ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

聖ロザリンド わたなべまさこ

2012-02-29 13:36:00 | 

本当の恐怖を私は知らないのかもしれない。

きっと、本物の恐怖に対面したのなら、私はガタガタと震え、膝から力が抜けて座り込み、あまつさえ失禁さえしているかもしれない。

もちろん、現実にはそんな経験はない。強いて言えば、小学生の頃、台風通過直後の海で高波に引き込まれて溺れかけた時か。あるいは高校生の頃、目前で山津波が起きて座り込んでしまい、立つことが出来なかった時ぐらいだ。

だが、私は相変わらず海で波に戯れるのが好きだし、難病で身体さえ壊さなければ今でも山に登っていたはずだ。いずれの恐怖も私の心に傷を負わせるほどのものではなかった。

本物の恐怖は、ある日突然現われて、私の心に深い傷をつけるはずだと確信している。

比較的それに近かったのは、20代前半入院時であろう。訳も分らず入院し、近所の病院に居られたのは2日間だけ。すぐに大学病院に移され、あっという間に透析されて、気がついたら寝たきり患者の仲間入り。

基本、楽天家で嫌なことは考えない私だが、どうもあまり好ましい状態でないことぐらいは分っていた。でも、具体的でないので、とりあえず暢気に寝たきりになっていた。

だが、担当の若い医師が漏らした一言「もう、大丈夫だから。命の危険は脱したからね」に考え込んだ。

そうか、やっぱり俺危なかったんだ。

もうイケナイ。その日、一晩中考え込んでしまった。もう安全だと分っている癖に、自分が死の淵でふらついていた現実が私を恐怖に陥れた。悩み、考え、もがき、あげくに翌朝には胃潰瘍になっていた。

どうも私は相当に気が弱いらしい。その気の弱い私が一度読んだだけで、もう二度と読みたくないと思ってしまったのが表題の漫画。

妹たちが買っていた少女漫画雑誌に連載されていたものであり、おそらく私はすべて読んではいないはず。私が読んだ時は、ヒロインが血抜きをやっていた時だと思う。

もっとも私はこの漫画の単行本は、長いこと見かけたことがなかった。絶版扱いであったと思うが、10年ほど前だが、文庫本サイズで復刻されていた。

最初は気がつかなかったが、手にとってあの恐怖漫画だと気がついた。買うか、買うまいか迷ったが、私は買うのを止めてしまった。

こんなヒロイン、目の前に現われたら困る。本当に困る。あたしゃ、出来るなら裸足でも逃げ出すね。いくら綺麗で可愛くても、これは御免被ります。

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光市母子殺人事件判決に思うこと

2012-02-28 12:59:00 | 社会・政治・一般
「未成年なら、人を殺しても死刑にならないんだぜ。ヘッヘヘ」

そう教わったのは、多分中学生の頃だと思う。へぇ~と思ったが、だからって人を殺してイイという理屈にはならないだろうと思った。

思ったが、その科白を口にした青年が、ひどく残虐で危なっかしい性格だと知っていたので黙っていた。この人なら、本当にやりかねないとも思った。

幸か不幸か、その青年はシンナーのやりすぎてオカシクなって、挙句に改造バイクを暴走させて壁に激突して死んでしまった。でも、もし生きていたら、箔をつけるとか云って本当に人を殺しかねない人だった。

ある意味、大人よりも青少年は残酷だ。激情を抑えきれず暴走して人を傷つけることは、決して珍しくない。いくら人間として未熟だとしても、その行為に対する結果責任を問うのは、社会として当然だ。

私は十代の頃から、未成年なら死刑にならないという事に違和感を持っていた。大人だろうと、未成年だろうと、やったことに対する責任はあるはずだと考えていたからだ。
 
第一、死刑にならないのだから人を殺してもイイと考えるような輩を跋扈させるのはおかしい。実際、あの青年だって死刑は嫌だったはずだ。だからこその科白だったと思う。

だが司法の壁は分厚くて、残虐な殺傷事件を引き起こした未成年犯罪者たちは、無期懲役の刑を受けて10年前後の刑期の後、釈放されて社会に戻っていった。

彼等に大切な人を殺された遺族は、怒りのもって行き場もなく、ただただ苦悶するしかなかった。

だが世情は変わった。被害者とその遺族の心情よりも、加害者の人権を守らんと正義の錦を振りかざすも、世間は冷たい眼差しを注いだ。

ようやく、ようやく、未成年者に死刑の判決が下され、先週最高裁で確定した。長年待ち望まれた判決だと言っていいと思う。

たとえ未成年でも、その犯罪の中味によっては死刑判決が下される。これで死んだ人が還ってくるわけでもなく、愛する人を殺された被害者遺族の気持ちが晴れるとも思えない。

だが、確実にある種の傲慢な若者を抑える警鐘にはなると私は確信している。

死刑を残酷だと非難する人が少なくないのは分る。死刑では犯罪を抑制する効果は少ないとの主張も分る。でも、未成年ならば何をしても極刑(死刑)にはならないと考える愚か者を増長させることはなくなった。これだけでも価値ある判決だと、私は信じています。
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オペラ座の怪人 ガストン・ルルー

2012-02-27 13:48:00 | 

記憶って、けっこういい加減だと分った。

表題の本は、ミステリーが推理小説と呼ばれていた時代でさえ古典であった。映画になったり、舞台で演じられたりしているので、ご存知の方も多いと思う。

私は映画や舞台は観てないが、小説は読んでいたと思っていた。そう思い込んでいた。だから、今回も再読のつもりで読み出したのだが、まるで印象が違う。

おかしいなァと思いながら読んでいたのだが、よくよく考えてみると、私が読んでいたのは小学生の時分。つまり子供向けに易しく翻訳されたものであった。

だからこそ、怪人の不気味さは覚えていたが、怪人と子爵の愛憎と嫉妬の件はほとんど記憶になかった。おかげで、ストリーこそ覚えていたのに、まるで別の話を読んだが如き印象となってしまった。

たしかに子供向けだと、男女の愛情と嫉妬の複雑な心象は理解しがたい。今回、改めて読んでみたら、怪人の恐ろしさはあまり感じず、歪みに対する憐憫の情のほうが強くなってしまった。子供の頃とは、まるで逆の印象に、我ながら驚いた。

ほぼ40年ぶりの再読であったが、子供向けの末ニ、大人向けの末フ違いもさることながら、読み手の受け取り方の違いにこそ驚かされた。

こりゃ、子供時代に読んだきりの読み物は、あらためて再読しなおす必要がある。あァ、またしても課題が増えてしまった。そう嘆きながら、口元が微かに緩むのも事実だ。

だって面白いんだもの。

子供の頃、読んだ本の再読、してみませんか?きっと面白いと思いますよ。

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超・格差社会アメリカの真実 小林由美

2012-02-24 12:09:00 | 

現代文明の中心が、アメリカであることは否定しがたい。

従わざるえないし、また正直憧れる部分もある。しかし、如何とも理解しがたく、また共感しずらい部分も少なくない。何故ならアメリカと云う国が、過去に例が無いほど特殊な国であるからだ。

なんといっても特異なキリスト教を育んでいる。福音主義派と聖書絶対派(ファンダメンタリスト)は欧州では、ほとんど見られない新興の宗派である。

基礎教育(小学校から高校ぐらい)までは、先進国としてはレベルが低いと断じてもいいが、高等教育(大学、大学院、研究所)レベルとなると世界最高水準を誇る。

どうも、公教育に対する不信感が強く、子供を学校に行かせない家庭も、そう珍しいものではない。高額な私立学校と、親自らの家庭教育が幅を利かす奇妙な先進国でもある。

自由を高らかに謳いながらも、その社会は貧富の差が著しい。これは建国当初からのもので、独立によりイギリスから資産を奪い、南北戦争により南部から富を奪い、二つの世界大戦でヨーロッパから市場を奪うことで莫大な富を築き上げた。

また人造国家の難しさから、人種差別の問題から抜けきれない。積み重ねた歴史が浅く共通理解を基盤とする常識が、他の国ほど固まっていない。そのために議論して裁判までせねば、共通の常識さえ合意ができない。戦争(あるいはスポーツ)がなかったら団結することが難しいのは、否定しがたい事実だと思う。

国内に多くの矛盾を抱えながらも、世界中の人々がアメリカに移住を望んでいる。いかに母国でアメリカの横暴を罵ろうと、家族や財産をアメリカに移し、将来は自らもアメリカ市民となることを望む外国人は少なくない。

実際、外国から移住してきた人への手厚いプログラムを用意し、早く社会に馴染めるように社会システムを整えている。それゆえ、アメリカの地を踏んだ外国人は、その解放的な空気に驚き、自由のありがたみを痛感し、努力して富をつかむことに熱中する。

移民の努力なくして、覇権国家アメリカは存在しえない。

しかし、多くのアメリカ人は世界情勢に驚くほど無関心だ。無知と言ってもおかしくないほどで、なぜアメリカが世界から嫌われるのかさえ、知らないアメリカ人は少なくない。

アメリカの報道を見てみると、驚くほど海外(アメリカ国外)の報道が少ない。なぜなら、有権者が関心を示さないからだ。当然、地方選挙はもちろん、議員選挙、大統領選挙でさえ国内事情だけで事が運ぶ。

いったい誰がこの国の外交政策を考えているのだ?

表題の本は、そんな特殊な国アメリカの実情を分りやすく解説してくれる。ずいぶんとアメリカに関する本を読んでいた私でさえ、初めて知ったことも多かった。

日本にとってアメリカは、厄介で剣呑ではあるが、唯一頼りになる国でもある。その国の実情を知る助けになると思うので、興味がある方は是非ご一読を。

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受験勉強

2012-02-23 12:26:00 | 日記

受験勉強は嫌いだ。

はっきりとそう自覚したのは高校生の頃であった。中学2年まで、ろくに勉強しなかったので、いざ高校受験の時は、あまりに必死で、受験勉強に好き嫌いをいっている余裕はなかった。

高校生になると、優等生(成績だけだが)を目指していたので、毎日予習を欠かさず、授業は復習と補足のためだと割り切っていた。

驚いたことに、予習をしっかりしておくと、つまらないはずの授業も面白かった。多分、先生はこのあたりに比重を置いて授業をするだろうと予測しておき、その予測が当たったときは痛快でさえあった。

夜更けまで勉強し、寝ぼけ眼で登校し、授業中に寝ている時、先生に指名され答えるように言われて、正解を述べて先生を黙り込ませるのは面白かった。

なによりも、事前に予習をしっかりしておくと、その授業の目的が明確になり、理解も進む。これが痛快で仕方が無かった。勉強って面白いのだと、10代半ばになってようやく気がついた。

だが、私が一番好きだったのは、暗記だった。主に古典、漢文では、先生から指示されて、冒頭の部分や、名文とされる文章を暗記する宿題が出されることが、しばしばあった。これが楽しかった。

平家物語の「祇園精舎の鐘の音・・・」とか方丈記の「行く川の流れは絶えずして・・・」を丸暗記させられた方は、結構多いと思う。

最初はつまらないと思ったが、やってみると面白い。名文とはこのようなものだと痛切に感じ入ったものだ。逆に嫌いだったのは、文法の暗記だ。今だから言うが、高校生のレベルで文法なんて学ばせても、たいして役に立たない。

あの文法のせいで国語を嫌いになりそうになった。あれは大学の教養課程でやればいい。文法を覚える暇があるのなら、古典を始めとした名文を沢山読み、暗誦し、心に刻むほうがよっぽど教養となる。

もう一つ、好きだったんが英語の原文で小説を読むことだった。だいたいが、読みやすいオー・ヘンリーあたりから入るのだが、目から鱗が落ちたような新鮮な感動を得た。

それまで翻訳されたものばかり読んできたが、原文で読むと同じ話を別のリズムで読むような印象があり、本気で英米文学を学ぼうかと思ったぐらいだ。

だからこそ、受験勉強が嫌いだった。なんて馬鹿らしい勉強をやらせるのだろうと、一人毒づいていた。まったく無駄とは、さすがに言わない。

面白くないことを、粘り強く読む試練になったことは認める。これは、これで大人になって必要とされることだ。しかし、これで学力向上につながるとは思えなかった。

文法やイディオムを100暗記するより、名文を一文節暗記したほうが、よっぽど教養になる。あの文章の意味を問う選択式の問題なんて、思考を硬直化させ、自らの知性と感性で判断する能力を衰えさせる。

つまらぬ思考力を養うよりも、過去の名文から思考をなぞるだけのほうが、はるかに知力を高めると思う。

思うに大学受験のための勉強なんて、与えられた情報から適切な判断をするだけの役人育成問題ではないか。役人を作る基礎訓練としての価値ならあると思う。

でも、自分の力で状況を見極め、未来への方向性を見出した上で、適切な方向を導き出すような総合的思索力を養うには、むしろ弊害が多いのが大学受験勉強ではないのか。

私は文系志望だったので、理系は分らないが、似たようなものではないかと思っている。

反発した私は、古典文法の勉強は放棄し、漢文と国語だけ勉強した。英語は単語の暗記と文章読解と作文だけやった。そして、残り時間の大半を世界史の勉強に充てた。

おかげで、予備校の模試だと世界史の偏差値は70近くあり、これで50台後半から60台前半の国語と英語をカバーするつもりで大学を受験した。

今にして思うと、いささか偏りすぎであり、少し意地を張りすぎた気がする。でも、最大の問題は、勉強の遥か上に学問があることを気がつかずにいたことだ。

私が学問の存在に気がつき、自らの知力の乏しさを自覚せざるえなくなったのは、呆れたことに20代も半ばを過ぎてからであった。

受験勉強を嫌ったが故に、勉強の先にある学問を見過ごしたのは、私の人生でも痛恨の失敗であったと思う。だから今でも、仕事が落ち着いたら再び大学の門を叩きたいと密かに願っている。

それが何時になるかは分らないが、遅くとも60前には始めたい。多分、まだその頃なら私の怠惰な脳みそも勉学に耐えられると思う・・・多分だけど。

ま、なにはともあれ、今は目前の仕事に傾唐ケざる得ないのですがね。

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