ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ゲームの達人」 シドニー・シェルダン

2007-07-31 09:30:31 | 
嘘をつくのは嫌いだと言ったら、やっぱり嘘になる。

意識して嘘をつくことはある。努力して嘘をつくことも、ままある。その気はないのに、結果的に嘘をついたこともある。

嘘をつかずに生きることが出来れば、そりゃ楽だと思う。嘘をつけば、その辻褄合わせに苦労するし、バレた時の気まずさは、可能な限り避けたいと思う。

嘘をつくなら、最後までつきとおしてと言ったのが誰かは忘れたが、けっこう胸を打たれた。口に出した以上、その言に責任を持たねばならないのなら、嘘を付き通すこともまた義務かもしれない。

どうせ嘘をつくのなら、他人を幸せにする嘘をついてみたいものだ。そんな嘘を撒き散らかす名人が、表題の著者だ。小説家って奴は、嘘を書き連ねることが責務だ。いかに上手に嘘をつくかが勝負の仕事でもある。

おそらく上手に嘘をつくには、楽しむことが必要なのだろう。表題の女主人公はそれをゲームと評している。ゲーム感覚で嘘をつかれては堪らないと思うが、たしかに上手い嘘だ。相手の希望通りに物事を進めるようで、しっかり手綱は握っている。最後に勝つのは私よ、と言わんばかりのゲームの達人ぶりをみせつける。

面白く読ませてもらったが、こんな嘘の達人が身近にいたら、凄く困る気がする。この本を読んで、自分もこのような嘘をついてみたいと考えた人って、けっこういると思う。嘘というより策略だと思うが、生半可な真似は、身の破滅を招く気がした。

くわばら、くわばら。私には向いてないな。読んで楽しむだけに止めましょう。
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「私、プロレスの味方です」 村松友視

2007-07-30 09:26:10 | 
胡散臭いからこそ、プロレスは面白い。

間違っても、プロレスを真剣な格闘技だと思ってはいけない。あれは格闘演劇に他ならない。シナリオがある場合もあるし、アドリブがある場合もある。真剣に演じるプロレスラーの演技力次第で、観客と一体になって楽しめる娯楽だと思う。演技とは、要するに観客を騙すことだ。嘘つきほど、面白いプロレスが出来る。嗚呼、なんて胡散臭いのだろう。

子供の頃からプロレスごっこが大好きだった私は、何時の間にやら気がついていた。ブレーンバスターにせよ、卍固めにせよ、技を受ける相手の合意がなければ、とても出来るものではないことに。ぶっちゃけた話、プロレス技のほとんどは実戦(喧嘩にせよ、試合にせよ)では使えない。

では、ツマラナイか。いやいや、とんでもない。プロ野球、プロボクシング、相撲、ローラーボールなど、いろいろあったが一番興奮したのは、やっぱりプロレスだった。

プロレスは八百長だからツマラナイと言う人がけっこう居る。真剣勝負でないと面白くない、と言う。本当か?

ボクシングは八百長の感は少ないが、ルールで限定しているため、ある種の不自然さは拭えない。だいたいが、本当の喧嘩(格闘)にルールなんてない。素人同士の喧嘩で最も有効なのは頭突きだが、ほとんどの興行系格闘技は禁止している。頭突きなしで、立ち技最強とか謳われても、なんかうそ臭い。

第一、本気の喧嘩なんざ、観ていて楽しいものでない。殴られて口の中を切って血を吐き、目を腫らして、髪を引き抜かれた姿を見て、どこが面白い?やってる時は興奮しているから、痛みに無頓着だが、負けて家に帰った後で痛みと後悔にさい悩まされるのが通例だ。観ているだけでも、痛みに同調してしまう。なにが面白いんだ?

私は後先考えずに、とりあえず殴りかかる口だったから、後でいつも後悔していた。喧嘩を観るのも、実はあまり好きではない。感情的に同調していれば別だが、冷静に第三者の立場で見てると、全然楽しくない。むしろ、鬱っとおしい。

その点、プロレスごっこは良かった。殴らないから相手を傷つけるストレスが少ない。単純に力と力の比べっこだから、素直に勝ち負けを納得できる。技を覚え、技をかけ、技を抜ける楽しみがあった。痛みはあっても、傷つく度合いが少ないから、後悔することも少ない。不思議なことに、殴り合いだとギブアップは言いずらい。しかし、プロレスごっこならば簡単に言える。

殴り合いだと、最初は冗談でも、次第に本気になることが多い。その点、プロレスごっこは相手の合意がないと技もかからないから、互いに了解しあっての遊びで終われる。うん、やっぱりプロレスは面白いぞ。真剣に遊ぶのって、とっても楽しいんだぞ。

表題の本は、プロレス八百長論争に妙な大人の屁理屈をひねり出した本だった。読み物としては面白い。面白いけど、どこか違和感が拭えなかった。プロレスの面白さなんて、単純に身体をぶつけ合い、力を比べあい、危険な技に挑む面白さで十分だと思う。

この本が出てから、妙にプロレスが理屈っぽくなったと思う。当のプロレスラーにも感化された人がけっこういたから、活字の威力は恐ろしい。読んだ当時は、私もけっこう説得されてしまった口だ。でも、振り返ってみると、やっぱり屁理屈だよなと思う。してみると、作者の胡散臭さに、見事にはめられたわけだ。後に直木賞をとったのも当然の筆力なんだと感服です。
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沢登り

2007-07-28 13:08:00 | スポーツ
夏の遊びとして欠かせなかったのが川遊びだった。

大学に入ってから覚えた川遊びが、沢登りだった。通常登山は尾根筋を登るが、沢伝いに登っていく道もある。わざわざ川のなかにジャブジャブ入っていき、登っていくのを「沢登り」と称する。どうも、日本独特の登り方らしい。

夏の沢登りは、実に楽しい。岩登りの技術を駆使しつつ、遊び心一杯に沢を遡上する。時にはザイルを張らねばならない危険な箇所もある。実は沢筋のルートは、登山道のなかでも崩壊が多く、必然的に事故が多い。

余談だが、山で道に迷った時は、断じて沢筋に降りてはいけない。沢を下れば、間違いなく人里に出れるが、下るのは登るより難しい。まして沢筋は危険が多く、山での事故の多くは沢筋の斜面で起こる。道に迷ったら、必ず尾根を目指す。日本の山なら、尾根筋には必ず道があります。尾根を下るのは難しくない。

ところがだ、危ないからこそ面白い。ある程度経験を積むと、回避できる危険、挑んでも克服できる危険の判断が出来るようになる。沢登でも、あまりに危ない時は迂回して登る。実は沢登りは頂上を踏むことを目的としていない。沢を詰めれば、大概が尾根の鞍部にたどり着く。別にわざわざ頂上を行く必要はない。たどり着くまでの過程が面白い、山遊びだからだ。

私のお気に入りは、東京の奥庭である奥多摩の御前山界隈の沢だった。滝というより、ウォータースライダーとでも称したくなる斜面を、水を浴びつつ登るのは、実に爽快だった。初心者向けの沢でもある。

大学の遭難対策委員会の企画で、いくつかのアウトドア・サークルの希望者を募って、沢登りをするつもりだった。前日に台風が通過したので、少し天候が心配だった。しかし、奥多摩の駅を降りると、夏の青空が気持ちよく迎えてくれた。

バスを降り、林道を歩いて目指す沢にぶつかったところで、山に分け入る。すぐに快適な滝が出迎えてくれるはずだった。ところが、鬱蒼とした雑木林の奥から低い轟音が鳴り響く。何の音だと首を傾げながら林を抜けて、滝つぼに出た我々は絶句した。

いつもなら50センチほどの幅の滝が、3倍以上の太さで轟音を響かせている。ドラム缶2本分くらの太さの水流が、凄まじい勢いで滝つぼに突き刺さっている。東京の街中では、ザッ~と雨が通り過ぎただけだったが、奥多摩では豪雨であったらしい。

講師役の山岳部の若手の顔が引きつっている。こりゃあかん。私とて、初心者を連れては、とても登りきる自信はない。やむなく大きく迂回して、水量の少ない上部の沢だけの登攀で我慢した。いや・・・上部も相当な水量で、内心ヒヤヒヤだった。

自然は怖い。ほんの一晩の雨でこれだ。登山なんて遊びは、自然の寛容さに甘えての遊びなんだと、つくづく思い知った。
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参議院選前夜

2007-07-27 09:20:25 | 社会・政治・一般
毎日、選挙カーの宣伝がうるさい。

いい加減名前を連呼する選挙スタイルは止めたほうがいいと思う。うるささへの反感から投票する気が失せるゾ。それはともかくも、相変わらず気になるのが護憲派の主張。

本当に現行憲法を守りたいのか?

もし、本気で憲法を守りたいのなら、まず第一に自衛隊という軍隊を解散すべきだ。また、宗教法人が運営する学校への補助金(税金)の支出を廃止すべきだ。それが憲法を守ることだと思う。

憲法とは、政治権力者と統治される国民との間の約束事だ。聖徳太子の掲げたような、政治の理想を掲げるものではない。有権者たる国民が、必死の思いで権力者に認めさせた大事な約束が憲法だ。少なくとも欧米ではそうだ。

どうも、日本では違うらしい。

私は戦前の軍部の独走は、明治憲法の機能不全が原因だと考えている。具体的には統帥権の所在になる。法治国家であるならば、法に基づいて政治は行われるべきだが、明治憲法が現実に即さないゆえに、軍部に濫用され、政治が暴走したと考えている。

明治憲法は天皇に全権を委ねていたが、実際には政府が実権を握っていた。天皇は実権を握る気はなく、それが暗黙の了解でもあった。江戸幕府を唐オて支配権を握った薩長の実力者には、天皇を盾に実権を振るうことを可能にした、実に便利なものであった。

しかし、文民たる政府首脳が軍部を支配する器量が低下すると、軍部は天皇を盾に勝手を始めた。政府にはそれを十分抑制することが出来なかった。そして戦争への道を突き進んだ結果が敗戦だったはずだ。

憲法を侮ってはいけないと思う。現実社会の実態に合わぬ憲法は、法治を機能不全化させる。それが浮「。

日本という社会は空気(社会的雰囲気)が強い力を持つ。雰囲気に呑まれて、暴走しやすい傾向を有している。だからこそ、憲法をないがしろにしている今の現状は良くないと危惧する。

自衛のための軍備を認め、有事法制を整備して、文民統治を実用の域まで高めるべきだ。国連軍への派遣(というかアメリカ軍への協力)だって、付記して憲法上で認めねば、ますます憲法は空文化していく。

私は法治を信じたい。だからこそ、法を現実に適したものに改めるべきだと思う。
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「深夜プラス1」 ギャビン・ライアル

2007-07-26 12:07:44 | 
この本を読むと思い出すのが、シトロエンDSというフランスの車だ。

やり手の営業マンで稼ぎも良かった父が、私の幼少時に乗っていた車でもある。母の話では、すぐ車酔いするため、車を嫌った私が喜んで乗っていた車が、シトロエンだそうだ。ハイドロ・システムとかいうガス圧を使ったサスペションが特徴の車で、独特の乗り心地が有名な車でもある。

石畳の道が多いフランスで開発された車で、はっきり言ってかなりマニアチックな車だ。デザインも独特で、そのシルエットは今見ても先進的だと思う。ただ、整備が難しく、近所に適切な整備工場がなかったので手放したと聞いている。

ちなみに父は離別後ヨーロッパへ渡り、当地でもシトロエンに乗っていたらしい。でもアウトバーンでメルセデェスに抜かれたのが悔しくて、ドイツ車に乗り換えたと聞いた。大学生の頃シトロエンに乗りたいと言ったら、あれは整備が大変だから素人には無理だと断られた。

自分の仕事に誇りを持つプロが、拘りを持って乗る車、それがシトロエンだと思う。そんなプロ同士の壮絶な戦いを描いたのが、表題の本だ。日本では冒険小説の私設宣伝マン、内藤陳氏の紹介で広く知られるようになったと思う。

この本を読んで、プロのガンマンの仕種を真似した人、けっこう多いと思う。そのくらい、登場人物が皆かっこよかった。でも、このかっこよさは男性限定かもしれない。女性に勧めても、あまり感心されたことがない。多分、こだわる部分が違うのだろうと思う。
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