ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

相撲

2007年05月28日 | Weblog
殆ど見ることはなくなったが、以前は贔屓の力士とか
(相当昔の話だが)いて、それなりに楽しみだった時
がある相撲、今回久しぶりの横綱誕生となるようで、
一応明るい話題を提供することになったのは、協会に
とっては喜ばしいことだ。
しかし、二人ともモンゴル出身と、100パーセント素
直に喜べないという事情はありそうだ。
それに、先輩横綱の振る舞いの問題も常に付いて回る
ようだし、八百長問題も何かあるごとに噴出するしと。

そうなるとでてくるのは純潔主義。
しかし、すでに今の大相撲は外国人力士の存在なくして
成立たない。
国際化すれば、相対的に日本人力士が弱くなり、そう
しなければ今度は力士そのものの数が少なくなりと、
どっちにしろ協会が思い描くようにはいかない状況が
ある。
理想的には、外国人力士より圧倒的に強い日本人横綱
がいる状態、だろうが、今の日本人で力士になりたい
という人がそういるとは思えないし、この先増えると
も思えないから、無いものねだりに近い。

思うに、相撲をスポーツとして捉えた時点で、未来は
決まったのではないだろうか。
相撲の特殊性イコール相撲の魅力と考えると、スポーツ
のグローバルスタンダードを持ち込むこと事体が間違
いだったのではないかと。
例えばその儀式性。
スポーツなら、勝ち負けのみが問題になるが、相撲の
場合はそれも見所。
品位とかを判断するのも、儀式を如何に優雅に遂行す
るかを見てのものだ。
その演技も重要な要素となる。
だから、スポーツ性を追い求めればその辺のところは
おろそかになるし、外国人力士にとっては、多分その
重要性より強くなることを優先するから、理解の範囲
外であろう。
そういうものを教え込んでいなくて、横綱になってか
ら求めても遅いのだ。
過去の日本人横綱に本当の品位があったかどうかとい
うのは別問題だが、とりあえずそう見えるかというこ
との重要性は文化として理解していた。
これは日本人として共有していた文化だから、外国人
力士に無いのは当たり前だ。
つまり、その特殊性を維持するためには、相撲をスポー
ツではなく「伝統芸能」として捉え、日本の文化を守
るための保護する対象とすればいいのだ。
様式美を見せるための、格闘技的な要素、スポーツ的
な要素、ついでに八百長的要素がある、極めて特異な
世界に誇る日本独自の伝統芸能。
やっぱり、駄目か。

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