扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行七日目⑥ 鹿児島行き

2019年05月30日 | 取材・旅行記

蒲生の里を後にして鹿児島市街をめざして走る。

 

薩摩国と大隅国を考えるとその境界は鹿児島郡までは大隅国、錦江湾は桜島以北は大隅国ということになる。

薩摩の中心は長らく川内であったから西の海と南の海を元にした海洋国であることが想像できる。

対して大隅国の中心は国府があった国分あたりであり肥後から大隅半島へと南北に細長い地形である。

農耕主体の経済を考えるなら大隅の方が豊かだったのかもしれない。

 

重富まで下りてくると海が拡がってくる。

 

途中、竜ヶ水のあたりで休憩。

桜島がすぐそこに夕陽を浴びている。

錦江湾の北の方には姶良や霧島の町がみえる。

 

鹿児島は大隅から薩摩へ錦江湾沿いに行く際に前線となる地域、その境目の城が東福寺城であり清水城だった。

三州を名目上統一した島津貴久は「実質的に」支配するために国衆の統制に取り組んだ。

その前線基地が鹿児島となるのは当然であり、大隅へ日向へと出兵を繰り返した。

こうしてみると近江の国衆抗争が水運を駆使して行われたように錦江湾が琵琶湖のように思えてくる。

 

薩摩半島をほぼ一周した今回の旅、終わったわけではないが期待通りの成果を得たことで少々気が抜けた。

目の前の夕焼け景色がひどく美しかった。

 

宿はベストウェスタンレンブラントホテル鹿児島リゾート。

ここは以前は東急ホテルであり、最初に鹿児島に来たとき泊まったことがある。

交通が不便なところにあるのでまずホテルに荷物を下ろしレンタカーを返すために、鹿児島中央駅に向かう。

ホテルに戻るにはバスを使うしかなく、あちこち回るルートで時間がかかった。

 


薩摩紀行七日目⑤ 蒲生城址

2019年05月30日 | 城・城址・古戦場

蒲生城は八幡神社の南、蒲生川を渡った先の大きな山にある。

ものの10分で登り口に到着したところ問題発生。

 

「工事中、通行できません」の立て札が立っているではないか。

ならば歩いて登るかとも考えるもののこの城山、さすが島津義弘も手を焼いた壮大な堅城。伊作や一宇治城のようにホイホイ歩いて行ける比高ではなさそうだ。

 

幸いなことに入口は完全封鎖ではなくクルマが通れる隙間が誘うように開いている。

「ええい行くまでよ」と禁を破って城山公園に向けて登っていく。

この城もシラス台地を削って曲輪を作っているのだろう。

舗装道路の片側は崖、山側は切り立ったシラスの肌がみえる。

そこそこ登った所で重機が工事中。

「あいやここまでか」と無念の気持ちになるが、一応クルマを降りて状況を見に行ってみた。

 

 

するとおふたり土木工事をやっている。

満面の笑顔と共に「こんちは」と声をかけ「上に行きたいのですが」と頼んでみたら、あっさりと「もうすぐ今日の作業終わるので待ってて」とのこと。

禁は破ってみるものである。

5分ほどで約束通りに彼等は撤収し、さらに登って行けた。

城山は公園となっていて駐車場も広い。

そこが山頂、二の丸の下にあり高低差少なく行ける。

 

 

二の丸の続きに物見に使えそうな曲輪があり里を見下ろすことができる。

本丸は段々になっているようだが薮が深くて先に行くのは大変そうだ。

 

 

ここでも薩摩の山城の特徴である大堀切が見事である。

 

 

薩摩の山城をまたひとつ堪能した。

城山を下りていくと親切な工事の人はすでに撤収していた。

(工事中の看板を突破することは危険を招くことがあるので自粛しましょう)

 

例の摩崖梵字をみるのはやめておいた。

 


薩摩紀行七日目④ 蒲生麓

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

一時は絶望した人吉のうなぎを堪能して気が抜けた。

 

今日は半日かけて鹿児島に戻ればいい。

どういうルートで行くかうな丼を食いながら考えていた。

残りの日程は鹿児島に一泊。

霧島市国分に一泊。

島津家の歴史を学ぶには都城に行くべきであろうが、この足で行けばちょっと強行軍。

霧島温泉に寄る一手もある。

 

結局、武家屋敷をいろいろみたついでとして蒲生麓を見物することにした。

来た道を南下して大口を抜け川内加治木線を左折して下っていくとおもむろに蒲生の町に出る

 

蒲生名物は八幡神社の日本一のクスノキである。

武家屋敷の駐車場が隣にあったので駐車。

観光案内所があったので情報収集。

鹿児島の観光案内所は他地域と比べると抜群にレベルが高い。

置いてある資料もそうだしスタッフの人も親切である。

蒲生は司馬さん一行も立ち寄り八幡神社と武家屋敷、蒲生城を散策している。

 

ガイドのお若い女性にいろいろ聞いてみる。

この時悩んでいたのが「摩崖梵字」をみるか否か。

蒲生城(竜ヶ城)の城山には崖の石に梵字を刻んだ謎の遺跡がある。

「街道をゆく」で一行の須田画伯が地元の人に摩崖梵字の存在を聞いてハイになり、辛抱たまらず城山を登っていく様子が愉快だった。

城には行くとして梵字をみるかどうか、ガイドさんに意見を聞いてみた。

よくある話で他県人がおもしろがってやってくるスポットでも地元の人はあまり知らない。摩崖梵字も同様でお姉さんも行ったことがないという。

行った人の話として「必ず靴がグチャグチャになる」らしい。

つまりいつもぬかるんで足元が危ないということである。

梵字をみるには城跡に行くのとは別の登り口から行くとのことでまあやめておくのがいいだろう。

城跡は公園になっていてクルマで行けばすぐと聞いて安心しつつ八幡神社に参詣。

名高い大クスノキに驚く。

 

 

 

 

続いて武家屋敷跡を散策。

イヌマキの生け垣が美しい。

 

蒲生麓は関ケ原から退却してきた島津義弘が徳川との決戦に備えて整備したことが起源。

元々は宇佐八幡宮から派遣された八幡神社の神官が国衆となって蒲生氏として自立。

渋谷五族と連携して島津家に対抗した。

長陣の籠城戦の末に落城した。

蒲生衆は街道をゆくの中で詳しくふれられており、幕末維新期に士族が会社を興し利益を青年育成に使ったという。

この会社が太平洋戦争の敗戦により進駐してきた米軍に抵抗するため決起するとの噂を呼んで米軍が武装した斥候を送ったという話が出てくる。

蒲生の中心に位置するため入来院や知覧の麓のような風情は薄いが町の人々が歴史を大切にしていることは伝わってくる。

麓の役所、御仮屋は姶良市役所の支所になっていて門が残る。

 

 

時刻は16:30、まだ陽が高く蒲生城址に行ってみることにする。

 


薩摩紀行七日目③ うなぎのしらいし

2019年05月30日 | ご当地グルメ・土産・名産品

生善院から30分かけて人吉城址に戻る。

歴史館を見学して時間をつぶし捲土重来、うなぎのしらいしに向かう。

今日も休みだったらどうしようと気を揉んだが当たり前のように営業中。

隣の上村さんは今日もお休み。

 

一組待ちで入店。

前回来た時とずいぶん店の印象が違うような気がする。

うな丼の方は期待通りの美味。

心残りなく人吉を後にした。


薩摩紀行七日目② 肥後の猫寺

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

願成寺を辞して今度は生善院に向かう。

いわゆる猫寺である。

猫寺といってもネコが集まるのどかな寺でも招き猫が福を呼ぶありがたい寺でもなく、祟りをなす化け猫ゆかりの寺である。

天正9年島津の圧迫に耐えかねた相良島主義陽は島津に人質を出して降り、島津の先兵として阿蘇氏を攻めるが、逆襲に遭って戦死してしまう。

翌天正10年(本能寺の変の年)、当主代替わりに際して御家騒動が起こり地頭湯山宗昌と弟で普門寺住職に謀反の嫌疑がかかった。

兄弟を成敗する命が下るも僧を殺してはならぬと急使が派遣される。ところがこの使いが酒好きで途中で飲んでしまって攻撃中止の命が届かず、兄は逃げるが弟は普門寺で読経の最中に惨殺された。

兄弟の母は無念無実の罪で殺された弟の怨みをはらさんと飼い猫の「玉垂」と共に神社に籠もり指をかみ切りその血で呪い人形に塗りたくり猫にもなめさせて怨みを込めに込めた上で猫と共に淵に身を投げた。

すると相良氏周辺に化け猫現れ祟りが降り掛かり弟を殺した下手人は狂い死に。

相良藩は公式に祟り封じに動いて焼失した普門寺跡に生善院を建立、死んだ弟の影仏として本尊阿弥陀如来を母の影仏として観音堂に千手観音像を安置してようやく祟りはおさまったという。

おもしろいのは相良藩が「公式に」化け猫の祟りを信じて藩命で祟り封じに動いたこと。

 

上相良の領地多良木は訪ねてみれば人吉に増してのどかである。そののどかな球磨川沿いに生善院は残っている。

観音堂は国の重文に指定されており、彩色もよく残っている。

本堂には誰もおらず勝手に御参りすればいいらしい。

御朱印も書き置きを持っていく。

御堂の中はネコの意匠だらけで襖の柄もネコ。あちこちにネコのぬいぐるみだの招き猫だのが置かれている。

コーディネイトを全く意に介していないのでネコ好きとしては「置けばいいというものでもなかろう」と思ってしまうのだが、たぶんネコものを持ってくる人の頼みを断れないのだろう。

 

山門にはネコが狛犬代わりに阿吽の対で立っている。

これも造型としてはいかがなものかと思う出来である。

ネコたわけがたまにやってくるようだが、化け猫伝説、立派な観音堂に反して参詣してみればいかにも「ゆるいお寺」である。

 

重文の観音堂

 

 

本堂玄関上の蛙股は化け猫っぽくてよい

 


薩摩紀行七日目① 相良氏墓所−願成寺−

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

朝温泉に入って朝食をいただき7日目行動開始。

今日は鹿児島市内に戻る。

まず相良家の菩提寺である願成寺。

人吉城からみて球磨川の向こうの鬼門の方角にある。

 

 

願成寺は人吉荘に下向した相良氏初代相良長頼によって創建された。

以後、一貫して相良氏の菩提寺として存続し墓地も初代からの当主のものがそろっている。

人吉城も相良氏がずっと城主であり続けた。

鎌倉以来という武家はそこそこあるが、先祖が源頼朝から拝領した土地をずっと治めた武家となると希有になる。

よく薩摩島津家が典型といわれるが、取材してみると島津家はしばしば当主の本拠地が移転し嫡流が途絶えた後、分家同士が抗争している。

薩摩大隅日向三州の太守をずっと維持していた訳ではなく、要するに守護職を名目上とはいえ手放さずに薩摩国内を時に流浪しつつも創業時の面子を復活したということになる。

相良氏は身代は小さいけれどももらった領地、家祖が作った城と墓地を700年守り続けたという点では引っ越しせずにすんだ武家ということになる。

細かくいえば相良氏は人吉城のある西部を領する下相良氏と球磨川上流の多良木を本拠とする上相良氏に分裂していた時期があるが人吉城の表札が他家に変わることはなかった。

とはいうものの地ばえ度日本一は実に偉大というべきである。

相馬氏は歴史の大舞台には登場しない。

しかしチョコチョコと大転換期には小役を演じてきた。

戦国時代には人吉から出て行って熊本南部まで勢力を広げたことがある。

 

九州は経済力のあり中央とのパイプが太い博多久留米熊本の勢力は薩摩大隅を従えようとするときは出水方面から攻略していくのが常道で人吉を経由してわざわざ山中を行軍するような気持ちになりにくかったのだろう。

人吉の相良家は兵も少なく閑かに過ごすことが最善と考えたのではなかろうか。

ただし斥候能力、政局の風を読むことには長けているようだ。

元寇、南北朝の抗争、島津家内訌、応仁の乱と九州が騒がしくなると相良家はちゃんと関係者に名を連ねている。

相良氏最大の危機は三州を統一した島津義久がいよいよ三州外に出て行こうとする時。

島津義弘が伝説の名戦、木崎原の合戦に勝ち伊東勢を追っていくと相良氏は島津に下って九州統一に協力していくことになる。

そうなると難しいのが秀吉と喧嘩を始めた島津との付き合い方。

秀長軍が日向を進み、秀吉本軍が八代に迫ると相良勢は日向方面に出陣。

一方で人吉の留守部隊が秀吉に降伏、本隊も島津を見放して帰ってきて恭順。

無事本領を保持した。

 

次に来た関ケ原の処世術も見事。

石田方に加担した相良は伏見城攻撃に参加、合戦には参加せず大垣城守備隊の一員となる。

本戦で西軍が壊滅するといち早く家康に恭順、石田家臣の首をはねて誠意を示し無事所領安堵と相成る。

(この件、暗躍した家老相良清兵衞の人吉城下屋敷は地下室が発見されたことで有名になった)

 

さてさて長話になってしまったが、相良氏の歴史はもっと深掘りしてみるとおもしろそうだ。

 

彼等の魂は鳥居が迎えてくれる墓地に葬られている。

島津家や宗家といった歴史のある武家の墓地はどれも荘厳であるのが常である。

この墓地は山肌に段々に積み上げられるように墓石が並んでいる。

荘厳というよりは陽気な雰囲気がする。

一角に石田三成の供養塔が並んでいるのがおもしろい。

後味の悪さでも感じたのかあるいは祟りを怖れたか。

 

墓地をさらに登っていくと昔の山城があるらしい。

 

お寺には御参りした後、御朱印をいただいた。

まだお若い女性に朝早くからお願いすることになってしまった。

昨日のうなぎ店軒並み休業の話をしてみたが原因はよくわからないそうだ。

宝物館は事前にお願いしておかないと開けてもらえないらしい。

今も住職はお出かけなのだそうだ。

人吉にはまた鰻丼目当ても来るつもりであるから相良氏の歴史など勉強してから再訪してみようと思う。