ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

野党共闘に思うこと

2016-10-31 13:27:00 | 社会・政治・一般

民主主義における多数決原理が、未だに理解できていないのではないだろうか。

このところ、民進党、社民党、そして日本共産党などの野党が選挙などで共闘を目指していることは、新聞等の報道で目にするところである。

議会政治においては、数こそ力であり、野党が力を合わせて政権を取ろうとすること自体には異論はない。

しかしながら、違和感を禁じ得ないのは、彼ら野党政治家は、民主主義における多数決の意味を捉え違いしているように思えてならないからだ。

多数決原理が働く議会において、多数派であるからこそ政権が担える。この場合の多数派とは、多くの有権者の支持を得ている政治家の集団を意味する。有権者の支持とは、有権者の期待であり、願いであり、それこそが民意である。

主権在民とは、政治において主権者たる国民の意を汲むことに他ならない。・・・はずである。だが、実際には、必ずしもそうではない。如何に自民党の議員が綺麗ごとを公約しようと、実際には利権を追い、利権にぶら下がり、民意を蔑ろにしてきた面があるのは事実だ。

それでも有権者の多数は、自由民主党を支持してきたのは、それが民意を実現する、民意を反映するのに最も相応しいと判じたからだ。より正確に言うならば、民意を反映できる他の政党がなかったからでもある。

ここに、最大の問題がある。

野党、それも万年野党であった旧・社会党にせよ、日本共産党にせよ、民意を反映する政党ではなかった。だからこそ、彼らは常に少数野党であり続けた。しかし、これらの左派政治家たちは、決して自らが少数派である理由を直視しようとしなかった。

彼らは概ね善人であったと思う。そして、自らが弱きものを助け、公平な社会を実現しようとの志を抱いていることに誇りをもっていた。なによりも、社会の不正を憎み、理想とする社会の実現のために政治家を志した。ここに嘘はない。

しかし、彼らは自らの正しさを確信するがゆえに、自分たちが多数派になれない真の原因を、決して直視しようとしなかった。自らを正しいと規定したがゆえに、自らの過ちを認められなかった。

ここに、とんでもない傲慢さがある。自分たちの理想、主張は正しい。だから、有権者は我々を支持すべきだと勝手に決めつけた。民意を政治に反映させるのではなく、自分たちの理想を政治に反映させるためにこそ、自分たちを支持すべき有権者が存在するとしてしまったことに気が付けなかった。

善意溢れるがゆえに、傲慢になっていた。すなわち、主権は有権者でなく、政治家にこそあるべきと思いあがっていたのだ。

だから、彼らは民意に耳を傾けてこなかった。勝手に選挙公約やら、マニフェストやらを作って、それを支持するのが有権者の正しいあり方だと思い込んでいた。その結果が、あの民主党政権の3年間であった。

日本国民は平和ボケした愚民であるかもしれない。しかしながら、自分たちを道具扱いする政治家を見分けられないほど愚鈍ではない。当然に、彼ら左派政治家は、一部の熱心な支持者からしか得票できない。結果、彼ら左派政治家は少数派となる。

善意に酔い痴れた彼ら左派政治家には、自分たちが多数派となれない現実を理解できない、したくもない。だから、自分たちが間違っているのではなく、世間が間違っていると自己正当化してプライドを守った。有権者から見放されても当然である。

そして、社会党が解党し民主党になり、更に党名が変わって民進党になっても、また宮本議長が亡くなり10年以上たった日本共産党においても、未だ変わっていない。彼らはいつも自分たちが正しくて、世間が間違っていると頑固に思い込む。

うわっつらの言葉に騙される馬鹿な若者はいるようだが、多くの有権者は彼らを見抜いている。現状で判断する限り、野党共闘はたいして結果を出せないと思います。つまり、日本においては、未だに健全な野党が存在しないことを意味するわけで、それは確実に与党を増長させて腐敗させる。

私としては、未だまともな野党が存在しないことこそが、日本の最大の不幸であると云わざるを得ませんね。

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スパイク A・ボルシュグラーヴ&R・モス

2016-10-28 12:47:00 | 

訳ありの名作。

私がこの作品を読んだのは、今から30数年前の大学生の時であった。当時は大々的に取り上げられていて、欧米で評判のスパイ小説の白眉などと囃されていたと記憶している。

しかしながら、現在は絶版状態であり、古本屋でも探すのは難しい。

おそらくだが、作者の一人、アーノルド・ボルシュグラーヴ氏の経歴が怪しすぎることが原因ではないかと思われる。

父はベルギー亡命政府の貴族であり、母は英国貴族で陸軍将校の娘という折り紙つきの血統であり、英国海軍で従軍した後、ニューズウィーク誌の特派員として世界を巡る。この時期に多くのスクープ的記事を輩出し、世界的にも高い評価を受けたジャーナリストであったことは確かだ。

西側のみならず、東側の政治家とも太いパイプを持ち、多くのインタビュー記事をものにしている。その後にUP通信社の経営にもタッチするが、問題はワシントン・タイムスに関わっていたことだろう。

有名なワシントン・ポストとは異なり、これはタブロイド紙であるばかりでなく、スポンサーはあの世界統一教会である。もっとも信者ではなかったようだが、その紙面はいささか温和とは言いかねるカルト的タブロイドであった。

どうも経営危機に陥ったUP社の資金問題が絡んでいるようであるが、その後のコラムの盗作疑惑などもあり、晩年は表舞台から姿を消したジャーナリストでもあった。

だが、これだけなら、日本で絶版されても、その名は残っていてもおかしくない。事実、イギリスのガーディアン紙は、後世に残すべきスパイ小説の一つに「スパイク」を取り上げている。しかし、今の日本でこのタイトルが大きく取り上げられることはないようだ。

実は、そこにこそ、この作品の真価があるように思う。この作品で取り上げられているのは、冷戦中にソ連の情報部が、如何に西側のジャーナリストを籠絡し、西側の防衛体制を損なうような記事を書かせていたことが、その手法も生々しく語られている。

日本のことは、まったく取り上げられていないが、読んでいるうちに、これと同じことが日本でもあったに違いないと確信できるほど迫真性の高いスパイ小説なのだ。

正義感溢れる日本の記者様には到底容認出来ない内容であろうかと、私は邪推している。だからこそ、絶版にされ、再評価されることもなく埋められたに違いないと、私は勘繰ってしまう。

何度も書いているが、私は日本のマスコミについて、かなり偏った評価をしている。だからこそ、この作品で書かれたことが、実際に日本でもあったのではないかとの疑いを拭いきれない。

探すのは容易ではないと思いますが、もし入手できたら是非とも読んで頂きたい一冊です。

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土人報道の偏り

2016-10-27 14:08:00 | 社会・政治・一般

やったら、やり返す。それが人間の本性というものだ。

土人という言葉は、本来は土着、もしくは原住民としての呼称であったはずだ。しかし、近代化というか都市化が進むにつれて未開人、野蛮人の意味合いが強くなり、現在は蔑視の意味が強い差別語として認識されている。

だから大阪府警の機動隊の隊員が、沖縄まで繰り出されてヘリメ[トの建設現場で、反対派に対して「土人」と言ってしまったことは、失言であり、蔑視語であることは間違いない。だから非難されても致し方ないと思う。

しかし、この報道はあまりに偏っている。

これは、機動隊に限らないが、警護任務に就いている時の警官は無口だ。話しかけても、相手にされないし、まず喋らない。子供の頃からの警察嫌いである私の経験に照らしても、連中は雑談にすら応じないことが多い。

その警察官を苛立たせ、あげくに「土人」という差別語を口にさせ、その映像の録画にまで成功したプロ市民の見事な作戦勝ちであろう。大手のマスメディアはあまり書きたがらないが、沖縄の反米軍基地活動の主力は、日本本土からやってきたプロ市民である。しかも日本人だけではない。

沖縄にも米軍基地に反対する人は確かにいる。しかし、基地を容認している人たちも少なからずいる。それが知られていないのは、マスコミが報じないのと、容認している沖縄の方々が、反対派との軋轢を配慮して黙っているからだ。

そこに付け込んで、オール沖縄=米軍基地反対との情報操作を企むのがマスコミであり、プロ市民たちである。今回の「土人」発言だって、その反応を引き出すために彼らプロ市民が、警護の機動隊員へ浴びせ続けた卑劣な罵倒であったことを報じる大手のマスメディアは少ない。

警官たちに向かって「子供を学校に行かせないようにしてやる」とか「自宅に街宣車を送り込む」といった脅迫めいた暴言を繰り返していたのは、他ならぬプロ市民たちである。

この卑劣な暴言に対して我慢しきれずに、苛立ってしまい、とうとう「土人」などと発言してしまった機動隊員は、ある意味被害者である。差別発言は良くないと思う反面、では、その差別発言を引き出したプロ市民たちの罵声をマスコミが報じないことは、明らかに不公平だと思う。

売り言葉があるからこそ、買い言葉がある。買い言葉だけを取り上げるマスコミの姿勢は、明らかに恣意的であり、むしろ事態を捻じ曲げることになる。このような偏った報道ばかりしているから、マスコミへの信頼は低下するのだと、何時になったら気が付くのでしょうかね。

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スタートレック BEYOND

2016-10-26 11:57:00 | 映画

白状すると、子供の頃は「スタートレック」は、それほど好きではなかった。

だって、怪獣が出てこない。私には「キャプテン・ウルトラ」のように宇宙怪獣と、正義の戦艦とのバトルのほうが楽しかった。人間ドラマとしても秀逸?

そんなの、子供にゃ関係ない。怪獣が見たいんだ、怪獣が暴れるところが見たいんだ。だから「スタートレック」は物足りなかった。エンタープライズ号も、それほど格好いいとも思わなかったしね。

ところが中学生の頃から読みだした、早川書房で刊行していた「スタートレック」シリーズは、けっこう面白かった。子供の頃は理解できずに、素っ飛ばしていた乗務員の人間関係の面白さも、本を読むことでようやく分かった。

でも、その頃には、もはやTVドラマの「スタートレック」は放送していなかった。映画もなかった。だから私にとっては忘れられた名作のポジションであった。

やがて映画「スターウォーズ」の大ヒットに伴い、昔の名作がリメイクして登場するようになった。

表題の映画は、何作目かは忘れたが、懐かしの宇宙船エンタープライズ号とその乗員たちの物語だ。私が子供の頃、TVドラマとして放送していたほどの長寿人気作品であるが、中身はけっこう変わっていた。

カーク艦長も、スポックら乗務員も代替わりしているが、昔の雰囲気を残しているのが嬉しい。、それでも長すぎるシリーズだけに途中を知らないと、いささか辛い。私もこのシリーズはすべては観ていない。

早川で出していたSF小説も全て読んでいる訳ではなく、このキャラ誰だっけ?と悩むこともある。またスタートレック・ファンには御馴染みの用語も、時として楽しみの妨げになる。

だからはっきり言えば、初心者向けの作品ではなく、むしろトレッキー(スタートレックのマニア的ファン)向けなのかもしれないと思う。その一方で、感嘆せざるを得ないのは映像美。星雲を始めとして、ハッブル宇宙望遠鏡で写されたかのような素晴らしい星々の映像には惹きつけられる。

またエンターテイメント作品としての映像も素晴らしい。特にラストの敵艦隊への突撃シーンは、アメリカならば歓声が上がるであろうほど盛り上がる部分である。ちょっとおバカな演出だとも云えるが、楽しいのだからイイじゃないか。

万人向けではないと思いますけど、SF的画像が好きなら十分楽しめますよ

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クレオパトラDC 新谷かおる

2016-10-25 12:21:00 | 

もはや、かつてのアメリカン・ドリームは文字通り夢の彼方なのかもしれない。

表題の作品の主人公であるクレオは、黒人でありながら金髪碧眼の美少女。混血が何代も進んだ場合、稀にそのような外見的特徴が出ることがあるらしい。だが、最大の魅力は、その尽きることのないヴァイタリティだ。

どんな状況下でも希望を失わず、明るく前向きに生きる。黒人貧民層の出身でありながら、人種的憎悪とは無縁で、高層ビルの豪華なペントハウスで暮らそうと、ボロボロのバラック小屋で暮らそうと、変ることのない笑みと暖かみを周囲に振りまける。

・・・今のアメリカに、こんな奇特人、いるのかなァ?いや、居そうで居ないタイプだぞ。

この作品の作者は、「エリア88」「ファントム無頼」「ふたり鷹」「砂の薔薇」などのヒット作があるが、最近はとんとご無沙汰だ。

最近はあまり作品を描いていないようだが、松本零士のアシスタントをやっていたくらいだから、かなりの古株であり、おそらくはもう老齢なのだろう。年齢的にも、敗戦後の廃墟の日本が立ち上がり、アメリカの豊かな文明社会を仰ぎ見ていた世代だけに、アメリカに対する複雑な憧れをもっていたのだろう。

私とて、真っ赤なキャデラックに憧れた幼年期を過ごしている。性悪な白人の子供たちとは不仲であったが、アメリカの文明機器(TV、洗濯機、クーラー、電子レンジ)に対する憧れは、たしかに持っていた。

どんなに貧しくとも、頑張って勝機を掴めば金持ちになれる国。そんなアメリカン・ドリームがあるのだと無邪気に信じていた。だが、それも今は昔話であり、今のアメリカにあるのは、沢山の貧乏人と、ごく僅かなスーパー金持ちだけだ。

その経済的格差の絶望的な広がりが、今の大統領選挙に如実に表れている。少なくてもヴェトナム戦争以前ならば、トランプのような人物が大統領選挙の有力馬になるなんんてあり得なかった。

休日に、押し入れの奥の段ボールを整理していたら出てきたのが表題の作品。ついつい読んでしまったが、いくら漫画とはいえ、もはやアメリカン・ドリームは消えうせたと思わざるを得なかった。そして、クレオのような混血社会の理想的な申し子は、もはや夢物語だとも。

かつて、嫌いつつも憧れを否定できなかったアメリカ。どうにも寂しい気持ちにならざる得ませんね。

コメント (2)
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