ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

アメリカ

2007年05月13日 | Weblog
「アメリカ」というのは小説のタイトル。
作者はカフカで、本人はアメリカに行ったこともない
のだが、舞台をアメリカとして、ある少年が例によっ
て、何故か(船で)アメリカに来て(姿を現さないお
じさんかなんかいたような、ちょっと記憶はあやふや)、
ある物語に沿って動くわけでもなく、迷宮的な世界(
ホテルが主な舞台だったと思う)を彷徨い浮遊するい
うもので、決してアメリカ紀行でもなく成長物語でも
ない。
カフカ好きとしては充分面白い。

しかし、何故いま「アメリカ」か、ということだが、
「ストロ-ブ=ユイレ」の映画に、この「アメリカ」を
原作とした作品(階級関係というタイトル)があり、
それがDVDとして発売されている。
それを買うかどうかずっと迷っていたのだ。
そして、この間、とうとうDVDをアマゾンに注文してし
まったのだ。
「ストーローブ=ユイレ」の映画は、見る機会が本当
に限られるので、このように直接購入するしかないの
が実情。
数少ないDVDで、何にしようかと思った時、原作が「ア
メリカ」ということなので、当然読んだことのあるも
のだから自分には馴染みがあり、それをどのように表現
しているのかという興味は更に増す。
まあ、「ストローブ=ユイレ」のことだから、一筋縄
ではいかないことは分かっている。
ストーリーなどというものは、消滅したところから始
まるであろうことも分かっている。
言葉が浮遊する映画という空間か。

しかし、観る前に覚悟を要求する映画ってどうなんだ、
と思うのは正常な感覚だと思うし、そもそもそんな映画
が面白いのかという疑問を持つのも正常な感覚だと思う
が、物語として理解できるのが「分かった映画」であり
カタルシスを与えてくれるのが「面白い映画」という世
の中の大方の意見は充分理解できるが、それは映画の可
能性を否定する見方でもあるのも事実で、娯楽的面白さ
だけが映画ではない、と宣言したいところだが、それで
充分と言われれば全くその通りで、人それぞれだという
考えに全ては回収され丸く収まる、と言いたいところだ
が、それはやはり勿体ない、つまり、折角世の中に出回っ
ている映画という普通に接することが出来るものによっ
て、少なくとも未知の世界に触れられる、と言ってもこ
れは知らない外国を知るということを意味しているわけ
ではなく、直接見た人の想像力なり感覚を刺激するとい
う意味の未知なる世界で、今までとは違う異質な感動を
味わうことが出来るということで、決して遊園地のジェ
ットコースターで味わうものとも、スポーツで味わうも
のとも違うものであって、映画でしか味わえない特権的
なものである。

ふう、今日も最後に訳の分かったような分からない長い
文章をかいたぞ。
それにしても、何を好き好んで「ストローブ=ユイレ」
なんて買うかね、と自分でも思う時もある、今日この頃
の、暑かったり涼しかったりの天気である。
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ニルソン

2007年05月12日 | 音楽


先日「ER」(日本のドラマと比べるとしっかり出来
ているのでたまに見る、しかし流石にネタ切れと見え、
プライベートな問題を無理やり作る傾向が見られる、
そろそろ幕引きしたほうがいいのでは)を見ていたら、
突然懐かしい音楽がかかった。
それが「ニルソン」だった。

「ハリーニルソン」と言えば、なんと言っても「Without
You」が有名だ。
あとは「噂の男」とか。
番組でかかっていたのは確か...ここですらすら題
名を出したいところだがそれが出てこない。
さんざん聴いたどれかのアルバムに入った曲であるこ
とは間違いないが、それがどれだったか。
まあ「ニルソン」に限らず、よく聴いた曲のタイトルを
覚えてないなんてことは全然珍しくない、というより
殆ど覚えてないと言った方が良いくらい。
基本的に、アルバム全体で聴くので個々の曲名を覚え
る必要がないのだ(言い訳ですが)。
だから知った曲がかかると、ああ、あのアルバムに入っ
ているあの曲だ、ということになる訳だが、今回はそ
のアルバムのタイトルさえも忘れてしまったという体
たらく、ということだった。

しかし、唐突に知った曲がかかるという事体は、知ら
ないところで偶然昔の知った顔に出会うことより嬉し
いことだ。
何故かというと、昔の知った顔に合うことはは必ずし
も懐かしいわけではないから。
つまり、「嬉しい」は保証されていない。
その点音楽は、好きではないものでも懐かしさは間違
いなくある。
しかも、今回かかってた曲は、ニルソンの中でもそれ
程有名ではない曲だから尚更だ。
共通の密かな楽しみを持った同士が、思わぬ出会いに
にやりとする、その瞬間に近いか。

実際は、それ程のことではないが(大袈裟に言っている
から)、「ニルソン」という名を、果たして今現在の日
本人の何人が覚えているのかということを考えると、大
袈裟にも言ってみたくなるのだ。
確か、アル中かなんかで早くに死んだ思ったが。
それと「ジョンレノン」とも親しかったはずだ。
ややしゃがれたような鼻にかかった声が特徴で、ヒット
曲以外でも良い曲が多い。
「Witout You」ほどは本人の名前が知られていない「ハ
リーニルソン」だが、もう少し注目されてもいいのでは
ないかと、今回偶然にも「ER」で再会して思った次
第だ。
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ガレット経由ヒヨコマメ

2007年05月11日 | 食べ物


昨日の続き。
「ヒメギフチョウ」を今年も撮れたという満足感を抱
え、蓼科湖方向に下っていった。
その途中、道の脇に変なものを発見。
白い顔のようなものが、ポールの袂に、まるでなにか
を表現しているかのごとく置いてあった。
ゲージュツか(この部分<欧米か>のイントネーショ
ンで)。
近づいて見ると、それは矢張り顔だった。
標識か何かに使っているような、明らかにデザイン化
された横顔だ。
「ボッティチェリ」あたりに登場しそうな雰囲気を持っ
ている(ちょっと違うか)。
それにしても、何ゆえポールに噛み付いているのか。
周辺に異質な空気を放っている。

空気で思い出したが、最近「空気感」なる表現をよく
耳にする。
どうやら雰囲気のことを言っているらしいが、なんだ
か違和感を感じる。
言ってる本人は気の利いた表現をしているつもりのよ
うなのだが、「なんだかねえ感」が拭いきれない。
最近では「イチロー」の言っていたのが記憶に残って
いる。
普段から感じるのだが、どうも最近の「イチロー」は、
無理に難しい表現をしようとしている嫌いがある。
内容は大したこと無いのに。
変に神格化するからこうなるのだ。
と余談はここまで。

「ゲージュツ」を通り越して、その先のホテルに入っ
た。
確かここで「ガレットフェアー」を6月一杯までやっ
てるはずだ。
しかし、ロビーにはそれらしき案内が全く無い。
シーンとしている。
仕方ないのでフロントに聞く。

「蕎麦粉のガレットやってなかったですか?」(私)
「申し訳ありません、シェフの都合で中止になりまし
た」(フロント)
「ということは、今日だけではなく?」(私)
「申し訳ありません」(フロント)
高嶋政伸か(この部分<欧米か>のイントネーション
で)。

というわけで、ガレットはやってなかった。
しかしこのくらいのことはもう慣れっこだ。
実は、何割かの確立でこういう事態を想定していた。
場数を踏むと、いろんななケースがインプットされる
のだ。
さっと踵を返して向かったのは、直ぐ近くのインドカレ
ーの店「ナタラジ」。
連休頃からの営業なので、やってるはずだ。
案の定営業している
それではと席について、徐にメニューを見る。
うん?いつもと違うぞ。
ランチのセットメニューがないのだ。
すると店の人も気付き(顔を覚えられた)、ランチの
セットはなくなり単品になりますと説明する。
これは想定外。
仕方ないので、「ヒヨコマメ」のカレーと「ナン」を
それぞれ注文する。
結果、「ナン」の分だけセットより高くなる。
しめて1420円。

現地系カレー屋の、ランチ800円前後ナン食べ放題
という営業形態が珍しくない現状を考えると、ちょっ
と高いが、食べ放題でもカレーの味が今ひとつだった
ら意味がないので、まあしょうがないか、が結論とし
て導き出されたが、それにしても今日の「ナン」の出
来はいまひとつで、いつもは「柱状節理」状にふわっ
と裂け、表面はかりっとしているのだが、今日のは全
体硬めで膨らみも悪い、ひょっとしたら、「天然酵母」
なんか変に使うからではないのかと、大きく宣伝して
いる「天然酵母」の幟を見て思ったのだった。
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ヒメギフチョウ2

2007年05月10日 | 生き物 自然


前回天気が悪く、まったくの空振りに終わった「ヒメ
ギフチョウ」観察、満を持しての再挑戦。
まず手始めにというか、何か他のものがいないかと霧
が峰に寄る。
「池のくるみ」の周回コースをとりあえず辿ってみた
が、まだ枯れ野原で、生き物の姿は殆ど見ることがで
きない。
適当なところでユーターンする。
それにしても天気は良い。
ぽかぽか陽気でまるで初夏のよう。
しかし、同じ生き物の人間の姿もない。
良い散歩コースなのにもったいないね。

うっすら汗をかき車に乗り込む。
蓼科に出るために、ビーナスラインを通ってまず白樺
湖を目指す。
この、霧が峰白樺湖間が、ヴィーナスラインの中心と
もいうところで、一番眺めの良い気持ちの良いコース
と言われているところだ。
実に十何年かぶりに通る。
車で走って気持ち良いい所というのは間違いないが、
同時に環境的には、車が来れば来るほど悪化するとい
う事実もつい考えてしまう。
実際、すでに高原性の植物が、外来植物に侵略されて
いる現実がある。
そんな自家撞着的思考をひきずりながら、白樺湖を通
過し蓼科に到着。
早速、散歩開始。

去年は、駐車場のタンポポに吸蜜に来た「ヒメギフチ
ョウ」に、車を降りたと同時ぐらいに遭遇した。
今年は、「モンキチョウ」の姿が見えるだけ。
そしてその駐車場から、脇を通っている道を見下ろし
ていると、別荘と別荘の間を抜けてくる黄色い、飛び
方が不安定な蝶の姿が目に飛び込んできた。
間違いなく「ヒメギフ」だ。
早速その道に降り、姿を目で追う。
「止まれ」と念じる。
しかし一向にその気配が無い。
しばらくはその一頭(蝶の世界の単位は頭)を追って
いたが、今度は違う「ヒメギフ」が現れた。
一瞬二頭は交差するが、直ぐに別れ別れに飛んでいく。
こうなると「二兎追うものは(この場合二頭)...」
状態になる。
本当にそういう状態になり、両方見失う。
しかしそれもほんの数十秒。
またまた違う「ヒメギフ」の出現。
それも一頭ではなく三頭。
出るときには出るもんだ。
今日は非常にタイミングが良かったのだろう。
その中の一頭に目をつけ再び念ずる。
それが通じて、数十メートル先に止まった(ようだ)。
勇んで現場に駆けつける。
いたいた。
カメラを構えてそーっと近づく。
休憩体勢にはいったようで、じっとしている。
マクロで何枚か撮る。
何枚か撮らないと安心できないのだ。
必ず撮ったうちの何割かはピントがずれているので。

ということで、今年も「ヒメギフチョウ」に会うこと
は出来たのだが、ここは古い別荘地帯で、それゆえ開
発されずにその環境が保たれているのだろう。
こんなところにまさか「ヒメギフチョウ」が、という
ところなのだが、一般的には、単に蝶が飛んでいると
しか思われてない、そのことが良いのかもしれない。
マニアに知られると、一気に悪化するから。
兎に角この状態が続いてほしい、と思う。

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TOB

2007年05月08日 | Weblog
NHKで、TOBから自分達の企業を守るというテー
マで、「新日鉄」のドキュメンタリーを放送していた。
始めは見る気も無かったのだが、ついつい引き込まれ、
結局最後まで見てしまった。

鉄鋼業界の再編は、世界的な規模で進んでいて、新日
鉄もいつその波に飲み込まれるか分からないという状
況下で、それを仕掛ける投資グループの総帥「ミタル」
と闘わなければならない。
その新日鉄の闘いぶりを、社長を通してテレビは追っ
ていく。

なんか、このまま映画にでも使えそうな題材だ。
悪の投資家「ミタル」。
名前も、外見もそのまんまで(あまりにはまり役)。
舞台はアメリカ。
映画の内容としてはこうだ。
ある真っ当な企業が買収され、創業者は追い払われ、
その後失意の内に自殺する。
何年か過ぎ、投資会社に一人の美しい女性が秘書とし
て採用される。
彼女は仕事も出来、全幅の信頼を総帥から受けるよう
になる。
そして投資会社は、今までに無い大きな買収計画を密
かに進める。
その買収計画がいよいよ最終段階という、その時、総
帥の今までの悪事と変態振りが、証拠と共に全て明る
みとなる。
一気に地獄に転落する総帥。
今度は、彼が拳銃で自殺する番。
銃声を背中に聞き、忽然と姿を消す美人秘書。
最後のシーンは、自殺した創業者のお墓に花を手向け
る秘書と母親の姿。
ここで観客はカタルシス。
B級映画の完成。

もう一つのシナリオ。
舞台は日本のある企業。
買収されそうになった時、従業員が一致団結し、その
企業のある街も一丸となって抵抗する。
社長は、その人間性ゆえ多くの人間に慕われているの
だ。
しかし、資本の論理の前には無力だった。
抵抗むなしく、買収は時間の問題となった。
そのとき、救いの手が。
かつて社長に救われた町工場の息子が、アメリカで成
功し、別の投資グループを率いていた。
かれが「ホワイトナイト」として登場したのだ。
始めは謎の投資家と訝っていたのだが、その彼の顔を
見たとき社長は全てを理解した。
ここで観客はカタルシス。

まあ、どちらもB級に変わりは無いか。
ドキュメンタリーの方は、全ては経済原理中心で進む
今の世の中の現実を、そのまま写していて、決して「ミ
タル」氏が悪人であるわけではない。
ないが、そう見えるから不思議だ(?)。
投資の世界は、利益を上げることが目的とはっきりし
ているから、分かりやすいと言えば分かりやすい。
昨日の話ではないが、経済活性化というのは、これら
の原理によってお金が活発に動いている状態とも言え
る。
しかし、企業は効率化で収益を上げるだろうが、多く
の人間は職を失い、お金は偏ったところに集中する。
それらの金持ちは益々警備を強化した豪邸に住み、更
なる金儲けをたくらむ。
それに応じて街は荒廃する。
灰色の未来。
資本主義経済の行き着く先は、これしかないのかと、
ミタル氏の姿をミタルと、いや見てると思うのだった。



コメント

サルコジ

2007年05月07日 | Weblog
「サルコジ」新フランス大統領は、「勝手にしやがれ」
の頃のジャン.ポール.ベルモンドとジャン.アレジ
を足して二で割ったような顔だ。
フランスの典型的エリート顔、か?
移民系の連中から嫌われるのも致し方ない。
階層化社会としては、日本とは比べ物にならないフラ
ンスでの話だから。
階層化のまえにずっと階級社会があったわけだし、そ
の深刻度は推して知るべしだ。

アメリカ型新自由主義というのか、要するに経済活性
化至上主義というのは、今やどこの先進国でも国是と
して推し進める共通の思想のようだ。
結果、更に階層化が進み、社会が不安定になるのも目
に見えている。
開発途上国は、世界の中の位置づけとしては、収奪さ
れる側で、貧しくなる一方。
そこで広まるのは社会主義的思想。
先進国は右傾化、そうでないところは左傾化、或いは
イスラム化というのが全体的な流れのようだ。
まあ、いずれにしろこの先良くなるという確信をもて
ない世界であることに変わりは無い。

そんな希望の無い世界で人はどうするか。
そう、個人的な世界に埋没するだけだ。
オタク化。
「オタク」が世界的に認知されてきたのも、こういう
状況があったからなのだろう。
もう個人の世界に逃げ込むしかないのだ。
それぞれがそれぞれの王国を持ち、抑圧から解放され、
日々再生されるその世界は、いまやどんな癒しグッズ
よりも有効。

と、様々な情報から読み取る今日の世界、だが、本当
にそうなのかというところは、分からないし、ほんの
一部分でそういうものが見られる程度の話かもしれな
いし、そうでないかもしれない、つまり、尤もらしく
まとめたいが為に、単純化してるだけなのかもしれな
い、という危険性というか嘘の可能性は常にあり、政
治家とか御用評論家の言説と同じく、疑いをもって見
ないといけない、と思うわけだが、昨日と同じく最後
は長い文章で仕上げてみて、これは要するに、ちょっ
とした遊びのようなもので、これからは、こんな詰ま
らない遊びが実は大事になってくる時代なのではない
か、とまたまた尤もらしく思った次第だ。
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駒ケ岳

2007年05月06日 | Weblog
マnラソン好き登山好きの、学生時代の友人が、登山帰
りに家に寄った。
一泊で、「甲斐駒ケ岳」に登ったそうだ。
単独で、テントに泊まったらしいが、その理由が、山
小屋だと煩わしいからというもの。
確かに、この時期だと山小屋は人で一杯だろう。
その気持ちは分かる、しかしそういう山小屋での出会
いも楽しみという人もいるだろう。
ここははっきり分かれるところだ。
考えてみれば単独で行きたがる人間は、そういうのが
好きではないから単独なわけだ。
「煩わしい派」であることは当たり前か。

それ以前にこちらとしては、テントまで張って登山を
すること自体が」アンビリーバボー」なのだが。
しかし、この手の趣味は、好きな人は好きでとしか言
えない世界で、決して客観的に説明できるものではな
い。
人それぞれ興味の対象は色々だ。
何が楽しくて登山をするのかという問いは、何が楽し
くてゴルフをするのかという問いと同じだ。
どちらにも興味が無い私にとっては、どちらも同じよ
うに面白みを発見できないのだが、好きな人は楽しい、
もうそれだけだ。
どちらか選べと言われれば、間違いなく登山だが。

基本的に、本格的な格好が必要なものは好きではない。
だから、ハイキング程度の山散歩は好きだが、トレッ
キングシューズすらないし、大体Tシャツジーパンと、
靴はテニスシューズを代用といった、別に山だからと
いう雰囲気は一切無い。
ただ靴に関しては、流石にテニスシューズでは足首の
ガードが今ひとつなので、山用として一足購入した。
それも、普段も履けるようにとワーキングブーツを。
これも完全に専用というものではない。
何かやる時に、格好から入ると言う人がいるが、全く
逆だ。
プロでもないし、変に本格的な格好は、むしろ格好悪
いと思ってしまうし、実際、それらの格好そのものが
良いとは思えない。
テニスにしろゴルフにしろ、単純にその服装が全然好
みではないのだ。

話は振り出しに戻り、その友人といつもの「蕎麦屋」
へ行き「田舎蕎麦」の大盛りを頼み、流石にこの時期
観光客も多く、主人に盛況ぶりを言うと、「たまたま
この時期だけ」というような予想通りの返事が返り、
蕎麦をすすりながら、「甲斐駒ケ岳」のレクチャーを
受け、南アルプスだから赤石山脈だ、とか、駒ケ岳の
すぐ隣に「マリシテン」という小さな駒ケ岳の瘤のよ
うな頂があり、「マリシテン?ペルーに支店でもある
のか」「そりゃリマだ」などと詰まらないジョークを
飛ばし、「摩利支天」という漢字であるということが
分かると、信仰の対象か、ということに落ち着き、
「そんなのがあるんだね」と感心し、「そう言えば今
大河ドラマでこの辺が取り上げられてる」と彼が言い
、「由布姫?そうらしいね」と見てない私は返事をし、
彼から諏訪の歴史を質問されても全く答えられず、地
元のことをよく知らないと思い知らされたのであった。
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蓼科

2007年05月05日 | Weblog
先日、連休の谷間の日、蓼科に「ヒメギフチョウ」の
観察がてら行ったのだが、ヴィーナスラインの各店は、
谷間の日とはいえ、大賑わいで、今年最初の稼ぎ時を
迎えている様子であった。
特に人が集中しているのが、イギリス式バラ園を売り
にしているところ。
ここはシーズンオフでも、周りに誰もいなくてもここ
だけはいるという人気スポット。
しかし、何が良いのか私は知らない(入ったこともな
いし)。
ただ、本格派からはあまり良い評判は聞かない。

そしてその次に賑わっていたのは、北欧料理の店。
ここは、開店したのが七八年前。
オープン当初は何回か行ったのだが、今は行かない。
その理由は、明らかに最初のころの方が良かったから
だ。
素材も、作り方も、味付けも。
今では人気店だが、良くある人気化すると味が落ちる
という、良くないパターンを踏襲しているように思え
る。
シーズンには行列のできる店であるが、あれだけの客
をさばくためには、まともに作ってたのではとても追
いつかない。
それにしても、並ぶ人たちの気持ちが解らない。
と言いながら、本当は解っている。
行列のできる人気店に行くその行為が重要であること
は、もう解り過ぎるほど解っている。
旅の記念だとか思い出作りの為に、か。

そして、自然食を売りにした創作料理系の店も賑わっ
ていた。
基本的に創作系を売りにしている店は好きではないし、
自然食も、家で普通に食べる野菜がそういうものなの、
でわざわざ店で食べようとはならない。
当然、入ったことはないし、多分この先も無いだろう。

そうやって考えると、このビーナスラインでは、入ろ
うと思うような店はないということになる。
いや、一軒だけあったか、自然食カレー屋が。
ここも自然食だが、もともとインドのヴェジタリアン
用のカレーというのは伝統的にあったわけだから、創
作系とは一線を画す。
というより、野菜系のカレーが好きで、ここがそうい
うものを提供してくれて、味も良かったということだ。

と、内容が「反ガイドブック」の様相を呈してきたが、
そんな店の様子を見ながら、蓼科湖を過ぎてぐるっと
上がったところの「プール平」に向かった。
ここは無料駐車場完備で、今でこそ観光客は殆ど来な
いが、以前は、蓼科の中心地で、別荘族で大賑わいの
ところであった。
「小津安二郎」がいた頃から1980年頃までが「プー
ル平」の時代かな。
そこに車を止め、いざ散歩を開始しようと思ったが、
小雨模様でその寒いこと。
あっさり諦め、ユーターン。
再び、先ほどの店の賑わい振りを観察しながら、同じ
道を下った。
結局、ドライヴしただけか。
コメント

特待生

2007年05月04日 | Weblog
高校野球界を激震させている(らしい)問題だが、正
直なところ、何を今更と思う。
前からずっと続いていることに関して、ここに来て一
気に問題化したのは何故なのか、そちらの方が知りた
い。
そもそも、高校野球がこれほど特権化され、純粋幻想
によって支えられ、高野連という権威団体が支配する
という、その構造そのものがおかしいんだから、高校
野球に興味の無い人間からすると、これを機に、高野
連廃止、甲子園大会廃止になってくれても全然かまわ
ない。

もう一つ重要な役者を忘れていた。
マスコミだ。
この場合、朝日新聞と毎日か。
自分達の販促、つまり金儲けのために、甲子園大会を頂
点とする高校野球というのを作り上げた。
「汗と涙の物語」(純粋幻想の第一歩)という、大衆
の心をぐっとつかむ仕掛けも用意し、甲子園大会は特
別なものであるいう特権化にも成功。
高校生のスポーツの頂点のような扱いをしたおかげで、
一般の人間も、本来ならどのスポーツも対等であるは
ずなのに、高校野球だけ特別扱いするようになった。
毎年毎年、その時期になると大きく紙面を割けば、素
朴な人はそう思ってしまう。
その基本的な構造は、今でも世界バレーとか世界陸上
などでも充分生きている、というか、エスカレートし
ている。

権威が出来、特権化されると、利権構造が生まれる。
日本人の野球好き(本当にそうなのか)も背景にあり、
選手の商品的価値は増してくる。
親も欲を出し、業者も協力、選手(生徒)は犠牲者と
は絶対言わない、自分達の成功はプロでかせぐことな
どということは当然意識しているのだから、親、業者、
選手(生徒)、それに高野連の、四位一体の癒着は強
固なものとなる。
マスコミ、学校もからむから六位一体か。
全体を支えているのはファンだから、七位一体だ。
まあ兎に角、金になるわけだから、いろんな問題が起
こるのは不可避だ。

特待生という制度は、例えばスポーツ以外の勉強が出
来る生徒に対しても適用されているのなら、スポーツ
だけ廃止というのもおかしい。
秀でた才能に対しての制度だったら、たとえスポーツ
馬鹿であろうが、その才能は才能なのだから特別待遇
はあっても良いのかな、ということだが、素朴な人々
を感動させるのは間違いなく、勉強ができる人ではな
く、スポーツ選手だ。
そういう点を評価するなら、スポーツこそ特別待遇す
るべきだという考えがより正当性を持つことになる。
しかし、これって完全に独裁国家の為政者が、素朴な
国民を素朴なままにするために使う、常套手段ではな
いか。
国力とか考えたならば、スポーツなんかより、研究者
(勉強が出来る生徒)の方を特別待遇(投資)すべき
だと思うが、政治家は人気優先だから美味しいところ
を利用するだけで、多分表では何もしない。
それに、経済原理が全てに優先するから、スポーツが
金になる限り、この構造は不変だ。
今回も、どうせ何も変わらず、痛みの無いところで決
着するのだろうが、「夏の甲子園は」本当鬱陶しい。
コメント

Galette

2007年05月03日 | 食べ物


T君のカフェに行くと、今度ガレット祭りをやると言
う。
「ガレット?」と当然の如く聞き返す。
どうやら、蕎麦粉のガレットを本当に作るつもりらし
い。
チラシまで用意している。
A4サイズのそのチラシには、確かに、エッフェル塔
の映ったパリの写真の上に、ガレットらしきフランス
語と、メニューがプリントしてあった。
でもよく見ると「Gullet」とある。
その時点では正確には判ってなかったのだが、明らか
に違うとは思った。
これだとギュエだろう。
そこで「これ間違ってるんじゃないの」と言った。
T君もそれには気付いているようで「ええ、僕も怪し
いとは思ってたんですよ」と答えた。
つまり、このチラシは、他の人間(この企画を考えた)
が作ってきたらしく、その人間は、そもそもこの手の
ものの知識も無く(学生なので)、当然のことフラン
スの食べ物の知識に関しても無いに等しい。
チラシのセンスも全然だし、T君がやったにしてはしょ
ぼいなとは思っていた。
そこを指摘すると「僕だったらこんなの作りませんよ」
と言った。
しかしT君、これを使ったらそう思われるよ。
五月三四五とフェアーをやるらしいが、結果が楽しみ
である。
「ガレット」などという言葉も聞いたこと無い人ばっか
りだから、どういった反応が返ってくるのか。

それで、具体的にどうやって作るのか聞くと、専用の
フライパンを使うらしい。
そういえば、見慣れないフライパンが置いてあった。
本格的なガレットは、かなり大きな丸い鉄板の専用器
具で、専用のベラのようなもので薄く丸く延ばして焼
くという、技術が必要な世界だが、T君が購入したフ
ライパンは、薄焼き卵の要領で焼けばいいもの。
しかし、それだったら普通のフライパンで良さそうな
ものだが、このガレット専用フライパンは特別な何か
があるのだろうか。
見かけは殆ど同じ。
値段は、鉄製の普通のフライパンの三倍くらい。
うーむ、どうなんだ。
特殊な金属ででも出来てるのか。
ここは今後の注目点。

一番の問題は、実際にちゃんと焼けるかと言うことだ
が、何度も、蕎麦粉と水の配合とか焼き方とか試行錯
誤して、なんとか形にはなってきたらしいが、専門店
のそれと比べると、やはり及ばないようだ。
そう簡単に、専門店の味が出せられるものではないの
で、それはしょうがない。
基本的なメニューとしては、デザート系の砂糖とバター
のガレットと、食事系の、スモークドサーモンを使っ
たものを考えてるようだ。
食事系の基本の、ハムチーズ卵のガレットは、一番出
したいところだが、ハムがネックとなっている。
本格的ハムは高いし、スーパーのボンレスハムじゃあ
美味くないしで、なかなか難しいところだ。
「別にスーパーのハムでも判らないんじゃないの」と
言いたいところだが、そこはT君も拘っているのでそ
うはしたくないようだ。
商売人にはなれないね。
コメント

森鴎外と正岡子規

2007年05月01日 | Weblog


テレビのクイズ番組で、顔写真の人物を当てるという
のをやっていた。
そこに問題として出てきたのが「森鴎外」「正岡子規」。
他は「手塚治虫」「ブルースリー」「芥川龍之介」「太
宰治」「与謝野晶子」「湯川秀樹」の計八人。
「与謝野晶子」「湯川秀樹」以外は、結構ポピュラー
な顔写真と思ったが、ここでびっくり。
横浜国大出身のタレントが二人いたのだが、この二人
とも、誰も分からないと言うではないか。
辛うじて一人が「手塚治虫」を答えられたが、もう一
人は、「森鴎外」「正岡子規」を「夏目漱石」「野口英
世」などと答え、単に髭だけだろう共通点は、と突っ込
みを入れたくなる解答連発だった。
曲がりなりにも横浜国大出を謳っててそれは無いだろ
う、と怒りさえ覚えた。
理系ならまだしも文系だし。
それなりの大学を出てこの程度か、と呆れるしかなか
った。

確かに、こういう問題を答えられたかといっても、単
によく知ってるね、という程度の話ではある。
子供が、車の写真を見て車種を答えるのと、大して変
わりは無い。
決して、答えられたものをよく知ってるわけではなく、
決められたカードの名前を答えられた、という程度の
話なのだが、そこに至るまでの過程はちょっと違う。
子供の場合は、一生懸命暗記してのその結果だ。
しかし、大人の場合は、意図的に暗記するわけではな
い。
常日頃のその人間の興味の対象、そしてそれらの無意
識的な取捨選択、その結果がそれに表れてしまう、と
考えられるのではないか。
同じように目にしているはずなのに、一生認識できな
い人もいるし、系統的に認識する人もいる。
その差は大きい。
そうやって考えると、単にものを知っている程度だけ
ではないある違いが、こんなクイズでも表れてしまう
ものということになる。

「森鴎外」と「正岡子規」を間違えるのは許せるが、
それを「夏目漱石」と間違えるのはやはり許せないの
だ。
「夏目漱石」と「野口英世」を間違えるのは許せる。
「芥川龍之介」と「太宰治」を間違えるのも許せる。
「平林たいこ」と「与謝野晶子」を間違えるのも許せ
る(これは自分です)。
「湯川秀樹」と「朝永振一郎」は知らなくても、まあ
しょうがない。
世の中には、間違って良いものと、駄目なものはある
のだ、という大袈裟な話でもないか。


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