ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

小公女セーラ

2024-04-01 09:14:44 | アニメ・コミック

ほぼトラウマになりかけた衝撃作。

原作は子供の頃に児童向けに抄訳されたものを読んでいたので、最後はハッピーエンドだと知っていた。この作品のアニメ化は私が大学生の頃であり、当時はアニメどころかTVさえあまり視ていなかった。

私が関心があったのは、当時お気に入りであったシンガーの下成さと子がオープニングソングを歌っていたからだ。軽い気持ちでTVアニメを視たのだが、丁度ヒロインがお嬢様から下女に転落した時分の回であったため、高慢そうな元クラスメイトからの虐めの場面に泡食った。

学生の虐めは、男性より女性のほうがえぐいと知ってはいたが、これは衝撃的だった。世界名作劇場のアニメでは多分初めてといってよいほどに陰惨な場面が続いた。目を逸らしたくなるほどの虐めの場面に目が離せなくなってしまったほどだ。

まぁ最後はハッピーエンドだと分かってはいたが、子供向けアニメとしては少々強烈過ぎると当時感じたことは良く覚えている。

ちなみにこのアニメ、フランスでかなり物議をかもした。放送後に視聴者の親から苦情が相次いだことで知られている。しかし、そこは文化大国フランスである。最後までしっかりと目を逸らさずに視て欲しいとして苦情を受け付けなかった。

このアニメは舞台がイギリスなのだが、何故にフランスでと思ったが、当時からフランスは日本のアニメ放送に熱心であったからだそうだ。そのせいで、今もこのアニメは大人になったフランスの人たちからの評価が高い。

ただなぁ・・・正直もう一度視たいとは思えないのは、やはり虐めの場面がトラウマになっているのだろうと、いささか自虐的にぼやいている私です。

 

 

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BLEACHバウント編

2024-03-04 09:13:52 | アニメ・コミック

収益を高める手法として、新たな価値観を創造することは王道である。

分かりやすく言えば、新たなブランドの確立だ。スティーブ・ジョブズらアップル社が生み出したパーソナルコンピューターや、任天堂のファミリーコンピュータ、フォードのT型フォード車などが典型的な成功例である。

しかし、その成功例の背後には新たなブランド確立に失敗した残骸が死屍累々であることも忘れてはならない。経営的視点からすると、新しい価値観の創造は失敗の可能性が高く、むしろ既存の価値観を活用するほうが成功する確率が高い。すなわちリスクが少ないのである。

だからこそ日本テレビは、オリジナルの脚本のドラマよりも、既に知名度がある原作の実写化を収益源の柱としたのだと思う。これ自体は間違いではない。しかし、問題は彼らTV業界の傲慢さにある。彼らにとっては原作など、自分たちがいい様に加工できる材料に過ぎないと考える。

これは小説などの文章の実写化では、どうしてもドラマの製作現場での創意工夫が必要になるから、ある意味当然であり、むしろドラマ製作スタッフの技量が問われるものである。また小説の場合、ほとんどの場合、既に完結しているため、脚本でも大きく改変できない。

しかし、原作を漫画とした場合、いささか異なる事情が生じる。人気漫画は連載が長期にわたることが多く、アニメ化や実写化が原作の漫画に追い付いてしまうことが多い。そのため原作にない新たな物語がTV局側の都合優先で作成されることが頻発した。

これでは原作の漫画に悪影響が出ると危惧した出版社側及び漫画家がTV局と話し合い、TV版独自のセカンドストーリーが製作されるようになった。これは人気漫画を数多く抱える集英社が特に積極的であり、漫画家も雑誌連載時には切り捨てざるを得なかったアイディアを、アニメに活かすこともある。当然ながらアニメ化や実写化には、漫画家本人が強く関与する。

先月から炎上している「セクシー田中さん」の原作者の自殺などは、これとはまったく逆の失敗例である。その違いは原作及び原作者へのリスペクトの有無にある。原作を単なるネタとしか捉えなかった日テレは、収益至上主義の観点からオリジナルよりも原作転用を選択したに過ぎない。

だから平然と原作者の想いを押し潰す。番組プロデューサーは、広告代理店と図って人気タレントを強引に押し込み、脚本家は原作にない恋愛要素をぶち込めば、それで視聴率が取れると思いあがる。そこには原作者への敬意はまったく感じられない。むしろ原作者を邪魔に思っていたのが本音だろう。

一方、日テレとは真逆の発想で漫画のアニメ化に成功したのがTV東京だ。その一例が表題の作品だ。漫画家の久保帯人は雑誌連載のBLEACHを主人公の成長の物語と位置づけ、アニメは漫画では描き切れなかった部分を題材にしている。

連載中の漫画にアニメが追い付いた時こそ、そのチャンスであり、むしろ積極的に製作に関与することでアニメの人気を盛り上げ、連動するように漫画自体の人気も向上させた。その第一作目が原作にはない吸血鬼(バウント)と死神たちのストーリーであった。

日ごろTVを視ない私は、CS放送での再放送で視たのだが、その内容は決して原作を貶めるものではなかった。同時に原作を妨げるものでもなかった。ちなみにアニメに力を入れているテレ東での最長放送番組がBLEACHであることは、決して偶然ではないと思う。

日テレになくてテレ東京にあったのは、原作に対するリスペクトであった。だからこそ多大な時間をかけて原作者と話し合い、より面白いものを作ろうとの熱意がファンに高く評価された。また久保帯人自身も多くのアニメーターと触れ合うことで、画力を大幅に向上させ、漫画の表現の質を向上させたことは原作の漫画を読めば明白だと思う。

日テレはいい加減自らの傲慢さが一人の原作者を死に追いやった事実を直視するべきだと思いますね。

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フルメタルアルケミスト 鋼の錬金術師

2024-02-15 14:21:01 | アニメ・コミック

連載中の漫画作品の映像化は難しい。

いくら週刊誌に連載していても、基本漫画家一人で作画する場合、時間的にも物理的にも製作できる原稿には限りがある。一方、TV局や映画会社はチームで制作する。当然ながら、すぐに連載に追い付いてしまう。

元々人気作であるからしてある程度視聴率は稼げるし、スポンサー企業も付きやすい。だから原作者をせっつくが、単なる加工作業と、ゼロから作品を生み出す労力は本質的に違う。TV業界ではその対応策として、一度放送を中断して原作を待つか、TV版オリジナルの新たなストーリーを製作して放送するかだ。

原作を大事にしたい漫画家は、本音では前者を望むが、実際にはTV局側の都合で後者の方法が取られることが多い。一応、漫画家が監修していることになっているが、困ったことにTV局側が勝手に製作を推し進めてしまうこともある。

その悪しき典型ともいえるのが、スクエアエニックス社で刊行された「鋼の錬金術師」荒川弘の一回目のアニメ作品であった。アニメが製作発表されたとき、原作はまだ5巻までしか刊行していなかった。そこでTV局はオリジナルのストーリーを作って、あっという間に完結させてしまった。

ちなみにホムンクルスのボスは出てこないし、まるで別作品であり、私は気持ち悪くなったほどだ。当然に作者の荒川女史は怒り、これ以上原作を穢すことは許さず、新たに「フルメタルアルケミスト 鋼の錬金術師」として二作目を作らせた。

こちらは、荒川弘が目を光らせていたせいで、非常に完成度が高く、大人の鑑賞に堪えうる名作となっている。不可解なのは、未だにネット上では一作目も面白い、二作目よりも面白かったなんて意見が出回っていることだ。

おそらくだが一作目の製作関係者ではないかと思う。断言しますけど、主人公らのデザインが同じだけでストーリーとしての完成度は二作目が遥かに勝ります。自由度が高い小説の実写化とは異なり、漫画のアニメ化は、漫画読者の目も厳しく、近年はTV関係者の勝手な改編は許されなくなっています。

でも、それは近年の漫画家と良心的なアニメスタジオの努力の積み重ねがあったからこそです。TV業界で漫画を原作としたアニメ作品が製作され始めた1960年代からつい最近まで、TV局の恣意的な介入により原作が改悪されたケースは数多にのぼります。

私が基本、漫画の原作とアニメ作品は別物だとしているのは、改悪ではなく改良(?)されたアニメ作品も少なくないからです。一例を挙げるならば「タイガーマスク」がそうでした。あれは梶原一騎の脚本が優秀であり、漫画家が描いた作品は子供向けに改変されていたのです。私が認める数少ない例外ですね。

考えてみれば、当時活躍していた脚本家には小説家になってもおかしくないほどの実力者がけっこういました。自分でオリジナルの物語を綴れるだけの脚本家はアニメに限らず、時代劇や家族向け作品などでもけっこうあったのです。

あの当時の脚本家主導によるオリジナルの作品を作っていく風潮が次第に廃れ、替わりに小説や漫画を原作とした映像化が次第に増えていき、そうなるとTV局も脚本家のオリジナルより、既に売れた実績のある小説や漫画を利用することが普通になってしまいました。

ただ問題は、TV業界側では映像化の許可を得れば、自分たちが好き勝手に原作を変えてしまうことも既得権だと勘違いしたことでしょう。小説が原作だと、映像化の過程で仕方なく変えることもあるのは、私も理解できます。

しかし漫画のアニメ化は、原作のイメージが強すぎるため、如何に連載が遅れようと原作のイメージを壊すような改変は認めがたくなった。実際、漫画家はアニメにも造詣が深いこともあり、例えTVオリジナルストーリーであっても原作のイメージを変えないよう、強く関与することが普通になっています。

荒川弘が一作目を認めず、新たに原作に忠実な二作目を作ることに固執したのも、その一例だと思います。実際、両方を視た私ですが、二作目を視た後は一作目には嫌悪感しか感じませんでした。

ところが漫画の実写化となると、昔の習慣が抜けずに原作を図々しく変えてしまうことが未だに横行しているのでしょう。その悪しき実例が、先月自殺した「セクシー田中さん」の漫画家であったと思います。

ちなみに私がこの原稿を書いている現在、自殺に追いやった主犯である日テレは、未だにノーコメントを貫いています。まったく反省する気がなく、騒ぎが収まるのを待っているのでしょう。

あぁ、厭らしい。

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薬屋のひとりごと 祝アニメ化

2023-02-21 05:28:15 | アニメ・コミック
あまりというか、ほとんどアニメを視ない私だが、これは視たいと思っている。

原作のライトノベルは累計2000万部を超える大ヒット作である。通常、この手の作品は漫画化を経てアニメ化されて爆発的に売れるのが通例だ。しかし、この作品は漫画化の時点で既に大ヒットとなっている。

しかし、アニメ化されるのに、かなり時間がかかっている。売れると分かっている作品のアニメ化がここまで遅れた原因の一つに、漫画化作が二つあることが挙げられる。

漫画化されたのは小学館から発行された倉田三ノ路版と、スクエア・エニクス社から発行された猫クラゲ版である。なぜに二種類あるのかは、原作者である日向夏さんも分からないとのこと。

ちなみにアニメのほうは、どうも猫クラゲ版のように思える。私はこちらから入ったので、もちろん賛成なのだが、だからといって倉田版を卑下するつもりはない。私はどちらも読んでいるが、小説の漫画化といった面では、倉田版のほうが良質だと考えている。

ネタバレになるのでぼかして書くが、主人公猫猫(マオマオ)が義侠心からやった行為で、幼子と母親が救われた話がある。マオマオは目立つのを厭い、自分がやったのだと分からないよう細工するが、後宮を管理する宦官に見破られる。

数百人いる後宮の下女たちのなかからマオマオを見つけ出す為、宦官は「痩せぎすで字の読み書きの出来る者」を探し出すと猫クラゲ版では表現されている。しかし、原作及び倉田版では、それに加えて「そばかすのある女官」を探せと指示している。

私は猫クラゲ版では気が付かなかったが、倉田版で「そばかすのある痩せぎすの読み書きの出来る女官」探しだと分かり、思わず膝を打った。小説の漫画化とはこうあるべきだと思う。既に単行本の刊行歴のある倉田先生のキャリアと実力だと思う。

猫クラゲ先生がなぜに端折ったのかは不明だが、この作品が初めての単行本発刊だというから、やはりキャリアの差だと云わざるを得ない。ただし、絵の巧さというか、キャラクターを誇張する手法は猫クラゲ版が上回る。おそらくこれがアニメ化された大きな要因だと思う。

なぜなら、この作品の面白さに一つはマオマオの百面相というか、シリアスからコミカルまで多彩な顔芸にあるからだ。この点では猫クラゲ版のほうが上だと思う。

「鬼滅の刃」以来、ほとんどアニメは視てないが、久々に視たいと思う作品が出てきて、ちょっと楽しみ。ちなみに猫クラゲ版の11巻も今月発売され、原作の13巻も発売予定で思わず頬が緩む私です。『薬屋のひとりごと』プロジェクトPV/2023年TVアニメ放送決定!
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鬼滅の刃 遊郭編

2022-02-18 18:34:00 | アニメ・コミック
中三の頃だと思うが、昼休みに何故か職員室に呼ばれた。

はて?最近は特に悪さはしてないはず。そう訝りつつ職員室に入ると、なぜか妹の奴が居て俯いて泣いているっぽい。妹の担任と、私の担任が二人いて、私を呼び寄せる。嫌な予感・・・

机の上には何故か見覚えのある雑誌が置いてある。職員室には似つかわしくないエロ本である。先生が「これはお前のか?」と尋ねてくる。はァ~と曖昧に答えると、いきなり頬を張られた。やばい、お怒りだよ。

よくよく見ると、私が先日入手した平凡パンチというエロ本であるようだ。本棚の裏に隠しておいたはずなのに、なんで学校にある。すると妹が「お兄ちゃん~」などと泣き声でうめく。

あちゃ~、こいつが犯人か。ダメだこりゃ。仕方なく認めると、先生方から一週間、職員室前のトイレ聡怩セい渡された。生活指導の先生までやってきて、なにやら小言を言っているようだが、聴いている振りして耐え忍ぶ。

ちなみに妹の奴は無罪放免である。でも私は気が付いていた、こいつウソ泣きしてただけだぞ。まァ元々悪ガキの私である。こんな時、下手な抗弁すれば、ますます面唐ノなることぐらい分かっている。

放課後、言われたトイレ聡怩マませ、憤懣やるかたない私は、どう妹を懲らしめてやろうかと思案しながら帰宅すると、予想通り居ない。代わりに机の上にメモがあり、プリン作ったから二個食べていいよとの事である。

トイレ聡怩ニビンタをプリンで済まそうとする妹に呆れる。ちなみに平凡パンチは没収された。踏んだり蹴ったりである。

その後、妹の奴は母親と一緒に帰宅して、夜寝るまで母の傍を離れなかった。これでは懲らしめられないではないか。まったくもって困った奴である。

時折、妹がいることを羨ましがられることがあるが、これが兄妹の実態である。常に兄は虐げられるのが本当のところだ。

ところで表題のアニメだが、私は本来原作派である。しかし、このアニメの描写の凄さは認めざるを得ない。私はノートPCの画面で視たが、映画館のスクリーンで上映されても遜色のない作画技術である。


この遊郭編では、鬼滅の刃に登場する鬼のなかでも屈指の性格の悪さを誇る堕姫(だき)が登場する。人間であった時の名前は梅だ。うちの妹は、これほど性格悪くなくて良かったと安堵するほどの悪女である。

そう思いつつ、兄である妓夫太郎は大変だったろうなと同情を禁じ得ない。実際、美人の妹をもった兄はけっこう気を遣う。うちの妹は美人というよりも可愛い系だが、男受けは非常に良かった。私が大学生の頃にはストーカーじみた失恋男に追いかけまわされたほどである。

モテるのは結構だが、上手にやれよと説教した覚えがある。基本、交友関係には口を出さないが、連日の無言電話に私が苛立ったせいだ。そんな経験があるからか、えらく男あしらいの上手い女に成長したらしい。幸い、女受けも悪くなかったようなので女友達も多い。お兄ちゃんとしては一安心である。

で、アニメの第二シーズンである「遊郭編」の最終話は凄かった。放送時間を30分から15分延長しての力作である。アクション・シーンも凄かったが、やはり印象に残るのは、最後CM抜きでぶっ通しで放送された上弦の六である堕姫・妓夫太郎の人間であった時の半生である。

主役である炭次郎、禰豆子の兄妹コンビと対比させると、より深く堪能できる。敵方である鬼の背景まで詳細に描くことで、より印象度が増し、次が観たくなる仕組みになっている。

つくづく、よく出来た作品だと思いましたね。でも、私の感想は一言、やっぱりお兄ちゃんは大変だァ、である。まァ妹には別の意見があるでしょうけどね。

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