敦賀あたりは日本史上、重要な出来事が度々起きた。
古代越の国はヤマト王権に比肩する実力を持った。
敦賀の平地は越の国の出城のような格好となっており、北陸道を攻めようとする外敵を迎撃する最初の要塞となった。
有名なのが南北朝時代の南朝方新田義貞と北朝勢の攻防戦。
建武政権から離反した足利尊氏は追討を受けて破れ九州で再興、京へ攻め上って後醍醐天皇を追い北朝を創設して畿内を制圧した。
吉野に逃れた後醍醐天皇と離れた新田義貞は恒良親王、尊良親王と共に北陸道に逃れた。
気比神宮の支援を受けて金ケ崎城に入った義貞等を北朝勢が包囲し激戦となった。
最後は兵糧が尽きた南朝勢は義貞を落としてから開城、ふたりの皇子は命を落とした。
次は織田信長の朝倉攻め、金ケ崎城を猛攻して落城させ、朝倉本国に進もうとした織田勢は近江浅井の寝返りを知る。
総退却に移った織田勢を朝倉勢が追撃し、撤退戦を指揮した羽柴秀吉が名を上げた。
敦賀から見渡すと北には海岸、残る三方は峻険な山岳地帯、鍋に入れられたようなものである。
標高は100m前後で高くはないが城域は広大である。
尾根続きの天筒山城まで行けば日が暮れそうだ。
麓の金前寺から歩いて登っていくと金崎宮、命を落とした恒良親王らを祀っている。
月見御殿からの眺めが見事。
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