ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

日本大地図帳 平凡社

2010-04-30 09:30:00 | 
たまには地図を見てみよう。

私は地図を見るのが大好きだ。地図をなぞり、まだ見ぬその地を脳裏に描く。この道を進めば、あそこへ行けるはず。でも、少し迂回すれば、あれとこれも見れるぞ。

部屋に寝転がりながら、地図をながめてあれこれ想像して楽しむ。これは、なかなかに楽しいのだが、この地図上の空想旅行を楽しむには、それ相応の地図が求められる。

具体的には、綺麗に描かれた地図でないと駄目だ。単に精度とか正確さだけなら、国土地理院が発行している五万図で十分なのだが、これはそっけない地図で、実用的だが楽しくない。

やはり色鮮やかに描かれた地図は、それ相応に高いが、見やすいだけでなく、美しく、かつ楽しい。これは職人技というか、地図を描く人の技量による部分が大きい。従って、いい地図は高い。

実を言えば、事務所を独立した際、一番最初に買った高額書籍こそが表題の地図帳。私は地図を眺めているだけで、時間を潰せる。地図はさまざまなことを教えてくれる。

現在、鳩山・民主連立内閣にとって最大の懸念事項が、アメリカ軍普天間基地の移設問題だ。現状でみるかぎり、県外移設は不可能に近い。でも、相変わらず一部の反対論者が騒いでいるようだ。

地図をみてみよう。

沖縄列島のある場所は、大陸と太平洋との境にある。かつてはベトナム戦争における後方基地として、兵站、訓練、休養地として重要な役割を担っていたのが沖縄の米軍基地だ。

だが、アメリカが沖縄に基地を置いたのは、ベトナムのためではない。地図をみてみれば良く分る。日本列島から曲線を描いて台湾までの中間点にある沖縄は、その地理的条件ゆえに対ユーラシア大陸のための重要拠点とならざる得ない。

アメリカは20世紀初頭以来、大西洋と太平洋を自国の防衛圏と看做している。大西洋の端にはブリテン島を、そして太平洋の端には日本列島を最重要防衛拠点と看做した国家戦略をとっている。

沖縄は、その太平洋の端の拠点として極めて重要な役割を担っている。沖縄の人々がいかに米軍基地を厭おうと、手放すことは在り得ない。地図をよく見てみれば、そのことが良く分るはずだ。

もしアメリカが沖縄を放棄するとしたら、それは太平洋の防衛拠点としての日本列島を放棄する時だと思う。すなわち日米安保が不要になった時だ。

かつてアメリカ軍は、日本攻略の第一目標として沖縄を目指した。ここから北上して日本列島侵攻を目論んだ。沖縄の地は、日本列島に攻め入るには絶好の拠点でもある。

現在、ユーラシア大陸の端において、経済成長を糧に軍事成長を大幅に伸ばすシナの政府にとって、沖縄のアメリカ軍基地の存在は目の上のタンコブに近い存在だ。

北京政府は、以前からアメリカによる一極支配構造に異を唱えてきたのは周知の事実。ただ、沖縄の米軍基地の存在が、東シナ海や南シナ海におけるシナ海軍の自由な行動を束縛する、目に見えぬ鎖となっていることを承知している。

だからこそ、鳩山内閣発足以来、北京政府は日本に対する攻勢を弱めている。アホぽっぽ政権が、もしかしたら沖縄米軍基地を取っ払ってくれると内心期待しているのだろう。あるいは米日関係が悪化するだけでも十分な成果だと考えているのだろう。

繰り返しますが、沖縄列島は大陸に目を光らせる拠点でもあるが、その一方日本列島へ侵攻する拠点としても有意義な場所にある。つまり戦略的にきわめて重要な拠点なのだ。

沖縄を本当に大切に思うのなら、アメリカ軍を駐留させておくことは、十分日本の国益に叶うと私は思うね。
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ワーストワンかもしれない

2010-04-28 12:26:00 | 社会・政治・一般
私が密かに戦後三バカ首相と呼び讃える政治家がいる。

まずは鈴木善行。いくら角栄の操り人形とはいえ、首相は国の顔。国際感覚欠如のボンクラぶりは許しがたい。アメリカからこれほど不信感をもたれた首相も珍しい。その場しのぎを絵に描いたよう無節操でしたね。

続いて福田赳夫。誘拐ビジネスは儲かるとお墨付きを付けて、国際社会から批難されたウツケ者。安全な霞ヶ関と永田町しか知らないエリートであるため、現場感覚のなさが致命的な温室育ち。

止めは村山富市。バブル崩壊後の後処理をやらずに失われた10年を演出しただけでなく、長年反対してきた軍事条約に従う一方、その腹いせに阪神淡路大地震の被災者を救う努力を手抜きした卑怯者。

ところが、ここにきて三人をはるかに上回る勢いで、ボンクラ度、ウツケ度、卑怯度を急上昇させているのが、現首相であられる鳩山首相である。

首相になる前までは、もう少しマシな評価であった。いくらママのお財布頼みとはいえ、地味な裏方役を長年務めた功労ぶりは、鈴木善行にも劣らない。

優秀な成績で最高学府を卒業し、これまたエリート街道まっしぐらの期待のホープであったことも、福田赳夫にひけをとらない。

そして少数意見にも耳を傾け、声を荒げず、優しい顔を崩さないことは、村山富市に比肩するイイ人ぶり。

ところが、いざ首相になってみると、社会党出身かと疑うかのような反米姿勢は村山以上。軍事知識のなさと、国際政治の厳しさに鈍感な点は福田以上。そして少数意見にふりまわされる指導力のなさは鈴木以上。

戦後、いや憲政史上稀に見る無能な首相としての評価が固まりそうな有様には呆れる他ない。

非自民の大型政権を支えようと頑張ってきた大手マスメディアも匙を投げそうな勢いで失政を繰り返す。このまま夏の参議院選挙まで持つのか?

普通なら民主党内で、首相交代の動きが活発化してもおかしくないが、党内の真の実力者に牛耳られているせいか、その動きさえ見当たらない。

私としては、三バカ首相をバカ四天王に格上げするか、それとも鳩ポッポに王冠を与えるか思案中である。いずれにせよ、政治に失望し、政治を揶揄することだけが楽しみというのは、情けない限り。

次の参議院選挙まで、あと3ヶ月。たかが一票、されど一票。大事に使いたいものです。
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アストロ球団 中島徳博

2010-04-27 17:37:00 | 
十代の頃に年長者から、お前たちはしらけ世代だと言われたことがある。

たしかにそうかもしれない。私が十代を迎えたときには、70年安保闘争は既に終わっていた。熱く激しい学生運動という激流は、無力感と敗北感という名の澱みにはまり、どろどろと蠢くだけになっていた。

「あなたは、もう忘れたかしら、赤い手拭マフラーにして~♪」と神田川のほどりで過去を懐かしむのは、老人ではなく若者だった。

社会人としての新たな門出を迎えても、「就職が決まって、髪を切ってきた時、もう若くないさと、君に言い訳したね~♪」などと、自虐的にふるまう若者が珍しくない時代だった。

たしかに白けていた。社会に向けて、熱い希望を夢見る時代ではなくなっていた。ただ、生きる術として会社に入り、給料をもらって生きるだけ。そんな風に、見られていたことは確かだ。

別に言い訳する気はない。でも、そんな上から目線で辛辣に評する大人たちが、学生運動の失敗を自分たちに押し付けていることぐらいは分っていた。そのくせ、反論する気概さえないのだから、白けていると言われても仕方ない。

そんな白けた時代に、突如として現われたのが表題の漫画だった。

とにかく熱い。猛烈な熱血野球漫画だった。理屈はよく分らないが、凄まじい魔球が唸りを上げて投じられる。それを迎え撃つバッターは、血の汗撒き散らしてバットを叩きつける。

あげくに影腹を切って試合に臨んだり、息も絶え絶えに走塁して、ホームを前に憤死したり、常識はずれの野球漫画であった。

今でこそギャクのネタにされる有様だが、私の記憶では当時の少年たちは夢中になって読んでいた。誰も、そのあまりに常識はずれの熱血具合を揶揄したりはしなかった。

しらけ世代といわれた私たちだったが、心の奥底には熱い思いが眠っていたのかもしれない。この漫画を読んで、野球をやろうと決意した少年はいないと思うが、その熱血をバカにするような白けた少年も当時はいなかった。

誰もが熱い情熱に憧れていたと思う。ただ、その情熱をそそぐ対象に恵まれなかっただけだ。

今だから分るが、当時の若者たちを虚無感に陥れたのは、大人たちの責任だ。アメリカの軍事的庇護下に守られながら、経済(金儲け)に奔走できる幸せを認識せず、現実離れした理想に邁進していた戦後の熱血世代こそが真犯人だ。

平和憲法などという誤魔化しに安住して、辛辣な現実から目を背け、麗しい理想(平等で差別のなく、戦争もない社会)に逃げ込んだ大人たち。現実に敗退した屈辱を直視せずに、出来もしない理想についてこない若い世代を白け世代などと蔑んだ。

大人たちが掲げる理想が現実的でないことを直感した若者たちが、しらけてしまうのは必然だと思う。社会に理想の実現を期待しなくなった若者たちは、政治や社会問題に目をそむけ、経済活動に邁進した。

その結果、バブル経済に突入してあぶく銭に溺れて、倫理観も社会的使命も喪失した。大人たちが若者に夢を与えることが出来なくなったつけが、不透明で活気のない社会を作り上げた。

ただ、過剰に熱血なだけの野球漫画が、今の時代にギャクの対象とされるのは当然かもしれません。
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若者はなぜ三年で会社を辞めるのか 城繁幸

2010-04-26 12:41:00 | 
年功序列という名のエレベーターから転げ落ちた。

難病を患い、入院生活と自宅療養を繰り返していた3年目のことだ。会社から傷病期間が2年を超えたことによる解雇通知が届いた。

別に復職する気はなかったし、事前に分っていたことではあるが、その意味するところの重みに考え込まざる得なかった。一応、就職活動における本命の会社ではあった。一部上場、業績好調、活気アリと悪くない職場であった。

いささか残業が多いが、仕事の遣り甲斐はあったと思う。身体を壊すほどに激務であったが、少なくても気持ちは充実していた。

働いていた当時、このまま仕事中心の生活を送ると、やがて結婚して家庭を設け、自宅を買ってローンを抱え込み、ますます会社から離れられなくなると、漠然と思っていた。定期昇給と出世は当然だと思っていたし、社長はともかく、役員クラスまで目指すことは男の義務だとさえ思っていた。

そのためには人生の大半を会社に投げ打つ覚悟が必要だろうが、それに見合う対価はあるはずだと期待していた。おそらくは昭和の頃までに会社員になった若者の大半は、そう思っていたはずだ。

ところが、その道から転落してしまった。このことが意味するところは大きい。終身雇用と定期昇給がセットになった日本の就業形態では、就業期間が重要な意味を持つ。働く期間が長ければ長いほど対価(給与、退職金、年金)は大きく、逆に短ければ対価は少ない。

横並びの給与体系において、一度この流れから外れてしまうと、戻って取り返すことは不可能に近い。1~2年ならともかく、私のように5年以上遅れる場合、相当なハンデキャップとなる。金額にすれば数千万であり、年下の上司、年下の同僚といった、いささか働きづらい環境もバカにならない。

私は自分の人生について大きく軌道修正を考えざる得なくなった。もっとも、その時点では病気の治療の目処も立たず、まずは自分の健康回復が最優先であった。でも、考える必要はあった。

率直に言って、私は際立った才能の持ち主ではない。地道な努力を積み重ねて、成果を上げることしか出来ない不器用ものだ。だからこそ、年功序列と終身雇用のエレベーターこそ最適な生き方だと思っていた。

しかし、それが叶わぬ以上、別の生き方を見出さねばならなかった。その答が税理士業であった。弁護士や公認会計士も考えたが、病み衰えた私の身体では、まず受験生活が不可能であった。なにせ、当時は半日の外出(通院か図書館)をしただけで二日は寝込んでいた。

その点、税理士試験は科目別受験が可能であった。全5科目、一年一科目の五ヵ年計画で合格するつもりだった。もっとも、いざ勉強を始めてみると、個別の難易度では司法試験や公認会計士試験に劣ることはなく、猛勉強が必要だった。おかげで勉強を頑張りすぎ、何度も病気を再発させて、主治医と喧嘩しながらの受験生活であった。

結局、私は社会復帰を果たしたのは、発病から9年目のことであり、また独立開業を果たすには、更に15年の歳月が必要であった。人生、楽じゃないと、つくづく思う。

随分と遅々たる歩みだと思われるかもしれないが、簡単なことはすぐに出来るが、難しいことは時間がかかると私は納得している。それだけに、表題の本のタイトルには、かなり挑発された。3年で辞めたって、それじゃキャリアにならないだろうにと反発した。しかし、それは早とちりであった。

表題の本で著者は、「最近の若い者は根性がなく、すぐに会社を辞めやがる」と嘆く大人に、そうではないと警鐘を鳴らした。バブル崩壊後、終身雇用と定期昇給という雇用形態が崩壊したにもかかわらず、年功序列を守ろうとしたことが若者の会社離れの原因だと喝破する。

いささか、誇張しがちな気もするし、少し若者に甘すぎるとも思うが、かなり正鵠を射ている。ただ、では今後の若者はどうしたら良いかが、いささか物足りない。自分で起業することの出来る人は、そう多くはない。

おまけに、日本の学校教育は役人になるには不足はないが、変化する社会状況に対応できるような思考力を養うには不向きなカリキュラムだ。

つまるところ、最後は教育にいきつく。これから子供を社会に出そうとしている親御さんは、是非一読したほうがいいかもしれない。不安を掻き立てられるとは思いますが、必要な現状認識だとも思うのです。
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引っ越しを前に

2010-04-23 12:27:00 | 日記
忘れもしない平成6年の春だった。

前年の12月に我が家に届いた税理士試験合格の通知は、私を歓喜というより安堵させた。これで受験はお終いだとの思いが強く、喜びよりも解放感のほうが強かった。

同時に、これからのことを思うと、いささか萎縮した。俺、働けるかな?

長きにわたる病気療養生活の安穏さに慣れすぎて、ビジネスの世界に再び身を投じるには不安が先立つのは仕方ない。だが、もう一つの不安が私を嬲るように追い立てる。

果たして難病歴のある人間を採用してくれる働き口はあるのだろうか。当時、警備員のアルバイトをしていたが、これは妹の知人の紹介もあり、スムーズに採用された。しかし、これからはそうはいくまい。

私の心配は的中してしまった。会計事務所の合同面接会の場では、どの事務所も好意的であった。しかし、個別で事務所を訪れて、具体的な話になるとやはりいけない。

はっきりと健康の不安を指摘する方もいれば、曖昧に誤魔化す人も居る。一番積極的に私を評価してくれた事務所も、数日後医者にアドバイスを求めてみた結果、不採用となったと正直に告げてくれた。

私は面接を4件ほどこなして、どこも同じ杞憂を口にすることが分り、とりあえず再就職を中断した。いや、正確に言うなら失望のあまりふて腐れて寝転んだ。

やってられねえよ。

警備員のバイトを続けながら、冷静に考えると、これから3月までは業界的に繁忙期だ。今、その忙しい仕事場に飛び込んだら、どうなるだろう?もしかしたら、身体が耐え切れずに再発するかも。それは嫌だ。うん、ここは一休みして、暖かくなり、業界も落ち着いたら再び就職活動を再開しよう。

うん、分っている。自分をなぐさめるだけの誤魔化しであることは。でも、この精神的なダメージから立ち直るには、ちょっと時間が欲しかった。

なまじ自分の才幹に自信をもち、また難病からの回復を誇りに思っていただけに、予想以上に私は落ち込んでいた。幸い時季は冬だ。冬眠する熊に倣って眠るのもイイもんだ。

で、三月も終わりに近づき、朝日新聞の求人欄にあった小さな募集広告。住所は銀座?馴染みのない場所だが、まあいいか。

電話で予約して、訪れた雑居ビルの奥に、その小さな事務所はあった。初老の男性が面接に応じてくれた。この方が佐藤先生であった。

驚いた、あるいは呆れたことに即決であった。後日知ったのだが、佐藤先生も肺結核で軍隊を長期離脱した上での療養生活(当時は死病だった)の経験があり、また40代からは糖尿病を患いながら税理士稼業をやってきたそうだ。

あれから16年、佐藤先生がお亡くなりになって、早五ヶ月となり、この事務所を立ち退くこととなった。といっても、新しい事務所は同じビルの5階。少し狭くなるが、その分設備は新しい。

ただ、この新しい事務所に佐藤先生の面影を見出すのは難しい。机の配置もだいぶ変り、新たに購入し、または廃棄したデスクなどもあり、前の事務所の雰囲気は微かに残るのみだ。

だが、私は忘れまい。この古くて小さな事務所から私の税理士としての歩みが始まったことを。ここでの出会いがあったからこそ、始まったばかりの事務所の運営が上手くいっていることを。

春は出会いと別れの季節。私はこの春を一生忘れないだろうな。
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