ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

お休み

2016-06-30 12:45:00 | 日記

月末で多忙なため、今日はお休みします。

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民主主義の怪しさ

2016-06-29 13:36:00 | 社会・政治・一般

イギリスにおける国民投票の結果、EUからの離脱が決定された。

その差は僅差ではあったが、多数派が正しいとされるのが民主主義。48%の残留意見は押し潰されて、52%の離脱が正しいとされた。

キャメロン首相にとっては大誤算であったようだ。だが、私に言わせれば、国民投票という直接選挙で意見を問うた時点で失敗だったと思う。

民主主義の基本は、選挙という多数決システムで決定することだ。しかし、現在、議会制民主主義を採用するほとんどの国では、間接選挙方式を採用している。スイスなどの小国ぐらいでしか、直接選挙は採用していない。

アメリカにせよ、フランスにせよ、また日本にしたって、皆、間接選挙制度を採用している。つまり代議員を選出し、その代議員たちの投票で重要な意思決定をしている。

何故なのか?

はっきり言えば、衆愚政治に堕するからだ。また、直接選挙による政治決定は、歴史的に内乱と根深い対立を残すからでもある。

理屈からすれば、国民の意思が直接政治に反映される直接選挙が、民主主義の理想的なスタイルであろうと思う。私だって、そう思わないでもない。実際、国家にとって非常に重要な政治決定は、間接投票を採用している多くの民主主義国家でも国民投票というかたちをとることが多い。

しかしながら、国民が直接政治判断をする直接選挙は、結果的に好ましくないことが多い。

なぜなら、大半の国民は、世界情勢下での自国の立場、世界経済への影響、国際政治における影響などはあまり重視しないからだ。判断の基準となるのは、自分の手が届き、目に見え、耳に聞こえる範囲での情報による。

小さな国なら、それでも大丈夫かもしれない。しかし、ある程度大きくなると、国内でも地域差があり、その生活の範囲内での情報からでしか政治判断が出来ないのは、ある意味当然のことだ。

今回のイギリスのEU離脱派だってそうだ。国外からの移民により仕事を奪われた人にとっては、自分の生活が第一なのだから当然だ。言葉もろくに通じない異民族が身近に生活することに不安を覚える人が、感情的に反発するのは当然だ。当然過ぎる反応が、今回の国民投票に反映された。

イギリスはかつての大英帝国であり、国内には旧・植民地からの移民が数多く住むインターナショナルな社会を持っている。だから、当然に世界的視野からEU残留を望む人たちだって、相当数いる。

なんといっても国民投票の48%もいるのだから、これは相当な力を持つ政治的意見であるはずだ。その意見が、52%の離脱派により潰された。48%の少数意見が潰されたことの意味は大きい。

今後、イギリスがどのようになるかは不明だが、アングロサクソン以外の異人種に対する排斥感情は高まるだろう。スコットランドや北アイルランドの分離独立だって十分考えられる。国内の政治的混乱は必須であり、それに経済的苦境が輪をかけて襲ってくる。

これが、国民の意思を直接反映した国民投票である。直接民主主義の危うさが、これほどまでに露呈した事例は、そうそう多くない。民主主義は、選挙により多数派の意見を正しいと見做す政治形態である。

だが、多数派の意見が、常に正しい、あるいはその状況に照らして適切な解答を示す訳ではない。このことを改めて銘記したいものである。

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円高好況

2016-06-28 13:08:00 | 社会・政治・一般

少しは景気が良くなるかもしれない。

こんな風に書くと、お前は馬鹿かと云われそうである。イギリスのEU離脱を受けて円は急騰し、円高不況の到来を予測するマスコミが大騒ぎしているのを知らないのかと、怒られそうである。

為替における円高は、輸出関連企業や、外国から来る観光旅行関係の企業にとっては大ダメージである。それは私でもそう思う。それでも敢えて書かせてもらうと、円高好況もあると思う。

日本は資源小国であり、原材料を海外から輸入し、それに加工し付加価値を付けて輸出することで稼いでいる。円高はこの輸出を大きく減らす要因になるのだから、円高不況に陥るのは必然だと言う。

本当にそうなのだろうか。

海外から輸入される原材料を100とすると、そのうち輸出に回されるのは、30から40くらいだ。もちろん原材料等の種類によっては、多少は変わるが、輸入される原材料の過半は、日本国内で費消されるのも事実である。

つまり輸入原価が下がるのだから、円高は輸入した原材料を国内で加工し、国内で販売する限りにおいては、確実に利益を上げる。これもまた単純な事実である。

もちろん円高は、アベノミクスで有利な経済条件を与えられた輸出企業等には大ダメージだ。また海外からの投資家、観光客を当にしていた企業にとっては、大ダメージに他ならない。

でも、国内企業、とりわけ輸出に縁のない中小企業にとっては、円高はむしろありがたい。また消費者にとっても輸入原価が下げる恩恵は当然にある。つまりアベノミクスにおいて、置き去りにされていた中小企業及び一般消費者にとっては、むしろ円高は少なからずメリットがある。

そして、この夏海外旅行を予定されている方にとっても、この円高は非常にありがたいはずである。もっとも、急激すぎる円高は、不安定要因となるデメリットもあるのも確かです。実際、私の知人は今回の円高でFXで稼いだ資金をすべて失ったとも聞いてますから。

円高好況とは、私の若干の期待も込めての言葉ではあるが、十分あり得る予測だとも思う。ただ、不思議なことに、マスコミはあまり報じない現象でもある。忘れているのだろうか、80年代のバブル景気の呼び水は、円高であったことを。

もっとも、大企業重視の大マスコミ様には通じない理屈だとは思いますけどね。

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ぶらり「快」的うまい旅 阿藤快

2016-06-27 13:00:00 | 

旅先で、美味い食事に出会えることって、ありそうで、そうそうない。

それほど多く旅に出ている訳ではないが、旅先で一番困るのは、安心して楽しめる食事の場所である。高い金を出せば、そうそう不味い食事は出ないと思う。でも、たまに高い、不味い、サービス悪いの悪の三冠王みたいな店もあることも知っている。

だから、事前にネットで評判を調べたり、ガイドブック、グルメ本などを参考にするのだが、心底美味いと思ったような店はない。それでも、「うん、これなら納得だね」と安心できる程度の美味い店でも、旅先ならば致し方ないと思っている。

地元の方の紹介ならば、大きく外すことはないが、味覚というものは主観なので、「・・・? まァ、食べられなくもないな」なんて経験もあるから、これも絶対という訳でもない。

私の場合だと、これは美味いと唸るような店との出会いは、ほとんど偶然である。たまたま魚が食べたくて、立ち寄った漁港の傍の焼肉屋であったり、立ち食いしている子供たちに教わった駄菓子屋で買った薩摩揚げであったりと、幸運以外のなにものでもない偶然であった。

なかには勘違いからの偶然もあった。あの日、私はどうしてもタンドリーチキンが食べたかった。ところが馴染みのインド料理屋は臨時休業中で、困った私がたまたま目にした写真付きのメニュー。

私の眼には、カレーとタンドリーチキンのセットに見えたので入ってみたら、それはカレーがかかった牡蠣だった。ところがこれがカレーの辛みとマッチした甘い牡蠣であり、望外な美味しさに舌鼓を打ったものである。

後日、雑誌に取り上げられて行列が出来るようになってしまい、少し足遠くなってしまったが、勘違いからの偶然がもたらしてくれた僥倖である。偶然による出会いとは嬉しいものだが、偶然は偶然でしかない。まァ、人生は予定通りにはいかないものだと諦念しているので、美味しければ構わないのだが。

表題の書は、俳優の故・阿藤快氏が旅先で出会った美味しい店、美味しい料理を取り上げたものだ。多分、口述筆記だとは思うが、阿藤氏の人柄が偲ばれる文章は、そう悪くない。

あまりTVを見ない私ではあるが、阿藤海(改名前)はわりと覚えている。どちらかといえば渋いというか、こわもてのする俳優さんであったと思う。悪役の印象が強いのも、そのせいだと思う。

でも、得てしてこのような人がニコッと笑うと、そりゃァ、人好きのするイイ笑顔を見せるものだ。だからだと思うが、旅グルメのはしりのような番組に起用されていたのだと思う。

そしてロケ先、旅先で出会った人たちの懐に飛び込んで、日本各地の美味い店、美味い料理を食してきたのでしょう。実に楽しいエッセーでした。私も後、何年生きて、どれだけ食べられるか分かりませんけど、なるべく美味しい食事をして生きていたいものです。

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ニート 玄田有史 曲沼美恵

2016-06-24 16:00:00 | 

独断と偏見だとの謗りを承知で書かせてもらうと、ニートって先進国特有の贅沢病である。

生きるための必死さが欠落している心の病だと思っている。

ニートが発生した背景には、西欧型近代文明の行き詰まりといった問題がある。科学の発達と共に飛躍的に生産力を高め、新たな社会を築き上げてきた資本主義社会ではあるが、科学の停滞と共に、その成長に限界が見えてきた。

半導体も、バイオ技術も、そしてIT技術も、所詮は便利な技術であり、社会の基盤を大きく変える力はない。石油、石炭等の化石燃料を燃焼させて膨大なエネルギーをもって、鉄と化学製品により成り立つ近代文明は、もはや成長の限界に近づいている。

だからこそ、成長の限界が見えた先進国ではニートが発生し、まだ成長の余地が十分ある発展途上国ではニートは生まれない。

しかしながら、今さら賢しげに文明の停滞とニートとの関係を論じているべき事態ではない。もはや、ニートは日本中、どこにでもいるし、誰もがニートになりかねないほど、事態は切迫している。

90年代から、ニートを研究対象としてきた著者たちは、そのニートを社会復帰させるには如何にしたらよいかを模索している。その活動のうち、秀逸なのは、ニートの発生の時期を、中学の時点まで遡って指摘している点であろう。

たしかに、大人とも子供とも言いかねる微妙にして、急激に成長する中学の3年間は、子供たちにとって非常に難しい時期なのだろう。この時期に挫折したり、社会との親和性を失ってしまった子供が、成長して大人社会と上手く折り合えずに、やがてニートとなる。

そこで参考になるのが、この本でも取り上げられていた神戸と富山のケースでしょう。中学生に5日間(!)働かせて社会経験を積ませる。地域社会の支援、親御さんたちの理解、学校と役所の連携などがあって実現できたのでしょうけど、これは立派なことです。

かなり、ひねくれた子供であった私ですが、子供の頃から大人の手伝いとして働くことを知っていたので、自分の人生について、稚拙ながらもそれなりの考えを持てました。

また、子供としてではなく、働き手として大人と共に働けば、そこには大人社会の厳しい現実があることも理解できました。私がやっていた仕事は、どちらかといえば犯罪紙一重のものでしたが、それだけに仕事そのものは厳しかった。

子供だからといって、手を抜くことは許されない。同時に、自分が社会の中の一員として生きていける自信にもつながりました。この時の経験があったので、私は大人になって、長期の自宅療養中であっても、身体さえ治れば再び働けることを、ほぼ確信していました。

だから、神戸や富山で実施されている、中学生の社会経験学習がニート対策に役立つであろうことが良く分かります。そして同時に、私とて子供の頃に大人の仕事の手伝いをした経験がなかったら、病気が治ってもニート化した可能性があることも分かるのです。

表題の書が世に出てから、すでに10年が経ちましたが、ニートの数は増えるばかり。行政も手をこまねいている訳でもなく、また各地の中学や高校で、社会学習が行われてはいますが、まだまだ十分な成果は出ていません。

21世紀の日本を襲う危機は、石油、食料、水を巡る戦いだと思いますが、同時に高齢化社会への対応と、働かない社会人といった内政上の問題もあることは認識すべきことだと思います。

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