ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

次期主力戦闘機

2022-07-29 11:39:11 | 社会・政治・一般
木を見て森を見ず。

次期国産戦闘機の議論がまさにこれである。現在、F2戦闘機の後継機としてF3の開発をどうするかが問題となっている。どうやら英国の次期主力戦闘機であるテンペストに、国産のエンジンを搭載する形で進みそうだとの報道がある。

その一方で、日本が必要としているのは、現在退役が想定されるF15及びF2の代替機であるから、第六世代の最新鋭機であるテンペストではなく、第五世代の戦闘機で十分との報道もある。

戦闘機に関していえば、開発に膨大な時間と資金が必要であり、英国との共同開発は決して悪いことではない。日本単独でとの意見もあるのだが、それはあまりにリスクが高い。

一つはアメリカとの関係である。現在、日本の国防はアメリカとの従属関係にあり、敵味方を判別する装置でさえアメリカ製のブラックボックスである。ただ、アメリカ特に防衛産業(ロッキード・マーチンのような)は日本が戦闘機を独自開発することに否定的である。

日本が絶対にやってはいけないことは、現在の覇権国であるアメリカから敵視されることである。シナやロシア、コリアから敵国扱いされても構わないが、アメリカは危険過ぎる。

もう一つは、日本が今後衰退していくことだ。現在日本の人口は一億二千万人であるが、少子化が進み半世紀後には一億を割り込み、今世紀末には7~8千万人にまで人口は減少する。

当然に経済規模も縮小されるから、日本単独で独自の戦闘機を開発維持することは厳しい。だからこそ外国との共同開発が望ましいのだが、アメリカは干渉が厳しい。その点、日本と同様にアメリカの国防戦力の両端の端である英国ならば、アメリカも正面切って反対することはない。

しかも、英国もまた衰退しつつある欧州文明の一端であり、立場的には日本に近い。アメリカに好いように使われている惨めな立場も同様である。

日本の長期的な課題は、如何に穏やかに衰退するかである。その意味で先行する英国は参考になる。

戦闘機は軍事技術の粋であり、最強の戦闘機を有する国が、最強の軍事力を持つ。日本はナンバーワンでなくてもいいが、せめてトップ5には入りたい。ちなみに私の現時点での評価はトップ10圏外である。

これはハード面ではなく、国家としての軍事態勢が法制面で不備であるからである。もっと言えば、国民の大半がぬるま湯につかって呆けているカエル状態であるからだ。

戦争で難しいのは開戦の決断ではない。終戦の決断こそが難しい。このプロセスを法制度で確定していないと、ずるずると戦争は続いてしまう。厭らしいのは、戦場で苦しむ兵士ではなく、安全な場所で命令する上層部こそが戦争を終わらせる権限を持つことだ。この上層部を監視するのが、ぬるま湯に浸かっているカエルなのだから頭が痛い。

ぬるま湯が沸騰しても気が付かずに死ぬだろうし、冷めてしまったことにも気が付けずに睡眠死である。この精神面での堕落から脱却しない限り、決して軍事面では、いつまでたっても高価な武器だけを持つ使えない軍隊であろう。

この現状を平和な日本だと信じ込んでいる、事なかれ平和主義者の日本人が一番悪い。困ったことに、このタイプが過半なのですけどね。
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刺青の是非

2022-07-28 11:28:14 | 社会・政治・一般
現時点で私は解答を持っていない。

なにがって、刺青問題である。日本はこの先、外国からの観光客が重要な収入源となる。欧米だけでなく、東南アジア、イスラム諸国など様々な文化背景を持つ人たちが日本を訪れて、お金を落としていく。この観光事業が既に衰退期に入った日本にとって非常に重要であることは、今や官民いずれも分かっていることだ。

日本には観光資源が多い。多様な食事が人気だが、風光明媚な自然、寺社寺院、それと対照的な未来的建造物。静かで速い新幹線、ゴミが落ちていない道路、子供が夜に一人歩きできる安全さなどが有名だ。

そんな中、たまに問題となるのが温泉など入浴施設における刺青禁止である。

日本では、銭湯や温泉、スパ、健康ランドのみならずプールや海水浴場などでも刺青をしている人を禁じる規定が設けられていることが多い。わりと勘違いしている人が多いが、民法や刑法などの公式な法律では、刺青は規制されていない。

もっぱら地方の条例や、企業の内規で刺青を入れた人を規制する形となっている。

これは概ね市民の心情に基づいたものだ。刺青に威圧感を感じる人は多い。日本では博徒が刺青を入れていることが多かった。そのため、危ない人たちが刺青を入れていると社会的に認知されている。

厳密には博徒と暴力団は違うし、私の記憶では、漁師や大工などの正業に就いている人たちの間でも、刺青を入れていることは珍しくなかった。実際、私が子供の頃、すなわち昭和40年代くらいまでは、繁華街の銭湯に行けば刺青を入れた人たちが、当たり前のように入浴していた。

子供心に熱いお湯に浸かって紅潮した肌に浮かび上がる刺青は奇麗だと思っていた。その頃、私は中学を卒業したら働くつもりだったし、香具師の世界に憧れていたので、自分も刺青を入れることを想像していたぐらいである。

風潮が変ったのは、政府により暴力団狩りが盛んになった福田内閣の頃だと思う。有名な角福戦争に勝利した福田赳夫は、それまで左翼学生の弾圧に利用していた暴力団に対して、一転して警察庁に頂上作戦の名のもとに組長、幹部クラスの逮捕を積極的に行った。

それに迎合するかのように新聞やTVでも、刺青が映し出されるような番組を控え、暴力団を賛美するかのような映画は放送せず、警察が暴力団を逮捕するような刑事ものが増えていった。

私が大学生の頃には、もはや刺青は市民から忌避されるものとなっていた。たしかに刺青には他者を威嚇する目的がある。これは日本だけでなく、南太平洋のマオリ族のように誇らしげに刺青を入れて、自らの強者ぶりをアピールするものもある。

率直にいって古来から刺青は、自らの気持ちを鼓舞し、他者を威喝するためにある。日本だって古来から刺青を入れた人は多かったし、その目的は宗教的なものから、精神的鼓舞、仲間意識の保持、そして刑罰の証拠としての刺青まで多用途に使われていた。

現在も刺青は、犯罪組織の構成員の共通サインであることは珍しくない。どう擁護しようと、刺青が他者への威嚇のために使われることは確かだと思う。

しかし、その一方で刺青は太古以来の風習であり、大人への儀礼であったり、神への信仰心の顕れであったりすることもある。ファッションタトゥのようにお洒落の一環としての刺青もある。刺青=犯罪者では断固ない。

ただ、お上の御指導に忠実な日本人には、今も根強く刺青=ヤクザといったイメージが刷り込まれていて、頑固なまでに嫌がる気風が確実にある。各地の条例や企業の内規としての刺青規制にも、それなりの民意の反映である。

正直、どちらが正しいとか、間違っているとかの問題ではない。これが非常に厄介な問題となるのは、刺青に否定的でない外国からの来日観光客が絡んでくるからだ。

特にファッションとしての刺青まで規制するのはどうかと思うことは多々ある。その一方で、ファッションであっても刺青を毛嫌いする人がいる現実も知っている。

郷に入れば郷に従えと割り切るのは容易い。しかし、神への信仰心の顕れとしての刺青まで規制することには、やはり疑問は残る。現時点で、これといった適切な回答を持ち得ないが、このまま放置していい問題とも思えない。

なんらかの国の指針が必要に思います。ただし、官僚の一方的な取り決めではなく、広く意見を募って、議論を重ねた上での解答であって欲しいと思います。

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ツワモノガタリ2巻 細川忠孝

2022-07-27 13:05:14 | 
先手必勝。

私は子供の頃、米軍基地の隣町に住んでいた。舶来品かぶれの気がある父の意向で、米軍払い下げの住宅に住まっていた。いわゆるトイレとお風呂が並び、巨大冷蔵庫があり、カウンター形式の台所とダイニングがある平屋であった。

下級兵士向けだったせいか、さほど広くは感じなかったが、3LDKはあり十分な広さであったと思う。庭もあり、犬を飼っていたし、ビワの生る木があったことは覚えている。

でも一番良く覚えているのは、斜め向かいにあった米軍勤務の家庭の白人の子供たちであった。二人兄弟であったが、その悪戯っぷりが半端なかった。干してある洗濯物に、犬の糞を投げつけるわ、日本人の子供たちに小石を投げつけてくるわと近所でも嫌われ者であった。

日本の警察は及び腰なので、多少英語の出来る人たちが基地のMPに直接苦情を言ったせいで、多少は大人しくなったが、それは表面上のこと。近所の森や原っぱで日本人の子供を見つけると、いきなりタックルをかまして来たりして、より陰湿になった。

斜め向かいの私は格好の獲物であったから、よく狙われた。おかげで身に染みて覚えましたよ、喧嘩は先手必勝だってね。ちなみにこの白人兄弟、なぜか家の妹たちには手を出さなかった。まあ十代になっていたら分かりませんけどね。

先手必勝といいつつ、身体の大きな白人の子供に勝つのは大変。私がよく使った手は、足音をひそめて背後をとって、いきなり首を絞めること。連中はよく広場の砂場にいたので、上手く壁伝いに隠れていけば、3回に2回は成功した。

首絞めのコツは、数を数えて、断続的にやることだと教えてくれたのは近所の中学生のアンチャンだった。最初は5秒、次は3秒、その次は4秒と断続的に締めるので、決して死ぬことはないが、やられると絶望的に体力を削られる。

これは身を持って覚えた技なので、私は臆することなく使っていた。ただ、その街を引っ越して、閑静な住宅街に移り、そこの小学校でやったら卑怯者扱いされたのには参った。どうも喧嘩の作法も地域性があるようだ。

こんなこと、誰も教えてくれない。私は身を持って覚え、それを活用し、そして痛い目に遇っている。

ところで表題の作品は、週刊ヤングマガジン誌で連載中である。新選組を中心に幕末の剣士たちの戦いぶりを描いていて、非常に楽しみに読んでいる。一巻では沖田総司と芹沢鴨の一騎打ちであり、二巻目冒頭で決着をみている。

沖田の必殺技、三段突きの新解釈は非常に興味深い。たしかに他に使用者がいないので、沖田だけが使える必殺技であったことは納得だ。で、第二戦が藤堂平助と田中新兵衛である。

幕末四大人斬りの一人である田中は、薩摩の剣士であり、その使う剣は薬丸自顕流だ。新選組が一番嫌ったとされるのが、この示現流である。その凄まじさは、明治時代の西南戦争において広く知られることとなった。

必殺の一撃は、防御が意味をなさない。受けた剣や銃を叩き折り、兜ごと頭蓋骨を壊す威力である。これは幾多の政府側の兵士の死体を検証した結果なので、改めてその恐ろしさが分る。

だが幕末に於いてはまだ未知の流派であり、その得意技である蜻蛉の恐ろしさは、実戦剣法を謳う天然理心流の使い手が多い新選組をして最警戒させたのも当然の描写である。

私は連載を読んでいるので結末を知っているが、それは次回発売の第三巻で描写されるはずだ。発売が待ち遠しい。こんな作品、久しぶりなので、たいへん楽しみにしています。
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安倍・元首相の国葬

2022-07-26 12:13:31 | 社会・政治・一般
安倍・元首相の国葬に異を唱える良心的な馬鹿がいる。

安倍氏は日本の首相としては異例の長期政権を保ち、かつ外交での存在感は故・中曽根氏を凌ぐ知名度を誇る。内政面では、いささか不満が残るが、必ずしも安倍政権支持ではなかった私でも、国葬は必要だと考える。

別に安倍氏を偲んでのことではない。要は安倍氏の死を政治利用すべきだと考えるからだ。私人ならいざ知らず、安倍氏は首相を退任しようと公人である。しかも国際的知名度抜群の公人である以上、その死は政治利用しなくてはならない。

同盟国であるアメリカのバイデン首相は当然だが、安倍氏が何度も会い、それなりの信頼関係を築いたロシアのプーチン大統領だって呼び出せる絶好の機会である。

別に弔問外交を利用して日本が国際間の政治動向を主導する必要はない。むしろ裏方に回って場所の提供に徹するべきだ。対シナではアメリカに協調するインドも、対ロシアとなるとむしろ反米基調が目立つ。その一方、ロシア製の兵器に不信感を持ち、改めて西側兵器に流し目を送っているインドである。

人口ではいずれシナをも追い抜く大国であるインドのムバイ首相と安倍氏の親交は有名だった。この国葬を機に、アメリカとの関係修繕の機会を設ける絶好のタイミングである。

ここ数年、コロナ禍で人々の行き来が絶えがちであったが故に、安倍氏の国葬は国際的な人的交流、それも各国の首脳クラスを集める最適の機会でもある。多額の税金を投じても、必ずやるべき政治イベントだと思う。

ところが、この国葬に反対する輩がいる。概ね、モリカケ桜で反安倍を叫んでいた連中なようだ。彼等は世界のことなんかどうでも良く、ただ自らの善人ぶるをアピールしたいだけ。まァ偽善にもならない独善に過ぎないのですけどね。

是非とも彼らには、より一層安倍氏国葬反対を叫ばせて、その本性を世に曝されるべきだと思います。

7/26 追記 プーチン首相は国葬に出席しないとの報道がありましたね。そこまで余裕がないほど、国内事情が悪化しているのでしょうかね。しばらくロシアの政情から目が離せませんね。
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逆説の日本史2 古代怨霊編 井沢元彦

2022-07-25 11:26:43 | 
お勉強エリートほど書面に囚われる。

私はエリートとは程遠いが、それでも書面による資料には重きを置いている。その重要性は強く認識しているが、反面デメリットも痛感している。

たしかに文字により記録された資料の信頼性は高い。しかし、その書かれた時の状況次第では、ウソあるいは恣意的な虚報が記録されている場合だってある。

守秘義務があるので具体例を書けないのが辛いところだが、私自身堂々とウソを書くことがある。悪意はないと思うが、ウソはウソである。しかし、そのウソを書かねば、自分よりも相手に被害が及ぶこともある。自身の身の安全を図る必要性がある場合だってある。

これは特段おかしなことではないと思う。言論の自由が保証された現代でさえ、常に本当のことを書ける訳ではない。まして、言論の自由がない時代に生きてきた人たちは、可能な限り真実を書こうとしても、それが出来ない場合は少なくなかったと思う。

一例を挙げれば、戦前の日本史の教科書には大化の改新の記載はあっても、白村江の敗戦の記載はなかった。古代における最大のクーデターであった壬申の乱も記載されておらず、ただ単に天智から天武へと皇位の継承があったと記載されているだけである。

この国定教科書が使われていたのは、わずか百年前であることを思えば、千年前においてどれだけウソの記載、真実の不記載があったのかは容易に想像が付くと思う。

ところが、これが分からないお勉強エリートは多い。書いてあることイコール真実だとは云わないが、信ぴょう性は高いと思い込む。その癖、歴史の評価には時間が必要だと言う。

歴史上の大事件が起こった当時に書かれた資料を一次資料として高く評価する一方で、その数十年後に書かれたものは信ぴょう性が低いなどと平気で言いだす。

だから天智天皇は自然死であり、暗殺なんて記録は当時はないと言い、その後しばらく経ってから書かれた資料に暗殺を伺わせる記録があっても、それは疑わしいと判じてしまう。疑わしいのは、おめえの頭だ。

天智の死に関わった可能性が高い天武が目を光らせている時期に、暗殺説なんて書ける訳がない。当時、言論の自由なんて存在しない。いや、現代だって、すべての記録が真実を書いている訳ではない。

その意味で、ありとあらゆる歴史書はウソだらけだと暴言を吐いても、そう間違ってはいない。でも歴史を記す人々にだって意地はある。古代日本史の聖典扱いされている日本書記だが、これには執筆者の意地が仕込まれている。

日本書記はぶっちゃけ天武天皇ヒーロー史の側面があるのだが、その天武天皇の生年月日が記載されていない。歴代天皇の中で生年不詳なのは、天武ただ一人である。

天智の弟とされているが、これが怪しい。おそらくだが、血縁はあるにはあるが、非常に薄い親族程度の関係なのではないかと思う。実は万世一系とされる天皇家だが、かなり怪しい。

はっきりと怪しいのは継体天皇である。遠い血筋らしいが、この方おそらく本家筋ではないと思う。同時に、天武天皇もまったく別系統の血筋ではないかと疑われる。もちろん、そんなことは聖典たる日本書記には書いていない。

だから表題の書は、伝統的歴史学者から非難轟々である。学問的検証に耐えられぬ俗説だと誹謗されている。私は彼らを日本書記原理主義者だと考えている。

科学的思考よりも聖典を信奉する信者なので道理が通じない。このような方々が、日本の学界の頂点に君臨しているのだから、日本の前近代性は未だ健在であると云わざるを得ない。

聖典を信奉する信者は、世界中いたるところにいるが、そのうち一番厄介なのは、イスラム原理主義者でもなければ、中華思想に囚われた特亜の人々でもない。アメリカにおいて聖書を文字通り真実だと捉えるキリスト教原理主義者である。

現状、カトリックやプロテスタントに次ぐ第三の新派といってよいほどの隆盛を誇る。アメリカがしばしば前近代的とも云える妙なことをやらかすのは、この聖書原理主義者の影響が大きい。

困ったことに、この手の原理主義者は、一個人としては誠実で真面目な良識ある市民であることが多い。これは日米ともに共通するから、尚更厄介だと思う。

信じ込むのではなく、自らの知性で物事を論理的に考えることに自覚がない善良な人たちなので、本当に面倒だと思う。井沢元彦氏には彼らに負けないよう、しっかりと論理的考証と推察により、新たなる歴史を追い求めて欲しいと思います。
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