扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行5日目④ 薩摩一ノ宮新田神社など

2019年05月28日 | 諸国一ノ宮

今日の宿は薩摩川内にとった。

伊作から薩摩川内へは真っ直ぐに50kmほど北上する。

天気が回復し、想定以上の予定消化ができそうだ。

 

薩摩川内の目的地のひとつは薩摩国一ノ宮新田神社参詣と国分寺跡。

国分寺跡には資料館があるので開館時間を考えて先に行っておく。

当地の資料なども買っておいた。

国分寺跡は見学自由だが資料館の駐車場が閉鎖されてしまうので隣の書店に置いていくといいと聞き、先に新田神社に参詣することにした。

 

薩摩川内は川内川沿いの盆地である。

川内川は熊本県白髪山に源流があり、宮崎えびの市、鹿児島県伊佐市(大口)、さつま町から薩摩川内市と東西に流れる一級河川。

河口は薩摩国府のさらに先にあり、原発が建設されている。

この地に薩摩国の中心機能が置かれたことは少々奇異に感じられる。

大隅国の国府は国分(霧島市)であるから大隅半島の北部、錦江湾の北端である。

薩摩大隅両半島の中心ということでみれば大隅国府の方が「らしい」。

勝手な想像に過ぎないが古代薩摩は大陸や博多津との海上交通に便利な西海岸の方が栄えており、真ん中にある川内が経済の中心だったといえるかもしれない。

また、甑島列島との連絡も川内が適していたのかもしれない。

 

さて新田神社はニニギノミコトを祭神とする。

ニニギノミコトは金峰でコノハナサクヤヒメと結婚した後、海路川内に来訪。

千台と称するお屋敷に住んだといい「川内」の地名はそれに由来するという。

同じく「新田」の地名もニニギノミコトが川内川から水を引いて「新たな田んぼ」を開いたからといい、新田神社の裏山がミコトの御陵とされている。

新田というとつい上野新田荘を想起してしまうが相互に関係はなさそうだ。

新田神社は平安中期承平年間に八幡神を勧請したとの伝もあり、社殿としてどちらが先にあったか判然としていないようだ。

 

国分寺跡から川沿いを下ってくると大鳥居がみえた。

鳥居のそばに駐車場らしきものがあったので鳥居と神橋をみてみるとこれは二ノ鳥居。

一ノ鳥居は川沿いにあるようだ。

 

 

さて本殿はと探してみると山の頂上に向かって真っ直ぐに伸びる石段がある。

見上げてみるとはるかかなたまで続いておりしかも先が見えないほど長そうだ。

左手に舗装路があるので上までクルマで行けそうなのでクルマに戻って登っていくと石段は二段になっていた。

二段目を歩いて登っていくと本殿がみえてきた。

 

 

左右は鬱蒼とした樹木が茂っており、大樟がいかにも神の山のような雰囲気をかもしている。

もう17:00を過ぎているのでそそくさと御参りして御朱印をいただくために社務所に参上。

片付けが進んでいるような気配だったがこころよく書いていただいた。

 

新田神社のある神亀山を下りて国分寺跡をめざしていくと途中で泰平寺を発見。

ここは豊臣秀吉が九州征伐を発して弟秀長に日向方面から南下させる一方、自らは肥後方面から南下、島津勢はこれに抵抗せず、出水を本拠とした薩州家の島津忠辰が道を空けるようにいち早く降伏、薩摩国への侵入を許した。

この報に接した島津家総帥の義久は本土決戦を諦めて降伏を決意。

伊集院でアタマを丸めてこの地に本陣を構えた秀吉の元に出頭、降伏した。

 

 

かように歴史的な舞台なのであるが泰平寺の方は廃仏毀釈で廃寺。

完璧に破却されてしまい、今では「和睦石」なる記念碑が残るばかりである。

「和睦」という言い回しに島津のくやしさが感じられよう。

 

国分寺跡に行ってみればこれはヤマト流伽藍配置の定番といえる礎石跡が並ぶばかり。

逆にいえばヤマトの中央集権の象徴はここまで来ていたことになろう。

 

 

陽はまだあるものの時刻は18:30。

本日の予定終了でホテルに向かった。

今日は枕崎から100km走った。

まだ取材計画の半分を過ぎた程度、しかし薩摩はおもしろい。

全く飽きない。

 

 


薩摩紀行5日目③ 島津四兄弟誕生地、伊作城

2019年05月28日 | 城・城址・古戦場

田布施(金峰)の町をさらに北上。

島津日新斎忠良は伊作城(亀丸城)に生まれ、21才の時、金峰の亀ヶ城に移って両所を治めて領民から慕われた。

忠良の子、四兄弟の父貴久は亀ヶ城で生まれている。

島津宗家と分家薩州家の不仲が起きた時、南薩の実力者となっていた忠良は宗家勝久の要請に応じて支援し子の貴久に宗家を譲ることを条件として薩州家を退けた。

貴久は元服して宗家を相続し守護職も継承して鹿児島清水城に入った。

前守護勝久が隠居所として設定された伊作城に入る。

ところが引退した前守護勝久は優柔不断で薩州家実久の横槍により相続を破棄、勝久は伊作島津家を武力で排除する動きに出る。

貴久は鹿児島を退去、隠居していた忠良も所領の伊集院一宇治城などを奪われて亀ヶ城に撤退、再起を図る。

まず、伊作から鹿児島城へ復帰した勝久の留守を襲って亀丸城を回復して雌伏する。

天文年間、守護職に復帰した勝久は再び薩州家実久と対立して敗れ、忠良の目下の敵は北薩出水を本拠として鹿児島を保持する薩州家となる。

忠良と貴久は別府城(加世田竹田神社の付近)を落として市来へ進出、伊集院一宇治城も回復して鹿児島と出水の連絡を遮断、薩州家を追って南部薩摩を支配下に置く。 

というように加世田、田布施、伊作は日新斎忠良が子や孫を育てつつあちこち連れ回して家勢回復に邁進していた地域となる。

道の駅金峰から5kmほど北へ行くと伊作の町。

伊作城に寄ってみようと思ったらカーナビにあらぬ方向に連れて行かれ少々難渋。

城山とおぼしき丘を目当てにぐるぐるしてようやく駐車場に着いた。

駐車場は舗装整備されている。

枕崎で買ったかるかんをかじっておいて攻城開始。

 

 

 

他の薩摩の山城同様、各曲輪が「城」と呼称されややこしい。

亀丸城がいわゆる本丸であろう。

隣が蔵之城、東之城と並び反対側が御仮屋城。

亀丸城に登ってみれば城碑の他、島津忠良、島津四兄弟の誕生石が置かれている。

 

 
 
隣の御仮屋城との間は空堀が彫られている。
 
 
 
空堀の底までロープをつたって降りられるようになっているものの雨上がりで足元悪く断念。
底まで10mはあろうかというたじろぐほどの壮大な空堀であり、降り口の舗装路は城跡整備の際、クルマを通すために埋め立てたものとある。
知覧城に匹敵する壮大な城といえるだろう。
 
御仮屋城にも登ってみた。
こちらも削平されていて広い。
 
 
ふたつ曲輪を回ったところで攻城終了。
雨上がりの夏場は草生い茂り山城の踏破には向いていない。
 
伊作城の立地を考えてみれば真東に20kmほど行けば鹿児島の平地部に着く。
北東に20km行けば伊集院。
鹿児島北部の清水城と連携して防衛ラインを引くには伊集院一宇治城を盤石にする必要があるだろう。
 
南薩を抑えた忠良貴久親子はまず東へ向かい鹿児島を制圧に向かう。
先日鹿児島から伊集院に行ったのであるが、心理的なつながりとしては伊作、日置、伊集院のラインを島津再興の道と考えるべきだろう。
 
 

薩摩紀行5日目② 阿多の姫、コノハナサクヤヒメ

2019年05月28日 | 取材・旅行記

加世田からさらに北上して万之瀬川を渡ると金峰町。

一帯は坊津のようなリアス式地形と全く違う。

万之瀬川が造った河口の沖積地で山を背負い水が豊富な平地として鹿児島には珍しく農耕に向いていた。

海上交通を利用した交易や漁労にも適していただろう。

縄文時代に人々が定住した栫ノ原遺跡がある。

休憩のために道の駅「きんぽう木花館」に寄ったら隣が「歴史交流館金峰」だった。

立ち寄ってみると割と新しい郷土資料館だった。

エントランスにはシラスで造ったコノハナサクヤヒメが置かれている。

コノハナサクヤヒメはオオヤマヅミの娘でニニギと出会い結婚、ひ孫が神武天皇となる。

一帯を「阿多」といいコノハナサクヤヒメの本名はカムアタツヒメすなわち「阿多の美しい姫」という。

資料館でいろいろ解説を読むといわゆる「隼人」、すなわちヤマト政権にまつろわぬ民には「薩摩隼人」「大隅隼人」そして「阿多隼人」の3つがあった。

阿多隼人の祖は「海幸彦」。

薩摩の伝説解釈を使うなら海幸彦の釣り針をなくした山幸彦は開聞岳の近くで乙姫と出会い竜宮城に行く。

そして野間岬のあたりで金峰山の神の娘と出会い、炎の中で海幸山幸兄弟を産む。

天孫降臨や海幸山幸の神話はヤマト王権が隼人を従属させる話といえようが神話の地をいろいろ想像しながら通って行くのはそれだけで楽しい。

 

道の駅にはコノハナサクヤヒメの銅像が立っており、作者は伊集院の島津義弘公像の作者、中村晋也氏だった。

私的な感想としては「好みの女性」ではないことがちょっと残念。

 

 

 


薩摩紀行5日目① 雌伏の島津

2019年05月28日 | 街道・史跡

五日目は枕崎を出て加世田に行き、島津家再興の地を巡って北上していく。

天気予報どおりの雨になった。

 

最初に行くのは昨日見学できなかった輝津館。

坊津の歴史はなかなか興味深い。

展示と解説はとてもわかりやすく私の疑問を解いてくれる。

学芸員の方に話を聞きたいと頼んでみたら小学生の集団見学の休憩時間に少し話ができた。

来てみて良かったと思うのはこういう時で文献をあさるだけでは得られないものがある。

場所の空気感もそうだし、交通の状況であったり距離感はその場所を走ってみなければ体に入ってこないものである。

 

この港町が繁栄を極めたのはひとえに立地と地理条件である。

日本列島の端っこだけという条件ではそうはならない。

中国大陸に最も近い端っこであることが日本の玄関口、出先営業所の価値を生んだ。

坊津は歴史上、仏教の町として発展したとの説がある。

「坊」とは寺院の坊(異説もあり)、寺院は一乗院といい、西暦583年に百済僧が開いたと伝える。

しかし創建時期については寺伝の他の史料がないようで謎である。

鑑真が来港、遣唐使船覇権基地となったことから古代律令制下の貿易港だったことは間違いないだろう。

しかし一乗院の状況がはっきりするのは南北朝期以後、そして坊津が最も発展したのは戦国時代、島津氏が南薩摩を治めていた戦国時代以後のことという。

一乗院は伊作島津家の保護を受けて栄え、義久義弘兄弟は一乗院で幼少期に学んだという。

坊津の商材として見逃せないのが硫黄。

火山に乏しい中国では火薬の製造に欠かせない硫黄は重要な輸入商材だった。

坊津の南に浮かぶ硫黄島では硫黄がとれそれを坊津から出荷する貿易ルートは島津家を潤したという。

そのころには一乗院は紀州根来寺と深い関係にあった。

根来寺といえば鉄砲の産地、坊津でも鉄砲は生産されたというから種子島〜薩摩〜根来という鉄砲の道は、製造に欠かせない砂鉄、硫黄、木炭がそろう。

 

そんなことをここで学んでずいぶんすっきりした。

本にまとめるのが楽しみである。

輝津館のベランダからは港が一望でき、双剣石もよくみえる。

天気が悪いのが残念である。

 

輝津館を出て観光案内所のおばさんと話をする。

007のロケの時、撮影隊は指宿に宿泊し連日、ヘリコプターで通ってきたのだという。

鹿児島というと桜島の火山灰を連想してしまうがさすがにここまで飛んでくるのは希だという。

 

出発すると時刻は11:00過ぎ。

高地を下りると司馬さんが止まって宴会をした鳴海旅館がみえた。

鉄筋コンクリートに改装されているが司馬さんのファンが見に来るらしい。

雨が強くなってきたので秋目の鑑真記念館入館を断念。

北へ行って加世田に向かう。

 

加世田は戦国島津を一躍九州の覇者とした島津忠良、貴久父子のふるさとである。

島津氏の歴史は少々ややこしく、初代忠久の子孫がそのまま続いたのではなく、分家による宗家の立場を巡る抗争の歴史でもある。

5代貞久の時、奥州家と総州家に別れ、宗家を継いだ奥州家が9代忠国の時、相州家と分かれた分家が伊作家。

伊作島津家は阿多川辺を支配して貿易などで力を蓄えて鹿児島方面に進出、島津宗家を継いでいた14代勝久から宗家の地位を奪取、貴久が15代を継ぎやがて三州を統一するに至る。

要するに戦国九州で大躍進する島津家の基礎は加世田で造られた。

このこともまたおもしろい。

 

竹田神社に寄ってみる。

ここは元々日新寺という島津忠良の菩提寺だったのが明治の廃仏毀釈で廃寺となり忠良を祀る神社として再興した神社。

近くに忠良の墓所があり、石畳の道々に忠良が家臣領民の教育用に遺した「日新公いろは歌」の歌碑が並んでいる。

日新は忠良の号日新斎のことで加世田あたりでは米沢と上杉鷹山の関係のように忠良を篤く尊敬している。

 

日新公墓所

 

地元の加世田郷土資料館に行ってみたら火曜日が休館日で閉館。