温泉逍遥

思いつきで巡った各地の温泉(主に日帰り温泉)を写真と共に紹介します。取り上げるのは原則的に源泉掛け流しの温泉です。

金門島旅行 その4 風情ある閩南建築に泊る 慢漫民宿

2015年09月30日 | 台湾
 
一泊二日の金門島観光でお世話になったお宿は、島の南西部にある珠山集落の「慢漫民宿(Piano Piano B&B)」という小さな民宿です。某大手宿泊予約サイトから予約しました。こちらの民宿は金門島で多く見られる伝統的な建築様式「閩南建築」の古い建物を、現代的なニーズに合うようなスタイルの宿にリノベーションしたものです。集落の美観を護るためか、宿の看板は立っておらず、軒先に立つイーゼルに掲げられた小さなボードだけが宿としての存在を示す唯一の目印です。


 
 
国共内戦以来長い年月にわたって最前線だった金門島は、厳しい軍政が敷かれたため開発行為が及ぶことなく、台湾の人間ですら自由に入境することができなかったのですが、その閉鎖性が却って昔ながらの街並みを残す結果となり、島内には台湾や大陸から消えてしまったような昔ながらの姿を残す古民家集落が点在しています。とりわけ今回泊まった珠山集落は美しさが際立っており、中央の池を囲むように伝統建築の民家や民宿が軒を連ねています。集落としての歴史は650年前まで遡り、明の時代に大陸から渡ってきた薛氏が開いたのが端緒なんだとか。
私は伝統建築に関して全くの門外漢なのですが、この集落に建つ建築物の屋根には2種類に分かれており、両端が反り上がっているものもあれば、水平を保ちつつ妻面で丸みを帯びているものもあります。当然ながら何らかの意味があるのかと思われますが、私の泊まったお宿の屋根は後者でした。中央の池は生活用水の確保としての意味はもちろん、風水的にも重要であり、この池には複数の沢が流れ込んでいることから、「聚水生財」(水を集めて財を生む)として縁起が良いんだそうです。
この集落の特徴として特筆すべき点は、古い建物がそのまま残っていることはもちろんのこと、広告看板や商店のサイン類、電柱や電線など、他の風致地区では嫌でも視界に入ってきてしまう現代的なものが一切無いのです。電線はすべて地中化していますし、集落内で営業する民宿の看板も必要最低限に留めています。民宿に関しては、国家公園が伝統家屋を民宿へ改修するために必要な費用を全額負担し、工事完成後に一般公募で運営管理者を選定して、宿泊業収入を国家公園と運営管理者で分けるというスキームを採用したんだそうです。つまり、行政と民間がタッグを組んで、現在の素晴らしい風致が生み出されているんですね。
金門島に限らず、近年の台湾観光業界のアイディアや施策には、目を見張るものがあります。日本の観光関係者は是非金門島へ視察に出かけるべきです。視察名目で公費を浪費し遊び呆け、夜の街に繰り出してお姉ちゃん相手に鼻の下を伸ばしている場合ではありません。


 
建物は石材と赤レンガを積み上げてつくられており、各家屋とも材質がほぼ共通なので、集落全体が統一した美しさを生み出しています。風水の関係で気の通り道という意味なのか、いくつもの出入口があり、その周りを彩る装飾が実にカラフルで美しく、彫刻的な装飾のみならず、故事を描いたと思しき絵画まで施されており、非常に繊細です。扉の左右や欄間などに記されている言葉は、きっと縁起の良い語句なのでしょうね。


 
お宿の建物は四合院のようなロの字をしており、玄関ホールを通り抜けて中庭を抜けた向かい側には応接室があり、宿泊客が自由に歓談できる空間となっていました。コントラストの鮮やかな色使いは伝統様式に則っていますが、その室内に置かれたファブリックは極めて現代的。明清時代の文化と現代のセンスが見事に融合しています。
チェックインした際に対応してくださったお宿のおばさまは、大変上品で物腰が柔らかく、英語が話せたので手続きもスムーズ。微笑みを絶やさず接して下さいました。


 
梁や欄間などに施された透かし彫りの彫刻や、春夏秋冬を描いた襖絵など、宿の内部の細部に至るまで施された細工も実に秀麗。宿全体が美術館のようです。観ていて飽きることがありません。鮮やかな瑠璃色とベンガラ色の対比も素晴らしいですね。


 
さて今回私が泊まった客室へ。観音開きの扉には貼られている「和気致達」とは「穏やかな気持ちでいれば自ずと幸せになる」という意味であり、寛ぐ空間に相応しい良い言葉です。オレンジ色に塗装された室内は、伝統的な外観とは打って変わって、若いカップルが喜びそうなレトロと現代感覚をミックスさせたようなインテリアです。綺麗に清掃されている室内には天蓋付きのベッドがひとつ設置され、エアコンやWifiが完備されてます。



天蓋付きベッドではクッションとともに、こんなぬいぐるみが仲良く肩を寄せあっていました。決してここはラブホテルではありません。伝統家屋を活用した純然たる民宿です。でも台湾からの若いカップルが小旅行として利用するのでしょうね。尿酸値とコレステロール値の高さを医者に指摘されている私のような中年太りのオッサンが一人で泊まるには、いささか不釣り合いかもしれませんが、でも部屋の雰囲気が良く居心地が素晴らしかったので、むしろこのぬいぐるみですら、心の底から可愛く見えてきます。



天井の高いお部屋なのでロフトがあり、そこにもベッドが敷かれていました。ロフトにもエアコンが取り付けられていました。天蓋付きのベッドよりロフトのベッドの方がはるかに広いので、天蓋の方はあくまでイチャイチャするためのもので、実際に「寝る」のはこっちなのかな。オイラは一人旅だから関係ないけどさ…。


 
鏡台にはお茶のセットが用意されていました。2双備え付けられているサンダルの色から察するに、やっぱりカップルで利用することを前提にしているのかも。棚に並べられたぬいぐるみなんて、まさに女の子を意識していますね。一時期台湾や香港などアジア圏で流行った我が日本生まれの「たれぱんだ」は棚の最上段を陣取っていました。
室内にテレビは無いのですが、そのかわりぬいぐるみ達の下にミニコンポが置かれており、私が室内にいる時は、ジャズを流すFM局にチューニングして、一晩中音楽を聞いていました。こうした昔ながらの家屋に泊まるときは、テレビでなくラジオの方が似合います。


 
伝統家屋で過ごしていることを実感してもらうためか、部屋の扉は昔ながらの木板の観音開きですし、その扉を閉じる際には閂(かんぬき)をはめ込んで、南京錠で施錠します。電子ロックはマスター側の操作一つで開いちゃいますけど、閂だったら物理的に外側から開けられませんから、意外にも伝統的なシステムの方が堅牢なのかもしれませんね。



伝統建築のお宿ですが、水回りはとても綺麗で極めて現代的です。シャワールームにはちゃんとパーテーションがありますので、台湾の田舎の宿でありがちな、シャワーを浴びたらトイレまでビショビショになっちゃうようなことはありません。シャワーの水圧も良好。しかもトイレはウォシュレット付きです。古い建物だからといって、使い勝手を我慢する必要は無く、快適に過ごせるんですね。素晴らしい!


 
B&Bスタイルの民宿ですから、夕食は出ませんが、朝食は提供されます。宿のおばさまが笑顔で「早安」(おはよう)とご挨拶。晴れた日は屋外でいただけるのでしょうけど、この日は小雨がそぼ降るあいにくの天気でしたので、集落の景色が眺められる屋内でいただきました。内容としては純然たる中華式であり、豆漿、鶏のミンチ入りのお粥、揚げパンの3点。お粥はおかわり可能なので、2杯いただきました。食後には甘みの強い台湾バナナが出されたのですが、そのお皿にはジャスミンの白い花が添えられ、朝の食卓にさわやかな香りをもたらしていました。

静寂に包まれた珠山集落は、時間の流れがとてもゆったりしており、まるで水墨画のような幻想的な情景に溶け込めたひと時は、わずか一泊したなのに、その数倍もの時間を過ごしたかのような寛ぎと安らぎを得られました。周囲には商店や飲食店が無いため、買い物や夕食などは金城などで済ませておく必要がありますが、その程度の不便さを許容してでも滞在する価値が、この地区にはあるように思います。古きものを大切にしながら、きちんと現代的ニーズにも応えるという、伝統伝承と現代文化のベストミックスに出会えました。本当に素敵な時間でした。金門島の古い集落にはこのような古民家の民宿がたくさんありますので、他のお宿ではどのような空気感に出会えるのか、是非体感してみたいところです。

慢漫民宿
金門県金城鎮珠山75号
0988-182-832
ホームページ



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金門島旅行 その3 金城老街と中華民国の福建省政府

2015年09月29日 | 台湾
前回記事の続編です。



●金城老街
 
 
古崗から乗り込んだ6番の路線バスは、スカイブルーのジャージを着た下校中の中学生で満員。みんなバスのドライバーさんと顔なじみのようで、各集落で止まっては、二言三言お喋りを交わしてから下車してゆきます。
20分弱で金城バスターミナルに到着です。ターミナル前のロータリーには蒋介石の銅像が立っていました。この記事を書きながら改めて銅像の画像をじっくり見てみたら、立像下の台座には「民族救星」、その周りの赤い立て札には「島城隍」の4文字が躍っていることに気づいたのですが、つまり蒋介石は中華民族にとって崇拝すべき救いの神であり、そして島(金門島の旧称)にとっての城隍神(都市の守護神)なのである、と銅像を立てた人たちは訴えたかったんですね。「台湾正名政策」が進められて以降、中正空港が桃園空港と改称されたように、台湾島では蒋介石(中正)の存在感が徐々に薄れていますが、この島ではそんなことはどこ吹く風。いまでも蒋介石は英雄視されているようです。何気なく撮った画像に、えらくイデオロギー性が強くて時代錯誤なメッセージが写っていたことに驚いてしまいました。やっぱりこの島は国民党にとって死守すべき牙城なんだなぁ。


 
県政府の所在地であり、島で最大の街でもありますから、車も人通りも多く、街としてそれなりの活気や盛り上がりが感じられるのですが、街としての規模は、関東や関西で急行か準急が止まるようなクラスの私鉄駅周辺と大して変わらないか、それより田舎臭いかもしれません。
上画像はバスターミナル前の街並みです。台湾の街並みには多少なりとも日本の面影や影響があり、我々日本人旅行者としてはそこに郷愁を感じたりするものですが、戦前に日本の統治下になかった金門島は(戦時中は日本軍に占領されましたけど)そんな日本臭が微塵も無く、台湾施政下でありながら、台湾とは明らかに違う雰囲気に強い異国情緒を覚えました。


 
 
バスターミナルの西側に広がる金城の老街(むかしからの街並み)は、まるで中国映画の世界に紛れ込んだかのような佇まいなのですが、とりわけ目を惹くのが「模範街」と称する通りです。長さこそ75メートルしかないものの、赤レンガで統一された街区は息を呑む美しさであり、通りに面した左右に連続する回廊状のアーチと、バロック建築を思わせる2階部分のバルコニーが非常に印象的です。
通りの入口に掲示されていた説明によれば、1925年に金門商会会長の伝錫という人物が、金門で影響力の強かった華僑から資金を集め、東南アジアのコロニアル様式を模したファサードの街区を作り、以前からの街区名を変更して「模範街」と名付けたんだそうです。


 
 
模範街の周りには庶民的な低層住宅の老街が広がり、迷路のように複雑に入り組んだ狭い路地を入ってゆくと、いきなり視界がひらけて露天商のお店や井戸の広場などが現れました。角を曲がる度にフォトジェニックな光景と出会えるので、しばらくは敢えて狭い路地に入って辺りを彷徨い続けました。


 
こちらは「模範街」の先から北東へ伸びる莒光路の商店街。いまにも崩れそうな陋屋や小規模店舗が隙間なく並んでいるのですが、そんな間に古いお寺があって、周囲の飲食店から漂う炒めものの匂いと一緒に、お線香の香りも混ざって香ってきました。
大陸との緊張はかなり緩和されているとはいえ、対立が完全に解消されたわけではなく、お互いに軍事演習等を行ったりして牽制しあっていますから、今でも島は台湾を防衛する重要な軍事拠点です。時の流れが止まっているかのようなくすんだ色合いに支配された古い商店街を散策していると、迷彩服を纏った兵隊さん達と何度も行き違いました。休息の時間だったのかな。


 
金門島は数次にわたって大陸から砲撃を受けており、とりわけ1958年の金門砲撃戦では47万発もの砲弾が雨のように「降って」きたそうですが、さすが中華圏の人間は商魂逞しく、転んでもただでは起きません。無数に残った砲弾を集めて、その鉄で包丁をつくり、よく切れるとして今や金門の名物として名を轟かせているんだとか。上画像はそのお店で、店頭には砲弾のイミテーションが置かれていました。
でも子供の頃から屁理屈を捏ねて大人たちに煙たがられていた私としては、お店を目の前にしてちょっとした疑問が頭をもたげてきました。というのも、金門砲撃戦が行われた頃の中国大陸ってマトモな鋼鉄を生産できていたのかな。58年の砲撃戦直後に大陸では大躍進運動がはじまり、悪名高き土法炉から使いものにならない粗悪なクズ鉄が生産されたわけですが、58年以降も砲撃は行われたわけで、その当時の劣悪な鉄の弾が金門島へ飛んできたとして、そんなダメダメな砲弾を材料にして包丁つくっても、ベコベコになったり刃がボロボロになったりして、使いものにならないんじゃないのかな。そもそも鉄に焼きを入れても、包丁として必要な硬度は得られないんじゃないのかな…。ま、素人の余計な詮索はやめておきましょう。


●中華民国の福建省政府
現代日本人の知識として、現在の台湾=台湾省=中華民国という図式ができあがっており、民進党の陳水扁が総統になる以前は中華民国=国民党でもありました。しかしこの金門島は中華民国の施政下ですが、台湾省ではなく福建省に属しており(それゆえ戦前は日本統治下ではなかったんですね)、なんと金城には中華民国の福建省政府があるんです。つまり国民党は大陸から撤退した後でも、2つの省を支配していたことになります。見方を変えれば、福建省は大部分を共産党が、わずかな島嶼を中華民国が、それぞれ分割して統治しているわけです。そこで、かならずしも中華民国=台湾ではない事実を自分の目で確かめたく、金城の街外れにある中華民国の福建省政府を見学しに行くことにしました。

 
金城老街の西側をぐるっと囲む民族路を歩いていると、街路灯の支柱に「福建省政府」の場所を示すささやかな標識が貼り付けられていました。街の景色を眺めていたら見逃しちゃうほど小さなものです。この標識に従って、金城国民中学の角を曲がり海岸の方へ向かうと・・・


 
「福建省政府」と記された大きなゲートが立っていました。中華民国88年(1999年)元月穀旦(1月吉日という意味)という日付とともに、当時の総統であった李登輝の名前が併記されています。このゲートを潜った先には・・・


 
ひと気の無ければ緊張感も無い寂しい広場にS字型のメタリックなモニュメントが置かれ、その奥に3階建ての地味なビルが建っていました。病院のようでもあり、地方裁判所のようでもあり、はたまた警察署のようでもあり、とにかく精彩に欠くのっぺりとしたファサードですが、これこそ福建省政府の庁舎であります。


 
車寄せの庇にはゲートと同じく「福建省政府」の5文字とともに、「李登輝 中華民国88年元月穀旦」の文言が記されており、真正面の屋上では青天白日旗が潮風に翻り、その真下には「閩」の字を8つの黄緑色の円が囲むエンブレムが掲げられていました。北京は「京」、上海は「滬」、山東省は「魯」、広東省は「粤」といったように、中国では代表的な地名を一文字で表しますが、福建省を示す一文字は「閩」ですから、まさにこのエンブレムこそ中華民国福建省の省章なんですね。

前回記事でも触れたように台湾へ退却した後の国民党は「毋忘在莒」のスピリッツで、台湾や金門島などを戦国時代の斉の莒になぞらえながら「光復大陸」を本気で目指しており、俺達中華民国こそ中国全土を統治すべき正統政権なんだ、共産匪賊に奪われた大陸をいずれは奪回してやるんだ、と外省人は鼻息を荒くして臥薪嘗胆の日々を送っておりました。ついでに言えば、国民党にとっての中国の正式な首都は南京であり、北京は「京」じゃないということで、かつての国民党は北京を「北平」と称しておりました。その名残なのか、いまでも台湾各地には「北平路」という街路がありますよね。
しかし、時代はめまぐるしく変遷してゆき、今まで後ろ盾だったアメリカが中国共産党政権と国交を結ぶようになると、いよいよ形勢不利となって「光復大陸」は実質的に夢物語となり、蒋介石ジュニアの蒋経国が糖尿病をこじらせてあの世へ逝って、副総統だった本省人の李登輝がピンチヒッターとして総統に就任した頃から、「反攻大陸なんて言わず、民主化を図ってもっと台湾本位の現実的な政治体制にしましょうよ」ということで、民主化を推進したり、万年議員を排除したりと、改革が次々に進められてゆきました。こうした流れの中で行政のスリム化が図られ、その一貫として1998年には「虚省化」が実施され、中華民国において台湾省や福建省といった「省」は有名無実化(事実上廃止)されて、地方行政機関としての機能は失われて形式的な存在になっていきました。

前置きが無駄に長くなりましたが、つまりこの福建省政府は早い話が、今では有っても無くてもどっちでも良いようなバーチャル的な存在であり、それゆえ省政府なのに地味で質素で主張が控えめで、ひと気も無ければ物々しい警備も無いわけです。ただ完全に消してしまうと、まだまだ大陸に強い執念を抱く国民党の保守派外省人がうるさいのでしょうから、省政府の機能凍結と同じタイミングで、形式的とはいえ、敢えてこのような象徴的存在を残したのでしょう。下衆の邪推にすぎませんが、この庁舎をわざわざ対岸の廈門(アモイ)を臨む街はずれの海岸沿いに建てたのは、共産党への対抗意識ではなく、一応建前としての「反攻大陸」を意思表示するための、国民党内部に対するエクスキューズなのかもしれません。

あくまで余所者の私が勝手に抱いた感傷なのですが、ゲートや玄関に記された民国88年(1999年)という年号や「李登輝」の名前からは、自分の理想とする政策を進めて台湾と本省人のことを大事にしながら、総統として国民党保守派の気持ちも尊重しなきゃいけない、現実を直視しながら建前も守り、あっちを立ててこっちも立てて…という当時の李登輝が払った涙ぐましい苦心の跡が感じ取れました。当時の李登輝さんは、金門砲撃戦の砲弾にも匹敵するぐらい身内や他所から攻撃を受けて、胃が穴だらけだったのではないでしょうか。

そんな無知蒙昧な妄想を勝手に抱きながら私が画像を撮っていると、中から役人らしい人が数名退出してご帰宅の様子。その後ガードマンさんが正面玄関のシャッターをガラガラと閉めていきました。役所として大した機能は有していないものの、一応勤めている職員はいらっしゃるようです。北京の方では「一つの中国」論を正当化するため、全人代に「台湾省代表」の席を設けていますけど、同じ形式的なものとはいえ、北京みたいな完全に空虚なものではなく、こちら側はちゃんと省の統治領域があり、職員が勤務する庁舎まであるんですから、はるかに現実的じゃないですか。ウェブ上には省の公式サイトまであるんですよ。


 
福建省政府の目の前に「雄獅堡」と称する小さな砦を発見。島内にいくつもある要塞の一つなのでしょう。名前こそ勇ましいのですが、内部は小さな公園として開放されており、公衆トイレがあったので、用を足すついでに園内へ入ってみることにしました。


 
砦は海岸に面しており、海に向かって対戦車砲が設置(展示)されていました。火砲の下の砂浜に並べられている長いトゲトゲは、敵の揚陸艇の上陸を防ぐためのバリケードみたいなものです。


 
兵隊になったつもりで防盾の覗き窓から砲身の先を眺めてみたら、沖に浮かぶ小金門島の先の対岸に、大陸側である廈門(アモイ)の高層ビル群がズラーっと並んでいるではありませんか。この時は小雨が降っていたので視界が悪く、デジカメの画像ではわかりにくいので、画像に手を加えて高層ビル群を際立たせてみましたが、実際には視界が霞んでいても、はっきりと廈門の街並みが肉眼で見えるのです。こんな至近距離で国民党と共産党は敵対し合っていたのか…。戦時の緊張していた当時を想像したら、恐怖のあまり思わずその場で身震いしキ●タマが縮み上がってしまいました。



私が身震いした景色の位置関係を図示するとこんな感じになります。


 
街を散策しているうちに日が暮れ、雨脚が強くなってきたので、再び老街に迷い込んで、いかにも古そうな廟に隣接している小さな食堂に飛び込み、海鮮の鍋をいただくことにしました。島ですから魚介の幸は豊富なんですね。店内は地元民でほぼ満席状態。家族経営の店らしく、中高生と思しきジャージ姿の姉と弟が給仕に大活躍。お姉さんは学校で習った英語を懸命に思い出しながら私の注文を聞きとり、弟くんは柔和な表情で鍋をもってきてくれました。決して有名店ではなく派手さもありませんが、金門の庶民生活に触れられた印象深い繁盛店でした。

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金門島旅行 その2 翟山坑道(地底の水路要塞)

2015年09月28日 | 台湾
前回記事の続きです。

今回記事の行動範囲は以下の地図で示した通りです。


 
金門空港からタクシーでこの日の宿がある島南西部の珠山集落へと向かい、宿に荷物を下ろしてから、日没まで周辺を散策することにしました。なお珠山の宿はとっても素敵でしたので、後日改めてご紹介させていただきます
路傍で草をはむ牛を眺めながら、静かでのどかな道を歩いていると・・・


 
 
藪に隠れるように佇む背の低いコンクリ躯体が目に入ってきました。脇に立っている看板には「青山排戦門 射撃場」と書かれています。その見た目と名前から推測するに、トーチカのようなものでしょう。その傍には塹壕のようなものもありました。のどかな景色の中にいきなり現れたので驚きましたが、さすがつい最近まで国共対立の最前線だっただけあり、島中この手の施設だらけなので、島を巡っているとやがて感覚が麻痺し、きな臭い施設を見ても何とも思わなくなるのが不思議です。


 
珠山集落から歩き始めて20分ほどで、戦車が静態保存されている広い駐車場に行き当たりました。金門島の有名観光地であり、最前線だった当地の象徴でもある「翟山坑道」のエントランスです。
・翟山坑道 8:30~17:00 入園無料


 
構内は公園としてきれいに整備されていますが、そもそもここは防衛上の重要拠点だったため、そのことを伝えるべく小型の上陸艇や高射砲などが展示されていました。どんな意味で重要だったのかは後ほど。


 
坑道という名前の通り、ここではトンネルの内部に入って見学します。坑口にはヘルメットが用意されており、入場者はこれを被ることになっているらしいのですが、実際に着用している客は皆無でしたので、面倒くさがり屋の私もかぶりませんでした。


 
坑口には大陸反抗のためのスローガンがビッシリ。「毋忘在莒」のために肝要な精神として、堅忍不抜、団結奮門、研究発展、以寡撃衆、主動攻撃、防諜欺敵、軍民合作という七箇条が列挙されていました。「毋忘在莒」(莒に在ることを忘るるなかれ)という語句は、金門島のみならず台湾でも国民党イデオロギーの名残がある施設でしばしば見られますが、これは紀元前の中国戦国時代、燕に滅亡ギリギリのところまで追い詰められた斉という国が、現在の山東省の莒という場所で耐え忍びながら何とか体制を立て直し、知将の田単によって形勢を逆転させて、見事領地の奪還に成功したという故事に基づいて、国民党版レコンキスタを実現させるために蒋介石が唱えたスローガンであります。余談ですが「毋忘在莒」と「光復大陸」から一文字ずつ採った名前が、台鉄の「莒光号」なんですね。


 
ヘルメット置き場の前にも「領袖国家」「責任栄誉」なんて言葉が躍っていました。その精神を胸にしてミッションに取り掛かれ!ということなんでしょうね。日々をのんべんだらりと生活している私には縁遠い言葉だこと…。


 
先行する団体客の賑やかな歓声が響く中、湿気たっぷりの坑道の階段を下りてゆきます。階段の途中には「戦備貯水池」と称するコンクリの水槽がありました。


 
階段を下りきると、左右に幅の広いトンネル水路が伸びており、坑内はレインボーカラーのLEDでライティングされていました。
この坑道が掘られたのは、大陸から無数の砲弾が雨のように降ってきた金門砲戦(1958年)の後の民国52年(1963年)。中共が再び猛攻を仕掛けてくることを警戒した国民党が、大陸側から砲撃されても船艇を守れるよう、硬い花崗岩の岩盤を掘削してつくった地底の要塞なのでした。それゆえ大陸とは反対側にあたる島の南西部に設けられたわけですね。完成までに3年の年月を要したそうですが、当時は優れた掘削機も無かったでしょうから、鑿をトンカン叩いて少しずつ削っていったのかもしれません。坑道を真上(地図上)から見るとアルファベットのVを横にしたような形をしており、海側の出口は2つあります。水路としての全長は357mで、幅11.5m、高さ8m。いくら戦時体制下とはいえ、硬い岩盤を掘り進めてこんな大きな空間をつくってしまう、危機感を抱いた人間のパワーに圧倒されます。


 

明るい坑口の向こうは海ですから、仕切りの塀があるものの、ザバンザバンと打ち寄せる小波の音が坑内に響いています。この地下要塞は結果的に戦闘で使われること無いまま、民国87年(1998年)に観光地として開放され今に至っているんだそうです。
先行していた団体客は手すりにもたれ掛かって記念撮影していたのですが、皆さんやけに騒々しいし、服装はいまいち垢抜けていないし、ガイドさんが手にする旗に書かれていた漢字は簡体字。つまり大陸からの観光客だったんですね。歩道下の水面ではお魚がウヨウヨ群れて、大陸観光客が投げる餌に食らいついていました。
大陸からの攻撃に備えて血と汗を流しながらつくった軍事施設に、その大陸からの観光客が大挙してやってきて、そこに棲息するお魚まで生物的な本能を満たしているんですから、時代の変遷とは面白く不思議で、皮肉を伴うものです。何はともあれ平和が一番ですね。


 
翟山坑道の見学を終えた後は、宿から往た道を引き返し、珠山集落を通りすぎて古崗という集落までのんびり歩いてきました。本当にこの島は激戦地だったのかと疑わしくなるほど、のどかな景色が広がっています。
この古崗集落は、枝から気根をカーテンのように垂らす巨大なガジュマル(榕樹)の老木を中心に、レンガ積みの伝統的な閩南建築が軒を連ねていて、風情たっぷりです。


 
のどかな集落とはいえ、つい最近まで緊張の最前線だった島ですから、国民党のイデオロギーや軍事施設が当たり前のように景色に溶け込んでおり、「自立自強」と書かれたモニュメントや、防空シェルターと思しきコンクリの小屋も、伝統家屋と並んで立っていました。シェルターに関しては迷彩柄をアレンジしたカラフルなカラーリングが施されており、却って敵に見つかりやすくなっているようですが、そんな塗装を楽しめちゃうほど、大陸から攻撃される心配が減ったということなのでしょうか。


 
古崗集落を貫くメインストリートにはバス停があり、スマホのアプリ「台湾公車通」で調べたところ、ここで数分待てば島の中心部である金城行のバスがやってくるとのこと。これ幸いと、やってきた路線バスに乗り込んで、金城へと向かったのでした。
ちなみに、そのアプリ「台湾公車通」は、台北・新北・桃園・基隆・新竹・宜蘭・台中・台南・高雄・金門の各市および県を走る路線バスの到着時刻を調べるアプリで、バスの系統(路線番号)を選択することにより、現在運行中のバスの現在位置と到着予想時刻が表示されます。日本の乗継案内系のアプリのようなきめの細かな調べ方はできませんが「いますぐにバスに乗りたい」なんて場合には便利。今回の金門島観光では大変お世話になりました。
また、金門島の路線バスでは台北等の公共交通機関で便利な「悠遊カード」が利用可能ですから、予めセブンイレブン等で多めにチャージしておけば、運賃確認や小銭の有無を気にする必要はありません。今回金門島で乗ったバスでは、一度も小銭を払わずすべて「悠遊カード」を利用しました。



次回に続く

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金門島旅行 その1 台中から金門島へ

2015年09月27日 | 台湾
※今回記事からしばらくは温泉が登場しません。あしからず。



子供の頃から地図を眺めて飛び地を見つけて悦に入っていた変わり者の私にとって、以前から行ってみたかった場所の一つが、台湾施政下の金門島という小さな島です。地図を見ると中国大陸の沿岸に点在する小島の一つにしか思えず、大陸と最も近いところでは僅か2キロ強しか離れていません。どうしてここが共産党ではなく台湾(中華民国)の領地であるのか、一見しただけではわかりにくいかと思います。そこで、世界情勢に詳しい方には釈迦に説法ですが、前置き説明にちょっとお付き合いを。

日本が第二次大戦で敗戦し中国大陸から撤退すると、皆様ご存知の通り、それまで燻っていた蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の対立が再燃し、激しい内戦の末、1949年に北京の天安門広場で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言して、国民党は台湾へ脱出しました。ちなみに、雲南や四川の奥地にいた国民党の部隊は、遥か遠い台湾ではなく、地続きの東南アジアの各地へ逃げてゆきますが、以前拙ブログでは、タイの奥地にある国民党の落人の村に湧く温泉「熱水塘温泉」を取り上げております。

南京から、重慶、成都、そして台湾と、撤退に撤退を重ねていった国民党が、臥薪嘗胆の意地で「いずれ共産党を倒して大陸に戻ってやるぞ」と反転攻勢の拠点とすべく死守した大陸沿岸の島のひとつが金門島です。中国共産党の人民解放軍は元々内陸を拠点にしていたゲリラでしたから、野山を駆け回るのは得意ですが、海の戦いは下手っぴであり、大勢がほとんど決まっていた1949年の時点でも、金門島をはじめとした大陸沿岸の島々は(海南島ですらも)、まだ辛うじて国民党の支配下にありました。その翌年に朝鮮戦争が勃発すると、共産党の兵力は朝鮮半島へ向かいますが、朝鮮戦争の休戦協定後は再び国民党支配下の島々の「解放」を目指すようになり、まず大陳列島(台州列島)を制圧、そして1958年には金門島をめぐって大規模な攻防戦(金門砲撃戦)が繰り広げられました。結果的に金門島や馬祖島などは国民党が防衛できたものの、それ以降、国共対立の最前線としてこれらの島では長い間軍政が敷かれて緊張が続くこととなりました。しかし、ニクソン訪中の7年後にアメリカと中国大陸が国交を結ぶと、大陸側から金門島への攻撃は止まり、双方の指導者が過去帖入りして年月も経つうちに緊張も緩み始め、鉄砲よりソロバンを弾いた方がはるかに良いということで、現在は軍政が解かれ、むしろ激戦の痕跡を観光資源として活かし、また台湾と大陸を結ぶ重要な交通の要衝として、国内外を問わず多くの人が訪れるようになりました。
飛び地が好きであり、且つ近現代史の史跡巡りを趣味の一つとしている私としては、そんな金門島を訪れないわけにはいきません。

前回までの記事で私はレンタカーを利用して台湾島の中央を東から西へ横断して参りましたが、どうせ横断するなら海峡を渡って大陸の方まで突き抜けてやろうと思いつき、勢い余って本当に、台中から台湾海峡を空路で越えて金門島へ渡ることにしました。


●台中・宮原眼科
まずは前夜泊まった街から高速バスに乗って台中駅へ移動します。空港へ向かうにはまだ時間に余裕があったため、その前に、最近台中で大注目のお店へ立ち寄ってみることにしました。

 

台中駅から歩いてすぐの「宮原眼科」は、日本語メディアでもよく取り上げられているほど、近年の台中でリコメンドされているスイーツのお店。その名前が示すように、戦前は日本人医師の宮原眼科として開院し、戦後の国民党統治下では「台中市衛生院」として活用されましたが、それもやがて閉鎖されてしまい、数十年間放置されたまんまだったそうです。パイナップルケーキで有名な「日出」が、そんな古い建物に価値を見出し、建物をリノベーションしたところ、目論見があたって、今では大人気を博しているんですね。
台湾では台南の林百貨店など、日本統治時代の古い建物に目をつけて、かつての面影を蘇らせつつ現代風に生まれ変わらせて、新たな価値を創造していますが、自分の国の古い建物を情け容赦なくどんどん壊しちゃう日本とは対照的に、台湾の方はこうして大切に使ってくださっているんですから、日本人の一人として感服すると同時に感謝の念すら抱きます。


 
 
店内はとっても綺羅びやか。ショーケースは薬棚をイメージしているんでしょうし、昔の大学図書館のような本棚は医学部のアカデミックなイメージを醸し出しているのでしょう。また全体的な飾り付けは、19世紀の西洋の絵本のようなメルヘンチックな世界観を想像させてくれます。スタッフの方は衛生兵にも似たサファリルック的な制服を身に纏っています。今回は店内を冷やかすだけで済ませちゃいましたが、ここは見ているだけでも面白いなぁ。


●台中・第四信用合作社
 

宮原眼科から数ブロック先には、同じく「日出」グループのお店である「第四信用合作社」があります。1966年に開業した同名の銀行跡を転用したものお店で、レトロな雰囲気と現代的なデザインをミックスさせている点は「宮原眼科」と共通ですが・・・


 
整然かつメタリックな店内デザインは元銀行としてのイメージを強調しており、金庫の扉を装飾に用いているマシンは現代アート的でもあります。また「宮原眼科」は物販がメインですが(テイクアウトのアイス売り場あり)、「第四信用合作社」は店内での飲食を主体としているようであり、同じグループ店でも「宮原眼科」とは異なるコンセプトです。それ故か、多くの観光客で混雑していた「宮原眼科」とは対照的に、こちらはずいぶん落ち着いていました。


 
昔の銀行窓口を模してつくられたテイクアウト用のカウンター前には、ちょうどシーズンを迎え始めていたマンゴーがたくさん並べられていました。その奥のコールドテーブルには色とりどりのフルーツが詰め込まれており、その上でパッションピンクのTシャツとベレー帽を被ったスタッフのお姉さんが、マンゴーかき氷を作っていましたが、カップルでイチャイチャしながらつつき合うような大きなサイズなので、もし私が注文しても、とても一人ではとても食べきれません…。


 

そこで店員さんにアドバイスを受け、一人でも食べられるマンゴー系のかき氷をつくってもらいました。パイナップルのかき氷の上にマンゴーのアイスを載せたものです。本当はマンゴーの実がゴロゴロしていたものを食べたかったんですけど、これも十分おいしく満足できましたよ。もっとも他のお店で食べる同類のものより高いのですけどね。紙袋もペーパーナプキンも、そしてウェットティッシュも、ひとつひとつがみんなおしゃれ。


●台中空港から金門島へ
 

台中駅から台中空港までは約18kmも離れているのですが、公共交通機関は路線バスのみ。面倒臭かったので駅前でタクシーに乗りこんだのですが、信号と交通量の多い市街地を抜けるのに時間がかかり、たどり着くまで45分も要しました。時間に余裕をもってアクセスしないとエライ目に遭いそうな立地ですね。ターミナルは国内線と国際線に分かれていますので、私は国内線ターミナルへ。

台中と金門を結ぶ空路は、立栄・華信・遠東の3社が運行しているのですが、今回は時間帯や料金等が自分の計画とマッチした遠東航空の便を、公式サイトから予約していました。ところが搭乗の3~4日前、たしか台東県の栗松温泉から下山していたころ、レンタカーで運転していた私のスマホへ「遠東航空班機調度訊息」と題する中国語のメールが届きました。その主たる部分を抜粋(一部伏せ字)してみますと・・・

原訂2015/○/○ 台中往金門 FE1051 12:25起飛班次,因班機調度取消,當天尚保留立榮B7-687 13:30班次及華信AE765 16:20班次,造成您的不便,敬請見諒,若需更改行程、或有任何疑問,請洽訂位中心

おいおい、全部中国語じゃん。日本人は漢字が読めるから、何となく意味がわかるものの、中国語や漢字を読めない人はちっとも解かんねーよぉ。冷静になって一文字ずつ文章を追いかけてみると・・・

ご予約の12:25台中発の遠東航空FE1051便はフライトキャンセルになってしまいました。当日の13:30発の立栄航空B7-687便か、16:20発の華信航空AE765便へ振り替えできます。ご不便を掛けて申し訳ございませんが、旅程を変更なさったりその他なにかございましたら、予約センターまでご連絡ください。

と書いてあるようです。そこで、予約センターへ「立栄航空の便に振り替えてください」と英文メールでリクエストしたら、その返答もまた中国語で記されていたのでした。中文の公式サイトで予約したから、国籍等関係なく、やりとりも中文になっちゃうのかな。
その返信メールには「搭機當日以立榮班機時間13:30提前40分鐘至遠東報到」、つまり立栄航空の便の出発時刻である13:30の40分前までに遠東航空のカウンターへお越しくださいと案内されていましたので、その指示通りに赤いサインの遠東カウンターへ出向きますと、係員のお姉さんは端末で予約内容を確認した後、私を立栄航空のカウンターまで案内し、そこで振り替え搭乗の手続きをしてくれました。


 
台中空港では搭乗手続きとは別に、各社共通の手荷物預かり専用カウンターが設けられており、しかも(カウンターが小さいためか)出発時間の1時間前にならないと預けられません。カウンターのオープンを待って荷物を預けますと、スタッフのお兄ちゃんは何やら数字を口にしています。チケットのクラスの問題なのか、あるいは機体が小さいからか、どうやら受託手荷物の無料枠が設定されていないらしく、1kg当たり2元の料金を要するとのことでしたので、言われた通りの金額(32元)を支払いました。
重い荷物を預けて身軽になったので、ターミナル内を散策してみることに。


 

いかにも地方のB級空港といった風情の国内線ターミナルとは対照的に、連絡通路でつながっているお隣の国際線ターミナルは、天井が高くて明るい現代的な建物です。この時は香港エクスプレス・香港行のチェックインが行われており、手荷物預かりカウンターでは「武嶺」と書かれたロードサイクルがたくさん列をなしていました。前回記事で私がレンタカーで越えた台湾国道最高地点「武嶺」(標高3275m)をヒルクライムしてきたのでしょうね。まだランチをとっていなかったので、この国際線ターミナルにあるレストランで、周囲の客の広東語に揉まれながら枝豆付きのワンタンメンを啜りました。


 
国内線・国際線ともにターミナルはこぢんまりしていて、空港としての必要最低限の設備を用意している程度でしたから、構内散策はあっという間に終了。そのうち搭乗口のゲートがオープンになったので、他客の列に加わって搭乗口へ進み、そこから歩いて飛行機へ搭乗しました。機材はターボプロップ機のATR72-600。


 
私のような他社の振り替え客を受けているためか、2+2列シートの飛行機は満席状態。台中空港は10年ほど前まで軍用空港であり、いまでも空軍基地を兼ねた軍民共用空港ですから、滑走路には軍機が多く、しかも大陸からの攻撃を想定しているので掩体壕だらけ。そんな物々しい台中空港を定刻13:30にテイクオフ。台湾島よ、さらば。
台中から金門まで飛行時間は1時間もありません。海岸線を越えて安定飛行に入った直後、CAさんは素早くギャレーからカートを引き出し、手際よくドリンクサービスの提供を始めました。私はコーヒーをお願いしましたが・・・


 
後部の座席だったため、順番が回ってくるのが遅くなり、それゆえ寛いで飲んでいる暇は無く、早々に金門島の島影が見えてきましたので、熱いコーヒーをグイっと飲み込んで着陸態勢に入ります。


 
14:30に金門空港に着陸。大陸まで僅か数キロしか隔たっていませんが、れっきとした台湾の施政下にある島ですから、ターミナルの上には青天白日旗がはためいており、ターミナル内では台湾島と全く同じセブンイレブンが営業していましたので、私の大好物である統一の「木瓜牛乳」を買い込んでからタクシーに乗り、この日の宿へと向かいました。

次回につづく
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台湾の国道最高地点「武嶺」へドライブ その4(合歓山頂上から台中へ)

2015年09月26日 | 台湾
※今回の記事にも温泉は登場しません。あしからず。
前回記事の続きです。

 

【16:30 合歓山主峰登山口】
車で台湾国道最高地点(標高3275m)の武嶺へ到達した後は、歩道を散策しながら合歓山の頂上へ歩いてみることにしました。この周辺は7つの峰が集まっている合歓山という山中にあり、武嶺は主峰と東峰の間にある鞍部にあたるんだとか。各峰のピークへは歩道が整備されているのですが、今回はその中でも主峰を目指しました。武嶺には駐車場が整備されているものの、この歩道入口には駐車場が無く、ゲート前にの道路には路駐の列が長く続いていました。


 
天気に恵まれたハイキング日和。ちょっと肌寒いけど歩くにはちょうど良い感じです。歩道はよく整備されており、登り一辺倒ですが歩きやすくて快適でした。右or下画像で山腹を右斜め上に走っている線は台14甲線の車道で、その線が稜線を越える地点が武嶺。そしてその右側に聳える山が合歓山の東嶺となります。


 
空気が澄んでおり、南北に連なる中央山脈の山稜やその周辺の景色が遠くまで見通せました。すばらしい眺望です。


 
 
この合歓山主峰ではシャクナゲ(ニイタカシャクナゲ)が群生をなしており、あちらこちらで花を開いていました。私が訪れたのは5月中旬だったのですが、後日調べたところによれば、合歓山でのシャクナゲの見頃は毎年5~6月だそうですから、運がよいことにちょうどシーズンのど真ん中だったようです。


 
標高の高いところは電波の送受信等に適しているため、洋の東西を問わず軍事施設が設けられやすいわけですが、この合歓山もご多分に漏れずかつては軍隊(中華民国軍)が駐留しており、歩道の途中には防空監視所か歩哨の詰所だったと思しきコンクリ躯体がいくつか見受けられました。


 
山頂の手前にある平たい広場に設けられている公衆トイレは、鼻が曲がりそうなほど酷い悪臭。気付薬の代わりになりそう。最近はどこのトイレも綺麗になっていますが、こんな臭いトイレに入ったのは久しぶり(山の上だから仕方ないのですけど)。
このトイレがある広場から伸びるウッドデッキを上がってゆくと…


 
【17:00~10 合歓山主峰頂上(標高3416m)】
歩き始めてから30分で合歓山主峰の頂上へ到達です。日本第二の高峰である北岳(3193m)より220mも高いのです。日本で3000m級の山を登るには相当な時間と体力、そして装備が求められますが、傍まで車で来られる合歓山は、何の装備も要らず、いとも簡単にてっぺんまで登ってこられちゃいました。
付近には多くのハイカーが憩っていたので、その中の一人に撮影をお願いしました。気温は15℃に満たず、ハイカーの皆さんは防寒具をしっかり着込んでいましたが、耐寒仕様の体が出来上がっている私はTシャツ1枚だけ。何ともマヌケな格好だこと。


 
シャクナゲで彩られた山頂は360度の大パノラマ。いつまでもこの雄大な絶景を眺めていたかったのですが、既に午後5時を過ぎていたため空の明るさが漸減し始め、しかも西の方から厚い雲が流れてきたので、ここでの滞在は10分間にして、その後は一気に下山することに。


 
【17:30 合歓山主峰登山口・ドライブ再開】
歩道入口まで戻ってくると、空は既に薄暮状態。もたもたしていると完全な闇に呑み込まれてしまいそうです。明るい内に山を下り、今日中に台中へレンタカーを返却したかったので、ここからは寄り道せずに台中へ急ぎます。前回記事で通過した合歓山ビジターセンター付近で、既に花蓮県から南投県へ入っています。あくまで私の主観ですが、南投県側の台14甲線は、花蓮県側の台8線より道幅の狭い区間が長い気がします。でもこの時間帯は台中方向へ下山する車ばかりなので、多少狭くても離合を気にすることなく、先行する車の後をついていけば大丈夫。急勾配の下り坂が延々と続くので、エンジンブレーキかけっぱなしです。


 
樹林帯に入っても勾配は緩むことなく、私はエンジンブレーキを効かせ続けたのですが、先行する車の多くはフットブレーキを多用しており、もし前方の車を意中の異性が運転していたとしても「アイシテル」のサインを読み取る隙も無いほど、真っ赤なブレーキランプを点灯させっぱなし。しかもかなりのスピードでカーブへ突っ込んでゆきます。台湾で運転する度に実感しますが、この地は本当にアグレッシヴなドライビングをする方が多いですね。


 
【18:10~15 清境農場のセブンイレブン(標高2050m)】
台中まで寄り道をするつもりは無かったのでしたが、山下りの途中で清境農場のセブンイレブンに差し掛かったので、台中までの水分とおつまみを確保すべく、ちょっと止まって買い物しました。このセブンイレブンは数年前まで台湾最高地点の営業店舗として有名だったそうですが、現在はここより高い阿里山にお店がオープンしたため、最高地点としての栄誉を阿里山店へ譲ることになったそうです。そういえば日本最高所のコンビニってどこなんだろう?(ネットでは長野県のローソン「白樺湖蓼科店」だという情報を見かけましたが…)


 
清境農場のセブンイレブンを出発してから、信号以外はノンストップで台中へ。途中、霧社付近の止人関で行楽帰りの車による渋滞が発生していました。かつて止人関は険しい地形ゆえ、清朝が漢族の通行を止めていたとされる場所ですが、いまでは交通量が多すぎて車の流れが止まってしまうのですから、「止人関」とは何とも皮肉な地名ですね。
埔里からは高速道路を飛ばして台中へ。台中手前のジャンクションでも渋滞にハマってしまい、結局台中のレンタカー会社営業所に到着したのは、合歓山主峰登山口を出てから3時間後の20:30でした。
【20:30 台中到着】

台湾には中央山脈を横断する道が3本あり、そのうち最も北にある「北横公路」は2年前に走行しました(拙ブログでも紹介させていただきました)。一方、南側の「南横公路」東側は、この前日に栗松温泉へ向かった際に走行したばかりです。そしてこの日、真ん中の「中横公路」の東半分を利用しながら台湾を東西に横断したわけですが、3本の横貫公路の中で今回の「中横」は最も走りやすく、見晴らしも良く、それゆえ交通量も桁違いに多い観光道路でした。日本では体験できないことを一日で触れることができた、とてもエキサイティングなドライブでした。


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