扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行八日目② 国分城跡

2019年06月01日 | 城・城址・古戦場

隼人塚からJR隼人駅まで行き一駅乗って国分駅へ。

駅前から歩いて国分城跡へと歩いて行く。

 

途中、和菓子屋があったので寄ってみると虎屋本舗の本店。

薩摩銘菓のかるかんは私の大好物である。

今回も土産にしようと思い蒸気屋さんのかるかん1本すでに購入済だったので地元の郷土菓子という代物を昼飯代わりに買った。

 

少し先へ行くと史跡大隅国分寺跡。

といっても石塔と仁王像があるのみ。

 

 

大隅国衙はもう少し北にあった。

国分寺のあるあたりは少し高所になっていて背後が山地になっている。

それを城山にしたのが国分城。

島津義久が築いた城である。

 

義久は九州制覇へあと一息というところで秀吉の征討を受けて降伏。

本領を安堵されたものの、三州経営体制をずたずたにされた。

秀吉は島津家の指揮命令系統を分断して弱体化しようとし、義久を冷遇、義弘を贔屓した。

義久を薩摩国主、義弘を大隅国主とし、日向は義弘嫡子の久保らに与えた。

そして出張してきた石田三成らが太閤検地を行うと薩摩国は70万石越えの評価を受け、所領も再配分、義久と義弘は薩摩と大隅を交換することになった。

島津家の守護所として象徴となっていた鹿児島内城を明け渡す形になった義久が居所としたのが富隈城。

これは隼人塚から南へ行った海岸沿いにあった。

秀吉に従順ではない弟歳久は自害させられ、義久の娘婿とした久保が朝鮮で陣没すると義弘次男の忠恒(後の家久)に再婚させ、男子のない義久は忠恒を後継者とさせられる。

 

義久は富隈城に文禄4年から10年の間居城した。

その間に関ケ原の敗戦があり、徳川家との決戦が不可避の状況ともなった。

義久にとって苦悩の時期を過ごした城といえるだろう。

何とか決戦を回避した島津家は江戸期の大名として存続、外城制を敷いて武装状態のまま江戸時代を過ごすことになる。

その際、義久が新たに縄張して実戦を想定して築いたのが国分城、舞鶴城ともいう。

この城は近世城郭のように城下町を碁盤の目状に区画し、裏山に詰めの城を築いている。

義久が死去するといよいよ義弘と忠恒の時代となる。

義弘は加治木に住んで隠居の身から藩政を後見、寛永15年(1638)に死んだ。

すると島津家も新時代へ、家久と名を変えた忠恒の治世となる。

国分城は義久死去後は忠恒の正室亀寿が住んだ。

この夫婦は仲がよくなかったといい、忠恒も武功抜群の裏に粗暴の気があったようで名君そろいの島津家にあって異端児をみる風もある。

 

 

本丸跡は小学校になっていて前面に堀の名残か水が流れている。

朱門が復元されるのみで城跡を彷彿させるものはない。

 

さてさてこれで施設探訪が全終了。

羽田へ戻る便のチェックイン16:00ごろまでに行けばよい。

 

 

 

 

 


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