扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

大和散策 #5 眼病封じの壷阪寺

2010年11月19日 | 仏閣・仏像・神社

吉野から奈良方面に向かう途中、壷阪寺に寄ることにした。

壷阪寺は高取山腹にある。
昨年、高取城址に行った際、時間切れで寄れなかったのである。
距離にして10キロ余り。
30分で着いた。

壷阪寺の本尊は十一面観音、特別拝観で本尊を間近に見ることができ、三重塔の初層が初公開される。

境内からは山裾を割って大和盆地がきれいにみえている。

創建は大宝3年(703)といい元興寺の僧、弁基上人が愛用の水晶の壺を手に修行した折、観音を感得しその姿を像を刻み壺と共に安置したという。
正式名は南法華寺というがこのような寺伝により「壷」の「坂」の寺ということで壷坂(阪)寺と呼ばれることになった。
寺勢は一時は36堂60余坊であったようだが、南北朝時代に荒れた。
吉野を南朝の本城とすればここは出丸のようなものであるから仕方ない。
天災・戦災で堂宇を失い、室町期の礼堂・三重塔他をわずかに残すものになった。
遺産を保護し、盛り立てたのは江戸時代に高取を領した植村氏であったようだ。
高取城を薄禄でありながらよく維持した植村氏は山中の壷阪寺もおろそかにしなかったのは好感が持てる。

壷阪寺は濃い。
伽藍の配置がまず濃く、重文の礼堂・三重塔をはじめ、多宝塔や大講堂などが密集している。
奈良時代の寺は平地をさらに平にならした状態で設計され、東西南北を意識して図面を引き理想的な堂宇配置を行う。
このため、空地をひろびろととって空が抜ける。
ところが山中に建立する場合は真っ白な頭で図面を引けない。あれもこれもと考えると勢い堂宇が密集するのであろう。

濃さのその2は現世利益の寺であること。
本尊千手観音の御利益は眼病に効くである。
奈良時代から眼病治癒の参詣があったようだが、今日いよいよ眼病封じの寺として有名なのは「壺坂霊験記」による。

座頭の沢市は妻お里とつつましく暮らしながらもお里が毎晩床を抜け出すことに不審がありお里を問いただす。
お里は沢市の目の病が治るよう、三年欠かさず壷阪観音に朝詣でをしていると訴える。
疑った自分を恥じた沢市は自分の盲目ゆえに不遇な暮らしをさせているのだと自らを責め、身を投げてしまう。
お里も悲嘆し身を投げてしまう。
ところが観音の霊験が奇跡を起こし、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼したという話である。

この話は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として評判になり壷阪観音詣でが盛んになった。
庶民の参詣が増えると心の貧しい寺は現世利益を煽って御利益の売り込みを盛大にやるようになる。
特に観音霊場というのは観音様がありとあらゆる現世利益をおのが身を変化させてまで与えてくれるため寺の宣伝によっては大盛況になる。
清水寺など私の学生時代、すなわち昭和50年代から盛大にやっていて苦々しく思っていた。
壷阪寺はそこまでではないが独特のオーラを放っている。

濃さのその3としてインドのスパイスがある。
壷阪寺はハンセン病対策支援でインドと交流がありその縁で石像の大観音立石像と大涅槃石像が招来された。
これはインドの資金で当地で刻まれたのではなくインド製をはるばる運んできた。
この2尊は道路を隔てた反対側に安置されており、こちら側からは観音の横顔がみえている。
もうひとつ釈迦如来坐石像も別に招来され千手観音、文殊・普賢観音の脇侍と共に仁王門の右に座っている。
肌が白く秋空に輝く。
また大石堂なる建物があり、入口ではヒンドゥーの神としかみえない石像が出迎え、内部はまさにインドの石窟寺院であって圧倒される。
さらに三重塔の裏手には全長50メートルの長大な仏伝図があり、釈迦の生涯の名場面が語られる。
仏教とはインド起源の哲学なのだということを実感させる点でいいことではあるが、醤油味の丼にカレーをかけるようなもので寺の雰囲気をさらに濃いものにしていることは否めないであろう。

観音に会う前にくどくど考えてしまった。
本尊千手は礼堂の背後に連結する八角堂の厨子に収められている。
礼堂から入り、本尊を間近に見る。
室町期の寄木造であるが平安期によく造られた他の像と比べると頭が大きく、頭上の10面も大きくリアルでまた顔のパーツがそれぞれ大きい。
容貌はインド風なのである。
朱の着色もよく残りいかにも法力があるように見えるかもしれない。
腹の前で両手で抱えた玉が眼病に効くということらしい。

八角堂内はぐるりと巡ることができ、件の沢市お里の物語や寺宝が展示されている。
特に文化財指定されていないのだが白鳳期の作という観音像が笑顔がよく好もしかった。

三重塔はやや平凡で初層の開扉も期待したほどではなかった。
南面して金剛界の大日如来が座り、その前に空海像がある。
多宝塔といいこの空海といい真言宗の寺であることの証左ではあるけれども、感じる限り現世利益のカレー味がする濃い寺という印象が残った。

この壷阪寺は藤原京の朱雀大路の延長線上にあるらしい。
また、壷阪寺の創建年、大宝3年は持統天皇が皇室史上はじめて火葬された年と同じことからこれらの関連性を指摘する研究もあるという。

境内からは大和盆地がよくみえる。
古都を眺めるのはいつどこででも気持ちがいい。


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壷阪寺全景、寺の案内板

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多宝塔と三重塔、彩色のコントラストがいい

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礼堂と八角堂、八角堂は当初のものと同じ位置にあるという

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大石堂内部

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大石堂の柱、石堂はパーツをインドで切り出し刻み、運ばれた後に当地で組み立てられた

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境内から奈良盆地を臨む




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