扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行四日目⑥ 坊津茫々

2019年05月27日 | 取材・旅行記

枕崎港から西へ向かうと坊津町に入る。

薩摩半島の西南端、ちょっと切れ上がったようなところが坊津町、端っこが野間岬。

枕崎から西に行くとすぐに山間部、坊津に入ったことになる。


旧坊津町は現在、南さつま市に含まれる。

古代、安濃津、博多津と共に三津に数えられた坊津はいくつかの港に分かれている。

坊浦、泊浦、久志浦、秋目浦などの総称が坊津。

坊津秋目浦は鑑真和上が苦難の末に日本にやってきた時、最初に漂着した港である。

坊津に行きたかったのは鑑真上陸地に立ってみたかったからというのが本音。

しかし今日は月曜日で鑑真記念館が休館日である。

まあ途中まで行ってみるかという軽い気で山間部を行く。

 

薩摩半島の南端は見事なリアス式海岸で標高の高いところを走っているのは左側にちらちら顔を出す海の眺めでよくわかる。

リアス式海岸とはすなわち海岸線が崖であるから道路は崖の上を通って行く。

しばらくすると耳取峠の景観ポイント、開聞岳がみえている(タイトル写真)。

峠から一山越えると坊泊。

「←密貿易屋敷」の看板が出ていたので曲がってみたら港に出た。

小さな漁港でここが繁栄して姿を想像しがたい。

海沿いを慎重にみても密貿易屋敷なる建物が見当たらない。

密貿易屋敷は司馬遼太郎氏の「街道をゆく夜話」に出てくる。

司馬さんは坊津が憧れの地で二度訪れたらしい。

屋敷に上げてもらって楽しんだ様子を綴っている。

 

私が看板に反応したのはそんなことを覚えていたからでもあるが二度往復してもみつからない。

クルマを降りてスマホの地図を頼りに歩いてみるがそれらしきものがない。

すると商店のおばあさんが挨拶してくれたので「密貿易屋敷はどこですか?」と聞いてみたら「ほれすぐそこ」と言う。

つまり史跡とはいえ標識も案内もないふつうの民家なのであった。

おばあさんは「さっきは家にいたので見せてもらえ」と言うのだがさすがにやめておいた。

 

密貿易屋敷、当主の先祖は薩摩藩の御用で鰹漁や海運を務めた裏で密貿易に従事していたという。

 

密貿易屋敷の前は船場。

 

さて謎が解けたところで県道に戻るとすぐ先が「坊津歴史資料センター輝津館」。

閉館時間が迫っているので明日また来ることにして展望台に行ってみた。

湾内と景勝「双剣石」が見晴らせる。

一見して風よけに最適な良港である。

また山々が他の平地、集落から港を隔絶させているから船で行く方が楽で安全。

海賊行動や密貿易の根拠地として最適だったのだろう。

 

 

さて一息ついたところだが、日没は19:30とこの時期はまだまだ明るい。

もう少し先に行ってみる。

坊浦の先が久志浦、ここからは北上していくことになる。

つまり海岸は南北方向に沿っていく。

つまり夕陽の名所となるわけである。

岬ひとつこえると秋目浦。

ついにここまで来た。

 

鑑真和上上陸地には記念碑と和上の石像がある。

 

天平勝宝5年(753)12月20日に和上が日本の地を踏んだ。

記念館は閉館しているがここからの眺めもいい。

これで夕陽など沈みかけていればまあ泣けるのは疑いなし。

訪れる人もなくぼんやりと沖を眺め和上を載せた船がやってくる様を想像したりした。

 

坊津にはいろいろ有名人がやってきた。

フランシスコ・ザビエルが滞在し、伊能忠敬も3日いた。

そして我が師(というのも変だが)ショーン・コネリーも「YOU ONLY LIVE TWICE」のロケでやってきた。

そしてロケ地に記念碑が立っている。

 

 

アルベルト・ブロッコリーとコネリー、丹波哲郎のサインが彫られ、デザインもいい。

映画では漁師町に潜入したボンドが土地の女性を妻として身を隠し、スペクターのアジトを奇襲する拠点となった。

これもボンドをみて育った身には泣きそうな場所である。

 

来た道を戻って宿に到着。

雨が降り出してきた。

枕崎観光ホテル岩戸という立派な名前であるが日帰り温泉併設のちょっと古いホテル。

それでも窓から海がみえ、温泉もよかった。

 


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