ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「青春改札口」 しのはら勉

2008-03-06 15:37:08 | 
この漫画の最大の問題点は、タイトルがくさいことだ。

私が十代の頃、週刊少年マガジンに連載されていた。当時から人気があるんだが、ないんだか良く分らない作品だった。単行本が7巻出ているのだから、それなりに売れてはいたのだと思う。ただし、当時の漫画好きの少年たちの間に話題に上がることは、まず滅多にない。そんな漫画だった。

主人公の高校生・立花静人は、妹と二人で自活する謎めいた青年だ。周囲に迎合することなく、さりとて不良とつるむこともなく、一匹狼であり続ける。鉄道の保線区に仮住まいをしているところと、父親から戦い方を習ったと独白するあたり、おそらく労働組合系の運動家の一家に育ったと思われる。

当時は国鉄の労働組合と、日本政府との間で熾烈な闘争が行われたから、その戦いのなかで傷つき、国家とか政府、学校とかを信じることの出来なくなった人たちをモデルにしていると想像できる。

既に国鉄民営化の路線はひかれ、労働組合への庶民の支援も薄れつつある時代だったから、本来この漫画の舞台背景は、到底少年たちに理解されるはずもない。にもかかわらず、3年あまり連載が続いたのは、戦いの場面が魅力的だったからだ。

主人公は、とりわけ格闘技などを身につけているわけではないが、実に喧嘩が強い。いや、上手いというべきだろう。どうも左派運動家と思われる父から、幼少時より戦うことを教えられてきたらしい。時には豪快に、状況によっては狡猾に、そして実に戦術的な戦い方すらしてのける。

敵役も魅力的なキャラが多かった。カリスマ的魅力を持つ暴走族のリーダーとは、苛烈な戦いのすえ、最後にはある種の共感すら共有して別れる。スーパーチャージャー付の四輪駆動車を駆ける炭鉱夫あがりの青年もまた、強烈な魅力を持っていた。皆、社会の枠からはずれ、それでも逞しく生きる生命力を持っていた。

しかし、最後には警察や司法機構に押し潰される。だが主人公はめげることなく、妹と立ち去っていく。改札口を通り抜ける風のように、はてしなく続く線路の上を駆け巡っていく未来を想像させながら。

こんな掴みどころのない漫画であった。いったい、何を訴えたかったのか、今でも私は分らない。作画者のしのはら勉はともかく、原作者である山村俊は決められた路線を歩むだけが人生ではないと言いたかったのではないか。

原作者は、おそらくは全共闘世代の人だと思う。革命闘争に敗れ、挫折を味わいながらも、理想を捨てきれない想いが、既定の枠に収まることを良しとしない主人公を産み出したのだと思う。

作品としては中途半端だし、テーマも不明瞭。とても人様に勧められる作品ではありません。しかし、私の記憶には深く刻まれた作品であることも事実です。いつも明確な答えがあるわけではないのが人生だよと、私に語りかけてくれる気がするのです。

もし古本屋や漫画喫茶などで、目にすることがありましたら、くさいタイトルにめげずに読んでみてください。名作ではありませんが、ちょっと気になる怪作だと思います。
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売り控え報道

2008-03-05 12:21:46 | 社会・政治・一般
売り控え、この言葉を聞いたのは、昨年の秋口だと思う。昨年は不動産市況が活発で、とりわけ都心部でのマンション販売が好調であった。

秋口のニュースでは、この先も高値で売れることが予想されるので、マンション販売業者が売り控えているらしい。そんなものなのかと、その時は聞き流したが、よくよく考えるとヘンだ。

土地の売り控えなら分る。しかし、多額の資金投下を必要とするマンション販売で、売り控えなんてあるのか?マンション販売は、その企画、施行工事、販売までに長い期間を要する。最終的には、その投下資金はマンションの販売で回収する。

しかし、実際に工事を請け負う下請け業者たちへの支払いから、広告宣伝その他諸経費の支払い等、支払いばかりが先行するのが、マンション販売の実情だ。大概が、資金の外部からの借入で乗り切る。

だから、業者は可能な限り早く売ろうとする。売って、資金を回収しなければ、次の事業計画も進まないし、なにより経営そのものが危うくなる。間違っても、その資金回収を遅らすようなこと、すなわち「売り控え」なんてするわけない。

だから、私はすぐマンション販売に売れ残りが出るようになったのだと推測した。

営業マン「ご主人、昨夜もニュースで言ってましたが、マンション販売が好調で、売り控えが始まっています。いまなら4000万円。でも再来週にはアップしてるかもしれませんよ!」

ご主人「そのニュース、私も観たよ。そうだね、今週中にハンコ押すかな・・・」

要するに、売り控えとは、マンション販売促進活動に他ならないのでしょう。私が不快に思うのは、これをニュースとして報道したマスコミの節操のなさです。マンション販売業者は、マスコミにとって大事な大口の広告主様です。その広告主様の窮状を救うため、事実を捻じ曲げて、情報操作に加担するのが報道なのか。

昨年は、「白い恋人」や「赤福」などの食品での偽装が目立ちましたが、報道の世界でも偽装がいくつもあった。実質の参加者2万人程度(毎回、同じ面子らしい)を11万人と報道した沖縄の教科書検定反対集会も、やはり偽装報道の一つでしょう。

偉そうに偽装事件を非難する一方、マスコミ自体が偽装報道に協力しているわけですから、偽装がなくなるわけがない。
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「怒涛の虫」 西原理恵子

2008-03-04 17:23:49 | 
文章を書いていると、素の自分が曝け出される気がする。これは怖くもあり、楽しくもある。日頃、自分が自覚していない自分に出会えるからだ。

嘘つきで、底意地悪く、辛らつで図太いキャラで知られる無頼女性漫画家の西原理恵子は、漫画ではなかなかその素顔を覗かせることはしない。ところが、文章を書かせたら、素の西原が顔を覗かせたことがあった。

表題の作は、サンデー毎日に連載していたエッセーを集めたものだ。もちろん漫画というかイラストも西原自身のものだが、なにより文章主体のエッセーだ。もしかしたら、西原初の文章ものだったかもしれない。

ただ、あの西原だ。あとがきでも堂々書いてあったが、エッセーの多くに編集者の筆が入っているらしい。だから読みやすいのかと、妙に納得したが、これでいいのか?

ただし一編だけ、すべて西原オリジナルの文章がある。他とまるで文体が違うので、一読で分ると思う。

私も記憶が在る事件だが、東京西部の立川市で、強風に煽られてクレーン車が木造アパートを半壊させたことがあった。住人の無職の青年が死亡した事件であった。この青年が西原の学友であったようだ。

決して絵が上手いとは言いがたい西原だが、実は美大出身だ。そのクラスメイトの一人が、クレーンに圧殺された青年であった。西原にとって、憧れてしまうほど美しい絵を描く青年は、卒業後も商業主義に迎合せず、ひたすらに自分の描きたい絵を描く貧乏画家であった。

生活費を稼ぐためにエロ雑誌のイラストさえ描いていた西原にしてみれば、自分よりはるかに才能ある青年の生き方は、憤懣やるかたないものであったらしい。いろいろとお節介を焼いていたらしいことが、文中から伺われる。

その彼が事故で死んだ。それも無職の青年と報じられて。西原は文中で叫ぶ「この人は一人の芸術家でした」と。世に認められることなく、消し去られていく残酷さに耐え切れず、西原は叫ばずにはいられなかった。

私の知る限り、西原が素の自分を世間に晒したのは、夫の死と、この友人の死の二回だけだ。
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「五輪の薔薇」続き チャールズ・パリサー

2008-03-03 13:30:00 | 
私は歴史を、とりわけ世界史を学んだなかで、印象に深かったのは、やはり西欧の帝国主義時代です。教科書だけ読むと、華々しく壮麗で、進んだ科学技術をもって遅れた国々を侵略していく様子は輝くしくさえ思えたものです。

ところが、その時代を背景にした小説、たとえばディケンズなどを読むと、当時の西欧社会がいかに不潔で、猥雑で、乱暴であったかが伺えて、不思議な感慨を持ったものでした。どうみたって、野蛮そのものだ。文明社会というには、あまりに乱暴に過ぎる。優れた武器を手にした蛮族の、優美な文明社会への侵略。これこそが、帝国主義時代の実相であったと思うのです。

なかでも七つの海を支配した大英帝国の酷さは群を抜く。善意につけ込み、悪意をばらまき、騙し騙される歪んだ社会。それは貴族も貧民もなく、高貴さよりも貪欲さが、清廉よりも狡猾さがはびこる社会。

弱きものは生き残れず、善意は嘲笑の踏み場所でしかない。こんな熾烈で苛烈な社会を生き抜いた獰猛なイギリス人が、船で世界に乗り出し、自分たちのやりたいよう、世界を変えようとしたのが帝国主義だった。

私は長年、不思議に思っていた。なぜに西欧は不潔で、猥雑な中国を「眠れる獅子」として畏れるのかと。

最近、思うのは、中国の汚さ、自己正当癖、虚言癖、乱暴さは、かつての西欧そのままであり、だからこそ未来への可能性を見て取ったのではないか?

弱いものを踏みつけ、智恵を絞って他人を騙し、正論を力で封じる野蛮な中国社会で育った人間は、たしかに逞しい。かつてのイギリス人がそうだったように、なんでも食べ、なんでも奪い、自分たちは正しいと結論づけるふてぶてしさは、世界屈指のものだ。

ただ、それでも私は西欧と中国では大きく違うと思う。

西欧には、科学的合理精神と民主主義がある。宗教的呪縛から解き放たれた自由な精神がある。この目に見えぬ、形無き精神世界を背景にしたからこそ、かつての蛮族の地であった西欧は、世界を制することが出来た。

実をいえば、科学的合理精神は、錬金術や殺戮兵器の改良から産まれたものだし、民主主義と宗教的自由は、数多の民衆と支配者の、血で血を洗う虐殺の泥炭から産まれたものだ。皮肉なことに、おぞましきものから、尊ぶべきものが産まれた。

法治の精神もまた同じだ。騙しあい、裏切りあい、責め立てあった末に、法律は社会を健全なものとする仕組みを身に着けていった。強者が弱者を踏み潰すことを正当化するのでなく、正しき弱者の権利を擁護する存在として、法を磨き上げたからこそ、近代社会は健やかに育つことが出来た。

表題の本は、19世紀初頭のまだまだ法治の精神が未熟で、力足らずであった時代を背景にしている。それだけに、現代の法治に守られた人たちからは、想像を絶するほどの苛烈な社会で生き抜く凄まじさを教えてくれる。

西欧の近代主義を、闇雲に賛美する時代は終わったと思うが、改めて見直す必要はあると思う。醜い欲望と、残忍な策謀に攻め立てられつつも、正義を目指した少年の奇跡を、是非とも味わって欲しいと思う。
コメント (6)
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