ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

税法なんて その四

2010-08-31 13:01:00 | 経済・金融・税制
税理士は、税務署へ質問の電話を安易にしてはならない。

そんな連絡が税務署側から伝えられたのは、今から3年くらいまえだ。ただし事前に予約して、一定の書類を提出しての質問なら受け付けるとのこと。

表向きは、税理士は税の専門家なのだから、自ら研鑽して税法を理解しているはず。だから安易に税務署に電話して職員を濫用するべきではないとされている。

しかし本音は違う。確定申告期以外で税務署に問い合わせの電話をしてくる人の8割は税理士などだ。当然にその質問は高度であり、質問を受ける税務署職員にとっても即答しかねるものが多い。しかも、なかには難しすぎて答えずらい質問が少なくなく、それが税務署職員にとって相当な負担であるからだ。

私自身、何度となく税務署へ難儀な電話質問を繰り返した経験があるので、税務署の職員が大変であるのは分っている。だからこそ、税理士は気軽に質問の電話をしてくるな!との税務署側の本音は理解できる。

でも、ちょっと待て。そりゃ、本末転倒だろう。

税法があまりに複雑になり、難しくなりすぎたからこそ、我々は税務署に問い合わせているのだ。我々だけでない、当の税務署職員でさえ簡単には答えられないからこそ、このような規制を設けざる得なかったはずだ。要するに難しすぎるし、煩雑にすぎる。それが問題の本質だろう。

実はもう一つの裏事情がある。

例えば、ある納税者が今まで前例のない特殊な取引をして、その相談を受けた税理士が、その課税と申告について税務職員に問い合わせたり、あるいは国税局監修の質疑応答集を参考にして、確定申告を済ませた。

ところが、その申告後に税務署の調査があり、その申告は間違っているので修正してくれと言われたら誰だって怒ると思う。実際パチンコメーカーの平和の株式をめぐる申告や、ストック・オプション申告では、納税者が怒りの余りに訴訟になってしまった。

ここで一言、私なりの偏見で言わせてもらうと、裁判とは正義を争う場ではなく、最終的には制度を守る砦になりがちだ。実際、このような税務訴訟の多くは原告(納税者)敗訴に終わっている。

ただ、ここでもう一つの問題が生じた。国側(税務署)が正しいとすると、追徴税額の支払義務が完成するが、それに伴い罰則的な過少申告加算税も生じる。

はたして、税務署の指導に従って申告し、その後修正を求められたような場合、罰則的な過少申告加算税を賦課することは正しいのか?

これまた税務訴訟に至ったわけだが、この裁判では納税者にそこまで責任を負わせるのは酷だと、国側(税務署)敗訴の判決が相次ぐ始末となった。

このことに慌てた国税局は、各税務署に対して税理士からの質問に安易に答えないようにとの連絡を出したらしい。

なんか間違っていませんかね。この場合、課税方法を定めた国税通則法の改正こそが本筋だと思う。それを官僚的悪知恵で誤魔化している印象が拭えない。

まあ、立法府(国会)がこの手の問題に無知、無理解なので、小手先の対処で済ませているのだろうと想像はつく。

それにしても、なんだってこれほどまでに税法が複雑化し、難解なものになったのか? それは次回(最終回です)に。
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税法なんて その三

2010-08-30 12:34:00 | 経済・金融・税制
税務署に電話をしたことがあるだろうか。

毎年、2月から3月の確定申告期には膨大な問い合わせ電話が税務署に殺到する。だが、それ以外の時期に税務署に問い合わせる人は稀だろう。

事実、企業の経理担当者など一部の人に限られる。実のところ確定申告期以外の時期に、税務署に電話で問い合わせをする人の、ほぼ8割近くは税理士や公認会計士及び会計事務所スタッフで占められていた。

なぜか?

原因は分っている。税法があまりに難解で煩雑に過ぎるからだ。まず税法を読むだけでは分らない。通達や質疑応答集を読んでも迷う。国税不服審判所の裁決事例や、税務訴訟の判決にも目を通すが、それをそのまま準用していいか迷う。

迷うからこそ、確認のため我々は税務署に問い合わせていた。場合によっては複数の税務署に電話して、回答を確認することもやってきた。

私自身、ある脱税事件の後処理のため、修正申告書を作成していた際、法人特別税(湾岸戦争のとき、一時的に課税された)の取り扱いに迷い、麹町、京橋、芝、日本橋の4税務署に問い合わせたことがある。なにせ、どの税務署も言うことが違うのだ。

結局、夏休みを終えて出社してきた佐藤先生の鶴の一声で結論は決まった。ちなみに佐藤先生は税法も読まずに、感覚で正解を出してしまった。長年、法人税実務に携わってきた凄みを知ったものだ。

余談だが、私が問い合わせた税務署は、どれもトップクラスの職員を揃えている。だからこそ電話したのだが、正しかったのは一つだけ。迷っていた私に批難する資格はないが、これが税務の現場の実態だと知って欲しい。

佐藤先生に言わせると、税務署時代に何千件もの申告書を手書きで処理してきたので、理屈ではなく感覚で分るとのこと。これには同意せざる得ない。

当時の法人税計算ソフトは、一般的な処理は出来ても、修正申告とその受け入れのような特殊な処理は、全て手入力だった。

あれから十年以上たち、法人税計算ソフトも進化しているが、まだ完全ではないと聞いている。無理もないと思う。税法があまりに複雑すぎる。

法治とは、国民に予測可能性を与えることだ。Aという行為をしたらBという結果になる。この予測があるからこそ、法治国家は高度に複雑な経済活動を安定的に持続させることが出来る。

あまりに難解で複雑すぎる法律は、むしろかえって社会を阻害する。政府はそのことを、どう理解しているのか?問題意識は強く持っているようだ。

で、政府が打ち出した対応策は・・・次回に続きます。
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税法なんて その二

2010-08-27 12:29:00 | 経済・金融・税制
As a taxpayer (納税者として言わせてもらうぞ)

アメリカの納税者が政府に対して文句を言う時の慣用句だそうだ。近代国家は、納税資金を元に運営される。故に納税者は政府に口を出す権利を有する。

戦前の日本は、賦課課税といって政府が国民の納税額を決めつける制度であった。戦後、シャウプ博士が日本の民主化のために導入させたのが、申告納税者制度だ。

納税者自らの所得を申告して納税することにより、民主主義の根幹でもある納税者意識をたかめ、それが日本の民主化に益すると考えての提言であり、日本政府はそれを受け入れざる得なかった。私はそう理解していた。

ただ、それにしては、日本の税法は税務署有利に作られている。どう考えても、それは納税者不利なものであり、民主主義を掲げる国家としては、それはおかしいのではないかと日頃思っていた。

ことろが、先日の研修で品川・早稲田大学院教授がとんでもない事を口にした。戦後の混乱の中、賦課課税方式による税収確保なんて出来なかった。だからこそ、申告納税方式に切り替えたのだと。

たしかに賦課課税を適正に実施するためには、税務署が納税者の資産や営業を把握しておく必要がある。しかし、戦争により荒廃し、その後の混乱と急激な復興は、賦課課税方式を実施不可能なものとしてしまった。

そのため、納税者の善意を信じての申告課税方式が導入された。ただし、納税者の申告内容を質し、場合によっては罰則を強行する権利を税務署側に持たせたという。

シャウプ博士の提言と、その目的意識は明確であり、公表されて久しいものでもある。だが、国税当局に在籍した品川先生の言うように、税務署内部ではまったく異なる受け止め方をしていたのだとよく分った。

だからこそ、日本の税務手続きは納税者不利に作られているのだと、改めて納得した。品川先生の仰った事は、一般に売られている書籍などでは目にしたことがないものだ。シャウプ博士の求めたものとは、まったく異なるものなのは確かなのだ。しかし、おそらく当時の税務署職員は、品川先生と同様の思いを共有していたのだろう。

そう考えると、税務署の強硬な態度、姿勢は納得のいくものだ。

以前にも書いたが、私は国家と納税者の関係を定める納税者憲章の制定に積極的だ。しかし、品川先生のような意識を持つ税務職員、OB税理士からすると、権利ばかり求めて義務を十分果たしているといえない納税者側に、これ以上安易に権利を与えすぎるのは問題だと考えていることも分る。

納税者側も信頼に値する申告をする義務がある。税理士もそのために研鑽を重ねる必要がある。それも今まで以上にだ。

だが、そのためには税法がもう少し分りやすいものでなければならないと思う。

ところが、税法は年々分りづらくなるばかり。その辺の事情については次回に。
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税法なんて その一

2010-08-26 12:23:00 | 経済・金融・税制
毎年8月は研修が山盛り。

いつものことでもあるが、この猛暑のなか仕事の最中に勉強に追われるのは、なかなかにきついものがある。とりあえず、スケジュールをこなし、改めてテキストを読み返す。

む、難しい・・・

いつの頃からだろうか、税法がやたらと難解になってきた。連結納税あたりになると、私は半分も読みきれない。実務でやってないせいもあるが、条文の構成がやたらと煩雑で、三回繰り返して読んでも分らん。

先日、国税局で長く難解な実務に携わり、退官後は税理士としてではなく教授として活躍されている品川先生が、しみじみ述べていたことを思い出した。

品川先生が税法の勉強をされていた40年前に比べると、現在は税法自体が10倍以上に膨れ上がっているそうだ。たしかに量が増えていることは、法例集の分厚さを思えば納得できる。

もちろん、無駄というか重複しているような条文が多いことも一因だが、それ以上に不必要に詳細に規定していることが最大の原因だ。しかも、私ら実務家からすると、現実離れした規定の仕方が少なくない。

はっきり言えば、実務では使いづらい特例が多すぎる。立法主義は良いのだが、その過程で不必要なまでに制限が加えられているため、結果的に使いにくいものと化している。

おまけに法令自体が、おそろしく饒舌な構成になっているため、因果関係が掴みにくい。解説書もそのあたりはぼんやりと濁しているので、やはり本法を読解するしかない。

単に私がバカで読解力が低いというなら話は早い。しかし、そうではない。堂々公言する人は少ないが、弁護士や裁判官でさえ税法は読みづらいと嘆く。

税理士試験に合格し、その後公認会計士試験も合格。さらに司法試験にも合格した関根弁護士という優秀な方が、某研修会で開き直ったかのような言い方をしていたのに驚いた。

曰く「民法は4ヶ月で理解できます。でも相続税法は1年勉強してもわかりません」

無理もないと思う。私は相続税の科目別試験を1年でクリアしたが、実務に入ってから受験レベルでは通用しない現実に叩きのめされた。条文に規定されていない事柄があまりに多く、通達でも足りない。質疑応答集に至っては東京版と大阪版では違う回答が示されている始末。(現在は直されているはず)それに判例(多くは非公開だぞ・・・)を斟酌する必要がある場合もある。

果たして、こんなんに難しくていいのか?

いろいろ思うところがあるので、今年も数回に分けて書きたいと思います。こ難しい話が多いので、読み流していただいて結構です。所詮、私の自己満足ですから。
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F 六田登

2010-08-25 12:37:00 | 
アクセルを踏み続ける快感があることは否定しない。

車を運転していると、スピードの魅力に囚われることがある。見渡しがよくて直線の道路を高速で走らせていると、もっともっとスピードを出したくなる。

私が初めて自分の車として乗っていたシビックは、高速安定性が低くて140キロを超えるとハンドルが微振動を起して、真直ぐ走らせることが難しかった。緊張感から全身の筋肉が硬直してくるのが自覚できる。

それでもアクセルを踏み続ければ、もう少しスピードは出そうだ。しかし、心に怯えが走る。もう駄目だと心の中で叫んでアクセルを緩める。ほっと安堵のため息が出るのは避けられない。

その後、たまたま西ドイツ製のBMWの改造車として有名なアルピナB7を数時間運転した時に、東名高速を190キロで走らせたことが私の最高記録だ。他の車が少なければ、200キロオーバーは可能だったと思うが、借り物であったため無理はしなかった。

たしかに高性能車であったと思うが、借り物であることからの引け目がアクセルを緩ませた。いずれにせよ、車の性能よりも心の抑制がアクセルを踏み続けることを躊躇わせた。スピードの限界は、心のなかにこそある。

だから同じ車であっても、運転者の技量により最高速度は変わってしまう。私のシビックですら大学の知人(自動車部の主将だった)がハンドルを握ると、最高速度は150キロ近く出た。

当人曰く「もう少しタイヤの空気圧を上げれば、もう数キロ最高速は上げられると思う」とのこと。いやはや、自分の運転の技量の低さを思い知らされた。

日本人がカーレースの世界にデビューしてから、既に半世紀になるが、未だに世界チャンピオンには手が届かない。ラリーならばともかく、F1ともなると入賞するのが関の山だ。何故だろう?

やはり育った環境や社会風土にも関係があるように思う。10年ほど前にヨーロッパへ旅行した時に、つくづくそう思った。たしかに走りやすい道が多く、もの凄いスピードで走る車を数多く見かけた。こんな環境ならば運転の上手いドライバーが育つはずだと得心した。

現地駐在の友人にそう話すと、彼は首をかしげて「でも、あいつら運転下手だぞ」と反論してきた。そう言って、彼は道路わきを指差した。車が転倒して大破している。

その道は片側一車線の狭い道路で、おまけにセンターラインが引いてない。その道を時速100キロ近いスピードですれ違うのだ。しかも、互いにスピードを緩めることなく、平然とすれ違う。

友人は「いつもヒヤヒヤさせられるよ」と嘆く。彼に言わせると、ヨーロッパのドライバーは自己中心的で、自分が一番。だから道を譲るとか、相手を慮ってスピードを落とすようなことはしない。だから、猛スピードで走れるだけだ、と。

だからこそ、事故が多いようだ。しかも自損事故も多い。そのくせ、速度規制の強化には消極的らしい。要は自己責任なのだろう。

このような道路環境のなかで育ったドライバーだからこそ、レースの世界では強いのだろうと思う。法定速度に守られ、運転の気配りに重きを置く日本のドライバーが、レースの世界でチャンピオンになれないのも無理ない気がする。

つまるところ、レースで世界チャンピオンになれるような人間は、自分が一番の唯我独尊タイプなのだろう。誰よりも速く、どんな時でも速く、誰であろうと自分の前を走らせることは許せない。

そんな日本人が主人公の漫画が表題の作品だ。なにせ農作業用のトラクターでさえ遅いのは許せない主人公のわがままぶりは笑えた。その彼だからこそ、レースの世界で活躍できたのだろう。

レーシング・ドライバーを主人公にした漫画はいくつもありますが、多分一番わがままで迷惑なのがこの赤木軍馬ではないかな。政治家の父との葛藤も興味深いものでしたが、やはりレースの世界に挑む軍馬の破天荒な気概こそが記憶に残っている。

「何人たりとも俺の前は走らせねぇ!」は漫画史に残る名科白だと思います。
コメント (2)
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