池田湖を過ぎて知覧方面に走って行く。
前回来た時は平川駅からバスで山道をくねくねと行った。
この道は自動車専用道路のように整備されており快適である。
すぐに知覧の盆地に下りていき知覧文化会館の駐車場にクルマを駐めて「ミュージアム知覧」で続100名城のスタンプと知覧城のパンフをもらう。
城址は少し離れたところにあり、少し迷ったが駐車場にたどり着いて攻城開始。
薩摩の山城はシラス台地をさくさくと切り裂いたような趣で独特の景観を持つ。
その傑作のひとつが知覧城、長らく憧れていた城跡であるから気持ちが昂ぶる。
知覧城の始まりは判明していない。
元々は知覧を苗字とする知覧氏が治めていた地だという。
薩隅の地は元々薩摩平氏が有力者で島津荘の膨張と共に深く根を下ろした。
鎌倉幕府を開いた頼朝によって島津忠久が薩隅と日向の守護職、地頭職を拝領すると旧体制の平氏系郡司と島津系地頭が各地で勢力争いを始める訳だが、知覧氏も両党に分かれていたのではないかと考えられてもいる。
南北朝の混乱期、足利尊氏は島津本家5代貞久の弟忠光を知覧に入れて中世の知覧城整備が始まった。
忠光は大隅の佐多を本貫とした佐多氏を名乗っており、知覧が佐多氏の本拠となった。
佐多氏は時に知覧を追われることもあった。
例えば豊臣秀吉が島津氏を降したとき、在地勢力の兵農分離を進める諸策の一環としていわゆる国衆にあたる豪族の所領取替を全域で進め、種子島氏が島から知覧に移されたことがある。
江戸時代に入ると慶長15年に佐多氏支配に戻され、島津本家から養子を迎えた佐多氏は島津氏を名乗って家老に列した。
江戸期の薩摩藩は外城制度といういわば屯田兵のような組織により藩領を守った。
戦国の国衆のように城下町を形成し、詰めの城を抱いていざ事あらば籠城できる体制を維持したのである。
その典型例として知覧が挙げられることがある。
そんな背景を持った知覧城であるが、いざ足を踏み入れてみると樹木草木旺盛でよく整備されているとはいえ往時の景観を想像するのは地上からは容易ではない。
パンフの表紙にあるように丘一つ削りに削ってもこもことした曲輪を独立させた景観は空からみると壮観である。
地表からは左右にそそり立つ崖面をみるばかりで削平された上の世界を想像するのは難しい。
テーブルの上に並んだ料理がみえない状態なのである。
巨
大な空堀によって切り取られた主郭はさらに「本丸」「蔵之城」「弓場城」「今城」に分割されている。
さらにそれを取り囲むように独立した曲輪が配され相互に行き来するにはいちいち降りて登るしかなさそうである。
主郭の曲輪の進入口、虎口は桝形になっている。
薩摩の城には石垣はみられない。
シラスの地形は崩れやすく大雨が降ろうものなら本土のような石垣ではすぐに崩壊してしまうだろう。
それに垂直に近いシラスの崖は足がかりもなく登るのは著しく困難であろう。
防御という点からみればこの方が堅い。
中世山城の傑作は期待通りの名城だった。
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