温泉逍遥

思いつきで巡った各地の温泉(主に日帰り温泉)を写真と共に紹介します。取り上げるのは原則的に源泉掛け流しの温泉です。

プノンペンの街をせわしなく逍遥 後編

2015年04月12日 | 東南アジア旅行記
前回記事の続編です。

●クラタペッパーと家系ラーメン
 
こちらは市街の南部に位置するボンケンコン(Boeung Keng Kang)地区。外国人やお金持ちの屋敷がたち並ぶ高級住宅街であり、街中にはブティックやカフェなどが点在している他、雰囲気の良さそうなホテルも見受けられます。都内で言えば、広尾や白金台のような土地柄かな。



今回のプノンペン旅行でどうしても行ってみたかったのが、このボンケンコンにお店を構える「クラタペッパー」です。1960年代まで、カンボジアでは良質な胡椒が生産されていたんだそうですが、70年代以降の内戦や混乱によって壊滅的な被害を受け、かつての名声は消滅しかかっていました。そんな状況下、カンボジアの支援を志していた日本人の倉田さんが、胡椒生産の再興を通じてこの国の産業再建を手助けすべく、90年代後半から現地で奮闘し、現在ではこのように店を構えて、海外でも名が知られるほどになったんだそうです。


 
まるで日本のセレクトショップのようなこじゃれた雰囲気の店内では、黒コショウや白コショウなど、挽いていない粒状のものが袋詰めで並べられていました。綺麗に包装されているので、そのままお土産にしても良い感じ。お店の奥ではスタッフの方が何やら作業をなさっていました。
ここでは黒コショウと完熟胡椒を購入。完熟胡椒とは赤く熟した実だけを集めて乾燥させたもので、ひと房から1~2粒しか獲れない最高級品なんだとか。帰国後に自分でステーキを焼き、塩をまぶすと同時に、ミルで挽いた黒コショウを上から振り掛けると、何とも言えない香りが漂い、肉の旨味がぐっと引き立てられました。そして胡椒のフルーティーで且つ奥深く上品な味も素晴らしく、もう市販されている普通の胡椒では満足できません。この胡椒さえあれば他の味付けなんか一切不要。本当に極上な逸品です。名脇役ぶりに心酔。セントラルマーケットでバッタもんの貴金属を買うぐらいなら、ここで胡椒を買った方が断然良い。友人知人にも大好評のお土産でした。
※なおクラタペッパーの黒胡椒は、わざわざプノンペンまで出向かずとも、何とアマゾンで購入できちゃうんですね。
↓にリンクを張っておきますので、ご興味のある方はご覧くださいませ。
マスコット ライプペッパー -完熟胡椒- 34g
クラタペッパー 黒胡椒 ブラックペッパー


 
店頭では黒こしょうを使ったポップコーンや天むすも販売されており、一刻も早く倉田さんの胡椒を味わいたくなったので、迷うこと無く天むすを購入。ラベルに"TENMUSU"って書いてありますでしょ。ホテルに持ち帰って夜食としていただいたのですが、素晴らしい芳香と重層的な胡椒の味わいに、思わず「美味いっ」と唸ってしまいました。カンボジアの産物と名古屋グルメの見事なハーモニーに拍手。


 
クラタペッパーから63番通りを南下していると、「ザ・ラーメンキオスク」という店舗を発見。"JAPANESE SOUP NOODLE"とありますので、所謂日本風ラーメンのお店なのでしょう。 ちょうど小腹が減っていたので、興味津々入ってみることに。天井が高くて白基調の店内は、明るくて綺麗。各テーブルでは現地のお客さんが丼に入った麺をすすっていました。結構人気のお店なのかも。



オーソドックスなラーメンを注文。海外なので、正直なところ期待していなかったのですが、私の前に提供されたものは、驚くなかれ、本格的な豚骨スープの家系ラーメン。現地の味覚に合うようアレンジされているのか、一般的な家系のスープより少々軽いテイストなので、ガッツリ系が好みの方には少々物足りないかもしれませんが、ここ数年家系のスープに浮かんだ脂を見るだけでも胃が痙攣していた私にとっては、むしろその位が丁度良い感じ。大変食べやすく、とても海外で食っていると信じられないほど、日本と同じレベルの味であることに驚きました。一杯3ドルという安さも魅力的。日本人オーナーの方が厨房にいらっしゃり、退店時にはわざわざ玄関まで出てきて、挨拶してくださいました。美味しかったぜ。日本の庶民の味覚を、カンボジアの地にも根付かせてください。ごちそうさまでした。


 
食後にコーヒーが飲みたくなって、通りすがりにたまたま見つけたカフェへ。バンコンケン地区には瀟洒なカフェがあちこちにあるんですね。この時訪れたのは、高級住宅の中庭をお店にしたような緑と花々が麗しいカフェ。カプチーノとスイーツをいただきます。いい年こいたオッサンのくせに、甘いものは別腹なので、食後の甘味は欠かせません。旅の恥は掻き捨てと言わんばかりに、モデルに憧れるイモ姉ちゃんよろしく、ガーデンを背景にしてテーブルの上の様子をカメラに収めて、ニッコニコ笑顔を浮かべてしまいました。店内にはWifiが飛んでいますし、表の喧騒もここまで届きませんから、散策の休憩にはもってこいなお店でした。

先日このブログでトンレサップ湖のスピードボートを取り上げた際、川岸に佇む原始的な高床式住居や、湖上に浮かぶ水上生活集落、そして慎ましやかに暮らす人々について触れましたが、そこからわずか数百キロしか離れていない同じ国内にもかかわらず、このバンコンケン地区にはアジアの経済発展をしっかり享受しているかのような、小洒落た都市の街並みが広がっています。富の再配分がうまく機能していない発展途上国では、しばしば天と地ほど著しい貧富の差が生まれますが、このプノンペンという街はその落差が鮮烈に現れていることを実感しました。


 
貧富の差に言及したついで、それに関連する光景をもういっちょ。
バンコンケン地区からはかなり北へズレるのですが、王宮の西側、ノロドム通りと214番通りの交差点付近を歩いていると、ある建物の前で白い乗用車がひしめき合う一角に出くわしました。何かと思ってその建物を確認したら、堅牢なコンクリの外壁にはインターナショナルスクールと表示されており、頑丈なゲートの向こう側には中高生と思しき学生達が集まって、次から次に白い乗用車へと乗り込んでいました。つまり白い乗用車は生徒を送迎するために集まっていたんですね。良家の坊ちゃん嬢ちゃんが通っている学校なのでしょう。
私も世間からは「坊ちゃん学校」と揶揄される学校に通っていたので、他人様のことをどうこう言う筋合いは無いのですが、トンレサップの水上で小舟に乗って漁を手伝う子供や、街中で物乞いをする兄弟など、学校に通えず貧しい生活を送っている子どもたちがたくさんいる一方、こうして車で送り迎えしてもらえる子供もいるんですから、世の中って不思議なものです。公平や平等なんて概念は儚き理想にすぎないのでしょうけど、あまりに圧倒的な差を見せつけられると、どんな現実主義者であっても複雑な心境にならざるを得ません。ま、世の中ってそんなもんなんでしょうけどね。恵まれた環境に生まれたオイラって幸せだぁ…。


●リバーサイド
 
トンレサップ川のほとりはリバーサイドと呼ばれ、前回記事で軽く触れた王宮などの観光名所がある他、外国人向けのホテルやレストラン・バーなどが集まっており、観光客にとっては何かと便利な地区。私が2泊したホテルもこの地区にありましたので、滞在中は必ずこのリバーサイドを歩いたのですが、昼夜を問わず欧米系を中心に多くの外国人観光客で賑わっていました。


 
トンレサップ川に沿ったエリアは公園状になっており、外国人のみならず、市民の憩いの場でもあります。街巡りから戻ってきた夕刻、夕涼みがてら、川風に吹かれながらこの地区を散歩していると、クメール人の親子連れがキャッキャと元気にはしゃいでいました。公園と堤防をミックスさせたスーパー堤防のようなこの街並みは、日本の援助によって築かれたらしく、一角にはそのことを示す碑が立てられていました。


 
 

リバーサイド地区から川に沿って北上してゆくと、シェムリアップからのスピードボートが着岸直前に潜った大きな橋に行き当たりました。この橋は「チュルイ・チョンバー橋」、またの名を「日本カンボジア友好橋」と称するんだそうでして、その名の通り、日本の援助によって架橋されたもの。日本外務省のODAを紹介するページに、この橋が架けられた経緯やその後の経済・社会効果などが説明されていますので、ご興味がお有りの方はリンク先をご参照くださいませ。欄干のプレートや記念碑に記されている2005年には、この橋の改修が行われたようですが、なるほど、こまめな改修工事が求められるほど交通量は激しく、しかも片側一車線とバイクレーンしかないので、橋へ接続する周囲の道路では著しい渋滞が発生していました。経済発展に伴い、交通量が増加しており、この橋がボトルネックになってしまったんですね。この渋滞を解消すべく、現在の橋に平行する形で新しい橋がもう一本増設され、私が訪れた半年後の2014年9月に新橋梁が完成したんだそうです。橋を写した上画像には、新橋梁建設工事のための赤い大型クレーンが写っていますね。この新しい橋は中国の援助によって工事が進められたとのこと。近年のアジア各国における中国の存在感には圧倒されます…。


 

日没後、リバーサイドの北側にある「ブラウンコーヒー」というお店に入り、アイスのカフェラテで一息つきます。この「ブラウンコーヒー」はカンボジア版のスターバックスを目指しているといるんだとか。コロニアル様式を模した天井の高い店内は、木材やレンガを用いて落ち着いた雰囲気となっており、エアコンも効いていてWifiもしっかり飛んでいるので、居心地はすこぶる良好でした。

これにて2泊3日のプノンペン旅行記は終了。翌朝は早い時間に空港へ向かい、エアアジアの飛行機でクアラルンプールへ飛んで、マレーシアの温泉を巡ったのでした(マレーシアの温泉めぐりに関しては、既に拙ブログで記事にしております)。
2泊3日とはいえ、実質的には2日弱しか行動できなかったのですが、貪欲にガツガツと廻ったおかげで、予想以上にたくさんのポイントを巡ることができ、大変充実した時間が過ごせました。東南アジア独特のユルさに加えて、途上国らしい適当さ小狡さにも遭遇しましたが、プラスマイナスをひっくるめてこそ、旅って面白いんですよね。自由気ままに行動できるからこそ、一人旅はやめられないのだ…。

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プノンペンの街をせわしなく逍遥 前編

2015年04月11日 | 東南アジア旅行記
※今回の記事も温泉は登場しません。あしからず。温泉は次々回以降から再開する予定です。

根っからの貧乏性なのか、ひとつの場所に落ち着いて腰を据えられない性格の私。2泊したプノンペン旅行においては、前々回および前回記事で取り上げた「キリングフィールド」や「S21(トゥール・スレン)」の訪問が主目的でしたが、それ以外にもプノンペンの街をチョコマカと動きまわって広く浅く散策し、東南アジアの雑踏と熱気に包まれていました。

公共交通機関がちっとも発達していないプノンペンの移動は、自分の足でひたすら歩いた他、バイクタクシーを多用しました。バイクタクシーとは東南アジアでよく見られる移動手段であり、スクーターの後ろにタンデムさせてもらって目的地まで移動するものです。特に表示や制服などはなく、みんな白タク営業みたいなものですから、見慣れないうちは誰がバイクタクシーなのか見分けが付かなかったのですが、交差点の角や人がよく集まりそうな施設の前で、スクーターを止めながら通行人に視線を送っている人は大抵バイクタクシーであり、いかにも「乗らねぇか」と言わんばかりのアイコンタクトを送ってくるので、小一時間街歩きをするうちに判別できるようになりました。バイクにメーターなんかありませんから、乗車前に値段を交渉する必要がありますけど、市街の移動では1ドルで交渉成立。数は多いし気軽に使えたので、かなり重宝しました。
下の動画は、バイクタクシーから見るプノンペンの街並みです。


バイクタクシーと自分の足を使い分けながら、街のあちこちをせわしなく逍遥した記録を、簡単に綴ってまいります。


●王宮付近からカンダル市場にかけて
 
市街の中心部に位置する、アーティチョークを茶色く塗って巨大化させたような塔は、カンボジアがフランスから独立したことを記念して1958年に建てられた独立記念塔(なお国としての独立は1953年)。塔の周りは大きなラウンドアバウトになっており、バイクや車が隙間を縫うように入り乱れながら、グルグル回っていました。この画像はロータリーを回るバイクタクシーに乗りながら撮ったものなので、被写体が斜めになってしまいました。
この独立記念塔の近くには、共産国家みたいな妙にイデオロギー的臭いを漂わせる看板が立てられており、そこに記されていた言葉は全てクメール語表記だったので、意味がチンプンカンプンだったのですが、よく見ますと1953年や2013年という年とともに、独立記念塔と若き日のシハヌークと思しき肖像が描かれていますので、おそらく独立60周年を記念した装飾なのかと思われます。


 
 
プノンペン随一の観光スポットである王宮とシルバーパゴタ。名所であるらしいので、私も入場してみましたが、敷地内は中国大陸からやってきた団体客でごった返しており、騒々しさにうんざりして、早々に退散…。漠然と「広くて埃っぽかったな」と記憶しておりますが、具体的に何を見学してどんな感想を抱いたのか、よく憶えていません…。

私が街歩きをする上で最も好きなスポットは、庶民の生活と街の活気がダイレクトに伝わってくる市場です。地図を確認したところ、王宮の北側、私が宿泊しているホテルの近くにカンダルマーケットという市場があるらしいので、王宮を出た後はその市場へ歩いてみることにしました。下の動画はその際に撮影したものです。



 
 
市民の生活を支えるこのカンダル市場には、生鮮食料品はもちろんのこと、生活雑貨からバイクの部品に至るまで、実に多種多様なものが商いされており、活気に満ち溢れていました。後述するセントラルマーケットは外国人観光客も多く訪れていましたが、こちらに観光性は無く、生活色一色といった感じです。衛生観念をあまり気にしない小汚い環境と、無駄な愛想を振らずにマイペースで商売している店の人のユルさに、なぜか心の安らぎを覚える私。普段の東京での仕事に、相当疲れているのかな。


●セントラルマーケット
 
普段の拙ブログでは温泉をハシゴしていますが、この街では市場をハシゴしてみましょう。カンダル市場から西へ1km弱歩くと、フランス植民地時代に開設されたプノンペン最大のセントラルマーケットに辿り着きます。


 
明り採りの小窓が連続している、中央の黄色いドームがこの市場のシンボル。ドームの下では貴金属や時計、そして携帯などの電子機器が売られていました。広い構内には小規模な店舗が所狭しと並んでおり、似たようなお店が延々と続いているので、迂闊に奥へ奥へと踏み入れたら、方向感覚を失ってしまいました。このマーケットでは外国人観光客も多く訪れており、貴金属類を手に取って商談する光景が見られましたが、こんな市場で売っているものって本物なのかな。


 
 
市場といえば生鮮食料品。ご覧のように品揃え豊富。店頭には蔬菜や魚介などみずみずしい食材がどっさり積まれていました。東南アジアらしく香辛料もたっぷり。ポル・ポトの時代やその後の内戦時には、食糧生産が激減してみんな食うに困っていたわけですが、これだけたくさんの食料が店頭に並ぶようになったのですから、まだまだ国としては貧しいのかもしれませんが、昔と比べたらはるかに良い時代になったのでしょう。


 

市場をウロウロしているうちに日が傾き始め、お腹もすいてきたので、市場内の屋台で地元の人と溶け込みながら、目玉焼き付きのローチャー(カンボジアの焼うどん)とイカ焼きを夕食にしました。東南アジアの旅に、安くて美味い屋台飯は欠かせませんね。味は可もなく不可もなくといったところ。そこそこ美味かったかな。


 
上画像はセントラルマーケット西側の大きな交差点。往来が非常に激しく、バイクの波に呑み込まれになりました。街に漲る上昇気流のようなパワーが伝わってきます。

思いのほか内容が長くなりそうなので、この続きは後編へ。
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カンボジア現代史の暗黒 その2 S21(トゥール・スレン)

2015年04月09日 | 東南アジア旅行記
話の流れとしては、前回記事の続きとなります。

 
プノンペン郊外のチュンエクに存在したクメール・ルージュの処刑所、いわゆる「キリング・フィールド」を見学した後に、そこで処刑された人々が収容されていた政治犯収容所「S21(トゥール・スレン)」も訪問することにしました。ゲートの前で待たせておいたバイクタクシーに再び跨がり、土埃で煙る未舗装の凸凹田舎道をぴょんぴょん跳ねながら、プノンペンの市街へと戻ります。キリングフィールドから約30分で到着しました。
ゲートにて入場料(2米ドルだったはず)を支払うと、引き換えに3つ折のリーフレットが手渡されます。キリングフィールドとは異なり、こちらには残念ながら日本語資料は用意されていませんが、リーフレットの片面は英語表記により説明されていましたので、スマホの辞書と首っ引きで、順路に従い構内を見学することにしました。


 
収容所としては1976年頃に開設されたんだそうですが、元々ここは高校だったんだそうでして、なるほど構内の佇まいは収容所というより学校そのもの。原始共産社会を目指すクメール・ルージュにとって、インテリや知識を育む学校なんて無用の長物だったのでしょうね。校内、いや構内からは発展途上のプノンペンの街並みも望めます。校舎跡の建物に囲まれた広場は、学生が体育の授業で所狭しと走り回っていた校庭だったと思われます。


 
でも、学校だったら、塀にこんな有刺鉄線なんか必要ないですよね。有刺鉄線の支柱には、ケーブルを固定する碍子が取り付けられていますから、収容者の逃亡を防ぐために電流が流されていたのでしょう。なお敷地の外周は600m×400m。


 
元校庭だった広場の一角には白く塗られた石棺が並べられています。
ベトナム軍とその後押しを受けたカンボジア救国民族統一戦線(反ポル・ポト派)が攻勢をかけて1979年1月にプノンペンを占領すると、それまで秘密にされていたこの収容所の存在も明らかになったのですが、その際に収容所内で女性一人を含む14体の腐乱死体が発見されたので、この広場に搬出して葬られたんだそうです。これらの人々は、クメール・ルージュがプノンペンを放棄して遁走するに当たり、最後に拷問・処刑された人とされています。

その隣にある高い木柱は、元々体育の授業用に使われていたんだそうですが、収容所となってからは拷問用として転用されたんだとか(こんな高い器具を使う体育の種目って何だったんだろう…)。梁の部分には吊り金具が見えますが、具体的な拷問方法としては、後ろ手に縛って吊し上げて拷問し、気絶したら綱を下ろして汚い水が入ったに頭を浸して、意識が戻ったら再び上に吊るしあげて拷問を再開。これを何度も繰り返したんだそうです。人を吊って上下させると、柱にかなりの負荷がかかりますから、本当にここで拷問が行われていたならば、この構造物は意外と頑丈に基礎造りされていたことになります。


●A棟
 
構内にはA~Dの4棟があり、いずれも高校の校舎らしい3階建ての横に長い造り。まずはA棟から見学します。廊下や階段など、いかにも東南アジアの学校らしい趣きですね。


 
A棟は校舎としての構造がそのまま残されていて、1階は小さな教室が10室、2階と3階はそれより大きな教室が5つあり、各室において「反革命分子」に対する尋問や拷問が行われていたわけです。上画像のように、黒板が取り付けられた室内はまさに教室そのもの。でも入口左側の小窓に嵌められている鉄格子が、ただならぬ施設であることを示唆しています。



1階の小さな教室は6m×4mの寸法。収容所となってからは室内に拘束用ベッドが搬入されています。ベッドの上に乗っかっている鉄の箱は、汚物を入れるためのもの。飯なんかろくすっぽ食わせてくれなかったんでしょうから、出るものも出なかったのでしょうけど、それにしたって、トイレも行かせてくれなかったとは酷い話です。
なお上述の14人の遺体はこのような個室で発見されており、その当時の写真も展示されています。ベトナムと反ポル・ポト派がプノンペン占領した際には、ベトナムの従軍記者も同行しており、収容所の存在が白日の下にさらされると、政治的な宣伝目的もあったのか、発見時の内部の凄惨な様子が記録撮影されたようです。それにしても、無理やり濡れ衣を被せられた人が、目の前にあるベッドの上で非業の死を遂げたと思うと、その無念たるや如何許りか…。なお、拷問中の悲鳴が外部へ漏れないよう、窓はガラスで密閉されていたそうですが、状況が状況だけに、とんでもない悪臭が漂っていたのではないでしょうか。ましてや遺体発見時なんて…。



(画像をクリックすると拡大します)
この建物では当時の写真が展示されているのですが、全てを取り上げるときりがないので、そのほんのごく一部を紹介します。上画像の左上は「民主カンプチア」、いわゆるポル・ポト政権のリーダー達を写したもの。一番左にはポル・ポトの顔写真もありますね。右上は、ロン・ノル政権が崩壊してクメール・ルージュの勢力が権力を掌握した、1975年4月17日のプノンペン市街を撮影した写真の数々。進軍するクメール・ルージュの戦士たちを、プノンペンの市民が喜びの表情で歓迎しています。ベトナム戦争の余波を受けてカンボジアの国民まで犠牲になったり、その影響で農村が大打撃を受けて食糧難になったり、それでいて当時のロン・ノル政権は汚職まみれだったりと、どうしようもない国内事情でしたから、きっとプノンペンの人々にとってポル・ポト派は救世主に思えたのかもしれません。でもその歓喜が、まさか糠喜びどころか悪夢になるとは…。
ポル・ポトの施政下においては、都市民が一斉に農村へ強制移住させられたことも有名ですが、画像の左下および右下はその強制移住によって野良仕事をさせられている人々の様子を写した(あるいはイラストとして描いた)ものです。


 
(画像をクリックすると拡大します)
展示されている膨大な数の顔写真も印象的。
まず左(上)画像の左上と右上は、それぞれ男性と女性の顔写真がズラリと並べられており、おばさんの写真も数枚含まれているものの、大部分がティーンエージャーと思しき若者であり、番号札をつけておらず、微笑を浮かべる人もいることから、少年少女の看守達ではないかと思われます。クメール・ルージュといえば少年兵が有名ですが、権力者の都合によって洗脳されやすいティーンエージャーは、環境次第で大人顔負けの凄惨な行為を率先して実践する傾向にあり、それゆえ少年兵が残虐行為を積極的に働くという地獄絵図が繰り広げられてしまったのでしょうね。尤も、この少年看守達も、後々に非業の死を遂げることとなります。
一方、下半分に並ぶバストショットは胸に番号札を付けていますから、おそらく囚人として扱われた人々なのでしょう。

右(下)画像も囚人たちの記録ですが、番号札をはじめ、それを付けさせられた人々、そして処刑後の状況まで事細かに撮影されています。この収容所では、収容した人の写真や各種の調書、そして恐怖政治にはつきものの自己批判文が大量に作成されたんだそうでして、その当時の記録が今でも残っているわけです。収容所ですから、一応手続きとして記録をしっかり管理していたのでしょうけど、こんな詳細な撮影する余裕があれば、その分のリソースをもっと有意義なことへ回せば良かったのになぁ。
各室の床は白と橙色の市松模様となっており、当時の写真にもその模様が写っているのですが、私の足元にはところどころに赤黒いシミが残っており、これらはもしかしたら犠牲者の体から滴り落ちた当時の血痕なのかもしれません。


 
左(上)画像は収容された人々が身につけていた衣服。中には子供服もありました。右(下)画像に写っている演説台と思しき台には、なぜか黒いバッテンが付けられていたのですが、これってどういう意味?


 
たくさんの金属の輪が連続して取り付けられているこの器具は、間違いなく拘束具でしょう。拘束具の傍らにはポル・ポトの胸像が置かれ、その顔には黒いバッテンが記されていました。先程の演説台にも黒いバツが付せられていましたが、いずれもクメール・ルージュの撤退後に書かれたのでしょうね。それにしても独裁者って、洋の東西を問わず、みんな自分の像や肖像画をあちこちに飾りたがるものですよね。


●C棟
 
C棟もA棟と同じような外観ですが、教室としての造りが保たれていたA棟と異なり、こちらは収容施設として使えるよう、内部が改築されています。具体的には後ほど。
廊下のテラス部分には有刺鉄線が縦横無尽に張り巡らされていますが、これは絶望した収容者の飛び降り自殺を防ぐための措置なんだとか。


 
 
内部の改築とは、教室内を細かく仕切って牢獄にすること。元々教室だった室内にパーテーションを立てることにより、独居房が設けられたんですね。C棟の1階ではパーテーションの建材としてレンガが用いられています。一区画はおおよそ0.8m×2mとという狭さ。たとえ拘禁生活でなくとも、こんな空間で監禁されたら、どんな人でも衰弱しちゃいますよ。窓には鉄格子が嵌められている他、各区画には鎖も繋がれていました。なお室内に置かれた鉄の箱は汚物入れ。


 
2階の教室も独居房に改築されていましたが、こちらの仕切りには木材が使われていました。レンガだとコストや建築期間が嵩んだのかもしれませんね。小窓は差し入れや呼び出しなどで使うのかな。なお、もう1フロア上の3階は雑居房として使われていたそうです。


 
(画像をクリックすると拡大します)
拷問や処刑に使われた道具も展示されていました。各道具の上に掲示されたイラストによって、どのように使われたのか説明されています。


 
収容者の処刑は基本的に前回記事で取り上げたチュンエクの「キリング・フィールド」など、収容所の外部で行われたようですが、開所初期には敷地の裏手へ遺体が埋葬されており、またその調査でも敷地内でも数十の遺骨が発見されたようです。これらの遺骨は館内の一角で安置されており、室内には慰霊の鐘も設けられていました。

「キリング・フィールド」とこの「S1(トゥール・スレン)」の2ヶ所を見学したことにより、今回のカンボジア旅行は目的完遂。いずれの施設でも、人種や年齢を問わず多くの見学客が訪れており、みな一様に口を真一文字に結んで、それぞれが過去の悲劇に思いを巡らせていました。その思いは十人十色。さまざまな捉え方で、一つ一つを見つめていたのでしょう。
団塊ジュニア世代である私の誕生と軌を一にして、カンボジアではポル・ポトによる統治が始まっています。赤ん坊の私が本能の赴くままに母ちゃんのおっぱいの吸って、親の寵愛に育まれてのほほんと平和な生活を送っていた同じ時間に、この国では親と子供が隔絶されて、子供は強制労働に従事させられたり、あるいは恐怖心や服従心に煽られて残忍な少年兵となっていったわけです。そして大人たちも様々な言いがかりをつけられて次々に粛清され、地獄のような残虐な日々が繰り返されていたんですね。現地へ行ってその跡を見学すれば、きっと歴史に対する知識や理解が深まるだろうと考えていたのですが、むしろ見学したことにより、自分の人生とパラレルな時間軸で起こった惨劇が、却って理解できなくなりました。現実として黙視することにより、他人事として捉えられなくなったからかもしれません。たしかに狂気の沙汰であって、夥しい犠牲者達の心情を慮ると非常に気が重くなるのですが、一方で、もし自分が権力者側の立場に立っていたら、果たしてどうしていただろうか、あるいは疑心暗鬼の渦の中、いつ「反革命分子」扱いされるかわかったもんじゃない状況で、自分の命が危うくなった時、いつまでも正義を振りかざしていられるだろうか…。見学しながらそんなことを考えているうちに、すっかり頭が混乱してしまいました。歴史を振り返ってその暗黒部を糾弾するのは簡単ですが、しかしながら何事も単純な対立構造で理解できるものではないのでしょう。負の歴史を教訓にして、同じような歴史を繰り返さないのはもちろんのこと、日々の生活でも、その小さな相似形として現れるような現象、たとえば身近な組織における恐怖支配や理性の排除といったことを、できるだけ防いでゆくことが、結果として悪夢の萌芽を摘み取ることになるのかな、とぼんやり乍ら自戒したのでした。見学を通じて感じたことや言いたいことはたくさんありますが、全部述べていたらキリがないので、今回はこのあたりで留めておきます。

この2つの記事だけでプノンペン旅行記を締めたら、この街がとんでもなく陰鬱に映ってしまいますから、そうなる事態を打ち消すべく、重く沈んだ心を奮い起こし、次回記事ではぶらぶらと街を散策してみます。




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カンボジア現代史の暗黒 その1 キリング・フィールド

2015年04月07日 | 東南アジア旅行記
※今回の記事も温泉は登場しません。あしからず。
※この記事には一部の方に不快と感じられる画像がありますのでご了承ください。


昨年(2014年)のカンボジア旅行における最大の目的は、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)による惨劇の地を訪れることでした。いつもの拙ブログでは温泉ばかり取り上げておりますが、日本でも海外でも、訪問する先々では温泉だけでなく、ご当地のグルメを楽しんだり、四季を感じられる景勝を愛でたり、名所旧跡を巡ったり、各地の風土を知るべく民俗資料館へ赴いたりと、意外にもいろんなことを実践しています。そんな私の旅の中でも大きな目的のひとつとなっているのが、近現代史の史跡、とりわけ人類の負の側面を自分の目で見つめ直すこと。学生時代から今に至るまで、歴史の現場や各種資料館などを、国内外問わず訪れるようにしているのですが、そんな中でも以前から強い関心があったのが、ポル・ポトによるカンボジアの恐怖政治でした。
人類の悲劇は現在に至るまで世界中至ることで繰り返されているものの、数十万や数百万に及ぶような非人道的な大虐殺なんて第二次大戦以前の話であり、少なくとも団塊ジュニア世代の自分が生まれ育った世の中は至って平和で、そんな惨劇は過ぎ去った過去の出来事であると、青少年時代の私は思い込んでいました。しかしながら、学生時代に触れた書籍や映像資料によって、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)による大量虐殺や、中国の文化大革命など、自国の権力が自国民を虐殺していた事実を知った時は、それらが私の人生と同時代に、日本と同じアジアの地で発生していたことに大変衝撃を受けました。
日本にいる限りは、そのような悪夢をリアリティをもって掴むことができませんから、書籍や資料で調べるばかりでなく、実際に現地へ赴いて自分の目で確かめてみたい。文化大革命関係の史跡は、中国の共産党支配が続く限り、公に開放されることは期待できませんが、ポル・ポト関係については、プノンペンの施設などで観光客に対して公開されているので、現地へ旅行をすれば誰でも見学することができます。昨年ようやくカンボジアへ行く機会を得たので、それらの史跡を巡り、自分と同時代に起こった悲劇を感じることにしました。


 
現地催行のツアーに参加すれば、黙っていても希望の場所へ連れて行ってくれるのでしょうけど、いつものように私は勝手気ままな一人旅ですし、自分のペースでじっくり巡りたかったので、今回はツアーには申し込まず、自分で行くことにしました。でも現地までの公共交通機関は無いに等しく、決してプノンペンの街中から歩いて行けるような距離でも無さそうです。そこで、ホテルの傍で暇そうにしていたバイクタクシーに声をかけ、相手の言い値から半分に値切った10米ドルで、キリングフィールドと、次回記事に紹介するトゥール・スレン虐殺博物館の2箇所を巡って市街へ戻ってくるよう、お願いしました。いまにもぶっ壊れそうなポンコツスクーターの後ろにまたがり、ノーヘルのまんまでプノンペンの街中をぶっ飛ばします。

はじめのうちはいかにも都会らしい幹線道路を快走するのですが、徐々に街並みが田舎臭くなり、やがてバイクは幹線道路から離れて集落の中へと入って、土埃が舞い上がるバンピーな路地をぴょんぴょん跳ねながら進んでいきました。とても外国人旅行者が踏み入れるような場所ではないため、本当にこの道で正しいのか、もしかしたら誘拐拉致されちゃんじゃないか、キリングフィールドに向かう俺が殺されちゃうのかと、嫌な不安が脳裏をよぎるのですが、この場で降ろされても路頭に迷うだけですから、振り落とされないようにバイクをしっかりと掴んで、土埃まみれになりながら運命を天に任せる他ありませんでした。


 
バイクは決して私を拉致しようとしていたわけではなく、幹線道路を避けてショートカットする裏道を走っていたのでした。街中を出発して30分強で、第一の目的地であるキリング・フィールド、現在の正式名称「チュンエク大量虐殺センター」に到着です。キリング・フィールド(Killing Field)とは、その名の通り、ポル・ポト時代に人殺しが行われた現場の俗称であり、国内には無数の処刑場があったのですが、その中でもプノンペン近郊のチュンエクにある処刑場が最も有名で、且つ外国人旅行者の受け入れ体制も整っているので、こちらを訪れたわけです。
ゲート前の駐車場には大型の観光バスが何台も止まっていた他、私のように個人でバイクタクシーやトゥクトゥクなどをチャーターして訪れる旅行者も多く見られました。またゲート付近には売店や食堂などもありますから、現地までの足さえ確保できれば、他のことは気にせず訪問できるかと思います。


 
ゲートで料金を支払って入場します。ゲートの先ではオーディオガイドの貸出コーナーがあり、別途料金不要で利用可能。オーディオガイドはカンボジア語や英語の他、中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語など10ヶ国語に対応しており、日本語にも対応していました。機器の貸与とともに、日本語表記のパンフレットを受け取り、いざ園内へと歩みを進めます。


 
園内はとても綺麗に整備されており、南国の花々が彩りを添え、まさに美しいガーデンそのもの。本当にここが阿鼻叫喚の無間地獄だったのかな。


 
オーディオガイドに設定されている順番に従い、園内を反時計回りにめぐります。順路としては比較的初めの方で、上画像のささくれだった植物を目にすることになります。南国では特段珍しくもないヤシ科の木ですが、解説によれば、鋭い鋸歯状になっている木の葉を用いて、処刑の際に喉を掻っ切ったというのですから、何とも恐ろしい。この木が当時から生え続けているものであるかはわかりませんが、順路のはじめの方でこれですから、いきなり心がドヨーンと重くなっちゃいます。やっぱりここはガーデンなどと言う穏やかなところじゃないんだな。


 
こちらは450体の遺体が見つかった埋葬地。敷地内には遺体がまとまって埋葬されている区画がいくつもあり、その一部はこのように屋根掛けされ、四方を柵で囲われていました。柵や内部に見られる色とりどりの紐(ミサンガ等)は、犠牲者を霊を弔うため、訪問者が供えたもの。処刑場が発見された当時の写真も展示されています。


 
同じくこちらも大量埋葬地。左(上)画像は、166体の遺体が見つかったところで、ここの遺体は頭が無かったそうです。一方、右(下)画像は100体におよぶ子どもや女性の遺体が見つかった場所で、その多くは裸にされていたとのこと。


 
屋根掛けされた大量埋葬地以外にも、遺体が埋められていた(あるいは転がっていた)らしく、足元をよく見ていると、上画像のように骨が土に半分埋もれつつ、野晒しになっていました。


 
敷地内は発掘作業によってあちこち刳られており、通路部分を残してワッフルみたいな凸凹になっていました。その周囲に立つ樹々は、一見すると何気なく生えているように見えますけど、大きな樹は処刑場時代に何らかの機能を果たしていたようです。たとえば・・・


 
弔いの飾りがたくさん掛けられている左(上)画像の大樹。子供が処刑される際は、この木に叩きつけられたんだとか。クメール・ルージュの残忍性を語る上で、洗脳された少年兵の存在を見逃すことはできず、この地における処刑にも少年兵が大いに関わっているはずですが、子供が子供を木に打ち付けるだけの体力なんて無いでしょうから、もし本当にそのような殺し方が行われたのであれば、おそらく大人が手を下したのでしょう。子供を処刑するだなんて想像もできませんが、有名なミルグラム実験によって説明されるように、人間たるもの、彼らと同じ境遇に追い込まれたら、余程の強靭な精神を持たない限り、己に課せられた責務としてどんな惨いこともやってしまうのでしょう。私だって肝っ玉が小さくて自分がかわいい小市民に過ぎないのだから、もし自分がその立場にいたら…と想像すると、他人事として片付けることはできません。
一方、右(下)画像の菩提樹は"Magic Tree"と称されており、解説板によれば、この木に拡声器をぶら下げ、大音量を流すことによって、処刑者の悲鳴を掻き消していたんだとか。恐ろしいマジックだこと。



敷地内には華人の墓が数基残っていました。たとえば上画像の墓石には「祖 考国倫社公 妣如蓮洪民」という文字が2列に並んで彫られています。中華圏のお墓で「考…」は亡き父、「妣…」は亡き母という意味です。また左端には「一九六九己酉年十月初二日」と日付も記されていますので、すなわち1969年10月2日に、華人華僑の子供が両親のために建立したお墓ということになるのでしょう。この地が処刑場と化すのはそれから7~8年後。亡くなったご両親の御霊も、墓を建てた子どもたちの努力も、浮かばれたもんじゃありません。
こうしたお墓が当地に複数残っているということは、この処刑場は元々華人の墓地だったんですね。つまり、闇雲にこの場所が選定されたのではなく、華人という(東南アジアではしばしば恨みを買いやすい)余所者の墓地であったことが、処刑場にされた背景だったのかもしれません。


 
ところどころには上画像のようなガラスケースが設置されており、中には衣服が無造作に収められていました。言わずもがな収容者の衣服なのでしょう。本格的な遺骨発掘が一段落しているはずの今日でも、私が実際に見つけたように、骨が地表に現れるらしく、ガラスケースの上には、こうして見つかった骨が載せられていました。下顎の骨が見えますね。


 
こちらのガラスケースの中には、四肢と思しき数十センチ長の骨がたくさん収められています。


 
敷地の外縁部は緑の回廊となっており、並木の間から水郷地帯の長閑な景色が覗けるのですが、今からわずか40年にも満たない過去に、今自分がいる場所で想像を絶する凄惨な光景が展開されていたのですから、そう遠くない当時の様子を想像しているうちに気が非常に重くなり、目の前に伸びる木々の緑や田園風景ですらも、実はすべてに血塗られた暗い過去があるのではないかと疑い深くなって、虚実がすっかり判別できなくなってしまいました。いや、単に歩き疲れただけなのかもしれない…。この回廊にはベンチが設置されているので、そこに腰かけて休憩がてら、オーディオガイドに収録されている体験記のうち、順路と関係しない「生存者の証言」をじっくり聞きます。
ヘッドホンを装着していますので、機器から送られる音声しか聞こえないはずなのですが、どうやら私の背後からも子供の声が聞こえてくる。まさか処刑された少年の亡霊か、などとビクビク怯えながら後ろを振り返ったところ、金網越しに二人の兄弟が物乞いをしていました。金網のすぐそばに高床式の粗末な民家が建てられており、そこに住む家族が、目の前を通る見学客に対して手当たり次第に声をかけ、金網の隙間から手を伸ばしていたのでした。どんなところにも人の生活がある、腹も減りゃ金も欲しい、それが現実ってことですね。もしポル・ポト時代だったら、金網の向こう側から手を伸ばすこの兄弟だって、残酷な目に遭っていたかもしれません。落ち着いた世の中になって良かったじゃないですか。そう自分に言い聞かせて、鬱陶しい物乞いを無視し続けたのでした。


 
処刑所跡には広い耕作地が隣接していました。また足元ではニワトリのつがいが呑気に散歩していました。繰り返しになりますが、凄惨な地獄だったとは想像できないほど、実に長閑な田舎なんです。そういえば、以前私が旅をしたポーランドのアウシュビッツ収容所跡(現オシフィエンチム)も、まるで水墨画のようなとても牧歌的な農村だったなぁ。長閑な環境と狂気の世界は、実は背中合わせだったりして…。


●慰霊塔
 
順路を反時計まわりに巡った一番最後に、敷地の中央に聳える慰霊塔を訪ねます。


 
高い塔の内部には、ここで発掘された遺体の頭蓋骨が、幾層にもわたって納骨されていました。遺骨は性別および年齢別に区分されているのですが、その区分を見るだけでも、子供から老人まで老若男女を問わず、ありとあらゆる人々が情け容赦なく犠牲になったことがわかります。遺骨のみならず、収容された人々の衣類も収められていました。左(上)画像の衣類は、目隠しおよび子供の衣服なんだそうです。


 
左(上)画像は15歳から20歳までの若い女性の頭蓋骨、右(下)画像は40歳から60歳までの女性の頭蓋骨。不自然な穴があいていたり、罅や陥没が残っている骨があるのですが、それらはどうやら処刑の痕らしい。


 
処刑の道具も展示されていました。画像をご覧になれば、どのように使われたかは一目瞭然。それにしても、ずいぶんプリミティヴだこと。一人二人ならともかく、何人も殺害するにはかなり非合理的ですし、一撃で息の根を止めるには、それなりの技術が必要だったでしょう。当たり所を外したら、悶絶させちゃうだけですもん。となれば、ここに弔われている犠牲者たちは、死の恐怖はもちろん、死に至るまでも筆舌に尽くしがたい苦しみを味わったのかもしれません。



最後にミュージアムへ立ち寄り、クメール・ルージュの施政に関する各種資料や、当時の処刑所内の様子を描いたイラストを見学です(館内は撮影禁止でしたので、展示資料は写しておりません)。

さてこのチュンエクの処刑所は、プノンペン市街南部にある「S21(トゥール・スレン)」という政治犯収容所の付属施設であり、収容生活の最後且つ人生最後となる時に、無理矢理連れて来させられた片道切符の終着点でありました。それならば収容所はどのようなものであったのか、収容生活はいかなるものであったのか。当時の様子を知るべく、ゲートの前で待たせておいたバイクタクシーに再び跨って、今度は「S21(トゥール・スレン)」へと向かいました。

次回に続く。
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カンボジア トンレサップ湖のスポードボート(2014年) 後編

2015年04月05日 | 東南アジア旅行記
前編からの続きです。

 
果てしなく泥水が広がるトンレサップ湖の壮大な景色にしばらく感動していたのですが、泥水以外何も見えない風景にやがて飽きてしまい、退屈になって、座席に戻ってひと眠り。目が覚めてから舳先の景色を眺めたら、ボンヤリと陸地が見えてきました。もうすぐ湖から川へと入ってゆくのでしょう。湖上には小さな漁船がポツンポツンと浮かんでいました。


 
杭につかまりながら、湖底に立って足をモゾモゾ動かして漁をしている人を発見。立てるということは、それだけ水深が浅いんですね。乾季のスピードボートはしばしば擱座するそうですが、今回はそんな目に遭わないでほしいなぁ。
湖の幅が狭まって収束され、間もなく川になろうかという頃、向こう側から白波を立ててやって来る、シェムリアップ行のスピードボートと行き違いました。


 
ほとりには簡素な造りの高床式住居が点々と並んでいるほか、水上生活者の集落もところどころに浮かんでいました。水と人々の生活が非常に近接しているんですね。


 
 
トンレサップは水産資源が豊富なんだそうでして、日々のタンパク源を得るべく、沿岸の住民はこぞって舟を出して漁に繰り出ており、船上の景色から漁師達の小舟が消えることはありません。網を仕掛ける際にはフロートが欠かせませんが、こちらでは空き缶を浮き代わりにして網につなげていました。スピードボートはこの浮きの間を縫うように進んでゆきます。
漁師といっても、一人や親子で操業する自給自足タイプ。彼らに手を振ると、ほぼ100%の確率で、手を振り返してくれました。この地に人見知りという概念は無いのでしょう。嬉しくなって、人を見かける度、条件反射のようにこちらも手を振り続けてしまいました。


 
途中でいくつかの街を通過します。上画像の街では、荷物の積み下ろしか、あるいはマーケットが開かれているのか、河岸は多くの人で賑わっていました。港があるような街では、河岸や埠頭とつながる感じで、水上家屋がたくさん連なっていました。


 
トンレサップの豊かな水は、日々の食をもたらすだけでなく、交通路としても重要な働きをしています。インフラ整備がまだ不十分な国であるため、川を跨ぐ橋は架けられておらず、また陸上の道路もまだ整備が進んでいないのでしょう。大小様々な船が川面を縦横無尽に行き交っていました。まだ貧しい国だった数十年前の日本も、きっとこんな感じだったんだろうなぁ。


 
街を抜けると再びジャングルの中へ入ってゆきます。ディズニーランドのジャングルクルーズみたい。みんなを楽しませてくれる饒舌な船長はいませんが、そのかわり我々と一緒に出発地点から乗り込んでいる売り子のおじさんがおり、退屈凌ぎに彼からパンを買って、空いた小腹を満たしました。尤も、おじさんはパンと水程度しか扱っていないので、もしこの船を利用する場合は、乗船前(というか前日)に水分や軽食を確保しておいた方が良いかと思います。


 
トンレサップ川で意外と多く見られたのが、子供たちだけが乗る無動力の小舟です。10歳前後と思しき男の子が櫂を漕いで、雄大な大河をのんびりと行き来していました。みんな元気いっぱいに手を振ってくれるので、ついこちらも嬉しくなり「なんて長閑で微笑ましい光景なんだろう」と目尻を下げたくなりますが、ちょっと冷静に考えますと、あまり喜ばしい話では無いのかもしれません。と申しますのも、日本の外務省公式サイトには「諸外国・地域の学校情報」というページがあり、これによればカンボジアにおける「2011年の就学率は小学校で約69%、中学校に至っては約17%と極端に低くなっているのが現状」なんだそうでして、「特に地方農村部では子供が貴重な労働力となっているため、義務教育課程においても、出席日数が足りずに留年する児童も多くなっている」という、経済力の弱い国にありがちな環境なんだとか(※)。学校がお休みであるならば、子どもたちが昼間に船に乗っていても構わないのですが、この日が休日でなかったならば、あの子たちはそのような事情で学校に行けない状況にあることが推測されるわけです。21世紀に入ってもう15年は経とうとしているのに、学校へ行けない子どもたちがまだまだ沢山いる現実を目の当たりにしたのでした。
(※)外務省「諸外国・地域の学校情報」内にある「カンボジア王国」のページより一部抜粋。


 
出港して5時間40分が経過したところで、この船旅ではじめて橋を潜りました。橋が架かっているということは、都市が近づいてきたってことなのでしょう。
シェムリアップからここまで200キロ以上離れているはずですが、その間に橋がひとつも架けられていなかったとは、橋梁や高架橋だらけの日本に住む私にしては驚きです。架橋もままならないほどの国情なんですね。経済力の問題もさることながら、今から30年前にはインテリや技術者が根こそぎ粛清されちゃっていますから、外国の技術援助が無いと、大規模な土木工事は難しいのでしょう。


 
両岸に建ち並ぶ民家は、湖畔や上流の川岸で見られた貧相な高床式住居ではなく、カラフルでがっちりした造りの立派な建造物が増えてきました。屹立する高圧鉄塔も都市らしい風景です。


 
川の上流では家族で営む自給自足的な漁ばかりでしたが、都市に近づくに連れ漁業のスタイルも変化し、漁網や仕掛けが大規模になり、人員も多くなってきました。



コンクリで頑丈に護岸された丘の上には、工場が建ち並んでいます。


 
おお、前方に架かる橋は、日本の援助によって建設された「日本友好橋」ではないか。ということはプノンペンの街に入ったってことだな。


 
橋を潜ったスピードボートは速度を落とし、徐々に岸に近づきながら、スラスターを回して船着場へと接岸しようとします。既に船着場の上では、トゥクトゥクの客引きが手ぐすね引いて待っていました。


●プノンペン上陸

シェムリアップを出発してから7時間で、ようやくプノンペンに到着しました。約300kmの船旅。ひゃーー。長かった。大型フェリーでしたら、7時間の乗船でも苦になりませんが、小型のいわゆる交通船でこの乗船時間はかなり長く感じられます。尤も、私はシートに着席しているよりも、デッキなどで寝っ転がっていた時間の方が長かったので、座り疲れるようなことはありませんでしたし、内水面ですので揺れることも無く、船酔い等とも無縁でした。でもデッキで南国の陽光をモロに浴びてしまい、顔が真っ赤に灼けてしまいました。その晩、シャワーを浴びる際に悲鳴を上げてしまったのは言うまでもありません。


 
 
スピードボートの船着場は、外国人向けのレストランやバー、そしてホテルなどが集まるリバーサイド地区にあります。私はこのリバーサイドの一角にあるホテルを予約していたので、しつこいトゥクトゥクの客引きをかき分けながら、歩いてそのホテルへと向かいました。

シェムリアップからプノンペンまで、バスと同程度かそれ以上の時間を要するのに、料金はその数倍もかかるスピードボートは、時間や旅費を節約したい旅行者には不向きかもしれませんが、水面だからこそ得られる景色、人々の生活、そして笑顔を楽しめ、移動そのものが旅の醍醐味であることを再認識させてくれました。


コメント (2)
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