ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

日本の進むべき道

2016-08-30 12:44:00 | 社会・政治・一般

少し古いニュースだが、日本の大手家電メーカーの名門であるシャープが、外国資本それも中国資本の傘下に落ちたとの報道は衝撃的であった。

台湾、韓国に続き、共産シナもまた日本の高度成長と同じ道を辿る以上、家電においても日本に追い付いてくることは、容易に予想は出来た。私は日本の家電メーカーの、高付加価値路線に疑問を思っていたので、ある意味当然だとも思っていた。

しかし、いざ外国資本の手に落ち、仮借なきリストラが目前に迫るのを見ると、やはり忸怩たる気持ちは拭いきれない。現在の家電の販売状況を見ていると、冷蔵庫、クーラー、電子レンジなど、次々と安価で、それなりの性能の外国製品が増えてきている。

かつては、その品質は悪いものであったのかもしれないが、徐々に改善されて、今や長く使わない限り、日本製品にそう劣るものではなくなっているのが現状である。

このままでは、そう遠くない将来、日本の産業界は著しく衰退するのではないか。そう心配してしまうのも無理ないと思う。だが、それほど日本は弱くもないし、むしろ危機にあってこそ実力を発揮する国だと私は考えている。

家電は、安い製品を作る東アジア勢に一曹ウれそうだが、よく見るとそうでもない。第一、その安価な製品を作る工作機械、ベルトコンベアなどは日本製であることが多い。まだ使用している部品も、重要なものは日本製であったりしている。

家電のなかでも、精密機械はまだまだ日本、ドイツなどの独壇場となっている。例えばデジタル一眼レフカメラは、もう圧倒的に日本製品が市場を占拠している。デジカメ以外のカメラはドイツのライカを除けば、日本メーカーに迫れる海外メーカーは皆無である。

これはカメラや高級時計など精密機械は、IT製品と異なり、容易にコピーが出来ない。3Dプリンターで外見は作れても、過剰なまでに精密に加工され、複雑な組み合わせで製造される製品となると、アジアのメーカーでは出来ないのが実情だ。

韓国のメーカーも、この分野への進出を狙っているが、カタログ上の性能を発揮させることすら苦労している。この精密機器の製造には、職人的技量が求められるため、サムソンなどが得意とする資本の大型集中的な投資では、容易に育たないからでもある。

精密機械に限らないが、物づくりを極めようとする精神的な土壌がないと、高度な製品は作れない。これを得意とするのは、ドイツ、日本、スイスなど一部の国に限られるのが実情だ。

物づくりの精神は、歴史的な精神風土が重要な要素となる。ドイツの堅牢さ、スイスの緻密さ、そして日本のきめの細かい配慮は、その国民性から産まれたもので、一時の流行などではない。

これこそが、日本の強みであり、同時に弱点でもある。ユダヤ資本の持つ情報ネットワークと金融サービス、あるいはアングロサクソン系の金融サービスの果断な決断とスピードは、到底日本人の及ぶところではない。

また、物づくりでも、かつてのイギリスやアメリカが持っていた革新的な開発力、応用性。あるいはイタリアやスペインの持つ独創的なアイディとデザイン性の高さも、日本人には追いつけぬレベルであるかもしれない。

だが、日本には世界中から賞賛されるような顧客サービスの質の高さ、個性的な商品開発など、独自の強みを持っている。外国から学ぶべきは学び、日本に相応しくないものを排除する知恵の深さなら、千年以上の歴史をもっている。

これこそが、日本独特の強みであり、激動が予測される21世紀を生き抜くための武器であると私は考えている。そのためにも、自らの至らなさを知り、より高みを目指しての研鑽を怠らず、また驕り高ぶらず、謙虚さを忘れなければ、まだまだ日本は落ちぶれることはない。そう、私は確信しています。

そして、最後に一言。民主党政権はもちろん、現行の自公政権も、この日本の製造業に益する政策は、ほとんどしていない。やっているのは富裕階級向けの投資促進策と、大企業向けの減税のみ。霞が関に受けのいい銀行や証券、生保損保なんて、世界的には劣等企業。なにが、本当に大事なのか、政府はよく考えて欲しいものです。

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長安から北京へ 司馬遼太郎

2016-08-29 13:12:00 | 

初めての海外旅行は、添乗員付きのパック旅行であった。

外国語に堪能ではない人の場合、これは大変に便利だが、土産物店に無理やり連れていかれたりと不便も多い。だから、多少慣れてくると、どうしても不満が募るのは止むを得ない。

自分で全てスケジュールを組み、ホテルの予約をするのは難儀なのだが、そこは旅行会社のほうで、個人旅行と銘打った企画を出して、従来のパック旅行より少し安く、最低限のスケジュールでの海外旅行が可能となった。

これは、けっこう便利で、私も何度か使っている。添乗員に引率されてのパック旅行では立ち寄れなかった裏通りのお店や、少し怪しげなお店にも行けるワクワク感が楽しかった。

もちろん、観光客目当ての悪い奴らもいるし、地元民でも近づきたがらないような危ない界隈を見抜く勘を持たないと、非常に危ないと思う。実際、私も幾度か、これは危ないと思い、さっさと逃げ出したことがある。

でも、思わぬ出会いとか、予期せぬ美味しいお店、料理に出くわすこともある。だから、私は海外へ旅行した時は、一人で街を散策するのを楽しみにしていた。

シンガポールへ行った時もそうだった。たしかに綺麗な観光都市国家だと思うが、私はデパートでのブランド・ショッピングには興味はない。この時は先代の所長とスタッフとの慰安旅行で行ったのだが、私は一人皆から離れて、シンガポールの裏町を散策していた。

事前に地図を詳細に検討して、多分このあたりが地元の人たちが使う商店街ではないかと予想した場所に行ってみる。予想どおり、そこは中国人街であり、横浜よりも小汚いが、オーチャード通りの綺麗な観光地よりも、私には遥かに魅力的であった。

幸い、片言でも英語が通じるので、私は家族連れなどが入って行った料理屋に入り、手振り身振りを交えて、なんとか一人で飲茶をオーダーできた。これがまた美味しくて、銀座の中華料理店なら5倍は取られるような料理が、安価に机の上に並べられた。

ただし、机の下はゴミだらけだし、どうもゴキブリもいるようであったが、それさえ気にしなければ、味は十二分に満足のいくものであった。周囲の目線は気になったが、私は日本語は敢えて口にせず、あくまでカタカナ英語だけで交渉したので、そのうち周囲も無視してくれるようになった。

私見だが、英語の発音の上手い、下手なんて気にしないほうがいい。むしろ、いかに気持ちを込めて発言するかが大事だと思う。もっと分かりやすく云えば、大きな声で「THIS!、THIS FOOD」を繰り返したのが、一番効果があったように思う。

漢字で書かれたメニューなんて、日本語ではないので分からない。だから、隣の席の机の上の料理を指さして「SAME FOOD」これも、分かりやすかったようだ。文法なんてクソ喰らえである。

白状すると、内心ビクビクであったが、私の欲しかった飲茶が運ばれてきたときは、満足感より、ホッとした安堵感のほうが強かったくらいである。そして、やっぱり美味しかった。また行きたいものである。

ただ、帰国後、いくらガイドブックを見ても、その店も、その中華街も記載はされていなかった。間違いなく観光客向けの場所ではなかったのだろう。やはり、自分の眼で見て、匂いを嗅いで(件の中華料理店は、美味しげな匂いが決め手だった)、自分の足で探してこその旅である。

もっとも、こんなケースは稀で、多くの場合は、観光ガイドブックなどの資料を頼るか、その地元在住の知人の案内によるしかない。やはり書物などの資料から調べることが旅の事前準備として大事なのだと思っている。

この事前準備の達人というか、凄まじいほどの事前研究で知られていたのが、作家の故・司馬遼太郎である。東京は神田の古本屋では有名な存在であった。私も祖父に連れられて、幼い時から古本屋に馴染んでいたので、司馬遼太郎の資料収集の凄まじさは耳にしていた。

彼の膨大な歴史小説の数々は、この膨大な資料研究から生まれたものである。多くの資料から、事実を読み取り、そこに作家として物語を紡ぎだす。こうして、あの歴史小説は書かれてきたそうである。

でもねぇ、私は以前から、司馬遼太郎の作品にいささか不満を持っていた。人間描写が綺麗過ぎるというか、汚い面を強調することのない平面な描写であることに、納得がいかない気持ちを持っていた。

そして、おそらく、その原因は司馬遼太郎の小説を書く姿勢というか、書き方の問題であろうと思っていた。多くの人がしり込みするような膨大な書籍を読み解き、そこから小説を紡ぎだす才能は尊敬に値する。

でも、人間観察が甘いというか、描写力が抑制され過ぎに感じるのは、彼が書籍から小説を生み出すからではないかと私は考えていた。そのことが実感できたのが、表題の旅行記である。

あの世代の日本人は、どうしても中国に対して歴史的な劣等感を感じる。だから日中戦争に対して引け目を感じるのは、なにも司馬遼太郎一人ではない。それは分かるのだが、あまりに共産シナに対して、腰が低過ぎる死、視線が甘すぎる。

それでいて、膨大な書籍から蓄積された知識と、シナの歴史上の史跡とを関連づけての考察の深さは衰えることはない。でも、現代シナの政治的な圧力に対する視線の甘さ、大らかさは歴史作家にあるまじき失態ではないかと思う。

やはり、この作家は現実よりも、書籍から小説を編み出す人なのだと実感できた旅行記でした。あまりに讃美され過ぎの感がある司馬遼太郎を再考しようと思ったら、案外とこの書は必読かもしれませんよ。

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書庫整理

2016-08-26 17:33:00 | 日記

今年の夏は、長期休暇はとらなかった。というか、夏休み自体、特にとらず、土日はもちろん、8月限定の水曜日休みも、私は半日は仕事をしていた。

休みをとらなかった理由の一つに、書棚の整理がある。いつかは、やらねばならぬと思っていたが、昨年入院した際に絶対にやろうと決意していたことでもある。

この書棚の整理は、長年の課題であった。あの東日本大震災で書棚が破損した際でさえ、とりあえず本を元に戻しただけ。本格的な整理は、いつも先送りにしていた。

しかし、昨年入院している時に、もし自分が大幅に健康を害したら、あの書棚はひどく迷惑な存在であることに気がついた。本を詰め込み過ぎであり、読みたい本を見つけるのは、たいへんな作業になっている。

そこで思い切って、書棚の整理と同時並行で、トランクルームに預けてある段ボール詰めの本の整理をすることにした。これは、長年本は捨てられないと決めつけていた私にとっては、人生における一大決心である。

正確には捨てるのではなく、古本屋に売り捌くのだが、その判断基準は「もう一度、読みたい」かどうかである。

他の基準は、敢えて無視した。トランクルームに預けて10年以上、もう一度読みたいと思える本は、思いのほか少ない。だから、ビシバシと処分した。いや、今もしている最中である。

おそらく3年前なら、この決断は出来なかった。でも、今なら出来る。何故かと云えば、私の体力が低下して、もう一度読むだけの精神的、肉体的スタミナが大きく減じているからだ。

やはり、あの心筋梗塞の影響は大きかった。まだ50台前半とはいえ、読書するための体力、気力、集中力が減少している現実は、もう無視しえないほどになっている。再読する本は厳選しないと、まだ読んでいない本を読むための時間に差し支える。

既に段ボール15箱、処分したが、まだまだ道半ばである。その3倍近い段ボールが、家じゅうの押し入れの奥に眠っている。これは秋までかかるであろうが、なんとか今年中に処分するつもりだ。

これは、年老いてからでは難しい。やはり元気なうちに決断しておくべきなのだと痛感している。そして再読に値する本は、思いのほか少ないことが分かったことも、いい勉強になった。

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古民家の影

2016-08-25 13:02:00 | 日記

多分、視力が悪化したせいだろう。

仕事柄、いわゆる資産家の御宅に伺うことが少なくない。都内に、鉄筋コンクリ建ての立派な家を構えている方もいるが、どちらかと云えば、見かけは古い日本家屋であるようなケースが多い。

多分、知らない人がみれば、この家の持ち主が金融資産数億円であるなんて、まるで想像もつかないだろう。はっきり言えば、ボロ屋にしかみえない。。

でも、家の中に入ると、豪華な家財に囲まれた御屋敷であることもある。これは、これで納得できる。ところが、外見同様、家の中もボロ家であることが結構多い。

なにせ、今どきクーラーさえない部屋であることも珍しくない。天井が高く、風通しのいい日本家屋であるからこそ、だとは思うが、それにしたって夏は暑いし、冬は寒い。空調完備の部屋に馴れている人には、苦行としか思えないだろう。

だが、子供の頃から、このような家屋に馴れていると、案外と平気であるらしい。

少し前のことだが、東京から特急電車で数時間の郊外にある、そのお宅に伺ったのは、今後の相続対策の助言を請われたからだ。都内の会社の応接室でスーツ姿で会うことが多い方であったが、そのお宅では作務衣をまとった好々爺の趣であることに、いささか面食らった。

都内にマンションをお持ちなのだが、週末はこちらで過ごしているそうである。数町の畑があり、そこでの農作業が老後の楽しみであるようだ。既に築年数は80年を超えている古民家だけに、相続税法上の評価は低いが、良く見れば立派な木を柱に使っており、解体して売れば、けっこうな金額になりそうだ。

相談の内容は、守秘義務から書くことは出来ない。ただ、その家を見て回っていた時、妙なものを見たような気持ちになった。

その場では、目の錯覚くらいにしか思わなかった。暗がりに誰か、いや、何かが潜んでいるような重い影があった。でも、よくよく見ると、なにもない。不審に思いながらも、ご主人に問うほどの事とは思えず、黙っていた。

半日後、帰宅して風呂に入って、その日の疲れを洗い流し、さっぱりしてから床に就く。寝つきのイイ私は、すぐに眠り込むはずなのだが、その晩はダメであった。

目を閉じると、どうしても思い出してしまう。薄暗い階段の脇の棚の影に、走り込むような影。子供にしては小さすぎるが、ネコやネズミにしては大きすぎる。第一、その家には子供もペットもいない。まァ、ネズミは間違いなくいるだろうから、きっとネズミだろう。

裏庭の奥にあった蔵の二階に上がった時に、天井に何かがいたように見えたのだが、しっかり見上げると、そこには何もない。きっと、天井のシミを見間違えたのだろう。

16畳はある広い客間で、井戸から汲んだ冷たい水を頂いていた時、床柱になにかが巻き付いていると思ったのは、柱の紋様を勘違いしたのだろう。

そうだ、そうに決まっている。

最近は老眼が進んでいるのは、間違いのない事実であるのだから、目の錯覚に違いないはずだ。そう理性で考えつつも、寝付けない原因が、あの妙な影にあることは自覚していた。

それに・・・今寝ている自宅では、そのような錯覚は皆無なのだ。でも、眠れないのは事実である。特段、肩が重いとか、寒気がするとかの自覚は皆無だ。ただ、思い出されて眠れない。それだけなのだ。

明日、近所の神社にお参りにいこうかな。そう考えたら、急に眠気が襲ってきた。そのまま素直に眠ってしまう。翌朝の眼ざめは爽快であったから、私も適当なものである。

人生、時として訳の分からないことってあるものです。まァ、日々元気ならば、私は気にしないことにしています。気にしたって無駄ですからね。

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ホームドア

2016-08-23 12:27:00 | 社会・政治・一般

哀しくなる。

先週のことだが、東京で視覚障碍者の方が、地下鉄の駅のホームから転落して亡くなった。その時、私は銀座線に乗ったばかりで、電車が駅で長時間止まり、なにか事故があったようだとは思っていた。

その後、青山一丁目駅での人身事故で、折り返し運転するとのアナウンスがあり、南北線と半蔵門線で迂回して渋谷に着いた。帰宅してから、ようやく事故が視覚障碍者がホームから転落死したと知った次第だ。

どうやら、盲導犬が同行していたようだが、それでも転落は免れえなかったようだ。惨い事故だと改めて思った。東京の地下鉄銀座線は、一番古い路線であるせいか、ホームが狭いことで知られている。

特に朝夕の通勤ラッシュ時には、三列で並ぶことを強くアナウンスしなければならないほど、ホームは狭い。安易に2列で並んでしまうと、確実にホームを塞いでしまい、横に移動するのが難しくなる。

そのせいかもしれないが、盲導犬を連れた視覚障碍者の姿を見ることは稀だ。20数年通勤で使っている私なんか、一度も見かけたことがない。ちなみに家の近くには盲学校があるため、視覚障碍者は頻繁に見かけるし、盲導犬もそれほど珍しくはない。

だから、銀座線で視覚障碍者及び盲導犬の姿を見かけないことを、少し妙に思っていた。でも、今回の痛ましい事故で、その理由が分かった気がした。ホームが狭すぎて、視覚障碍者には使いづらかったのであろう。

まだ今回の事故の真の原因は公表されていないが、もしホームドアが設置されていたのなら、防げたはずだ。そう思うと、哀しくなる。東京メトロが無為無策であったとは云わない。

だが、最近やっていた改修工事は、地下鉄内でのWifi環境の整備などで、ホームドアに関しては後回しにされていたのは、否定しがたい事実である。長く都政を牛耳っていた石原は、弱者救済には冷淡であったし、猪瀬もさほど熱心ではなかった。

舛添も派手な事業には関心が強かったようだが、ホームドアなど社会的弱者のための施策には、さほど関心はなかった。内田ら自民党都議連も、豊洲の新市場とか、オリンピック会場には強い関心をもっていたが、やはりホームドアに熱心であったとは思えない。

こんな東京が、4年後にパラリンピックをやるというのだから、冗談にしては性質が悪いし、真面目なだけにうすら寒いものを感じる。

私は政治とは、弱い者を救済して、社会の一員として活用することの出来る能力をもっていると確信している。大企業とか事業欲溢れる商売人は、政治が手助けしなくても、勝手に進んでいくものだ。

しかし、高齢者とか障害者は、法律や制度の助けがないと、元気な人たちとは同じ条件では活動できない。そして、一人一人は弱くても、数が集まれば、それは大きな力となる。

なにより、社会的弱者に適切な施策を行っている国、都市は、外から見て素晴らしく思えるものだ。巨大な都庁とか、壮麗な公共建造物よりも、立派に輝くものである。

無駄な支出に終わった、オリンピック会場コンペや、選挙などをやる余裕があるのなら、ホームドアの設置くらい、政府の金で作るべきです。何故なら、東京メトロは、正式には東京地下鉄㈱であり、出資者は国(財務大臣)が54%、東京都が46%の事実上政府傘下の法人なのですから。

コメント (2)
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