五日目は枕崎を出て加世田に行き、島津家再興の地を巡って北上していく。
天気予報どおりの雨になった。
最初に行くのは昨日見学できなかった輝津館。
坊津の歴史はなかなか興味深い。
展示と解説はとてもわかりやすく私の疑問を解いてくれる。
学芸員の方に話を聞きたいと頼んでみたら小学生の集団見学の休憩時間に少し話ができた。
来てみて良かったと思うのはこういう時で文献をあさるだけでは得られないものがある。
場所の空気感もそうだし、交通の状況であったり距離感はその場所を走ってみなければ体に入ってこないものである。
この港町が繁栄を極めたのはひとえに立地と地理条件である。
日本列島の端っこだけという条件ではそうはならない。
中国大陸に最も近い端っこであることが日本の玄関口、出先営業所の価値を生んだ。
坊津は歴史上、仏教の町として発展したとの説がある。
「坊」とは寺院の坊(異説もあり)、寺院は一乗院といい、西暦583年に百済僧が開いたと伝える。
しかし創建時期については寺伝の他の史料がないようで謎である。
鑑真が来港、遣唐使船覇権基地となったことから古代律令制下の貿易港だったことは間違いないだろう。
しかし一乗院の状況がはっきりするのは南北朝期以後、そして坊津が最も発展したのは戦国時代、島津氏が南薩摩を治めていた戦国時代以後のことという。
一乗院は伊作島津家の保護を受けて栄え、義久義弘兄弟は一乗院で幼少期に学んだという。
坊津の商材として見逃せないのが硫黄。
火山に乏しい中国では火薬の製造に欠かせない硫黄は重要な輸入商材だった。
坊津の南に浮かぶ硫黄島では硫黄がとれそれを坊津から出荷する貿易ルートは島津家を潤したという。
そのころには一乗院は紀州根来寺と深い関係にあった。
根来寺といえば鉄砲の産地、坊津でも鉄砲は生産されたというから種子島〜薩摩〜根来という鉄砲の道は、製造に欠かせない砂鉄、硫黄、木炭がそろう。
そんなことをここで学んでずいぶんすっきりした。
本にまとめるのが楽しみである。
輝津館のベランダからは港が一望でき、双剣石もよくみえる。
天気が悪いのが残念である。
輝津館を出て観光案内所のおばさんと話をする。
007のロケの時、撮影隊は指宿に宿泊し連日、ヘリコプターで通ってきたのだという。
鹿児島というと桜島の火山灰を連想してしまうがさすがにここまで飛んでくるのは希だという。
出発すると時刻は11:00過ぎ。
高地を下りると司馬さんが止まって宴会をした鳴海旅館がみえた。
鉄筋コンクリートに改装されているが司馬さんのファンが見に来るらしい。
雨が強くなってきたので秋目の鑑真記念館入館を断念。
北へ行って加世田に向かう。
加世田は戦国島津を一躍九州の覇者とした島津忠良、貴久父子のふるさとである。
島津氏の歴史は少々ややこしく、初代忠久の子孫がそのまま続いたのではなく、分家による宗家の立場を巡る抗争の歴史でもある。
5代貞久の時、奥州家と総州家に別れ、宗家を継いだ奥州家が9代忠国の時、相州家と分かれた分家が伊作家。
伊作島津家は阿多川辺を支配して貿易などで力を蓄えて鹿児島方面に進出、島津宗家を継いでいた14代勝久から宗家の地位を奪取、貴久が15代を継ぎやがて三州を統一するに至る。
要するに戦国九州で大躍進する島津家の基礎は加世田で造られた。
このこともまたおもしろい。
竹田神社に寄ってみる。
ここは元々日新寺という島津忠良の菩提寺だったのが明治の廃仏毀釈で廃寺となり忠良を祀る神社として再興した神社。
近くに忠良の墓所があり、石畳の道々に忠良が家臣領民の教育用に遺した「日新公いろは歌」の歌碑が並んでいる。
日新は忠良の号日新斎のことで加世田あたりでは米沢と上杉鷹山の関係のように忠良を篤く尊敬している。
日新公墓所
地元の加世田郷土資料館に行ってみたら火曜日が休館日で閉館。