-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

庚申塔

2013-07-18 19:08:58 | 歴史

 「庚申」は、「かのえ さる」又は「こうしん」と読まれます。十二支と干支の組み合わせにより、年・月・日を60種類に色分けしたものの一つです。その中で、庚申の日については、特別な意味を持っています。中国の道教から始まって、仏教さらに日本の神道なども混合して、「庚申信仰」が江戸時代に一般に広まったそうです。「庚申の日」の夜には、寝入った体から三尸の虫(さんしのむし)が出てきて天に上り、その人の罪を天帝に暴露して命を縮めてしまうというので、庚申講(グループを組んで一緒に信仰する。)で一晩を寝ないで夜をあかすというものです。畑沢でも「お庚申様」という呼び方をしていたようです。

 その「庚申講」をはじめとした尾花沢市内のその他の講、石仏、習俗等々の貴重な記録がありました。昭和63年に渡部昇龍氏が発行した「尾花沢の信仰と民族」です。渡部氏は、地元の高校で生徒さんと一緒に尾花沢の歴史的財産を記録してくださいました。私が苦労もしないでブログで取り上げている伝説は、渡辺氏の指導で尾花沢高校郷土研究部がまとめた「尾花沢伝説集」から紹介しているものです。同氏は、上述の著書のほかに「尾花沢の伝説」という形で高校生とともに集められた伝説に鮮明な写真も添えられるなどして、きちんとした本として発行されました。二つの著書を拝見すると、同氏の並々ならぬ郷土への愛情と、後世に残そうとしている強い使命感を持たれていることが感じられました。渡部氏は、郷土に残っている風習も経験されていることと尾花沢全体を隈なく調べられていますので、内容がとても具体的です。特に庚申講に関する説明は、世代が異なり何も知らない私でも、講の場にでもいるような感じになります。これらの本は、恐らく自費出版されたのではないでしょうか。益々、頭が下がります。以前、私は尾花沢には資料が少ないなどと、素人が分かったようなことを書きました。渡部氏の著書を拝見してからは、穴があったら入りたい気持ちです。

 さて、庚申塔です。素人の私には、これが信仰の証であろうことは推察できますが、庚申講の時に拝むためのものか、記念碑的なものかが分かりません。従いまして、石碑とすべきか石仏なのかも分かりません。それは後で考えることにします。畑沢で三つの庚申塔を確認できました。「尾花沢の信仰と民族」でも三つとカウントされていましたが、「郷土 Ⅱ(昭和45年楯岡高校)」には、四つが地図に書かれています。畑沢の有路S氏によりますと、私が確認したもののほかにもう一つがあるようなお話でしたので、まだまだ、調査する必要があります。

 確認したものから、先ずは下畑沢の堂ヶ沢(ドガサ)入口の庚申塔を紹介します。

 刻まれている文字は、「庚申塔」の右に「安政四天」と読めそうです。「天」が何を意味しているかは分かりませんが、「安政四年」であれば、西暦1857年です。この時代はペリーが浦賀に来た(1853)後の大騒動のころでした。その二年後には、大老 井伊直弼による安政の大獄が起こりました。日本が激動期に入ったとき、畑沢はどんなことがことがあったのでしょうか。ところで、この庚申塔がある堂ヶ沢は、旧街道通行の要所になっていたようです。郷土Ⅱに資料として掲載されている「出羽国村山郡延沢領畑沢村高反別村差出帳」(西暦1714年)にその地名が出ています。ここには、別の石造りのものがありましたが、別途に紹介します。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「オイヌ越え」の伝説(2) | トップ | 大雨の翌日です »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事