扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

武田流築城術 -諏訪原城址-

2019年11月21日 | 城・城址・古戦場

実家からの帰りに道草をした。

日本100名城は全て訪問したが、続100名城が選定されまた新たな目標が加わっている。

諏訪原城はそのひとつ。

 

東海道駿河遠江は戦国時代、今川の領国であって義元の時代に最盛期を迎えた。

ところが桶狭間の合戦によって一気に衰亡へ向かう。

甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と三国同盟を結んでいた今川家は信玄の心変わりによって侵攻を受け、三河の徳川家康と今川領国を分割した。

これで東海道の戦局が大きく変わり駿遠は武田と徳川の切取合戦に移行、天竜川と大井川の間が主戦場となった。

この地にある高天神城が最大の境目の城である。

諏訪原城は三方ヶ原から続く台地の先にあり、高天神城の北東約20kmに位置する。

大井川が造った扇状地(島田市藤枝市焼津市)の出城のような役割を果たした。

 

諏訪原城には昨年ビジターセンターが開設されていてまず訪問してみた。

山城巡りが密かにマニアを増やしている今、なかなかいい仕事をしている。

親子で自作したディオラマなどよくできている。

諏訪原城は武田勝頼の時代に本格的に築城工事が成されたようだ。

勝頼は信玄死後、攻勢に転じると遠州に進出を企図し家康を圧迫した。

その圧力の頂点が天正3年(1575)長篠の合戦ということになり、これに破れた勝頼は急速に勢力を減退させ家康の東進を許す。

そのひとつが天正4年8月23日の諏訪原城攻防戦、勝頼は満足な援軍を遅れず城主今福浄閑斎が戦死して落城した。

 

城跡はよく整備されていて武田流築城術の理念がよくわかる。

 

石垣などは用いずに空堀と馬出で扇状の曲輪を防御する。

ちょうど空堀の草刈り作業をやっていたが堀底などは相当な深さがある。

 

 

北条流の築城術による山中城といい静岡県は城跡整備には力を入れているようだ。

普請奉行は鬼美濃、馬場信春といい、徳川時代にさらに拡充された。

家康が関東に去ると豊臣方のテリトリーになり城は廃城となった。

天気がいいこともあっていい時間を過ごした。


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