北八ヶ岳の登山拠点になっている老舗の一軒宿です。ログハウスの山小屋のような外観で、周囲の環境にすっかり溶け込んでいます。お湯目的の宿泊客の他、いかにも登山客らしい姿の方も見られました。連泊でじっくりなさっているのか、登山のため早々にチェックインしているのか、昼間だというのに館内には浴衣姿の方が歩いており、とってものんびりした空気が流れていました。
受付で料金を支払い、右に折れて廊下を進み、突き当りにある浴室へ。浴室前にはステンレスの長い洗面台が設置されていました。いかにも古めの旅館らしい設備ですね。
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洗面所上には明治44(1911)年4月23日付で発行された内務省東京衛生試験所の分析表が掲示されていました。その主要部分を書き写してみます。
第145号 冷鉱泉 長野県南佐久郡北牧村大字稲子字八ヶ岳国有林内湧出一種 定量分析
右試験ノ為メ当所へ差出シタル水ハ、微ニ白濁シ殆ト中性ノ反応ヲ徴シ微ニ刺戟性鉱味ヲ有ス。之ヲ煮沸スレハ気泡ヲ発揚シテ分解シ、遂ニ褐色ノ沈垽ヲ生ス。比重ハ摂氏15度ニ於テ10005ヲ示シ、其毎1000分中ニ含有スル各成分ノ分量左ノ如シ
(漢字は常用漢字へ、数字はアラビア数字へ、それぞれ変換。句読点は当方にて加筆)右試験ノ為メ当所へ差出シタル水ハ、微ニ白濁シ殆ト中性ノ反応ヲ徴シ微ニ刺戟性鉱味ヲ有ス。之ヲ煮沸スレハ気泡ヲ発揚シテ分解シ、遂ニ褐色ノ沈垽ヲ生ス。比重ハ摂氏15度ニ於テ10005ヲ示シ、其毎1000分中ニ含有スル各成分ノ分量左ノ如シ
炭酸亜酸化鉄 0.0240
硫酸カルチウム(ママ) 0.0216
炭酸カルチウム 0.0109
炭酸マグネシウム 0.1103
炭酸ナトリウム 0.0005
炭酸カリウム 0.0073
クロールカリウム 0.0036
酸化アルミニウム 0.0037
珪酸 0.0457
燐酸 痕跡
遊離及半結合炭酸 11451
以上定量分析ノ成績ニ據レハ本水ハ弱鋼鉄泉ニ属ス。依テ医治効用ノ概要ヲ掲クレハ左ノ如シ硫酸カルチウム(ママ) 0.0216
炭酸カルチウム 0.0109
炭酸マグネシウム 0.1103
炭酸ナトリウム 0.0005
炭酸カリウム 0.0073
クロールカリウム 0.0036
酸化アルミニウム 0.0037
珪酸 0.0457
燐酸 痕跡
遊離及半結合炭酸 11451
浴用 栄養不良 諸種疾病ノ恢復期 生殖器病 神経痛
内用 慢性神経痛 神経衰弱症 慢性膓胃加答児(カタル)
内用 慢性神経痛 神経衰弱症 慢性膓胃加答児(カタル)
全体的に薄い冷鉱泉ですが、遊離炭酸ガスが突出して多いようですね。一応ここでは弱い鉄泉に分類されているものの、炭酸泉としての効能に期待しているのか、神経痛などを適応症として挙げています。さてこの分析からちょうど100年がたった今日の稲子湯はどのような泉質を示しているのでしょうか。
こちらが浴室。男女別の内湯がひとつずつあるだけのシンプルな構造。洗い場のカランは、昭和の銭湯によくあった押しバネ式のものが3基用意されています。
長方形の湯船は4~5人サイズでしょうか。源泉温度がとても低いので当然ながら加温(+循環)されており、湯船のお湯はうっすら深緑色および褐色を帯びた貝汁濁りで、赤茶色の小さな浮遊物が無数に舞っています。明治の分析表の「之ヲ煮沸スレハ(中略)遂ニ褐色ノ沈垽ヲ生ス」とはこのことを指しているのでしょう。
このお風呂で注目すべきはこのバルブと源泉溜でしょう。お湯は循環加温されていますが、湯船の上に突き出たバルブを開くことによって冷たいままの源泉を直接投入することもできます。またバルブ上には小さな源泉溜りがあって、そこからコップで鉱泉を汲んで飲むことができるわけです。源泉溜りは「微ニ白濁」という表現の通り、硫黄の付着により綺麗な純白に染まり、タマゴ臭がプンと香ってきます。実際に飲泉してみると、口の中で勢いよくシュワシュワと炭酸が弾け、当然ながら炭酸の味が非常に強くて口腔内が収斂し、さらに金気味や硫黄のタマゴ味が混在して、とっても不味いものでした。でもこの不味さは温泉ファンなら思わず興奮してしまう非常に個性的な特徴であり、特に1493mgという近々の分析値が示す通りに遊離炭酸ガスの多さには圧倒されてしまいます。
バルブを開けると、ボコボコ音を立てながら勢いよく冷鉱泉が湯船へと投入されました。バルブを開きっぱなしにすれば、半循環状態の湯使いが実現できますが、何しろ鉱泉はとても冷たいので、源泉を入れっぱなしにしておくとたちまち湯船はぬるく、さらには冷たくなってしまうため、程ほどのところで止めないと、他のお客さんに迷惑かけてしまいます。私は多少ぬるくても大歓迎なのですが、この時は後から続々お客さんが入ってきたので、源泉投入は少しだけにとどめておきました。
加温された湯船の鉱泉は白っぽさが失われ、炭酸ガスも飛散してしまうため、酸味と金気ばかりが残って、上述のように貝汁的な微かな褐色を呈するお湯へと変貌してしまいます。加温するだけでこんなにも印象が違ってしまうものなのですね。キシキシと引っかかる浴感でした。
私は入浴中に「うわっ、不味い」と口にしながらも、そのインパクトのある味につい心が惹かれ、何度も鉱泉を口にしてしまいました。単に加温槽だけの鉱泉だったら私は興味を抱かなかったでしょうが、一切手が加えられていないそのままの源泉を浴槽へ投入でき、しかも飲泉することもできたので、非常に印象に残る鉱泉となりました。明治の分析とほぼ同様の泉質が今でも楽しめるというのは、とってもロマンチックでもあります。
稲子湯源泉
単純二酸化炭素・硫黄冷鉱泉 8.3℃ pH5.0 67.1L/min(自然湧出) 溶存物質160.1mg/kg 成分総計1657mg/kg
Na:4.1mg(13.06mval%), Ca:11.5mg(41.36mval%), Fe2+:6.8mg(17.41mval%), HCO3:76.3mg(93.77mval%), 遊離CO2:1493mg, 遊離H2S:3.4mg
長野県南佐久郡小海町稲子1343 地図
0267-93-2262
立ち寄り入浴 600円
石鹸・シャンプーあり、他備品類なし
私の好み:★★★