扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行5日目② 阿多の姫、コノハナサクヤヒメ

2019年05月28日 | 取材・旅行記

加世田からさらに北上して万之瀬川を渡ると金峰町。

一帯は坊津のようなリアス式地形と全く違う。

万之瀬川が造った河口の沖積地で山を背負い水が豊富な平地として鹿児島には珍しく農耕に向いていた。

海上交通を利用した交易や漁労にも適していただろう。

縄文時代に人々が定住した栫ノ原遺跡がある。

休憩のために道の駅「きんぽう木花館」に寄ったら隣が「歴史交流館金峰」だった。

立ち寄ってみると割と新しい郷土資料館だった。

エントランスにはシラスで造ったコノハナサクヤヒメが置かれている。

コノハナサクヤヒメはオオヤマヅミの娘でニニギと出会い結婚、ひ孫が神武天皇となる。

一帯を「阿多」といいコノハナサクヤヒメの本名はカムアタツヒメすなわち「阿多の美しい姫」という。

資料館でいろいろ解説を読むといわゆる「隼人」、すなわちヤマト政権にまつろわぬ民には「薩摩隼人」「大隅隼人」そして「阿多隼人」の3つがあった。

阿多隼人の祖は「海幸彦」。

薩摩の伝説解釈を使うなら海幸彦の釣り針をなくした山幸彦は開聞岳の近くで乙姫と出会い竜宮城に行く。

そして野間岬のあたりで金峰山の神の娘と出会い、炎の中で海幸山幸兄弟を産む。

天孫降臨や海幸山幸の神話はヤマト王権が隼人を従属させる話といえようが神話の地をいろいろ想像しながら通って行くのはそれだけで楽しい。

 

道の駅にはコノハナサクヤヒメの銅像が立っており、作者は伊集院の島津義弘公像の作者、中村晋也氏だった。

私的な感想としては「好みの女性」ではないことがちょっと残念。

 

 

 


薩摩紀行5日目① 雌伏の島津

2019年05月28日 | 街道・史跡

五日目は枕崎を出て加世田に行き、島津家再興の地を巡って北上していく。

天気予報どおりの雨になった。

 

最初に行くのは昨日見学できなかった輝津館。

坊津の歴史はなかなか興味深い。

展示と解説はとてもわかりやすく私の疑問を解いてくれる。

学芸員の方に話を聞きたいと頼んでみたら小学生の集団見学の休憩時間に少し話ができた。

来てみて良かったと思うのはこういう時で文献をあさるだけでは得られないものがある。

場所の空気感もそうだし、交通の状況であったり距離感はその場所を走ってみなければ体に入ってこないものである。

 

この港町が繁栄を極めたのはひとえに立地と地理条件である。

日本列島の端っこだけという条件ではそうはならない。

中国大陸に最も近い端っこであることが日本の玄関口、出先営業所の価値を生んだ。

坊津は歴史上、仏教の町として発展したとの説がある。

「坊」とは寺院の坊(異説もあり)、寺院は一乗院といい、西暦583年に百済僧が開いたと伝える。

しかし創建時期については寺伝の他の史料がないようで謎である。

鑑真が来港、遣唐使船覇権基地となったことから古代律令制下の貿易港だったことは間違いないだろう。

しかし一乗院の状況がはっきりするのは南北朝期以後、そして坊津が最も発展したのは戦国時代、島津氏が南薩摩を治めていた戦国時代以後のことという。

一乗院は伊作島津家の保護を受けて栄え、義久義弘兄弟は一乗院で幼少期に学んだという。

坊津の商材として見逃せないのが硫黄。

火山に乏しい中国では火薬の製造に欠かせない硫黄は重要な輸入商材だった。

坊津の南に浮かぶ硫黄島では硫黄がとれそれを坊津から出荷する貿易ルートは島津家を潤したという。

そのころには一乗院は紀州根来寺と深い関係にあった。

根来寺といえば鉄砲の産地、坊津でも鉄砲は生産されたというから種子島〜薩摩〜根来という鉄砲の道は、製造に欠かせない砂鉄、硫黄、木炭がそろう。

 

そんなことをここで学んでずいぶんすっきりした。

本にまとめるのが楽しみである。

輝津館のベランダからは港が一望でき、双剣石もよくみえる。

天気が悪いのが残念である。

 

輝津館を出て観光案内所のおばさんと話をする。

007のロケの時、撮影隊は指宿に宿泊し連日、ヘリコプターで通ってきたのだという。

鹿児島というと桜島の火山灰を連想してしまうがさすがにここまで飛んでくるのは希だという。

 

出発すると時刻は11:00過ぎ。

高地を下りると司馬さんが止まって宴会をした鳴海旅館がみえた。

鉄筋コンクリートに改装されているが司馬さんのファンが見に来るらしい。

雨が強くなってきたので秋目の鑑真記念館入館を断念。

北へ行って加世田に向かう。

 

加世田は戦国島津を一躍九州の覇者とした島津忠良、貴久父子のふるさとである。

島津氏の歴史は少々ややこしく、初代忠久の子孫がそのまま続いたのではなく、分家による宗家の立場を巡る抗争の歴史でもある。

5代貞久の時、奥州家と総州家に別れ、宗家を継いだ奥州家が9代忠国の時、相州家と分かれた分家が伊作家。

伊作島津家は阿多川辺を支配して貿易などで力を蓄えて鹿児島方面に進出、島津宗家を継いでいた14代勝久から宗家の地位を奪取、貴久が15代を継ぎやがて三州を統一するに至る。

要するに戦国九州で大躍進する島津家の基礎は加世田で造られた。

このこともまたおもしろい。

 

竹田神社に寄ってみる。

ここは元々日新寺という島津忠良の菩提寺だったのが明治の廃仏毀釈で廃寺となり忠良を祀る神社として再興した神社。

近くに忠良の墓所があり、石畳の道々に忠良が家臣領民の教育用に遺した「日新公いろは歌」の歌碑が並んでいる。

日新は忠良の号日新斎のことで加世田あたりでは米沢と上杉鷹山の関係のように忠良を篤く尊敬している。

 

日新公墓所

 

地元の加世田郷土資料館に行ってみたら火曜日が休館日で閉館。


薩摩紀行四日目⑥ 坊津茫々

2019年05月27日 | 取材・旅行記

枕崎港から西へ向かうと坊津町に入る。

薩摩半島の西南端、ちょっと切れ上がったようなところが坊津町、端っこが野間岬。

枕崎から西に行くとすぐに山間部、坊津に入ったことになる。


旧坊津町は現在、南さつま市に含まれる。

古代、安濃津、博多津と共に三津に数えられた坊津はいくつかの港に分かれている。

坊浦、泊浦、久志浦、秋目浦などの総称が坊津。

坊津秋目浦は鑑真和上が苦難の末に日本にやってきた時、最初に漂着した港である。

坊津に行きたかったのは鑑真上陸地に立ってみたかったからというのが本音。

しかし今日は月曜日で鑑真記念館が休館日である。

まあ途中まで行ってみるかという軽い気で山間部を行く。

 

薩摩半島の南端は見事なリアス式海岸で標高の高いところを走っているのは左側にちらちら顔を出す海の眺めでよくわかる。

リアス式海岸とはすなわち海岸線が崖であるから道路は崖の上を通って行く。

しばらくすると耳取峠の景観ポイント、開聞岳がみえている(タイトル写真)。

峠から一山越えると坊泊。

「←密貿易屋敷」の看板が出ていたので曲がってみたら港に出た。

小さな漁港でここが繁栄して姿を想像しがたい。

海沿いを慎重にみても密貿易屋敷なる建物が見当たらない。

密貿易屋敷は司馬遼太郎氏の「街道をゆく夜話」に出てくる。

司馬さんは坊津が憧れの地で二度訪れたらしい。

屋敷に上げてもらって楽しんだ様子を綴っている。

 

私が看板に反応したのはそんなことを覚えていたからでもあるが二度往復してもみつからない。

クルマを降りてスマホの地図を頼りに歩いてみるがそれらしきものがない。

すると商店のおばあさんが挨拶してくれたので「密貿易屋敷はどこですか?」と聞いてみたら「ほれすぐそこ」と言う。

つまり史跡とはいえ標識も案内もないふつうの民家なのであった。

おばあさんは「さっきは家にいたので見せてもらえ」と言うのだがさすがにやめておいた。

 

密貿易屋敷、当主の先祖は薩摩藩の御用で鰹漁や海運を務めた裏で密貿易に従事していたという。

 

密貿易屋敷の前は船場。

 

さて謎が解けたところで県道に戻るとすぐ先が「坊津歴史資料センター輝津館」。

閉館時間が迫っているので明日また来ることにして展望台に行ってみた。

湾内と景勝「双剣石」が見晴らせる。

一見して風よけに最適な良港である。

また山々が他の平地、集落から港を隔絶させているから船で行く方が楽で安全。

海賊行動や密貿易の根拠地として最適だったのだろう。

 

 

さて一息ついたところだが、日没は19:30とこの時期はまだまだ明るい。

もう少し先に行ってみる。

坊浦の先が久志浦、ここからは北上していくことになる。

つまり海岸は南北方向に沿っていく。

つまり夕陽の名所となるわけである。

岬ひとつこえると秋目浦。

ついにここまで来た。

 

鑑真和上上陸地には記念碑と和上の石像がある。

 

天平勝宝5年(753)12月20日に和上が日本の地を踏んだ。

記念館は閉館しているがここからの眺めもいい。

これで夕陽など沈みかけていればまあ泣けるのは疑いなし。

訪れる人もなくぼんやりと沖を眺め和上を載せた船がやってくる様を想像したりした。

 

坊津にはいろいろ有名人がやってきた。

フランシスコ・ザビエルが滞在し、伊能忠敬も3日いた。

そして我が師(というのも変だが)ショーン・コネリーも「YOU ONLY LIVE TWICE」のロケでやってきた。

そしてロケ地に記念碑が立っている。

 

 

アルベルト・ブロッコリーとコネリー、丹波哲郎のサインが彫られ、デザインもいい。

映画では漁師町に潜入したボンドが土地の女性を妻として身を隠し、スペクターのアジトを奇襲する拠点となった。

これもボンドをみて育った身には泣きそうな場所である。

 

来た道を戻って宿に到着。

雨が降り出してきた。

枕崎観光ホテル岩戸という立派な名前であるが日帰り温泉併設のちょっと古いホテル。

それでも窓から海がみえ、温泉もよかった。

 


薩摩紀行四日目⑤ 枕崎の漁師飯

2019年05月27日 | ご当地グルメ・土産・名産品

昼飯は「南薩地域地場産業振興センター」内のレストランで漁師飯。

「かつお船人めし」なる代物で要は鰹の刺身の出し汁漬け丼である。

大変美味。

枕崎は街全体が鰹節の匂いが充満していた。

1階は特産品販売店になっている。

道々荷物になってもいけないと思い、でかい夏みかんを三個と鰹味噌を買った。

 


薩摩紀行四日目④ 枕崎への道道

2019年05月27日 | 取材・旅行記

知覧へ来たなら特攻平和会館と武家屋敷群に行くべきであろう。

しかしこのふたつは前回来た時に時間をかけてみたので今日は遠慮する。

 

今晩の宿は枕崎にとってある。

午後はのんびり海岸沿いの名所など見て回ろうと思う。

知覧から南へ海岸線まで下りていくと「釜蓋神社」という古社がある。

正式には「射楯兵主(いたてつわものぬし)神社」といいスサノオを祀っている。

現在では海に突き出た岩場に拝殿が建っている。

この神社は釜の蓋をアタマに載せて落とさないように参れれば厄除けになるといい、これをやりたいがために人々がやってくるという。

私が神社のことを知ったのもマスメディアからである。

釜蓋参りのいわれとして、天智天皇がこの地を訪れた際、もてなすために米を炊いていたところ突風で蓋が飛んで落ちたところが神社のあるところという。

参詣してみるといかにも軽薄で何とも幻滅してしまったが、強風吹く自然環境で社を形にし続けるのは大変なのかもしれない。

釜蓋神社の砂浜から

 

釜蓋神社から西へ30分ほど行くと枕崎港。

港の西に火之神公園があるので行ってみた。

海沿いの周遊道を歩いて行くと海中に岩が突出している。

「立神岩」といい、漁業の守神なのだという。

東には開聞岳もみえており自然に抱かれるような港が枕崎である。

時間はまだ16時前。

明日は天気が悪いようなので坊津まで行ってみようと思い立つ。

 

 

 

 


薩摩紀行四日目② 知覧城址

2019年05月27日 | 城・城址・古戦場

池田湖を過ぎて知覧方面に走って行く。

前回来た時は平川駅からバスで山道をくねくねと行った。

この道は自動車専用道路のように整備されており快適である。

すぐに知覧の盆地に下りていき知覧文化会館の駐車場にクルマを駐めて「ミュージアム知覧」で続100名城のスタンプと知覧城のパンフをもらう。

城址は少し離れたところにあり、少し迷ったが駐車場にたどり着いて攻城開始。

薩摩の山城はシラス台地をさくさくと切り裂いたような趣で独特の景観を持つ。

その傑作のひとつが知覧城、長らく憧れていた城跡であるから気持ちが昂ぶる。

 

知覧城の始まりは判明していない。

元々は知覧を苗字とする知覧氏が治めていた地だという。

薩隅の地は元々薩摩平氏が有力者で島津荘の膨張と共に深く根を下ろした。

鎌倉幕府を開いた頼朝によって島津忠久が薩隅と日向の守護職、地頭職を拝領すると旧体制の平氏系郡司と島津系地頭が各地で勢力争いを始める訳だが、知覧氏も両党に分かれていたのではないかと考えられてもいる。

南北朝の混乱期、足利尊氏は島津本家5代貞久の弟忠光を知覧に入れて中世の知覧城整備が始まった。

忠光は大隅の佐多を本貫とした佐多氏を名乗っており、知覧が佐多氏の本拠となった。

佐多氏は時に知覧を追われることもあった。

例えば豊臣秀吉が島津氏を降したとき、在地勢力の兵農分離を進める諸策の一環としていわゆる国衆にあたる豪族の所領取替を全域で進め、種子島氏が島から知覧に移されたことがある。

江戸時代に入ると慶長15年に佐多氏支配に戻され、島津本家から養子を迎えた佐多氏は島津氏を名乗って家老に列した。

江戸期の薩摩藩は外城制度といういわば屯田兵のような組織により藩領を守った。

戦国の国衆のように城下町を形成し、詰めの城を抱いていざ事あらば籠城できる体制を維持したのである。

その典型例として知覧が挙げられることがある。

 

そんな背景を持った知覧城であるが、いざ足を踏み入れてみると樹木草木旺盛でよく整備されているとはいえ往時の景観を想像するのは地上からは容易ではない。

パンフの表紙にあるように丘一つ削りに削ってもこもことした曲輪を独立させた景観は空からみると壮観である。

地表からは左右にそそり立つ崖面をみるばかりで削平された上の世界を想像するのは難しい。

テーブルの上に並んだ料理がみえない状態なのである。

 

 

大な空堀によって切り取られた主郭はさらに「本丸」「蔵之城」「弓場城」「今城」に分割されている。

さらにそれを取り囲むように独立した曲輪が配され相互に行き来するにはいちいち降りて登るしかなさそうである。

主郭の曲輪の進入口、虎口は桝形になっている。

薩摩の城には石垣はみられない。

シラスの地形は崩れやすく大雨が降ろうものなら本土のような石垣ではすぐに崩壊してしまうだろう。

それに垂直に近いシラスの崖は足がかりもなく登るのは著しく困難であろう。

防御という点からみればこの方が堅い。

中世山城の傑作は期待通りの名城だった。

 

 

 

 


薩摩紀行四日目① 指宿神社巡り(薩摩国一ノ宮・枚聞神社)

2019年05月27日 | 諸国一ノ宮

四日目は指宿から枕崎へ行く。

朝一でバスで駅に行き、駅前のトヨタレンタリースでヴィッツを借りる。

今日から四日間の相棒となる。

 

まず揖宿神社へ参拝。小さな社である。

付近には島津候が入ったという温泉がある。

 

次は徳光(とくこう)神社。サツマイモ発祥の地である。

山川の漁師前田利右衛門は宝永2年(1705)に琉球よりサツマイモの苗を持ってきた。

おかげで火山灰の地で育つサツマイモにより薩摩藩は飢饉と無縁となったといい、前田の偉業を讃えて彼を祭神とした神社を建てた。

サツマイモはカライモと称されていたが由来からすればリュウキュウイモの方がふさわしいだろうか。

なお、琉球王国の方でもサツマイモは大活躍、あちらにもサツマイモをもたらした人物の神社がある。

 

 

お次は長崎鼻にある竜宮神社。トヨタマヒメを祀る。

トヨタマヒメは竜宮城の乙姫様のモデル。

薩摩は神話の里でもあり、各地に記紀神話の舞台とされる伝承がある。

 

 

指宿はどこにいても開聞岳がみえ、方角を過たない。

山川港が薩摩屈指の良港として栄えたのは目印たる開聞岳の貢献も大きかろう。

 

お次は枚聞(ひらきき)神社、薩摩一ノ宮のひとつである。

赤赤とした社殿は開聞岳を御神体としている。

近くに井戸がある。

神代の頃、山幸彦はシオツチノオヂに亡くした海幸彦の針が竜宮城にあると聞き、井戸に水を汲みに来たトヨタマヒメと仲良しになって竜宮城へ。

釣り針を回収、ヒメに水を操る宝玉をもらって帰り、海幸を懲らしめる。

この舞台がこの辺りであるという。

 

 

時刻は正午前。

午後は前回果たせなかった知覧城攻略に臨む。

途中、池田湖畔と千貫平自然公園で休憩。

ここからも開聞岳がアタマを出している。

池田湖畔から

千貫平自然公園展望台

 

 


薩摩紀行三日目⑤ 薩摩伝承館

2019年05月26日 | アート・文化

ラーメン分のカロリーを消費するためケースをゴロゴロ転がしながら2.5km歩く。

昨日から足裏の豆が潰れているが痛くはない。

そよ風吹いてそれほどつらくもないが、通る人がいない。

指宿の温泉街とは逆の方向だからだろうか。

30分は歩いたところでお宿に到着。

ここ、「指宿こころの宿」は温泉併設の宿、中はビジネスホテルのようで過不足なし。

 

 

しばし休憩の後、近くの「薩摩伝承館」に散歩に行く。

ここは指宿の老舗ホテル「白水館」の創業者下竹原弘志氏(故人)と二代目が集めたコレクションを保存公開する施設である。

いやはやとてつもない資料館で民間経営としては最高峰ではなかろうか。

薩摩焼の名品が品良く陳列されている。

間近によってしげしげと見物できるのが実によい。

 

2Fは主に薩摩藩時代の歴史と薩摩焼を解説するコーナーになっている。

ガイドさんに西郷どんサイズの羽織を着用で写真を撮ってもらう。

自分の写真を撮るのは何年かぶりである。

ダイエット前の貴重な作品になるといい。

 

閉館時間が迫っていたので退散。

受付でもらったコーヒー券で白水館のラウンジに寄り、海岸に出て庭も堪能して宿に帰った。

白水館から

併設の温泉もなかなかによい。

明日からはレンタカーで薩摩半島一周に出る。

 


薩摩紀行三日目③ 指宿へ −JR指宿枕崎線−

2019年05月26日 | 取材・旅行記

伊集院から鹿児島駅に戻り、ホテルで荷物を受け取ってもう一度鹿児島駅。

そして今度は鹿児島中央駅から指宿線に乗って南下する。

平川駅を過ぎたあたりでやおら海沿いの風景が拡がり天気がいいこともあって実に気持ちがいい。

向かいに座っていたひとり旅の外国人の顔もほころんでいる。

JRの車窓から

ここでちょっとしたミス。

伊集院まではJR東日本のSUICAで入退場できたので油断してSUICAで入ってしまった。

ところがICカードで退場できるのは途中の駅までで指宿は範囲外とのこと。

駅で支払証明をもらって後日精算することに。

 

さて指宿は二度目である。

前回は種子島に行った折、復路で指宿港で高速船を降り、知覧城にでも行こうと思い指宿に宿をとった。

民宿に素泊まりし、例の砂蒸し温泉に行ったところまではよかったが、夕食に適した店が見つからずに困った。

おまけに翌朝はゲリラ豪雨でJRが止まってしまい難儀した。

結局、知覧には行けたのだが雨の影響で知覧城には行けなかった。

そんな思い出と共に指宿に到着。

今日はまずホテルに向かう。

 

 

 

 


薩摩紀行三日目② 妙円寺参り −徳重神社−

2019年05月26日 | 仏閣・仏像・神社

一宇治城の城山を降りて北へ少し行くと旧妙円寺あたりに出る。

途中の路傍に「島津義久公剃髪石」なる史跡がある。

といっても平たい石が数個、仁王像とおぼしき首などが置いてあるのみ。

説明板をみれば豊臣秀吉と会見すべく鹿児島から出水に向かう途中、この石の上で僧体となったらしい。

 

JRの線路を渡るアンダーパスに妙円寺参りのタイル画などがある。

妙円寺参りとは関ヶ原の合戦で島津義弘が演じた「島津の退き口」を讃え、鹿児島城下からこの地まで具足に身を固めて歩いて参詣する行事のこと。

現在でも行われているという。

 

妙円寺は島津義弘の位牌を護る菩提寺となっていたが明治の廃仏毀釈で徳重神社となり近くに移転し現在に到る。

参拝してみると小さなお寺である。

お願いすると義弘公の位牌をみせていただけるとの情報だったが、お寺の人が不在で本堂の戸の隙間から位牌を覗くのみだった。

 

 

 

隣の徳重神社の方へ行ってみるとこちらも戦国島津ゆかりの神社(元は寺院だが)としてはいかにもささやかである。

訪れる人もなくひっそりとしていた。

神社の人にお願いして御朱印をいただき電車の時間に間に合うよう小走りで駅に向かった。

 

 


薩摩紀行三日目① 義弘の里 -伊集院一宇治城-

2019年05月26日 | 城・城址・古戦場

鹿児島三日目は指宿まで移動。

午前中は伊集院へ電車で行く。

ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらいJR鹿児島駅。

鹿児島中央駅で乗換、鹿児島本線で4駅目が伊集院駅となる。

沿線は鹿児島市内を出るとすぐにシラス台地の狭間を塗っていくような趣きである。

車窓から

 

伊集院駅に着いてまず見に行ったのが島津義弘公像。

数ある戦国武将の銅像でも白眉の出来で何とも素晴らしい。

前後左右どこからみてもいい。

これを見るためだけに来てもいいほどである。

島津本で使用するために写真を撮ってひとまず安心。

 

作者は中村晋也さんといい、三重県出身。

鹿児島大学に勤めた後、鹿児島にアトリエを設けて活動されている。

鹿児島城にある篤姫像もこの人の作品。

 

駅前に観光案内所があり資料をもらいに立ち寄ってみた。 

 薩摩には伊集院はじめ祁答院やら入来院やらと「院」のつく地名名字がある。

この「院」は京の上皇領のことだと思っていたがガイドさんによると「院」は倉庫のことで、「イスノキ」が生えているこの地の穀物倉庫をイスインといい、漢字を伊集院と当てたのが由来とのこと。

勉強になった。

 

伊集院は島津再興を遂げて三州を統一した島津貴久がしばらく居城した一宇治城があったところ。

城まで歩いて行ってみる。

城山はそれほど急峻でもなく比高も大したことはない。

一帯が公園となっていて往時の城の雰囲気は全くない。

説明板を読んでみると「一宇治」とは「一番目の兎道」ではないかとあった。

この城は都城の島津荘を源頼朝から拝領した後、出水を本拠とした島津氏がいったん吹上の方に後退し、島津日新斎、貴久親子が再び薩隅と日向の太守として復興する途中に一時期居城とした。

義久義弘兄弟はここで育ち妙円寺で学んだという。

 

元々は紀性の郡司が築いた城といい島津一族が伊集院氏を名乗って治めた。

通常、山城の曲輪は「本丸」「二の丸」と丸を使うが薩摩の城は曲輪それぞれに「○○城」「××城」と名付けられている。

本丸にあたるであろう神明城では鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルと貴久が会見したといい、現在は物見台が高々と建てられている。

登ってみれば桜島がみえ、薩摩国一円を臨むことができる。

錦江湾も東シナ海もみえており、薩摩半島が意外に東西に短いことがわかる。

 

歩いてみても公園然としていて薩摩の山城の雰囲気に欠け、この後回る城に期待して城山を降りて妙円寺に行ってみることにした。

 

物見台から桜島

 

ザビエル会見記念碑

 

 

 


薩摩紀行二日目③ -鹿児島名物の夜-

2019年05月25日 | ご当地グルメ・土産・名産品

夜は小学校の同級生、M君と会食。

彼の馴染みの居酒屋に行く。

騎射場の住宅街の中にある梁山泊酒亭というところ。

こちらは森伊蔵をボトルキープできる店という。

酒飲みではない私にとってありがたみのわからないセールスポイントであったが、酒も肴も大変よかった。

何より竹馬の友とふたりでしょうもない話をダラダラとやっているのが涙が出るほどにうれしい。

 

M君は鹿児島の某通信社に務めている。

 

きびなごの唐揚げ、鹿児島は調味料がとにかく甘い。

我々三河者はたまり醤油で慣れているがそれでも一段と甘い。

 

散々楽しんだ後で天文館に移動、ショットバーでさらに一杯。

ホテルまでチンタラと歩いて帰って本日の予定終了。

今日はとにかくよく歩いた。


薩摩紀行二日目② -島津の夢の跡-

2019年05月25日 | 街道・史跡

異人館から鹿児島方面へ戻る。

距離感がつかめてきたので歩いて行くことにした。

まず国道のトンネルを抜ける。

結構な長さがある。

この上には当然山があり、磯と鹿児島との交通を遮るように盆地の縁を形成している。

先ほど通過した東福寺城はその最も海側にある山城であり、いわゆる境目の城である。

出水から鹿児島に進出した島津氏が真っ先に攻略した城でもあり、首尾良く鹿児島を手中にした島津氏は清水城を築きさらに内城へ移る。

江戸期には鹿児島城を幕藩体制下の本城としたがこの変遷は海側から同じ山系を内陸へとぐるりと回ったことになる。

島津家の菩提寺、墓所もその流れの中にあった。

ちょうどいいのでその縁を歩いてみたい。

山裾には稲荷川が流れておりこれが外堀の役割を果たしていたのだろう。

天気がいいので城を仔細にみるのはやめておいて島津家墓所だけみて帰る。

玉龍高校の脇を入っていくと学校の裏手が島津家の墓所。

つまり高校は福昌寺の伽藍跡に建てられたのであろう。

薩摩の廃仏毀釈は凄まじかったらしい。

何せ藩主の菩提寺を完璧に破壊してしまったのである。

 

当然素朴な疑問が湧いてくる。

藩主と国父として権力を握っていた島津久光は抵抗しなかったのか。

この課題はいろいろ調べても今のところ何も出てこない。

密かな課題である。

 

さて角を曲がると宝塔が見えてきた。

少し先が墓所の入口で案内板が立っている。

 

 

入口は鉄扉になっていて島津興業の名で注意書きが書いてある。

そして墓地の全容が案内図になっている。

 

石段の上、神社のように鳥居が立つ一角が島津久光の墓。

久光は厳密にいえば島津家当主ではないのでこうした趣向になっているのかもしれない。

 

右手は久光の父、重豪の墓。独立していて豪華である。

 

この墓所には初代忠久から5代貞久、7代伊久を除く江戸期までの当主の墓がある。

当然、最も有名な島津候斉彬のものもあるが意外にささやかである。

夫妻仲良く同じサイズで並んでおり用いる石が黄色がかっているところが「らしさ」かもしれない。

 

お由羅騒動を巻き起こした島津斉興は由羅の墓に寄り添われるように立っている。

こうした配置や意匠は由羅が久光の実母であり、その子忠義が当主を継いでいたからこその配慮であろう。

 

墓所の一角に藩士やゆかりの者の墓があった。

先日、NHKの「英雄たちの選択」で調所広郷を取り上げたとき、調所家の御当主が墓参りをされている姿が放映されていた。

墓石は新しく今日も生花が捧げられていた。

琉球人の墓もあった。多少哀しい思いがした。

 

墓地を出て丘を下っていくと南州神社の参道。

西へ山裾を行けば西郷隆盛最期の地であり、鹿児島城の裏手に出る。

この一帯、まさに島津家鎮魂の道といえる。

今晩は盟友と会食。

ホテルに戻ってしばし休憩。

 


薩摩国紀行 二日目① -磯方面-

2019年05月25日 | 取材・旅行記

二日目はホテルから磯方面に行く。

公共交通機関で行くとどうやらコミュニティバスの便があるようだが、ぐるっと市街地を回ってから行くようで時間がかかりそうである。

いっそ歩いて行くかとぶらぶら出発。

JR鹿児島駅を過ぎて海岸の方に行くと石橋記念公園。

石造りのアーチ橋が見事。

 

その向こうに祇園之洲公園、ここは薩摩藩の台場があり薩英戦争を戦った。

 

 

文久3年7月2日薩摩船を英国艦隊が拿捕したことをきっかけに砲戦が始まる。

かのアームストロング砲の威力により磯の集成館が焼失、城下も燃えた。

英国側の損害も大きく旗艦ユーリアラス号の艦長を失った。

英国艦隊は桜島が眼前の錦江湾が最もせばまったところでおっぱじめたことになるが、水平射撃に近い砲戦だったのではないか。

砲の性能からいえばアウトレンジから一方的に撃ち込んだ方がよさそうなものである。

要するに「なめきっていた」のであろう。

薩摩も英国も相手に驚き、維新の歯車がここからひとつ回り出す。

こうした臨場感を肌身で感じるのは現地取材の醍醐味といえよう。

 

祇園之洲公園の一角にフランシスコ・ザビエル上陸記念碑がある。

薩摩人ヤジローの案内で薩摩国にやってきたザビエルはこの地から上陸、伊集院にて島津本家当主島津貴久に会ったという。

 

バイパスを海岸に沿って磯方面に歩いて行く。

今日も快晴で桜島が美しい。

 

考えてみれば薩英戦争では薩摩藩士は桜島を借景に大砲をぶっ放していたことになる。

左側の丘は東福寺城跡であり島津家が鹿児島入りした際に詰の城としたところ。

なるほど鹿児島の平地への入口にあたり最初の防衛戦を行うところといえる。

この城を抜けるとほどなく磯に到着。

集成館に行く前に薩摩切子の工場を見学。

隣の異人館がスターバックスになっていた。

 

 

尚古集成館には別館の方から入った。

ここは島津家が所蔵する家宝、史料を管理している施設博物館である。

島津家所蔵品は古文書などは東大にある他、肖像画などはこちらにある。

受付で資料書籍を売っていたので購入、本館の方では扱っていないとのこと。

集成館は 二度目であるから簡単に見て回って鶴嶺(つるがね)神社に参詣。

明治2年創建のこちらは歴代島津家当主と家族を祀っている。

 

続いて磯御殿「仙巌園」に入場。二度目である。

今日は御殿の中にも入場。

桜島を借景とした庭が実に見事であった。

日本有数の別荘といえよう。 

 

昼になったので園内の売店でさつま揚げ。

 

園内の猫神社にも参詣。

お札をいただいておいた。

 

集成館の南に鹿児島紡績所技師館。

英国から招聘した技師の宿舎として使われた洋館。

国の重文であり世界遺産のひとつ。

 

ボランティアガイドの人と少々話をした。

先日NHKの「ブラタモリ」で鹿児島を特集した際、水力発電の水路跡に突然人並みが押し寄せたとのこと。

昼飯を仙巌園の出店のさつま揚げですませたのみで再び歩き出す。

かなりのダイエット効果が見込めそうである。