ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

バイクが欲しい

2011-04-28 12:17:00 | 日記

お金を稼ぐ才能というものは、確かにあると思う。

私が十代の頃の憧れといえば、やはりバイクだった。暴走族のイメージを持たれる方も多いと思うが、純粋にオートバイで走るのは楽しいと断言できる。

あまり金がなかった私は、もっぱら自転車で駆け回っており、多少パチンコで小銭が稼げても、せいぜいスクーターが精一杯だった。でも、50ccのスクーターだって十分楽しかった。

暇はあっても金がなかった浪人時代、予備校の仲間とスクーターで江ノ島まで走らせたことがあるが、実に楽しいものだった。なかでも、海風を受けて海岸沿いの道を走る気持ちよさは忘れ難い。

自分の足で漕がねばならぬ自転車だと、夏は汗だくになるが、エンジンが駆動するオートバイはアクセル一ひねりで風を切って道を走れる。車のように保護されていない分だけ、風を体感できるが故に、オートバイとの一体感を楽しめる。

ただ、オートバイは高い。お金がない十代の若者には、中古といえどもなかなか手が出せない。まして、バイトする時間が限られる高校生なら、なおさらである。

高校の同級生であるKもまた、オートバイに恋焦がれていた。お気に入りは川崎重工のLTDである。チョッパー・タイプの400ccであり、当時でさえ税、保険込みで40万近くした。そのほか、自動車教習場での免許取得費用もかかる。総額で50万ちかいお金が必要だった。

いくらアルバイトに励んでも、容易にたまる金額ではない。ところがだ、Kの奴は実質2ヶ月あまりで、その資金を稼ぎ出して、念願のバイクを手に入れた。

いったい、ぜんたい、どうやったんだ?

Kのアルバイトは、道路沿いのお弁当屋さんだった。時給は当時で700円程度。週三日シフトに入っても、稼げるのはせいぜい、月十万強だと思う。

Kは普通高校の学生であり、部活(先輩と喧嘩して辞めた)をやっていないとはいえ、それほど暇ではない。クラスの皆は、どうやって稼いだのか不思議で仕方なかった。

以下、当のKが語るところによる、オートバイ購入資金入手の全貌である。とにかく、最初は明るく真面目に、そして誰よりも熱心に働く姿をみせたそうだ。その姿勢を評価されたKは、すぐに一人で店番を任されるまでに信用された。

ここからが彼の腕の見せ所である。このお店では生鮮食品を扱っており、一定時間が経過すると廃棄処分される。野良犬や浮浪者に奪われるのを防ぐため、鍵つきの倉庫に保管して、翌朝に業者が引き取りにくる。

この廃棄食品の管理は正社員の役目であるが、なにぶんゴミの廃棄は楽しい仕事ではない。仕事を手伝ううちに信頼されたKは、一人で夜間のゴミ保管を任されるようになった。

正社員が夜10時過ぎに退社して、一人で店番を任されたKは、倉庫に戻って廃棄された生鮮食品のうち単価が高く、かつ安全と思われるものだけを選別して、なんと勝手に店頭に並べてしまった。

そして、その商品だけはレジを打たずに売り上げた。もちろん、その売上は全て彼のポケットに入り込んだ。K曰く、捨てられたものを処分しただけさ、とのこと。

なんか違法の匂いが漂うが、この手法で短期間の間にバイク購入資金を蓄えたそうだ。頭のいい彼は、廃棄商品の一部しか手をつけず、翌朝出勤した正社員たちは、誰も気がつかなかったそうだ。

こうしてバイク免許と念願のオートバイを買った彼は、あっさりとバイトを辞めた。目的(バイク)を達したら手段(お金)に固執しないところが、彼らしい賢さだと思う。

私の高校時代の遊び仲間は、大半が大学へ進学しているが、彼だけが働き出した。そして、出世を重ねて、私らのなかでは出世頭となった。

頭は悪くないと思うが、勉強は好きでなかったKには、大学よりも実社会のほうが活躍しやすかったのだと思う。正直、法の許す範囲のギリギリをフラフラと綱渡りするようなところはあったが、悪の道に転落することなく、堅気の社会人を貫いている。

そして、私の知る範囲でも、転職して出世している数少ない実例でもある。大卒の肩書きを持たずに、これだけ活躍できるのだから、やはりビジネスの才能を持ち合わせているのだろう。

ちょっと羨ましいですね。

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東京電力に思うこと

2011-04-27 12:07:00 | 社会・政治・一般

信賞必罰。

とても大事なことだと思う。批難するのは容易い。一方、褒めるのは難しい。だから褒める時は、意識してやらないと不十分に終わる。せっかく褒めたのに、その褒め方が不十分だと、却って不満が双方に残る。

だから、褒める時は正々堂々、臆面もなく、ぬけぬけとやるくらいが丁度いい。私のような口下手な人間は、特にそうだと思っている。

一方、批難するのに努力はいらない。勝手にペラペラと口から不満が迸る。だからこそ、批難するときは細心の注意を払う必要がある。批難しすぎて、却って批難が反発を招くことが多いからだ。

そこで、今回の東日本大震災と、その余波である福島原発事故に関する東京電力について考えてみた。

まず、誰がなんと言おうと今回の地震が未曾有の規模であり、これほどの自然災害に対して万全の対応なんぞ、なんびとたりとも出来る訳がない。その点は認めねばなるまい。

これだけの大震災である以上、電気、ガス、水道などのライフラインに被害が及ぶのは当然だろう。地域差はかなりあったと思うが、震度5以上であった東京では、停電はほぼ無かった。少なくても千代田区、中央区、港区など都心では、ライフラインはほぼ万全の状態であったと思う。

もちろん、地域によってはかなり隔たりがあり、私の自宅なんぞ4日間水に不自由したし、電車の運行も大幅に減ったが、それでも大被害とは程遠い。

電気設備は、地震に対してはかなり準備がしてあったと判じてもイイと思う。ただし、津波に対しての備えは十分とはいえなかったのも事実だ。

実際、福島原発だって非常用の発電設備が冠水しなければ、あれほどの被害は生じなかったかもしれない。福島原発は、アメリカのGE製であり、アメリカのコンサル会社の指示に従い40年以上前に建築されたものだ。津波の被害をどこまで想定していたのか不明だが、どうみても十分であったとは言いがたい。

しかし、津波に対する堤防などの対策は、東北地方はどこも似たり寄ったりであったのが現実だろう。東北地方は過去何度となく津波に襲われており、決して無為無策であった訳ではない。

しかし、高さが14メートルに達する津波までは想定していなかった。これを人災だとして批難するのは、いかがなものかと思う。

ただし、その後の対応がまずかった。特に東京電力の経営者たちの対応は、あまりに酷い。東京電力のドンたる会長の不在だけでなく、社長までもが本社に不在であり、帰京が送れて事後対応が大幅に遅れた。

止む無く現場の人間が、不慣れなマスコミ対応をせざる得ず、マスコミの不信を招いた。これは間違いなく東京電力のミスだ。困ったことに、被災者並に動揺した菅総理を始めとした民主党政権が、現場に余計な差し出口を挟み、ますます混乱する始末。

災害の混乱時に、肝心の東京電力の経営陣が不在であったため、現場の混乱に拍車をかけた。これは断固追求されるべき経営責任だと思う。

言うまでもないが、東京電力は超優良企業である。豊富な資金力や安定した財務基盤などは、破綻したJALなどとは比較にならない。当然に社員はエリート揃い。

現在、批難を浴びている清水社長なんざ、典型的な東電のエリート社員だった。だが、現在の清水社長にその面影は無い。平時であるならば、優れた組織管理者であったのだと思うが、緊急時にはオロオロするばかりの温室育ちのひ弱な花に過ぎないことが露呈してしまった。

だが、これは清水社長に限らないはずだ。日本のエリート教育は、最終目標を霞ヶ関に置いていた。つまり優秀な官僚を育てる教育こそが、エリート教育の実態であった。

実際、これはこれで優秀な官僚を数多く育成してきた実績を持つ。だが、官僚というものは、平時の管理者であり、緊急時とりわけ前例がないような事態にぶつかると満足な対応が出来ない事が多い。

前例、もしくは模範をしめしてやれば、彼らはたちどころに優秀さを取り戻す。本来、それは政治を牛耳る最高権力者たる首相の役割であった。その首相が、清水社長以上にアタフタしており、挙句に怒鳴りだし、周囲に人を近づけさせない愚か者であった。

かくして、超優良企業であったはずの東京電力は醜態をさらす羽目に陥った。もし、早期に原発の廃棄を覚悟して、海水注入の判断を下していたのなら、もう少し被害は小さかったかもしれない。つくづく悔やまれてならない。

一方、今回の原発事故で最も活躍したのは、エリートでもなんでもない現場の職員たちであったことは、今や世界中が知っている。被爆の恐怖に怯えながらも、なんとかしようと奮闘する彼らこそが英雄であった。

今はまだ被害が明らかではないが、あのレベルの放射線の中で長時間作業している以上、相当な被爆を負ったと思われる。嫌な予想だが、この先被爆症によるダメージが彼ら現場の作業員や自衛隊、消防隊などに襲い鰍ゥる可能性は高い。

快適な東京の本社ビルにこもって、無為無策の無能ぶりをさらしたエリートたちが罰せられるのは当然だが、この被爆によるダメージを負った人々に対して、東京電力はいかに報いるのか?

これは長い目をもって監視する必要があると思う。嫌な予想だが、エリートは得てして、この類の英雄を冷遇しがちだからだ。世間の目から隠して、世間が忘れた頃を見計らって切り捨てる。

やりかねませんよ、あの方々たちはね。

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増税に思うこと

2011-04-26 12:07:00 | 社会・政治・一般

馬鹿もほどほどにして欲しい。

日本という国は自然災害に恵まれている。毎年のように台風に襲われるし、高潮や土砂崩れも頻繁に起こる。冬になれば雪崩や凍結による被害が生じない年は稀だ。

また、活火山が豊富にある列島であり、地震がなかった年など滅多にない。近代以降では、今回の東日本大震災は最大の地震だと思うが、江戸以前ならば同規模の地震があったことも確からしい。

間違いなく災害列島だと思う。しかし、この自然災害に恵まれたことが、その島の住人たちを鍛え上げた。紙と木の家と西欧人から揶揄されたが、その紙と木の家は自然災害を乗り越えるのに適切であった。

ある程度までの地震なら、その構造的な造りで揺れを吸収してしまう。そして限度を超えて破損しても、スクラップ&ビルドは石造りの家より遥かに容易い。

また定期的に建て直すことにより、自然災害に強く、また再建も容易い家に住み続けてきた。また、ハードだけでなく、ソフトの面でも災害に強い社会を作り上げてきた。

今は被害の凄まじさに茫然自失とならざる得ないだろうが、必ずや復興に立ち上がると私は信じている。だが、そのためには、政府による支援が必要なのは間違いない。

その復興を名目に、政府が増税を目論んでいる。

これほど馬鹿な政府も珍しい。長く続いた江戸時代も、地震、津波、台風と自然災害が数多く起ったが、時の政府は徳政令などを発布して復興を後押しした。要するに、減税により民間の活力を上げて、それを復興に活かす手法だ。

別に日本に限らず、古来より施政者が行ってきた当然の手法でもある。

ところが、民主党政権はそれとは逆に増税を言い出す始末だ。もちろん、その黒幕は、間違いなく財務省だろう。財務省にとっては増税による財政赤字縮小こそが、至上の命題だからだ。

しかし、少し考えてみれば分る。売上が低迷して倒産の危機にある会社に対して、もっと税金を払えと強行するようなものだ。むしろ倒産を早める可能性のほうが高い。

古来より大規模な災害が発生した時は、増税ではなく減税をして国が貧困に耐えて、民に余裕を与えて復興の助けになるようにしたものだ。つまり国債を発行すればいい。それも超大規模な建設国債だ。

必然に日銀は通貨発行量を大幅に増やして、市中に金が回るようにする必要がある。なぜなら国債を買うのは、もっぱら金融機関だからだ。国債購入に資金を使った銀行は、資金を民間企業に貸し付ける余裕は、なくなってくる。

だからこそ、インフレ政策が必要になる。現在の日本はデフレ気味であり、しかも大量の外貨準備高がある。大量の通貨発行が可能な状態にあると考えていいと思う。つまり、復興資金の獲得に増税はしなくてもいい。

しかし、財政赤字に汲々とする財務省と、なにもしないことが存在価値だと思い込んでいる日銀の自己保身優先エリートが増税を民主党政権に押し付けた。

ド素人政治家には、優秀なエリートだと思い込んでいる官僚たちに反論するだけの力はない。だから、このまま増税による復興政策は、国会を通過してしまうだろう。

結果は分っている。体力の無い零細企業は大量に梼Yし、失業者を増やし、貧富の差を飛躍的に拡大させる。政治に不満を抱いた有権者は、自暴的な行動に出る可能性は高い。

この状況をみて、社会を破壊的に変えようと主張する政治家が、必ずや登場する。極論から極論に振れやすい日本人は、意図も容易に、口先だけ威勢のいい政治家の主張に騙される。

思い出して欲しい。今の民主党政権を生み出したのは、自公連立政権下での改革路線(小泉・竹中)で生まれた貧困層であることを。構造改革路線で、はじかれ、切り捨てられたリストラの犠牲者たちが変革を求めて、与党自民党に見切りをつけた結果が、今の政治なのだ。

景気が上向きな時の増税ならともかく、確実に下方に向かっている時の増税は、間違いなく政治に対する不満を高める。民主党は、次の選挙で確実に自滅の方向に向かうだろう。しかし、次の政権の受け皿が、今以上に不安定なものになる可能性は高い。

なにしろ既成政党への支持は、まるで上がっていない。小数政党の連立内閣の可能性が高まったと思う。つまり、大きな改革が出来ないだけでなく、官僚に操られやすい素人政治家が政権に関る可能性が高い。

不安なことばかり予測したが、唯一幸いなのは増税が消費税中心であることだろう。アメリカ、EUに次ぐ巨大市場を国内に持つ日本は、小規模な増税ならば吸収できる可能性は高い。

小規模な増税であっても零細事業者にはきついことに変りはない。消費税はフローに対する課税であり、ストックとりわけ金融資産そのものには課税されない。莫大な金融資産を持つ日本ならば、なんとか乗り越えられるかもしれない。

そのためには小規模な増税である必要がある。財務省は二桁台の税率を考えているようだが、選挙を浮黷髢ッ主党は受け入れまい。小規模な増税では、復興財源には足りないので、復興が遅れる可能性がある。

東日本大震災は、長く続く景気の低迷に活を入れる絶好の機会でもある。しかし、政治がその復興の足を引っ張る可能性は高い。

こんな時は、政府の援助に期待するのではなく、自分の目で見て、耳で聞いて、足を運び、自分の判断で活路を見出せる人だけが成功すると思う。社会的弱者にはきついと思いますがね。

やはり、私としては建設国債の大量発行による復興財源確保を願わざる得ません。

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ニュー・アメリカン・ピープル 共同通信社・編

2011-04-25 12:00:00 | 

人類の歴史史上、アメリカ合衆国ほど奇妙な国はない。

まず世界屈指のキリスト教原理主義の国であることだ。西欧が宗教改革を経験して、宗教に対して一線を画す面があるのに対して、アメリカはキリスト教的価値観に疑問を抱かない。

これは恐ろしいことだ。宗教に裏づけされた絶対的正義を振り回す時、人は最も残忍になりうる。なにしろ正義の旗は神に保証されているのだ。その正義に反対するものは、絶対悪に決まっている。

この頑なな価値観が、世界に対して苛立ちを禁じえない。限界に達した時、いとも容易に戦争に踏み込む。まさに独善の限りである。

ところが困ったことに、アメリカはその自覚がない。ないばかりか、自分たちこそが世界の模範であると思い込んでいる。だから、自分たちの意向が世界に反映されないことに苛立つ。

これは全く根拠なきことではないが故に、事態はことさら厄介だ。単に軍事大国、経済大国であるばかりではない。文化の面でも世界を牽引する先導者でもある。

アメリカを嫌い、アメリカを軽蔑し、アメリカを憎む人は世界中いたるところにいる。しかし、ミッキーマウスを愛し、マイケル・ジャクソンのビデオに夢中になり、ハリウッド映画の虜となっている人も数多いる。

家のなかに冷蔵庫、電子レンジ、テレビを備え、パソコンで情報を収集し、ポテトチップを食べながらクーラーの効いた快適な部屋での暮らしに憧れを持つ人は、世界中に溢れている。この生活スタイルこそ、アメリカで生まれたものだ。

朝は、シリアルに牛乳をかけてて食べ、昼にはマクドナルドのハンバーガーを頬張り、夜になるとピザを宅配してもらう。冷蔵庫のなかは冷凍食品であふれ、Tシャツを日常的に着て、スニーカーで歩き回る。

全てアメリカの文化から生まれたものだぞ。

そのアメリカのつま先を踏みつけ、唾を吐きかけて喧嘩を挑んだ国が、20世紀前半の大日本帝国だった。アメリカは全力をもって、この小賢しいアジアの小国を叩き潰した。

それだけでは飽き足らず、政治、軍事、経済、教育とあらゆる分野に干渉して、その牙を抜き、反抗心を抱かぬよう懐柔し、あげくに実質的従属国に貶めた。

軍事力、政治力を極端に低下させたが、経済に傾注して再び大国の地位を取り戻した日本だが、今日でも政治的、軍事的にはアメリカに従属している事実に変りはない。

そのことが、どれほど屈辱的であろうと、日本単独ではこの状況から抜け出せない。だからこそ、日本は常にアメリカに気を配る必要がある。アメリカの実情を常に知っている必要がある。

21世紀を迎えて、アメリカは少しずつ変りつつある。在り得ないとされた有色人種の大統領が生まれ、国内には英語を話せないラテン系アメリカ人が増えつつある。

かつて過半を占めていたプロテスタントは数を減らしつつあり、カトリックの影響は無視できないまでになっている。またアメリカで生まれたファンダメンタリストと呼ばれる教条的な新興キリスト教団体も数を増やす一方だ。

アメリカを支えてきた中産階級は没落し、少数の極端な富裕層と、未来に希望を持てなくなりつつある貧困層の増大は、確実にアメリカを変質させる。

アメリカを知らずして、日本の将来は計れない。アメリカには常に注意を払う必要があると思います。

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シナリオ・ライター

2011-04-22 12:20:00 | 日記

どちらかといえば、楽天家な私がストレス性の胃潰瘍になったのは、高校一年の秋だった。

原因は文化祭である。私のクラスは、何時の間にやら劇をやることとなっていた。中学時代の大半を落ちこぼれで過ごした私は、高校では一転して優等生を目指していた。

当然にタバコもやらなきゃ、パチンコもやらない。酒でさえほとんど飲まない堅物の高校生だった。当時既に活字中毒に陥っていた私は、休み時間も読書にあてこむ、本当に真面目な高校生であった。

そのことが周囲からどう評価されたのか分らないが、気がついたらシナリオライターを任されていた。つまり脚本家である。

さて困った。脚本はおろか、舞台さえまともに知らない芸能音痴の私である。慌てて戯曲を何冊か読み、急遽シナリオを書き上げてみたまではいい。

問題はその後だった。当初、この芝居をやることに熱心だった連中が、降りてしまったのだ。原因は彼らの加熱した熱心さにあった。

クラスの大半の連中は、別に劇をやりたかったわけでもなく、一部熱心に推し進めていた連中の先走りであった。その連中と、クラスの主だった奴らが揉めた。

このクラスは、目立つが少数の運動部系の奴らと、大人しい帰宅部系の奴らが大半で、劇を推していた連中は数人の文化部系であった。

劇の練習よりも、部活を優先する運動部系が最初に反発した。その反発に怖気づいた帰宅部系が一歩退いた。空回りに挫折感を強く抱いた文化系の連中が、真っ先に降りてしまった。

さて、困った。なにやら話し合いがもたれたようだが、気がついたら私がまとめ役を押し付けられていた。最初に反発したサッカー部のSが、応援するからやってくれよと頼むので、仕方なくやる羽目に陥った。

白状すると、かなり戸惑った。転校が多くて、孤立しがちな小学校時代はもちろん、落ちこぼれから真面目っ子への転進を図った中学時代、いずれもこのようなまとめ役を引き受けたことはない。

ただ、根が楽天的な私である。とりあえず、やってみる。

反発した運動部系の連中は、事前に話を通しておけば、それなりに協力してくれる。これはこれで助かった。また、降りてしまった文化部系の連中も、引け目からか、黙って協力してくれた。ここまではいい。

私が驚いたのは、それまで大人しく黙っていた帰宅部系の反応だった。私は根回しを重視していたので、なるべく一人ひとりの話を聞くことに重点を置いていた。クラスの話し合いの場では沈黙していたくせに、いざ個別に話を聞くと、呆れるくらいに文句が多い。

いや、文句というには真面目すぎる建設的な意見もあり、私も無視できなくなっていた。なにせ、この大人しかったはずの帰宅部系が、一番人数が多く、しかも個別には口うるさい。

文化祭当日までの二週間あまり。私は彼らの愚痴の聞き役から、意見の取りまとめ、根回しに奔走させられた。その頃だろう、朝起きるとお腹のあたりに鈍痛を感じることがあった。

その鈍痛は、夕方にはキリキリと痛みを伴い私を苦しめた。終いには少量の血を吐く始末である。どうも、これは胃をやられたらしい。医者からは、ストレス性胃潰瘍だと言われる始末である。

ところが妙なことに、私が吐血したあたりから、劇の練習は急激に進み、私が不在でもしっかりと進んでいた。どうも、私が七転八倒している様に気まずくなったらしい。

おかげで、文化祭では、ほぼ滞りなく劇を開催することが出来た。もっとも私はといえば、初日の開演を見届けると、後は皆に任せてしまった。

もう二度とクラスのまとめ役なんぞ引き受けるものかと、固く胸に誓ったことは言うまでも無い。ただ、今まで知らなかった自分の一面や、大人しいと思い込んでいた帰宅部の本音が分ったのは興味深かった。

どうも私は人間関係のストレスに、あまり強くないらしい。そして、日頃黙っている大人しい連中が、意外なほどに鬱憤を溜め込んでいることを知った。正直、文句があるなら、殴りあっていた中学時代のほうが、よっぽどマシだった。

つくづく、私はリーダーには不向きだと実感した。真面目な高校生を演じるのは、思ったよりも大変みたいだ。

翌年、クラス替えしてから私は一部真面目であることを止めた。勉強だけは人一倍やっていたが、塾もなく、部活もない日の放課後は、仲間とパチンコで遊び、稼いだら居酒屋で一杯やる。制服がない私服の学校であるが故の特権である。

そして真面目なだけの帰宅部の連中との付き合いは減らし、ちょっとぐらい規則を破っても楽しめる連中と付き合うようになった。おかげで、高校生らしからぬ高校時代を楽しむことが出来た。

この遊び仲間とは、今でも付き合いがあるが、真面目なだけの帰宅部連中とは疎遠になってしまった。どうも、私の人生、真面目なだけな生き方は似合わないらしい。

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