひとつ。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォを訪れたのは、とある夏の夕暮れ時だった。低い丘に囲まれ、その中心を一筋の川が流れる谷底に、サラエヴォの街並みは広がる。
サラエヴォと言えば、ユーゴ紛争の際、民族間の内戦や虐殺が起きたことで世界的に知られてしまったが、実のところ、歴史上様々な民族が共存してきたコスモポリタンな土地であり、ヨーロッパの地にありながら、未だオスマン朝の足跡を色濃く残す稀有な場所でもある。
東西に広がるサラエヴォの街は、東へ行くほどオスマン朝の面影が色濃くなっていく。丘の斜面に沿って並ぶ住宅街では、トルコの一定の場所で多く見られるような、木彫り装飾の施された窓が二階部分から路面に向かって張り出すオスマン様式の家屋に数多く出逢う。アザーンが響く中、デコレーションケーキに立てられた細い蝋燭のようなミナレット(尖塔)の合間に立ち並ぶオスマン様式の家屋を見ていると、まるでイスタンブルやサフランボルを訪れたかのような錯覚に陥ってしまう。
そして、かつての職人街バシチャルシャに足を踏み入れると、どこか懐かしい風景に遭遇する。木造の軒の低い家屋が長屋のように続くその空間は、アジアの下町の路地を思わせる。しかし、足元に広がる石畳はヨーロッパのそれを連想されるし、頭上を見上げれば、そこかしこ、隊商宿の名残を残すイスラームのドーム屋根が連なる。えも言われぬ懐かしさの感情と、未体験の驚きが交差する。チェバブチッチ(ケバブ)屋の小さな煙突からモクモクと吐き出される白い煙と、どこからともなく聞こえてくるトルコのアラベスク歌謡のような旋律は、イスラーム世界に馴染んだ者には既視感を覚えさせるノスタルジーも湛えている。
現在は大半が土産物屋となってしまった「長屋」のひとつひとつでは、かつて金属加工や絨毯織の職人が商売の腕を競い合っていたのだろうし、軒下の出っ張りに腰掛け、トルココーヒーを啜りながら日がな一日お喋りに興じていた人々の、のんびりした姿が脳裏に浮かぶようだ。
路地を彩ったかつての日常の風景が、今でもここでは想像に難くない。
夕闇迫る輪郭の無い藍色の塊の中、くっきりと浮かび上がるのは、生活の音を放つ光を伴った光景。そこには、人々の行き交う姿を見つめ続け、歴史の重みを背負う木造家屋の風景が広がる。内戦の爪あとを色濃く残す町並みの背後で、ひっそりと佇むオスマン朝の夢の跡が、木造家屋連なる風景の中に、今でも確実に息づいている。(m)
イスラム文化って何故あんなに郷愁を掻き立てるのでしょう?
遥か昔、シルクロードを通って伝わった何かが、日本人の心の琴線に触れるのかも知れませんね。
ヨーロッパの箱のような建物に比べると、ボスニアの低い家々は日本人が描く『家』に近いせいもあるのでしょうね。
小さな路地にはみ出したレストランのテラスで、ミナレットの横にくっきり浮かぶ白い月の映像が今でもしっかり焼きついています。
平和の祭典の舞台だったスタジアムが悲しい戦没者のお墓になってしまい、国が3分され、見えない国境がしっかり張られている状態が続いている現状を見ると、ボスニアにはまだ本当の平和が訪れていない気がします。
ボスニアの人々が心から笑える時代が来る日が早くやってくることを祈るばかりです。
あの辺は紛争前も紛争後も一度聞いたくらいでは覚えられないくらいにややこしくて。
まだ平和だった頃、パリから乗り込んだ列車のコンパートメントで一緒だったユーゴの人たち、とっても愉快な人たちでね、
あの人たちがこの画像のような街で、少しずつ平和を取り戻して暮らしていてくれたらなぁと願うような気持ちで読ませて頂きました。
国が変わるって、本当に仰天ものですよね。線一本(国境)で、まったく違うカラーになってしまうんですもの!
イスラム文化が郷愁をかきたてるのはなぜか?シルクロードと、そして、民族的にも近いものがあるように感じます。
月の文化、農耕民族というあたりも関係あるでしょうね。
私も地理的なことはからっきし!
ただ、彼の地のみなさんが、たわいも無いことにおなかを抱えて笑える日々がやってくることをひたすら願うばかりです。
ところで、電車の旅での出会いも、忘れられない一こまが結構ありますよね。
二度と会うことはない、一瞬の出会いなのに鮮明に覚えている出来事が結構あります。
私もやはりクロアチアから(しかもダルマチア海岸沿いの明るいイタリア風の風景から)ボスニア入りしたので、途中経過していく山間の風景も含め、サラエヴォが、ヨーロッパの中に位置する異質さを、まざまざと感じさせられました。でも、本当、私たちにはなぜか郷愁を誘う風景なのですよね。サラエヴォの西と東の風景の対比も印象深かったです。サラヴォの街中には爆破されたままの建物など戦禍の跡が多く残りますし、タヌ子さんも書かれているよう丘ひとつ越えると違う民族の居住区だったりで、見えない線が国境のような区分を作っていることに、未だこの国は統合の過程にあるのだなと思わされます。
かつてのコスモポリタンなサラエヴォが戻ってくる日がいつかくるのでしょうか。
旅先で出逢った人たちのその後、とても気になりますよね。彼らが幸せな生活を送っていてくれたら…、ユーゴのような紛争があった地の人たちなら尚更、それを願わずにおれません。
複雑な民族と言語と宗教とが入れ混じり、内戦が多かったこの地域の貴重な現在の様子です。じっくりと感じとらせていただきました。
活気ある街角・職人街が復興してくるといいですね。
サラエヴォの東側には職人街や屋内バザールも残っていて、現在でもその機能はある程度果たしているようです。大半は土産物屋やレストランになっていますが、真鍮を打つ音なんかが時々聞こえてきたりして…。プチ・イスラームの街を味わえるので、イスラーム商人に免疫のない人が、まず行ってみる場所としてもいいかも(笑)